人類は、複雑な金星の軌跡をどうやって解明したか

このエントリーは、以下のポストを膨らましたものです。

金星の運動は難しい

科学史を読み進めているうちに、古代人が金星の軌跡の説明に苦労したらしいことに気が付きました。例えば、古代ギリシャのカリポス(紀元前4世紀)は、師のエウドクソスの理論に満足せず、水星、火星、そして金星については、球を一つ追加してより複雑な理論にしています*1

火星や水星の軌道はいずれも円運動との違いが大きく、よって複雑な理論が必要なのはなんとなく理解できます。しかし、金星や地球の軌道、特に前者は円に非常に近いです(離心率0.0068および0.0167)。この二つの単純な運動の合成の説明に、なぜそんな苦労するのか?と訝しく思いながらも、深く考えることはありませんでした。彼らの理論の詳細は、不明な点があまりに多いからです*2

ところが、近代の初期になってケプラーが金星の太陽面通過を予測し損ねたことを知りました。ケプラーの天文計算ハンドブック『ルドルフ表』は、等速円運動を楕円軌道と第二法則で置き換え、特に離心率の大きな軌道を持つ火星と水星の理論で大成功を納めました。そのケプラーが金星の扱いではつまづいているのです。

ここまで来ても私の認識はぼんやりとしていたのですが、中国の漢の時代の惑星理論を扱った武田時昌氏の論考を読むに至って、さすがにこの問題を認識せざるを得ませんでした。

先秦の天文学では、…火星や内惑星の周期は正しく把握できなかった。…金星は兵事を司る軍神とされ、 地上に生起しようとする出来事に即応して自由な振る舞いをすると考え た(武田、2022, p.19)

(金星は)毎回パターンの異なる複雑な軌道を描くので、運行周期や速度変化を正確に算定するのは容易ではなかった。太白(金星:筆者注)の運行をどのように定式化するかは、天文暦学の理論水準を示す指標と言っていいだろう。(武田時昌, 2010, p2*3 )

幸い、平塚市博物館のウェブサイトにわかりやすい図がありました。
平塚市博物館

金星の複雑な軌跡。平塚市博物館の上記ウェブサイトより。

八年で五回サイクルを繰り返しますが、毎回全く異なったパターンをとります。

黄経の変化はわかりやすい

すでに述べたように、金星と地球の軌道は共に非常に円に近いです。さらに金星と地球の軌道面の間の角度はたったの3.31°ですから、金星の公転運動を地球の軌道面に射影しても、規則性はあまり変わりません。

これから(円運動に近い)地球の公転を差し引いたものが地上からみた金星の黄経の変化として把握されます。

よって、金星の地球から見た運動のうち、黄経にそった運動はそれほど込み入ってはいないのです。例えば、留などはほぼ黄経方向の変動だけできまりますから、このようなイベントに着目すれば、規則性の把握はずっとやりやすいはずです。

なぜ難しいのか~黄緯の問題~

問題の中心は、「黄道からの距離、すなわち黄緯の変動」です。先程、金星と地球の軌道面の傾斜は「たった3.31°」と書きました。しかし地球と金星は軌道半径が近く、非常に接近することがあります。このときには、地球の軌道面からの距離が大いに強調されて見え、場合によっては黄緯は10°程度にもなることがあります。これが金星の運動を複雑に見せているのです。

それから、「留などの黄経だけできまるイベントは規則的に見える」と述べました。ところが、金星は地平線近辺を動くことが多いので、地平線からの距離や、それによって決まるイベントが心理的に大きく印象に残ることになります。

金星の見かけの運行は、だいたい以下のような経緯をたどります。

  • 東の空に太陽に先立って現れる(Morning first appearance (MF), またはHeliacal rising)。

があり、その後しばらく明け方太陽が昇る前に見えることになります。そしてやがて、

  • 太陽の光に隠れる(Morning last appearance (ML))。

が訪れます。その後しばらく太陽の後ろに隠れた後、

  • 西の空に日没直後に現れる(Evening First appearance (EF), またはHeliacal setting)。

があり、夕刻に見え続けたあと

  • 太陽の光に隠れる( Evening last appearance (EL))

