背景
前回、黍を基準にした劉歆の度量衡基準の話をしました。それは
- 1尺=黍100粒の幅、黄鐘律管の長さ=9寸(10寸=1尺)
- 1龠=黍1200粒の容積=黄律管の容積=810立方分(10分=1寸)
これらの数値は、検討を加えたくなる程度には、現実の黍と合致しています。後世度量衡が乱れた時に注意を引いたのも、理由のないことではりません。ところが、詳しく検討を進めていくと、どうにも辻褄の合わぬところがでてきます。例えば、容積について立てられた二つの基準(1200粒と810立方分)は両立しません(1200粒は多すぎる)。おそらく、解釈しやすい数字を得るため、微調整が入った結果だと思います。
しかも、計測の方法については、『漢書』は「子穀秬黍中」を使えとだけしか書いません。なぜか合わない数値、不明な詳細、これで議論が紛糾しなかったら不思議です。それでも、全然合わないのなら早々に諦められたと思いますが、そこそこ尤もらしい値は出てしまうので、規範として一定の役割を背負うことになったのです。
度量衡の南北朝での拗れた経緯は、『隋書』律暦志に整理されています。この文書は後世に与えた影響も大きいので、読み解いてメモをつくりました。主に丘光明(2001)の第十五章第三節 「《隋书·律历志》十五等尺考」を参考にし、テキストもそこに引用されているものにほぼ、準拠しています。
なぜ『漢書』に頼るのか
『隋書』律暦志・審度は、古来の度量衡基準の歴史的な検討から始まります。まず、『史記』の古代は人体の一部を使ったとの説や、『周礼』春官の「璧羨以起度」とその鄭司農注が紹介されますが、起源譚くらいの意味あいだと思います。前者は素朴に過ぎますし、後者は古えの計量原器ですが、計量原器の亡失への対処には、全く役に立ちませんから。
それらに続いて、馬の尻尾の毛十本の幅を一分(=0.1寸、『易緯通卦驗』)、生糸の一万本の太さが一分(『孫子算術』)、(黍ではなく)粟十二粒を一寸(『淮南子』)、粟一粒が一分(『說苑』)といった基準が紹介されます。これらは互いに矛盾し、後の人々は『漢書』の累黍を用いたとのこと:
後之作者,又憑此說,以律度量衡,並因秬黍散為諸法,其率可通故也。
この選択のくわしい理由は書かれていませんが、以下で推測してみます。
これらの方法は、いずれも小さく均質なものを用い、累黍と通じるものがあります。粟を用いる手法などは、非常に似ています。しかし、馬の毛や生糸の幅は計測が大変そうですし、馬の毛は、バイオリンの弓や筆先で見る限り、細すぎて基準を満たさないと思います。粟の粒も小さ過ぎて、数値が全く合いません*1。対して黍は、ある程度現実的な目安を提示しています(後で述べます)。
それから、馬の毛と粟については、並べる数が少なすぎます。もっとも、累黍の90粒ないし100粒も、ばらつきをならすには桁が一つ二つ足りません。ただ、他の方法に比べると、比較的合理的なのではと思います。
『漢書』律暦志の注
さて、実施の細則の情報が詰まったとされた「子穀秬黍中」、注釈書ではどのように理解されたのでしょうか。三国時代の孟康の注では、「子北方,北方黑,謂黑黍也。」、つまり「子」は北を表し、そして北は五行で黒なので黒黍、と。一方、唐の顔師古は孟康の説を非として、「子穀」は穀粒で、「秬」が黒黍を意味する、と*2。また、「中者,不大不小也」つまり「中」はサイズを大中小にわけた上での中だとしました。
また、『漢書』の本文では、黄鐘律管のサイズ は810立方分とされています:
…為八百一十分,…,黃鐘之實也。繇此之義,起十二律之周徑。
ところが、直後に続く注ではそれと矛盾する内容が書かれています。
孟康曰:「律孔徑三分,...;圍九分,...」
つまり、断面の直径が3分との記述があります。長さは9寸=90分なので、黄鐘律管の容積は、採用する円周率にもよりますが、636.17…立方分になってしまいます。この注釈が入っているのは音律について述べた部分なのですが、『隋書』律暦志、律管圍容黍は、注の説を採用しています。また、注を引用するときも、『漢書』の本文と区別していません。
累黍の不安定さ
漢書の累黍の優位を説いた後、『隋書』律暦を志の選者は一転、その不安定さを訴えます。
黍有大小之差,年有豐耗之異,前代量校,每有不同,
