それでも地球は丸くない~中国人の大地観

地球は丸い。子供ですら知る常識です。しかるに高度な文明を誇った中国においては、ほとんどこの説は知られていませんでした。このことは、中国の数理天文学の水準を考えると驚愕すべき事実だと思います。

一寸千里法とその破綻

中国でも古来、場所によって太陽の高度が異なることは意識されていました。しかし、これを中国では「太陽までの距離が近いからだ」と説明していました。例えば大きな部屋の天井をみあげると、真上は高く遠くにいくほど低く見えます。これと全く同じ理屈です。『周髀算経』には「南に千里進むと八尺の棒(表)の影が一寸短くなる」とする「一寸千里法」が記されています。この距離と陰の長さの比例的な関係は、平らな大地の仮定の下では正しく、同じ原理の方法が遠くにある山の高さを計測するのに用いられました。

実際には地球は平面ではないのですが、それ以前に実測値としてこの数値はかなり問題があります。洛陽近辺で考えると、南や北に千里進むと、影の長さの変化は一寸どころではありません。直線距離の計測の困難を考慮に入れても、いくらなんでも…というレベルです。

この数値の根拠については色々な議論がありますが、実測による検証が入れは破綻することは明らかでした。特に南北朝時代になって、現代の中国の南部までが漢人の活動領域になると、矛盾が明瞭になってきます。戦乱の時代が終わって盛唐のころ、ついに大規模な測地と観測のプロジェクトが行われます。帝国の南端から北端まで、多数の地点を選んで影の長さと北極の高度を測り、特に南北に連なる四つの地点については、直線距離を改めて測量し直しました。『新唐書』天文志によると、これによって一寸千里の法は破綻が明らかになり、また北極の高度と距離の間の比例関係が認められました。

ここまで徹底した計測は、個人的な探求が中心だった古代ギリシャ・ローマはいわずもがな、支配者がしばしば天文学にコミットした中世のイスラム帝国でもありませんでした。前近代においては、未曾有の大事業といってよいと思います。

そのような大がかりな試みで確かめられた北極の高度と距離の間の比例関係は、
しかし、地球球体説はおろか半球説も生み出すことはなかったのです。

なお、この関係は『宋史』『元史』には記されていますし、後者には場所ごとの北極の高度のリストすらあります。つまり、専門家集団は確実に理解していたと思います。

視差の理論

天体までの距離は有限です。よって、光線は円錐状に広がり、それを受け取る場所によって見える方角が異なります。特に月の場合はこの効果は顕著で、その補正は日食の予報では決定的に重要でした。ギリシャ系統の天文学の場合、地球球体説に基づいて、幾何的にこの効果の補正をします。

ギリシャ系統の理論の場合、理論の対象となるのは地球の中心から見た月の方角で、よってこの効果を「地心視差」といいます。観測者は地球の中心よりも「高い」位置から見下ろしているので、月は理論計算よりも「低い」ところに見えます。「地球の中心からは観測なんかできないではないか」と思うかもしれませんが、これは皆既月食を用いて太陽の位置から推測できるのです。
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中国の場合も、日食の予測の経験から徐々にこの視差の効果に気がついてきます。例えば、太陽と月がぴったり重なる位置よりも少し北側にずれたときのほうが日食は起こりやすく、南側にずれると置きにくいことに気が付きます。

こうやって部分食やその程度を含めて、日食の生じ方を月と太陽の天球上の位置と比較する中で、地心視差の効果は中国でも徐々に明らかになっていきました。

なお中国では月食は、太陽の位置を補正するのに使われました。このあたりはどう考えたらいいのか、消化できていないのですが、日月の相対的な位置が大地の中心に対して補正されているのは確かです。

上で紹介した観測プロジェクトを主導した天文学者の一行の編纂した大衍暦では、視差の効果を理論式の中に取り入れて、日食の予測精度をあげました。彼の理論を記した『新唐書』律暦志では、「日食は統治者の徳の有無を反映するというが、観測地点によって起きたり起きなかったりするではないか」と指摘します。

すでに見たように、中国では太陽の高度の違いも距離の有限性に帰着していました。ゆえに、月の位置を観測地点に依存して補正することに抵抗はなかったのでしょう。

ただ、彼らの補正の理屈はよくわかりません。律暦志には計算方法しかかかれていません。暦の計算の背後の理屈を解説した書物は存在しましたが、今には伝わっていません。しかし、暦によっては必要な変数を欠いたり、逆に余計な変数を用いたりしています。このころから考えると、幾何的な理論が背後にはったとは考え難いです。