この後は、太陽の手前を回ってMFにいたります。

これら四つのイベントはいずれも、惑星と太陽の地平線からの距離が問題になり、黄経の他に黄緯も重要になります。

他の惑星でも、地平線との関係は印象に残るイベントを引き起こします。しかるに、木星土星の場合は、黄道からのずれは非常に小さく、決定的な影響を与えません。ところが、金星の場合は既に述べたように正反対ですから、黄緯方向の運動は決して無視できないのです。

地平線に関係したイベントは、古代中国でも注意されましたが、バビロニア古代ギリシャではことさらに重視されました。

プトレマイオスアルマゲスト』の最終巻でもこれらの現象を取り扱っていますが、その準備として惑星の黄緯の理論を展開しています。以前も書いたように、(とくに金星と水星の)黄緯の理論は非常に難解で、あまり成功しているとはいえず、プトレマイオス批判の端緒となりました。しかし、バビロニアでも中国でも全く黄緯の理論に手がつかなかったことを思うと、むしろ理論を作り上げたことを称賛すべきなのでしょう。
gejikeiji.hatenablog.com

どのように解明が進んだか

これ以降、どのように金星の運動が解明されたか、順を追って話します。
見通しをよくするために、何がどのような順番で明らかになってきたのかを大雑把に整理しておきたいと思います。ただし、古代バビロニアの理論の発展史は不明なことが多いですし、中国とバビロニアで同じ順序で事が進んだ保証もありませんので、飽くまでも目安です。

  1. 周期(会合周期)の発見
  2. 運行の定性的な把握
  3. 適切な座標系(黄道座標)を発見し、黄経に注目
  4. 黄緯も含めた理論の完成
  5. 地球からの距離の把握

なお昔の人々が、このリストの上から順番に解明を進めたわけではありません。例えば中国の先秦時代では、周期の正確な値が分かる前から、運行のよりくわしい状況を調べていました。また黄経のすぐれた理論を提示したプトレマイオスは、地球からの距離も推測しました。ただし、こういった「先走った」試みは成功せず、概ね上のような順番に沿って理解が進んだということです。

「あけの明星」と「よいの明星」

まず、細かな話に入る前に「あけの明星」と「よいの明星」の同一性の問題がありますが、原初的な数理天文学の成立以前にはとっくに解決しており、古くすぎて経緯については何もわかりません。素人の思いつきで理由を推測すると、一つには、金星は明るさが際立つことが挙げられます。新月の日には金星影を作るほどで、他にこんな星はありません*4。また、当たり前ですが東西に同時に現れることはありませんし、西で見えなくなってから東に現れるまでの期間は、かなり短いです。

周期の把握は難しかった

実をいうと、東西の明星の同一性の理解は周期の同一性に基づくのでは…と最初は思っていました。天体の数理的な理解でまず第一にくるのは、周期の計測ですから。しかし、実際には周期の把握はかなり後になります。

まず、「周期」という言葉をきちんと定義しておきたいと思います。

  • 公転周期:太陽の周りを一周するのにかかる時間。ほぼ224.695日。
  • 会合周期:地球から見た時、太陽との相対的な位置関係が元に戻るまでの平均的な時間。ほぼ538.92日。

直接観測されるのは会合周期の方で、公転周期に相当する数値は、ギリシャ系の(天動説、すなわち地球中心説の)天文学で初めて出現します。

中国の場合でいうと、定量的な観測の対象になったのは、金星の運動の各段階の日数でした。例えば、MFからMLまでの日数などです。戦国時代の『甘氏星経』の遺文に*5「其恆二百三十日;其遲也,二百四十日。」と、通常の速さと遅いときの日数を両方書いてますが、この変動幅はかなり大きく、周期の把握を妨げたと思われます*6

