ヨーロッパの天文学の「衰退と再生」

物語で科学革命をドラマチックに描くとき、話の都合上、前の時代はうんとけなしておかないといけない。古代のプトレマイオスアリストテレスをもまとめて叩くこともあるが、もう一つのシナリオとして「衰退と再生」の物語がある。つまり、古代の科学が中世の暗黒時代に失われ、ルネッサンスや12世紀ルネッサンスで復活したとするのである。このような語り口の起源は意外と古く、「復活」の真っただ中に既に生じている。

ところが、近年は近代科学史の前提として、中世の科学を重視する傾向がより強くなってきており、この「衰退と再生」の物語がそのまま受け入れられないことがいよいよ明らかになりつつある。一つには、アラビア語圏における科学の発展があった。だがここでは、あくまで西ヨーロッパ地域に焦点を絞って、古代から中世前期までのこの地域の天文学の歴史を辿ってみることにする。

ローマ時代の西ヨーロッパ

古代から中世への移行についてMichael H. Shankは、「アテネアレクサンドリアギリシャ語文献を基準に用いれば、はっきりとした初期中世の衰退を描いてみせることができる。」と、一旦衰退説を肯定してみせる。語る。だが直後に以下のように捕捉する。「(古代ローマに於いて) ラテン語化された、ごく僅かな科学的な文献を基準にすれば話は全く変わってくる。」

Schools and Universities in Medieval Latin Science (Chapter 8) - The Cambridge History of Science

どうやら、ローマ帝国の版図をひとまてめにしてしまうのはまずいようだ。アレクサンドリアアテネも、帝国の東半分にある。一方、中世にラテン語圏となったのは、ローマ帝国西半分のヨーロッパ大陸部分である。地中海から離れた北西ヨーロッパが学芸の盛んな地でなかったことは、言うまでもない。

では帝都の地のイタリア半島はどうだったか。この地の文化水準が低かった筈はない。「ローマ人はギリシャ文明を真似るだけで、独自性がなかった」という考えは、今は通用しない。むしろ、ギリシャの学問を受け入れるにあたっては、ローマ的な価値観に基づく取捨選択が強く働いた。そして残念ながら、専門的な天文学はあまり好まれず、学んだのは例外的な少数に過ぎなかった。

その少数者の例として、ウィトゥルウィウスやキケロ、『博物誌』で知られるプリニウスがいる。この大著の最初の項目は、概説的な天文学及び宇宙論である。近点軸などのやや専門的な用語も含まれ、惑星の運動への太陽の影響を主張する。百科全書としては高度な内容で、著者の深い知識が伺える。また、このようなレベルの概説が求められるほどに、知識水準は高かったのである。だが、概説はあくまで概説である。

他方、プリニウスは別の著作で、農業や日常生活で用いる実用的な天文計算を紹介する。これは、ギリシャメソポタミア起源の様々な手法を並べたものだ。これらは、宇宙論とは関連させずに記述され、異なった手法同士の内的な関係もよくわからない。

Pliny the Elder | SpringerLink

これは、プリニウスに限らず一般的な傾向で、教育においても、宇宙論と実用天文計算は分離していた。背後にあって両者をつなぐはずの数理天文学は、ほぼ欠落していたのである。帝国西部に於いては、数理天文学のオリジナルな研究や専門的な著作が生み出されることは、遂になかった。それどころか、専門書のラテン語訳もなかった。当時、ギリシャ語は上層階級の必須の教養ではあったが、専門書を読み解くほどに熟達していたものは少数だったので、翻訳の欠如は大きな問題であった。

よく知られるように、12世紀以降、中世の後半にはギリシャ由来の学問が熱心に学ばれることになる。しかし、古代においては「それに匹敵するようなスケールで取り込んだり敷衍したりすることは、なかった。(M. Shank)」。

少なくとも私は今のところ、プトレマイオスアルマゲスト』の影響を古代ローマの西半分で見つけることはできていない。

古代末期

ローマも末期に近づくと、キリスト教の勢いが増す。キリスト教は、科学の衰退の戦犯とされることが多い。例えばアウグスティヌス(5世紀)は専門的な天文学を推奨しない。だが、概説的な宇宙論を聖書釈義に援用し、実用的な計算の必要性も認める。彼の態度は、聖職者らしく信仰が最優先ではあるが、西方ローマ人としてさほど特異とは言えないと思う。

