中国に三角関数はなかった

中世から近世までの数理科学史に興味があると、否応なしに三角法(三角関数)の歴史が一つのジャンルを成していることが眼につきます。解説のたぐいで独立の章や節が割り振られたり、専論の書籍すらあります。ところが、中国には三角関数はついぞ、誕生しま…

『崇禎暦書』は、なぜ革命的だったのか?

今回は、以下のポストの整理です。中国の近現代史を語るとき、日本と比較して、「固有の文化に固執するあまり、西洋文明の導入に及び腰で後れをとった」という言い方があると思います。そのような視点がどのくらい今でも意味をもっているのか、よくわからな…

メモ:「刻白爾」は誰だっけ?

「刻白爾」は、コペルニクスというよりはケプラーかなと思います… https://t.co/HSjMbAPCxt— QmQ (@gejiqmq) 2025年9月21日 今回は、この(我ながら不見識な)ポストについての言い訳です。今朝方、清の阮元(18世紀半ばから19世紀前半)の『疇人傳』をま…

天から地へ ② 経度と緯度の語源

gejikeiji.hatenablog.com 前回は、荒川清秀氏の著作*1から、「北極、南極、赤道」のように、地理学用語の訳語が天球における対応物を媒介として成立した例を紹介しました。つまり、 中国では大地を平らな正方形としていたので、球体説を前提とした用語は備…

 天から地へ:地球に関する訳語の成立事情

もう随分と前になりますが、「地球」の語源を調べたことがありました。 gejikeiji.hatenablog.comこの話の中で、「まず「天球」の語が訳語として成立し、そのアナロジーで「地球」という語が出来た」という点は黄河清氏の論文を引用して済ませてしまったわけ…

『崇禎暦書』:東アジアは、どうやって西洋科学に出会ったか

西洋の数理科学の東アジアへの流入を考えるとき、明の終わりの改暦事業は大きなターニングポイントです。このときに編纂された『崇禎暦書』は、日本や朝鮮にも大きな影響を与えました。自分がこの事業について知ったのは、薮内清の新書版の中国科学史の、あ…

メモ:『太平御覧』引用の「月令」の正体

gejikeiji.hatenablog.com gejikeiji.hatenablog.com かつて、『太平御覧』に「礼月令曰く」などとして引用されている、『礼記』月令に似た文書の正体をあれこれ詮索しました。これらを書いたとき、私はそれを『礼記』月令の異本だと思っていました。しかし…

イブン・ハイサム:『月の光について』

アリストテレスの自然学では、天体は均質かつ完全な球形とされた。ところが、月の表面には染みのような模様がある。この矛盾を繕う仮説の一つに、月の表面は鏡のようになっており、地上を写した影があの模様に相違ない、というのがあった。イブン・ハイサム…

黍を1200粒数える話(4)~明と清

gejikeiji.hatenablog.com gejikeiji.hatenablog.com gejikeiji.hatenablog.com「黍を1200粒数える話」、最後は明と清をざっと…明については、十二平均律の発明で有名な朱 載堉(しゅ さいいく、1536年 - 1611年)の度量衡論を田中由紀氏の論文からの抜き書…

黍を1200粒数える話(3)~北宋の論争

前回、南北朝時代の度量衡論争、とくに黍の数の基準の話をcかきました。今回、五代〜北宋の経緯を追います。小島先生の論文や、丘光明氏の著書の関係しそうな部分をピックアップし、一次資料は、南宋の類書の『玉海』巻八を中心にみています。 gejikeiji.hat…

黍を1200粒数える話(2)~南北朝の混乱、『隋史』律暦志からのメモ

背景 前の記事 gejikeiji.hatenablog.com 次の記事 gejikeiji.hatenablog.com前回、黍を基準にした劉歆の度量衡基準の話をしました。それは 1尺=黍100粒の幅、黄鐘律管の長さ=9寸(10寸=1尺) 1龠=黍1200粒の容積=黄律管の容積=810立方分(10分=…

黍を1200粒数える話~中国の度量衡

最近、米が高い。だいたい、茶碗一杯分のご飯はどのくらいの量なのか?と検索していたところ、「一合のお米は六四八二七粒」だという話が引っかかりました。結構有名な話らしく、粉体工学の専門家の方が、理論的な計算のあらすじを説明したサイトもありまし…

玉と球~日本の場合

前回、中国における球体を表す言葉、とくに「球」が球体を表すようになった経緯について、素人的な考察をしました。 球はもともとは、玉(ぎょく)という鉱物と関係のある言葉で、美しい玉や玉製の「磬」という打楽器を表した。 球体という意味をもつきっか…

「球」はいつから丸いのか? ~「地球」の語源のこと

XでFFのヘルメスさんが、こんなツイートをしていました。地球っていう日本語を使った人を初出から調べていて好き(今のところ新井白石なんですね)https://t.co/kWXYLty8BW pic.twitter.com/h0qbuLuUgV— 古代ギリシャのヘルメス (@kodaigirisyano) 2024年1…

亡国の音?~基準ピッチをめぐる中国の論争

西洋クラッシク音楽では、ピッチ(音の高さ)は近年上がり気味だと聞いたことがあったので、検索したら次のブログがでてきました。どうやら、自分が小耳に挟んだ話はただの噂だったみたいです。近代以前は基準ピッチの規定すらなく、場所や時代によってバラ…

