メモ:五行志と天文志

先日、時計の精度の問題が気になって調べていたら、今更ながら、『漢書』『後漢書』の日食記事は五行志にある、ということを知りました*1

科学史の一般向けの新書などによると、上空の特異な現象、たとえば日食、超新星や彗星、さらには虹や暈などの気象光学現象などは天文志に載せることになっているはずです。(なお、暦や天体の位置の数理は律暦志または暦志。)ですが、『漢書』は正史の第一号ですから、まだ最終的な形式に落ち着いては居なかったのでしょう。少し検索してわかったのですが、「隕石」も『漢書』では五行志なのです。そもそも、天文志は撰者の班固の死後、妹の班昭が補ったのでした。

中国的な考え方では、自然の現象及びそれと人事との関係は、陰陽説や五行説で整理されます。ですから、五行志にこれらの記録があるのも決しておかしくはない。では、天文志との線引きはどこにあるのでしょう?また、これらを一括して天文志に収録する様になったのは、いつからなのか?

そういった素朴な疑問をもって呟いたところ、「東大中国思想文化学研究室の住人」先生からご教示を頂けました。

つまり、『漢書』五行志は劉向『洪範五行伝論』をベースにしており、そこに天体の異常も取り上げられているから、ということらしいです。ただし、天文志も日食記事は全くないわけではない。その線引きについて理解するには、上記に引用の論文などを見て、勉強しないといけないとのこと。

ただ、当時にあっても第三者から見ると、基準は不明瞭だったらしいです。

『洪範五行伝』

示して下さった一文は、『漢書』五行志に引用された『洪範五行伝』(前漢の中頃までに一応成立、著者もよくわからない)の一節です。今までのところ、この書物の成立や伝世の事情は「混み入っているのだな」という認識しかありません*2。いわんやこの一節の全体の中での位置付けなども、わかりかねます。以下、わかる範囲のことを書いておきます。

この書は『尚書』洪範をベースして、五行説的な視点で失政と災異について述べたもの。では『尚書』洪範とはどのような内容かというと、箕子が周の武王に政治論を語ったという体裁をとった書で、九疇(五行,五事,八政,五紀,皇極,三徳,稽疑,庶徴,五福、六極)を整えよ、と説きます。五行は九疇の筆頭ですし、結構長々と説明がありましす。また、五行説の最初期の文献の一つでもあります。しかし、洪範そのものを見る限り、九疇の他の項目と五行は、あまり関連付けられていなさそうです*3

上記ツイートの一節の「皇之不極」は、この九疇の中の「皇極」が乱れている状況で、こういった時にどのようなことが起きるかが以下、(先生のツイートの「…」の部分に)列挙されています。それらの中で天象に関わる部分が「日月亂行、星辰逆行」ということのようです。

いつ日食の記事は天文志に集約されたのか

では、いつ日食の記事が天文志に集約されたのでしょうか。「研究室の住人」先生曰く『魏書』(北朝北魏の歴史書で、次の北斉の時代に編まれた)では、すでにそにような状況にあるとのことでした。

二十四史のうち、後漢から南北朝時代にかけて編まれたのは、古い順から

  • 後漢書 南朝劉宋、范曄。「志」は東晋の司馬彪『続漢書』から後世取って併せた。
  • 宋書 斉、梁、沈約
  • 南斉書 梁、蕭子顕 537年以前*4
  • 魏書 北斉、魏収 天保5 (554) 年完成

 
となります。(その他の南北朝時代を扱う正史は隋〜唐で編まれる。) これらをhttps://ctext.org の検索機能で検索をかけました。ここには同じ史料でも複数の版があるのですが、書名検索で一番上にくるものを用いました。

後漢書

まず、『後漢書』、あるいは『続漢書』の志。この律暦志の律は、劉歆に先立つ京房の六十律であり、暦では後漢末の蔡邕と同様、『漢書』の三統暦に批判的です。ですが、「日蝕は五行志か天文志か」という点では、『漢書』と同様に五行志が主です。「日蝕」は三例、「日有蝕之」は八例でいずれも五行志、「日食」「日有食之」はゼロ*5

紀や伝、こちらは范曄『後漢書』なのですが、には「日食」が42*6、「日有食之」が8、「日有蝕之」も2あります。また日食の意味を読み取って言上したといった逸話も多いです。官吏の伝に「以日食免」(日食があったので免職になった)といった記載があります。『漢書』では見当たらなかったので調べてみたところ、三公の役職にある官吏を策免(策書にて罷免する)という慣例が、107年から魏の文帝が221年の日食の折に廃止するまで続いたらしいです。

「隕石」はどうかというと、二例あっていずれも天文志なのですが、ただこの二例のうちの片方がなぜか五行志にも重複して取り上げられています(「石隕(石がおちる)」と表記されています)。劉昭(南朝梁)の注でもこの重複は取り上げられて、比較的時代が近いこの注釈者にも理由はわからないそうです*7