ところが、中国暦法の集大成たる元の授時暦の視差の理論は、表現形式こそはことなるものの、ギリシャ的な理論とほぼ同じ補正を与えます。当時はイスラム系の天文学者も当地におりますし、何らかの交流はあったのかもしれません。

なぜなら、同じく日食や月食の理論でも、部分食の度合いや継続時間を計算する方式も、ギリシャ系統の方法に近くなっているからです。結論部分だけを教わり、伝統的な手法で近似した可能性は、十分あると思います。

いずれにせよ、国際的な交流の盛んだっった元の次代でも、地球球体説が中国人の知識人の中に入り込むことはありませんでした。

非専門家の受け止め

北極の高度と地上の距離の比例関係にしても、視差の補正にしても、専門的な暦学の話です。特に後者の問題は、暦学の専門家以外には理解できず、いわんや大地の形状の問題に結びつけるなど、思いもよらなかったと思います。

前者はもう少しわかりやすいと思うのですが、『旧唐書』や『資治通鑑』の観測事業の記述では、この新発見に言及はありません。

南宋朱子は自然学にも関心が深く、自宅に渾天儀を備えるなど、暦学にもかなり入れ込んでいます。また、彼の『朱子語類』には、日月食などの天体の現象や、宇宙の構造や大地の形状の議論も見られます。

大地の形状を彼は「中華饅頭のようだ」としているのですが、その根拠は「北方で日照時間が長くなる」からだとしています。出典は書いていないのですが、文言から盛唐の観測事業についての記事からとったに相違ありません。しかるに、彼は北極の高度と距離の比例関係には全く着目していないのです。

清の時代の論争

明末から清にかけて、ついに中国にも欧州の天文学が入ってきます。それまで、唐の時代にはインドから、元から明の最初にかけてはイスラム地域から西方の天文学が入ってくるのですが、結局は一般的な知識人に浸透することはありませんでした。例えば後者の翻訳のときには、面倒な解説を回避すべく、数表を引いて計算が進められるようにしていました。その結果、理論の内に秘められたインパクトは、最小限に抑えられてしまっていたのでした。

しかし、今回は徐光啓漢人の知識人が働きかけて専門家の派遣を引き出した結果であり、基礎的な諸文献がまとまって翻訳されました。数学的な基礎や、初歩的な光学、望遠鏡のような機器の解説、さらに地球球体説をふくむ、宇宙構造論の議論が、論拠をふくめて丁寧に解説されました。この怒涛の一大翻訳事業は、東アジアの知的な景観を一変させたと言って過言ではないと思います。

清の時代に入ると、この西洋天文学による暦法が公式の暦法として定着し、公的には地球球体説が標準的な説になります。また、『暦象考成』の編纂事業が、主に招集された民間学者グループの主導で進められたことからわかるように、民間においても暦の専門家の間では、地球球体説が無視できぬ勢力をもっていました。

しかしながらすべての知識人が球体説に納得していたわけではなく、論争は清朝の終わりまで続くのです。おおむね、以下のような論点がありました。

  1. 中国が中心でないのはおかしい
  2. 宣教師たちが中国を世界の中心から外そうとして嘘を言っているのでは
  3. 西洋人が地球を周回してきたというが、信用してよいのか
  4. 大地が球形なら、なぜ物体は地表からすべりおちないのか。
  5. 上下の秩序はどうなるのか。

自然学だけでなく、世界観や価値観もまた、議論に影響しています。『暦象考成』グループのリーダー的な存在だった梅文鼎は、「空間的な中心ではないが、中国は文化的な中心で優れた聖人を排出した。」という形で、中華的な世界観を維持しています。

自然学的な部分についていうと、彼は世界の「上下」は維持していて、地表から物体が滑り落ちない理由を「気の運動で地表面に押し付けられるから」としています。

疑問:地図作成との関係

中国でも、地図の制作は盛んでした。広大な地域をカバーしますから、当然大地が球面であることの歪みが影響します。


ひじょうに大雑把な感想なのですが、中国の地図を古い順に見ていくと、時代を下るにつれ、全体の形状もだんだんと歪みがへっているように思います。これは、やはりデータの蓄積というやつなのでしょう。その過程で平面からの系統的なずれに全く気が付かなかったとのでしょうか?