もしも黄経だけに依存する現象を分析していれば、周期の把握はより容易だったと思います。しかし、定性的にわかりやすい切れ目、たとえば東の空に現れる瞬間などは、地平線との関係があって黄緯に依存してしまい、そのせいでサイクルごとに違った値になってしまうわけです。

ほぼ正確な会合周期が出現するのは、上述の前漢の馬王堆帛書の『五星占』で、「八年で五回サイクルを繰り返す」(八歳五出)とのこと。つまり、会合周期は1.6年≒584.4日。この通りだとすると、八年経ったのち、金星はほぼ公転軌道上のほぼ同じ場所に戻り、また次の八年は同じパターンを繰り返すことになります。実際には、八年経った後は-2.5度ずれ、会合周期は1.5987...年≒583.92日ですが、かなり良い近似といえます。

武田2010によると、このサイクルの発見においては、単純な整数比であることが幸いしたようです。当時は、「日月五星が暦元の年に同じ衆会していた」とする信念があって、そのためには単純な整数比が都合がよかったとのこと。このように非合理な仮定を土台にして発見された「八歳で五出」なのですが、一度発見されれば検証はぐっと楽になりますし、また値の精密化も進みます。

古代バビロニアでは、この「八歳で五出」は中国よりもずっと古くから知られていますが、発見に至る道筋を知る手掛かりはなさそうです。しかしSwerdlowなどは、やはり単純な整数比が発見の契機だったのではないかと推測しています。

黄経の発見(中国の場合)

ここで中国に話を戻します。

惑星の運動を理解するには、周期の把握は出発点に過ぎません。まず、規則を見出しやすい記述の枠組み、すなわち黄経を見出す必要があります。中国の場合、ここにたどり着くにはいくつかの中間段階が必要でした。

まず、『五星占』の金星の運動論は当時としては洗練されていましたが、例えば逆行の区間を設けていないなど、定性的にも十分とはいえません。武田2010では『五星占』の理論の不自然さを指摘しますが、同時に

…地平線からの高度の変化を考えれば、天体の位置関係によっては、『五星占』に近似する現象が観察されることがある(武田2010、p.39)。

と指摘しています。つまり、適切な座標系を欠き、地平線との関係に引きずられた結果、適切な理解が妨げられたのでしょう。

『五星占』の金星

このあと、漢の武帝による太初改暦とそれに伴う一連の観測において、赤道座標を計測する渾天儀が導入されました。既に述べたように、本来は黄経を測ってこそ規則性は見えてきます。それでも、地平線と違って赤道と黄道の関係は一定であって、より秩序だった見方を可能にしたのだと思います。武田2010によると、赤道座標による三統暦(前漢末)の惑星の理論はずっと整っています。

Cullen2017では三統暦の理論を当時のある年の金星の運行と比較し、非常によくあっていることを確認します。しかし黄道にそった計測ではないので、おそらく次のサイクルでは現象と合わなかったに相違ありません。

金星の赤経。三統暦と当時(10年11月13日から)の実際の値(現代の理論計算)

中国天文学黄道が着目されるのは、後漢以降のことです。しかし後漢四分暦は三統暦の数値と非常に近いので、これはやはり赤経を測っていると思います。しかし、さほど遅くならない時点で黄経に基づく理論になったとは思います。

後漢四分暦と三統暦の金星の行度の比較

中国においても、MF,ML,EF,ELといった地平線に関係するイベントが理論の予測の対象となっていました。ところが、これらの予測に重要な黄緯の理論は、ついぞ作られませんでした。中国伝統天文学の総決算とでもいうべき授時暦においても、金星のこれらの現象の予測は誤差が大きいままでした。清初の有力な暦算家・梅文鼎は、西方天文学の利点の一つに、黄緯の理論を挙げています。