黍は粒ごとの大小の差があり、収穫年によっても違う。先人の計測もばらつきがあった…
別の箇所に書かれている指摘としては、
正以時有水旱之差,地有肥瘠之異,取黍大小,未必得中。
「時期による差の他、土地化痩せているかによっても違う」。これは、北周の宣帝の時の上奏文(後で詳しく触れます)に現れます。
而容黍或多或少,皆是作者旁庣其腹,使有盈虛。
これは、「律管圍容黍」で様々な尺に基づいた黄鐘律管に容れられる黍の数をリストした後のコメントです。梁法尺や宋氏尺には、一つの尺にいくつか異なった数値が報告されており、その理由を容器の製造の精度に求めているのです。
このようにバラつきのある黍を、どのように用いたのか。例えば「累既有剩」、「累百滿尺」などという言葉が用いられていますが、これは尺がまずあって、黍を百並べてみて余ったり、ちょうど満たしたりということです。つまり、候補の尺がいくつかあって、それらのうちのどれが妥当かを比べるのに用いられています。もしも、長さを計測結果から出そうというのであれば、明らかに無謀ですが、こういった使い方ならば多少のバラつきがあったとしても、有用な示唆をあたえた可能性があります。
累黍の話を聞いたとき、まず気になるのがこのバラつきの問題だと思いますが、当時の人々も、やはり気にかけていたがわかります。しかし前回も述べたように、意図的なバイアス、つまり数値あわせのための調整がもともと為されていた可能性は、表立っては論じられていません。
晋初の度量衡
『隋書』『晋書』の律暦志には、晋のはじめの音律家、荀勗による古尺の復活の説明があります。彼は七つの古い尺や律管を比較して、もっとも多くと一致し、しかもバラつき中間となる値を選んでいます。なかなか説得力のある議論で、『隋書』『晋書』律暦志の撰者の李淳風も、荀勗の「晋前尺」を周尺と同一としています。同じころ、算家の劉徽は『九章算術』商功の注の中で、王莽の作らせた「新莽嘉量」の実測から、ほぼ同じ数値を得ています。
この時は、まだまだ資料が多くあって、こういった正攻法が可能だったのでしょう。しかし、少し前にも書きましたが、阮籍という人物が、この尺に基づいた音律が高すぎると文句をつけ、しかも後に荀勗の尺よりわずかに長い尺が出土します。冷静に見れば、その出土尺は意外と新しいか、尺の製造のさいの誤差なのだと思います。ところが、『世説新語』では、阮籍の音感の鋭さの証拠としています。
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つまり、古物の判定は中々難しく、しかも衆議にかけるとなると様々な雑音も加わります。尺の議論が紛糾する気配は、このころ既に見えていました。
南朝における度量衡
南朝では、音律の議論は非常に盛んでした。その基礎となる尺についても、各種の議論があったと思われます。例えば、上でのべた荀勗の古尺の校正の件は、もともとは宋の律暦家・祖沖之の所蔵する銅尺の銘文に記されていたようです。それが梁の武帝『鐘律緯』に、さらにそれが『隋書』に引用され、現代に伝わっています。しかし、この南朝の度量衡議論の詳細は伝わっていません。一方、南朝の音律論については、かなり詳しい記述があります。又、今回は触れませんが、律管と気の感応を見る秘儀的な「候気」がさかんに行われており、これもスペースを割いて紹介されています。
北魏の論争①、縦と横、一稃二米…
この解釈が累黍に顔を出すのは、北魏の累黍です。孝文帝の時から始る議論です。この時の議論は、『魏書』律暦志と元匡の伝(卷19上 景穆十二王上 元匡)から伺うことができます。
議論の中心は、黍の幅の定義です。黍は球ではなく少し長いので、どのように測るかで幅が違ってしまいます。律暦志によると、公孫崇が長径すなわち「一黍之長」を、劉芳が短径すなわち「一黍之廣」を各々主張します。前回のべたように、これら二つの説は、この後もずっと主要な説として残ります。
しかし、この時はさらにもう一つ説がありました。それが元匡の説で、
而中尉元匡以一黍之廣度黍二縫,以取一分。
つまり、短軸方向に、しかし二粒で一分(=0.1寸)を主張します。これは、次に述べる「一稃二米」が念頭にあるように思います。
「一稃二米」:一つの籾殻に二粒の黍?
