メモ 太平御覧・時序の礼記・月令

礼記・月令』は月々の天文現象の記事を含むため、天文学史では定番の文献です。ところが、これの『太平御覧』への引用を見ると、天文現象の部分が全然違うのです。そこで、両者の違いについて簡単にメモを残すことにしました。

礼記・月令』とは?

礼記・月令』は一年を十二ヶ月と日数が不明の「中央土」に分割します:

 

孟春、仲春、李春,   孟夏、仲夏、李夏

中央土

孟秋、仲秋、李秋,   孟冬、仲冬、李冬

 

四季に分割して、各々の季節をさらに三分割し、さらに半端な日を中央中央土に。この中央土の挿入場所や日数はいくつか解釈があるようです。まあ、とにかく一年がだいたい十二の月に分割されている。

その上で月毎の季節の状況、それを踏まえてどんな儀礼や政策をすべきかが記されています。各々の月の条文の出だしは、例えば

仲秋之月,日在角,昏牽牛中,旦觜觿中。

のように天体現象から始まります。太陽が角宿にあり、日暮れどきに牽牛が、夜明けどきには觜觿が南中する。この後は対応する音律や数、味、各々の季節の気候の描写、儀礼、為すべき政策の話が続きます。また、季節違いの儀礼や施策によって生じる弊害も具体的に書かれています。これらは周の制度という触れ込みではあるのですが、後漢の鄭玄によって早くも指摘されたように、戦国末の『呂氏春秋』の十二紀を一纏めにしたものです。前漢武帝のころの、『 淮南子』時則訓にもにたような記述があります。

天体の話に戻ると、『月令』では各々の月を特徴づけるのは太陽と恒星で、(天体としての)月の話は一切出てきません。では、これは太陽暦的な十二分割なのでしょうか。科学史家でそのような立場をとる人も居ますし、そうでない人も居ます。しかし、伝統的にどう読まれたかというと、これらの月は太陰太陽暦の各々の月と対応させられてきました。

現代の科学史家で伝統説と同じ立場の人に例えばCullenが居ますが、彼は天体現象が月の何日にくるか書かれていないこと、日暮れ時や暁という指定にも曖昧さがあることを上げ、閏月で多少シフトしても誤差の範囲ではないかとします。彼はむしろ、太陽暦的に一年を十二分割した暦が残っていないことを重視しています*1

二十四節気と七十二候

上述のように、中国の伝統的な暦では、各々の月は月の満ち欠けの周期に合わせています。これは太陽の運行とは無関係ですから、別に季節の進行を示すマーカーが必要になります。これが年(回帰年)を等分割した二十四節気(24分割)と七十二候(72分割)です。いずれも、『月令』の記述から名前が取られています(このことがまた、『月令』太陽暦説を促すのだと思います)。

例えば、秋の中頃に対応する節気は「白露」と「秋分*2で、各々がさらに三分割されます。

-白露→「鴻雁來」「玄鳥歸」「群鳥養羞」

-秋分→「雷始收聲」「蟄蟲壞戶」「水始涸」

これら七十ニ候の名前は『礼記・月令』の「仲秋之月」の季節の描写と見事に対応しています:

盲風至,鴻雁來,玄鳥歸,群鳥養羞。...

是月也,日夜分,雷始收聲。蟄蟲壞戶,殺氣浸盛,陽氣日衰、水始涸。

これほどストレートではありませんが、二十四節季の名前のうち、「雨水」など、『礼記・月令』(あるいは『呂氏春秋・十二紀』)から採られたと思しき名前もあります。

二十四節季が(後に若干の変形はあるものの)出そろうのは、前漢武帝のころの、『 淮南子』天文訓です。

一方、七十二候が最初に暦に現れるのは、北魏の正光暦(523年〜)、ついで同じく北魏興和曆(540〜)です。南朝の方の正史には記載がなく、次に現れるのは隋の皇極暦。これらは候の名前は『礼記・月令』からとられてはいるものの、今と違う部分があります。安定するのは唐の大衍暦からではと思います。