バビロニア天文学の理論

古代の数理天文学の最先端、バビロニアにおいても、エウドクソスと同じ頃には金星の理論は迷走気味でした。金星は西の空に現れてから暫くは西に進みますが、あるポイント(留)で向きをかえ、太陽を横切って逆行して東側に姿を表ます。ところが、紀元前360年ごろに作成されたと思われる天文表BM36301の背後にある理論では、逆行する代わりに順行してぐるりと回って東の空に至るにです*7 。ただし、紀元前320年ごろのBM33552ではグッと現実的になるようですが、理論が成熟してくるのは他の惑星にくらべると、遅れるようです*8

バビロニア天文学では、古くから黄経に近い概念が用いられており、日月惑星の数理的な理論は良く整備されていました。彼らの理論の対象はすでに挙げたMF,ML,EF,ELといった地平線が関係するイベントで、これらが生じる時間(日にち)や場所(黄経)が理論の直接的な対象でした。途中の軌道は、これを補間して計算されました*9

中国とバビロニアの惑星の理論はともに算術ベースなのですが、形式は随分と違います。中国では、あるサイクルの中のMFを計算したら次にMLを、その次はFF、最後にEL…と計算し、一つのサイクルのイベントを計算し終わったら次のサイクルに移ります。一方、バビロニアでは、あるサイクルの(他のイベントでも同様なのですが)MFを与えられたら、次のサイクルのMFを計算し、さらにその次のサイクルのMFを…と続きます。つまり、ある時から数えてi番目のサイクルのMFの生じる黄経をB_iとすると、

という漸化式を計算していくのです。理論で考えるのは、この\sigmaをどう定めるかで、金星で用いられるSystem Aとよばれる系統の理論たちでは、\sigmaB_{i-1}から計算されます。なお、イベントが起きる日時もまた同様の形式で計算されます*10

中国の前漢までの理論では、毎サイクル同じ時間間隔でイベントが起きる想定になっています。しかし、バビロニアの理論ではそうではなく、惑星の速度の変化が理論に取り入れられています。また、黄経を用いていることとあいまって、精度はよりすぐれています。しかし、バビロニアでも金星の黄緯が論じられることはありませんでした。それで現象を説明するために、\sigmaの取り方はイベントごとに変えます。つまり、EFを計算するときの\sigmaとELを計算するときの\sigma…は全部違うのです。その結果、現象との符合は(時代が古い割には)良好なのですが、かなり現象論的です。

バビロニアの金星の理論の精度

一方、木星土星、そして火星のほとんどのイベントにおいては、\sigmaの取り方はほとんどのイベントで共通です。また、太陽の平均的な運動(平均太陽)と惑星のイベントに相関を持たせていることが、van der Waerden によって指摘されています。つまり、地球の公転の効果を取り込んでいるのですが、実際の太陽の位置ではなく平均的な位置ですませているのです。

平均太陽の重視はギリシャ天文学では非常に明瞭で明らかになり、以後ケプラーによって否定されるまで続きます。

プトレマイオス理論の特徴

古代ギリシャでは、紀元前2世紀のヒッパルコス以降、バビロニアの数理天文学を吸収して新たな幾何的な理論を構築します。バビロニアと同様、ギリシャでは黄道に沿った角度(黄経)に着目して惑星の運動を追跡し、また平均的な太陽の運動(平均太陽)と関係づけて惑星の運動を分析しました。

ただし、バビロニアギリシャには幾つかの決定的な違いがあります。バビロニアにおいて黄経は天体の運動と強く結びついていて、純粋な幾何的な量ではありませんでした。一方、古代ギリシャにおいて黄経はまごうことなき幾何的な概念であり、黄緯とあわせて天球上の座標を構成していました。そしてこの幾何的な球面の上を走る軌道を、ギリシャ天文学は第一義的な対象としたのです。

特に、プトレマイオスアルマゲスト』では、黄経の理論をまず建設しています。つまり、黄経を分析の難しい黄緯やそれと関係するイベントとまずは切り離し、単独の幾何的な対象として理論家したのです。これは、特徴的なイベントが複雑に変化する黄緯の影響を受ける金星においては、ことさら効果的だったと思います。