「秬黍」の正体については、『漢書』の注釈以外に、もう一つ別の系統の論があります。後漢の許慎『説文解字』によると、
秬:黑黍也。一稃二米㠯釀。
と解説しています。「稃」は穀物の粒を覆う、外皮。つまり、一つのもみ殻の中に二粒入っているというわけです。これは、『詩経』大雅の「生民」の毛伝が念頭にあると思われます。すなわち、「誕降嘉種、維秬維秠、維穈維芑。」への毛伝に
秬,黑黍也。秠,一稃二米也。
とあります。こちらだと、一稃二米なのは「秠」であって「秬」ではないようにみえる*3。「一稃二米」の黍など、そんなにあるものなのか?という疑問が沸々と湧いてきますが、この特殊な「一稃二米」は、このあとも、時々登場して、議論をかく乱します。
北魏の論争②
さらに、『魏書』元匡伝をみると、
故太樂令公孫崇輒自立意,以黍十二為寸(元匡伝)
つまり、公孫崇は12粒で一寸、120粒で一尺を主張していたらしいです。きっと、他にもさまざまな論点があったのでしょう、「三家紛競,久不能決」、つまり互いに譲らないので孝文帝が仲裁するのですが、その内容は
以一黍之廣,用成分體,九十黍之長,黄鐘之長、以定銅尺。
「長径x90=黄鐘の律管長=0.9尺」、言い換えると「長径x100=一尺」です。論議の結果得られた尺の東後魏尺は王莽尺の1.3008倍*4、これは約30cmです。一方、趙氏の論文(赵,2010)の計測では、上黨羊頭山の黒黍を長軸方向にならべると、大粒でも100粒で約26.5cm*5。これでは、東後魏尺に到届きません。おそらく、隙間をあけるなどの努力をしたのだと思います。採用はされなかったようですが、公孫崇の120粒の説も、こういった努力の一環なのでしょう*6*7。
ところで、なぜこの経緯の一部が元匡の伝に書かれているのか?それは彼が孝文帝の裁定の後も自説を引っ込めなかったからです。しかも、対立する論者を誹謗するようなことも言ったらしい。その元匡の振る舞いを非難する上奏文が、「伝」の方に収録されているわけです。これを受けて彼を死刑にすべしとの上奏があったようで(世宗にゆるされ、降格のみですむ)、度量衡の議論も中々大変です。
北周の武帝、保定年間の累黍
北魏の西半分を受け継いだ北周がやがて華北を統一するのですが、その北周の武帝の時にも、「縦か横か」の議論が起こります。この時は結局結論が出ず(累黍造尺,從橫不定)、出土した古尺を用いて後周玉尺を定めます*8。
北朝で用いられた尺は押しなべて長めで*9、これらを正当化するには、「縦」、すなわち長径をとるしかないのではと思いますが、それでも揉めたわけですね。
北周の宣帝時の累黍(1)~黍の産地と品種
『隋書』でもっとも詳しい累黍の記述は、北周の宣帝時の上奏文の引用です。文献で見る限り、黍の産地と品種が上黨の羊頭山の黒黍と断定されるのはこの時が初めてで、以後標準的な説になってきます。ここで、少しだけ気になるのが先の保定年間の累黍で、「大宗伯 盧景宣、上黨公長孫紹遠、岐國公 斛斯徵等」に担当させた、とあることです。長孫紹遠が調達したのがそのまま用いられたのか?と妄想も膨らみますが…
なお、なぜ上黨羊頭山の黒黍が良いのか?上奏文では
上黨之黍,有異他鄉,其色至烏,其形圓重,
他の産地のものと違って、色が黒くて「丸くてずっしりしてるいるから」だそうです。しかし、それならば北魏や南朝の累黍はどうしてたのかなど様々な疑問は湧いてきます。
隋唐、北宋を経て南宋になると、羊頭山は領域の外になってしまい、おいそれとは黍は入手できなくなってしまいます。朱子の弟子の音律理論家の蔡元定の『律呂新書』でもこの点に触れているのですけど、そもそも彼は累黍にあまり積極的でなく、累黍をやらない言い訳に使っている感があります。