アウグスティヌスが活躍したこの時期には、マルティアヌス・カペラ『フィロロギアとメリクリウスの結婚』、マクロビウス『「スキピオの夢」注解』が書かれる。これらは、プリニウス『博物誌』、前の世紀のカルキディウスのプラトンティマイオス』の訳注とともに、中世の宇宙論の重要な基礎になった。また、アウグスティヌスの著作も、聖書釈義と関連させながらではあるが、自然学の知識を伝えている。(ただし、最もレベルの高いカルキディウスですら、プトレマイオスアルマゲスト』の影響は見て取れない。)

キリスト教の他に、衰退の戦犯とされるのがゲルマン人の侵攻である。たしかに、この事件は政治経済の混乱をもたらした。5世紀中頃、最後の西ローマ皇帝が廃され、いささかの経緯ののち、イタリア半島は東ゴート王テオドリックの勢力圏に入る。

私が高校生の頃は、これを西ローマ帝国の滅亡だと教わった。しかし、テオドリックはローマの行政組織と法、交通網や水道といったインフラをそのまま引き継いた。また彼の治世は、碩学ボエティウスが活躍した時代でもある。哲学者として名高いこの人物は、幾何や算術の入門書を著し、アリストテレスの論理学書をラテン語訳した。

ローマ末期の衰退はある程度事実ではあるが、ラテン語で書かれる学問に焦点を当てると、むしろ充実した感すらある。

中世前半の天文学

テオドリック亡き後の6世紀、東ローマ皇帝ユスティニアヌスの西征に伴う激しい戦闘で、イタリア半島は灰塵に帰す。教育制度も崩壊し、教会が学知の継承に於いても主要な役割を果たすようになる。

このあとしばらく学術は振るわなかったが、フランク王国が安定して文化的に成熟すると、状況が変わってくる。シャルルマーニュ大帝のカロリングルネッサンスの頃には、古代のラテン語文献のかなりの部分が復興する。

中世前半の天文学について、科学史家McCluskeyは、Astronomies and Cosmologies in the Latin West という概説で以下のように述べている。「ここで私はastronomies と複数形を用いていることに、読者は気が付かれただろう。同じ空を見てのながらも、異なった集団は異なった関心や問題を抱き、それぞれにとって適切な理論を採用したのだ。」

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世界観を語る宇宙論と実用的な天文計算は分離し、後者もイースター等の祭礼の日付の決定(コンプトゥス)、祈りのための時間の計測、占星術など、目的に応じて全く異なった手法が用いられた。

この状況はあまり感心はしないが、ローマ時代の状況の延長として理解できると思う。また、フランク王国の分裂などの不安定期を除くと、基本的には時代が下がるにつれ、観測機器も工夫され、テキストの読み込みも深まる。例えば、太陽の運行の速度の変化についても、マルティアヌスやカルキディウスを読み込む中で、徐々に認識が広まっていった。また、7世紀のベーダは実用天文計算の理解に宇宙論的な知識を援用したが、こういったことは古代西方にはなかったことだ。11世紀にはアストロラーべも導入され、伝統的な手法の限界も認識されるようになる。

内惑星の軌道

以上、古代ローマ帝国西半分の天文学の知識が限定的だったこと、そして中世前期もそれに比較すればさほど後退したわけではなく、むしろある面では進歩していることを説明した。だが、話はそれで終わりではない。近代以降の展開を考える時、中世前期に培われた思想的な基盤は、非常に重要かもしれないのである。そのわかりやすい例として、独自の内惑星のモデルについて触れたい。

