古代~中世~近代の天文学史にありがちな誤解

プトレマイオスは円をたくさん使うか?

まず、プトレマイオスは惑星の黄経の説明には円を二つしか使わない。そんなに円をたくさん使ったら、古代の貧弱な数学では使いこなせません。そして、後世も円の数は増えません*1。「現象に合わせるために円の数を増やして対応したが、複雑になりすぎて崩壊した」といった解説も昔はよくあったのですが、ほとんどフィクションと言って良いと思います。

データに合うだけなのか?円に意味はないか?

各々の円には、割合とはっきりとした意味があります。プトレマイオスも惑星の動きと太陽の動きに関係があることは気が付いており、二つの円の片方は太陽の影響、すなわち地球の自転の効果を表現しています*2

その結果プトレマイオスの理論は、惑星の距離の変動も正確に再現してくれます。惑星までの距離は当時計測できませんから*3*4、これは奇跡といってよいと思います*5*6

のちに、コペルニクスプトレマイオスの理論を太陽中心変換して自分の理論を作ります。これできちんとした理論になったのは、計測できないはずの距離の変動も含めて、プトレマイオスの理論が優秀だったからです。

のちの理論との連続性

プトレマイオスの二つの円のうち、片方は地球の公転、もう片方は惑星の公転に対応しています。ですから、この二つの円の比率はそのまま地球と惑星の軌道半径の比率に相当します。プトレマイオス天文学で得られたデータは、このようにコペルニクスの理論でもそのまま役にたったのでした。

現代の理論とプトレマイオスの理論は割合とよい対応関係があり、したがって、現代の知見からパラメータの精度を議論することが比較的容易にできます*7

なぜ優れた理論ができたのか

既に述べたように、プトレマイオスの理論は、観測データを説明するだけでなくて、計測できなかったはずの距離の変動についても、なかなか正確な予言をしており、これがのちの発展において重要でした。このように優れた理論が出来たのは、運もあったでしょうが、やはり現象の特徴を的確に抽出しているからではないかと思います。『アルマゲスト』の惑星の理論の導入部分は、「今でも初めて分析する現象の現象論を作るなら、こんな風に考えるだろう」と思うほど、見事です。

当時の自然学では、「天体は円運動する」「世界は有限で地球は中心で静止」といったことを主張していました。プトレマイオスもこれらは一応、守ります。ですが、これらの原理原則だけでは天体の運行は決定されません。そこで、彼は天体の運動のもつ性質を丁寧に吟味して、「このような円の使い方はこれを説明するのに使えそうだ」「このやり方ではダメそうだ」と、使える円運動の組み合わせを絞りこみます。それからいよいよデータに合わせて、円の大きさや回転速度などを決めました。決して闇雲に数値合わせをしたのではないのです。

現象論的なアプローチ

現代では、状況が与えられれば物体の運動を決定する式が書けてしまいます。よって原理的には、あとはその式を解いていくだけです*8。しかし、当時の自然学はそのような理論になっていません。正しいか間違っているかの問題ではなく、現代の運動方程式シュレーディンガー方程式と同じ機能を目指した理論がなかったのです。したがって、自然学の原則に矛盾しないように留意しながらも、現象から逆に理論を決めるしかありませんでした。

現代でも非常に込み入った現象を扱う場合は、物理学の基本法則から出発して計算できないことが多いです。そういう場合、プトレマイオスがやったように、基本法則に留意しながら、現象から理論を決めていきます。

この際、基本法則は極力尊重するのですが、現象にあう簡潔な理論を作るために、基本法則の一部を踏み躙ることもあります。プトレマイオスも同様で、有名な周天円や離心円、エカントなどは、まさにその例でした。アリストテレスによれば、天体は世界の中心の周りに、一定の速さで回転するはずですから*9

メソポタミアギリシャ

以上、いかにプトレマイオスが凄いかという話をかいつまんでしました。「古代ギリシャは人類の叡智の源泉だ」などと言いますが、私もある意味ではその通りだと思います。5世紀以降、インドの天文学ギリシャ天文学の影響で根本的に変わってしまいますし、プトレマイオスの時代の中国の数理天文学は、かなり出足が遅れています。

