メモ;ボエティウス『音楽教程』の解説を読んでみた

講談社学術文庫から、ボエティウス『音楽教程』の邦訳が出ました。

音楽といっても、この本においては音楽的な実践の位置は低く、数理科学の一分科なのです。私の音楽理論史への興味(といって何を読んだでもないんですけど)もそちら方面のことで、特に比や比例、数と量の関係がどんなふうに扱われているかを知りたいと思い、手をとったのです。

今のところは、そのあたりを読み込むまでにいかず、解説を読んで本文の最初の一章を読んだところで、MPがきれてしまいした。次にこの本に手を伸ばすのはいつになるかわからんので、印象をメモします。

  • 若い頃はアテネで学んだらしい。

なお、英語のWikipediaで見ると、これはCassiodorsの手紙が根拠でらしい。アテネ留学説に対してアレクサンドリア説やそもそも留学なんかしてない説もWikipediaでは書かれていました。割と重要なことだと思うので、いつか参考文献をよめたらよいな…と思っています。いずれにせよ、ますます希少になりつつあった高度なギリシャ語の能力は、彼の重要な武器でした。

  • ボエティウスの『算術』は、ニコマコス『算術』のラテン語化らしい。『幾何学』は残っていない。『天文学』は書かれたかどうか不明(計画はあったらしい、と別の何かで読んだ)。『音楽教程』の第二章まではニコマコスの失われた音楽理論書によるのでは、との推測もあるらしい。

なお、ニコマコスのこの本は、数論とか数列、平均(中項)など、「高尚な」話題が多く、『九章算術』などとはスコープがずれています。つまり、算術という分野の意味がちょっと違う。一方、より実際的な算術として、ロジスティクスという分野がありましたが、著作としてはのこっていません。

  • 数理科学に4つの分野をあげた。

すなわち算術、音楽、幾何、天文。『音楽教程』の最初の方にでてくる。後の中世の大学の自由7科には、これら4つの数理科学、があげられている。

なお、古代では数理科学的な学問としては、このほか上記のロジスティクスや、視学(幾何光学に似た幾何学的な視覚論)、機械学(ヘロン、パップスなど)などを上げることができます。

ボエティウスがこれらを主要な科目に上げていないのは、いくつかの可能性があると思いますが、多分、視学は幾何または天文に従属させ、残りは数理科学としては認めない。。。といった感じではと思います。

  • 第一章の最初に感覚についての簡単な記述。アリストテレス形而上学』第一巻の出だしを思わせる。視覚はすべての動物に備わっていること。視覚の理論が、形相の流入と視線の流出の2つにまとめられているのが印象的。

古代で流入説といえば、ほぼ原子論者のエイドロンの流入の理論ですが、一部のアリストテレス注釈者(アフロディシアスのアレクサンドロス、ピロポノス)はアリストテレス的な「色」の流入説です。また、古代の文献では、目からの流出の説が非常に優勢で、2つか3つくらいに分類されることが多い(アレクサンドロスとかは違うかもしれません)。よって史家の中には、それら説を「流出説」とまとめるのはアナクロニズムだという人もいます。このボエティウスのような二項分類は珍しいです。

まあ新ピタゴラス主義の影響かと…

  • 第二章は煩雑は比の議論。ボエティウス自身も章を閉じるにあたり「煩雑なのでこのへんで」と終わる。

「煩雑」の一端は、比率を扱う独特の数理も原因だと思います。なお、本解説で比の合成のことを「足し算」としています。これは、現代でいえば比の値の掛け算に相当しますが、そもそも古代のある時期までは、演算としてすら考えられていなかった操作です。このあたりのニュアンスがボエティウスで変わっているならば、適切な語法だと思います。

  • 第三章ではモノコード(一弦琴)の分割を扱う。プトレマイオスや(たぶん偽)ユークリッドに依拠。アリストクサネスの非数理的な議論には批判的。

図をみると、モノコードの弦を支えるコマが半円だが、これはプトレマイオスによる工夫です(水平に作成できていなくても比率が歪まない)。

  • ピタゴラスが鍛冶屋の前を通ったとき、槌の重さと音の高さの関係に気がついた」という例の逸話を中世欧州に広めた犯人はこの本。(最古の文献は、ニコマコスだっけ)

この解説では、「重さなんか関係ない、こういう根拠のない説を無批判に引用するから中世はだめなのだ」的なことを、かなり強い調子で書いています。

叩く力と振動の周波数の分布が本当に無関係かどうかは傍に置くとして、確かに、ピタゴラス学派の説は振動部の長さと音高の関係の説なので、このような逸話とは噛み合いません。また、中世は,やたらと古くからの言い伝えを繰り返す時代ではありますが、この解説のようにベーコンの「劇場のイドラ」と絡めて非合理性をなじるとなると、ちょっと行き過ぎではないかと思います。現代の科学の教科書でも、辻褄の合わない発見史を導入の枕にしたりします。

また、本解説ではボエティウスの継承に留まり続ける中世の音楽理論、特に比と比例の衒学的な議論に基づく正当化の不毛さを、これでもかと強調します。ここは非常に印象的で、学びが多かったなと感じる部分です。

しかしながら、近代以降の学問と中世の学問を対比するにあたって、F.ベーコン『新オルガノン』の帰納法を非常に重視し、それ意外の要素に全く触れていないのは、あまりバランスが取れているとはいえないと思うのです。近代科学の形成に関する様々な議論が、ほとんど無視されているような。

解説では、中世までのボエティウス的な理論と近代以降のラモーやダランベールの議論と比較されているのですが、この違いの原因も、帰納法の重視がとにかく強調されています。しかし、ダランベールもラモーも当時の最新の物理学のお世話になっており、そして物理学の発展は帰納法の重視だけでは説明できません。

それから、本解説で音律学が停滞していたとする時代、他の学問は(中世の前半を除くと)必ずしも停滞していません。停滞には、音律学そのものの特殊な事情があるのではないかと思います。

メモ:『雪華図説』以前のこと


土井利位『雪華図説』(1832年)が『北越図譜』に引用されたことが、雪華文の流行を引き起こした…という話を聞くので、この前後で雪華や雪輪文がどうかわったのか検索してみようかと思いました。昨晩、文化遺産オンライン*1で「雪華」を検索したところ、いきなり東京国立博物館蔵の『雪華文七宝鐔』がひっかかりました。

『雪華文七宝鐔』東京国立博物館https://webarchives.tnm.jp
『雪華文七宝鐔』の図柄はどこから来たか?

この紋様は、あきらかに雪の結晶の顕微鏡観察をベースにしています。『雪華図説』の影響の良い例…と思って年代を確認したところ、なんと文政11年(1828年。)。つまり、『雪華図説』より全然前です。まだまだ土井利位が『雪華図説』の元となるデータを集めている途中です。

あるいは『雪華図説』の出発点となった、J. F. Martinet"Katechismus der natuur" の第一巻(1777年)を参考にしたのでしょうか?

J. F. Martinet "Katechismus der natuur"

しかし、この書物に出ている雪の結晶図は、上に掲げたもので全てです。詩的なイマジネーションでふくらませたのかもしれませんが、若干足りない気がします。

『雪華図説』以前、公刊された雪の結晶の描画といえば、司馬江漢(1747-1818)の版画「雪花図」です。

司馬江漢銅版画 [雪花図]、京都大学付属博物館蔵https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013554

しかし、これにデカデカと書かれている、12および24の枝をもつパターンが『雪華文七宝鐔』にはありません。

何か未知の情報源を設定するのか、『雪華図説』の元となったスケッチが先行して一部回覧されていた可能性を考えるのか?あるいは、乏しい情報源から芸術家の想像力で補ったか?

司馬江漢の情報源は?

また、司馬江漢「雪花図」も中々興味深い一枚です。

  1. 十二や二十四など、六の倍数の枝が可能だとする
  2. 針状や柱状、不定形の結晶も描いている
  3. 「蘭書マルチネト」が情報源

1については、私は中国の伝統説から派生したのではと思います。前のブログで述べたように、このように「数」に着目した説明は、中国の伝統的な理論です。欧州ではどこかしら幾何的な要素が入ります。
gejikeiji.hatenablog.com

2について。この銅版画を江漢自らの観察記録か、とする説明をしばしば見るのですが、こういった「美的にはぱっとしないが自然科学的には重要」な観察は、自然科学的な深い問題意識が必要となると思います。江漢本人が観察したにせよ、やはりガイドとなる書物があったはず。

そこで3で指摘した「蘭書マルチネト」が注目されるのですが、上述の土井利位も依拠したJ. F. Martinet,"Katechismus der natuur"なのでしょうか?しかし、これには針状や不定形の図はありません。図だけでなく、テキストをGoogle翻訳で英語に直して読んだ範囲では*2、雪の結晶のバラエティーの多さ(400以上)と美しさへの賛美があるのみです。この書物からは、針状や不定形の観察をしようという動機は出てこないと思います。そもそも、江漢は欧州の言語を学術書を読解できるレベルで学んではおらず、蘭書を見たとしたら図版でしょう。

もう一つの候補として、

という旅行記があり、その中に雪の観察記録があるのです。(中谷宇吉郎は、最初こちらを土井利位の参考文献だと思ったようです。)

Spitzbergische oder groenlandische Reise Beschreibung gethan im Jahr 1671.

