黍を1200粒数える話~南北朝の混乱、『隋史』律暦志からのメモ

背景

前回、黍を基準にした劉歆の度量衡基準の話をしました。それは

  • 1尺=黍100粒の幅、黄鐘律管の長さ=9寸(10寸=1尺)
  • 1龠=黍1200粒の容積=黄律管の容積=810立方分(10分=1寸) 

でした。
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これらの数値は、検討を加えたくなる程度には、現実の黍と合致しています。後世度量衡が乱れた時に注意を引いたのも、理由のないことではりません。ところが、詳しく検討を進めていくと、どうにも辻褄の合わぬところがでてきます。例えば、容積について立てられた二つの基準(1200粒と810立方分)は両立しません(1200粒は多すぎる)。おそらく、解釈しやすい数字を得るため、微調整が入った結果だと思います。

しかも、計測の方法については、『漢書』は「子穀秬黍中」を使えとだけしか書いません。なぜか合わない数値、不明な詳細、これで議論が紛糾しなかったら不思議です。それでも、全然合わないのなら早々に諦められたと思いますが、そこそこ尤もらしい値は出てしまうので、規範として一定の役割を背負うことになったのです。

度量衡の南北朝での拗れた経緯は、『隋書』律暦志に整理されています。この文書は後世に与えた影響も大きいので、読み解いてメモをつくりました。主に丘光明(2001)の第十五章第三節 「《隋书·律历志》十五等尺考」を参考にし、テキストもそこに引用されているものにほぼ、準拠しています。

なぜ『漢書』に頼るのか

『隋書』律暦志・審度は、古来の度量衡基準の歴史的な検討から始まります。まず、『史記』の古代は人体の一部を使ったとの説や、『周礼』春官の「璧羨以起度」とその鄭司農注が紹介されますが、起源譚くらいの意味あいだと思います。前者は素朴に過ぎますし、後者は古えの計量原器ですが、計量原器の亡失への対処には、全く役に立ちませんから。

それらに続いて、馬の尻尾の毛十本の幅を一分(=0.1寸、『易緯通卦驗』)、生糸の一万本の太さが一分(『孫子算術』)、(黍ではなく)粟十二粒を一寸(『淮南子』)、粟一粒が一分(『說苑』)といった基準が紹介されます。これらは互いに矛盾し、後の人々は『漢書』の累黍を用いたとのこと:

後之作者,又憑此說,以律度量衡,並因秬黍散為諸法,其率可通故也。

この選択のくわしい理由は書かれていませんが、以下で推測してみます。

これらの方法は、いずれも小さく均質なものを用い、累黍と通じるものがあります。粟を用いる手法などは、非常に似ています。しかし、馬の毛や生糸の幅は計測が大変そうですし、馬の毛は、バイオリンの弓や筆先で見る限り、細すぎて基準を満たさないと思います。粟の粒も小さ過ぎて、数値が全く合いません*1。対して黍は、ある程度現実的な目安を提示しています(後で述べます)。

それから、馬の毛と粟については、並べる数が少なすぎます。もっとも、累黍の90粒ないし100粒も、ばらつきをならすには桁が一つ二つ足りません。ただ、他の方法に比べると、比較的合理的なのではと思います。

漢書』律暦志の注

さて、実施の細則の情報が詰まったとされた「子穀秬黍中」、注釈書ではどのように理解されたのでしょうか。三国時代の孟康の注では、「子北方,北方黑,謂黑黍也。」、つまり「子」は北を表し、そして北は五行で黒なので黒黍、と。一方、唐の顔師古は孟康の説を非として、「子穀」は穀粒で、「秬」が黒黍を意味する、と*2。また、「中者,不大不小也」つまり「中」はサイズを大中小にわけた上での中だとしました。

また、『漢書』の本文では、黄鐘律管のサイズ は810立方分とされています:

…為八百一十分,…,黃鐘之實也。繇此之義,起十二律之周徑。

ところが、直後に続く注ではそれと矛盾する内容が書かれています。

孟康曰:「律孔徑三分,...;圍九分,...」

つまり、断面の直径が3分との記述があります。長さは9寸=90分なので、黄鐘律管の容積は、採用する円周率にもよりますが、636.17…立方分になってしまいます。この注釈が入っているのは音律について述べた部分なのですが、『隋書』律暦志、律管圍容黍は、注の説を採用しています。また、注を引用するときも、『漢書』の本文と区別していません。

累黍の不安定さ

漢書の累黍の優位を説いた後、『隋書』律暦を志の選者は一転、その不安定さを訴えます。

黍有大小之差,年有豐耗之異,前代量校,每有不同,

黍は粒ごとの大小の差があり、収穫年によっても違う。先人の計測もばらつきがあった…
別の箇所に書かれている指摘としては、

正以時有水旱之差,地有肥瘠之異,取黍大小,未必得中。 

「時期による差の他、土地化痩せているかによっても違う」。これは、北周の宣帝の時の上奏文(後で詳しく触れます)に現れます。

而容黍或多或少,皆是作者旁庣其腹,使有盈虛。

これは、「律管圍容黍」で様々な尺に基づいた黄鐘律管に容れられる黍の数をリストした後のコメントです。梁法尺や宋氏尺には、一つの尺にいくつか異なった数値が報告されており、その理由を容器の製造の精度に求めているのです。

このようにバラつきのある黍を、どのように用いたのか。例えば「累既有剩」、「累百滿尺」などという言葉が用いられていますが、これは尺がまずあって、黍を百並べてみて余ったり、ちょうど満たしたりということです。つまり、候補の尺がいくつかあって、それらのうちのどれが妥当かを比べるのに用いられています。もしも、長さを計測結果から出そうというのであれば、明らかに無謀ですが、こういった使い方ならば多少のバラつきがあったとしても、有用な示唆をあたえた可能性があります。

累黍の話を聞いたとき、まず気になるのがこのバラつきの問題だと思いますが、当時の人々も、やはり気にかけていたがわかります。しかし前回も述べたように、意図的なバイアス、つまり数値あわせのための調整がもともと為されていた可能性は、表立っては論じられていません。

晋初の度量衡

『隋書』『晋書』の律暦志には、晋のはじめの音律家、荀勗による古尺の復活の説明があります。彼は七つの古い尺や律管を比較して、もっとも多くと一致し、しかもバラつき中間となる値を選んでいます。なかなか説得力のある議論で、『隋書』『晋書』律暦志の撰者の李淳風も、荀勗の「晋前尺」を周尺と同一としています。同じころ、算家の劉徽は『九章算術』商功の注の中で、王莽の作らせた「新莽嘉量」の実測から、ほぼ同じ数値を得ています。

この時は、まだまだ資料が多くあって、こういった正攻法が可能だったのでしょう。しかし、少し前にも書きましたが、阮籍という人物が、この尺に基づいた音律が高すぎると文句をつけ、しかも後に荀勗の尺よりわずかに長い尺が出土します。冷静に見れば、その出土尺は意外と新しいか、尺の製造のさいの誤差なのだと思います。ところが、『世説新語』では、阮籍の音感の鋭さの証拠としています。
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つまり、古物の判定は中々難しく、しかも衆議にかけるとなると様々な雑音も加わります。尺の議論が紛糾する気配は、このころ既に見えていました。

南朝における度量衡

南朝では、音律の議論は非常に盛んでした。その基礎となる尺についても、各種の議論があったと思われます。例えば、上でのべた荀勗の古尺の校正の件は、もともとは宋の律暦家・祖沖之の所蔵する銅尺の銘文に記されていたようです。それが梁の武帝『鐘律緯』に、さらにそれが『隋書』に引用され、現代に伝わっています。しかし、この南朝の度量衡議論の詳細は伝わっていません。一方、南朝の音律論については、かなり詳しい記述があります。又、今回は触れませんが、律管と気の感応を見る秘儀的な「候気」がさかんに行われており、これもスペースを割いて紹介されています。

北魏の論争①、縦と横、一稃二米…

この解釈が累黍に顔を出すのは、北魏の累黍です。孝文帝の時から始る議論です。この時の議論は、『魏書』律暦志と元匡の伝(卷19上 景穆十二王上 元匡)から伺うことができます。

議論の中心は、黍の幅の定義です。黍は球ではなく少し長いので、どのように測るかで幅が違ってしまいます。律暦志によると、公孫崇が長径すなわち「一黍之長」を、劉芳が短径すなわち「一黍之廣」を各々主張します。前回のべたように、これら二つの説は、この後もずっと主要な説として残ります。

しかし、この時はさらにもう一つ説がありました。それが元匡の説で、

而中尉元匡以一黍之廣度黍二縫,以取一分。

つまり、短軸方向に、しかし二粒で一分(=0.1寸)を主張します。これは、次に述べる「一稃二米」が念頭にあるように思います。

「一稃二米」:一つの籾殻に二粒の黍?

「秬黍」の正体については、『漢書』の注釈以外に、もう一つ別の系統の論があります。後漢の許慎『説文解字』によると、

秬:黑黍也。一稃二米㠯釀。

と解説しています。「稃」は穀物の粒を覆う、外皮。つまり、一つのもみ殻の中に二粒入っているというわけです。これは、『詩経』大雅の「生民」の毛伝が念頭にあると思われます。すなわち、「誕降嘉種、維維秠、維穈維芑。」への毛伝に

秬,黑黍也。秠,一稃二米也。

とあります。こちらだと、一稃二米なのは「秠」であって「秬」ではないようにみえる*3。「一稃二米」の黍など、そんなにあるものなのか?という疑問が沸々と湧いてきますが、この特殊な「一稃二米」は、このあとも、時々登場して、議論をかく乱します。

北魏の論争②

さらに、『魏書』元匡伝をみると、

故太樂令公孫崇輒自立意,以黍十二為寸(元匡伝)

つまり、公孫崇は12粒で一寸、120粒で一尺を主張していたらしいです。きっと、他にもさまざまな論点があったのでしょう、「三家紛競,久不能決」、つまり互いに譲らないので孝文帝が仲裁するのですが、その内容は

以一黍之廣,用成分體,九十黍之長,黄鐘之長、以定銅尺。

「長径x90=黄鐘の律管長=0.9尺」、言い換えると「長径x100=一尺」です。論議の結果得られた尺の東後魏尺は王莽尺の1.3008倍*4、これは約30cmです。一方、趙氏の論文(赵,2010)の計測では、上黨羊頭山の黒黍を長軸方向にならべると、大粒でも100粒で約26.5cm*5。これでは、東後魏尺に到届きません。おそらく、隙間をあけるなどの努力をしたのだと思います。採用はされなかったようですが、公孫崇の120粒の説も、こういった努力の一環なのでしょう*6*7

ところで、なぜこの経緯の一部が元匡の伝に書かれているのか?それは彼が孝文帝の裁定の後も自説を引っ込めなかったからです。しかも、対立する論者を誹謗するようなことも言ったらしい。その元匡の振る舞いを非難する上奏文が、「伝」の方に収録されているわけです。これを受けて彼を死刑にすべしとの上奏があったようで(世宗にゆるされ、降格のみですむ)、度量衡の議論も中々大変です。

北周武帝、保定年間の累黍

北魏の西半分を受け継いだ北周がやがて華北を統一するのですが、その北周武帝の時にも、「縦か横か」の議論が起こります。この時は結局結論が出ず(累黍造尺,從橫不定)、出土した古尺を用いて後周玉尺を定めます*8

北朝で用いられた尺は押しなべて長めで*9、これらを正当化するには、「縦」、すなわち長径をとるしかないのではと思いますが、それでも揉めたわけですね。

北周の宣帝時の累黍(1)~黍の産地と品種

『隋書』でもっとも詳しい累黍の記述は、北周の宣帝時の上奏文の引用です。文献で見る限り、黍の産地と品種が上黨の羊頭山の黒黍と断定されるのはこの時が初めてで、以後標準的な説になってきます。ここで、少しだけ気になるのが先の保定年間の累黍で、「大宗伯 盧景宣、上黨公孫紹遠、岐國公 斛斯徵等」に担当させた、とあることです。長孫紹遠が調達したのがそのまま用いられたのか?と妄想も膨らみますが…

なお、なぜ上黨羊頭山の黒黍が良いのか?上奏文では

上黨之黍,有異他鄉,其色至烏,其形圓重,

他の産地のものと違って、色が黒くて「丸くてずっしりしてるいるから」だそうです。しかし、それならば北魏南朝の累黍はどうしてたのかなど様々な疑問は湧いてきます。

隋唐、北宋を経て南宋になると、羊頭山は領域の外になってしまい、おいそれとは黍は入手できなくなってしまいます。朱子の弟子の音律理論家の蔡元定の『律呂新書』でもこの点に触れているのですけど、そもそも彼は累黍にあまり積極的でなく、累黍をやらない言い訳に使っている感があります。