ですが古代ギリシャ天文学、特に数理天文学は先行文明たるメソポタミアの影響を抜きに語ることは難しいです*10。古代メソポタミアから勘定すれば、中国やインドに比べても、むしろ歴史は長いといってよいでしょう。『アルマゲスト』では紀元前700年代中頃のバビロニア王Nabonassarの時代のデータも用いられています。「データを供給しただけではないか」と思われるかもしれませんが、それは理論至上主義というものです。そもそも、対象についての理解が深まっていないと、何を測れば良いか、どのように整理したらいいかもわからない。つまり、メソポタミアの段階で既にいくつもの重要な発見があったのです*11

また、「ギリシャの文明は先行する文明が行き詰まった後に発展した」というイメージを持っている人も、多いかもしれません。しかし、メソポタミアの数理天文学が発展のピークを迎えるのは、紀元前3世紀ごろで、ギリシャの数理天文学がそれに追いつくのは次の世紀のことといわれることが多いです。この頃には、既にアレクサンダー大王アリストテレス、そしてユークリッドもこの世には居ませんでした。

コペルニクスへの恩恵と足かせ

先にも述べたように、コペルニクスの理論は基本的にプトレマイオスの理論の座標変換です*12

したがって、コペルニクスの理論も、プトレマイオスの理論のいろんな特徴をそのまま引き継いでいます。元々のプトレマイオスの理論が優れていたため、コペルニクスの理論は太陽系をかなり正確に描き出すことができました。すでに述べたように、方角は観測できても距離を測る術のない当時、これは奇跡的なことといってよいと思います。

しかし、いかに優れた理論とはいえ、1000年以上前のものですから、耐用年数はほぼ切れています。この間、観測技術も数学も、随分と進歩しました。プトレマイオスの時には現実的だった妥協も、コペルニクスの時の環境では、むしろ無用な足かせとなってしまった。

そのような例として、「太陽中心説と言いながら、実は太陽が中心ではない」という問題があります。彼の理論で、太陽系の中心は太陽から少し外れており、地球はこの点を周りに等速円運動します。なぜこんなことになったのでしょう?また、どにような弊害があったのでしょう?

「円か楕円か」以前の大問題

ところで、プトレマイオスからコペルニクスが引き継いだ弊害として、よく円運動の絶対視が挙げられます。そして

ケプラーはティコのデータから三角測量の要領で火星の軌道をプロットし、楕円軌道を見出した。円でない回転運動を説明するために、太陽からの引力という考え方が必要になって、ニュートンの重力理論に繋がった。」

こんな説明を聞いたことがある人は、結構いるのではと思います。ですが、太陽からの影響で惑星の運動を説明しようとケプラーが考えたのは、楕円軌道導入の前です。彼は円軌道のまま「真の太陽」を太陽系の中心にし、太陽の力学的な影響力について語っているのです。また、当時の精度ではこのような素朴な方法で円からのずれを見出すことは、無理だったと思われます*13*14

なお、ケプラーの理論のうち抵抗がより大きかったのは、楕円軌道よりもむしろ第二法則でした。概念的に非常に飲み込み難かった上に、計算が面倒だったからです。「楕円は円錐を斜めに切ったものだから」と円運動の延長として飲み込めた人たちにとっても、第二法則は規格外過ぎました。

もちろん、楕円軌道にも反対者は多くいたのですが、彼らも円運動の数を増やして楕円に対抗する手段はとりませんでした*15

ちなみに第三法則は賛成反対以前に、なかなか論じられませんでした。天体の位置の計算には役に立たなかったからだそうで、当時の平均的な天文学の問題意識を反映していると思います*16

ケプラー『ルドルフ表』〜数値計算と理論の革新 - QmQの日記gejikeiji.hatenablog.com
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「平均太陽」の重視という弊害

