天球の発見

天球の有用性

物理的な天球の概念が過去の遺物になった今でも、天球図の有用性は変わらない。太陽、月、惑星の運動を理解するには、地球の自転や公転の影響を差し引いた残りを見るのが良い。このためには、恒星の張り付いた天球を想定して、これに日周運動と年周運動を担当してもらう。すると、日月と惑星の運動は、天球上の軌跡として自然と理解される。

この描像を物理的な実在と捉えたのが、地球中心説(天動説)である。見方によっては原始的な宇宙論だが、地球を不動とした上で天体の運動を理解するには、これ以外にはないともいえる。例えば、恒星が全て連動して動くことも、天球を用いると簡単に説明できる。

天球は原始的な概念?

この現代では当たり前の天球概念の非自明さに、私は中々思い至らなかった。だが、天球の「発見」は天文学史上の一大事件だったのである。そもそも、恒星が北極を中心に回転運動をしていることも、ぼんやりと夜空を眺めていては気が付きようがない。また、日月の運行が恒星の動きと関連させて理解すると整理できることも、観測の蓄積が無ければ全く思い至らないだろう。

また、天球を受け入れるということは、天が頭上だけでなく、地面の下にも続いていること認めなけれいけない。これに対する反発は、かなりあったようだ。科学的な知見の蓄積がやがて地球球体説や地動説を促したわけだが、天球概念の成立も、これと匹敵する大きな転換だったといってよいと思う。

西方で天球概念の萌芽は、すでに古代メソポタミアにあった。日月と惑星が黄道十二宮を巡ることに気づいた当時の天文学者は、獣帯を大地を取り巻く帯と考えて計算を進めたようだ。だが、彼らの抱いた物理的な描像を記したテキストは、今のところ知られていない。はっきりとした天球概念が確認できるのは、古代ギリシャの著作においてである。

ずっと後の後漢の頃になって、中国でも渾天説という天球の概念を含んだ宇宙論が体系化される。この時代、中国にはすでに蓋天説という別の体系があり、両者の論争がしばらく続いた。時代の新しさもあって、こちらは論争の跡をより詳しく辿ることができる。

宣夜説

この時代の中国に宣夜説という宇宙論があったらしい。早くに師伝が絶えて詳しいことは不明だが、全ての天体は各々の性情に任せて勝手に動くという説が伝わっている。宇宙を無限だと考えたとも言われ、現代の中国では愛国主義的に取り上げられることもある。だが、宣夜説では恒星の連動した動きに系統的な説明ができない。科学の理論としては、今一つ魅力がないように思う。歴史的には、この説は次に述べる蓋天説のアンチテーゼとしての役割があったようだ。

蓋天説

対して、中国初の数理的な天文学は、先秦時代からある蓋天説に基づいて成立した。これによると天は円形で大地は方形(天円地方)であり、各々平行な平面上に乗って向かいあっている。この円形の天の回転で天体の動きを説明するのである。ここには、天体の運行の周期性の認識が表れている。また、日月と惑星は天全体の動きに加えて独自の運動もあるとされた。天全体の運動と固有の運動の合成は、「回転する石臼の上を這う虫」という気の利いた比喩で説明された。

https://historyofscience.jp/wp-content/uploads/38-2.pdf

球と円盤の違いはあるが、蓋天説の天体の運動の説明は、宣夜説よりは天球の理論に似ている。ただし、蓋天説において天体は決して地面の下に潜らない。日没などは、遠方に遠ざかることと陰気にくるまれることの二つで説明した。これは、地面の下を天体が進むにを理不尽だと思ったのだろう。例えば、後漢の王充は『論衡』でこの点を強調して蓋天説を擁護している。

渾天説

王充が論敵として想定していたのは、天文学者の張衡が体系化した渾天説であった。渾天説も「回転する石臼の上を這う虫」式の説明はそっくり継承している。ただし大地に平行な円盤は、大地を包む球に取り替えられた。この方が遥かに天体の運動をよく表すことができたからだ。わかりやすいのは日没の説明で、太陽が徐々に遠ざかるとする蓋天説よりもはるかに経験と合致した。

渾天説はまた、渾天儀(アーミラリー球)とよばれる、天球座標を測定する機器を生み出した。渾天儀による観測が、さらに渾天説を補強した。つまり渾天説は、天文学の理論と観測がが展開されるべき、適切な空間を準備したのである。

なお、蓋天説は「表(ノーモン)」とよばれる棒による観測技術を編み出していた。この解釈の一部(一寸千里説など)は蓋天説に強く依存していたが、渾天説においても有用な部分は、渾天家も取り入れることになる。

渾天家の張衡は、理論を整備するのみでなく、水力で動く模型で自説を宣伝した。締め切った室内に模型を置き、指し示す天体の位置を読み上げさせ、観測される天体の位置と照合して見せたのである。渾天説は着実に勢力を増してゆき、南北朝時代にはすでに優位だった。

渾天説では天は大地を包んで展開する点では、西方の地球中心説に近い。アーミラリー球という観測機器を生み出した点も同様である。だが、渾天説は地球球体説は採らない。また大地は水の上に浮かぶとされた。水の下を太陽が潜る不自然さは、陰陽五行説的な自然学を用いて克服されたらしい。この辺りの理屈は、私の理解を超えている。