明の朱載堉は十二平均律を発明した音律家ですが、彼は黍の産地について、『律呂正論』にて以下のようにのべているそうです(田中, 2014, p.148から引用。)

この三県(筆者*10注: 羊頭山は長治県, 長子県, 高平県の三県に広がる ) が産出する黍は, みな羊頭山の黍と名づけられている . つまり , 山からの距離を問わず, ただ通常より大きい黍を選べば, なんでも良いのだ。

羊頭山の黍というだけでは、十分限定されないという主張のようです。

上黨羊頭山の地図(朱載堉『律呂正論』)
北周の宣帝時の累黍(2)~累黍の前提

北周の宣帝時の累黍に話を戻します。この累黍は中々大体的な検証であったようで、他の尺についても累黍をして比較しているようです*11

詳しいことを述べる前に、彼らが採用している前提条件を確認したいと思います。粒の大きさについては、『漢書』の「以子穀秬黍者」に基づいて、粒の大きさの選別をしてから計測をしています。他の累黍の記事でも「中ほどの大きさの粒を選んで…」という常套句が付くことが多いのですが、具体的なことが書かれていません。しかし、この累黍の場合は、大粒と中粒の比較に踏み込んでいます。ですから、方法は不明ですが、本当に粒の大きさをフィルターしたのだと思います。

次に、黄鐘律管のサイズについてです。『隋書』律暦志、律管圍容黍には「径三分」の説が述べられており、この説を述べている面々がこの累黍でも重要な役割を果たしていますから、「径三分」の説をまずは取るべきだと思います。また、律管圍容黍の「後周玉尺」のデータは、「1200粒では後周玉尺の黄鐘律管を一杯にしない」という北周の宣帝時の上奏文の内容と整合しており、この時のものだと思われますが、「径三分」の説に合い、810立方分には合いません。

北周の宣帝時の累黍(3)~計測結果

このような前提条件のもとになされた開皇年間の累黍ですが、結果は如何に。

若以大者稠累,依數滿尺,實於黃鐘之律,須撼乃容。若以中者累尺,雖復小稀,實於黃鐘之律,不動而滿。

つまり、大粒ならば密に並べて100粒が一寸になるが、黃鐘管(=1龠)に1200粒詰めるには揺らす必要がある。一方、中ほどの粒だと並べる時には間が疎になるが、黃鐘管には無理なく詰まる…
揺らしたにせよ、1200粒が入るのであれば、十分なのでは?と思ういきや、そのやや後に

賓籥之外,纔剩十餘、…

容器の外に十いくつか余りが出る、と。つまり、揺すっても1200入るわけではなく、若干少ないのではと思います。

なお、「律管圍容黍」には、宋氏尺の黄鐘律管に入る黍は、

其一容一千二百,其一容一千四十七

だとされています。これがどこで得られたかは全く書かれていませんが、「北周宣帝時」の上奏文で言及されている検証のデータでは。例えば、中粒だと1200粒、大粒だと1047粒という解釈は可能だと思います。あるいは、揺すると全部入るので1200、揺すらないと1047なのかもしれません。

それはともかく牛弘らは、総合して大粒を使うのが適切だと判断したようで、『漢書』で中ほどの粒を指定していることについては、

  • 真ん中くらいの黍粒は意外と数がない「取黍大小,未必得中。」。
  • 許慎『説文解字』の「一稃二米」の説明から、「秬黍」は大きい黍なのでは?あるいは今の「大」がかつての「中」なのでは?

と辻褄をあわせようとしています*12

「平均くらいのものが意外と少ない」という現象は、バラつきのあるもの一般で広くみられることで、これは実際に黍をいじったことのある人の感想だと思います。

北周の宣帝時(3)~黍をどう並べたか

北魏北斉で議論が割れた、黍の並べ方これについては、おそらくは短軸方向に並べたのではと思います。

次に、『隋書』に引用された、牛弘の上表文です。上で述べた北周の累黍の(失敗の)結果導入された、後周玉尺を「長すぎる」と批判して、

至於玉尺累黍,以廣為長,累既有剩,...

「廣(広)」は前後関係からして、黍の短径です。つまり、長径ではなく短径を黍の大きさとしたわけです。

次に、現代の計測値との整合性です。この累黍の結果採用された尺は、南朝で使われた宋氏尺とよばれるものと等しく、王莽尺の1.064倍、すなわち24.6cmほどだからです。上でも引用した趙氏の論文(赵2010)のデータを見れば、大きめの粒であればこれに近い長さが出ていますし、また隙間を少々許容するのなら、なおさら十分です。一方、長径では大きな値が出過ぎてしまいます。

しかし、「大粒ならば稠密に百粒並べて1尺」という説明をどの程度真にうけてよいものでしょうか?私は、かなりの隙間があったと見ています。根拠は、黄鐘管に詰まっている黍粒の数です。短径で尺を定義した場合、直径3分の黄鐘律管に入る黍の数を趙氏のデータより比例計算すると、 737~800くらいの値が得られます。これでは、1200に全く届きません。

なお、この推定方法は粒の短径=一分として計算するので、昔の黍粒の大きさが小さかったとしても、影響は受けません。ただし、形状がよりスリムだったり、粒の選別があまくて粒の大きさのばらつきが大きいと、影響をうけます。また、器の容積の精度も影響します。

ただ、上に述べたように、実際には1200より少し少なかった可能性があります。仮にそれを「律管圍容黍」の「1047」としておきます。これでは少なすぎる気もしますが、下限としては使えるでしょう。この値ですら、粒の間の隙間で説明しようとすると、短径の0.1倍*13くらいの隙間は必要になります。また、中粒は1200粒入ったとのことですが、同様に短径の0.15倍*14以上の隙間になります。

かなりの無理をしている印象です。

北周の宣帝時(4)~黄管律管の容積

しかし、大粒の黍を選んだ時、若干スカスカしたとはいえ、尺をなんとか100粒で満たすことができたことはたしかです。一方、黄管律管は1047粒と1200粒をかなり下回っています。

「尺はぴったり、容積は溢れる」のならば、単純に升の容積が小さいとなぜ考えなかったのか?なぜ810立方分で試さなかったのでしょうか?「律管圍容黍」のデータをもとに、810立方分にどれだけ入ったであろうかを比例計算でもとめますと、1527粒と1333粒になります(端数切り捨て)。どちらも大きすぎ、敢えて採用する理由はなさそうです。また、前回のべたように、南北朝分裂以前や南朝の短い尺を棄却するには、径三分が都合が良かったと思われます。

北周の宣帝時(5)~検証の真面目さについて

上奏文は、累黍に続いて、

今勘周漢古錢,大小有合,宋氏渾儀,尺度無舛。又依《淮南》,累粟十二成寸。…依文據理,符會處多。

と様々な検証をしたことを述べます。しかし、「周漢古錢」により適合するのは、もう少し短い尺です。『淮南子』の「粟十二粒の幅」は小さすぎて、これまた合うはずがありません。

では検証が適当かといえば、大粒と中粒にわけて計測したり、過去の尺も比較したりと、中々手間暇がかかっています。また、「律管圍容黍」には、いくつもの尺についてのデータが入っていますが、それらは比較的健全です。もしも、このデータのうちいくつかがこの時に得られたのなら、さほどいい加減な計測にはなっていないと思います。

大業年間の累黍

この北周の議論は、「未及詳定」、つまり正式な決定にはいたりませんでした。隋においても、牛弘らが南朝系統の楽律の導入を進言しますが、高祖は当初、「梁樂亡國之音,奈何遣我用邪?」と拒否感を示していました。それが陳を平定後には、「上以江東樂為善」つまり南朝風の楽律の導入を是とし、「廢周玉尺律,便用此鐵尺律」、つまり後周玉尺から鐵尺(宋氏尺の別名)の採用に踏み切ったようです。

ところが、次の煬帝の時代になると、

大業二年,乃詔改用鿄表律調鐘磬八音之器,比之前代,最為合古。(『隋書』律暦志、和聲)

つまり、鿄表尺に基づく音律が脚光をあび、「最も古えに合う」とされ、これを用いるように詔勅が下りました。前回述べた通り、このときのデータと思しきものが「律管圍容黍」にあり、810立方分の黄鐘律管を用いたと思われます。このサイズを用いれば、径三分でも過剰な北魏の尺たちは、問題外だったでしょう。では、他の尺はどうでしょうか。簡単な比例計算なので、数値を出してみます。

推測① 推測②
王莽尺 1028 1048
梁法尺 1054 1071
梁表尺 1120 1120
後周玉尺 1613 1628
宋氏尺 1333 1263

推測①は各々の尺の個数のデータに810/(径三分の体積)をかけたもの。
推測②は梁表尺の個数に(各々の尺の長さ)/(梁表尺の長さ)をかけたもの。
同じ計測の時の出^田を用いる②のほうが、よいと思います。

梁法尺と宋氏尺以外は簡単に棄却できそうですが、宋氏尺は縺れたかもしれません。

参考文献
  1. 丘光明、中国科学技术史 24 度量衡卷、科学出版社、2001
  2. 丘光明著、加島淳一郎訳、中国古代度量衡、計量史研究 22[23]2000
  3. 丘光明、コンラッド ヘルマン著、松本栄寿訳、中国古代度量衡における黄鐘律管と累黍、計量史研究 28−1 [31] 2006
  4. 児島憲明『蔡元定律呂證辨詳解(一)』人文科学研究 第 130 輯、新潟大学リポジトリより取得
  5. 小島毅『宋代の楽律論』東洋文化研究所紀要 Vol. 109  p.273-305 (1989) https://doi.org/10.15083/00027188
  6. 田中有紀、朱載堉の楽律論における『周礼』考工記・嘉量の制―後期の数学書及び楽律書を中心に、経済学季報 63 (4), 119-155, 2014-03-31、立正大学経済学会http://purl.org/coar/resource_type/c_6501
  7. 赵晓军、山西羊头山黍样实测度量衡标准考、文物世界 wwsj 2010.1

*1: 赵 2010, p.36に丘光明の実験を引用して「丘光明还选取粟做试验:100 粒大粟长约 15 厘米」。120粒でも18cm程度しかありません。一尺は23cm程度のはずですから、『淮南子』の基準も全く無理で、『說苑』はさらに無理。

*2:此說非也。子穀猶言穀子耳,秬即黑黍,無取北方為號。

*3:『毛詩正義』では、「秬は黒黍全般を指し、秠はその中で特に一稃二米であるもの」(則秬是黑黍之大名,秠是黑黍之中有二米者,別名之為秠)としています。

*4:丘光明2001にならい、『隋書』の「東後魏尺實比晉前尺一尺寸八毫」の「五」を、『宋書』律暦志四によって「三」に改めます。

*5:趙氏の論文には、先行研究のデータの引用もあります。それらと短径の数値を比較すると、趙氏の値は、やや小さいです。しかし、先行研究は長径を計測していないので、趙氏のデータを用いました。ただ、短径の数値の比率で補正しても、以下の議論は変わりません

*6:120粒なら大粒31.8cm、中粒31.2cm、小粒30.7cm。

*7:上記の孝文帝の仲裁内容は、『魏書』から直接とったのではなく、『隋書』に引用された文章です。『魏書』の現行本だと「黄鐘之長」が落ちています。こちらだと、「長径x90=一尺」で意味が変わってしまいます。よって、90粒なら大粒23.85cm。中粒23.5cm、小粒23cm。趙氏の計測を絶対視するわけではないですが、90粒だと短すぎ、『隋書』の引用文の方がもっともらしいです。なお、黒黍以外の品種のデータも論文には載っているのですが、それを併せても結論は変わりません。また、丘光明氏は特にコメントなく、『隋書』の引用文を採用しています。

*8:後因修倉掘地,得古玉斗,以為正器,據斗造律度量衡。『隋書』律暦志、審度

*9:後魏前尺25.6cm、後魏中尺28cm、後魏後尺29.6cm 、東後魏尺 30cm、後周玉尺 26.7cm

*10:=論文の筆者の田中有紀先生

*11:至於玉尺累黍,以廣為長,累既有剩,實復不滿。…其晉、鿄尺量,過為短小,以黍實管,彌復不容、

*12:取黍大小,未必得中。案許慎解,秬黍體大,本異於常。疑今之大者,正是其中,累百滿尺,即是會古。

*13:1047/790の三乗根

*14:1200/790の三乗根

黍を1200粒数える話~中国の度量衡

最近、米が高い。だいたい、茶碗一杯分のご飯はどのくらいの量なのか?と検索していたところ、「一合のお米は六四八二七粒」だという話が引っかかりました。結構有名な話らしく、粉体工学の専門家の方が、理論的な計算のあらすじを説明したサイトもありました*1。そこで見たキーワード(粒度分布など)で検索すると、粒の大きさやその平均値をどう定義して計測するのか、サンプリングは…といった話が続々とひっかかりました。粉粒の計測も中々大変だな、と改めて思いました。