少し脱線しましたが、上で「真の太陽」という言葉を用いました。これと対になるのは「平均太陽」という言葉です。太陽の進む速さは刻一刻変化しますが、平均速度で動く仮想の点を「平均太陽」といいます*17

すでに述べたように、プトレマイオスも、太陽と惑星の動きの関係は気がついていて、二つの円の片方はその影響の表現に使いました。ですが、この時使ったのは真の太陽ではなくて、平均太陽でした。当時の数学の水準を思えば、これは現実的な選択でもありました*18。ですから、二つの円のうちの一つは、この平均太陽の運動そのもの。コペルニクスの理論は、プトレマイオス理論の座標変換なので、世界の中心はこの平均太陽なのでした。

しかし、平均太陽に着目すると、いろんなことが見えなくなってしまいます。例えば、惑星はある平面からはみ出さずに太陽を周回しているけれど、そんなことも気が付きにくくなります。プトレマイオスコペルニクスの理論では、惑星の軌道は上下に複雑に揺れます。それを実現させるために、円の傾きを振動させたりするのですが、これは円運動の原則に反してしまいそうです*19

また、計算も著しく困難でした*20

こういった状況で、ケプラーは真の太陽を中心におき、「惑星は太陽を通る平面にそって円運動をする」という非常にシンプルな理論で観測を説明してみせました。彼の新しい工夫のメリットは明らかで、地球中心説の論者にも歓迎されたのです。もちろん、ニュートンが力学的な太陽系の理論を構想するにあたっても、「太陽が真の中心である」ということは、非常に重要でした。

アルマゲスト』は到達点ではなく出発点(1)

近代まで『アルマゲスト』は重要な書物であり続け、アラビア語ラテン語に翻訳され、注釈や要約、そして最新の数学やデータを取り込んだ再編成などが書かれました。この間、基本的な枠組みが不変であったのは確かです。しかし、それは停滞と同じことなのでしょうか。

例えば、ニュートン以降、量子力学相対性理論が誕生するまで、物理学は古典物理学の時代でした。ではこの間、物理学は停滞していたでしょうか。むしろニュートンを出発点として、急速に発達したと思います。ニュートン『プリンキピア』と同じように、『アルマゲスト』も出発点であって、到達点ではないのです。

ただし、古代や中世においては、近代以降と異なって数理的な学問をする人の数が少なく、ただでさえ研究の継承·発展はうまくいきません*21。また政治的な変動期にあたっては研究は停滞します。せっかく作られた天文台も、政変があれば潰れてしまいました。ほかの文化圏に中心が移る時は、翻訳に時間がかかりますし、さらに失われる書物も多く、再発見や再発明は度々起こります*22

アルマゲスト』は出発点(2)

では、『アルマゲスト』から天文学はどのように進歩していったのでしょうか。

アルマゲスト』は非常に良くできた理論でした。そのおかげで、今や何を観測しなければならないかが、はっきりと指定されました。『アルマゲスト』には、パラメータを決めるために必要な観測や観測機器についても、書かれています。つまり、単なる理論書ではなく、観測プログラムの提案でもありましました。目次を見ると、太陽→月→恒星→惑星という順番で記述が進みますが、観測もこの順番で進めて行きます。

一方、プトレマイオスのデータの扱いは今から見ると、かなり危うい側面があります。信頼性も時代も様々なデータの中から、自分の仮説に都合の良いものをとってきているように見えます。例えば金星において、二つの離心率がピッタリと一致しているのですが、そんなバカなことはないので、よほど選んだか少しいじっているでしょう。値がばらついた時にどの値を取るかについても、あまり客観的な指針はなさそうです*23*24。また、太陽の軌道要素の推定では、冬至夏至を観測から直接決める方法をとっており、見るからに誤差が大きそうです*25

理論の創成期にはある程度、こういったこともやむを得ないと思います。ですが、どこかで誰かがきちんと検証しなければ、科学としては確立しません。その意味で、中世に入ってからの観測と計算は、欠けていたピースを埋めたものといって良いと思います*26

中世においても、データ処理の詳細は明かされないことが多いのだけれど、詳しく書き残しているビールーニーやマグリービーといった天文学者もおり、それを紹介したものを読むと、プトレマイオスよりは今に近くなっていると思います。

