なぜ三角関数の歴史を追うのか

中世科学の通史を見ると、必ずや三角法の章がある。

今でも三角関数は重要だが、フーリエ解析その他の応用まで学んで初めて面白みがわかってくるものの、地味で退屈なテクニックである。そういう目から見ると、三角法の歴史に特化した章、それどころか書籍すらも出ているのは不思議だった。

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だが、古代ギリシャ数学と近代数学のギャップ、特に数についての考え方の違いを知るに至って、考えが変わった。古代ギリシャ流の数と量、比と比例では、到底近代科学は成立しなかっただろう。中世における応用数学の実践が、数の概念を徐々に変化させていったのである。

では、応用数学の中で、なぜ特に三角法なのか。

第一に、三角法は幾何と算術の交わるところにある。非常に大雑把にいうと、前者はギリシャ、後者はインドの貢献が大きい。これらの伝統がどんな風に融合したかを、三角法の歴史を通してみることができる(かもしれない)。

第二に、数値解析的な手法との関係である。三角関数を使いこなすには、さまざまな数値的な手法が必要で、例えば各種の補間法、反復法、方程式の数値解法、そして時代が下がってからは無限級数など、これらは三角関数を扱う中で発展してきた側面がある。

第三に、長い間数理科学の花形であった、天文学との関係である。三角法の最も重要な応用先は天文学で、逆に三角法抜きに天文学の発展もありえなかった。著名な天文学者はいずれも、三角法の発展にも心を砕いた。上にリンクを貼った三角法の歴史の本は、優れた天文学史でもある。一般向けの天文学史が宇宙論中心になってしまうことが多い中、数理的手法の発展を解説してくれる本書は、非常に貴重だと思う。

起源

三角法の萌芽は、紀元前2世紀のヒッパルコスの「弦の表」にあるという。

アリストテレスが活躍したのは紀元前4世紀、公理的な幾何学を大成したユークリッドは紀元前3世紀。高度な数学を展開したアポロニウスやアルキメデスはその少しあとである。天球や地球の概念も確立し、当時のギリシャの学問は世界の最先端を進んでいたと思う。

ところが、天体の運行の観測や数値的な予測、つまり数理天文学においては、やや後発だった。紀元前1世紀に於いてですら、ローマの建築家ウィトルウィウス占星術メソポタミア南部の「カルディア人」の特技としたくらいだ。

メソポタミアは数百年に渡るデータのストックをもっていた。これを可能にしたのは規則的で正確な暦であり、また黄道十二宮などの基本的な概念が早くに整ったことも大きかった。

数理方面での彼らの武器は、よく整備された算術だった。位取り記数法に基づいた算術は、1より細かい量も組織的に扱えた。また数表の多用も彼らの数学の大きな特徴である。数表は、複雑な演算の補助として、逆問題を解くための道具として重宝された。関数の概念や代数的な記号のないこの時代、数量的な関係を表現するためには、具体的に表を書いてみせるしかなかった。例えば、今でいえば二次関数に相当する関係が数理天文学で用いられているが(いわゆるシステムB)、これも数表で表されている。

一方、ギリシャにも実用算術 λογιστικός (logistikós)という分野はあったが、著作は一つも残っていない。ニコマコス『算術』は数論の本で、実用算術はやらない。ユークリッド『原論』では割り算も長方形の面積の計算もしない。調べた範囲では、実用的な算術では、ギリシャやエジプトの取り組みは、メソポタミアほど組織的ではなかったようだ。

ギリシャは、こういった欠点をメソポタミアから流入した知識で補った。そしてヒッパルコスはさらに進んで、三角法の萌芽とされる「弦の表」を生み出す。これは、円弧の長さと対応する弦の長さを表にしたものである。円弧の長さは角度に比例するから、角度と弦の長さの対照表でもある。名前と裏腹に、三角形が三角関数の定義に使われるのはかなり後になってからだ。

弦の表は、もちろんメソポタミアの遺産の上に築かれいる。算術は言わずもがな、数表の多用、そして補完法はメソポタミア的と言っていいと思う。(弦の表の利用には、必然的に補間法が必要になる。無限に多くの角度に対応する表など、作れるはずはないからだ。)

しかしそれにもかかわらず、弦の表はギリシャでなければ現れようがなかった。

まず、角度の概念について。全天を360°に区切るのは、よく知られるようにメソポタミア起源である。しかし角度を純粋に幾何学的な量として扱ったのは、ギリシャが最初なのだ*1

そして、ギリシャ幾何学の伝統に弦の表は非常によく適合した。すでにユークリッド『ファイノメナ』では、初等的な球面の幾何で天文学の問題を整理している。三角法は、この種の豊富な幾何学と数値的な解析を媒介したのである。

