今回は、以下のポストの整理です。
bsky.app中国の近現代史を語るとき、日本と比較して、「固有の文化に固執するあまり、西洋文明の導入に及び腰で後れをとった」という言い方があると思います。そのような視点がどのくらい今でも意味をもっているのか、よくわからないのですが、一つ指摘したいのは、明末から清初の、西からの数理科学の導入は、1000年単位の遅れの、怒涛のキャッチアップだった、ということです。
— QmQ (@gejiqmq.bsky.social) 2025-09-25T12:17:30.833Z
中国の近現代史を語るとき、日本と比較して、「固有の文化に固執するあまり、西洋文明の導入に及び腰で後れをとった」という言い方があると思います。そのような視点がどのくらい今でも意味をもっているのか、よくわからないのですが、一つ指摘したいのは、明末から清初の、西からの数理科学の導入は、1000年単位の遅れの、怒涛のキャッチアップだったということです。
これは別に、西洋中心主義の立場から言ってるのではないです。中国は、非常に優れた文明をもっていました。しかし、現代との比較で見た場合、確かに数理科学では欠落しているものが多かったのです。また、上で「西洋」ではなく「西方」といっているのは、バビロニア、ギリシャ、アラビア、ヨーロッパを、ざっくりと一つの塊として見ているからです。(インドも、ある程度この塊に入れて考えています。)
Cullenなどは、中国天文学史の醍醐味の一つは「遅れて発展したので、西方では起源が古すぎて発見の状況がわからない概念、例えば天球や黄道などの発展史が追える」というポイントを挙げているくらいです。これらは、西方ではバビロニアからギリシャに数理天文学が伝わるころの話ですけれども、中国だと前漢の後半から後漢に展開されます。(専門家外の知的なサークルの論議としては、さらに南北朝時代まで引きずります。)
測量や天文学に有用な数学のうち、幾何学や三角法といった分野は、中国ではほとんど発展しませんでした。だから、黄道を進む太陽の位置を、赤道に射影するという、西方ならばプトレマイオス『アルマゲスト』でほぼ道筋がついていた話について、手探りのような算術的な手法が使われています。まず模型を作って計測し、それをなるべく単純な数列で表現しようとする。最終的には、授時暦のときに洗練された算法の手続きが成立するんですけど、やはり精度もですけど、柔軟性が三角法に比べると圧倒的に劣ります。いわんや、メネラオスやプトレマイオスに端を発して、中世アラビアで華々しく展開したような、球面三角法(球面幾何)などは、思いもよらない。
ギリシャ系の数学に比べると、中国は算術的な方法論に優れていて、分数の計算なんかも早い段階で組織化されていますし、負の数、連立一次方程式、複仮定法など、『九章算術』はディオファントスとは別の意味で高度です。しかし、インドにも優れた算術の伝統はあって、これが中世にアラビアで合流します。それに、バビロニアにも有名な六十進法の位取り算術がありますし、その伝統はヘレニズム期を通して、中世にも流れ込みます。アル・フワーリズミーの算術書なども、インド式を伝えますけれども、分数を六十進法のバビロニア式になおして処理したりもしています。また、彼の代数はインド流ではなく、(東地中海を含める意味での)在地の流儀だと思います。
総じていうと、幾何学、三角法、算術、天文学、これらに全般にわたって、西方で1000年くらい、あるいはそれ以上にわたって育まれてきた知識の中で、中国に欠けているものは山のようにありました。数学的な視覚論(後の光学)などは、宇宙構造論の議論でも一定の役割があり、科学革命の時には動力学のアイデアの源泉になっていたりもするのですけれども、中国ではこの分野は欠落していたか、あるいは算家の秘伝の如くになっていたか、どちらかだと思います。
言うまでもないですが、中国に於いて欠落していたこれらの要素は、朝鮮半島や日本でも欠落していたわけです。それが、明末の逼迫した情勢の中、極めて短期間で百科全書的な『崇禎暦書』に怒涛のようにそれらが紹介されるわけで、これは、東アジア全体にとって、1000年来の大革命といってもいいと思います。
これに対して、江戸時代の後半の日本の蘭学は、欧州の文献を日本人が直接読みこんだことに大きな意義があったと思います。その意義の説明をするとき、中国におけるイエズス会士たちの役割を述べることが屡々あるんですけど、こういう流れだとどうしても中国の学者の主体的な関りを軽んじがちになってしまう傾向があると思います。
明末の改暦プロジェクトの立ち上げと運営における、中国人側の主体的な立ち回りについては、何回かまえのブログで触れました。
gejikeiji.hatenablog.com
ついで、内容の咀嚼についてコメントしたいと思います。たしかに、『崇禎暦書』の編集や内容について、イエズス会士らは主導的な役割を果たしました。しかし、執筆には10名以上の漢人の学者が関わっており、イエズス会士だけの筆によるものではありません。
また、『崇禎暦書』はあまり整理されているとは言えません。表と暦理の間に矛盾があったり、計算の方法の導出や、それどころか方法の記述が十分でなかったりしました。これが康熙帝の時代、イエズス会士の手を借りずに編纂された『暦象考成』上下編においては、十分に咀嚼し、整理された記述になっています。この咀嚼の過程においては、西洋人の指導よりも、(とくに江南地方の民間の)漢人知識人の独自の考究が大きな役割を果たしています。そして、日本の麻田派の天文学者たちも、『暦象考成』上下編や梅文鼎『暦算全書』を通じて西洋天文学を理解し、その土台の上で蘭書に立ち向かったわけです。