明の朱載堉は十二平均律を発明した音律家ですが、彼は黍の産地について、『律呂正論』にて以下のようにのべているそうです(田中, 2014, p.148から引用。)
この三県(筆者*10注: 羊頭山は長治県, 長子県, 高平県の三県に広がる ) が産出する黍は, みな羊頭山の黍と名づけられている . つまり , 山からの距離を問わず, ただ通常より大きい黍を選べば, なんでも良いのだ。
羊頭山の黍というだけでは、十分限定されないという主張のようです。
北周の宣帝時の累黍(2)~累黍の前提
北周の宣帝時の累黍に話を戻します。この累黍は中々大体的な検証であったようで、他の尺についても累黍をして比較しているようです*11。
詳しいことを述べる前に、彼らが採用している前提条件を確認したいと思います。粒の大きさについては、『漢書』の「以子穀秬黍中者」に基づいて、粒の大きさの選別をしてから計測をしています。他の累黍の記事でも「中ほどの大きさの粒を選んで…」という常套句が付くことが多いのですが、具体的なことが書かれていません。しかし、この累黍の場合は、大粒と中粒の比較に踏み込んでいます。ですから、方法は不明ですが、本当に粒の大きさをフィルターしたのだと思います。
次に、黄鐘律管のサイズについてです。『隋書』律暦志、律管圍容黍には「径三分」の説が述べられており、この説を述べている面々がこの累黍でも重要な役割を果たしていますから、「径三分」の説をまずは取るべきだと思います。また、律管圍容黍の「後周玉尺」のデータは、「1200粒では後周玉尺の黄鐘律管を一杯にしない」という北周の宣帝時の上奏文の内容と整合しており、この時のものだと思われますが、「径三分」の説に合い、810立方分には合いません。
北周の宣帝時の累黍(3)~計測結果
このような前提条件のもとになされた開皇年間の累黍ですが、結果は如何に。
若以大者稠累,依數滿尺,實於黃鐘之律,須撼乃容。若以中者累尺,雖復小稀,實於黃鐘之律,不動而滿。
つまり、大粒ならば密に並べて100粒が一寸になるが、黃鐘管(=1龠)に1200粒詰めるには揺らす必要がある。一方、中ほどの粒だと並べる時には間が疎になるが、黃鐘管には無理なく詰まる…
揺らしたにせよ、1200粒が入るのであれば、十分なのでは?と思ういきや、そのやや後に
賓籥之外,纔剩十餘、…
容器の外に十いくつか余りが出る、と。つまり、揺すっても1200入るわけではなく、若干少ないのではと思います。
なお、「律管圍容黍」には、宋氏尺の黄鐘律管に入る黍は、
其一容一千二百,其一容一千四十七
だとされています。これがどこで得られたかは全く書かれていませんが、「北周宣帝時」の上奏文で言及されている検証のデータでは。例えば、中粒だと1200粒、大粒だと1047粒という解釈は可能だと思います。あるいは、揺すると全部入るので1200、揺すらないと1047なのかもしれません。
それはともかく牛弘らは、総合して大粒を使うのが適切だと判断したようで、『漢書』で中ほどの粒を指定していることについては、
- 真ん中くらいの黍粒は意外と数がない「取黍大小,未必得中。」。
- 許慎『説文解字』の「一稃二米」の説明から、「秬黍」は大きい黍なのでは?あるいは今の「大」がかつての「中」なのでは?
と辻褄をあわせようとしています*12。
「平均くらいのものが意外と少ない」という現象は、バラつきのあるもの一般で広くみられることで、これは実際に黍をいじったことのある人の感想だと思います。
北周の宣帝時(3)~黍をどう並べたか
北魏や北斉で議論が割れた、黍の並べ方これについては、おそらくは短軸方向に並べたのではと思います。
次に、『隋書』に引用された、牛弘の上表文です。上で述べた北周の累黍の(失敗の)結果導入された、後周玉尺を「長すぎる」と批判して、
至於玉尺累黍,以廣為長,累既有剩,...