針状、不定形がこちらには載っています。しかし、こちらが日本に輸入されたという話は、今のところ聞きません。引用そのほか、間接的なアクセスが可能だったか、あるいは全然的外れか。

*1:https://bunka.nii.ac.jp/

*2:形状について言及している部分はオランダ語文もチェックしたので、大きな見落としはないと思います

六花と雪の結晶の贈り物

私が雪の結晶に興味をもったのは、高校受験の勉強をしていたときに、肉眼でも意外と見えるのだという短文を読んでからです。その年の冬はたまたま関東地方にも寒波がやってきて、受験の帰り道にマフラーについた雪片は、解けかけで透明にはなっていたけれども、しっかりと六つの枝が識別できました。

顕微鏡が要らないわけですから、雪の結晶の観察は前近代から始まっています。今も六角形の結晶を「六花型」といいますが、古くから中国では雪の結晶を花にたとえて「六花」「六出花」「六出」などと言っていたのです。一方、ヨーロッパではケプラー上着の裾に舞い降りた「星型」の雪の結晶を見て、友人に小冊子"Strena Seu De Nive Sexangula" (新年の贈り物: 六角形の雪について)を献呈することを思いつきます。日本においては、幕末の土井利位『雪華図説』がこの方面の草分けであり、また一流の物理学者で啓蒙家でもあった中谷宇吉郎の著作を通じて、雪の結晶はポピュラーな科学のトピックとなりました。私も高校生時代に中谷宇吉郎『雪』(岩波新書)を古書で購入した記憶があります(長らく積んだままでしたが)。

今回は、このあたりの経緯を主に中国科学史の巨人ニーダムらによる1961年の論文に依拠して書いてみたいと思います。この論文が書かれたのは中谷の死の少し前で、彼の”Snow Crystals, Natural and Artificial”も引用されています。
https://doi.org/10.1002/j.1477-8696.1961.tb02589.x

雪の結晶

まず、雪の結晶について基本的な事実を確認しておきます。

  1. 雪の結晶には様々な形状がある。柱状や針状、乱れた方向に枝がのびるもの、全くの不定形など。
  2. どの形状になるかは気温や湿度に依存する(中谷宇吉郎の「中谷ダイヤグラム」)。
  3. 肉眼で形状が確認できるほど結晶が育つとは限らない。
  4. 破損したり解けたりしやすい

よって、気象条件に恵まれた地域れあっても、対称性が明らかでなかったり、崩れたりしている雪片の方が多いのです。このように「雑音」の方が多い観察例から六方晶系を抜き出し、本質を指し示す典型例とするためには、多少なりとも自然の規則性への信頼が必要になると思います。ところが近代前半までの物質理論は大層お粗末で、「正しい理論」を提供することはできませんでした。つまり、雪の結晶の対称性は誤った思い込みに導かれて発見され、事後的な観察の積み重ねで理解が固まっていったのです。

私は計画的な観察はしたことはないのですが、機会が有れば袖に雪を集めては目を凝らしています。しかし、図鑑にあるような立派なものは、大寒波の到来でもなければ、関東地方ではまず見かけません*1。カナダの内陸部や米国の東北部は随分と寒くなりますが、それでもそんなに綺麗な結晶が見れた訳ではありません。肉眼での観察は可能とはいえ,その気になって待ち構えないと見逃してしまうと思います。高校時代、自分の肉眼の観察を話しても信じてもらえず、クラス全体から笑われたこともあります。

近代初めまでの西方

ニーダムらによると、古代のヨーロッパでは「かなり丁寧な調査にもかかわらず」、観察の記述は見つかっていないようです*2。ただし古代人が雪に関心がなかったわけではなくて、アリストテレス的な気象論には雲や雨を含めた包括的な理論があります。

中世になると、ギリシャ系の学問はアラビアで発展します。「知恵の館」の中心人物のキンディー(9世紀)はアリストテレス的な気象論を論じ、占星術による予報もしました。Lettnickzによると雪片の形成の過程にも興味をもって、若干のコメントを残しているそうです。

These snowflakes have an elongated form because the wind freezes them together. This kind of snow is called zamharīr. (Lettnickz, p.110)*3

とりあえず形状の観察はしているのですが、単に長いという以上は(少なくともLettnick氏の紹介では)語っていないです。針状の結晶のことを指しているのでしょうか。また、イブン・シーナーの系譜を引く哲学者Abū l-Barakāt al-Baghdādī(12世紀)は、雹を球形としていて、これは多くの雪がくっついて丸くなったのだとしています(p.114)。私は当初、古代に雪の結晶の観察が無い理由を気象条件のせいかとも考えたのですが、これらバグダット近辺で活躍した学者の仕事を考えると、それだけではなさそうです。

12世紀以降、ギリシア・アラビア系の学問がヨーロッパに流入します。キンディーらの占星術的な気象学も紹介されました。ニーダムらによると、アリストテレス的な学問の導入に熱心であったアルベルトゥス・マグヌス(13世紀中ごろのスコラ学者)が雪の結晶の最初の観察者らしく、アリストテレス『気象論』第一巻への注釈の記述が紹介されています。

アルベルトゥスは雪の結晶は星型(stella figurae)で、そのような規則的な形状は2月と3月にのみ観察されると考えていたようだ。

「星形」という言葉は、現代でも欧州では雪の結晶の形状を指して使われています。ただし、アルベルトゥス自身によるこの言葉のパラフレーズは無さそうです。なお、「2月と3月にのみ」の部分は妥当かどうかは分からないのですが、冒頭述べたように、綺麗な結晶はいつでも観察できるわけではありません。

いずれにせよ、アルベルトゥスの手短な記述は歴史的には孤立していて、次なる雪の結晶への言及は、オラウス・マグヌス『北方民族誌』(16世紀中ごろ)になります。本書は短い一章を割いて雪片の形状を論じており、下に掲げる挿絵は当時広く参照されたようです。あまり実際の雪の形状に近くはないものの、様々な形状があることは的確に表現されていますし、ひとつだけ星形が混じっています。

オラウス・マグヌス『北方民族誌』(16世紀中ごろ)
ケプラー問題

結局、ニーダムらは最初の規則性の明瞭な認識をヨハネス・ケプラーの小冊子"Strena Seu De Nive Sexangula" (新年の贈り物: 六角形の雪について)*4に帰しています。

ケプラーが友人のWacker von Wackenfels*5への贈り物に迷んでいるある日、たまたま雪片がコートに舞い降ります。六角形で羽毛のような突起を伴う雪片を目にした彼は、これこそが数学者からの贈り物としてふさわしいと決めます。

この洒落た導入のあと、彼は蜂の巣など自然界の規則的なパターンに思いを馳せた後、雪の結晶の形状を説明するため、水の粒子の配置を考察します。その際に現れる球状の粒子の詰め込み問題が、かの有名な「ケプラー予想」のネタ元です。つまり、一番かっちりと詰め込まれる配置に粒子が並んだ結果、六角形になるのだというわけです。
Kepler conjecture - Wikipedia

球体の詰め込みの考察

このように、本冊子では「六角形の理由」は考察しますが、「六角形であること」を納得させようと努力している箇所はなく、むしろ前提となっています。この頃の北西ヨーロッパでは、この事実は(ある程度)既知だったのでしょう。

ただし、実際の雪の結晶のすべてが「六角形で羽毛のような突起を伴う」わけではありません。彼は「最初に落ちてきた時には」と留保をつけているので、それ以外は乱れた結果だと考えていたのでしょう。しかし、彼はそれ裏付ける組織的な観察結果を提示していません。形状の記述もあっさりとしており、図もありません。つまり自然科学の基礎であるところの、観察の整理や記述の部分がかなり甘いのです。理論に関しても、アイデアの煌めきは感じるものの、当時の物理学の状況では多くを期待できるはずがありません。

つまりケプラーは、幾何学的な秩序への盲目的な信頼を梃子に、雪の結晶の真実にたまたま接近したわけです。ただすでに述べたように、こういった思い込みは、この段階にあっては不可欠だったと思います。また、すぐあとに続いた17世紀欧州の一連の研究によって、ケプラーの観察の弱点はかなりの程度補われました。

中国での最初の言及

ここで話を中国に移します。南北朝時代の『宋書』によると*6

大明五年(461年)の正月元日、宮廷から下がった右兵衛将軍·謝莊の衣に花雪が舞い降りたので、戻って報告したところ、帝はそれを瑞祥とし、皆で花雪詩を詠んだ。(『宋書』符瑞下*7*8

撰者の沈約は続いて『詩経』の文言の訓古学的な考察を加え、最後に

草木花多五出,花雪獨六出。(草木の花が五枚の花弁を持つが、花雪は六枚)

と結びます。このように、伝統的に中国では雪を植物の花と同列に見て、植物の花の花弁の数を五、雪は六だとしました。そして、「六出」は雪片の形状の別称のようにもなっていました。

この伝統的な説の起源をニーダムらは紀元前2世紀の『韓詩外伝』の断片

凡草木花多五出,雪花獨六出,雪花曰霙。

に求めます。上で引用した『宋書』符瑞志の文とほぼ同一で、またずっと古いです。この断片の初出は『芸文類聚』天部下・雪(唐の初期)で*9、以来、『韓詩外伝』の一節として認知され続け、今日でもそれで通っています。ただ、最近の論文Kink2022でも同様ですが、現行の十巻本には含まれていないなど、若干の不安要素も指摘されています*10

真正性に関する小さな疑問もさることながら、私がより気にするのは、『韓詩外伝』の一節が(アルベルトゥスの記述と同様)時代的に孤立していることです。書籍の残存の比率の問題もあるのでしょうが、「六出」の用例がある程度の頻度残っているのは、やはり南北朝時代以降です。(具体的な例については、付録を参照してください。なお、南北朝時代まで下げたとしても、圧倒的に世界最古です。)

ニーダムらはこの「草木花多五出,雪花獨六出」を素晴らしい観察だとほめたたえるのですが、Kink 2022は五行説の役割を指摘します。つまり、「五」は五行の「土」に、「六」は「水」に対応するからです。ここで前者の対応は「生数」、後者は「成数」です*11。冒頭に述べたように、思い込みをもって臨むことと観察による帰納は矛盾せず、むしろ相補的なものです。私が思うに、仮に「水の成数」が六でなくても、数字をいじって説明を捻りだしたのではないでしょうか。数秘術的な思考のポイントは、「ある現象にある定まった数が対応する」という信念だと思うので。

この説をケプラーの説明と比較すると、幾何的なイメージが著しく弱く、「数」だけで議論が閉じています。そもそも「六出」という記述にしてから、「出」の数しか語っていないのです。また、ケプラーは雪を無機物として扱っているのですが、中国では草木の花と同列に見て「雪花」などと称しいます。

性理学と博物学

既に述べたように、南北朝以降、「六出」の用例はある程度の頻度見られるようになります。しかし、宋に入るまでは文学的な表現にとどまっています。しかしニーダムらの論文によると、12世紀後半(つまりアルベルトゥスより一世紀弱前)南宋の性理学者の朱熹朱子)は雪片の形状の原因について、壮大な自然哲学に裏打ちされた論考を残しています。以下に『朱氏語類』の該当部分を山田1963, p.231の訳文で引用します。

雪の花が必ず六弁になるゆえんは、おそらく霰がおちるとき強い 風に打ち開かれるから、六弁をつくる(成六出)だけだ。たとえば、ひとがどろどろの泥団子を地面に投げると泥はは必ずまわりへ 走って稜弁をつくる。六は陰の教でもあり、大陰玄精石も六稜である。おそらく天地自然の教であろう*12

「大陰玄精石」とは硫化カルシウムの六方晶系だそうです。また、「六」の由来として、「陰数」(すなわち偶数)だという根拠を付け加えています。陰陽説的な言明に加えて、「霰がおちるとき強い風に打ち開かれる」というように、「機械論的な」イメージが加わっているのが特徴だと思います。

