地球球体説

古典期ギリシャの球体説

地球球体説の起源は、古代ギリシャである。ピタゴラス学派あたりが言い出したらしいが、原子論者のレウキッポスやデモクリトスは円筒状としていて、この説もなかなか人気があったらしい。球体説が支配的になるのは、アリストテレスが説得力のある議論を展開してからのことだという。

他の文化圏はついぞ地球球体説に到達することはなかった。例えば中国では宣教師マテオ・リッチが球体説を伝えるまでは、基本的には平板説である。インドも、地球球体説は西方から受け入れている。

根拠は妥当だったか

なぜ古代ギリシャ人は「地球は丸い!」と思ったのだろう。アリストテレスは「均等に物が凝集したら丸くなりがちでは」という自然学的(?)理由以外に、以下の経験的な事実を根拠としてあげている。

  1. 月食の影が丸い。
  2. 場所によって天体の見かけの位置が違う。

今は球体説が常識だからということもあって、こういう議論を聴くと瞬時に説得されてしまいがちである。しかし、よくよく考えるとこれらはどれも決定的とは言えない。実際、中国ではこれらに全く異なった説明を与えていた。

中国での説明

1の月食は、中国では「暗虚」(「暗」は門構えに音と書くのが普通)という概念で説明する考えがあった。これは地面を挟んで太陽の反対側にある、仮想的な暗い円盤である。これに月が隠れたときが月食だというのである。(対して「暗虚」の実体は大地の影であるとする「地影」の説も並行した存在した。) なんたる迷妄と思うかもしれないが、中国天文学月食予報の精度は高かった。最終的には、(当時の)時計の精度の限界に迫る勢いであった。

2は星や太陽までの距離が近いなら平らな大地でも説明がつく。実際、『周碑算経』の名高い「一寸千里」はそのアイデアに基づく。これによると、夏至の南中時、地面に垂直に立てた八尺の棒の影がの長さは千里南に行く毎に一寸ずつ短くなる。これは平らな大地の理論と整合的であり、『周碑算経』では三地点でこの関係をチェックしている(したことになっている)。

なお、『周髀算経』は周の時代の天象の記述も含むが、最終的に今の形になったのは紀元3世紀の初めとされる。本書では一寸千里法を用いて太陽の真下までの距離と高さを求め、さらに視直径から大きさをもとめている。観測精度に難はあるものの、幾何的には正しい推論である。同じ原理で山の高さを測る方法が劉徽の『海島算経』(3世紀半ば)に「日高術」として紹介されている。

定量的な議論の有無

『周髀算経』以降の中国とアリストテレスの議論を見比べると、どちらも定性的には同じ現象が説明できている。両者を比較して気になるのは、アリストテレスにおける、定量的な議論の欠如である。例えば、三点で北極や南中の太陽の高度を比較して球体説を補強するといった発想は、彼にはない。この点でいえば、結論は間違ったとはいえ、『周髀算経』の議論の方が優れていると思う。

つまり、アリストテレスの段階では「地球球体説」はまだまだ大胆な作業仮説であった。「理論的」な根拠をアリストテレスが持ち出したのは、経験的事実からの証拠だけでは弱いと感じたからかもしれない。中世の中頃に至るまで、哲学者たちはこの「証拠」を言い続けるのである。

幾何的な大地観のメリット

ただ、まだまだ証拠不十分とはいえ、この仮説は天文学者にとって非常に魅力的な作業仮説だったと思う。月食のシンプルな説明はやはり「暗虚」よりも魅力的である。そしてなによりも、この「地球球体+非常に遠い太陽と恒星」という組み合わせは、天測と地球上の位置座標を結び付ける強力な手段を与えてくれた。特に、緯度を比較的容易に求めることができるのは大きかったと思う。当時、二点間の距離の測定が労多く不正確だったことを考えると、これは夢のような話である。

同様の理由で、一寸千里法も中国の科学者を刺激したことだろう。中国の方格図(正方形のグリッドを伴った、地球平板説に基づく地図)の基礎を築いた裴秀、ピタゴラスの定理を駆使する測量術書『海島算経』、そして『周髀算経』の三者は同じような時期に生まれている。

一見幼稚に見える中国の大地観も、大地を幾何的な平面として扱う大胆な抽象化をしており、科学的な大地論と言ってよい。同じく地球平板説とはいえ、素朴な太古の説とは随分と違う。

ヘレニズム期の世界観の拡張

アリストテレスの教え子のアレキサンダーは、東征によってギリシャ語世界を中東全体に押し広げた。これは、天文学及び地理学的なデータの飛躍的な増大をもたらした。まず単純に、経度がものすごく違う地点の観測データが得られたことはとても大きい。プトレマイオスアルマゲスト』では、地球球体説の根拠として、

3. 同じ天文現象が、東西で異なった時刻で起こる

を加えている。これにより、南北のみならず東西にも大地は曲がっているはずだ、と結論するのである。

中国においても、南北朝時代の南方への中華世界が拡大が一寸千里法への疑念を高めることになる。隋の劉悼がベトナムでの観測(劉宋、442年)に基づいて問題を提起し、唐の玄宗の時代の国家的な測量事業に結びついていく。

さらに、地中海世界の場合、この東方や南方の地は未開の地ではなく、古くから天体観測や地理的なデータが集積される、先進地帯だった。ストラボンは、エジプトではナイル川に沿った地域の測量が繰り返されていたとしている。エラトステネスが有名な地球の周長の測定で用いたシエネとアレキサンドリアの間の距離の概算は、既に存在した地図に依ったのだろう。

