黄緯の問題と地動説の誕生

入門的な天文学史では、近代初期の変革を惑星軌道の二次元的な形状の問題として語ることが多いと思います。

天動説(地球中心説)から地動説(太陽中心説)への変革の解説でも、ケプラーの楕円軌道(第一法則)や面積速度一定の法則(第二法則)の説明でも、軌道の二次元的な形状の問題です。

実際、惑星の軌道面たちは互いに傾いてはいるものの、傾斜は概ね3°以内で、水星でも7°です。ですから、軌道の形状の理解においては、その平面形の理解がもっとも重要です。

水星 金星 火星 木星 土星
7.01 3.39 1.85 1.31 2.49

しかしながら、惑星と地球の軌道面との距離、あるいは地球中心説的に見るなら太陽の軌道面との距離の問題は、近代初期の天文学の変革の重要な契機になっているのです。

プトレマイオス

よく知られるように、古代末期から中世の終わりまで支配的だった宇宙構造論は、二世紀に体系化されたプトレマイオスの理論でした。

地球から見たとき、惑星は太陽の軌道(黄道)からさほど離れません。このことから、古代バビロニア以来、惑星の運動の黄道に沿った方向、すなわち黄経の変化を主に考察していました。プトレマイオスの『アルマゲスト』の惑星の理論でも、ほとんどは黄経を扱います。

彼の理論については、「円を多く使って複雑だった」という俗説があります。しかし、これは黄経の理論に関して言えば、全くの濡れ衣です。円はたった2つしか使いませんし、しかも各々の円には意味があります。コペルニクスケプラーの理論と連続している部分も多く、非常に優れた理論といえると思います。彼の理論を受け継いで発展させた中世の天文学者らは、非常に正しい選択をしたと思います。

しかるに、黄道との距離、すなわち黄緯の変化を扱った『アルマゲスト』の最終章は全く様子が違います。彼はこの章を、問題の困難さを言い立てることから始めます。つまり、予防線ですね。極端なことを言うと、プトレマイオス理論の崩壊は、ここから始まると言ってもよいかもしれません。

計算も困難だった黄緯の理論

プトレマイオスの黄緯の理論は過度に複雑でした。特に、内惑星の金星と水星のそれは非常に複雑でした。これらは、中世の終わりの方まで計算することも難しかったのです。このため、簡便なインド流の理論に依存した天文表も多くありました。例えば、欧州で長く使われた『トレド表』などもその一例です(『アルフォンソ表』は『トレド表』の後継ですが、黄緯の理論はプトレマイオス流です。)。

欧州で内惑星の黄緯の完全な表を作ったのは、15世紀のビアンキニでした(先だって紹介したGlen Van Brummelenの論文を参照。
gejikeiji.hatenablog.com
The end of an error: Bianchini, Regiomontanus, and the tabulation of stellar coordinates | Archive for History of Exact Sciences
アラビア語圏では、14世紀のカーシーの表が最初になります。アラビア語圏については、以下の論文やそこに引用されている論文を参照。
Planetary latitudes in medieval Islamic astronomy: an analysis of the non-Ptolemaic latitude parameter values in the Maragha and Samarqand astronomical traditions | Archive for History of Exact Sciences

自然学との齟齬、マラーガ学派とコペルニクス

計算の困難だけでなく、理論上の問題もありました。彼は軌道面の振動という円運動の原則からは外れた手法を採用しており、自然学的な批判も浴びました。マラーガ学派などの中世のアラビアの批判者たちも、コペルニクスも、これらの黄緯の理論の問題をとりあげています。

系統的なプトレマイオス批判の最初はイブン·ハイサムだと思いますが、彼もこの件については複数の論考を表し、また二つの球の回転の合成で往復運動を近似しようとしています。マラーガ学派やコペルニクスプトレマイオスの理論の書き換えでいくつかの箇所で用いた、「トゥーシーの対円」という機構があります。これは2つの円運動の合成で往復運動を実現するのですが、トゥーシーの最初の動機は、黄緯の理論に現れる振動の説明にありました。