山田論文によると、朱熹は雲、雨、雹や霰などを含んだ理論を展開しており、雹や霰の適切な観察結果も述べているとのことです*13

硫化カルシウムの六方晶系

朱熹の観察眼は鋭く、現象を説明する手腕も見事ですが、一方で「大雪が豐年の兆し」「龍は雨を降らせる」といった説にも理論的な根拠を与えてしまっています。思うに、彼の理論は何でも説明できる代わりに、「xxは不可能」という言明を導きにくい構造になっているのではないでしょうか。

ニーダムらは、朱熹のこの説明が後々までも継承されたとして、明初の王逵『蠡海集』を引用しています。この書は天文、地理、人身、庶物、曆數、氣候、鬼神、事義の章を立て、「究理」の立場から論じています*14

雪為陰之極、全得水之成數、雪花毎每皆六出。雪者雨露之凝結。…*15

こういった性理学的な文献だけでなく、博物学的な関心から雪に触れている著作も残されています。特にニーダムらは、本草学の集大成、明の李時珍『本草綱目』の雪や雹の記述を引用しています。

時珍曰︰按劉熙《釋名》云︰雪,洗也。洗除瘴癘蟲蝗也。凡花五出,雪花六出,陰之成數也

時珍曰︰程子云︰雹者陰陽相搏之氣,蓋氣也。或云︰雹者,炮也,中物如炮也。曾子云︰陽之專氣為雹,陰之專氣為霰。陸農師云︰陰包陽為雹,陽包陰為霰。雪六出而成花,雹三出而成實。陰陽之辨也。…

ここでも、雲、雨、霰、雹、雪などを含めた総合的な説明が展開されています。程子は北宋の性理学者(兄弟なので、二程などとも)です。曾子孔子の弟子ですが、この部分は『大戴礼記』(前漢)に残る遺文です*16。「陸農師」は、北宋の陸佃のことで、引用文は彼の『埤雅』からとられています。(ニーダムらはこの引用元の同定に失敗しています。)

『埤雅』は、いわゆる名物学の書です。宋代の名物学は、経学の枠内で展開した博物学の如き趣きがありました*17経書に出現する文物の名称を、観察や聞き取りを含めた実証的な態度で考察するのです。文献調査においても、本草書も大いに参考にしていました。壮麗な性理学の展開を横目に見ながら、具体的な事物に集中する学問もたいそう盛んだったわけです*18。『埤雅』に寄せられた序文によると、著者の陸佃は農夫や工匠から広く聞き取り、風聞は自ら試してから記録したとのこと。ただし、雪などに関していうとそこまで独自の観察眼を発揮したとはいえなさそうです。『埤雅』の「雪」の項目には

雪六出而成華,言凡草木華五出,雪華獨六出,隂之成數也。

と雪の形状を数秘術的に解釈し、「雹」の項目では雹や霰を含んでより包括的に

陽散隂為霰、隂包陽為雹。曽子曰「陽之專氣為雹、隂之專氣為霰」是也*19。申豐以為、古者藏冰固隂、沍寒而無雹、蓋陽無所洩雹之所以生也*20。雹形今似半珠、其粒皆三出。蓋雪六出而成華、雹三出而成實。此隂陽之辨也。

とあります(太字部分が本草綱目に引用)。雹と雪の形状の違いが「蓋雪六出而成華、雹三出而成實。此隂陽之辨也。」と陰陽説的な数秘術で説明されていて、同時代の性理学の説との関係が気になるところです。なお、『埤雅』は北宋ですから朱熹の前の段階です。

博物学的な学問の進展とともに、「草木は五出、雪は六出」というテーゼも吟味にさらされるようになります。ニーダムらによると、『酉陽雑俎』(唐、段成式)で梔子が六出だと指摘されています。

クチナシ。花びらが六枚ある。

また明の時代の唐錦『龍江夢餘錄』の一節では、まず伝統的な説を述べた後、

然至春則雪皆五出。(しかし、春になると五つの突起になる)。

とし、

豈春雪獨非水所結耶。恐未為定論也。

と、春の雪が「水所結」であるかどうか疑問を提出しています*21。雪の結晶は暖かくなると溶けたり崩れたりしますから、枝が一つ落ちることはあるようです。

この異論はかなり有名だったようで、同時代の郎瑛『七修類稿』でも批判的に取り上げられています*22。ただし、批判のポイントは理論の部分で、彼の説明は

至春則陽和矣,一時雖寒而成雪, 非至盛之時,故散碎而不見其形質耳,亦不特五出也。

つまり春は陽の気の影響で「散碎而不見其形質」であるだけだ、と。五出のあること自体は否定していません*23。後に明末の謝肇淛『五雑俎』では、複数年にわたる観察を議論のベースに置きます。

至後雪花五出,此相沿之言。然余每冬春之交,取雪花視之,皆六出;其五出者,十不能一二也,乃知古語亦不盡然。(『五雑俎』天部ニ)

「少数の五出はあったが、春になると常に五出であるとは言えない」とのこと。まあ、妥当な観察だと思います。

結局は伝統的な説の容認ですし、陰陽の自然学も健在です。また、「五か六か」と相変わらず数だけを論じて、形状の話に向かいません。「散碎而不見其形質」と書いているのだから、「五出」が乱れた形状だった事くらいはわかっていたと思います。しかし、形状の問題を議論の中心に持ってくることはなかかったようです。

ただ,この「春の五出」の問題を巡る論議を見ると、より徹底した観察によって認識の精度は上がっていることがわかります。また、伝統説を無批判に飲み込んでいるのではなく、吟味に晒していることも注意すべきだと思います*24

イエズス会の影響

謝肇淛の少し後、イエズス会が西洋の科学革命初期の知識をたずさえて中国にやってきます。このとき、ケプラーイエズス会に情報提供で協力している*25のですが、彼の雪の六角形の説明も伝わったようです。イエズス会士ウルシスと徐光啓の水利技術書『泰西水法』の巻五に、雨、霰、雪の生成について扱っており、さらに「雪花はなぜ六出なのか」という問いに

方體相等,聚成大方,必以八圍一。圓體相等,聚成大圓,必以六圍一。此定理中之定数也。

「同じ大きさの正方形が集まって大きな正方形を作るときは、8つの正方形で一つの正方形を取り囲む。同様に、円の場合はかならず六つの円で一つの円を囲む。」

ケプラーの少し後のThomae Bartholini, De nivis usu medico observationes variae (1661)の図解。 https://archive.org/details/bub_gb_A4E54uRxx4MC/page/n23/mode/2up

この時代に生きた方以智という学者がいます。彼はイエズス会士とも交流があり、ヨーロッパ流の自然学を伝統的な陰陽五行説の中に大胆に取り入れ、『物理小識』という自然学書を著わしました。この書物は原理原則から説き起こし、天体、気象、生物、と森羅万象を説明します。『泰西水法』の影響は顕著ですが、特に雪の六角形の説明は全く同じです。

雪花六出者、圜一圍六同體相依。(『物理小識』、風雷雨暘類、霜雪*26

数秘術的な議論からの縛がなくなったせいか、「春は五出」という話は「気候が緩んだから少し変形」という形で肯定されます*27

方以智には『物理小識』の前に『通雅』という名物学的な著作もあって、「雪花六出。朱子曰一六之數也。」(『通雅』釈天)と述べています。これは。伝統的な「成数」による説明のように見えます。『物理小識』ではこれが破棄されたと思って良いのか気になるところです。

いずれにせよ、清朝ではその後、徐々にこの伝統説が強くなってきて『康熙字典』の雪の項目も『埤雅』を引用しています*28。欧州からの伝来説に十分な説得力がなかったことは一つの原因だとは思いますが、保守主義的な傾向も感じます。

ケプラー以降、17ー18世紀

では、同じ時代、つまりケプラーの時代の欧州はどうなったのでしょう?……というレトリックでニーダムらは話を西方にに戻し、デカルトやロバート・フックら、17世紀の観察を紹介します。

デカルト『気象論』

数学者・哲学者のデカルトの観察は意外にも秀逸で、ケプラーの素朴な描写からは大きな進歩です。数種類の雪片を観察された状況の説明付きて図示しています。ZやMは怪しげですが、OやQに変化するのだそうで、生成途中の仮想的な状態なのだと思います。

デカルトの壮大で臆説に満ちた自然学はあまりにも有名ですが、雪や雹の生成のプロセスについても、あたかも見てきたかのように詳しく生き生きとしています。当然いろいろと間違っているのですが、こういった思索が、結晶の形状と気象条件を関連させる観察を促したのも事実だと思います。

六方晶系であることの説明は、ケプラーに似ています。つまり、平面上に粒子がならび、ある粒子の周りを6つの粒子が取り囲む配置を考えています。多分、ケプラーの著作を見ているのではないでしょうか*29

次にロバート・フックの顕微鏡観察誌『ミクログラフィア』。デカルトがこの問題をアリストテレス以来の気象論のトピックとして論じたのに対し、彼は物質の幾何的な構造の一例として扱っています。しかも、「水の氷結物」という章を設けてその一節で論じているのです。非常にシステマティックです。

フック『ミクログラフィア』。Fig 2 と3が雪。

これらの図を見ると、雪の結晶の多様性と通底する規則性への認識を感じ取ることができると思います。フックは「結晶によって枝の形は様々だが、一つの結晶では六本とも同じ形だ」と見事に指摘しています。さらに、「顕微鏡で細部を観察すると、興味深さの程度が減る、なぜなら細かな不規則なパターンが見えるから。これらは降雪途中で乱されて生じたのだろう」として、規則性への強い信念を感じます。(なお、彼が「不規則」だと考えた細かな枝分かれは、現代からみるとフラクタル的な規則の現れです。)。

彼ら以外にも17世紀にはいくつかの発見がありますが、次の18世紀はほとんどなんの進展もなく、19世紀を迎えます。

19世紀、ヨーロッパと日本

19世紀、ヨーロッパの雪の結晶の研究は活気を取り戻し、正確な顕微鏡観察に基づく精巧な図説が出回り、結晶の分類も進みます。

このあたりからニーダムらは筆を再び極東に、しかし今回は日本に向けます。もちろん、お目当ては土井利位『雪華図説』です。

土井利位『雪華図説』

世界的な雪の結晶の研究者であった中谷宇吉郎が啓蒙書で大きくとりあげたこともあって、非常によく知られていると思います。

この顕微鏡観察による雪の分類の研究は、明らかに蘭学の系引いています。ですが、もともと日本は中国文化圏ですから、「六出」「六出花」「六花」などの文言は、当然入ってきてます。試みに検索したら、武田信玄の「寄濃州僧」という漢詩が引っかかりました;