黍で決まる度量衡

こんな話を読んで思い出したのが、古代中国の度量衡の基準の話です。『漢書』律暦志によると、

  • 黍を90粒並べた長さが9寸。(寸=23.1cm前後)
  • 黍1200粒分の容積が1龠。2龠=1合。(龠=10cm^3前後)
  • 上記の分量の黍の重さが12銖。(24x16銖=1斤=240~250g)

という基準を定めました。

これは、新の王莽が劉歆に作らせた基準です。度量衡の全てを黍だけで済ませているのは、中々見事です。なお、黍で決めると言っても、尺を作るたびに数えたわけではありません。基準に基づいて原器を作り、それ以降は原器を参照したと思われます。原器のうち、容積の原器の集合体「新莽嘉量」はもっとも有名で、『漢書』律暦志にも説明があります。実務上は原器の方こそが基準であって、黍の数は目安ないしは説明のための方便だと考えた方がよいと思います。

劉歆の度量衡は古代にしてはよくできたシステムだと思うのですが、ただ一点、長さと容積の単位が独立に与えられて点が気になります。しかも、『漢書』律暦志や「新莽嘉量」の銘文によると、「龠」のマスは810立方分(一分は寸の1/10)となるように設計されています*2。つまり、容積の単位の特徴づけがニ通りあるわけです。果たしてこれらの基準は同じ容積を定義するのか?つまり、810立方分の升に黍は1200粒入るのか?という疑問が生じます。(これは、あとで詳しく検討します。)

乱れた度量衡、復元への努力

王莽の制定した度量衡は、後漢においても引き継がれますが、その終わりの頃には早くも乱れが生じます。苦心して製作した新莽嘉量も、五胡十六国前秦での目撃情報を最後に、行方をくらませてしまいます。三国時代から南北朝時代にかけての戦乱の時代、特に華北のおける度量衡の乱れは著しいものがありました。

北魏が登場して河北が統一され、孝文帝による漢化政策が始まると、音律と度量衡についての議論も開始されます。南朝でも、梁の武帝の時にはかなり豊かな議論があり、武帝自らが優れた音律書『鐘律緯』を著しています。

当時、古い計量器や古銭などの物証もありましたが、時代や真贋を見分けるのは簡単ではありません。他に何か手掛かりはないものか?そこで『漢書』の黍を数える方法、「累黍」が注意を引いたのです。

音律との関係、激しい論争

先に進む前に、劉歆の度量衡と音律の関係について触れておきます。

尺の基準で、なぜ「10寸が黍100粒」ではなくて、「9寸が黍90粒」なのでしょう?これは、音律を定める律管の長さなのです。中国の音律は、現代と同様の十二音階で、現代のC音(ド)に相当する役割を担う音を「黄鐘」といいます*3。この「黄鐘」の音を出す律管は長さ9寸、断面積0.9平方寸の円筒で、この体積が「1龠=0.5合」なのです。(なお後世の累黍においては、100粒並べて一寸になるかを見ることが多い。)

中国では「亡国の音は悲哀だ、民が苦労しているのがわかる」*4などといった風に、音楽と政治を強く結びつける言説がありました。そこで、音律の乱世の後の音律の復興には様々な思惑がこめられ、議論もヒートアップしました。
gejikeiji.hatenablog.com

あまりに簡単な『漢書』の記載

累黍の実施にあたって、最初の問題は『漢書』の余りにも簡単な記述です。「子穀秬黍中」を使うと書いてあるだけで、ここから必要な詳細を推測しないといけません。いきおい、論者によって意見が分かれ、論争が生じがちでした。現代の再現実験(赵,2010)でも、扱いに苦慮していましす。

まず、黍は球体ではありませんから、幅をどう定義するかは悩ましいです。ほぼ回転楕円体なので、歴史的には、短径(広、幅、横)または長径(長、縦)が採用されてきました。どちらを用いるべきかは、何度も激しい論争が起きています。趙氏の論文にある再現実験のうち、氏本人は両方を計測し、二つの先行研究(万国鼎、丘光明)では短径のみです。

つぎに、黍の大きさの選別。100粒程度の数では、個々の粒のばらつきは、さほど平均化されません。ですから、適切なサイズの粒を篩い分けて用いないと、安定した結果になりません。これについては、「子穀秬黍中」の「中」を大中小の中の意味でとる解釈が古くからあり、黍を大中小にわけて計測しています。ただし、「中」を「適切なサイズ」とする解釈もありました。現代の再現実験でも大中小に分けて、ただし「中」の解釈が定まらないことを踏まえ、丘氏と趙氏は三つとも計測しています。

それから、黍には様々な品種があります。これは北周の宣帝以降、上黨羊頭山の黒黍が好まれました。大粒で、しかも比較的球形に近いことが理由のようです。ただ、北宋時代でも他の黍を用いた事例がありますし、北周以前の累黍、とくに『漢書』でどうだったかはよくわかりません。そこで現代の再現実験では、他の品種も参考のため計測されています。

現代の再現実験

趙氏の論文(赵,2010)では、氏本人の計測と二つの先行研究が紹介されています。以下、論文のデータを紹介しますが、煩雑をさけるため、黒黍以外の品種のデータは取り上げません。また、以後はほとんどの場合、趙氏の計測したデータだけを用い、他のデータは参考にとどめることにします。

趙氏の黒黍の計測によると、

計測者
短径x100(cm) 23.0 22.2 20
長径x100(cm) 26.5 26.1 25.6
短径x100(cm) 24.5 22.5 20.5
短径x100(cm) 24

趙氏は、これらのデータから長径では長すぎて王莽尺に合わない*5とします。妥当な判断だと思います。一方、短径の方は検討する気持ちを起こさせる程度には、王莽尺の23.1cmに近いと思います。

趙氏は、23.1cmはどちらかというと大きめであることを指摘し、さらに踏み込んで劉歆は大粒を用いたと推定しています。しかし、中粒との差も1cm以下しかありません。もしも粒の間に0.1mmの隙間があったり、粒を斜めに並べたら、この差は埋まってしまいます。ここでは一端態度を留保して、後で他の材料も併せて考えます。

ざっくりというと、劉歆の基準は検討の価値のある程度には正確であり、しかし腑に落ちない点も多くあります。

容積の基準、1200粒の黍

すでに述べたように、『漢書』では「1龠=810立方分(1分=0.1寸=0.01尺)に1200粒の黍が入る」とされました。これも、「100粒分の長さ」より位置づけが軽いように見えますが*6、やはり尺の検証に用いられました。

この手の基準は、適切に設定されていさえすれば、非常に有用だと思います。まず、二つの基準でクロスチェックができる時点で、より確実になります。その上、容積は尺の三乗に比例するので、少し尺の定義がかわると意外と大きく容積がかわります。例えば、尺が1.05倍になったら容積は1.157倍になりますから、かなり敏感なチェックになります。

問題は、この1200粒という数値が、不適切なことです。つまり810立方分の黄鐘管には、1200粒も黍は入りそうにないのです。これは黍の大きさとは関係のない話です。大きめの粒を選ぶと尺が伸び、黄鐘律管の容積は増えます。しかし、詰め込むべき粒も大きくなりので、結局中に入る黍の数は変わりません。要するに、形状や大きさのバラつきの問題です*7

以下簡単のために、黍を球だとして数理的に考察します。長径は短径の1.16倍くらいあり(趙氏のデータによる)、よって実際は以下の話よりも厳しい状況になります。

まず、ざっくりとした考察をします。南宋の蔡元定『律呂新書』では

今驗黄鐘律管、毎長一分内實十三黍又三分黍之一、(律呂新書、律呂證辨、律長短圍徑之數第二)

つまり、黄鐘律管は長さが90分なので、一分、すなわち黍一粒分の層ごとに13と1/3粒入らないといけないと指摘しています。断面積が9平方分ですから、正方形状に黍を並べると9つしか入りません。もちろん、これは並べ方が最適でないですし、層と層の間にも押し込めたりするのですけど、ここからさらに4粒以上押し込める気はしないでしょう。

この球の詰め込みという問題は、かなりの研究があります。今の場合、若干サイズにばらつきがあり、ランダムに放り込んでから揺らして詰め込むという設定があてはまると思います。そのような場合は、厳密な解析は難しいのですが、計算機によるシミュレーションで、充填率は65〜66%くらいの値が出ています*8。810x0.66立方分を平均的な大きさの球の体積\pi/6で割ると、1022以下*9。ただし、理論に取り込めていない事情もあろうし、シミュレーションの限界や統計的なばらつきもあるだろうから、余裕を見て「1100は厳しい」としておきます。繰り返しになりますが、これは黍を短径を直径とする球と見立てているので、実際はこれよりも少ないと思います。

充填率とばらつきの関係。横軸:最大の粒子の直径が8の時の最小の直径。縦軸:充填率。球はκ=1。Xu, et. al. 2022

ここで、趙氏の論文のデータを見てみます。氏は、10{\rm cm}^3(≒王莽尺の1龠)に入る黍の数と、1200粒の容積を計測しています。後者からも10{\rm cm}^3に入る黍の数が推測できますから、その値も書いておきます。これらは片方から残りを推算したのではなく、独立の計測と思われます。

100x短径(cm) 23 22.2 22
10{\rm cm}^3に入る数 960 1085 1088
1200粒の体積 11.6 10.5 10.4
体積からの推算 1034 1142 1153

100粒で一寸(=23.1cm)になる黍は、1龠に1000粒くらい入る感じでしょうか。先に紹介した理論の結果とも、あっていると思います。1200には程遠いです。

北宋の景祐年間、阮逸らは短径を用いて累黍を行い景祐律尺を定めますが、その結果を評価した丁度は以下のように報告します:

然逸等以大黍累尺,小黍實龠,自戾本法 (『玉海』巻八)

つまり、「尺を得るときは大粒の黍、1龠の容器につめるのは小粒の黍を用いており、誤った方法だ」と批判しています。そうでもしないと、基準を満たせなかったのでしょう。それから、范鎮という音律家は

今新尺横置之不能容一千一百黍,(『玉海』巻七)

つまり、「新尺は短径に基づくが、その1龠の容器には1100粒も入らない」と。

810立方分と1200粒の矛盾は、累黍を大いに混乱させました。

劉歆の基準の性質

そもそも、劉歆はどのような意図でこの黍による基準を作ったのでしょうか。

実は、王莽尺はそれ以前の尺から変わっていません。容積に関しては、実務上は嘉量の寸法で決まってしまっています。また、重量に関しては、水や金属を用いた基準も近い時代の史書に見えます*10。このようなことを踏まえると、劉歆の説は度量衡の定義ではなく、説明なのだと思います。

その前提で考えると、黍を100粒並べて一尺に満たなかった場合、尺の定義を変える選択肢は最初からありません。また、劉歆の数秘術的な思想からすれば、解釈のつかない数値、例えば104粒などという数を採用することもありえません。1200粒についても同様です。すると、なんらかの形で計測を調整して数字を合わせた可能性があると思います。

ところが、後世、累黍は尺の復元方法と見做されました。『隋書』律暦志では、様々な誤差の要因がかなり的確に指摘されています。しかし、意図的なバイアスの可能性は全く考慮されておらず、基本的には「黍で尺がきまる」とされました。この命題に本格的な疑いが生じたのは、唐のあと、宋に入って論争が煮詰まってからです。

しかし累黍で尺が定まらない事実は如何ともし難く、歴史上の事例を見ると、大抵は、古物の考察を併せて用いたり、あるいは慣習で使われている尺の比較や検証、調整に用いられました*11

なお、黍の短径を用いた尺の最長は、宋の景祐律尺で、25.2cmほどです*12。先ほど、「大粒を並べて尺を起こし、小粒を詰めて1200粒を検証している」と指摘された尺です。後にほぼ同じメンバーがこれを改訂して皇祐中黍尺を定めますが、これは24.7cm(王莽尺の1.07倍)と少しだけ王莽尺に近づきました。つまり、1~2cm程度の変動は許容されたし、逆にこの程度には抑えられたともいえます。

どの程度の数値あわせがあったのか

では、一体どの程度の数字合わせがなされているのでしょうか。例えば容積の基準を満たすために尺を水増しするなら、どの程度増やせばよいのでしょうか?