ヒッパルコス以降、ギリシャの数理天文学は力強く発展する。ただし弦の表は現代のsinやcosに比べると使いにくく、今日高校で教えられる公式の殆どは未発見であった。ヒッパルコスの三角法は、まだまだ萌芽的な段階にあった。

インドの sin と算術化

ヒッパルコスらによる新たな数理天文学は、メソポタミア流の手法を隅に追いやり、東に向かって伝わってゆく。起源5世紀ごろインドに到来して改変され、独自のギリシャ風インド天文学が成立する。500年ごろに成立したアールヤバタ『アールヤバティーヤ』は、その初期の記念碑的な著作であり、現存する最古のsin の表も含まれる。

ここであえてギリシャ風の「インド天文学」としたのは、この体系が強烈な個性を放っているからだ。少し前のインド国内では独自起源説も有力だった。

ギリシャ天文学では、複数の円を重ねて天体の動きを表現する。天体の動きを大雑把に予測するには、一定速度で地球を回っていると考えて周期から計算すれば良い。さらに精度を上げるには、速度の変を表現する小さな円(周天円)を付け加えたり、円の中心を地球とずれた場所に設置したりする。

インド天文学も、やはり円を用いて平均運動からの補正を導く。ところが導かれた補正の算法を反復適応するときは、幾何的な描像はあまり顧みられていない。二回補正を入れたい時、ギリシャなら二つの円を付け加えるだろう。しかしインドでは、ただ単にアルゴリズム入れ子にする。その結果、幾何的な描像との対応が不明瞭な、不思議な計算方法が出来上がる。つまり、非常に算術的な傾向が強いのだ。

https://www.researchgate.net/publication/227009758_The_Equant_in_India_The_Mathematical_Basis_of_Ancient_Indian_Planetary_Models

三角関数のsinの導入も、彼らの算術的な嗜好の賜物といえる。「sinは三角形の辺の比率として幾何的に理解できるではないか」と思うかもしれないが、当時の三角関数は三角形ではなく円と結びついた「円関数」だった。デカルト座標系を知っていればsinは自然と円に結びつくが、当時はそのようなものはない。この条件下では、幾何的に素直なのは、ヒッパルコス流の弦の表だろう。そのせいか、運用上はsinにあたる量が頻繁に出てくるにもかかわらず、古代ギリシャは弦の表一本槍であり、またアラビアでも長いことsinと併用された。

だが、算術中心のインドでは、計算の見通しを良さを優先してsinを導入した。versin、のちにはcosも導入された。

また、インドでは近似が積極的に、あるいは無遠慮に活用された。厳密な解法と近似解の区別は、しばしば明瞭でなかった。三角関数表のに於いても、彼らは補間や補外、あるいは逐次近侍法など、算術的な手法をふんだんに用いる。ブラフマグプタ(アールヤバタのアールヤ派天文学に対抗するブラーフマ派の最も重要な人物)などは、15°毎の値を幾何的に求めた後、二次補間で間を埋めている。アールヤバタの表もsin(x)の二階微分が-sIn(x)であることを利用したと思しき補外が使われており、ギリシャ流の計算とはかなり異なる。

ただし、アールヤバタの少しあとに成立したVarahamihiraのPancasiddhantikaは4世紀以降の古い天文学書の集成で、これに含まれる表はギリシャ系統だといわれている。下記文献3.2節を参照のこと。

Mathematics in India | Princeton University Press

中国

インドの天文学と三角法は、仏教などと共に中国にも入っている。『隋書』経籍志には、「波羅門〜」といったタイトルの算術や暦術、占星術の書をいくつも見つけることができる。また『旧唐書』『新唐書』の律暦志には、迦叶氏(kasyapa) 、拘摩罗氏(Kumara)、瞿昙氏(Gautama)といったインド系の天文家の活動が伺える。瞿曇悉達『開元星経』にはsinの表もある。だが、中国の数学も天文学も、構造が変わるほどの影響は無かったようだ*2

唐代の天文学者の中から、もしただ1人だけをとりあげるとするならば、密教僧一行だろう。民間人でありながら画期的な大衍暦を編み、また開元年間の大地の計測事業を主導した。これは大地の形状を定量的に検証しようとする野心的な試みで、古代ギリシャの地球説を仮定した上での計測よりも、数段難易度が高い。

一行もインド系の天文学に興味は持ったようで、色々と刺激されるところもあっただろう。だが、彼の大衍暦は完全に中国的な算法を用いている。三角関数に関していうと、彼のtanの「表」は世界でも最古である。ここで「表」とは書いたのだが、実際にはいくつかの区間に分割して、三次関数で近似している。『大衍暦』歩晷漏や『高麗史』所収の宣命暦(我が国では江戸時代まで使われた)、特に後者にぅわしい。おそらくは、グノモン(地面に垂直に立てた棒)による観測と関係があると思われる。これはインド伝来のsinの表から計算した可能性も指摘されているが、どうもあまり数値は合わないようだ*3。そもそも、sinとtanの関係は我々が思うほど自明ではないらしい。西方においては、tanはsinとは別に、グノモンの学から派生する。