気似岐陽九月寒 三冬六出洒朱欄 …

ただ、「六出」という言葉は結晶の形状とは理解されず、花と雪のイメージを重ねるレトリックとして用いられたようです。例えば、伝統的な雪の表象の「雪輪」は環状の輪郭で、花弁のような刻みがありますが、その数も6とは限りません。例えば下記のリンクの写真や解説、鈴木1997の解説が参考になると思いますが、「「六花」「六出」という言葉は雪片の形状を意識して用いたのではない」という理解が一般的のようです。
学芸の小部屋 -戸栗美術館-

そもそも、『雪華図説』の顕微鏡図を引用した鈴木牧之『北越雪譜』ですら、

肉眼のおよばざる至微物ゆゑ、昨日の雪も今日の雪も一望の白糢糊を為なすのみ。

図書カード:北越雪譜
と記しています。もしも著者が「六出花」を肉眼で観察したことがあれば、また別のいい方をしたと思います。なお、『北越雪譜』の著者の鈴木牧之は雪国の越後の人で、江戸と往復しながら商売をしており、雪は馴染みの存在だったはずです。その人物の観察経験がこの程度のなのだから、あとは推して知るべしだと思います。

ただ、朱子学本草学を深く学んだ人が、文献中の「六出」の意味を取り損ねるとは思えないので、一部に理解している人はいたでしょう。前の節で取り上げた『本草綱目』は江戸時代の初めに林羅山によって紹介され、江戸期の本草学の成立に決定的な影響がありました。もちろん、雪に関する項目がどのくらい読まれかは定かではありませんが…

このあと、18世紀にはいると、西欧の知識を記した中国の書物の輸入が大幅に緩められまました。このときに入ってきた游藝『天経或問』は、天文学の入門書として広く読まれましたが、自然学的な内容も含みます。先に触れた方以智も序文をよせており、彼の説も大いに取り入れられているそうです*30。雪の六角形については、『泰西水法』『物理小識』と同様の説明がついており、上で引用した文言がそっくり繰り返されます。

こう言った「イエズス会→中国人による咀嚼→日本」という経路のほか、蘭学による西洋から直接の知識の輸入がありました。『雪華図説』の直接的な契機になったのはオランダ人マルチネット(J. F. Martinet, 1729-1795)の『格致問答』(Katechismus der natuur, vol 1, 1777)だそうで、ここからいくつかの図を引用しています。本書の影印が以下のリンクで読めます。
v.1 (1777) - Katechismus der natuur - Biodiversity Heritage Library
以下のリンク先の『格致問答』についての解説は、分かりやすかったです。
https://www.literatuurgeschiedenis.org/teksten/katechismus-der-natuur-en-kleine-katechismus-der-natuur-voor-kinderen

Katechismus der natuur Dl. 1

本書は問答形式で、自然界全般のことをわかり易く紹介した啓蒙書で、全四巻。雪の件は第一巻にあります。翻訳ツールで雪の結晶図の直前を少し見てみたのですが、顕微鏡観察の具体的な方法や、注意すべき点が書かれていました。この記述と輸入した複式顕微鏡を活用した成果が、『雪華図説』です。ニーダムらもKink2022も、同図説のスケッチの正確さを認めています。一見様式化され過ぎているようにも見えますが、「肉眼の解像力を限界まで酷使する分野では、細部の様式化はむしろ不可避」でした*31。ニーダムらは、一見精緻に見えてもデフォルメの多いJames Glaisher(1855)のスケッチと比較して、土井の図に一定の評価を与えています。Kink2022は、(土井が参考にした文献と比較して)考察面でも一歩進んでおり、先人の引用ではない独自の観察である点を高く評価しています。

一方で、鈴木1997では、ほぼ同時代のWilliam Scoresbyの多面的な研究と比較して、サイズや気象データの記録がない、立体構造に無関心であるなど、かなり見劣りがすると指摘しています*32。そもそも、土井が参考にしたKatechismus der natuurは啓蒙書に過ぎません。雪の形状の美しさやバラエティについては述べても、それ以上深い問題意識は提示されていないのです。そのような書物から出発した『雪華図説』には、それ相応の限界があったというわけです。ただし、Scoresbyの研究は欧州に於いても画期的だったことは注記しておきたいと思います。

なお、『雪華図説』の雪の結晶の形成の理論は『泰西水法』〜『天経或問』の説明を踏襲しています。上に引用した「凡物、方體相等,聚成大方,必以八圍一。圓體相等,聚成大圓,必以六圍一。此定理中之定数也。」という文言がそっくり『雪華図説』でも繰り返されており、影響関係はあきらかです*33

『雪華図説』の一節。雪の結晶の形状の原因を説明している部分。

中国系統の文献の影響は、「春の雪は五出か」という疑問に言及していることからも、明らかだと思います。なお土井利位は上述の理屈から、この疑問を不当としています。そして、彼は伝統的な数秘術による「陰数」や「成数」を用いた説明に言及していないことも重要なポイントで、つまり、『泰西水法』〜『天経或問』の説に非常に忠実なわけです。一方、通俗版ともいえる『北越雪譜』による解説では、『雪華図説』の説と中国の古代からの「陰数」を用いた説を並べて記述しています。

当然のことではありますが、『雪華図説』が欧米に知られることはなく、また明治以降の西洋科学にも直接はつながっていません。中谷宇吉郎が興味をのも、雪の研究を始めたあとです。ただし、紋様などデザインの分野ではちょっとしたブームを引き起こしたようで、間接的に日本人の科学に対する態度に影響を与えているかもしれません。

結論に替えて

この論文には、ニーダムの科学史観が強く反映されていると思います。彼曰く、各々の文化圏での科学的な探求は、どこかの時点で一つのユニバーサルな科学に流れ込むのだそうです。今回読んだ論文でも、時間の順序にしたがいつつ、東西の間を行き来しながら叙述を進めて行きます*34

これに対して、近年は明末以降アヘン戦争まで続いた、欧州の科学の現地化が強調されます。方以智などに代表されるこの動きを肯定的に捉えている研究者が多くいる中、Kink2022は行き止まりの袋小路だと否定的な見解を述べています。例えば、『康煕字典』では雪の形成の理論が『埤雅』の伝統的な説明に回帰しているなどの「保守化」がみられることを指摘します。Kink2022はニーダムと同様に『雪華図説』を高く評価していますが、これは中国における科学の現地化を叩くための前振りです。つまり、そのまま受容したほうが良い成果が出ているではないか、というわけです。(確かに清朝では独自の雪の顕微鏡観察記録は作られていません。)

しかしながら、江戸時代の日本に西洋の科学が浸透するにあたっては、この中国化が大きな役割を果たしています。『雪華図説』でも雪の結晶を「六出」と述べるなど、中国的な語彙を用い、中国化された西洋説の影響を大きく受けています。これは、『雪華図説』を含む日本的な博物学全般、さらには天文学や数学においても同様です。異質の学問体系の導入にあたって、既存の学問体系とのすり合わせが無駄であるはずがないのです。

一方で、ある時点以降、清朝の科学は停滞期を迎えているように見えます。要は、それを中国化した上での消化という方法論のせいにして良いのかどうかだと思います。

付録:南北朝時代とそれ以降の「六出」の用例

ニーダムらは南朝梁の昭明太子・蕭統の著作として伝わる『錦帯書十二月啟』*35*36

彤雲*37垂四面之葉,玉雪開六出之花。

を引用しています。これが蕭統の真作であるかどうか現在定見は無いようですが(ニーダムらは疑った形跡はありません)、唐以前であることは確定しているようです*38

この他に私の探索した二例を掲げておきます。まず、陳の張正見の五言八句「應衡陽王教詠雪」*39の出だしは

九冬飄逺雪 六出表豐年 …

つまり「六出は豊作の兆しだ」というのですが、この「六出」は前後関係から明らかに雪を指します。*40

また、Lu, 2015, p. 311は梁出身で西魏北周に仕えた庾信(Yu Xin)の「郊行值雪」*41

…雪花開六出 氷珠映九光 …

を雪の結晶の形状の認識の証拠とし、さらに「映九光」を光の屈折によるスペクトルの表現だとしています。

下って唐や宋、元の例は検索するとかなりあります。例えばランダムにあげると、

六出飛花處處飄 ... (章孝標(791-873)《春雪詩》、『唐摭言』(唐末~五代初の詩集))

などが挙げられます*42

参考文献

*1:記録的な大寒波が到来した年には、全く崩れていない美しい結晶が観察できました

*2:参考文献にあげたLettnickの著作は表題は古代後期と末期の注釈家たちも扱っているのですが、やはり目ぼしい記載は見当たりません。

*3:出典として、Rasâ'il al-Kindi al-falsafiyya, ed. M. Abü Rida, 2 vols, Cairo 1950, 1953.の第二巻pp.80-85が引用されています。これはキンディーの複数の著作を二巻にまとめて出版したもので、タイトルは編集者のM. Abü Rida による。

*4:ラテン語テキストや英訳をarchive.orgで見ることが出来ます。邦訳は、ヨハネス・ケプラー (榎本恵美子・訳) 「新年の贈り物あるいは六角形の雪について」 『知の考古学』、第11号、1977年、276-296頁

*5:https://en.wikipedia.org/wiki/Wacker_von_Wackenfels

*6:これはニーダムらは引用していません。

*7:「大明五年正月戊午元日,花雪降殿庭。時右衛將軍謝莊下殿,雪集衣。還白,上以為瑞。於是公卿並作花雪詩。」

*8:なお、『太平御覧』時序部·元日に引用されている『宋書』は「孝武帝大明五年正月旦雪,江夏王義恭以衣承雪,作六出花,進以為瑞,帝大悅。」となっており、衣の雪を報じたのは江夏王の劉義恭だとなっています。以降、これを踏襲した記述が相次ぎます。『資治通鑑』宋紀十一大明五年の「春正月戊午朔朝賀朝直遥翻雪落太宰義恭衣有六出。義恭奏以為瑞上悦。義恭、以上猜暴懼不自容、每卑辭遜色曲意祗奉。由是終上之世、得免於禍」、また『類説』六出花、朱熹資治通鑑綱目』も同様。明の類書『山堂肆考』では『宋書』と『資治通鑑綱目』の違いを指摘しています。江夏王・義恭(劉義恭)は皇族で重鎮でしたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E7%BE%A9%E6%81%AD。しかし疑り深い孝文帝を持ち上げるために何かと気を使ったことが、『南史』の伝に出ています。

