メモ:クトゥルフ神話でおなじみのジョン・ディーの『幾何原論序説』

以前、クトゥルフ神話でおなじみのジョン・ディー(1527-1609)の『幾何原論序説』をプロジェクトグーテンベルグでみつけた。ジョン·ディーはオカルティストとしての側面だけが界隈では有名だが、しかし、ちゃんと数学者でもあり、数学の実用的な有用性を理解し普及に努めた 。このような(今から見ると)二面性を持った人物は、近代初期には珍しくはなかった。

この本は、ユークリッドの原論の序として書かれたもので、「数学とは何か」がざっくり手短にかかれているもの。形而上的な出だしから始まって、数や量の概念を説明し、純粋・応用数学の各部門の説明に入っていき、最後には数学的学問の総覧を掲げて終わる。

数、量、代数

本書は冒頭、数学の基礎的概念として、古代ギリシャの伝統に従って「数」と「量」を挙げる。前者不可分なる単位(Vnit)で測られるもので、自然数。後者は長さ、面積、体積みたいなもの。前者を扱うのが算術、後者は幾何で扱う。これは実に窮屈な体系だった。古代にあっては、無理数はもちろん、分数も比の計算の補助であって、数としては認められなかった。

この古色蒼然とした出だしは、しかし、直ぐに雰囲気を一新する。「応用的な算術」として、分数、(天文学での)60進小数、そして無理数、とくにk乗根がリストされ、それら及び未知数を扱うより一般的な算術として「コス代数」があげられる。無理数のところでは、この数が幾何的な量をも扱うことが出来ることが明言されている。

また、代数の有用性だけでなく、その純粋な理論としての深さにも敬意を表している。代数は中世に於いては、アラビアでもヨーロッパでも、実用的な算術の一部として扱われた。アラビアは代数の本場ではあるが、当地でも数学のメインストリートにはなかった。

つまり、彼は数の範囲や量との関係、そして代数の位置づけについて、かなり近代寄りの認識を示している。本書は一般向けに書かれたものだから、当時、これはすでに先端的な尖った認識ではなかったのだろう。古代→中世アラビア→ルネッサンスを経て、この時代にはここまで来ていたということだ。

なお、彼は代数の起源については、この時代によくあるように、それをディオファントス『算術』に求めている。最初、代数はイスラムからの移入で始まったが、ギリシャ語文献の翻訳が進んでディオファントスが発見されると、そちらに起源を求めるようになった。ディオファントス『算術』を代数として読んでよいのかどうかは、今でも数学史家の中でも評価がわかれる。だが、当時の雰囲気では後者一択だったのだろう。

数学の有用性と広がり

基本的な概念の紹介に続いて、「数学の有用性を示す」として応用例を手短にいくつか挙げるのだけれど、概ね比例を用いた簡便な数学である。「円の正方形化」の解法も言うほどのものでなくて、素朴な近似値での議論である。また応用家の中から、代数を用いずに算術的な方法で未知数を求める方法、つまりツルカメ算の如きものが様々に工夫されている旨が書かれている。

そのあと、数学的諸学問についての解説が続く。このいくつかは彼自身の造語と思われる。興味深いものとして、円運動の合成で直線や円錐曲線などが作れることを指摘していること。これは天文学とも関連するはずだが、機械学的な応用のコンテキストで述べている。

また、ポンプや噴水などに使われた、流体の性質(当時は真空を嫌う故、と説明された)の研究を一つの学問とし、テコや滑車の議論は「増幅の学」と称してまた別の学問としている。このあたりは、呼称の違いを除くと中世の先例に近い。

ゲベル Geberとは誰か?

本書で一つ面白いと思ったのが、Geberについての言及。Geberは8c-9cの錬金術師Jabir Ibn Hayanのラテン名だが、かれが代数学のソースの様に扱われ(先に述べたように、それより早くディオファントスが代数を創始したとしている)、また、Geberが数学や天文学に長じていたとする。

これは、もう一人のGeber, すなわち12世紀アンダルシアの天文学者·数学者のJabir ibn Aflahが合流しているのだろう。しかし、このGeberに代数の著作はあったのだろうか。錬金術では非常に多くのGeberの文献があって、かなり本人作でないものが多いと思われている*1。本職の錬金術どころか、こんな分野までGeberに仮託されるとは。とんでもない知の巨人に見えたことだろう。

魔術とジョン·ディー

そして最後の方に、「魔法使いの異端なんて誹謗中傷嘘だ」と愚痴っているが、水晶球を覗き込み、あるいは天使と頻繁に交信してたたのだから、強ち事実無根ともいえまい。

*1:どの程度そうであるか、また、仮託にしても元のものがイスラム起源かラテン起源か、それについてはナショナリズムも絡むのだろうか、面倒な議論があるようだ