 

アラビアにおける総合

インド流の天文学と三角法は西にも伝播する。アッバース朝イスラム帝国天文学は、インド・イラン系天文学から出発し、ジージュ(天文表)とよばれる天文学書の伝統を確立する。これは、アルゴリズム的な側面を強く打ち出した数理天文学書の形式で、欧州の『アルフォンソ天文表』などもこの伝統の中に位置付けられる。ジージュには、しばしば三角法の章が設けられた。代数の開祖・アル・フワーリズミーのズィージュは、特に西方で長い間影響力を持った。彼はまた、インド算術や数理地理学の書も著している。

アッバース朝が成立して程なく、シリアやイラク北部のギリシャ語を解する知識人たちが台頭してくる。天文学においても、彼らが推奨したプトレマイオスアルマゲスト』が徐々に浸透してくる。特に、基礎理論はほぼアルマゲスト流が支配する。インド流の半算術的な理論は、異なる伝統の中では説得力をもたなかったのだろう。

ズィージュという枠組みは相変わらず活発で、三角法に関してもインド流が基本になるのだが、こちらにもギリシャ的な論証数学の影響は及ぶ。インド流とギリシャ流をより高いレベルで統合し、さらにグノモンの学も組み込んで、アラビアの三角法は本格的な自立した数学の分野になる。

tanとグノモン

アラビアの功績の一つは、グノモン(日陰棒)の学からtanを定義し、三角法の伝統に組み込んだことだろう。10世紀の天文学者で万能学者のal Biruniの『影についての詳論』という書物は、グノモンの学を確立した名著である。影の光学的な(非常に興味深い)考察や、観測における実際的な(煩わしい)計算、(全く読む気がしない)語源や詩の蘊蓄など、多彩な内容が含まれるが、三角法との関係で言うと、グノモンと関係してtanとcotanが定義されている。もちろんtan の表もある。また、sinやcosとこれらとの間の関係式や、観測・測量への応用も触れられている。

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また、al Biruniの年上の同時代人、abu al-Wafaの数理天文学書(『アルマゲスト』)では、sin, cos,  versin, vercos に並んで、tanとcotanを一斉に導入し、並列に扱っている。つまり、tanやcotanに関わる問題にsin以下の伝統的な三角関数をもちいるだけでなく、逆、つまり伝統的な三角法で扱っていた問題にtanを利用したのである。特に逆三角関数を必要とする計算では、sinとcosだけで済ませると少し面倒になることがある。

tanの援用が少しも自明でないことは、al Biruniの三角法の書『円の弦の導出について』ではtanやcotanを援用していないことからもわかる。そもそも、tanやcotanは影の「長さ」として導入された。abu al-Wafaもある直角三角形の辺の長さでtanとcotanを導入している。ところが、tanが応用として有用なのは、これがsinとcosの比の値になっているからだ。「長さ」として導入したものを「比」と結びつけるのは、決して当たり前の考えではなかった。

al BiruniとAbu Al-Wadaは理論・観測ともに秀でた史上有数の天文学者で、両者で示し合わせて月食の観測をし、ホラズムとバクダットの間の経度の差を求めている。

Biruni

体系的なアプローチ

冒頭に掲げた本では、「インド人は、ギリシャ人の証明した定理と同じくらい、素晴らしい計算をした」とある。しかし、同時に彼らの記述は体系的な説明や証明を、しばしば欠いていた。注釈書で導出を補う場合でも、「理解の遅い者のために図をつける」などと書かれる場合もあった。

上記のabu al-Wafaやal- Biruni の著作は、それらの欠陥を補うものであった。特に、ビールーニー『円の弦の導出について』は天文学を離れて、三角法そのものに集中した最古の書物である。彼は証明そのものを楽しむかのように、一つの関係式に幾つもの導出をつけている。

 

球面三角法

インドに向かって三角法が旅立ったのち、ギリシャでは球面幾何学の発展が著しかった。

インドや中国では、球面は三次元中の立体として、ピタゴラスの定理など通常の平面幾何学と同様の手法で分析された。立体の煩わしさを避けるに於いては、適当な平面への射影を考えた。

それに対してギリシャでは、大円を球面上の直線と見做す、独自の球面幾何学を展開した。現代的に見れば、曲率一定の空間のリーマン幾何学だ。最も重要な定理はメネラオスの定理(受験数学で習う同名の定理の球面バージョン)で、プトレマイオスアルマゲスト』ではこれを弦の表とともに活用して、数理天文学のさまざまな問題に応用した。この様に三角法と球面幾何を絡めた理論を、球面三角法という。