*9:『初学記』天部下·雪(盛唐),『太平御覧』天部十二・雪(宋の初期)などにも残っており、ニーダムらは『太平御覧』を引用。

*10:例えば『四庫提要』では両方の可能性を並置しています。西村,1963, pp.2-5を参照。『韓詩外伝』は各々の章段の独立性が高く、非常に多くの異本の存在が推測されるとのこと。漢書芸文志によると韓詩外伝は六巻だが、隋書経籍志以降は十巻。また、各種文献に残る遺文には趣旨は同じでも長短のばらつきがある。

*11:「生数」「成数」がいつからある概念かは知らないのですが、水~土に1~5、あるいは6~10を対応させる説は前漢以前からあったようです(平澤,2014, 第一章。)。

*12:雪花所以必六出者,蓋只是霰下,被猛風拍開,故成六出。如人擲一團爛泥於地,泥必灒開成稜瓣也。又,六者陰數,大陰玄精石亦六稜,蓋天地自然之數。(『朱子語類理気下・天地下)

*13:ただ、これを19世紀のレイノルズの観察と比較するのはいかがなものかと思います。例えば、デカルト『気象学』でも、雹や霰の中には球を八分割した形のものがある、と述べられていて、尖った形状であることは、もう少し早くから観察されていました。

*14:分天文地理人身庶物曆數氣候鬼神事義八門。皆卽數究理。推求天地人物之所以然。(四庫提要)

*15:早稲田大学所蔵の江戸時代の和刻本。https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i05/i05_01217/index.html

*16:真正として受け入れる場合が多いようです。末永高康「『曾子』初探 : 『大戴礼記曾子立事篇を中心にして」『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編』第58巻、2007年

*17:名物学については、辜承堯, 2018, 青木正児の名物学研究とその評価について: 関西大学東西学術研究所, A227–A248 https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/2084。また、澁澤尙、羅願爾雅翼考、立命館文學 538-560, 2019-12、原田信 陸佃の『禮象』について--出土彝器收録の意圖、中国文学研究,巻36, 60-73, 2010年12月 http://ci.nii.ac.jp/naid/120005300959 の本論に入る前の概説部分を参考にしました。また、西村三郎、文明のなかの博物学:西欧と日本(上) 1999年08月31日, 紀伊國屋書店、第三章。なお、清の時代に入ると、名物学は考証学的な色彩を強めるのだそうです。

*18:南宋の鄭樵『通志』昆蟲草木略の自序では、「學者操窮理盡性之說,以虛無為宗,實學置而不問」と性理学に傾きがちな当時の学風を批判しています。

*19:『大戴禮記』曾子天圓にこの文句があります。「陰陽之氣,各從其所,則靜矣;偏則風,俱則雷,交則電,亂則霧,和則雨;陽氣勝,則散為雨露;陰氣勝,則凝為霜雪;陽之專氣為雹,陰之專氣為霰,霰雹者,一氣之化也。」

*20:『春秋左伝』昭公四年春「大雨雹,季武子問於申豐曰,雹可禦乎,對曰,聖人在上,無雹,雖有不為災,古者日在北陸,而藏冰西陸,朝覿而出之,其藏冰也,深山窮谷,固陰沍寒,於是乎取之」が念頭にあると思われます。ここで「申豐」は人名で、季武子の家臣。

*21:訳文をつけれていないのは、私の読解力が足りないからです。Kink2022 sec.2の脚注に英訳があるのですが、幾つか腑に落ちない点があるので、このままにしておきます。まず、この疑問の程度のニュアンス。それから「水所結」をconnected to warter と翻訳していること。

*22:Kink 2022 sec.2. 「雪花六出,先儒以雪為水結,地六為水,故六出也。雲間唐龍江以為春雪五出,豈非水所結耶?勿得其義。不知水乃陰物,陰盛極寒,則成雪也,地六為水之說非謬;至春則陽和矣,一時雖寒而成雪, 非至盛之時,故散碎而不見其形質耳,亦不特五出也。」(『七修類稿』巻ニ天地類)

*23:この点、Kink2022の本記述への言及は批判的な側面のみを語っていて、一面的すぎると思います

*24:Kink2022, Sec.2の終わり

*25:ガリレオは協力要請を断っています

*26:https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_c0124/index.html

*27:春五出。以煖而稍化耳。(上記の文への割注)

*28:Kink2022

*29:この件についてではないのですが、ライプニッツデカルトケプラーを引用せずに参考にしているのでは、と疑っています。

*30:Kink2022 及び、吉田忠『天経或問』の受容、科学史研究、II, 24, 1985

*31:鈴木1997

*32:鈴木1997 pp. 46-52

*33:Kink2022, sec. 6. 鈴木1997では同時代の欧州の文献の影響を考えているのですが、Kinkの指摘の方が適切だと思います。

*34:このような歴史観に基づいて、ニーダムの『中国の科学と文明』の天文学史部分では、イエズス会の西洋天文学導入にかなりのページを割いています。だだし、彼は科学の紹介をキリスト教布教の手段と位置づけたイエズス会の方針にかなり批判的です。このせいで科学のユニバーサルな性質が歪められ、アリストテレス的な天球理論が紹介され、地動説が伝わらず、また中国側の長所にも気が付かなかったと。

*35:昭明太子・蕭統は『文選』の編纂で知られる

*36: 単に『錦帯書』とも。清の嚴可均 『全上古三代秦漢三國六朝文』全梁文十九や元末明初の『説郛(せっぷ)』正七十六に収録。昭明太子・蕭統は『文選』の撰者でもあります。『錦帯書』は書儀あるいは月儀、すなわち六朝〜唐の頃に盛んに出された書翰の文例集の一つ。「では、書儀とは如何なるものか。周一良『書儀源流考』 によると「いわゆる書儀とは、つま り手紙の書き方・範本で、人々が模倣・援用すること。」と定義されている。」(祁小春『唐代書儀と王羲之尺牘との関係について』関西大学東西学術研究所紀要50, 2017年4月) 書儀と月儀の違いは題目の選び方にあるようです。なお、英文の解説ではこれを「詩」と紹介するものがあるが、誤り。

*37:あかね雲. (雪の降る前の)陰うつな黒ずんだ雲.

*38:祁小春『唐代書儀と王羲之尺牘との関係について』関西大学東西学術研究所紀要50, 2017年4月, pp.404-405

*39:私の見つけた範囲での初出は唐・開元年間の類書『初学記』天部下です

*40:話がずれますが、『宋書』符瑞志と共に、雪を良い兆しとしているのも興味深いです。矢嶋美都子『豐作を言祝ぐ詩 ―「喜雨」詩から「喜雪」詩へ―』日本中国学会報 第三十七集 1985年, p.85

*41:現代に伝わる初出は『庾開府集』です。この書物の伝世については、やや不安な点があります。『四庫提要』の「庾開府集箋註 十卷」の項目を参照。なお、明末の写本が東洋研究所で見ることができます、http://shanben.ioc.u-tokyo.ac.jp/main_p.php?nu=D7114600&order=rn_no&no=01674。これの巻四に出ています。

*42:またctext.orgで各種詩文集が検索できます。『全唐詩』などは網羅的で便利だと思います。宋や南北朝時代のものが一部混入し、作者を間違えていたりするそうですが、今は南北朝〜宋にかけての使用状況を概観したいだけですから、問題ないと思います。宋の時代に編纂された『文苑英華』も検索できます。これらの文集の性格については例えば以下のリンクを参照。https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/koten/kanshi/nihon1_3.htm

メモ:黄道座標と赤道座標の変換

以下のメモはほぼ次の論文をベースにしており、図版や数式もここから引用しています。
Archive for History of Exact Sciences (2018) 72:547–563

プトレマイオス以降のギリシャ系の天文学黄道座標系を用います。これは、日月惑星の年周運動の記述には大層便利です。しかし、黄道は日周運動で地平面に対して動いてしまいます。この点からすると赤道座標の方が便利で、ティコ・ブラーエ以降の西洋天文学で赤道座標が好まれる理由となっています。また、日周運動の分析には赤道座標が有用であって、プトレマイオス赤経赤緯を有用な特徴量として用いました(ただし、座標系としては用いていません)*1また、度々述べてきたように、中国では赤道座標系が標準で、ただし日月惑星の理論に於いては黄経を有用な特徴量として用いました。

つまりいずれの伝統に於いても、この二つの座標の間の変換に相当する計算は重要でした。中国に於いては模型を使った実測に補完法的な数理を適用して、半ば算術的にアプローチしています。一方、西方の天文学では三角法を駆使します。

しかしながら、以下に述べるようにこの計算は決して容易ではありませんでした。

アルマゲスト
図1

まず、プトレマイオスアルマゲスト』の理論から。以下では、

とします。添字に「○の中に点」がついている場合は、太陽の値です。もちろん太陽に対しては、βは常にゼロです。

プトレマイオスは、太陽について


を示し、これらを用いて太陽の赤経赤緯を計算しました。ただし、ここでは簡単のために現代的な記法を用いています。当時はsin, cos, tanはなく、半径が60の円の円弧の長さを用いました。導出には、いわゆるメネラオスの定理を用いいています。

図2

太陽の場合はβがゼロだったので簡単だったのですが、一般の場合については、プトレマイオスは最終的な答えに到達していません。彼は

に相当する関係を示したのですが、XZの求め方には言及していません。15世紀前半までのヨーロッパでは、点Xの赤緯で近似したようです。

論文には特にコメントはないのですが、古代や中世の初期でも同様だったのでは…と思います。

東方アラビア語

この問題に最初に正しく答えたのは、10世紀のエジプトの天文学者ibn Yunusでした。彼は赤道と黄道の役割を入れ替えます。すると、点Zは新たな座標系では「黄道」にあり、角度XZはその「赤緯」に相当します。よって、プトレマイオスの太陽の座標変換の理論を読み替えれば解決してしまいます。

このやり方は、東方アラビア語圏では広く定着したようです。しかしながら、ヨーロッパに直接影響を与えたのは西方スペインの天文学であり、これはibn Yunusの前の世紀の東方の天文学をベースにしています。そこでヨーロッパでは15世紀前半までは既に述べたような近似に頼ったのでした。

ビアンキニとレギオモンタヌス

ヨーロッパでこの問題を解決したのは、15世紀半ばのイタリアの天文学者ビアンキニでした。彼はイブン・ユーヌスと同じ解法もやったようですが、最終的にはγZを最初に求めそこからXZを求める方法にに落ち着いたようです。また、黄道座標から赤道座標を求める表を整備しました。

レギオモンタヌスは最新の印刷技術たる活版印刷を積極的に活用して、多くの数学・天文学の著作を公表していました。ビアンキニの手法も彼の著作に取り入れられて広まりました。その際、レギオモンタヌスは出所を明記せず、のちにカルダノに「剽窃」と批判されたようです。