ただし、中国ではついに地球球体説に到達することはなかった。

天球説の成立へ

渾天説が定着するまでの経緯を見ると、天球概念の成立の契機とハードルがどこにあったか、自ずと浮かび上がってくると思う。

おそらく天体の円環上の動きを想定するきっかけは、周期性の認識だろう。また、恒星の連動した動きを説明するために、天体の張り付く「天」が想定されたのだろう。メソポタミアにおける黄道12球や円盤に描かれた天体図も、似たような経緯で成立していると思う。

ところが、この円環状の運動が地を包むとすると、天体に大地の下を潜らせねばならない。頭上に広がる天が、地平線を超えて足下まで広がることになる。こんなことを簡単に受け入れられるほど、古代人の思考は場当たり的ではなかった。それゆえに、可能なかぎり天体が大地の下に進むのを拒否しようとしたのだろう。

アルマゲスト』によると、古代ギリシャにも日没を「遠方に去る」「火が消える」などで説明する試みがあったようだ。これらは見かけほどナイーブな説明とは思えない。例えば後漢の王充が蓋天説を擁護するにあたって、遠方の物体がどのように見えるかを的確に詳説した上で、論陣を張っている。しかし在らん限りの工夫を尽くしても、このような試みでは日没の状況を再現出来なかった。

古代メソポタミアでは、新月の出現、日の出入り、惑星の早朝と夕刻の出現など、地平線近くの現象がかなり詳しく調べられていた。当時、(少なくとも計算上は)黄道12宮は大地を包むと想定されていたとされるが、その理由の一端は天体の出没への関心の高さにあるのかもしれない。

西方における天球説の本格的な展開は、古代ギリシャだとされる。どれだけ遅く見積もっても、プラトンの頃には明瞭な天球概念がある。だがこのころのギリシャ天文学の水準は、まだまだ低い。世界最先端のメソポタミア天文学ですら、天体の定量的な数理モデルはもう少しあとのことになる。

後の中国では定量的な比較検討もへて、蓋天説を捨てて渾天説を採用しているが、そのようなことができる状況では到底なかっただろう。おそらく、哲学的な憶測がかなり大きな役割を果たしていると思われる。

地球と天球

Twitterで、「地球説を前提とすれば、天球説は自ずと出てくるのでは」という問いかけがあった。たしかに、古代ギリシャの地球説は天球説と深く結びついており、この二つの球面の間に深い対応関係を見出していた。

古代から中世にかけて、西方の文化圏では地表面をいくつかの"klima (英語のclimate の語源)"に分割していた。これは緯度による分割で、日照時間を基準に等間隔に区切っている。ー元を辿れば、メソポタミアの日照時間の計算方法がもとになっているようだ。

Clime - Wikipedia

そして、このclimateは天球の分割でもあった。それはストラボン『地理学』には非常に明瞭に述べられ、アリストテレス『気象学』でも彗星の現れた天球上の場所をclimateで表現している。また、緯度や経度、子午線も天球と地球で共通した概念であった。

https://www.jstor.org/stable/232593

この点、上記の問いかけは非常に鋭い。だが順序関係としては、天球説の方が先なのである。中国が天球説には至っても地球説に到達しなかったことは、すでに述べた。また古代メソポタミアでは、天球概念の少なくとも萌芽はあったが、地球説は形跡すらない。アリストテレス『天体論』やディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』などによると、宇宙の中に円盤状の大地が浮かぶとする理論はアナクシメネスアナクシマンドロス、そして原子論者に見られれる。また、プトレマイオスアルマゲスト』の宇宙論では、まず天体の見え方の議論から天球説を擁護したのち、地球説の説明に入る。

むしろ、地球説は天球説に誘導されたのではないかと思われる。足下に頭上と同じ天を想定する天球説は、世界観を大きく揺るがしたと思われるが、上下の区別を完全に無効にした地球説の破壊力はそれ以上だっただろう。

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「月の錯視」の問題

アルマゲスト』その他、古代ギリシャの天球論の論証では、「天はどの方向も一様であるように見える」ことが証拠として挙げられる。星座も日月も、天球の場所によって違った大きさにはならないだろうというのだ。

ところが、実際には「月の錯視」の問題がある。つまり地平線近くでは日月も星座も、著しく大きく見える。このことは『アルマゲスト』でも議論があるが、特に『隋書』「天文志」天体の条に詳しい。さらに10世紀のイブン・ハイサムが指摘したように、天蓋は球状でなく、むしろ天頂が低く平らに見える。 この錯視のメカニズムは、前世紀まで論争が続いた難しい問題である。

しかし正確な原因はわからないまでも、西方においてはこれはある種の錯覚であって、実際に近づいたり巨大化するわけではないとされた。

一方、中国においては少し状況が違う。『隋書』「天文志」でも、「実際に近づく」「伸びる」といった説のあったことが記されている。だが、「比較するものが近くにあると大きく見える」、あるいは「上方にあって上目使いで見ると小さく見える」といった、錯視だとする説もあった。後者は現代の説明に近いのだが、議論の行く末は今ひとつわからない。とりあえず、14世紀の趙友欽(赵友钦、Zhao Youqin)の『革象新書』では、本当に近づいているとして、地球を天球の中心から少しずらしている。ただし彼は非常に独自色の強い思索家だったので、全体の傾向はまた違ったかもしれない。

Kyoto University Research Information Repository: 趙友欽の天文學