コペルニクスからケプラーニュートン

では、プトレマイオス理論を打倒したコペルニクスの理論はどうだったでしょうか。残念ながら、彼は軌道面の振動こそは取り除いたものの、複雑さは相変わらずでした。この複雑さは、彼の理論が基本的にはプトレマイオス理論の書き換えに過ぎないことが根本的な原因だと思います。

本来、惑星の黄緯の変動のメカニズムは非常に単純です。単に、惑星が太陽を回る軌道面が地球の軌道面に対して傾いているだけのことです。太陽を中心に軌道を書き換えても、なぜコペルニクスはこのポイントに気が付かなかったのでしょうか。答えは、彼の太陽系の中心が太陽ではなく、「平均太陽」という別の点だったからです。

「平均太陽」はプトレマイオスの理論に現れる概念で、一定速度で太陽の軌道を一年で周回する、仮想の点です。プトレマイオスは、太陽の運行の惑星運動への影響を理論に取りこむにあたって、速度を変化させながら動く真の太陽ではなく、平均太陽を用いたのです(末期バビロニアの惑星理論にもこの点は同じです。)。

質も量も限られたデータしかない状況では、このやり方は(結果的に)理に叶っていたと思います。しかし、平均太陽がコペルニクス説にも持ち込まれたとき、軌道の三次元的構造を見えにくくしてしまいました。

この平均太陽の問題に手を付けたのが、天文学者としてデビューしたてのケプラーでした。円軌道に手を付ける前の段階で、彼はまず運動の中心を真の太陽に修正しました(軌道は円軌道)。

この修正は幾何的な関係の見通しをよくしただけでなく、太陽の中心的な役割を印象付けました。ケプラーの第二法則は、太陽の影響力と距離の関係の考察から発見されました。第一法則(楕円軌道)は、誤差の多い火星の軌道のプロットを第二法則を手掛かりに補正して、初めて浮かび上がってきたものです。ニュートン万有引力ケプラーの着想の間の関係は、今更述べるまでもないと思います。

ケプラーと金星

ケプラーの新たな体系の出発点で、黄緯の問題を「真の太陽を惑星の運動の中心に据える」というエレガントなアイデアで解決してしまいました。これは、彼の一連の業績の中でも、もっとも早くから受け入れられたものであって、地球中心説論者のティコ·ブラーエも、その忠実な後継者ロンゴモンタヌスも等しく受け入れました。調べたことがないのですが、多分、イエズス会系の天文学者も同様だと思います。もっとも彼らは地球だけは固定し、地球の周りを巡る太陽のそのまた周りを他の惑星が回るのですが。

しかしながら、そのケプラーの名高い『ルドルフ表』は金星の緯度の変化をいまひとつ正確に計算できず、太陽面通過を予測しそこねてしまいます。この点はロンゴモンタヌスも同様で、ケプラーの計算より大きく外しています。予測に成功したのは、なんとコペルニクス流の理論を継承したフィリッペ・ファン・ランスベルゲでした。(この辺の評価は、ケプラーの次の世代のホロックス"Venus in Sole Visa"の評価をそのまま書いています。)ケプラーの『ルドルフ表』は当時、検討が進むにつれ綻びが表れ、ケプラーの理論にいくつもの修正案が提示されることになりました。

一見小さな黄緯の問題は、パラダイム変換の隠れたツボだと思います。

補足 インドの黄緯の理論

インドの伝統天文学は、ギリシャ天文学の影響を強く受けていますが、プトレマイオス以前に分岐したと思われており、様々な違いがあります。今回話題にした、黄緯の理論も大きな違いがあります。

インドの理論も、惑星の運動には二つの円を用い、これらを傾けるだけで黄緯の変化を説明します。この考え方は、まあケプラーと同じといえば同じでありますが、ここで厄介なことがあります。一つには、インドの理論の性質の問題。ギリシャにおける幾何的なモデルは、本当にその図の通りに天体が動きます。しかるに、インド流の理論はちょっと違います。どこかで一度まとめたいのですが、計算のための手段のような部分があり、中々意味を把握しずらいです。よって、同じ土俵で比較してよいものか。

