地動説の迫害の話

上のツイートをまとめなおしました。

コペルニクスは迫害されたか?

まず、コペルニクスなのですが、彼は教会内に職を得てますし、生前から「コメンタリオルス」と呼ばれる地動説の草稿が回覧されていて、彼の学説は秘密でもなんでもありませんでした。これをさらに発展させたのが死後直後に出版された『天球の回転について』で、教皇にも献呈されました。もちろん、迫害などは一切ありませんでした。

反動

この空気が変わるのは、コペルニクスが世を去る頃です。宗教改革が激しさを増し、その反作用としてトリエントの公会議などでカトリックでは保守派が強くなってきました。反動宗教改革イエズス会はこの少し前、1530年くらいだったとおもいます。知識人への対処も穏健な方針が転換されて、厳しくなったようです。例えば、ガリレオの望遠鏡の観測を全否定したアリストテレス主義者のクレモニーニも、カトリック教会からの干渉に悩まされました。

教会の天文学への取り組み

ただ、教会全体が反知性主義に走ったというわけではなくて、例えば今用いられているグレゴリオ暦の制定も、このころです。イエズス会にもクラヴィウスのような優れた天文学者がおり、彼の指導で天文学教育の組織化が進みました。中国に西洋の天文学や数学を伝えたマティオ·リッチなどもこの時期ですし、デカルトもこの教育改革の申し子と言って良いかもしれません。

イエズス会天文学者たちは、ティコ・ブラーエのような「太陽が地球の周りをまわるり、他の惑星は太陽の周りを回る」という理論、あるいは一部の惑星のみを太陽の周りを周回させる理論など、地動説のメリットを大幅に取りいれた理論を支持します。17世紀の半ばには楕円軌道も取り入れますが、これは決して遅くはありません。

まだまだ国家による科学研究のサポートが十分でない時代、イエズス会の組織的な取り組みは貴重でした。例えばジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリは若い研究者らとともに、綿密な観測と実験を繰り返します。

ですから、ガリレオの望遠鏡の観測は、イエズス会士の天文学者たちも刺激を受けます。例えば、クリストフ・シャイナーも望遠鏡を作成して観測し、ガリレオと独自に黒点の移動に気が付きました。こういった具合ですから、ガリレオローマ大学を訪問した時は大歓迎をうけました。

ガリレオ

ところが、黒点についての議論はどちらが先に発見したかの論争に発展してしまいました。このつまらぬ論争が、両者の関係をより親密にしなかったことは明らかでしょう。

ガリレオは、非常に能弁でした。彼の著作はコペルニクスの数理天文学書とは違って、より広い聴取に訴えました。また、論調はより論争的で、淡々と論理を積み上げるというより、敵の欠点をグリグリと突くものでありました。しかも、達筆だから読んで面白い。

しかし、この議論の立て方が、論争の相手側に良い印象を与えたはずはない。どうも教会の空気がおかしい、ということを聞いたガリレオは再びローマを訪れるのですが、彼は腰を低くして釈明に努めるどころか、あらゆるところに出向き、天動説を論破しまくりました。

客観的に見ると、ガリレオ当時の証拠では、地動説は到底良く実証されたとはいえませんでした。それでも論敵をねじ伏せたのだから、彼はかなりの能弁だったのでしょうが、同時に負けた方も納得いかんでしょう。なぜなら、客観的にはまだどっちも正しい可能性があったのだから。

また、素人なのにも関わらず、聖書の字句の解釈にもコメントし、伝統的な解釈に難癖をつけたのは、その筋の専門家に良い印象はなかったでしょう。科学史Lindberg曰く、「もう少し上手くやっていれば、あんなことにならずに、かつ地動説のメリットを宣伝できただろう」。

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ガリレオ裁判のインパク

ガリレオの裁判の結果、コペルニクス説は教義に反するとされてしまいます。デカルトが『宇宙論』の出版を取りやめる程度に、大きなインパクトがありました。しかし、もう1633年ですから、ケプラーもバリバリと仕事をだしてましたし、流れを大きく変えたわけでもないと思われます。

ガリレオも蟄居ではあるけど、非人道的な刑罰などがあったわけでもなく、著作も発表しています。それから、1650前後に活発に活動したイスマイル・ブリオ(Ismaël Bullialdus)という、(改変された)ケプラー流の理論を推進した天文学者がパリにいましたが、カルバン派からカトリックに改宗して叙任を受けています。

このような状況を考えると、魔女狩りみたいな地動説狩りのようなことは、まず考えられないです。また「孤高のガリレオが地動説を支持して、迫害と戦った」といった、俗説的な戯画化はかなり事実から乖離していると思います。

アリストテレスプトレマイオスキリスト教

なお、「チ。」に限らずプトレマイオスアリストテレスカトリック教会は同じ穴のムジナと扱われて丸ごと叩かれることが多いとおもいますが、この三者は全然一体ではないです。