すでに指摘したとおり、わずかの尺の増加は、1龠の体積を意外と大きく変化させます。尺の長さを1.05倍にすれば、1龠は1.156倍。よって入る黍粒は1100粒を超えてきて、約1200粒と言い張れる水準になってきます。

この程度なら、例えば黍と黍の間に僅かな隙間をあければなんとかなりそうです。

少し並べる方向が傾くとどうなるかも考えてみました。最小値近辺では少々角度を傾けても、ほとんど幅は変わりません*13。しかし、例えば30度くらい傾ければ影響がでます。ですから、意図的に斜めに並べるなら、隙間と同様の効果を得ることができます。ただし南北朝以降、黍を並べる方向が明示的に議論に上るようにるので、これ以降は斜めの可能性はないと思います。

つまり、趙氏の計測で「中」といっている大きさの黍を用い、長さを無理のない程度に水増しすれば、容積の基準も十分、ごまかせる程度にはなりそうです。

ただし、仮にそうだとしても、この大きさが当時の中程度だったとは限りません。また、『漢書』の「中」の解釈についても、何の示唆もないと思います。

この他にも、1200粒の方はあまりきっちりと選別されておらず、小さ目の粒が混じっていたという線も考えられます。あるいは、これらの要素が少しずつ混じっているかもしれません(なお、趙氏の見解については、付録で論じました。)。

尺はどう変化してきたか

すでに述べたように、南北朝時代、中国の度量衡は大きく変動します。実に多くの尺が制定されるのですが、『隋書』律暦志はほぼ同じ長さのものを整理して、以下のように15に纏めます(隋書十五等尺):

尺の名前 比率(周尺=1) cm
1 周尺(王莽尺、晋前尺) 1 23.1
2 梁法尺 1.007 23.26
3 梁表尺 1.0221 23.61
4 漢官尺 1.0307 23.81
5 魏尺 1.047 24.16
6 晋後尺 1.062 24.53
7 後魏前尺 1.107 25.57
8 後魏中尺 1.211 27.97
9 後魏後尺 1.281 29.59
10 東後魏尺 1.3008 30.048
1.508 34.67
11 後周玉尺 1.158 26.75
12 宋氏尺 1.064 24.58
13 万宝常所造律管尺 1.186 27.40
14 劉曜渾儀 1.05 24.26
15 梁朝俗間尺 1.071 24.74

なお、ここで「10.東後魏尺」の値は『隋書』の現行本だと下の段の値なのですが、丘光明氏は『宋史』の記述をもって上段のように改めています。

上記のうち、1~4が南北朝分裂前。5~11と13が北朝の系統で、その他が南朝の系統です。南朝の系統は、おおむね王莽尺の~1.064倍以下で推移していて、変化は比較的小さいといえます。累黍においては、短径を用いたと推測するのが自然で、実際、「宋氏尺」を論じた北周宣帝時の累黍では短径を用いています。それでも若干過大ではありますが(これは、また別の機会に論じます)。一方、北朝は一番短い後魏前尺ですらすでに1.1倍を超え、最大1.3倍の30センチのものが登場します。累黍においては、例えば北魏の孝文帝の時の事例では、長径を用いています。ただ、北朝においても長径を用いることがすんなりと受け入れられたわけではなく、激しい論争がありました。

唐に入ると小尺、大尺という二通りの尺があります。前者は南朝系統の尺に近く、主に音律や天文に用いられました。後者は前者のほぼ1.2倍ほどあって、行政や建築などに用いられました。

以後、清の時代まで用途によって複数の企画の尺が併存する状況が続きました。ただ、宋の時代には音律に大尺と同程度の尺(太府寺尺)を持ち込む議論があって(李照の音律など)大いに揉めることになります。よってここでも、累黍で短径と長径のどちらを用いるべきかの論争が起こりました。

長径による起尺と容積

長径を用いることの問題の一つに、容量の1200粒基準があります。長径の100倍を一尺にすると、逆に沢山入りすぎてしまうのです。このことは、趙氏のデータから、次のように推算できます。例えば、大粒の黒黍の長径x100を一尺とすると、一尺は26.5cm。よって、1龠は


 \displaystyle
810\times (0.265)^3 {\rm cm}^3
です。これと、10{\rm cm}^3にはいる黍の数および1200粒の体積から、1龠にはいる黍の数を計算できます。大中小の黒黍のデータから、1450~1650の間の数値が得られます。

これによっても、劉歆は長径を用いてはいなかっただろうと推測できます。

1200粒という数値はあまり適切な数値ではないと思います。しかし、容積は尺のわずかな増大で大きく増えるため、このように荒い数であっても、ある程度の情報を与えてくれます。

黄鐘の律管の断面積

さて、ここまでは1龠の容器、すなわち黄鐘の律管の大きさを810立方分としてきました。これは、『漢書』の本文や新莽嘉量の銘文に記されており、非常に確かな説です。

しかし、歴史的には同じくらい有力な異説がありました。黄鐘の律管は、断面積が9平方分、長さが9寸の円筒でした。そして断面積は「圍九分」と表現されてきました。そこで、この「圍」を円周と解釈し、円周率を3とすると、直径が3分ということになります。この解釈は後漢の音律家・蔡邕の『月令章句』、『漢書』の孟康注、『隋書』律暦志の「律管圍容黍」で採用されています。この解釈の通りに律管を作ると体積は810x円周率÷4,つまり636.17...立方分に減ってしまいます。(ただし、採用される円周率の数値によって、計算値は若干変わってきます。)

もし、長径に基づく尺で径三分を採用したならば、容れられる黍の数は1140~1290粒の間だと推測され、ほぼ妥当です(推測方法は、今までと同様)。ただ、例えば北魏の累黍で径三分の黄鐘管を使った証拠は特にありません。次の節で検討する「律管圍容黍」のデータは、径三分の黄鐘管で北魏の尺を検証していますが、用いている黍は尺の長さと無関係のようです。おそらくは北周や隋で検証のために計測されたデータだと思われます(後述)。

『隋書』律暦志「律管圍容黍」のデータの検討

議論を進める前に、『隋書』律暦志「律管圍容黍」のデータをみてみたいと思います。ここには、様々な尺で設計した黄鐘管に入る黍の数がリストされています。

以下では、「黍の数が容積に比例しているか」をチェックします。「審度」に書かれている尺の相対的な比率を使って、「王莽尺による律管ならば何粒か」がわかります。

また、黄鐘管の設計なのですが、810立方分と径三分のどちらかはわかりません。そこで、尺の比率で正規化したものに、さらに810立方分と径三分の黄鐘管の容積の比率をかけた数値も併記します。

仮にもとの数値が810立方分の黄鐘管を用いていれば、二列目の数値が王莽尺の810立方分の黄鐘管に入る黍の数です。もしも径三分を用いていれば、三列目がそれにあたります。

尺の名前 隋書のデータ 尺の長さで正規化 810立方分
王莽尺(晋前尺) 808 808 1028
梁法尺 828 810 1032
梁表尺 925 866 1102
910 852 1085
1120 1048 1335
漢官尺 939 857 1091
後魏前尺 1115 821 1046
後魏中尺 1555 875 1114
後魏後尺 1819 865 1101
東後魏尺① 2869 1303 1659
東後魏尺② 2869 848 1080
後周玉尺 1267 815 1038
宋氏尺 1200 996 1268
1047 869 1106
万宝常所造律管尺 1320 791 1007

これの二番目及び三番目の列は、どちらもほどよくバラついています。つまり、「複数の尺についての計測値のふりをして、実は一つのデータから比例計算をした」という可能性はなさそうです。また、バラつきも極端ではなく、健全な計測が行われたことが伺われます。

これの一番右側の列の数値は、一部の例外を除いてほぼ1000~1050, 多くとも1100くらいです。若干多めですが、上で引用した趙氏のデータと整合していると思います。なお、趙氏の様々なデータから、短径で起こした尺の黄鐘管に何粒入るかを推計すると、趙氏の六つのデータのうちどれを用いるかによって値はばらつき、分散は35くらいです*14。それに、異なった機会の計測が混じっているなら、黍をの他の条件がばらつくでしょうし、器の加工精度の問題もあります。この程度のバラつきは、健全な範囲だと思います。

つまり、用いられた黄鐘律管は径三分であるものが多いと思われます。なお、「律管圍容黍」のデータの提示の前に、黄鐘管の直径についての議論が整理され、

開皇九年平陳後,牛弘、辛彥之、鄭譯、何妥等,參考古律度,各依時代,制其黃鐘之管,俱徑三分,長九寸。度有損益,故聲有高下;圓徑長短,與度而差,故容黍不同。今列其數云。

と、径三分を良しとした後にデータが続きます。ですから、データに径三分が多いのは、当然だと思います。また、開皇九年の議論の際にとられたデータがリストに含まれているであろうことも、推測できます。

また、尺の長さ二列目三列目の数値はほぼ無関係です。もしも、100粒で一尺になるように選んだ黍を用いたなら、このようにはならないはずです。特に北魏の尺などは、可能な限り大きい粒を選び抜きそうなものです。しかし、これらの尺も特に二列目や三列目は特に少なくはありません。おそらく、後に(おそらくは、上で述べた開皇九年の議論や、下で触れる北周宣帝時の上奏文のもの)複数の尺を検証のためにとられたデータだと思われ、どれも同じような大きさの黍を用いたのでしょう。

例外的な値の説明

「律管圍容黍」の中で、例外
的に大きな数値をだしているのは以下の三つです。

  1. 梁表尺の三番目のデータ
  2. 東後魏尺①
  3. 宋氏尺の一番目のデータ

梁表尺の三番目のデータは、二番目の列の値が「1048」ですから、元々810立方寸の黄鐘管で計測されていたと考えると、辻褄が合います。また、「審度」をよむと、隋の大業年間に、この尺が古制にあうと判定された旨が書かれています*15。実際、元データは1120と良い感じです。

東後魏尺①なのですが、これは東後魏尺の長さを、丘氏にならって、『宋史』律暦志への引用を元に修正して計算しました。すぐ下の東後魏尺②は、『隋書』の現行本の値で計算したもので、こちらは正常な値になっています。よって、この律管圍  容黍の計測は、東後魏尺②に従って行われた可能性が高いと思います*16

最後の宋氏尺のデータについて。この尺は北周宣帝時の牛弘ら上奏文で推されており、その中で「後周玉尺は長過ぎる」とされています。「律管圍容黍」の後周玉尺のデータは、径三分で測られたものだと思われますから、このときの黄鐘律管はこの規格なのだと思います。また、「開皇九年平陳後」と同じく、牛弘がリードしていますし。

この上奏文には、大粒の黍100粒で尺をちょうど満たし、中粒1200が黄鐘管無理なく収まったと書かれています。もしもこの中粒の数値であれば、辻褄が合います。

ただ、これも二列目の値は正常です。すでに述べたように、後の大業年間の梁表尺の議論では810立方分を採用しているので、そちらの規格の黄鐘管で検証する機会があった可能性もあると思います。あるいは、曖昧な「入れられた」といった記録を1200粒入ったと理解してしまったのかも知れません。

いずれにせよ、異常な値を出したデータは少数で、しかも理由の説明は出来そうです。

黄鐘管の選択

黄鐘管の選択にあたっては、様々な理由があったと思います。それを承知の上で、ここでは敢えて、機能的な側面、つまり容積だけに絞って考えてみたいと思います。

ざっくりというと、短い尺を長い尺に対して擁護したいときは、810立方分の方が便利です。

例えば、すでに述べたように、隋の大業年間の梁表尺を「合古」とした累黍でも、おそらく810立方分を採用した可能性が高いと思います。

記録がはっきりと残っている例としては、短径から起こした尺で最も長い部類の宋の景祐律尺や皇祐中黍尺があります。これらは、810立方分を採用しています*17。このとき対抗馬として上がっていたのは、長径に基づく保信尺や李照尺でした。(なお、李照は径三分を採用しています。)

逆に、長い尺を短い尺に対して擁護したいのであれば、径三分を採用するのが適切だと思います。

既にのべたように、「律管圍容黍」のデータは概ね「径三分」と整合的で、またこの中のいくつかは「開皇九年平陳後」に計測されたと思われます。また北周の宣帝時の上奏文には、

至於玉尺累黍,以廣為長,累既有剩,實復不滿。尋訪古今,恐不可用。其晉鿄尺量過為短小,以黍實管,彌復不容,據律調聲,必致高急。

とあって、後周玉尺の他に「晉や鿄の尺」を検討して、前者は長すぎ後者は短過ぎるとしています。よって、この時のデータも含まれているでしょう。なお、上のリストで「王莽尺」と書いたものは、『隋書』では「晋前尺」ともよばれていますから、「晉や鿄の尺」に含まれていると思います。「晉や鿄の尺」のデータは一つの例外を除いて950粒にも満たず、900粒以下も多いです。径三分はこれらを篩い落とすには非常に有効だったと思われます。