座標変換は難しかった

以上見てきたように、10世紀のibn Yunusあたりまでは、この座標変換の計算は世界中どこでも困難だったわけです。

天体の球面座標を測るアーミラリー球(渾天儀)には、黄道環と赤道環の両方がついていて、どちらの座標系でも観測ができるようになっていました。『新唐書』によると白道環を備えたものまであったようです。環を増やすと仕組みは複雑になって重量も増え、精度に悪い影響があります。にも関わらずこれらの機器が作成されたのは、計算の困難さや手間の多さが一因だと思います。

アラビア語圏での発展について

冒頭に掲げた参考文献の主題はビアンキニの数理天文学への貢献で、よってアラビア語圏での発展については、最低限のことしか書かれていません。しかしながら、ラテン語圏へに影響を考えるに於いても、ジャービルアルマゲスト修正』における三角法や球面三角法の洗練に言及しないのは、片手落ちだと思います。ジャービル・ブン・アフラフは12世紀のスペインで活躍し、この著作はラテン語訳されて大きな影響がありました。レギオモンタヌスの球面三角法の記述はジャービルのこの著作を大胆に取り込んでいて、やはりカルダノから剽窃呼ばわりされています。

また、スペインのアラビア語圏の東方からの孤立は従来強調され過ぎたきらいもあり、最近は微修正されてきています。例えば三角法に関していうと、ジャービルは東方の先人アブル・ワファーの著作『アルマゲスト』(球面三角法や三角法でも画期的な内容を含む)を知っていたのではという推測もあります。

こういうことを考えると、東方アラビア語圏に関する議論が薄いのは若干不満があります。全く違った流れであれば分けるのは当然なのですが、同じ流れの分流ですから。また、ビアンキニの到達点がどのあたりにあったかの評価にも関わりうると思います。

私もこの方面の勉強はあまりできていないのですが、球面三角法はibn Yunus の時代の他の巨人たち(ビールーニ、アブル・ワファー)によって面目を一新します。従来のメネラオスの定理一本槍ではなく、球面三角形を全面におしだし、13世紀のトゥーシーに至っては現在知られる基本的な関係が全て揃います。マッカの方向を知る算法(キブラ)などは基本的には座標変換であるし、座標変換の計算手法がibn Yunusの段階に留まったとは到底思えないのですが。


その他の参考文献
[1] Pedersen, O. https://link.springer.com/book/10.1007/978-0-387-84826-6

*1:Pedersen,pp. 99-101

メモ:アリストテレス『天体論』のラテン語訳

アリストテレス『天体論』のラテン語訳にどんなものがあるか?について、以下の文献のイントロに詳しかったので、メモとして要約。

https://www.jstor.org/stable/4130271#metadata_info_tab_contents

1175-1225年の間に、4つのラテン語訳があった。

  1. 1175 ごろ。クレモナのゲラルドの訳。ibn al-Bitriq(9c, バクダッド)のアラビア版から。
  2. 1231よりも少し前。Michael of Scott. 同じくibn al-Bitriqより。Averroesの註釈へのLemmataの形。
  3. 1230よりも少し後、Robert Grosseteste, ギリシャ語から、Bk 1-3.1のみ。
  4. 1260-70 William of Moerbeke. ギリシャ語から。Bk.1-2はGrosseteste訳に手を入れる。Bk.3-4は新しく。

「宇宙」:中国天文学の時間と空間

「宇宙」という言葉は存外古く、『荘子』『荀子』など戦国後半期のものには出てきますし、また『淮南子』でも何度も出て、その齊俗訓には、

往古來今謂之宙,四方上下謂之宇

という分かりやすいパラフレーズがあります。つまり宙が時間的な広がり、宇が空間的な広がりで、それを束ねて宇宙と言ったわけです。時間と空間を束ねるなんてなんと現代的的な…という感想は科学史家の大橋由紀夫氏なども述べられています。

もちろん相対論における時空とは全く異なるのですが、中国の暦算関係のものを読むと、時間と空間が相互に規定しあいながら、渾然一体となっていると感じます。

どういうことかと言いますと、暦の計算では否応なく複数の天体の運動を追いかけますし、各々の天体の運動の中にも複数の周期運動を見出します。この多重の周期運動を分析するにあたっては、ある時間で運動Aこれだけの距離を進み、それと同じ距離を進むには運動Bはこれだけの時間はかかる…というように、時間で空間を測り、また逆に空間的な距離で時間を測り…を繰り返すことになるのです。

角度と時間

この状況を具体的に見るには、中国における「度」(中国度)の定義について述べるのが分かりやすいと思います。「°」で(現在我々が用いている)バビロニア流の角度を表すと、中国度は

1中国度=360°/( 1年の日数)

という関係で定まるのですが、元来中国の「度」は「三角形の角の大きさ」のような純粋な空間的な尺度ではありません。古い占術書などで星と星の間隔の表示に「寸」「尺」といった長さの単位を使われており、「度」という言葉が限定的な状況で使われたことが推察されます*1。定義を見てわかるように、中国度は太陽が1日で進む距離なのですが、使用される時もその意味合いを保っています。

まず、一年の値(や定義)は後漢末から段々と更新されていきますが、そのたびに「度」の定義は少しずつ変えられます。また、用語の安定していない魏や晋のころの「度」の意味のブレを見ると、太陽の運動との関係がさらによく分かります。例えば、景初暦の(日月の軌道の)交点からの角距離を測る「度」は、「太陽が交点に対して、1日でどれだけ動くか」です。太陽だけでなくて交点も動いているので、ここで現れる「度」は一般的な中国度とは違います。

つまり、「度」はかなり後まで元来の意味を意識して使用され続けたのであって、天体の移動は太陽の運動をもって測られたのです。Cullenなどは、時間と「度」の関係を強く意識し、渾天義(アーミラリー球)の発明以前、赤経(差)を子午線通過の時刻で計測したかもしれないと推測しています。

「度」の単位は空間的な広がりを時間で測ったのですが、その逆もあります。乾象暦の月の黄緯の表においては、「日」が月の平均的な速度を媒介に角度から定義されており、通常の「日」とは異なります。いわば、時間を空間測ったわけです*2

多重の周期運動

既に述べたように、暦の計算ではいくつもの周期運動を扱います。恒星、太陽、月の運動だけでも、六つの独立な周期運動を扱います(惑星を入れると、この数はさらに増えます)。暦の計算で第一にすべきことは、これら多数の周期運動を整理し、与えられた日時における各々の位相を確定することです。それだけで既に、天体の大まかな位置はわかってしまいます。最後に、日月の速度の変化を補正して仕上げます。

実はこのあたりの理論の大まかな流れは、ギリシャ系の天文学でも似たようなものです。補正を幾何学的に理論化しているところは中国と違うのですが、ハンドブック的な書物(天文表)では結局、数表を組み合わせて計算を進めます。『明史』暦志にはイスラム系の回回暦も載せられていますが、(思ったよりも)違和感なく収まっています。

通史的な天文学史で大きな扱いを受ける理論、例えばプトレマイオスのエカントやケプラーの法則などは、この最後の補正に関係するものであって、周期運動の精確な理解があってはじめて有用であり、また可能になったのです。そして周期の精確な同定には、間違った場合の訂正や検証も含めると、世紀単位の時間がかかります。近代における爆発的な発展は、それ以前の長期にわたる蓄積が前提として必要でした。

月と太陽の周期たち

先程、日月と恒星の運動の理解には六つの周期が必要だと言いました。言いっぱなしもバツが悪いので、それらを列挙しておきます。

  1. 太陽日 太陽が同じ方向に戻ってくるまでの時間
  2. 回帰年 365.24219040日 (宣明暦 365.24464日 *3 )   
  3. 恒星年 365.25636300日 (宣明暦 365.25643日) 
  4. 朔望月 29.53058886日 (宣明暦 29.530595日) 
  5. 交点月 27.21222082日 (宣明暦 27.212220日) 
  6. 近点月 27.32166155日 (宣明暦 27.554546日) 

暦Wiki/周期/月 - 国立天文台暦計算室
暦Wiki/季節/季節のめぐりの周期 - 国立天文台暦計算室
暦Wiki/宣明暦 - 国立天文台暦計算室
カッコ内に日本でも長く用いられた唐の宣命暦の値を書いておきましたが、中々の精度です。

以下に各々の周期の意味を一応、書いておきます:
太陽は一日後に同じ方角に戻ってきますが、この時恒星との位置関係は少しずれています。太陽の恒星に対する運動の軌跡を描いたのが黄道です。黄道と赤道は春分点秋分点で交わり、冬至点と夏至点で一番遠ざかります。中国では、冬至から冬至に戻ってくるまでを一年としましたが、これは現代の回帰年と近い概念です。一方、地軸が首振り運動をしているので、黄道と赤道の交点は周期25,772年で一周します。よって冬至点に太陽が戻ってきても、まだ恒星に対しては元に戻っていません。恒星に対して戻るまでの時間を恒星年と言って、南朝宋の大明暦あたりから暦に回帰年と恒星年の両方が記されるようになりました*4

次に月の運動ですが、「朔望月」は太陽との位置関係が元に戻るまでの周期です。また、月の軌道(白道)は黄道に対して約5°傾傾いており、両者の交点は動いていましす。これの周期が交点月です。そして月の白道上の運動は、遠地点では遅くて近地点では速い。しかも近地点も周期運動し、この周期を近天月といいます。

西方の天文学との比較

中国の天文学では運動及び時間と緊密に結びついていた角度は、ギリシャ系の天文学では純粋に幾何的に定義され、取り扱われました。ニーダム『中国の科学と文明』ではLéopold de Saussureの見解を引いて、ギリシャと中国の天文学を次のように対比します。前者は黄道、(平均運動ではなく)真の運動、角度、年周運動を扱い、後者は赤道、平均運動、時間、日周運動を扱う、と。角度概念の違いも、この特殊な例と言えると思います。

ただ、こういった大雑把な特徴づけは当てはまらない側面も多々あります。

例えばギリシャ天文学の角度概念はメソポタミア起源ですが、メソポタミアでは角度(US)は明らかに天体の年周運動と関係付けられています。周天が360°と一年の日数に近いのは決して偶然ではありません。そして、角度はをのまま時間の単位(24時間÷360=4分)でもありました。また、角度は「黄経」のみに用いられて、黄道からの距離や天体同士の距離には長さと同じ単位を用いていました。もちろん、測量その他で純粋に幾何的な意味で用いられることはありませんでした*5

そして、プトレマイオスに於いては、赤経は天球の座標ではなく、天体の南中や出没の時刻の計算に便利な特徴量であって、時間と強く結びついていました*6。カリポス碑文では時間の単位としての度が使われています*7。現代でも、赤経を時間で表したりします。