一言でまとめるなら、理論を展開するための適切な枠組みを獲得したわけです。

プトレマイオスの金星の理論

まず、プトレマイオスの外惑星の理論を説明します。地球から見た惑星の動きには太陽の運動と連動した部分があります。これに対応するにあたって、バビロニアと同様、プトレマイオスも太陽の実際の動きではなく、平均太陽の動きだけを理論に取り込みました。すなわち、太陽と同じ周期で等速で自転する周天円を用いたのです。これが導円という地球の周りを周回する円にそって動き、2つの円運動の合成で惑星の軌道を表現します。

地球も惑星もケプラーの法則により円運動からずれますが、その効果は導円の方に「エカント」を導入することで、まとめて補正されます。2つ補正を一つにまとめてしまっても、地球の軌道が円に近いので十分な精度が出たのです。

以上が外惑星の理論ですが、金星の場合もやはり導円と周天円を使います。ただし、軌道半径のより小さな金星の公転を周天円で表現します。そして、金星の軌道の補正は地球の公転軌道に相当する導円の方に加算されました。幸い金星の離心率は地球よりもさらに小さいので、この処方でうまくいきました。

以上が金星の黄経の理論で、簡潔な上に観測にもよく合いました。一方、黄緯の理論は、すでに他で書いたように非常に複雑でした。これは、「黄緯と黄経の分離」と「平均太陽への着目」といった方針の反作用でもあります。プトレマイオス理論を成功に導いたこれらの方針は、残念ながら次のステップに進むうえでは、障害になってしまいました。なお、現代の天文学では黄道座標ではなく、赤道座標系が標準です。

「公転周期」の登場

プトレマイオス理論の一つの功績は、金星の公転周期に対応する量を初めて算出してみせたことだと思います。金星の周天円の周期がそれにあたります。コペルニクス太陽中心説を作ったとき、金星の公転周期はここから得られました*11

これに対して外惑星の場合は、地球もその軌道の内側にあるので、逆行を繰り返しながら平均的な位置が徐々に動いていくように見えます。このため、公転周期にあたる数値はバビロニアや中国でも知られていました。一方、内惑星の「公転周期」は「2つの周期運動への分解」という数理的な処理を経て、初めて浮かび上がってきたのです。

内惑星太陽周回モデルは、なぜ上手くいかなかったのか

水星や金星のような内惑星が太陽からさほど離れないことは、ギリシャでも非常に古くから着目されていました。古代の後期には、何人かの(必ずしも専門家とはいえない)学者たちが内惑星の太陽周回説を唱え、中世の前半の西欧ではメジャーな理論になります。
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後にコペルニクスなどがこれを拾い上げ、先進性を讃えていますが、古代から中世前期のこれらの説は、ついに数理的な予想を計算するための理論とはなりませんでした。これが何故ななのかはよくわかりません。しかし、仮にこの理論を用いて金星の位置を予測したとしても、次の理由で上手くいかなかったと思われます。

この理論では、まず太陽の軌道を精度よく出さないといけません。しかし、古代でもっとも精緻なプトレマイオスの太陽の理論も、以下の理由で目的のためには全く不十分でした。

  1. 理論の構造の問題。離心円のみを用いてエカントを導入していないので、距離の変動が正確に表現できない。
  2. パラメータの値が良くない。

まず1について。プトレマイオスの用いた「離心円」の理論は、地球から見た方位についてはケプラーの法則をよく近似できます。しかし、そのためには楕円軌道の場合よりも離心率を二倍にせねばならず、距離についてはむしろ歪めてしまいます。太陽単独の動きを見るだけならば問題にならないのですが、金星などの惑星の公転運動と合成するとかなり悪くなってしまいます*12

2.について。プトレマイオスの太陽のパラメータの精度は、残念ながらよくありませんでした。近点軸(楕円の長軸に相当)も離心率も、どちらもベストな値から大きく外れています。これは観測の問題に加えて推定の方法(四季法)が悪いせいです。(中世には大幅に改善されます。)もしも古代にケプラーの法則が知られていたとしても、この値を用いていたら全然あわなかったでしょう*13
暦Wiki/アルマゲスト - 国立天文台暦計算室