宋書

宋書』は何承天・山謙之・蘇宝生・徐爰らが宋がまだ健在だった頃に書いた材料をベースに、沈約が斉および梁の時代にわたって完成させたものです。同時代資料をふんだんに用い、原資料の引用も豊富です。沈約は生涯で合計245巻もの書物を編み、また律家でもあったとか。

肝心の日食記事なのですが、「日蝕」は28例で、うち1例が列伝。3例が暦志にあり、いずれも日蝕の予報に関わる文脈です。天文には一例だけで、残りは礼志に14、符瑞志に3、五行志が5。なぜか礼志その他にも拡散しています。天文志に集約されるどころではないです。

なお、この「符瑞志」を設けるのは『宋書』が最初だと思います。「研究室の住人」先生曰く、『南斉書』の祥瑞志、それから『魏書』霊徴志の下巻などが類似の内容とのことです。

南斉書

もっとも興味深いのが『南斉書』です。結論からいうと、どうやらここがターニングポイントのようです。

『南斉書』の「志」には15例の「日蝕」の用例がありますが、うち10例が「天文志」で、圧倒的に多いです。4例が「礼志」、1例が「輿服志」ですが、いずれも日蝕の時はこのようにするといった一般論で、この時代に起きた事例ではなさそうです。この他、「日有頻食」と「日有五蝕」が天文志に一つづつ。前者は具体例が念頭にあり、後者は一般論です。

ここまでのところを実は先日、連続ツイートして、「研究室の住人」先生から問題点の指摘と、『南斉書』が転換点だということは間違いなかろう、という簡単なコメントをいただきました(指摘を頂いた点は反映させたつもりです。)。ただしTwitterでの気軽なやり取りなので、「正しいと保証があった」わけではないことは申し添えておきます。

どのような議論があったのか

検索のついでに引っかかったのですが、『南斉書』列伝に、南朝の宋末から斉にかけての、檀超と江淹による国史編纂事業の記事があります。どうやら彼らの編纂した資料が、『南斉書』の基礎になっているようです*8。我々の議論にも大いに関係しそうなので、少し見てみたいと思います。


それは、卷四十八列傳第二十九にある袁彖(えんたん)の伝と、卷五十二列傳第三十三にある檀超の伝です。まず檀超の伝を見て見ます。

建元二年, 初置史官,以(檀)超與驃騎記室江淹掌史職。上表立條例,…。立十志:《律歷》、《禮樂》、《天文》、《五行》、《郊祀》、《刑法》、《藝文》依班固,《朝會》、《輿服》依蔡邕、司馬彪,…。班固五星載《天文》,日蝕載《五行》;改日蝕入《天文志》。

「建元」は斉の太祖の年号で、その二年に檀超と江淹が史官となって、先代の史書にならって編纂を始めます。ただし、班固『漢書』の書き方を改めて、日食を天文志に移したとあります。これがおそらく、『南斉書』に繋がったのだと思います。

しかし、話の始まりはもう少し前のようです。袁彖(えんたん)の伝を見ますと、後の斉の太祖の下で、太傅相国主簿・秘書丞であった時(当然、斉の建国前)、袁彖は檀超らの国史の編纂の方針に反対意見を述べているようです。このことから、檀超の国史との関わりは宋の時代に始まっていそうです。また、この頃の檀超の「日食問題」についての方針は後とは少し違っていたようです。

議駮國史,檀超以《天文志》紀緯序位度,《五行志》載當時詳沴,二篇所記,事用相懸,日蝕為災,宜居《五行》。超欲立處士傳。彖曰:「…」

つまり、袁彖は檀超の次の二つの方針に反対したのです。

  • 天文志は「緯序位度」、すなわち天体の現象の位置や順序を、五行志は「當時詳沴」をしるすべき。日蝕は災異なので五行志であるべし。
  • 処士(官僚として出仕しなかったもの)にも伝を立てよう。

以下、残念ながら日食についての袁彖の主張は書かれていません。ですが上記の方針に反対したのだから、「日食は天文志」と主張したと考えるのが自然だと思います。

なお、檀超の上記の主張も、「日食は五行志」と言う点では『漢書』と同じですが、取り扱う内容の基準は明瞭になっているように思います。これだと、彗星や隕石も五行志になるのではないでしょうか。

檀超と江淹の国史に対しては様々な議論があったようで、例えば檀超の伝にも左僕射の王儉による反対意見があったことが記されています。様々な論点があるのですが、日食に関係しそうなのは、

《洪範》九疇,一曰五行。五行之本,先乎水火之精,是為日月五行之宗也。今宜憲章前軌,無所改革。

のところです。『尚書』洪範の「九疇」の第一は五行で、そして日月は「五行之宗」だとあります。よって(日月は他の天体とは別格なので)今まで通り日月に関する異変は五行志であるべし、と言いたいのでしょう。

そして議論の結果は、日食の件については変更なしとなったようです:

詔:「日月災隸《天文》,餘如儉議。」

ただしそれ以外は王倹の主張通りとのことで、かなりの改変が必要になったと思われます。この後、檀超は終生史官として国史の編纂に努めるのですが、完成前に亡くなります。江淹がその先を続けるのですが、やはり完成することは出来なかったようです。各方面から注文がついて、なかなか終えれなかったのかもそれません。