大衍暦の候の名前は、成立時期不明の『逸周書・時訓解』から取られました。

七十二候,原于周公《時訓》。 《月令》雖頗有增益,然先後之次則 間。自後魏始載于曆,乃依《易軌》所傳,不合經義。今改從古。(『新唐書・暦三上』)

ここで著者は『逸周書・時訓解』を『礼記・月令』よりも古いとしています*3。しかし、これだけ細かい分割がそんなに古く遡るのかどうか。二十四節季が定まった、漢の時代以降ではないのか、と疑いたくなります*4

話が横道にそれますが、秋分の部分を抜き出すと、

秋分之日,雷始收聲,又五日,蟄蟲培戶,又五日,水始涸。雷不始收聲,諸侯淫汏,蟄蟲不培戶,民靡有賴,水不始涸,甲蟲為害。

季節の不調が、悪いことの予兆になるみたいですね。

『太平御覧』の『礼記・月令』

宋の時代の初期、『太平御覧』という類書(百科全書)が奉勅撰されました。記述が全て古典の引用だけで構成されるという形式で、他の文化圏では余りないのでは?と思います。当然、『礼記・月令』からの引用と思しき文章もたくさんあります。

例えば、時序部十一・冬上の「『礼月令』曰」で始まる文章があります。しかし、これは今よく用いられるテキストとは随分と違った独特のフォーマットで、内容も違います。特に天体関係の記述が違います。同様のフォーマットの文章が『月令』や『礼』からの引用として時序部の他の季節に載せられており、合わせると12ヶ月分が全て揃います。これらは『礼記・月令』の、現在は失われたバージョンからの引用でしょう。(ただ、二月之中気のところだけはやや乱れていて、「…春分之日,玄鳥至,雷乃發聲,祀朝日于東郊,…」と体裁も整わず、候への分解も明示されていません)

「仲秋之月」に対応する部分はこんな感じです。

又曰:八月之節,日在翼,昏南斗中,曉畢中,斗建酉位之初,律中南呂。白露之日,鴻雁來,後五日,玄鳥歸,後五日,群鳥養羞。是月也,養衰老,授几杖,行糜粥飲食。子乃儺,以達秋氣,命樂正習吹。

又曰:八月中氣,日在軫,昏南斗中,曉東井中,斗建酉位之中。秋分之日,雷乃收聲,後五日,蟄蟲坯戶,後五日,水始涸。是月也,祀夕月於西郊,命有司享壽星於南郊。日夜分,則同度量,平權衡,祭馬社。

まず、月の呼び名が「仲秋」でなくて、「八月」です。こうやって番号で呼ぶ方式もかなり古くて『詩経』でも使っていますが、とにかく普段見る『礼記・月令』とは違います。

また、月が更に「八月節」と「八月中氣」(つまり二十四節気に)、更に五日ごとの七十二候に分けられています。オリジナルの『礼記・月令』ではそもそも太陽の位置と月の関係は曖昧でした。

ところが、この太平御覧の記述だと、中央土の配置によって若干揺れはあるのでしょうが、太陽暦的な区切りである二十四節気に非常に強くリンクして月が配置されています。

伝統的な中国の太陰太陽暦では、ここまで強く節気と月は対応しません。二十四節季を一つ置きにとった「中気」が各々の月に含まれればよしとするのです。そうでないと、閏月など置く余地がなくなってしまいましから。ところが、この『太平御覧』の引用だと、各々の月は中気だけでなく、もう一つの節気も含むことになっています。

なお、ここで私は太陽暦的な暦の存在を主張したいわけではなくて、今見る『礼記・月令』との違いを強調しているのです。

正月之節の部分の「後五日魚上冰」の後に入っている割注では、

昔在周公作時訓,定二十四氣,辨七十二候,每候相去各五日,

とされていますが、『逸周書・時訓解』が念頭にあるのでしょう。二月中気の乱れた部分を除くと、節気や候の名前は『逸周書』や大衍暦と(字まで含めて)ほぼ同じです。

それから、太平御覧版にはオリジナルの方にはない、「斗建酉位之中」のように「斗建」の記述があります。これは、「日没時には北斗七星の柄の方向が酉の真ん中、すなわち真西の方向を向いている」ということです。これは、初期の二十四節気を記した『淮南子・天文訓』でも、24分割は北斗の柄が指す方向で定義されていたことを思い起こさせます。ただし、後者では指す方向は「建」ではなく「指」を用いています。