先程、「内惑星周回理論を試みたとしても」と書きました。実はこれに近いことが実際に中世のアラビアや欧州で行われていたのです。先ほどプトレマイオスの金星の理論を、「太陽の軌道を表す導円にそって、金星の公転を表す周転円が周回する」と説明しました。これは、内惑星太陽周回モデルと数学的には同じです。

ただ惑星の導円は太陽の軌道と違い、「エカント」が導入されているのでした。そこでパラメータを適切に変換して(つまり離心率を半分にして)、太陽の理論のエカント版を用いたとします。このようなことが、アラビアの一部や欧州で行われていたのです。特にアラビアの場合、太陽の軌道のパラメータの値は、近代初期の欧州の水準まで向上していましたので、上記の2の問題もクリアしています。

アラビアにおける金星

中世のアラビアの天文学者たちは、インド由来のアルゴリズムを軸とした天文学から出発しました。後にプトレマイオス理論に軸足を移し、観測と計算技術を充実させました。

インド天文学でアラビアに入ったのは、ブラフマグプタ『Khaṇḍakhādyaka』に含まれる、アーリヤバタの「真夜中の体系」であるといわれます。この理論では、金星の導円と太陽の軌道は同じパラメータを共有していました。この特徴は、初期のアラビアのプトレマイオス的な理論にも引き継がれました。例えばバッターニやイブン・ユーヌスなどは全体的にははっきりとプトレマイオス流だと思いますが、この特徴に関してはインド的です*14

では、このような理論は現象に合ったのでしょうか。東方イスラム世界ではこのインド的な特徴は、10世紀ごろから急速に薄まってきます(なお、パラメータの値は更新されています)。恐らくは、『アルマゲスト』にある手順に基づいて観測値からパラメータを推定しなおした結果だと思います。

なぜ、観測とフィットすると導円は太陽の軌道と異なるのでしょうか。それは、導円のエカントによる補正が、金星の円軌道からのずれも取り込んでいるからです。地球の離心率も非常に小さいため、金星の微小な円軌道からのずれも無視できません。離心率の方はさほどでもないのですが*15、近点軸は大きな影響を受けます。

なお、インドでは15世紀のケーララ学派においては、内惑星は「地球の周りを回らない」とされたといいますが、この展開は、先に述べたインドの理論の特徴と関係があるのだと思います。では、これらの理論の精度はどうだったのでしょうか。インドの場合は、エカントとは異なった方法で等速円運動を補正しますが、その方法は非常に込み入っており、今のところ私は(このような分析が出来るレベルでは)理解できていません。

中世後期の西欧

西欧におけるプトレマイオス的な天文学の始まりは、アンダルシア(現在のスペイン)のイスラム圏です*16。アンダルシアの天文学は、10世紀終わりくらいから東方イスラム圏と独立した動きを見せるようになります。その結果、金星の軌道要素のインド的な特徴も保存されたままでした。西欧に翻訳された『トレド表』やその後継の『アルフォンソ表』はいずれも大きな影響力がありましたが、やはりこのインド的特徴を保っています*17。『アルフォンソ表』はコペルニクスも参照しています。

地動説と金星

すでに述べたように、内惑星を太陽の周りを周回させる仮説は古くから知られていました。金星の太陽面通過の観測の報告は中世にもあるのですが(誤認とされています)、この現象に関心が払われたのは、この問題も関係していると思われます。実際13世紀のマラーガの天文学者、トゥースィーなどは、この誤った観測結果から内惑星太陽周回説を否定しています。コペルニクス自身もこの説に言及していますし、インスピレーションになったこ可能性は十分にあります。

コペルニクスに関係していうと、彼はプトレマイオスの金星の理論の二つの不自然さを指摘しています。一つは、周転円の占めるボリュームがあまりに大きいこと。次に、黄緯を説明する理論が余りに複雑すぎることです。