まず、アリストテレスを素直に読むと、聖書の奇跡も、天地の創造も、また最後の審判も否定されてしまいます。ですから、12世紀にはアリストテレス自然学は何度も禁令がでてますし、ガリレオ当時もクレモニーニへの圧迫があったことは、既に述べました。

また、コペルニクスには、最後のアリストテレス主義者という側面があります。アリストテレスによると、天体は地球を中心として一定の速さで円運動します。しかし、プトレマイオスは現象との一致を優先して、この原則からかなり逸脱します。プトレマイオスの逸脱への態度はアラビアとヨーロッパで違いましたし、時代や地域、人によって様々でしたが、忘れ去られたことはありません。スペインのイスラム圏の註釈家アヴェロエスなどは、「現在のプトレマイオス的な天文学は真の天文学ではない!」とぶったぎりました。

コペルニクスもやはりプトレマイオスの逸脱を気にかけました。彼が取り上げた問題は一つではありませんが、「エカント」の問題は有名です。これは天体の速度の変化を許す仕組みです。コペルニクスはこれを自然学の原理に反していると考え、等速回転の組み合わせで置き換えることに成功しました。彼はこれを自らの理論の大きなセールスポイントとしていましたし、コペルニクス理論に基づく『プロイセン表』を作成したラインホルトは地動説には関心がなく、こちらのメリットにひかれたのでした。

科学史家Swerdlowによると、エカントの除去は彼の地動説にとっても非常に重要だったといいます。つまり、エカントを等速回転する円の組み合わせに書き直して、円の順番を入れ替えることで、地動説を生み出したというのです。当時は座標の考え方もベクトルもないし、数学の枠組みが今とは全然ちがいましたから、こうでもしないと、太陽中心への書き換えは難しかったでしょう。

こういう具合なので、プトレマイオスアリストテレスを一緒くたにすると、コペルニクスが何をやったか全然わからなくなってしまいます。またアリストテレス主義とユダヤ教系の宗教のギャップを忘れると、両者の調整の中から生じたあれこれも、全く視野に入らなくなります。

地動説は全く圧迫されなかったのか

ここまで教会をやや擁護してしまいましたが、私は別に「カトリックは地動説に反対なんかしてないんだ!」「科学的見地から冷静に対処したんだ!」と言っているのではないです。ガリレオ裁判の結果、地動説は教義に反するとされました。

また、イエズス会が当時、先端的の科学研究に積極的に取り組み、その上で天動説擁護の論陣を張っていたことは上述の通りなのですが、ここに教会の方針が全く影響しなかったはずはありません。彼らの内心どうだったのか、つまり表向きと同じように天動説支持だったのか、それとも内心では地動説に傾いていたのか、今も議論が分かれるところらしいです。16世紀後半以来の、思想的な締め付けは決して過小評価されてはいけないのでしょう。

また、「カトリックは、むしろ真理を聖書を経ないで直接自然から知りうるとする主張を問題視したのであって、地動説を問題にしたのではない。」という説明も見たことがありますが、まあ、やはり地動説自体が問題になっています。

結局、一言で言うと?

かつて、「科学の宗教の闘争」という漫画のような単純化が席巻したことがありました。今もその余韻はそこここに感じられます。その反動なのか、私が学生の頃は、「キリスト教が近代科学を生み出した」などと科学と宗教の互恵的な関係を強調する書籍が、一般向けに出回っていました。ヨーロッパ中世に於いて学術の土台を作ったのは教会でしたし、キリスト教アリストテレス的な自然学のアンチテーゼとしての役割もありました。そういったことが、かなり誇張して強調されたわけです。

ですが、今まで述べたことを総合すれば、「科学の宗教の闘争」「キリスト教が近代科学を生み出した」この両極端なストーリーのどちらも支持できないことは明らかだと思います。残念なことに、両者の関係を一言でさらりといい表すことは難しいようです。

なぜガリレオ裁判はあのような結果に至ったのか?

現在ほぼすべての教会が地動説を受け入れていることを考えると、地動説とキリスト教の間に本質的な矛盾は無さそうです。少し調べた範囲では、17世紀当時の平均的な教義の理解においても、教皇庁の決定があのように苛烈になる必然性はなかったと思います。にもかかわらず、ガリレオの個人的な特性や、超巨大組織・ローマ教会内部の政治的な事情もあって、事態はあのように進んでしまいました。

このプロセスにおいては、あまりにも多くの本質的でない要素が絡んでいます。科学と宗教の問題を考える上で、果たしてこの事件を取り上げるのが有意義なのか、それすら疑問に感じてしまいます。もっとも、こういった不純な要素を伴わぬ事例もまた、滅多にないのかもしれません。所詮、科学も宗教も生身の人間が担うのですから。

なお、最初の話の枕にした「チ。」の結末はこういう形のようです。