つまり、普通に考えると、

呂氏春秋』などにある時令が成立→『淮南子』などの二十四節気が成立→『逸周書・時訓解』などの七十二候が成立→『太平御覧』版の『月令』の成立

となっていると思われます。

太陽や恒星の位置

節気や候を完備し、それが後のものと同じということになると、太平御覧バージョンは後漢の後半以降に『礼記・月令』を改変してできたものだと思われます。この時、太陽と恒星のデータを大幅に書き換えているのです。私の興味は、この書き換えが何に基づいたのか?という問題です。

もともと24分割に対応したデータはないのだから、必然的に書き換えが必要になるのですが、決して適当に水増ししたのではないことは、八月の部分を比べるだけでも明らかだと思います。比較のために以下に再度、引用します。

標準版:

日在角,昏牽牛中,旦觜觿中。

『太平御覧』版:

八月之節,日在翼,昏南斗中,曉畢中,..八月中氣,日在軫,昏南斗中,曉東井中。

全く一致していません。少し月をずらしたりしても、全然無理そうです。以下に、太平御覧バージョンのデータから抜き書きしておきます。

 

正月之節,日在虛,昏昴中,曉心中,

  中氣,日在危,昏畢中,曉尾中,

二月之節,日在營室,昏東井中,曉箕中,

  中氣,日在奎,昏東井中,曉南斗中,

三月之節,日在婁,昏柳中,曉南斗中,

  中氣,日在胃,昏張中,曉南斗中,

四月之節,日在卯,昏翼中,曉牽牛中,

  中氣,日在畢,昏軫中,曉須女中,

五月之節,日在參,昏角中,曉危中,

  中氣 日在東井,昏亢中,曉營室中,

六月之節,日在東井。昏氐中,曉東璧中,

  中氣 日在柳,昏尾中,曉奎中,

七月之節,日在張,昏尾中,曉婁中,

  中氣,日在張,昏箕中,曉昴中,

八月之節,日在翼,昏南斗中,曉畢中,

  中氣,日在軫,昏南斗中,曉東井中,

九月之節,日在角,昏牽牛中,曉東井中,

  中氣,日在氐,昏須女中,曉柳中,

十月之節,日在房。昏虛中,曉張中,

  中氣,日在尾,昏危中,曉翼中,

十一月之節,日在箕,昏營室中,曉軫中,

   中氣,日在南斗,昏東壁中,曉角中,

十二月之節,日在南斗,昬奎中,曉亢中,

   中氣,日在婺女,昏婁中,曉氐中,

真面目に計算していると思わせる点

ここから後、角度を中国度で表す時は漢字で度と書き、バビロニア起源の現在の角度を用いる時は°をもちいます。両者はほぼ一致しますが、中国度は太陽が平均的な運動で一日に動く角度を一度としていました。

以下の点から、このデータはある程度暦学的な計算を経て、生成されていると思われます。

  • 幅の広い宿は連続して現れ、幅の狭いものは飛ばされている。

二十八宿」は天の北極を中心にした天球の分割で、天体の位置を測る基準に用いられます。この分割は全く等分割ではありません。以下に各々の宿の幅(度)の記述を、『漢書・律暦志』から引用します。この値は唐になってもかわりません(ただ、細かな端数が斗(南斗)宿又は虚宿にしわ寄せされます)。