インドの三角関数の近似

このブログは、以下のスレッドをまとめたものです。インドの数学者は突飛もないことを考えるな、という先入観を決定的にしたのは、バースカラ(600年ごろ)の三角関数の有利関数近似をウィキペディアで見た時で、こんなの合うわけないじゃん、馬鹿なんじゃない…

黄色は明るい~明るさと色の関係

色覚は、なかなか複雑な構造をした感覚です。これを整理して図示したのが表式系ですけど、心理的な印象に基づく体系だけに絞っても、何種類もあります。なぜ一本化出来ないかというと、各々、独自の強みと弱みがあるからです。つまり、一つの図式では十分に…

「玄」は何色?~中国の染色と色

以前、中国の五行論的な五色説について書いたとき、それを減法混色(つまり染料の混色)の三原色との関係をかなり前面に押し出しました。 gejikeiji.hatenablog.com 五色説とは、 五行(木火金水土)に対して正色(青赤白黒黄)を対応させる 赤青黄は減法混…

それでも地球は丸くない~中国人の大地観

地球は丸い。子供ですら知る常識です。しかるに高度な文明を誇った中国においては、ほとんどこの説は知られていませんでした。このことは、中国の数理天文学の水準を考えると驚愕すべき事実だと思います。 一寸千里法とその破綻 中国でも古来、場所によって…

人類は、複雑な金星の軌跡をどうやって解明したか

このエントリーは、以下のポストを膨らましたものです。金星の軌道は離心率が極端に小さくて、他の惑星たちより一桁小さい。ほとんど円みたいなもの。ところが、金星の見かけの運動の説明は複雑で、古代から理論家を悩ませ続け、ケプラーの楕円軌道を用いた…

黄緯の問題と地動説の誕生

入門的な天文学史では、近代初期の変革を惑星軌道の二次元的な形状の問題として語ることが多いと思います。天動説(地球中心説)から地動説(太陽中心説)への変革の解説でも、ケプラーの楕円軌道(第一法則)や面積速度一定の法則(第二法則)の説明でも、軌…

メモ;ボエティウス『音楽教程』の解説を読んでみた

講談社学術文庫から、ボエティウス『音楽教程』の邦訳が出ました。音楽といっても、この本においては音楽的な実践の位置は低く、数理科学の一分科なのです。私の音楽理論史への興味(といって何を読んだでもないんですけど)もそちら方面のことで、特に比や比…

メモ:『雪華図説』以前のこと

江戸時代、雪の結晶にハマったお殿様がいました pic.twitter.com/TnqpPS8NWe— 笹井さゆり/Sayuri Sasai (@chiyochiyo_syr) 2021年12月19日 土井利位『雪華図説』(1832年)が『北越図譜』に引用されたことが、雪華文の流行を引き起こした…という話を聞くので…

六花と雪の結晶~伝統的な学問から近代科学への道

私が雪の結晶に興味をもったのは、高校受験の勉強をしていたときに、肉眼でも意外と見えるのだという短文を読んでからです。その年の冬はたまたま関東地方にも寒波がやってきて、受験の帰り道にマフラーについた雪片は、解けかけで透明にはなっていたけれど…

メモ:黄道座標と赤道座標の変換

以下のメモはほぼ次の論文をベースにしており、図版や数式もここから引用しています。 Archive for History of Exact Sciences (2018) 72:547–563 プトレマイオス以降のギリシャ系の天文学は黄道座標系を用います。これは、日月惑星の年周運動の記述には大層…

メモ:アリストテレス『天体論』のラテン語訳

アリストテレス『天体論』のラテン語訳にどんなものがあるか?について、以下の文献のイントロに詳しかったので、メモとして要約。https://www.jstor.org/stable/4130271#metadata_info_tab_contents1175-1225年の間に、4つのラテン語訳があった。 1175 ご…

「宇宙」:中国天文学の時間と空間

常識だったらおはずかしいのですが、「宇宙」の「宇」は空間で、「宙」は時間のことらしい— Shintaro Minagawa (@s_minagaw) 2023年10月9日 「宇宙」という言葉は存外古く、『荘子』『荀子』など戦国後半期のものには出てきますし、また『淮南子』でも何度も…

メモ: 辿々しい黄道〜『太平御覧』所引の『月令』を求める中で

前回のおさらい 後漢四分暦と論暦 一定速度で変化する赤経 辿々しい黄道の取り扱い 最終的な到達点 『宋書』律暦志 なぜ黄道傾斜は詳しく扱われなかったか 黄道に沿った運動の赤経 まとめ 実は… 主な参考文献 前回のおさらい 前回、『太平御覧』に引用された…

メモ 太平御覧・時序の月令

『礼記・月令』は月々の天文現象の記事を含むため、天文学史では定番の文献です。ところが、『太平御覧』所引の『月令』を見ると、天文現象の部分が全然違うのです。そこで、両者の違いについて簡単にメモを残すことにしました。 『礼記・月令』とは? 『礼…

北斗と中国の天文学

北斗七星と季節。北京天文館のウエッブページより。云看展 - 云看展 | 北斗七星那些事儿 中国では非常に古い時代、季節の判断に日没時の北斗七星の柄(斗柄、斗杓)の向きを用いたと言われています*1。地球から見た太陽と恒星の相対的な位置は日々変化して、一…