「廣(広)」は前後関係からして、黍の短径です。つまり、長径ではなく短径を黍の大きさとしたわけです。
次に、現代の計測値との整合性です。この累黍の結果採用された尺は、南朝で使われた宋氏尺とよばれるものと等しく、王莽尺の1.064倍、すなわち24.6cmほどだからです。上でも引用した趙氏の論文(赵2010)のデータを見れば、大きめの粒であればこれに近い長さが出ていますし、また隙間を少々許容するのなら、なおさら十分です。一方、長径では大きな値が出過ぎてしまいます。
しかし、「大粒ならば稠密に百粒並べて1尺」という説明をどの程度真にうけてよいものでしょうか?私は、かなりの隙間があったと見ています。根拠は、黄鐘管に詰まっている黍粒の数です。短径で尺を定義した場合、直径3分の黄鐘律管に入る黍の数を趙氏のデータより比例計算すると、 737~800くらいの値が得られます。これでは、1200に全く届きません。
なお、この推定方法は粒の短径=一分として計算するので、昔の黍粒の大きさが小さかったとしても、影響は受けません。ただし、形状がよりスリムだったり、粒の選別があまくて粒の大きさのばらつきが大きいと、影響をうけます。また、器の容積の精度も影響します。
ただ、上に述べたように、実際には1200より少し少なかった可能性があります。仮にそれを「律管圍容黍」の「1047」としておきます。これでは少なすぎる気もしますが、下限としては使えるでしょう。この値ですら、粒の間の隙間で説明しようとすると、短径の0.1倍*13くらいの隙間は必要になります。また、中粒は1200粒入ったとのことですが、同様に短径の0.15倍*14以上の隙間になります。
かなりの無理をしている印象です。
北周の宣帝時(4)~黄管律管の容積
しかし、大粒の黍を選んだ時、若干スカスカしたとはいえ、尺をなんとか100粒で満たすことができたことはたしかです。一方、黄管律管は1047粒と1200粒をかなり下回っています。
「尺はぴったり、容積は溢れる」のならば、単純に升の容積が小さいとなぜ考えなかったのか?なぜ810立方分で試さなかったのでしょうか?「律管圍容黍」のデータをもとに、810立方分にどれだけ入ったであろうかを比例計算でもとめますと、1527粒と1333粒になります(端数切り捨て)。どちらも大きすぎ、敢えて採用する理由はなさそうです。また、前回のべたように、南北朝分裂以前や南朝の短い尺を棄却するには、径三分が都合が良かったと思われます。
北周の宣帝時(5)~検証の真面目さについて
上奏文は、累黍に続いて、
今勘周漢古錢,大小有合,宋氏渾儀,尺度無舛。又依《淮南》,累粟十二成寸。…依文據理,符會處多。
と様々な検証をしたことを述べます。しかし、「周漢古錢」により適合するのは、もう少し短い尺です。『淮南子』の「粟十二粒の幅」は小さすぎて、これまた合うはずがありません。
では検証が適当かといえば、大粒と中粒にわけて計測したり、過去の尺も比較したりと、中々手間暇がかかっています。また、「律管圍容黍」には、いくつもの尺についてのデータが入っていますが、それらは比較的健全です。もしも、このデータのうちいくつかがこの時に得られたのなら、さほどいい加減な計測にはなっていないと思います。
大業年間の累黍
この北周の議論は、「未及詳定」、つまり正式な決定にはいたりませんでした。隋においても、牛弘らが南朝系統の楽律の導入を進言しますが、高祖は当初、「梁樂亡國之音,奈何遣我用邪?」と拒否感を示していました。それが陳を平定後には、「上以江東樂為善」つまり南朝風の楽律の導入を是とし、「廢周玉尺律,便用此鐵尺律」、つまり後周玉尺から鐵尺(宋氏尺の別名)の採用に踏み切ったようです。
ところが、次の煬帝の時代になると、
大業二年,乃詔改用鿄表律調鐘磬八音之器,比之前代,最為合古。(『隋書』律暦志、和聲)
つまり、鿄表尺に基づく音律が脚光をあび、「最も古えに合う」とされ、これを用いるように詔勅が下りました。前回述べた通り、このときのデータと思しきものが「律管圍容黍」にあり、810立方分の黄鐘律管を用いたと思われます。このサイズを用いれば、径三分でも過剰な北魏の尺たちは、問題外だったでしょう。では、他の尺はどうでしょうか。簡単な比例計算なので、数値を出してみます。