例えば、ビールーニーの場合は、複数の方法でデータを取って比較したり、データの処理も複数の方法で試し、先人のデータの解析をやり直したり、バラついた値から系統的に代表値をとったり、、、といった具合です。『マスウード宝典』VI,7 では、太陽の軌道要素について、先人たちと自らの観測データ及び軌道要素の推定方法を詳しく検討しています。計算も自らもう一度やり直しています。このような取り組みの結果、彼は『アルマゲスト』の推定の誤差の大きいことを認め、その主張を破棄して、太陽の遠地点の移動を認めるに至ります*27

ビールーニーのこの仕事がヨーロッパに伝わることはありませんでした。しかし、太陽の軌道要素の推定方法自体は、彼以前のアラビアの天文学者たちの工夫によるもので、これはスペインを介してヨーロッパにも伝わっています。ケプラーが地球の軌道を推定するときは、ティコの太陽の理論に大きく依存するのですが、ティコの太陽の軌道要素の推定は、アラビア由来の中間季節法をベースにしています。

アルマゲスト』は出発点(3)

アルマゲスト』はまた、三角法、球面三角法を含む新しい数学を提示した書物でもあります。ですが、これらはまだまだ萌芽的な段階で、『アルマゲスト』では意外なほど単純な数学が多用されていますし、荒っぽい近似も多いです。例えば、黄道座標と赤道座標の間の変換に用いた近似などは、あまりにも思い切りが良すぎるように思います*28

現在コンピューターによる数値計算で盛んに使われる、反復法らしきものも登場します。しかし、一回しかループを回しませんから「反復」と言って良いかどうか。彼の『惑星理論』の計算では、中世に入って何度も反復計算してみたら結論が(定性的に)ひっくり返った、なんて部分もあります。

また、三角法はインドにおいて算術的に洗練され、sinやversinが導入されて、アラビアに入ってきます。ギリシャ流とインド流の長所を合わせ、さらにグノモン(日影棒)の数理から出てきたtanを取り込んで、新しい三角法が誕生したのは、中世のアラビアにおいてでした。球面三角法もほぼ面目を一新します。

算術全般においても、インド流算術の影響は大きいですし、代数を取り入れたり、補間法を改善したり、また数の概念*29を考え直したりといったことは、中世において徐々に進行していきます。ケプラーの理論が仮に古代に出ていたとしても、到底計算が追いつかなかったでしょう。17世期の当時ですら、計算上の困難が大問題だったのですから。

なぜ三角関数の歴史を追うのか - QmQの日記gejikeiji.hatenablog.com

天文学宇宙論

科学史を概説する際、どうしても「大きな話」が中心になりがちだと思います。天文学の歴史の場合は、宇宙論の話ばかりになってしまうことも多く、すると科学としての天文学の歴史は見えづらくなってしまうのではないでしょうか*30

物理学でいうと、量子力学の誕生は確かに大事件でした。しかし、私が少しわかる分野の話をしますと、光の物理学は量子力学以前からありまして、その段階で様々なことが明らかになりました。今は量子光学というものがありますが、そこでも古典光学由来の概念が有効に使われています。科学の中身の充実は安定した枠組みがあってこそであり、またこうやって蓄積した知識は、枠組みの変化があっても、突然無意味になったりはしません。

プトレマイオス地球中心説は、今は跡形もなく消し飛んでしまいました。ですが、地球中心説を用いて収集された知識や、鍛え上げられた数学、データの取り扱いの問題、洗練された問題意識などは、コペルニクス以降も残るか、あるいは次の段階の何かに発展していきました。特に天文学の場合、数理的な科学の揺かごでもあったわけで、一見地味に見える通常科学的な活動が、静かに革命を準備していたと思います。

中世でも宇宙論論議の的

宇宙論についても、中世の人は何の検討もしなかったわけではないのです。むしろ、コペルニクスの議論は、中世以来の宇宙論と並べて見ると、全く孤立していたわけではないことがわかります。