角十二。亢九。氐十五。房五。心五。尾十八。箕十一。

斗(南斗)二十六。牛八。女十二。虛十。危十七。營室十六。壁九。

奎十六。婁十二。胃十四。昴十一。畢十六。觜二。參九。

井三十三。鬼四。柳十五。星七。張十八。翼十八。軫十七。

かなり幅にばらつきがありますが、例えば占いで用いる六壬式盤では、宿の名前が等間隔に刻まれていますし、非専門的な文献では幅の違いに頓着しないこともあります。しかし、本文書は分割の不等性をまじめに反映しています。

  • 南斗が二月中ごろ(春分)、三月頭、三月中ごろの明け方、と三連続で南中。

最初と最後の観測日の間隔はほぼ三十日で、その間に太陽と恒星の位置関係は、30度変わります。しかし、南斗の幅は26度しかありません。これは、日の出の時刻がこの間で早まっていることを考慮しないと、出てこない結論です。つまり、太陽の位置に一律に足し算や引き算をして出したのではなく、もう少し凝ったことをしています。後漢四分暦以降、日暮れと暁に南中する宿、あるいはこれらの瞬間に南中している子午線と太陽の間の角度が記されていますから、そういった結果が使われていると思われます。

まず、一日で太陽はほぼ一度、西から東に動くことを念頭に置きます。すると、冬至だけでなくその十五日後も南斗にとどまるんだから、冬至においては南斗の前半、つまり11度以下でなければいけません。また、冬至の十五日前には箕宿にいるので、南斗四度以前はあり得ないです。そしてこの値からは、南北朝から唐の末ごろに絞ることができます(かなり緩めに見ています)。

なお、次に述べる理由で、ここでは太陽の運行の不均等さは考慮していません。(仮に不均等さを考慮すると、冬は赤経の変化が速く、範囲は逆に狭まるので、どちらにせよ上の考察は動きません。)

黄道傾斜は考慮されていない

では、この太陽の赤経の変化の不等性はこの文書で考慮されているでしょうか。この不等性の原因は主に二つあります。そもそも、太陽がその軌道(黄道)上を進む速度が、ケプラーの法則のせいで一定ではありません。しかしこれよりも強力に効くのが、黄道が赤道に対して傾斜していること。このせいで、太陽は冬至夏至付近では速く、春分秋分の付近でゆっくりになります。

この黄道の傾斜は、後漢四分暦では既に採用されています。しかし、冬至近辺に太陽が動いた距離を『太平御覧』バージョンから拾うと、はっきりと短すぎるのです。よって、黄道傾斜は考慮されていないと思われます。

 

*1:陳美東などは太陽暦説で、DP Morgan氏などもどちらかといえば太陽暦説。

*2:秋分の日や秋分点のことも「秋分」と呼びましたが、ここでは秋分点から始まる約15日の期間。

*3:武則天の頃の『後漢書』卷六十下·列傳第二十下への李賢注に「周書時訓曰「春分之日玄鳥至,…」」とあり、この時に既に『逸周書・時訓解』がこの手の話題を論じる際の基本的な文献だとされていたことがわかります。

*4:『逸周書』の中には明らかに戦国期に遡る部分があるそうです。しかし、時訓解はどうなのか。XIN Jia-dai, CHEN Yi-wen, QU An-jing, The Influences of Phenology on the Order of 24 Solar Terms in Ancient China では、時訓解も含めて戦国期を想定しています。一方、 Daniel Patric Morgan, The Planetary Visibility Tables in the Second-Century BC Manuscript Wu xing zhan 五星占,  East Asian Science, Technology, and Medicine , No. 43, Special Issue on Numerical Tables and Tabular Layouts in Chinese Scholarly Documents: Part I: On the Work to Produce Tables and the Meaning of their Format (2016), p. 48では、「天文学史家は、たいてい 『逸周書』をrejectしている」として、 黄沛栄氏の漢代偽作説を引用しています。私は後者の方がしっくりきます。なお、一行の時の『周書』のテキストと現存のとは若干違いそうです。 上記引用箇所のやや後に「又先寒露三日,天根朝覿,《時訓》「爰始收潦」、…」とあるのですが、私の見た『逸周書・時訓解』には対応する文言はありません。