コペルニクスからケプラー

プトレマイオスは、地球(太陽)と惑星の等速円運動からのずれの補正を各々の軌道に対して個別におこなわず、まとめてどちらかの軌道に入れたのでした。金星の場合は、地球(太陽)の軌道に相当する部分が、金星の軌道離心率も担っています。

コペルニクスは、プトレマイオスの理論を数機械的に変換して太陽中心説を得ました。その時、この補正部分は金星の公転軌道に何の変更もなく移されました。この項は当然、太陽(地球)と同じ周期で変動します。地球も金星も単なる一惑星であるのに、なぜか金星の運動のある成分は、地球の運動と連動するわけです。

これだけではありません。既に述べたように、プトレマイオスの黄緯の理論、特に内惑星のそれは極めて複雑でした。コペルニクスの理論も、あまり簡単になっていません。

以上の問題を解消したのがケプラーで、楕円の導入以前から、彼の理論は黄経も黄緯もすっきりとしていました。

Venus in Sole Visa ~太陽の中に見える金星

ケプラーの太陽系の理論は、極めてシンプルです。惑星は各々の軌道面にそって太陽を中心に運動します。この軌道をケプラーは当初は「エカント」を用いて、後には第一法則と第二法則を用いて記述しました。彼の理論は概ね良好な成果を上げたのですが、既に述べたように金星の太陽面通過を予想しそこねてしまいました。

エレミア・ホロックスは『Venus in Sole Visa』の中でケプラーの理論を精査し、地球の軌道要素、特に離心率と軌道半径に大きな誤差があることを突き止めます。離心率については、なぜかティコも17世紀の天文学者たちも、中々精度が出ませんでした*18。そして軌道半径の問題は、古代以来の大問題でした。惑星と地球の公転半径の比率は、惑星の逆行の振れ幅から算定できます。しかるに、肝心の地球の公転半径、つまり太陽までの距離については、ヒッパルコスプトレマイオス月食を用いて計測したものの、かなりの過小評価でした。ティコも疑問を持ちながらも、やむを得ず古代以来の値を用いました。ケプラーは火星の理論を作る中でそれを大幅に改めたのですが、まだ修正が足りなかったわけです。
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金星は地球に非常に近いため、見かけの軌道が距離の影響をまともに受けます。逆にいえば、金星の理論を精密にするとともに、距離の評価がすすむわけです。ホロックス以降、金星太陽面通過のたびに大規模な観測プロジェクトが組まれ、軌道半径がますます精確に計測されました。

付録: 黄緯の変化以外の困難の要因

その他の問題として、金星と地球の周期が比較的近いことが挙げられます。例えば、木星土星は地球の周期に比べて非常にゆっくりと動くので、逆行と順行のサイクルをしながら全体として少しずつ動いていく様が分かりやすいのです。これらの惑星の公転周期は、地動説など無縁の古代中国でも(意味合いは違えど)認識されていました。一方、地球と金星の周期の比率は5:3くらいで、両者の運動が程よく(悪く?)混ざって観測されます。

これらに加えて、内惑星であるゆえに、太陽に隠されて見えなくなる期間が長いことも、研究を困難にしたと思われます。金星が見えていても、周りの恒星が見えないと位置の計測は難しくなってしまいます(実際、金星は飛び抜けて明るいのでこのような状況はあります。)。古い時代には、近くにある恒星を目印に位置を定めていたからです。

付録:その他の惑星の難しさ

なお、他の惑星はどうだったのか?紀元前160年ごろとされる馬王堆帛書『五星占』では、木星土星に並んで金星の運行の理論が表の形で提示される一方、水星については大雑把な記述だけ、火星についてはそれすらも無いのだそうです*19。よって水星と火星、特に火星が非常に難しいことも、また間違い無さそうです。