推測① | 推測② | |
王莽尺 | 1028 | 1048 |
梁法尺 | 1054 | 1071 |
梁表尺 | 1120 | 1120 |
後周玉尺 | 1613 | 1628 |
宋氏尺 | 1333 | 1263 |
推測①は各々の尺の個数のデータに810/(径三分の体積)をかけたもの。
推測②は梁表尺の個数に(各々の尺の長さ)/(梁表尺の長さ)をかけたもの。
同じ計測の時の出^田を用いる②のほうが、よいと思います。
梁法尺と宋氏尺以外は簡単に棄却できそうですが、宋氏尺は縺れたかもしれません。
参考文献
- 丘光明、中国科学技术史 24 度量衡卷、科学出版社、2001
- 丘光明著、加島淳一郎訳、中国古代度量衡、計量史研究 22[23]2000
- 丘光明、コンラッド ヘルマン著、松本栄寿訳、中国古代度量衡における黄鐘律管と累黍、計量史研究 28−1 [31] 2006
- 児島憲明『蔡元定律呂證辨詳解(一)』人文科学研究 第 130 輯、新潟大学リポジトリより取得
- 小島毅『宋代の楽律論』東洋文化研究所紀要 Vol. 109 p.273-305 (1989) https://doi.org/10.15083/00027188
- 田中有紀、朱載堉の楽律論における『周礼』考工記・嘉量の制―後期の数学書及び楽律書を中心に、経済学季報 63 (4), 119-155, 2014-03-31、立正大学経済学会http://purl.org/coar/resource_type/c_6501
- 赵晓军、山西羊头山黍样实测度量衡标准考、文物世界 wwsj 2010.1
*1: 赵 2010, p.36に丘光明の実験を引用して「丘光明还选取粟做试验:100 粒大粟长约 15 厘米」。120粒でも18cm程度しかありません。一尺は23cm程度のはずですから、『淮南子』の基準も全く無理で、『說苑』はさらに無理。
*2:此說非也。子穀猶言穀子耳,秬即黑黍,無取北方為號。
*3:『毛詩正義』では、「秬は黒黍全般を指し、秠はその中で特に一稃二米であるもの」(則秬是黑黍之大名,秠是黑黍之中有二米者,別名之為秠)としています。
*4:丘光明2001にならい、『隋書』の「東後魏尺實比晉前尺一尺五寸八毫」の「五」を、『宋書』律暦志四によって「三」に改めます。
*5:趙氏の論文には、先行研究のデータの引用もあります。それらと短径の数値を比較すると、趙氏の値は、やや小さいです。しかし、先行研究は長径を計測していないので、趙氏のデータを用いました。ただ、短径の数値の比率で補正しても、以下の議論は変わりません
*6:120粒なら大粒31.8cm、中粒31.2cm、小粒30.7cm。
*7:上記の孝文帝の仲裁内容は、『魏書』から直接とったのではなく、『隋書』に引用された文章です。『魏書』の現行本だと「黄鐘之長」が落ちています。こちらだと、「長径x90=一尺」で意味が変わってしまいます。よって、90粒なら大粒23.85cm。中粒23.5cm、小粒23cm。趙氏の計測を絶対視するわけではないですが、90粒だと短すぎ、『隋書』の引用文の方がもっともらしいです。なお、黒黍以外の品種のデータも論文には載っているのですが、それを併せても結論は変わりません。また、丘光明氏は特にコメントなく、『隋書』の引用文を採用しています。
*8:後因修倉掘地,得古玉斗,以為正器,據斗造律度量衡。『隋書』律暦志、審度
*9:後魏前尺25.6cm、後魏中尺28cm、後魏後尺29.6cm 、東後魏尺 30cm、後周玉尺 26.7cm
*10:=論文の筆者の田中有紀先生
*11:至於玉尺累黍,以廣為長,累既有剩,實復不滿。…其晉、鿄尺量,過為短小,以黍實管,彌復不容、
*12:取黍大小,未必得中。案許慎解,秬黍體大,本異於常。疑今之大者,正是其中,累百滿尺,即是會古。
*13:1047/790の三乗根
*14:1200/790の三乗根