試みに、比例計算で810立方分を用いたらどうだったかを試算すると、梁表尺と漢官尺は1200にかなり近い値になります*18

一方、長めの後周玉尺は上奏文ではバッサリと切られていますが、データを見ると悪くないように見えてしまいます。

粒の大きさ

北周の宣帝時の上奏文には、一つ面白い示唆があります。「大」の粒でも、無理に押し込めば黄鐘管に1200粒近く入ると言っているのです。「律管圍容黍」の宋氏尺の二番目のデータ(1047粒)がそれなのかどうかはわかりませんが、この程度は入っていたと思われます。もしも、径三分の黄鐘管だとすると、10{\rm ㎝}^3に1106粒にもなります。他のデータに比べて多めです。もしこれが「大」だとすると、他のデータの黍も、この区分では「大」でしょう。

そして趙氏のデータと比べると、どれも大粒にしては数値が高めです。当時の大粒は趙氏の定義より小さめで、粒がスリムなのかもしれませし、黍粒の選別が甘いのかもしれません。

まとめ

劉歆の定めた黍粒を用いる基準は、もともとそれだけで度量衡を定めるようには出来ていませんでした。そもそも、黍そのものが不安定かつ不均質で、バラつきが生じてしまいます。おまけに、方法は十分に規定されておらず、容積の尺による規定と1200粒という数値は若干の齟齬がありました。そのせいで、累黍をめぐっては中々意見が統一されません。

議論の紛糾の果ての一つの結論は、蔡元定『律呂新書』の総括だと思います:

黍は歳によって凶作と豊作があり、土地の肥痩があり、種子の大きさや形状は一定ではなく、もっとも信頼できないものである。まして、古人が「子穀秬黍の中程度のものがその龠に満ちる」と言ったのは、最初に黄鐘律管(龠)を定めた後に黍(クロキビ)を満たして計測したという意味である。黍が不足した場合は大きい黍に代え、黍が収まらない場合は小さい黍に代える。(児島、pp.37-38)

中々の卓見だと思います。しかしこういった達観は、妥当であったとしても意外とつまらない話しか出てこないものです。

私はむしろ、彼が切り捨てた多くの試みに心を動かされました。議論の紛糾は、混迷を示すものでもありますけど、同時に上からの圧力や因習ではなく、本当に議論をしていた証拠でもあります。バラつきの存在やその原因についての的確な指摘もみられますし、また、データを見てみると、累黍がある程度健全に行われた様が見えてきます。既に指摘しましたが、宋の皇祐中黍尺と王莽尺の間には1.07倍弱の違いしかないのです。古典の規定と現実とをすり合わせるための膨大な努力は、感動的ですらあります。

今回は、それらの議論をまとめきれなかったのですが、ちょっとずつ公開していこうかと思います。

参考文献
  1. 岩田重雄、新莽嘉量について、計量史研究 26−2 [29] 2004,1
  2. 丘光明、中国科学技术史 24 度量衡卷、科学出版社、2001
  3. 丘光明著、加島淳一郎訳、中国古代度量衡、計量史研究 22[23]2000
  4. 丘光明、コンラッド ヘルマン著、松本栄寿訳、中国古代度量衡における黄鐘律管と累黍、計量史研究 28−1 [31] 2006
  5. 児島憲明『蔡元定律呂證辨詳解(一)』人文科学研究 第 130 輯、新潟大学リポジトリより取得
  6. 小島毅『宋代の楽律論』東洋文化研究所紀要 Vol. 109  p.273-305 (1989) https://doi.org/10.15083/00027188
  7. 胡 勁茵,北宋「李照樂」之論爭與仁宗景祐的政治文化、BIBLID 0254-4466(2015)33:4 pp. 213-246 漢學研究第 33 卷第 4 期(民國 104 年 12 月)
  8. 田中有紀、朱載堉の楽律論における『周礼』考工記・嘉量の制―後期の数学書及び楽律書を中心に、経済学季報 63 (4), 119-155, 2014-03-31、立正大学経済学会http://purl.org/coar/resource_type/c_6501
  9. 赵晓军、山西羊头山黍样实测度量衡标准考、文物世界 wwsj 2010.1
  10. Xu, W., Zhang, K., Zhang, Y., & Jiang, J. (2022). Packing fraction, tortuosity, and permeability of granular-porous media with densely packed spheroidal particles: Monodisperse and polydisperse systems. Water Resources Research, 58, e2021WR031433. https://doi.org/10.1029/2021WR031433
付録:現代の検証

累黍については、参考文献にあげた赵晓军の論文には、万国鼎、丘光明ら先人の計測の他に、氏本人の計測も載せています。赵晓军氏も丘光明氏も、「劉歆の数値も、まずまず良い数値だ」と評価しています。ただ、統計的なばらつきの評価が全くなされておらず、大中小の区分の基準が明示されていないのは気になります。特に、趙氏の中と小の間は差が無さすぎるように思います。

図1.万国鼎の計測
図2.丘光明の計測
図3.赵晓军の計測1
図4.赵晓军の計測2
付録:新莽嘉量

新莽嘉量は、『周礼』考工記*19の㮚氏(栗氏)の嘉量の制を参考に作られました。

㮚氏為量。改煎金錫則不耗,不耗然後權之,權之然後準之,準之然後量之。量之以為釜,深尺,內方尺而圜其外,其實一釜。其臀一寸,其實一豆;其耳三寸,其實一升。重一鈞。其聲中黃鐘之宮。概而不稅。

これも容積の原器ではありますが、同時に長さと重さ、そして音律の原器をかねています。新莽嘉量にも、お各々の器の重量やサイズが銘文に刻まれておりますし、また音律との関係も意識されています。どちらの嘉量も円筒形です。

㮚氏のものは内接する正方形で半径が指定されています。新莽嘉量の場合もそれをなぞろうとしているのですが、内接正方形のサイズがきれいな値にならなかったからか、「正方形+隙間」という変則的な形になっています。つまり、隙間の方に端数のしわ寄せが押し付けられています*20

度量衡と音律、全ての原器である㮚氏の嘉量を真似て作られた新莽嘉量ですが、現代の計測値*21を見るに、容積のほうはまずまずの精度なのですが、他の量の精度は悪いです。

計測器具の精度を出すためには、なるべく構造を簡単にするのがよく、機能も絞った方が良いはずです。新莽嘉量は経書の記述に沿うために、その逆を目指さざるを得ませんでした。しかし、深さと重さの精度を犠牲に、容積だけは精度を確保するという、現実的な妥協も見せています。

付録: 劉歆の用いた粒の大きさについて

以上のように、私は劉歆は尺を水増ししていると思います。ほんの少しの水増しで、容積の基準もクリアできるからです。

一方、趙氏は劉歆は大粒の黍を用いたと推測されています*22。ここで氏は、短径の他に重量と容積を重視します。つまり、中粒以下では重量が少なすぎると言うのです。一見、大粒では重量が過大に見えますが、氏は現代と過去の農業技術の違いを指摘し*23、劉歆の時代よりも今の黍が「飽満」だからだろう、と。

趙氏の説は、重量のデータについては良い説明を与えると思います。しかし、容積についてはどうでしょうか。上で述べたように、1200粒が過大なのだということは、現代的な農業技術などない頃から、何度も指摘されています。又、いかに漢代の黍といえども、短径を半径とする球よりはやせ細っていないでしょう。上で紹介した数値計算の結果を考慮すると、やはり尺の値から逆算されるよりは、小さめの粒を用いたと思います。

また、劉歆の重量の計測方法や精度についても検討する必要があると思います。1200粒分の重量は7グラム程度で、よって劉歆の基準との差は1グラム以下です。当時の重量の測定は、この差を見分けられたのでしょうか。また、計量の過程によっては、比較的自然に重量が水増しできるかもしれません。

例えば、黍の数を何倍かして計測したとします。その時、仮に黍粒を数える手間をとらず、ざっくりと容積で計量したとします。この時、量が多いゆえに粒の選別が甘くなって小さめの粒が混じれば、それが隙間に入って充填率は上がり、体積辺りの重量は増えます。また、数を容積で代用していたならば、粒一つあたりの重さを気にする必要はありません。粒が小さいと粒あたりの重量は減りますが、代わりに数多く入りますから。この点、趙氏が引用されている万氏のデータは示唆的です。異なった種類の黍について、1000粒での重量と10{\rm cm}^3の重量を計測しているのですが、両者に相関らしきものは見えません。

*1:肝心の数式が飛んでしまっているのですが…https://bishogai.com/msand/powder/64827musiya.html

*2:漢書』律暦志「…為八百一十分,應歷一統,千五百三十九歲之章數,黃鐘之實也。」とあるように、黃鐘の律管の容積は810立方分とされました。そして「量者,…本起於黃鐘之龠,」とあるようにこれは1龠に等しいです。

*3:Fに対応させる解説もありますが、それはギリシャピタゴラス音階と中国の三分損益の対応の説明に便利だからです。

*4:「亡國之音,哀以思,其民困。」『礼記』楽記篇、あるいは『毛詩』大序。

*5:说明纵累之说有误

*6:容器の作成の精度の問題もあったのかと思います。例えば、『隋書』律暦志の「律管圍容黍」で同じ尺でも異なった値のデータがある理由を、「其長短及口空之圍徑並同,而容黍或多或少,皆是作者旁庣其腹,使有盈虛。」つまり容器の精度で「旁庣其腹」があって、それで充たされたり充たされなかったりするのだと。

*7:ばらつきが大きいと、隙間を有効活用できるので、同じ平均直径であってもより多くの粒が入ります。

*8:Xu, et. al. 2022.なお、本論文では潰れた球を扱っています。最初はその結果を当てはめようかと考えたのですが、写真で確認すると、黍の粒は楕円体ではなく、それよりもややスリムな形状をしているようです。実際、長径を短径の1.16倍として楕円体の結果を当てはめると、趙氏の計測よりも厳しい数字が出ます。

*9:なお、1分は半径の算術平均です。「平均半径の球の体積」ではなく、「球の体積の平均」で割るべきだと思われるかもしれません。しかし、「平均半径の球の体積」≦「球の体積の平均」、つまり、半径一分の球の体積は、「球の体積の平均」を過小評価しています。もともと、球だという見立てが一粒の体積を過小評価しているので、一貫して一粒の体積の平均値を過小評価しています。よって、個数は過大評価になっています。

*10:黄金方寸、而重 一 斤 (漢書・食貨志)、水一升、冬重十三両 (後漢書 ・ 礼儀志)

*11:ただ一つの例外は、五代十国時代の後周の王朴で、彼は後世、黍だけで尺を定めたといわれました。例えば、「下至王朴、剛果自用、遂專恃累黍(蔡元定『律呂新書』律呂證辨、造律第一)。」しかし、王朴尺は王莽尺の1.02倍と非常に王莽尺に近いです。また、このときには、『隋書』律暦志という優れた文献もあり、これを無視して定めたとは思われません。つまり、最終的な議論で表に出さなかっただけで、背後で様々な考察をしていたと思います。

*12:丘, 2001, p.357、表17-1、『玉海』巻八「臣等,以王朴律準為率,…,逸等尺長七分强」、なお王朴尺は王莽尺の1.021倍。

*13:これは、滑らかな関数の一般的な性質です。

*14:短径の三乗の逆数に比例するとしてフィットしてみても、だいたい同じ様な分散になります。

*15:大業中,議以合古,乃用之調律,.., 『隋書』律暦志一、審度

*16:なお、実際に実施された東後魏尺の長さがこれと等しいかどうかは別の話です。

*17:さらに彼らは、円周率を3として律管の直径を過大に算出しているので、彼らの律管の容積は810立方分より少し大きいのです。

*18:梁表尺は1177と1158、漢官尺は1195

*19:『周礼』冬官・考工記は、劉歆の父の劉向が『周礼』の欠けた「冬官」部分を他の古文献で補ったもので、現在は戦国時代の斉の制度を記した文書だと考えられています。

*20:なお、この隙間の寸法の指定の仕方については、史家たちによっていくつかの解釈が提出されていますが、一般的には正方形の対角線の長さと円の直径の差だと考えられています。

*21:現代に入っての劉復、励乃驥の計測値が、岩田氏の記事や丘光明氏の著書に引用されています。

*22:因此,我们认为《汉书·律历志》所言“子谷秬黍中者”应是指中用的大颗粒黍。

*23:我们认为这应是古今黍的品种差异所致,应是现今黍种多为改良新品种,颗粒普遍比过去品种饱满之故。

玉と球~日本の場合

前回、中国における球体を表す言葉、とくに「球」が球体を表すようになった経緯について、素人的な考察をしました。

  • 球はもともとは、玉(ぎょく)という鉱物と関係のある言葉で、美しい玉や玉製の「磬」という打楽器を表した。
  • 球体という意味をもつきっかけの第一は、音。ボール、転じて球体のもの全般を表す「毬」や「鞠」と音が同じ。例は多くはないが、毬の代わりに球を用いることもあった。
  • しかし、数学や天文学では「丸」「円」「渾」「立円」などが球体を表すのに使われていた。
  • それらや「毬」「鞠」などを押しのけたのは、明末の翻訳運動の時。尚書に現れる玉製の磬・天球の転用から。ただ、古い用語も併存。

gejikeiji.hatenablog.com

この話で、「玉(ぎょく)は丸くない」というところは大事で、日本人はうっかりしやすいと思います。現代のものでも昔のものでも、中国の字書の「玉」の項目に、丸いものという意味はないです。純粋に材料の名前で、特定の形状のイメージはないのでしょう。実際、様々な形状の玉製品があります。

しかし、日本では「玉」は「たま」と読んで、球体を意味します。起源のことはさておいて、江戸時代の和算書でのことをメモしておきたいと思います。といっても、以下のサイトから得た情報の羅列になりますが。
www.wasan.jp
まず、同サイトの和算用語検索で「球」を解説文に含む項目を検索すると、「球」に関連する用語を引き出せます。

  • 半玉成 :半球、百川治兵衛『諸勘分物』(1622)で使用
  • 玉成:球、百川治兵衛『諸勘分物』(1622)で使用
  • 玉率、玉法、球の体積と直径の3乗との比. ともいう.
  • 玉闕:球を平面で分けた一方の形.球闕とも
  • 玉皮:球の表面積のこと.竪亥録や算法闕疑抄で使われている.