また、特にバビロンなどのメソポタミア下流域は、当時在来の天文学がまだまだ盛んで、ギリシャよりも数理的な側面では優れていた。東方の蓄積を大いに利用してヒッパルコスらが天文学に革命をもたらすのは、紀元前2世紀のことである。

ヒッパルコス以後のギリシャの数理天文学と数理地理学の躍進は、周知の通りである。ここで地球球体仮説の果たした役割は絶大だった。おかげで、天文学者は過去の別の地点のデータを変換して使用することが出来た。古代天文学の頂点たるプトレマイオスメソポタミアでの観測を大いに活用している。

古代の限界

ただ、古代はまだまだ測量も天体観測もこじんまりとしたものだった。大規模な計測機器もそれらを運用する大組織もなかった。例えば、エラトステネスの地球の周長の測定も、アレクサンドリアとシエネの間の緯度差が全円周の1/50、距離が5000スタジオンという気持ちのいいほど切りのいい数値を見れば、注ぎ込まれたリソースは大方予想がつく*1。シエネで日光が井戸の底まで届くという件は、文献か伝聞に依拠したと思われ、エラトステネスが新たに計測したのは、アレクサンドリアにおける太陽の高度だけである。

その後も地球の周長の測定はあるのだが、これらはエラトステネスの値を別の計測で単に「確認」しただけだそうだ。見かけの値の違いは単に「スタジオン」の定義の変化だと言うのである。

実際、これらの推測の基礎となる観測値は、見るからに精度が出そうにない。例えばポセイドニオスは、ロードス島アレクサンドリアが同じ子午線上にあるとして計測をしているが、海を隔てた二地点のことだから、距離の計測の精度は察しがつく。緯度差の誤差は大きく、経度差も実は無視できないほどある。最初から目当ての値が決まっていて、確認をとった程度なのだろう。

中世の観測

状況が一変するのは、かつてギリシャ語世界だった地域がアラビア語世界に塗り替わってからである。アッバース朝の最盛期のカリフのマームーンは、古代の計測値に大きな矛盾はないとする学者の見解を差し置いて、新たな計測を指示した。この大事業は有名な割に詳細は不明で、ただ子午線上に沿って南と北に緯度差1度まで進んで、その間の距離を測ったらしい。最終的な値はかなり良く、イスラム至上主義的な宣伝にも用いられる。だが途中の詳細がわからないので、誤差が偶然打ち消した可能性も否定できない。それでも、古代に比べたら遥かに「計測」らしきものになっているのは明らかだろう。

古代の「計測」を見ると、いずれも名の知れた二つの地点を選んで緯度差を計測している。おそらく、既存の地理データを用いたかったからだろう。しかし、選んだ地点が本当に同じ子午線に乗っているとは限らない。例えばアレクサンドリアロードス島の場合はかなりずれていた。一方、マームーンは労力を惜しむことなく、地上の測量から手をつけているのである。また、二地点でなく三地点を取るのも、球体説の確認において重要だった筈だ。

この頃から、中東全域にかけてさまざまな勢力が競って天文台を作り、また主要都市の大モスクは何らかの観測設備を持っていた。そして、各地の緯度と経度に合わせた天体計算が行われて観測と付き合わされた。月食の同時観測による経度差の測定も行われた。もちろん、これらは地球球体説を前提としていたし、それらの整合性は球体説をより確実なものにしていった。

そして13世紀の大哲学者Nasir al-Din al-Tusiは、地球球体説の根拠に自然学を用いるのをやめる。さすがにこのころは、当時の地理学的な常識に完全に組み込まれてしまっていたのだろう。

中国での顛末

最後に、中国で一寸千里法がどうなったかという話でこの文章を終わりたい。先に述べたように、隋の劉悼の問題提起を受けて、唐の開元年間に僧一行と南宮説が率いる観測隊が組織された。マームーンの事業よりも一世紀ほど前のことである。彼らは四箇所の観測地点を選び、夏至冬至、春秋分時の影の長さ、そして極の高度を計測した。またこれらの地点の間の直線距離も、苦労の末(誤差はかなりあるが)測定した。これに加えて、さらに9地点で天測だけを行い、既存の地理データと併せて計算の参考にした。観測地点は河南を中心に、北緯50度〜17度の範囲に散らばる。

その結果、一寸千里は(この率だとダメだというのではなくて考え方そのものが)全く成り立たないとされた。また、極の高度の変化一度あたりの距離は「ばらつきはあるが、ほぼ一定」としている。他の例が悉くこの結論を仮定した上での計測だったのに対して、この計測では定量的に検証されている。観測の精度は、真の値の3割増しくらいである*2

新唐書』の天文志では、観測を十分に広い地域で行うことの重要性を、洞庭湖に沈む太陽の比喩を交えて丁寧に説明する。そして、昔は短い距離で測定してたから差が見えなかったと誇らしげに語るのである。

この観測の結果、大地の形の認識はどう変わったのかはどうも明瞭ではない。そうして『宋史』律暦志は『新唐書』の高揚感とは対照的に、精度の限界や観測された地域があまり広くないことを指摘し、むしろ人間の認識の限界を強調する形になっている。この変化の思想的な背景は、私にはわからない。

 

*1:なお一般向け解説で、緯度差の計測値を7.2度としているものを見かける。換算値としては正しいが、当時、ギリシャでは360度に一周を分割することは行われていなかった。このように表記してしまうと、0.1度刻みの精密測定が行われたという勘違いを生じかねないと思う。

*2:古代や中世の他の計測と比べると、結果の精度はむしろ悪い。だが、そもそも公正な比較は簡単ではない。古代の計測の場合は緯度差を過小評価しているので、過大評価しがちな距離の誤差と打ち消し合っている。中世のアラビアやインドの値は、結果しか伝わらない。