一方、中国の「度」は太陽の運動と結びついて定義されたのですが、古くから赤緯にも同じ単位が用いられます。この用法を考えると、定義はともかくとして、天球上の二点間の隔たりを表す尺度として認識されていたのは間違いないと思います*8

*1:『開元占経』はこれらの書物の引用を豊富に含んでいます。

*2:乾象暦や景初暦の日月食の理論については、大橋由紀夫『中国における日月食予測法の成立過程』、一橋論叢、1999年8月、Cullen, C., Heavenly Numbers_ Astronomy and Authority in Early Imperial China, 2017

*3:現代の回帰年と異なり、冬至点に戻るまでの周期。これは現代値365.2427日程度。

*4:歳差を認めない暦もあり、最終的に歳差が定着するのは大衍暦以降。

*5:メソポタミアの角度については、Mathieu Ossendrijver, Babylonian Mathematical Astronomy: Procedure Texts, pp.32-33

*6:Pedersen, A Review of Almagest, 2011, pp. 99-101

*7:Neugebauer, A Histiry of Ancient Mathematical Astronomy, p. 913

*8:『開元占経』巻60-63, 65-60に含まれる恒星の位置データに既に「度」が当たり前のように赤緯に用いられています。このデータは紀元前2~1世紀の観測によるとされています。

メモ: 辿々しい黄道〜『太平御覧』所引の『礼記・月令』を求める中で

前回のおさらい

前回、『太平御覧』に引用された『礼記・月令』の異本を取り上げました。この異本には、含まれている天文記事が通用している版(『礼記正義』に含まれるテキストがベース)と大きく異なるのです。取り上げる項目は両者はほぼ同じで、季節ごとの太陽の位置と、日暮れ及び暁に南中する二十八宿が記されています。ただし、通用版では一年を十二分割しているところを、異本では二十四分割です。データの中身も全く違います。

最初は、異本のデータは通用版のものを適当に加工してでっちあげたのかと思いました。しかし、両者のデータの間には殆ど何の関係もありませんでした。さらに詳しく見ると、異本版のデータもさほどでなく、まともな計算を援用していそうな雰囲気があります。

では、このデータの根拠は何なのでしょうか?

後漢四分暦と論暦

日暮れ及び暁に南中する二十八宿の計算を記した最初の暦は、後漢四分暦です。この暦の背景には、元和二年の賈逵(30-101 CE)の論暦や永元十四年(102年)の霍融の論暦があります。

前者は日月の運行を調べる際に黄道に着目することが有効であると指摘しています:

史官一以赤道度之, 不與日月同, ...輒奏以為變、.... 。 於黃道, 自得行度, (暦を司る史官は赤道のみを用い、日月の運行と合わず、... 異変だと奏上する。...しかし、黄道にそって計測すれば、日月は規則的に運行していることがわかる。 『続漢志・律暦志中』)

中国では古来、二十八の正座を目印に、天球を天の北極を中心に分割していました(二十八宿)。これで測られるのは、現代的に言えば赤道に沿って測った角度、すなわち赤経です。しかし黄道は赤道と斜めに交わっていますから、赤経の値を見ても規則性は分かりにくいのです。そこで賈逵は黄道に沿って日月の運行を測るべきだと主張し、理論と観測器具の整備を求めました。

賈逵の提言の理論的な部分のうち、「黄道宿度」の一覧は後漢四分暦に取り入れられました。これは、黄道に沿って二十八宿の各々の宿の幅を測り、一覧にまとめたものです:

角十三度,亢十,氐十六,房五,心五,尾十八,箕十,斗二十四四分度之一,牽牛七,須女十一,虛十,危十六,營室十八,東壁十,奎十七,婁十二,胃十五,昴十二,畢十六,觜三,參八,東井三十,輿鬼四,柳十四,星七,張十七,翼十九,軫十八

中国の角度の単位「度」は1日に太陽が進む平均的な角度が一度となるように定義されています。当時はまだ太陽の速度の変化は考えていませんでしたから、黄道宿度は太陽が各々の宿を通過するのにかかる日数に他なりません。対比のために赤道宿度を抽出して掲げておきます*1:

角十二。亢九。氐十五。房五。心五。尾十八。箕十一。斗二十六四分度之一。牛八。女十二。虛十。危十七。營室十六。壁九。奎十六。婁十二。胃十四。昴十一。畢十六。觜二。參九。井三十三。鬼四。柳十五。星七。張十八。翼十八。軫十七。

一方、霍融は昼夜の長さの計算方法を問題にしました。それまでは、冬至夏至のデータを用い、その間の日については比例按分で計算していたのですが、そのような方法では全然天の運行と合わない*2とし、替えて太陽の去極度、つまり天の北極との間の角度を用いる、以下のような方法を提案します:

  1. 去極度と夜の長さが一次関数的な関係にあることを仮定
  2. 冬至夏至の夜の長さと去極度を計測してこの関数関係を確定。
  3. 節気ごとに去極度を計測して、確定した関数関係から夜の長さを求める。

なお、1の仮定は球面を平面で近似したものと考えれば正当化できます。この手順は後漢四分暦でも用いられ、二十四節気ごとに以下の項目を並べた一覧が作られました。

  • 太陽の位置
  • 太陽の去極度
  • 昼夜の長さ
  • 日暮れと暁の時に、南中する子午線がどの宿の何度の位置にあるか。

(最後の項目は昼夜の長さから計算されますし、昼夜の長さは夏至冬至以外は去極度から計算されます。)

太陽関連の数値のリスト。武英殿本『後漢書』律暦志中*3

中国の天文学は幾何的な方法論に弱いのですが、天体やその軌道を球上の図形として分析することは、かなりやられています。賈逵や霍融の議論はその一例だと思います*4

一定速度で変化する赤経

ここで懸案の異本の話に戻ります。これには二十四節気ごとに、太陽の位置する宿が書かれています。果たしてこれは賈逵が主張した、黄道に沿って動く太陽でしょうか?

礼記・月令』の異本によると、太陽は立冬には房宿に、立春には虚宿にあります。立冬から立春の前日までが冬ですが、これは年の四分のー、すなわち後漢四分暦では

  • 365.25/4=91.3125 日

ところが「黄道宿度」よると、これだけの日数があると、太陽が房宿の頭からスタートしたとしても、立春にはは虚宿を飛び越えてしまいます。なにせ、房宿のはじめから虚宿の終わりまでの黄道宿度は、合計で90.25度しか無く、太陽は1日に一度進みますから。

後漢四分暦の代わりに後世の暦を用いても、この結果は変わりません。そもそも、房宿のはじめから虚宿の終わりまでの赤経が95.25度(小数点第二位以下は暦によって違います)しかありませんから、黄道の傾きを考えると当然の帰結です*5

つまり、この異本のデータは太陽の赤経が一定速度で変化する仮定で作られている可能性が強いのです。これは、賈逵が論暦で厳しく批判した手法に他なりません。

辿々しい黄道の取り扱い

前の節で、異本の太陽の運行が賈逵の論暦を無視していることを述べました。

このことから私は当初、異本は賈逵の論暦のあった後漢よりも酷く後ということはあるまい、と思っていました。ところが、唐の最初に成立した『五経正義』に収められた月令の注釈では、なんと前漢末の三統暦の太陽の位置が引かれています。ただし、南北朝時代の元嘉暦の数値も並列して参照されています。『五経正義』は南北朝時代の義疏に大いに依拠しています。この部分についていうと、皇侃(おうがん、488年 - 545年、南朝梁)と熊安生(ゆう あんせい、北齊ー北周、560-580ごろ活躍)らの義疏がベースになっていますから、これらの時代の目線です。

彼らには、賈逵の論暦は届かなかったのか。。。などともどかしく思っていました。

ここで再び後漢四分暦を見てみます。上の写真で引用したように、後漢四分暦には太陽関連のデータの表があります。この表では節気ごとに「日所在」、すなわち太陽がどの宿の何度のところと表示されています。賈逵の論暦をうけて作成された暦なのだから、当然これは黄道にそった一様な運動を記述しているのだろう、と私は思っていました。

ところが驚いたことに、ここには赤経が一定速度で変化する運動が載っています。では、黄道沿いの一様運動は、どこに行ったのでしょう?それは「日所在」の数値の最後に小さく書かれている、「進ニ」「退一」といった数値を用いて計算します。この値を「日所在」の値に足したり引いたりすると、黄道上を一様運動する太陽の黄道に沿った宿度が求まります。

注意していただきたいのは、これは如何なる意味でも座標変換ではないことです。単に二つの等速回転の数値を、結びつけているだけなのです。太陽が黄道に沿って一定速度で回転しつつ、赤経を一定速度で変化させるこなんて、実際にはあり得ないのですが。

さらに去極度の値を見ますと、おかしなことに気がつきます。賈逵の論暦では、春分秋分冬至夏至の時の値は、黄道が赤道と24度*6傾いた平面に乗っていると仮定し、直角を91度(精確には365.25/4度)と近似した時に期待される値になっています。ところが、後漢四分暦の値は少しずれてしまっています。しかも、春分秋分で値が異なり(89度余りと90度余り)、夏至冬至の値の関係もおかしいです。

つまり、これは黄道がある平面に乗っかっているという仮定を援用せずに、計測値をそのまま載せているのでしょう。真面目に計測をした証拠でもありますけど、同時に賈逵論暦の理論を受け止めきれなかった証拠でもあります。暦の公的な編纂物としての性格を考えれば、新規な提案に対して保守的になるのは、当然のことかもしれません。

これを踏まえると、『五経正義』の保守的な態度も決して不自然ではありません。では、南北朝時代の暦、例えば元嘉暦などはどのような立場で作成されたのでしょうか。

最終的な到達点

南北朝時代の状況を述べる前に、隋唐期の到達点を最初に押さえておきたいと思います。この時期になると、黄道宿度(二十八宿の広がりを、黄道に沿った角度で計測)を求める他に、

  1. 黄道上の点の黄経から、その点の
    1. 去極度(直角と赤緯の差)を求める
    2. 赤経を求める
  2. 月の軌道上の点の軌道に沿った角変位から、
    1. 去極度を求める
    2. 同じ赤緯を持つ黄道上の点を求める

といったいった計算のための数表が完備します。つまり、赤道と太陽、月の軌道の間の位置関係が、数量的に把握されます。これに伴って、太陽の運動は黄道に沿った運動として理論化され、必要に応じて表で変換するスタイルに移行したのです。赤経の値の結果を表にしたものは姿を消しますが、これは冗長を避けるだけでなく、歳差で冬至点が動くと結果が変わってしまうからではないかと思います。