中世に於いては、アラビアでもヨーロッパでも地球の運動を肯定的に検討することは、あまりなかったのですが、それでも論理的な可能性としては意識されていましたから、一応論駁はするのです。「地球の静止を当たり前として、仮定していることすらあえて言わない、論議もしない」状況と、この状況を比べた時、どちらが太陽中心説が生じやすいかは明らかだと思います。

また、論駁の内容も、時代によって変わってきます。プトレマイオスは「地球が回転するならば、鳥などは後ろに取り残される」としましたが*31。中世も後半になると、アラビアでもヨーロッパでも「地球が回転しても、大気も一緒に周り、我々は気がつくことができない」という議論が出てきます。コペルニクスの上記の議論への反論も、同じ議論です。(ただし、中世の先人たちは地球の運動を肯定する方向には行きませんでした。)

また、すでに述べたように、プトレマイオスの理論はアリストテレスの自然学と衝突する点が多々ありました。この矛盾を解消する努力は、やはりアラビアとヨーロッパの双方で現れ、コペルニクスの理論もその流れで理解できる部分がかなりあるのです。

*1:ただし、遠地点の移動などの永年変化の理論については話が別です。ただ、コペルニクスもこの部分は『アルフォンソ表』の理論を地球のパラメータの変化に焼き直して保存しています。永年変化も含めて簡潔な理論にするには、力学的な理論を完成させるしかなかったと思います

*2:アルマゲスト』の理論のわかりやすい説明は国立天文台暦Wiki/アルマゲスト - 国立天文台暦計算室があります。本格的な解説としては、A Survey of the Almagest | SpringerLinkが分かりやすいです。また、大部ですがA History of Ancient Mathematical Astronomy | SpringerLinkも参考になります『アルマゲスト』のハイベア版からのToomerによる英訳はinternet archive で公開されています。

*3:ただし、月については距離が近いこともあって、方位のずれから正確に知ることができました。太陽についても、かなり遠いということはデータから評価できましたが、距離の推定値は相当過少でした。ケプラーに至って初めて少し訂正されましたが、まだまだ過少でした。この問題はティコやケプラーの理論に、かなり良くない影響を与えています。

*4:プトレマイオスらの周天円の理論の根拠に、「惑星の明るさの変動」をあげる解説をたまに見ます。これは、古代末期のシンプリキオスが引用するソシゲネス(2世紀の哲学者)の説明なのです。しかし、金星までの距離はかなり変動するにも関わらす、満ち欠けとの兼ね合いで明るさはほとんど変化しません。にもかかわらず、彼らは金星の明るさ(大きさ)が大きく変動するとして、周天円の根拠にしています。おそらくは周天円の理論が先にあって、この明るさの変動は理論から導いたのでしょう。

*5:中世の終わり~近代の初めごろ、レギオモンタヌスやオジアンダー(コペルニクス『天球の回転』の序文の著者)が明るさの変動を根拠にプトレマイオス理論の距離の変動は過大だとするのですが、値を評価するかぎり、濡れ衣といってよいと思います。実際、火星の明るさはかなり変動します。確かに距離の最大と最小の比率ほどの変化は観測されないのですが、それは最小値が滅多におこらす、また最大値は太陽の裏に隠れた位置になるからです。レギオモンタヌスの批判は、彼の構想した同心球理論から逆に推論した可能性が高いです。

*6:惑星の理論に比べて、プトレマイオスの月の理論はあまりうまくいっていません。太陽と地球の双方の重力が無視できず、複雑な運動をするからです。方位の説明を優先して理論を作ったのですが、距離の変動があまりにも現実離れしてしまいました。イブン・シャーティルとコペルニクスの月の理論(パラメータの値を除くと両者の理論は同一)は、この問題を大いに改善しています。

*7:例えば、プトレマイオスと後継者による、火星と金星の理論の精度については、以下の二つの論文を参考にしてください。(PDF) Mu¬yī al-Dīn al-Maghribī’s Measurements of Mars at the Maragha Observatory | Seyyed Mohammad Mozaffari - Academia.edu https://www.researchgate.net/publication/330877716_The_Orbital_Elements_of_Venus_in_Medieval_Islamic_Astronomy_Interaction_Between_Traditions_and_the_Accuracy_of_Observations