ただし、バビロニアの水星の理論の一つSystem A3は、既知の惑星の理論では最古(BC 423年-403年の天体暦を含む)で、精度もよいのだそうです*20

主な参考文献
  1. J. Chabás, B. R. Goldstein, The Alfonsine Tables of Toledo, Springer 2003
  2. C. Cullen, Understanding the Planets in Ancient China: Prediction and Divination in the "Wu xing zhan", Early Science and Medicine, Vol. 16, No. 3 (2011), pp. 218-251
  3. C. Cullen, Heavenly Numbers: Astronomy and Authority in Early Imperial China. Oxford: Oxford University Press, 2017.
  4. Teije de Jong, A study of Babylonian planetary theory II. The planet Venus, Archive for History of Exact Sciences https://doi.org/10.1007/s00407-019-00224-0 (2019)
  5. Mozaffari, S. M. (2019). The Orbital Elements of Venus in Medieval Islamic Astronomy: Interaction Between Traditions and the Accuracy of Observations. Journal for the History of Astronomy, 50(1), 46-81. https://doi.org/10.1177/0021828618808877
  6. Ossendrijver M., Babylonian Mathematical Astronomy Procedure Texts, Springer (2012)
  7. 武田時昌, 太白行度考-中国古代の惑星運動論(1) 2010 https://doi.org/10.14989/131791
  8. 武田時昌,漢代暦運説の形成と数理,2022

*1:アリストテレス形而上学』Λ巻

*2:エウドクソス・カリッポスの理論については、解釈の幅が非常に広いです。非常にミニマルな解釈をする人、逆に数学を駆使して、現象に近くなるようにチューニングした結果を提示する人など、様々です。大抵は両極端を排して、定性的な動きを大雑把な復元を目指したと考えているようです。バビロニアの数理天文学の影響を強く受ける前ですので、定量的に緻密な理論を展開する基礎は持っていなかったでしょう。

*3:引用では旧字体新字体に直しています。

*4:なお金星は地球からの距離は大きく変化しますが、明るさの変動は小さいです

*5:唐の時代の『開元占経』。これが古い時代の内容をとどめているか、武田2010で『史記』天官書との比較で検討しています。

*6:武田2010, p.16

*7:Ossendrijver, 2012, p.80, de Jong 2019

*8:"All presently known ephemerides of Venus appear to have been written after 200 BC so that the development of system A theory of Venus may have been a late development.(de Jong, 2019, Abstract) "

*9:かつては、途中の軌道にほとんど関心が無かったといわれていたのですが、これを計算する多くのテキストが多くあるため、研究者の見方も変わってきているようです。しかし、第一義的な関心が特徴的なイベントであったことは動きません。

*10:ただし、日時の差分とsigmaの間にはほとんどの場合、シンプルな関係が仮定されていて、sigmaを与えればこちらも定まります。

*11:同じことは、軌道半径についても言えます。コペルニクスの惑星と地球のの軌道半径の比率は、周天円と導円の半径の比率そのままです。

*12:後にケプラーは楕円軌道に先立って、惑星の導円に用いられた「エカント」を太陽(地球)にも導入してこの問題を解消しました

*13:なお円軌道の理論は楕円軌道の理論とは構造が似ており、両者の間でモデルのパラメータは綺麗な対応があります。

*14:以下のアラビアおよび中世欧州についての記述は、Mozaffari, 2019を参考にしました。アルフォンソ表とトレド表については、それらのレビューもチェックしています。

*15:よってプトレマイオスも太陽の離心率(の半分)に等しい値を採用しています。

*16:古代において、ローマ帝国西半分で『アルマゲスト』が読まれた形跡は、今のところありません。古代のラテン語訳も見つかっていません

*17:アルフォンソ表については、Chabas, Goldstein 2003のp.253

*18:理由は色々と言われるのですが、近点軸は精度が良いので私は納得ができていません

*19:Cullen, 2011

*20:T. de Jong,A study of Babylonian planetary theory III. The planet Mercury, Archive for History of Exact Sciences, 2021