付録:ところで「皇極」とは

上で曖昧にしてしまったのですが、天体の異変と関係する「皇極」とは何なのでしょうか。以下メモがわりに、今回調べたことを書いておきます。

「皇極」の「皇」は天下の統治者として、問題は「極」です。例えば『康熙字典』では、「建物の梁」という意味を本義とします*9。これで少しイメージができた気がしました。続きを見ると、易の「太極」という意味が挙げられていて、「皇極」「大中」*10をも意味するとあります。そして典拠は残念なことに、『尚書』洪範とその注疏です。よって結局、腰を落としてこれを読まないと仕方が無さそうです。

この書の全体的な雰囲気、特に五行説との関係(の薄さ)を確認したかったので、ざっと読んでみることにしまた*11

皇極の説明のところには、「五福を集めて民に配る」*12、「有能なもの、正しいものを報いよ」*13「自らの好悪を押し出すな、偏らず寛容でおれ」といったことが書かれています*14

つまり「皇極」とはある種の原則ないしは道徳であって、君主がなすべきことの指針を与えています。しかしそれだけではなくて、「君主から出て民に広まり、民と君主でこれを保つ」*15とあって、教化によって民にも広まるべきものとされています。皇極が安定すると、民は徒党を組んで反抗したりしなくなるのだそうです*16

では、教化しても効果がない時はどうするのか。これについては、「不協于極」であっても、「不罹于咎,皇則受之」、つまり責めるようなことはせずに、鷹揚に受け止めよと書いてあります。そうして穏やかな表情で「私は徳を好む」と言うべきである*17、と。つまり、滲み出る人徳で感じ入らせるのが理想だということなのでしょうか。一方、徳を尊重しない輩は「汝雖錫之福,其作汝⽤咎」*18。つまり君主が福を賜っても君主に災いしか為さないぞ、との注意はあります。

*1:https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/002182869802900102

*2:例えば、http://nippon-chugoku-gakkai.org/wp-content/uploads/2019/08/2012_02.pdf

*3:尚書』洪範や『洪範五行伝』、『洪範五行伝論』については、「住人」先生の博士論文の草稿http://wanibeer.web.fc2.com/hakron/

*4:この年に蕭子顕死去

*5:最初は「日蝕「日食」のみで検索したのですが、「研究室の住人」先生の指摘で改めました。

*6:ここで「日食星」といったものは、一応避けたつもり

*7:五行志の方に注がある:「天文志末已載石隕,未解此篇所以重記」

*8:ネット版のジャパンナレッジの国史大辞典『南斉書』の項目、執筆者は池田温、https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1569。また、漢語大詞典出版社の二十四史全譯『南齊書』冒頭の「全訳出版説明」にも、『南斉書』の基礎資料の筆頭に、この国史編纂事業が挙げられています。ただ、これらの主張の根拠は、私には今のところ不明です。蕭子顕による自序は散逸しているとのことで、『梁書』と『南史』の蕭子顕の伝を見たのですが、両者はほぼ同じで、しかも梁武帝に願い出て史書を編んだ、といった簡単な経緯しか書かれていませんでした。

*9:https://www.zdic.net で調べると、今でもこれが本義とされるようです

*10:Wikisourceで『尚書正義』をみると、正義に「皇」は大で「極」は中である、とあります。

*11:読解にあたっては、Wikisourceの『尚書正義』,各種の字書の他、無料公開の英訳を参考にしました。

*12:「斂時五福,用敷錫厥庶民。」。「斂」は「集める」、「時=是」、「五福」は洪範九疇の8番目。「用=以」、「敷」は広くあまねく、「錫」は与える、共に、などの意味がある。「厥=其」。この五福を集めて広く多くの民に広く賜る。

*13:「人之有能有為,使羞其⾏,⽽邦其昌。」有能なものはその行いを前に押し出させよ, すると国は栄える(其=将、副詞、昌=栄える)、「凡厥正⼈,既富⽅⾕」正しい人は報いよ。(厥は指示代名詞でその、方=并に(ならびに)、谷は俸禄や位)

*14:私が少し引っかかったのは「無虐煢獨而畏高明」です。前半の「頼りない弱いものを虐めるな」は違和感がないのですが、後半「高貴なものは尊重せよ」というところは、旧秩序との妥協のようにも見えます

*15:「惟時厥庶民于汝極。錫汝保極:」ただここにその多くの民、汝の極において、汝と共に極を保つ

*16:「凡厥庶民,無有淫朋,人無有比德,惟皇作極」 民は「淫朋」も「比徳」も持つことはない。人=民ととって良いでしょう。「比徳」は「比周之徳」と注にある。「比周」も「淫朋」も(よろしからぬ)徒党のことらしいです。ただ、この解釈だと「徳」の字が浮いてしまうように思います。

*17:「而康而色,曰:『予攸好德。』」二番目の「而」は二人称の人称代名詞。「色」は表情。

*18:後半の文の動詞は「作」。do, make。「用」は介詞。on, for。「咎」は罪の意味もあるがここでは災い。