*8:ただし、実際には中々そのように上手くことは運びません。数式が複雑すぎて解けない、式を立てるのに必要なデータが得られない、といった問題が生じるからです。ですが、原理的には式を立てて解けば良いのだ、という事実は理論を進める上で非常に重要です。

*9:アリストテレスは、天文学者エウドクソスの理論、すなわち地球を中心に回転する球の合成の運動で天体の動きを説明する説を採用していました。この理論がどのような現象の説明を目指したのか、あるいは目指さなかったのか、球の組み合わせはどのようなものだったのか。はっきりとした史料がなく、科学史家の間でも解釈に幅があります。

*10:時代が古く、文献が少ない時代の科学の理論の影響の有無を結論づけるのは、一般的には難しいです。しかし天文学の、特に数理的な側面に絞ると、いくつかの重要な部分はほぼ間違いなくメソポタミア起源です。ユークリッド的な論証数学や、天文学でもヘレニズム以前の古典期の哲学的な宇宙論天文学にどの程度の影響があったのかは非常に熱い議論があります。

*11:規則正しく正確な暦、黄道十二宮など天体の位置を現す方法が規格化されていたことは、非常に大きいです。中国で、惑星や月が黄道近辺を動くことに注意して黄経に着目するのは紀元前後頃で、大きなブレイクスルーでした(大橋由紀夫「買達の月行遅疾論」『数字史研究』通巻136号、 1993年、pp. 29-41.) 。また、60進法に基づく算術も重要な遺産で、エジプト・ギリシャ流の算術では1よりも細かな量の扱いは極めて不便でした。それから、メソポタミアの数表を用いる方法も、関数や代数表現のない時代、天体の運動を表現する上で必須でした。

*12:ベクトルも座標も関数もない当時の数学でこれをやるのは、大変なことです

*13:例えばhttps://www.jstor.org/stable/227848?origin=JSTOR-pdfなどを参照

*14:実際には、プトレマイオス流のエカントという数学的な手法の復活が、楕円軌道に至る上で大きな役割を果たします。

*15:なお、周天円は今で言えばフーリエ展開に相当しますから、原理的には周天円でいくらでもケプラーの理論を近似できます。当時の数学では到底無理だったでしょうが。

*16:以下の私の過去の記事に若干これらの件について詳しく書いていますが、元ネタはhttps://doi.org/10.1177/007327539603400403(これはタイトルで検索すると無料公開版がヒットすると思います)が大きく、また必要に応じて本レビューの参考文献や、Biographical Encyclopedia of Astronomers | SpringerLinkなどの事典類を見ています。

*17:以下では太陽だけを問題にしますが、プトレマイオス天文学では「平均運動」の概念が非常に重視されました。ケプラーの理論への非難の一つには、「真の天体の位置から平均的な運動を計算するのが面倒」というものがありました。ケプラーは対して、そもそも平均的な位置をいちいち計算する必要はないのだ、と反論します。

*18:これは、「プトレマイオスは本当は真の太陽を使いたかったのだが妥協した」という意味ではないです。ただ、やりたくても無理だっただろうと思います。

*19:この振動を円運動で置き換えることは、中世からコペルニクスに至るまで、いくつかの案がありました。イブン・シャーティルやコペルニクスが月の理論で用いたことで有名なNasir al Din Tusiの「Tusiの対円」も、当初の目的はこの振動の表現でした。Naṣīr al-Dīn al-Ṭūsī’s Memoir on Astronomy (al-Tadhkira fī cilm al-hay’a) | SpringerLink

*20:ヨーロッパで広く使われていた『アルフォンソ表』も『アルマゲスト』を踏襲しています。数理天文学の先進地域だった東方のイスラム圏でも、精度のよい近似や厳密計算ができたのは13-14世紀のころで、大抵はインド流の簡便な理論などで済ませていました