それから、計算方式はやはりプトレマイオス流よりもずっと簡略で、中世のアラビアや欧州でも屡々使われました。

精度に関しては、計算して比較したものを知らないのですが、より複雑なプトレマイオス流の理論が淘汰されなかったことを思うと、そんなに良くなかったのではと思っています。

補足 中国の場合

中国の現存最古のまとまった暦『三統暦』(紀元前後ごろ)の惑星理論は、赤経の値を理論にまとめています。これで良い予測が出来たとは思えず、どこかの時点で黄経の理論に移行しています。Cullenなどは

As we have seen, it was established by Jia Kui that the ecliptic, not the equator, was to be the basic frame of reference for solar, lunar and
planetary motion. *1

と「賈逵論暦(紀元92年)では日月のみならず、惑星の運動も黄道に沿って測られるべきとしている」と書いています。しかし、賈逵論暦で宣言されているのは、「臣前上傅安等用黃道度日月弦望多近。史官一以赤道度之,不與日月同。」と太陽と月が黄道に近いと言っているだけで、惑星については何も言っていません。彼が修正を主導した後漢四分暦も同様です。また、武田「太白行度考」に、金星について後漢四分暦と三統暦の数値を重ねてグラフにしたものがのっているのですが、両者の違いは小さく、黄道にそって計測しなおしたと断言できない気がします。

宋書』天文志一に蔡邕(後漢末)の言を引用して

漢靈帝議郎蔡邕於朔方上書曰:「…立八尺圓體之度,而具天地之象,以正黃道,以察發斂,以行日月,以步五緯。…」

とあり*2、しかし続けて

時閹官用事,邕議不行。

とあります。つまり、実行はされなかったと。また文帝元嘉十三年のこととして、錢樂之に渾儀を作らせた、そしてその渾儀は

…立黃赤二道,…,置日月五星於黃道之上,.置立漏刻,以水轉儀,…

とありますので、これは水力で動くシミュレーターですが、「日月五星」が黄道上に置かれています。これらを総合するに、南北朝時代の早い段階で惑星も黄道に沿って計測された可能性は高いと思います。なお、隋の皇極暦では明瞭に黄道に沿った旨が書かれています。

では、黄緯はどうか。中国では、残念ながら黄緯の理論は出てきませんでした。北宋の技術官僚の沈括『夢溪筆談』象数二で、

曆家但知行道有遲速,不知道徑又有斜直之異。

と文句をのべ、「太史令だったとき、観測を命じて新たな理論を作らせたが、施行されなかった」と嘆いています。しかし、天球面上の軌跡だけを考察して、果たして黄緯方向の複雑な動きを精度よく説明できたのかどうか。

その後、明の初期にイスラム系の回回暦が編まれ、これには黄緯の理論があります。また、明末清初、つまりちょうどケプラーのころにイエズス会を介して、西洋天文学が入ります。この時主に参考にされたのは、ティコやロンゴモンタヌス、特に後者の"Astronomia Danica"だと言われています。これの黄緯の理論をまだ理解できていないのですが、清の康熙年間の『暦象考成·上中下編』の黄緯の理論は、比較的わかりやすいです。このあたりも、いずれきちんと精査して書きたいと思います。

古代バビロニア

まず、古代バビロニアにおける「獣帯」について述べておきたいと思います。

  • 図があるわけではなく、言葉による描写
  • 黄道近辺の日月惑星の運行する帯状のエリアを「獣帯」とした。
  • 中央に「黄道」と思しき線が走る。日月の理論の場合は、これは明らかに太陽の軌道。
  • しかし、惑星の理論の場合は太陽が陽に現れずなんとも言えない(否定肯定両論ある)。
  • 黄経方向は角度で。「黄道」からの距離は「キュビット」「指」など長さの単位。

そして、黄緯の計算を露わにやるのは、月以外は例外的です。

*1:C. Cullen, Heavenly Numbers: Astronomy and Authority in Early Imperial China. OUP 2017, p.342

*2:この上表は、『後漢書』天文志一の劉昭注(南朝梁)に(おそらくは)全文が採録されています