アラビアに於いてはしかし、このメネラオスの定理を克服することが重要なテーマとなった。メネラオスの定理は、球面四角形で定義される六つの「線分」の間の関係である。10世紀のAl Quhiが示したように、この四角形を適切に選ぶと非常にエレガントな解法を与える。しかし、適切な四角形は問題ごとに手探りで見つけるしかなかった。

これを解決すべく、球面三角形についての様々な関係、すなわち正弦則、正接則などが、abu al-WadaやAbu Nasr (Al Biruniの師)によって発見された。また、球面上の角度を積極的に用いるなど、球面の幾何として膨らみが出てきた。私が特に感銘を受けたのは、polar triangleの概念だ。これは、球面三角形の間の双対関係のようなもので、polarを取ると角度と辺が入れ替わり、二度polarを取ると元に戻る。これを用いれば、例えば、三つの辺を定めてから角度を求める問題と、三つの角度を定めて辺の長さを求める問題は、互いに移り合う。

こうして球面三角法は、豊かな内容を持った本格的な分野に成長する。11世紀には、これを天文学の文脈から切り離し、まとめて整理した書物が現れる。この『球面上の弧長の決定』を著したのは、アラビア語圏の西の端、スペインのibn Muadh al-Jayyaniだった。彼は若い頃カイロで学んだともいわれる。スペインは東方に比べて遅れた地域とされることが多かったが、近年は見直しが進んでいる。彼は他にも、『薄明かりの書』で観測から大気層の厚みを推定しており、これは東方やラテン語圏に影響を与えて、例えばケプラーも参照している。

https://islamsci.mcgill.ca/RASI/BEA/Biruni_BEA.htm

アラビアの平面および球面三角法の最終的な形は、13世紀の万能学者Nasir al din Tusiの『四角形について』で与えられる。これも天文学を離れて三角法に特化した書である、なお、Tusiはプトレマイオスの体系の問題点を指摘して、Tusiの対円という仕組みを用いた書き換えを提案した。彼のこの理論とコペルニクスの理論の類似は、科学史家の間でも論議の対象となっている。

代数の応用、小数

アラビアに於いても、インドを引き継いで様々な近似法が試みられた。それらの中で代数方程式の数値解の応用は、いかにもアラビア的といって良いだろう。

15世紀の前半の天文学者・数学者カーシーは、sin 1°を求めるためにそれを三次方程式の解りして表した上で、数値的に解いた。

方程式の理論は、アルフワーリズミー二次方程式の理論が出発点である。彼は、方程式を用いて問題を解いただけでなく、方程式そのものを研究の対象として、正の解の存在条件を明らかにした。これを三次方程式に拡張したのが、11世紀の詩人数学者のウマル・ハイヤームと12世紀のSharaf Al Din Al Tusiで、後者の研究は三次方程式の判別式の初出でもある。

Sharaf al-Din al-Tusi (1135 - 1213) - Biography - MacTutor History of Mathematics

三次以上の方程式の場合、解の構成はもっぱら数値的な手法に頼った。こういった近似解法に於いて小数は非常に便利だった。多項式の代数が負の冪を含めて整備された結果、小数の仕組みの理解も深まり、12世紀から10進小数も伝統的な60進小数と共に用いられる。

Al-Samawal (1130 - 1180) - Biography - MacTutor History of Mathematics

カーシーの三角関数表の作成は、ジージュの精度の改善にも寄与した。彼も参加した『スルタンのジージュ』は、中世のジージュの最高峰である。

Kashi

スペイン、そしてヨーロッパへ

アラビアの数学や天文学は、主にスペインのアラビア語圏を介してヨーロッパに入る。スペインはアラビア語圏の他の地域と異なった、独特の発展をしていた。よって、上述のアラビアの三角法の歴史にそのままヨーロッパの歴史を接続する訳にはいかない。ヨーロッパにとっては、今まで挙げたどの書物よりも、12世紀のジャービル・イブン・アフラフの『アルマゲスト修正』が重要である。ここには、東方で起こった進歩の多くが抜け落ちている。この抜け落ちた部分をして、ヨーロッパにおける独自の発展史を語るのは、また次の機会にしたい。

Jabir ibn Aflah (1100 - 1160) - Biography - MacTutor History of Mathematics

*1:メソポタミアでは、角度と時間が同じ言葉で表され、また黄道からのズレ、いわゆる黄緯に当たる量は°とは異なる単位が用いられた。

*2:江晓原 六朝隋唐传入中土之印度天学 《汉学研究》(台湾)10卷2期(1992)

*3:曲安京(大橋由紀夫訳),一行の正接関数表(724AD), 数学史研究 153号 1997, http://www.wasan.jp/sugakusipdf/153.pdf, あるいはhttp://www.wasan.jp/sugakusipdf/158.pdf