ここに至ってやっと「黄道」は暦算の中に確たる位置を占めるようになり、盛唐の大衍暦で太陽と月の理論は一応の完成を見ます。ここまで至るには、後漢四分暦から南北朝時代を丸々費やすことになりました。

宋書』律暦志

『続漢書』律暦志の次のまとまった記録は『宋書』律暦志及び天文志です*7二十四史全訳の序文によれば、『宋書』の志は元嘉暦の選者である何承天が編纂に関わった国史が、大いに利用されているようです。

その『宋書』律暦志の中と下で元嘉暦と大明暦が扱われているのですが、全体を通してもっぱら冬至点や太陽の周期の精度、そして歳差の問題に焦点が当てられています。

黄道に関する件では、霍融の議論、すなわち昼夜の長さと去極度との関係は論じられていますが、賈逵の議論はスルーされています。月の運行の画期的な理論で知られる、後漢末の劉洪の乾象暦の扱いにおいても、冬至と一年の長さもの精密化がまず取り上げられ、月の理論については、遅速を明らかにしたと手短にあるだけで、重要な革新とされる月道と黄道の傾斜の理解には触れていません。

魏の揚偉の景初暦については、論暦と暦書が紹介されます。この暦は乾象暦の月の理論を日月食の予報に結びつけた点で画期的とされます。しかし黄道と赤道の関係については、後漢四分暦と変わらぬ論じ方で、上に画像で引用した表と同じ構造の表を載せています(数値は少しだけ違います)。

宋書』律暦志の中心は、やはり南朝宋の何承天の元嘉暦と祖沖の大明暦でしょう。前者は黄道と月の軌道の関係(2.1)は乾象暦を受け継いでいて明瞭なのですが、黄道と赤道の関係については何も論じていません。少なくとも『宋書』律暦志に引用される太陽と二十八宿、昼夜の長さの関係を示す表に於いては、後漢四分暦にあった黄道去極度すら消えています。しかも太陽の赤経は、一定速度で変化しています。続く祖沖の大明暦でも、状況はさほど変わりませんが、赤経を一定速度で変化させる太陽は表から姿消しました。これは歳差の導入が主な理由ではないかと思います。

総じていうと、『宋書』律暦志は黄道の赤道に対する傾斜についてほぼ沈黙を保っています。そして元嘉暦の太陽の赤経の表は、むしろ理解の不足を印象付けます。先に、乾象暦以降、月道と黄道の傾斜が暦に取り入れられたことに触れました。こちらは元嘉暦や大明暦でも継承されています。ではなぜ黄道と赤道の傾斜は無視されるのか、図形的な描像が十分に理解されなかったのでしょうか。

なぜ黄道傾斜は詳しく扱われなかったか

しかし、同じ『宋書』でも天文志を見ると、かなり印象が変わります*8。そこでは黄夏至冬至春分秋分での太陽の去極度と黄道傾斜との関係が、数値付きで説明されています。また、「昼夜の長さ」*9秋分春分で等しくなる理由も明瞭にされています。

このことを念頭に、今一度律暦志を読み返すと、一見後漢四分暦から変わり映えのしない太陽の表も、ちょっとした違いのあることに気が付きます。後漢四分暦や景初暦と異なって、元嘉暦と大明暦では、昼夜の長さは冬至を中心に対称になっているのです。これは、黄道傾斜の去極度と日照時間の関係の理解を背景にしているのだと思われます。つまり、図形的な描像はおそらく理解しているのです。

ここで乾象暦以降の月の理論をもう一度振り返ってみます。この暦以降、月道と黄道の傾斜が暦に取り入れられました。しかしこの時、月の運動の速度は、月道にではなくて黄道に沿っ角度で測られました。月道の傾斜の導入は、月と黄道の距離を説明することが主な目的であって、黄経の変化率への影響は論じられていなかったのです。この月の理論の月道を黄道黄道を赤道に置き換えると、後漢四分暦〜大明暦の太陽の理論になります。

月道の黄道に対する傾斜が小さく(ほぼ5°)、これで問題なかったのですが、太陽の赤経の変化に同じ考えを適応してしまうと、黄道傾斜故に大変な誤差になってしまいます。これはまさに賈逵が指摘したことであり、優れた暦算家であった何承天もまた、十分理解していたのではと思います。おそらく黄道上の点の赤経を求める良い方法がなく、やむを得ずあのような扱いになったのではないでしょうか。

黄道に沿った運動の赤経

では、黄道に沿った運動の赤経の変化は、どのように理解が進んだのでしょうか。萌芽は既に後漢の時代にあって、後漢四分暦のすぐ後に活躍した張衡の『渾天注』『渾儀圖注』*10では、賈逵の論とほぼ変わらぬ天球と黄道を記述しています。そして、黄道にそった変位と赤経の関係について調べるために、天球の模型を製造して計測で数値を得、算術的に考察して表にしています。幾何学が未熟だった中国に於いては、これが現実的なアプローチだったのでしょう。解決方法は初等的ですが、球面上の図形の問題に還元して考察していることは、注意すべきポイントだと思います。
ただ、彼は二つの変異の関係を、45°刻みという非常に荒い刻みの区分線形関数で近似しており*11、あまり精確とは言えません。なお、張衡の理論と同じ結論は、後漢末の劉洪の乾象暦に於いても略述されています*12。しかしこの程度の精度では、何承天らが採用に踏み切らなかったのは当然だと思います。

この線形関数での近似を二次関数*13に改めたのが、隋の暦家の劉焯の皇極暦です。ところが、皇極暦は施行されずに終わりますし、唐の李淳風の麟徳暦では一度取り除かれてしまいます。李淳風は優れた見識を備えた暦算家で、我々の皇極暦についての知識は、彼の選述した『隋書・律暦志』に依拠しているくらいですから、この理論を正確に理解していました。また、麟徳暦に於いても黄道宿度の表は示されていて、

黃道宿度、左中郎將賈達、檢日月所去赤道不同,更鑄黃道渾儀所檢者。
(黄道宿度の一覧)
臣等今所修撰討論,更造木渾圖交絡調賦黃赤二道三百六十五度有奇,校量大率,與此符會。今歷以步日行月及五星出入循此。其月行交絡黃道,進退亦宜有別。每交輒差,不可詳盡。今亦依黃道推步。(『旧唐書・暦志中』)

と書かれているので、問題意識は明らかに持っていますし、「模型を作って計測する」という張衡のやり方も継承しています。おそらくは、皇極暦の変換表の正確さについて確信を持てず、採用を見送ったのではないでしょうか。のちに一行が大衍暦で同種の理論を採用するに当たっても、数値は皇極暦とは随分違いますから、李淳風の判断は妥当だったと思います。

なお、麟徳暦には、後漢四分暦や元嘉暦に一見似た、太陽関連の数値の表があります。しかし、麟徳暦の太陽の位置は黄道に沿った角度で測っており、全く違った理解に基づくものです。

まとめ

後漢四分暦の後、皇極暦が登場する以前の太陽の理論は、赤道からの距離については黄道傾斜に基づくものの、赤経の変化についてはこれを活かせていませんでした。赤経の値が必要な時は、仕方がなくあたかも赤道に沿って等速変化するかのように見做して計算しました。この歪な構造は、座標変換の信頼できる数理の不足という、実際的な制約によるもので、劉焯や一行の努力によって克服されるのです。

このことから、太平御覧版『礼記・月令』の成立時期について言えることは何かあるでしょうか?既に述べたように、この文書では、太陽の赤経は一定速度で変化したとしています。よって、麟徳暦や大衍暦の登場よりも酷く後にはならなさそう、くらいのことは言っても良いと思います。

主な参考文献

[1] Christopher Cullen, Heavenly Numbers: Astronomy and Authority in Early Imperial China. Oxford: Oxford University Press, 2017.
[2] 张培瑜 等、中国古代暦法、中国天文学史大系、中国科学技術出版社、2012

*1:特定の箇所の引用ではありません。上記の黄道宿度と同じ順序で配置している一覧がなかったので。

*2:不與天相應, 或時差至二刻半」『続漢志・律暦志中』

*3:范曄『後漢書』は志を欠いたままであったため、南朝梁の劉昭が司馬彪『続漢書』の志を『後漢書』に組み込み、今に至る。

*4:ただ、図形的に問題を定式化したからといって、それを幾何学を用いて解くわけではなく、計測や数値的な方法を多用します。また、奥行きを含めた三次元的なイメージの活用は芳しくありません。

*5:この時代、太陽は冬に速く動きましたから、太陽の速度変化が繰り込まれると結果はますます悪くなります

*6:これはバビロニア的な現代の角度の単位では約23.7°に等しく、現代の理論値23.75°にかなり近いです。なお、同時代のプトレマイオスの値は23.9°です。

*7:宋書』の志の編目については、中華書局版に準拠しました。武英殿本や百納本では、律志と暦志が分離していますが、これは本来の形ではなかろうとの考えのようです。理由としては、第一に律志を納める巻十一の題目や細目が不自然であること。第二に、律志と暦志の分離は、『明史』が初めてとされているから(暦志しかないケースはいくつもあります。)『四庫提要』宋書一百巻には、「稱凡損益前史諸志爲八門。曰律歷。曰禮。曰樂。曰天文。曰五行。曰符瑞。曰州郡。曰百官。是律歷未嘗分兩門。今本總目。題卷十一志第一志序。卷十二志第二歷上。卷十三志第三歷下。而每卷細目。作志第一律志序。志第二歷上。志第三歷下。則出於後人編目。強爲分割。非約原本之舊次。此其明證矣。」ただし、二十四史全訳本は別の復元をしており、律志と暦志上中下に分けられています。

*8:正史の天文志は、天体の異変を記るす場として紹介されることが多いと思いますが、『宋書』以降、観測機器や宇宙構造論についての記述も含まれることが多いです。

*9:当時は、日が暮れてから二刻半までが昼とされていたので、当時の用語で言うならば、春分秋分でも昼夜は等しくなりません。

*10:いずれも唐の瞿曇悉達『開元占経』巻一での引用。これらは散逸して全貌は不明で、張衡の著作に付けられた注釈の可能性もある

*11:このあたりの説明の仕方は、かなり時代錯誤的な用語を用いています。当時、関数概念も、いわゆる数式もありません。何度ごとに何度づつ変わり、ある箇所で折り返す旨が自然言語で書かれています。

*12:「推有進退,進加退減所得也。進退有差,起二分度後,率四度轉增少,少每半者,三而轉之,差滿三止,歷五度而減如初。」『晋書』律暦志

*13:これも時代錯誤的な言い方で、本当は2回階差が一定の数表