*21:例えば古代に於いて、プトレマイオス天文学はあまり進展しません。中世に於いても、例えばアラビアではマドラサが各地に作られましたが、天文学が全ての地域で標準的に教えられたわけではありません。ティムール帝国のウルグ・ベクの時代、サマルカンドでは優れた天文学教育があったようです。しかし、いくつかの大都市を除くと、一般的な状況だとは思えません。例えばこの直後のイスタンブールでは、マドラサで教えること良いか悪いか議論が分かれたそうです。

*22:天文学の場合、ローマの没落する頃からインドがもっとも活発な拠点になり、のちにアラビアでギリシャとインドの伝統が合わさります。そして、それがヨーロッパに伝わります。この全ての段階で、時間の遅れと情報の損失があります。

*23:論者の中にはこの点を極端に誇張して見せる人もいるのですが、すでに述べたように、彼の採用した値は健全といって良いと思います。

*24:古代や中世のデータ解析については、以下の解説などを参考にしました https://www.jstor.org/stable/41133373The treatment of observations in early astronomy | SpringerLink

*25:最大値や最小値の近辺では、太陽の高度はあまり変化しません。ですから、最小値や最大値をとる点をデータから直接決める方法は、誤差が大きいのです。プトレマイオスは、冬至夏至春分秋分を結んだ直線の交点に太陽があるとして、円軌道の中心を調整しました。これを季節法といいます。

*26:なお、古代でこういった検証をしたという文献は今のところ見つかっていません。簡単な確認程度の観測はやっているのかもしれませんが、パラメータの値を決めるための、系統的な観測はやっていない可能性が高いのではないでしょうか。数学的な注釈や、アリストテレスの自然学、プラトン哲学との関係を論じたものは残っており、後世にも大きな影響があったのですが。

*27:この時、彼は『アルマゲスト』の遠地点の推定を検討の上で否定して、中世に入ってからの複数のデータのセットを改めて検討して推定もやり直し、この結論に至っています。アラビア語圏だったスペインのザルカーリウや中国の13世紀の授時暦では、古代の観測記録を説明するために、天文常数の変化を仮定しました。共に天文常数の変化を結論しているのですが、ビールーニープトレマイオスの値を否定して古代人の限界を強調したので、彼らの議論とは真逆です。このビールーニーの態度は孤立したものではなく、東方の天文学者に多く見られる態度のようです。https://doi.org/10.1177/002182861304400305,https://www.researchgate.net/publication/258796887_Limitations_of_Methods_The_Accuracy_of_the_Values_Measured_for_the_Earth%27sSun%27s_Orbital_Elements_in_the_Middle_East_AD_800-1500_Part_2,An analysis of medieval solar theories | SpringerLinkDetermination of the Suns Orbit | SpringerLink

*28:The end of an error: Bianchini, Regiomontanus, and the tabulation of stellar coordinates | SpringerLink

*29:古代ギリシャにおいて、数といえば自然数のことで、分数は比を扱う算法の補助であり、もちろん無理数やゼロ、負の数などはありません。なお、「√2が無理数である」ということをピタゴラスが証明したというのは伝説で、アリストテレスは「正方形の辺と対角線は比をなさない」と言っています。

*30:似たようなことが、医学史や化学史にもあると思います。例えば、医学史と言いながら、ほとんど生理学と解剖学の歴史になっていて、病気についての知見の増大やそれに伴う専門分化についてほとんど触れていないものを時折見ますが、いかに素人が相手とはいえ、まずいのではないでしょうか。化学史でも、具体的な物質についてのや処理の技法の歴史をすっ飛ばして、物質理論ばかり説明するのも考えものだと思います。

*31:この議論は古代人の無知として、嘲笑をもって取り上げられることが多いと思います。しかし、これはプトレマイオスが根本的な問題をでき得る限り経験から証明しようとする努力の一貫で、後世においてもその観点から議論されました。なお、彼は地球の大きさを考慮して地表付近の速度が非常に速いことを指摘しており、かなり本格的です。