また、和算書アーカイブには、和算書の影印がpdf化されておいてあるので、主に関孝和以前の和算家のものをあさってみます。

村松茂清/寛文3年(1663)『算爼』巻三、「玉闕」 「玉皮」
佐藤正興/寛文9年(1669)『算法根源記』上之ニ、「玉円」
算法勿憚改巻一、「玉起」
村瀬義益、算法勿憚改巻一/延宝元年(1673)、「玉皮」

中国で定番の「立円」等ですが、意外と見つかりません。関孝和前後に出てくると思うのですが。弟子の建部賢弘『綴術算経』は球という言葉を使っています。一方、「立円」の名残は楕円体を表す「長立円」という言葉に残っています。下の例では、球とともに「長立円」(楕円体)という用語も使われています。

藤田貞資閲,藤田嘉言編、増刻神壁算法、寛永8年(1790)
感想

球を表す用語を見ると、自然と書き手の知識の起源が浮かび上がってきます。
「球」は明末翻訳運動の結果生まれた言葉で、中国化した西洋天文学および数学の系統の用語で、「立円」は伝統的な中国数学の用語です。

建部は中国化された西洋天文学の研究に手をつけていますし、そちらの影響で「球」を使っているのだと思います。「地球」という言葉は、『天経或問』や『和漢三才図絵』などで広まりますし、それに明末清初の『崇禎暦書』『暦算全書』などの影響は、日本の和算家にも及んだと聞きますから、「球」の使用は自然だと思います。

一方、「玉」という日本独自の言葉を用いていた、関孝和以前の和算家たちの知識の源流はどこだったのか、気になるところです。例えば、彼らは3.16という中国では見ない円周率を採用しています。林隆夫先生が中公新書の『インドの数学』の終わりのほうで推測でインドから南蛮船を介してのの伝来か?という仮説を提示されてましたけど、そういった仮説を出したくなるくらい、ちょっと異質なわけです。

「玉」から「球」へと球を表す言葉はかわったのですけど、「立円」その他、中国でメジャーだった言葉は、両者の狭間にあってあまり活躍していないような。これは今後、調査したいところではあります。

追伸 「毬」のこと

「球」の文字が球体を意味するようになるうえで、「毬」と同音だったのは、重要なきっかけだったわけですけど、「毬」を上記の用語検索にかけると、次の書物名がひっかかりました。

毬闕変形草/きゅうけつへんぎょうそう
【書名】関孝和の著作をまとめた七部書の最後の書.最後の文字に「草」とあるように,草稿のようである.弧環(弓形を色々な軸について回転させてできる図形)の求積を解明しようとしたもの.

だそうです。題名の「毬」は丸いものを意味すると思います。ただ関孝和の真作かどうか。国書データベースで検索すると、影印が読めます。

「球」はいつから丸いのか? ~「地球」の語源のこと

XでFFのヘルメスさんが、こんなツイートをしていました。


要するに、

  • 「地球」という言葉を最初に使ったのは、明の終わりごろのイエズス会の宣教師、マテオ・リッチ
  • 最初に「天球」という言葉ができて、その類推
  • 日本では、新井白石『西洋紀聞』

ということらしいです。

明の終わりごろ、マテオ・リッチらが紹介した西洋の学問は、徐光啓李之藻らに深い感銘を与えました。彼らの要請にこたえるため、宣教師の一部は欧州に戻って、書籍、人員、最新情報を集めます。このときは、ケプラーも協力していますし、ガリレオは協力を拒んだものの、彼の望遠鏡も伝えられました。一方、徐光啓は朝廷を動かして新部門を設立し、人材を集めて翻訳と天体観測を遂行する体制を整えました。こうして、短期間のうちに膨大な量の西洋の知識が中国語に取り入れられたのでした。当時の中国語は東アジアの学問語ですから、朝鮮や日本も翻訳事業の恩恵を受けました。その一例が「地球」だったわけです。

…正直、さほど意外でもなかったので、最初は「へ~」と流したのですが、やがてジワジワと疑問が湧いてきました。まー、普通は「天球」「地球」は、天や地に球形を意味する「球」をつけたのだろう、わかりやすいな、と思いますよね?しかし、もともと「天球」は球形のものを指す言葉ではなかったのです。

そもそも、丸いものを「球」とよんだのか?

そもそも、中国の伝統的な数学や天文学では、球体のことを「円」「丸」「渾」、あるいは「立円」「渾円」などとよんでいます。「球」は見たことがありません。北宋の沈括『夢溪筆談』象数一では、

「日月之形如丸。…如一彈丸,…」

と太陽や月の形状を説明しています。なお、「彈丸」は、当時は弓で飛ばしたようです。算書ですと、『九章算術』少広の最後に球の体積を与えて直径を求める問題が2つ出されているのですが、球は立圓(円)とよばれています。また、この問題の注を読むと、「丸」「渾」といった名称が使われたことがわかります*1

まあでも、この明末の翻訳において、旧来の用語と決別して新語を使う例は、「三角形」など他にもあります。日本の明治期でも同様だと思います。ですから、「あー、またこのパターンか」と思った程度でした。

しかし、なんでこの文字を使ったのか…と字書を引いたとき、困惑はさらに増幅しました。

そもそも、「球」は丸いのか?

現在、中国でも球体は「球」の文字であらわします。しかし、元々この字の意味はなんだったのでしょうか?

まず手軽に引ける、清朝で編纂された『康煕字典』で「球」を引いてみたのです(ネットにいくつもサイトがあります)。これは、徐光啓マテオ・リッチの少しあとに編纂された、非常に完備した字典です。ところが、その「球」の項目には、丸い形という意味はのっていません。この文字の「求」の部分は音を表し、「王」の部分は鉱物の一種である「玉(ぎょく)」を意味するようです。美しい玉(ぎょく)、あるいは玉で作った打楽器(磬(けい)、又は玉磬)といったいった意味が説明されています。球や球の形のもの、という意味は出ていません。 (付録に全文を引用して説明をつけました。)下に磬(けい)の図を掲げておきますが、見ての通り、むしろ直線的です。

磬(けい)という楽器。「球」は、玉又は玉製の磬を意味するとされた。図は『欽定古今圖書集成』經濟彙編/樂律典/第101卷

なお、「玉」を丸いものと結びつけるのは日本独自のようです。例えば、藤堂明保『漢和大字典』*2では「日本語での特別な意味」として、「たま。まるいもの。」としています。中国の字典をいくつかひいてみましたが、やはり「まるいもの」という意味はありませんでした。「玉」はあくまで素材の名前で、円環や方形、あるいはもっと複雑な形状に加工されました。貴重なものでしたから、祭具や装飾に使われてきました。玉製品の例としては、璧(へき)圭(けい)璜(こう)、玉璽、そのほか佩玉、簪などの装飾品などが挙げられます。

それから、俗説的な字源を載せているウエッブサイトが結構ありますが、それらは全くあてになりません。日本の漢和辞典の字源の説明も、微妙なようです。

「球」と「毬」

上述したように、マテオ・リッチと近い時代の権威ある『康煕字典』には、「球」の球体という意味を載せていません。この字典は、先行する字書をすべて参考にし、経書史書、それらの名だたる注釈たちも、しっかりと網羅しています。ただ、(当時の)現代的な用法や、正式でない用法はどの程度拾われているのか?そもそも、「地球」「天球」という言葉は既に使われており、後でのべるように、数学の本では現代とほぼ同じ意味で用いられているのですから。

仕方がない、直接当時の用例をみてみるか…と愛用しているctext.orgで「球」を検索すると、「毬」という文字を含む文が大量にヒットしています。そこで同サイトの字典機能でチェックすると、「球」が「毬」の異体字に加えられていました。搜韵 (漢詩のデーターベース)や東文研のデータベースでも同様でした。それから、『康熙字典』によると「毬」の音は「球」の第一の音(つまり、固有名詞以外の意味に対応する音)と一致しています。

では、この「毬」はどういう意味か。植物名などの派生的な意味はさておき、元々の意味は蹴鞠用のボールらしいです。後には馬にのってプレーする、ポロのような球技「撃毬」のボールを意味するようになりました*3

撃毬(撃球)の情景、遼墓の壁画の模写。福本、1999より引用

また、この意味から転じて球形のもの全般をさすそうです。例えば、以下のリンクをご覧ください(各々の意味の古さは、用例からわかります。)。
毬的解释|毬的意思|汉典“毬”字的基本解释
球形、もしくはその喩えと思しきもとしては、

至正十七年六月癸酉,.... 所至有光如毬,死者萬餘人。(『元史』五行志二)

球形の光が至るところに現れて、沢山の人が亡くなった、と。自然現象なのか、怪異なのか?次の引用は、モンゴル帝国の時代にイスラム世界から伝来した地球儀だとされています*4

西域儀象... 其制以木為圓毬,七分為水,其色綠,三分為土地,其色白。(『元史』天文志一)。

地球儀の形状を、「圓毬」つまり、円い毬としているのです。
次に動植物の例。南宋の王質の詩「山友辞」に、「屈陸兒」なる鳥は、

…翅有兩白團如毬,…

「羽に二つの毬状の白いかたまり(白團)がある」と描写されています*5

図があるものはないかと探したところ、球状のポータブルの香炉に行き当たりました。現在は「薫香球」「香球」とよばれることが多いようですが、『宋史』『元史』では全て「香毬」です*6

唐代の 薫香球(写真はリンク先の人民日報のサイトから引用)。『元史』『宋史』では「香」。

これらの「毬」は、前近代でも「球」で代用されることがありました。例えば王質の詩「山友辞」の別の版*7では、「如毬」ではなく「如球」になっています。「香球」「撃球」といった表現も、数は多くないのですが、見つけました(後述)。

また、日本における「地球」の初出、新井白石『西洋紀聞』には、「毬」の代用の分かりやすい例が含まれています:

大地、海水と相合て、其形圓なる事、のごとくにして…、其地球の…

この太字にした「球」には「キウ」と音が、「テマリ」と訓が添えられています。添付した画像は、内閣文庫所蔵の、享保年間の、白石自筆とされる写本です*8

白石の自筆写本にある「球」。

また、「球」に音「キウ」を訓「マリ」を付した、建部賢弘『綴術算経』の版本の影印をFFの方に見せていただきました*9。これらは、「音を手がかりにこのような意味に取ってくれ」と促しているのだと思います。

つまり、「球」本来の意味には球体という意味はないものの、同音の文字に球体を表す「毬」という文字があり、通用もしていたのです。

「球」の採用は自然?