金星と水星が太陽からあまり離れないことは、中国やバビロニアでも古くから気がつかれていた。ギリシャにおいても、紀元前4世紀のヘラクレイデスが注意している。

ラクレイデスがこれに基づいて内惑星の太陽周回を主張したかどうかは、よくわからない。(むしろ否定的な見解がおおいと思う。) だが、4世紀のカルキディウスは、ヘラクレイデスを内惑星太陽周回説と解釈している。カルキディウス自身はこの説に肯定的でないのだが、少し後のマルティアヌス『結婚』ははっきりと内惑星太陽周回説である。

彼らの影響を深く受けた中世前期の欧州知識人もまた、同様の見解を持つものが多かった。ただし、定量的な解析は全くなかったことは強調しておきたい。軌道の定性的な形状についても、水星と金星の軌道が交錯したり、太陽の前を往復したりするものも有力視された。内惑星太陽周回説は、後にコペルニクス『天球の回転』でも言及される。

 

13世紀に入っても、マルティアヌスの『結婚』の影響は深かった。知識人たちはプトレマイオスの数理的な天文学と教養的なマルティアヌスを対比し、また「天文学学習への動力因はマルティアヌスの『結婚』だった。」

https://www.researchgate.net/publication/299931491_Martianus_and_the_Traditions_of_Early_Medieval_Astronomies

 

東方との比較

シャルルマーニュ大帝の頃、東方のアッバース朝はハルーン・アル・ラシードの治世だった。この時期以降のアラビア科学の興隆に比較すると、カロリングルネッサンスも影が薄くなってしまう。なぜこれほどの差がついてしまったのだろう?キリスト教イスラム教に較べて、ひどく閉鎖的で反知性的だったのだろうか?

私はそうは思わない。西ヨーロッパの中世の天文は、ローマ時代の遺産をよく掘り起こして再編し、次の時代への土台となっている。だが、出発点となる材料や情報源は明らかに貧弱だった。

ここで、改めて両帝国の版図を比較してみよう。アッバース朝の領内には、ギリシャアナトリア半島を除く、ローマ帝国の東半分がほぼ含まれる。アレクサンドリアもシリアもだ。その上、イラクやイランは古くからの文明の地で、背後にはインドも控えている。

ローマの末期には、異端派や非キリスト教信者はしばしば難を逃れて国境を渡った。シンプリキオスらがホスロー1世に一時保護されていたのは、有名な話だ。この時に王の諮問に答えた講義録が今の残されている。意外なことに、ゾロアスター教を奉じるササン朝は、ギリシャ系の学問に対して、ある程度は開かれていたようだ。(排外的になった時期もあった。)

天文学についていうならば、例えばギリシャ占星術書のパフラビー語訳の存在を後世の引用から確認できる。『アルマゲスト』のパフラビー語訳の存在を仄めかす記述も残っている。古代末期、ギリシャ系の学問は東方にすでに拡散していたのである。中世に傑出した天文学者たちを輩出することになるサービ教徒の町ハランなどは、ギリシャ系の学問を古代から継続して保持していた。

ASTROLOGY AND ASTRONOMY IN IRAN – Encyclopaedia Iranica

また、さらに東方のインドでは、西ローマの解体期である5-6世紀、グプタ朝による統一もあって学芸が盛んになる。特に天文学では、ギリシャ系をベースにしながらも独自色の濃い、新たな天文学が建設されていた。これが西方に伝わり、後々天文学の進化に大きな影響を及ぼす。ササン朝天文学も、インド天文学に基礎を置いていた。

つまりアッバース朝の領域内には、古代ギリシャ直系と、インド的な進化を経た天文学の双方がすでに揃っていたのである。

一方、振り返ってシャルルマーニュの都はどうだったか。地中海から遠く離れたこの地に、ローマ時代、どれほどの天文学があっただろうか。イタリア半島まで範囲を広げても、根付いた天文学がいかに些細なものだったかは、上記で繰り返し述べたとおりである。

西ヨーロッパで、ギリシャ系の天文学が大きな熱量を持って翻訳され、読まれ、注釈されるようになるのは12世紀以降のことなのだ。この頃、『アルマゲスト』は歴史上初めてラテン語化される。繰り返しになるが、古代にはそのような動きは全くなく、帝国西方では本書への言及すら、見出すことができなかったのである。この間の変化は、到底衰退とは言えないと思う。