しかしながら、「球」という訳語の採用は、果たしてどのくらい自然だったのでしょうか?すでに述べたように、算術や暦算では別の文字で球体をあらわしていました。そのうち、「丸」などは、一般的な文書でも用いられています。それに、「球」が「毬」の代わりに使われたといっても、以下にのべるように、事例はそんなに多くはありません。

人文研の漢籍リポジトリでは異体字を区別する設定で、影印も確認しやすいので、以下でヒットする数の比較をしてみます。

  • 「香球」8,「香毬」245
  • 「撃球」1、「撃毬」75
  • 「打球」2、「打毬」745  (撃毬の別名。福本論文の最初のページ)
  • 「球場」2、「毬場」283 (撃毬の競技場。『漢語大詞典』「球場」の項目参照)

なお、『漢語大詞典』では陸游の詩「送襄陽鄭帥唐老」の一節を「球場」の用例としていますが、搜韵では「毬場」となっており、典拠に依存しそうです*10

それから、「如球」(球のようだ)という言い回しも検索してみたのですが、球形を意味するのは合計2件だけでした*11。なお、北宋初期の類書『太平御覧』*12で「球」を検索したのですが、球形を含意したり、「毬」の代用と思しきものはありませんでした。

また、数日間の限られた検索の上でのことなのですが、「球」の用法は、やはり本来の『康煕字典』的な意味の方が多いように思います。「球璧」「球琳」は「天球」とともに美しい玉の意味で、優れたもの、尊いものの比喩として用いられました。「珍重如球貝」*13などという表現もあります。また、人名にも用いられました。

総合すると、「球」が音を通じて、あるいは「毬」の代用として、球状のものをイメージさせることは可能だったと思います。しかし、そのような用例は多くはなく、また「球」という文字の主要な用法でもなかった。白石は「球」に音と訓の両方を注記していますが、球体という意味を伝えるために必要だったからだと思います。そしてすでに述べたように、『元史』天文志(明の初期の編纂)では、地球儀の形状を「毬」に喩えています。

つまり「球」という文字は、ラテン語sphaeraの訳として意味は通ったと思いますが、自然な選択ではなかったのでは?より有力な候補がいくらでもあったのでは?という疑問が湧きます。

丸くない『尚書』の天球

以上のことから、「球」の採用には、何か特殊な要因が働いたと考えざるをえません。

そこで文献を漁ってみると、黄河清氏の論文が何本かヒットしました。氏曰く、まず「天球」という訳語ができ、「地球」はそのアナロジーだろうとのこと。では、「天球」はどこからきたか。黄氏いわく、『尚書』顧命の

天球河圖在東序。

が典拠であろう、と*14。『尚書』顧命は先秦時代に書かれた、非常に古い経書です。テキストを確認すると、周の成王が亡くなった時の葬儀の会場の説明の中にでてきました。この場所にはAとBを飾り…というリストの中に現れます。そして、文字の意味や前後関係から、玉製の祭具、あるいは楽器だとされています。なお、後漢の鄭玄の注では、「雍州所贡之玉色如天者」(天のような色をした玉が雍州に産する)とあります。形状ではなく、色が天に似ているから「天球」らしいです*15。なお、天の色はどんな色は「玄」、すなわち赤みがかった黒とされました。この色については、以前記事を書きました。
gejikeiji.hatenablog.com

尚書』に「天球」の形状についての言及はありませんが、これが玉製の楽器「磬」(上図のように、「へ」の字型です)だというのは、一つの標準的な説明です*16

前近代の中国では、なにかと古典に根拠を求めます。天文学でも、新しい概念や機器が出てくると、度々こういったこじつけがありました。例えば、前漢武帝期になって盛んに使われるようになった、渾天儀(アーミラリー球)という天体観測機器があります。これを権威付けるために、やはり『尚書』が利用されました。

尚書』舜典に、舜が即位した直後、

在璿璣玉衡,以齊七政。

とあります。後漢以降の解釈によると、この「七政」は日月と五つの惑星をあわせたものだそうです。そして「璿璣玉衡」は玉製品であり、モノとしては渾天儀とよばれる、天体観測機器とされました(もちろん、無茶な解釈)。つまり、伝説の帝王・舜の即位後の最初のアクションは、なんと天体観測だった*17

「璿璣玉衡」の図。清末に描かれたもの。

このような先例もありますし、また、明末の翻訳運動で、古典から用語を拝借している例は他にもあります。例えば、アリストテレスプトレマイオス的な天球の多層構造は「九重天」とされていますが*18、これは『楚辞』の文言を借りているのです。もちろん、両者の宇宙構造論は全く異なります。

こういったことを考えると、古典の文言を拝借して新たな訳語にあてたとする推測は、極めて自然だと思います。ただ、『尚書』顧命の「天球」は明らかに人造の器物であって、自然物である天球(sphaera caelestis)とは、カテゴリーが違いすぎる点は気になります。これについては、また後ほど言及します。

「天球」「地球」から「球」へ

黄、2017によると、「地球」が確認できる最古の文献は、マテオ・リッチの世界地図です。彼は、1583年に欧文で、1584年に中国語で世界地図を発表して好評を博します。残念ながら、これらは全く失われてしまっており、ただ1600年の『山海輿地全図』は『月令廣義』(1602年)と『三才図会』(1607年)への引用で残っています。

『月令廣義』 所引の『山海輿地全図』 の「天球」。Harvard Yenching Library

地図の右上に挿入されたテキストに「天球」、そして左上および左下のテキストに「地球」という語が確認でき、これが最古の確認できる出典です。そして、『坤輿万国全図』(1602年)、『幾何原本』(1608年)の序文、宇宙構造論の書『乾坤体義』(1610年)でもこれらの語は盛んに用いられて*19、『乾坤体義』には「日球」「月球」すら出現し*20、「球」が球体を表す接尾辞として盛んに用いられています。
坤輿萬國全圖[James Ford Bell Library藏原刻本] | 開放博物館

坤輿萬國全圖の「地球」

明末翻訳運動や、その影響で成立した数学関係の文書を見ると、「球」は球を表していますし、球面は「球面」「球上」などと言われています。例えば、球面幾何学を扱った『新法算書』所収の『大測』のある部分、梅文鼎『暦算全書』所収の『弧三角形挙要』、康煕帝時代の『暦象考成上下編』巻二、などで用例を確認できます。後の二例は、宣教師の関与はないので、中国側の専門家にもこの用語が浸透していたことがわかります。

なお,『坤輿万国全図』の向かって右上隅のマテオ・リッチの署名入りの文章、及び『乾坤體義』に

地與海、本是圓形、而合為一球、居天球之中、誠如鷄子、黄在青內

とあり、ほぼ同一の文が『三才図会』にもあります*21。白石の『西洋紀聞』の文は明らかにこれに似ています。

今日の用法との違い

「天球」「地球」から始まって、球体を表す代表的な言葉になってきた「球」なのですが、やはり使用状況には現代とは異なった点があります。

例えば、清の康煕帝の時代の数学の叢書『數理精蘊』でも「球」は球の意味で用いられますが、同時に「圓(円)球」という言葉も非常によく出てきます。「円い球」ですね。おそらく、「球」は「圓(円)」と違って、図形や球形の物体を表す名詞であって、形状を表す形容詞としては使えないのでしょう。

また、「渾圓」といった古い用語も消えてはいません。数学的な文書でも、『數理精蘊』下編や『暦算全書』所収の『弧三角挙要』に用例があります。天文学的な文献ともなれば、なおさらのことです。例えば、下の影印を見てください:

「球」と「円」の同居の例。『新法算書』(巻十九・二十)所収の『渾天儀說』の一説。

「地球、以円形、倣地之本体」とありますね。また、「地球、倣地之原形、必為円(第十六巻・二十)」、「地与海之円、亦各自為円形、未必併為一球(巻十六・七)」というのも見つけました(いずれも『渾天儀説』)。「円」は、図形の名前であり、同時に形状をあらわす形容詞でもあります。一方、「球」は球形の物体や図形のみをあらわし、まだ形状そのものを表す言葉にはなっていないように思います。すでに引用した新井白石『西洋紀聞』の「大地、海水と相合て、其形円なる事、球のごとくにして」も同様です。

天球儀、地球儀としての「天球」「地球」

『明史』天文志一に

萬曆中,西洋人利瑪竇、制渾儀、天球地球等器。仁和李之藻撰《渾天儀說》,發明製造施用之法,....
崇禎二年,禮部侍郎徐光啟兼理曆法,請造象限大儀六,紀限大儀三,平懸渾儀三,交食儀一,列宿經緯天球一,萬國經緯地球一,

とあります。これらは献上品のリストですから、「天球」「地球」は天球儀、地球儀だと思われます。それから、上の『新法算書』所収『渾天儀説』の影印なのですが、「地球用法」という言葉が見えると思います。用いるのだから地球のはずはなく、これも地球儀です。「地球、以円形、倣地之本体」は、地球儀が大地の形に似てまるい、という意味かと*22

尚書』の「天球」を訳語の成立の契機として見たとき、一つひっかかるのが、指し示すものとのカテゴリーの違いでした。つまり、sphaera caelestisは天空に広がる巨大な透明な球で自然物、一方、『尚書』の「天球」は人造の小さな器物です。もしも、「天球」の訳語が天球儀を意味するところから出発したのなら、このギャップも埋まると思うのです。

まとめのようなもの

まとめると、「天球」は「天」と球体を表す「球」の結合…と思いきや、もともとは『尚書』に出てくる言葉であって、天のような色の、美しい玉製の磬(直線的な形状をした打楽器)とされていました。そもそも球体は他の言葉で表すのが普通であり、例えば元の時代に招来された地球儀の形状は「毬」(まり) にたとえられています。「球」は「毬」と同音であることを通じて球体を表すこともあったのですが、頻度は多くなく、大抵は美しい玉や玉製の磬を表し、人名などにも使われました。それが明末の翻訳運動の時に天球儀やアリストテレス的な天球を表す言葉に大抜擢され、意味の重心が変わり始めます。「球」が球体になったのは、天球sphaera caelestisが丸いからだ…といってしまっても良いかもしれません。非常にアクロバティックな訳語の成立です。このあと、翻訳運動を通じて「球」は用法を拡大して、数学的な球をも意味するようになります。

中国は古くから数学や天文学を含め、分厚い文明の蓄積があります。その中に、どのようにして異質な西洋の学問を取り込むか。徐光啓の「鎔彼方之材質、入大統之型模」(西方の材料を溶かして、大統の型に入れる)は、そのような問題意識を如実に表しています*23。しかるに、彼が主導した『崇禎暦書』は、一瞥して「大統之型模」から大いにはみ出していることが明らかです。三角法も幾何的なモデルも中国に全く欠落しているのだから当然のことで、『幾何原本』の翻訳に関わった徐光啓は、十分それに自覚的だったと思います。つまり新知識は、中国の学問の組み替えを、多少なりとも強制するものでした。これをどのように受け止めるのかは、当時、大問題だったはずです。

翻訳語の選択も、そういった取り組みの一部だろうと思います。知識量からして、「天球」や「九重天」を引っ張ってきたのは、李之藻徐光啓彼らの方でしょうし、この選択には彼らなりの意図があると思います。一方、それを受けての言葉の運用は、マテオ・リッチらの側に基本的には委ねられていたはずです。特に彼らが言語に習熟した後では。『乾坤体義』などは、リッチが中国に来て随分と経ってから公開されたものです。このあたりの両者の相互作用の機微については、相当の研究がありそうで一度勉強してみたいものですが、こうやって定着した「球」という用語は、球体を表す数学用語として旧来の用語を押し退けてしまいます。

主な参考文献
  1. 橋本敬造、『崇禎暦書』の成立と「科学革命」、1981 http://hdl.handle.net/10112/00022864
  2. 田村誠・吉村昌之 「『九章算術』訳注稿 (12)」大阪産業大学論集 人文・社会科学編 13  (2011.10), 1--19https://osu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1096&file_id=18&file_no=1
  3. 黄河清“‘地球’释源”,北京:《地球》,2001年第4期;黄河清“‘天球’、‘地球’、‘月球’、‘星球’考源” ,北京:《科学术语研究》,2002年第4期。 ;黄河清“‘利玛窦对汉语的贡献", 《語文建設通訊》2003年第74期。黄河清”地球”冶探源, 中国科技术语/2017 年、第19 卷 第 3 期
  4. 福本 雅一、中国における撃毬の盛衰と撃毬図屏風について、京都国立博物館学叢 = The Kyoto National Museum bulletin / 京都国立博物館 編 (21), 1999-03https://cir.nii.ac.jp/crid/1523951030935329024
付録:『康煕字典』の「球」

以下、改行と番号は筆者。

  1. 《唐韻》巨鳩切《集韻》《韻會》《正韻》渠尤切,x音求。
  2. 《說文》玉磬也。《書·益稷》夔曰:戛擊鳴球。《傳》球,玉磬也。
  3. 又《廣韻》美玉也。《書·顧命》天球河圖在東序。《詩·商頌》受小球大球。《傳》球,玉也。
  4. 琉球,國名。詳後琉字註。
  5. 又《集韻》渠幽切,音虯。
  6. 美玉名。《集韻》或作璆。

まず、基本知識として、『康煕字典』に乗っている語義は、全て過去の辞書類や古典から集めています。よって引用だらけで、地の文はほんの少しです。上では、引用元を《》に入れて表示しています*24。1と5は発音の説明です。漢字は二つ以上の音のあるものが沢山あります。「球」の場合、二通りの発音があることがわかります。音が違うと、字面が同じでも違う単語です。2-4は1の発音をするときの意味で、6は5の発音をするときの意味です。そして、「又」で区切られるごとに、違った意味が提示されています(なので、「又」の直前で改行しているのです)。

2,3,4,6が意味を説明しているわけですが、4は国名、6は固有名詞。打楽器「玉磬」という意味は2で、美しい玉という意味は3になります。

一部、フォントが足りなかったので、影印へのリンクを貼っておきます(武衛殿本)
康熙字典網上版 KangXiZiDian.Com

付録2:明末清初の数理科学文献

冒頭述べた通り、宣教師たちの一部は途中で一時帰国し、本格的な第二次派遣団を組織して戻ってきました。そして、いよいよ西洋天文学による改暦事業がスタートします。これを境に、文書の内容は専門性を増し、宗教的・哲学的な色彩を薄めます。改暦事業に関係した文書の代表が徐光啓撰『崇禎暦書』を構成する文書で、それ以前の文書の代表が李之藻撰『天学初函』に収められる諸文書です。また『天学初函』以外にも、初期のマテオ・リッチらの世界地図『輿地山海全圖』『坤輿萬國全圖』『乾坤体義』は、影響力が非常に大きかった。また李之藻とフルタードの『寰有詮』は時期は遅いのですが、アリストテレス『天体論』の抄訳+注釈で、概念の導入史からいっても、興味深いところです。

これらの文書は、ある程度インターネットの公開資料で内容を窺い知ることができます。ただ、『崇禎暦書』は公開されておらず、アダム・シャールのいくつかの著作を追加して清朝で編纂された、『新法算書』を見ています。清が中国に入ってきたタイミングで、アダム・シャールは自らの著作若干と『崇禎暦書』をまとめた『西洋新法暦書』を献上し、暦の編纂を任されます。後にこれが四庫全書に『新法算書』として取り入れられます。ただし、これら3つは完全に同じなわけではなく、若干の改変がほどこされているようです。そもそも、『崇禎暦書』にもいくつかの版があるそうです。

このように複雑な来歴の文書の、未校訂の本を素人が見ているので、限界は自ずとあります。

見落としいた文献:章太炎『章太炎説文解字授課筆記』

これは、章太炎という、清末〜民国期の儒学者・政治運動家の日本滞在時の講義の筆記録です。取り上げられているのは、現存最古の字書『説文解字』ですけど、字書そもものだけでなく、各々の「字」についても論じています。そんなのどこで読んだんだよ…と思われるかもしれませんが、数字化という字書のサイトで引くと、字書本文のあとに、同書の関連する部分が引用されています。

「球」の項目を引くと、『詩経』商頌の「小球大球」という文言の解釈が論じられ、その中で「球」が円体を表す理由を考察しています。書く前に、これを参考にすべきでした。曰く、同じ音の文字で、球形を含意する文字が多い、と。

王氏注,拱梂皆訓灋,凡从求聲之字,多有圓意。如裘(裘必團毛使之圓?),莍(莍食?)、鞠(平聲為球)。

なぜ「鞠」があって「毬」がないかというと、「撃毬」のところで引いた福本論文の最初のページに

…鞠はもともと獣毛を皮包んだ蹴鞠であり、唐になってから毬の字を用いたことがわかる。

と書いてあるような事情だと思います。「鞠」の球形のもの一般を表す比喩的な用法も、調べるべきでした。ただ、鞠以外の二つの文字は、若干分かりずらいです。「裘」は皮や毛皮で作った衣服ですし、()内は筆記者の注記と思われますが、解釈に苦慮しているようにみえます。

「毬」の「球」に似た字体

なお、あまり関係ないかもしれませんが、「毬」にはこんな字体もあります。

「毬」の字体の一つ。陸游『老學庵筆記』卷一、乾隆御覽四庫全書薈要本、ctext.org.

あまりにも球に似ているので、なんとなく気になりました。

*1:『九章算術』には、魏晋の劉徽と唐の李淳風が注をつけています。この部分については、どいらの注か不明のようです。また、劉徽は「丸」を用い、後漢の暦算家の張衡は立圓(球)は「渾」だそうです。田村誠・吉村昌之、2011を参照。

*2:学研NPS版、Ver..1.10, 1998年

*3:撃毬は唐の初期から盛んになり、明の中ごろに急激に言及がなくなるそうです。福本、1999

*4:黄、2017

*5: 紹陶録巻下、四庫全書・文淵閣本。漢籍リポジトリhttps://www.kanripo.org、及び十萬卷樓叢書本、ctext.org。

*6:ctext.org提供の摛澡堂四庫全書本、人文研の漢籍リポジトリ提供の四庫全書・文淵閣本(ともにテキスト検索の後、ヒットした箇所を影印でチェック)し、中央研究院の漢籍電子文献でも検索。

*7:『兩宋名賢小集』巻一百九十六。漢籍リポジトリhttps://www.kanripo.org

*8:https://www.digital.archives.go.jp/file/1257783.html

*9:国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000030087&ID=&TYPE=、28/63。

*10:ただし、データベースの検索でヒットする中には、重複もあります。同じ文章が別の文献に引用されていたり、異本も別件にカウントしたり。また、適切でない例も紛れているでしょうし、データベースのテキスト化の間違いや、文献の偏りも気になります。しかし、これだけはっきりとした差が無意味だとは思いません

*11:一つは既に述べた「屈陸兒」、もう一つは『欽定日下舊聞考』卷四十九。これ以外に『圖經衍義本草』から二件かかったのですが、影印で確かめたところ、「如毬」でした。他は翻訳運動の派生物か、別の意味でした。

*12:ctext.org提供の摛澡堂四庫全書本。テキスト検索ののちに影印でチェック。テキストデータでは「球」となっているものが影印では「毬」である例多数。

*13:『御製樂善堂全集定本』巻十八、漢籍リポジトリ

*14:黄、2001; 黄、2002; 黄、2003;黄、2017

*15:黄、2003では『尚書』の天球について「“天球”在汉语中原指一种球形的玉石」、すなわち「中国語では元々は球形の玉石を指す」と述べ、『漢語大詞典』の「天球」の項を見よとあります(黄、2002などにもほぼ同様の記述)。しかし、該当の項目を確認したところ(オンラインで無料で見れる範囲にあります)、「天球」の形状についての記述はなく、色について鄭玄注と同様の記述がありました。なお、黄2017ではこの記述は修正され、「《汉语大词典》收有“天球冶 条。 “天球冶 一词古已有之, 原为玉名或琴名。 至于这种玉或琴是怎样的形状,《汉语大词典》没有具体说明。 见该词典第 2 卷 1432 页“天 球冶条。」と妥当な記述になっています。

*16:馬融の注、“球,玉磬”が『尚書正義』に載せられていますし、朱子朱子語類』樂古今でも、「但大樂亦有玉磬,所謂『天球』者是也。」とあります

*17:「璿璣玉衡」の解釈の変遷については、Cullenによる専論があります。https://www.jstor.org/stable/616703。『史記』天官書では、北斗七星と結びつけられていました。なお、「玉」という素材は「天」とご縁が深いです。例えば「壁」という真ん中に穴の空いた円盤型の玉製品は、天としばしば結びつけられました。康煕字典をひくと、「《玉篇》瑞玉圜以象天也。《白虎通》璧者,外圜象天,內方象地。」などとあります。

*18:つまり、ninth sphere を認めるバージョンだったようです。

*19:黄,2017

*20:黄、2002

*21:地與海、本是圓形、而㒰為一球、居天球之中、如雞子、黄在青內

*22:この続きには「大地の性質に反して回転できる」と書いてあります。イエズス会なので、地球は動かないことになっている。

*23:橋本、1981、p.74

*24:版本は、ctext.orgで提供されているものを用いました。

亡国の音?~基準ピッチをめぐる中国の論争

西洋クラッシク音楽では、ピッチ(音の高さ)は近年上がり気味だと聞いたことがあったので、検索したら次のブログがでてきました。どうやら、自分が小耳に挟んだ話はただの噂だったみたいです。近代以前は基準ピッチの規定すらなく、場所や時代によってバラバラだったようです。
note.com

東洋音楽についても触れていて、律管(音の基準を決める管楽器)の長さで基準ピッチが規定されていたと説明されています。これは、西洋の事情との比較としては、適切なコメントなのだと思います。しかし、律管の長さが規定されているといっても、肝心の「尺」の長さは決して安定していません。南北朝の分裂期では地域ごとの違いも甚だしく、統一の過程で激しい論争が起こりました*1五代十国の分裂後も同様です。

中国の音律と度量衡が整備されたのは、前漢から後漢への移行期の頃です。新の王莽に命じられた劉歆は、既存の制度を若干手直しして、経書をもとに理論的な背景を整えます。この内容は『漢書』律暦志に詳しく記され、後世よく参照されることになりました。なお、長さの尺度に関しては、周から漢に至るまで、あまり変わっていないようです(丘光明,2001)。

亡国の音:三国時代の後

しかし後漢に入ってから、一尺の長さは少しずつ大きくなっていきます。(この傾向は、明清くらいまで変わりません。)早くも三国時代の魏においては、漢尺からずれていたようです。そこで晋の最初に荀勗(荀彧の一族)が古い尺の現物を比較考察して補正し、音律も修正します。ところが、竹林の七賢阮咸は新しい音律をきいて、「高すぎる」と訝しみます。『晋書』律暦志によると:

聲高則悲,非興國之音,亡國之音。亡國之音哀以思,其人困。今聲不合雅,懼非德正至和之音

興国の音ではない、亡国の音だ、と。太字部分は、最後に補足するように、古典からの引用です。音楽そのものに、人心を左右する力があると信じられていたのです。

阮咸の論は採用されないのですが、あとになって古尺が出土して、荀勗の定めた尺よりも少しだけ長く、世間は阮咸の耳の精緻さに驚いたとのこと*2

阮咸の音感、恐るべし…といいたいところですが、丘光明氏は、実物の古尺の比較検討から、後漢を通じてほぼ荀勗が推定した程度に長くなっていると見ています。出土した古い尺が荀勗の尺よりも長かった理由は、尺の工作のばらつきのせいか、あるいは見た目よりも新しかったからか、どちらかの可能性が高いと思います。『晋書』『隋書』の律暦志(ともに李淳風撰)によると、荀勗は七つの古物を比較し、そのうち一つはやや長く、一つはやや短く、残りの五つは両者の中間で同じ長さだったので、これをもって尺を定めたといいます。中々緻密な手続きであって、李淳風も彼の復元を重視しています*3。本稿では、荀勗が定めた尺(晋前尺)を単に「漢尺」ということにします。

南北朝末期の復古

このあと、五胡十六国の騒乱で特に華北は著しく荒れてしまい、音律も尺度も乱れてしまいます。総じて、華北の尺はかなり長くなります。一方の南朝では、宋で少し長くなった(1.064倍)あとはだいたい安定しています。

華北でも、小国を統合して北魏が成立し、漢化政策で有名な孝文帝が登場すると、音律と度量衡の議論が始まり、唐の建国まで続きます。ここでは、とくに隋の高祖の頃の、基準ピッチに関わる議論を紹介します。

隋の建国当初(開皇年間)、楽律の制定作業をリードしていたのは、鄭譯や牛弘といった北周から引き継がれた専門家たちでした。この作業に加わっていた萬寶常という天才肌の人物がいたのですが*4、完成した楽律の奏上の際、高祖に意見を尋ねられ、

「此亡國之音,豈陛下之所宜聞!」

「これは亡国の楽律で、陛下がお聞きになるべきものではありません!」と、いきなり厳しいことを言ってしまいましす。高祖の反応は「不悅」(不快感を示した)と書いてありますが、萬寶常は独自の音律の制定を許されます。

では萬寶常はこの時、基準ピッチにどのような不満をもったのでしょうか?牛弘や鄭譯らの音律は北周での議論を引き継ぎ、南朝の定めた尺に準拠しています*5。「後周鉄尺」あるいは「宋氏尺」と呼ばれますが、既に述べたように、漢尺よりも少しだけ長い(1.064倍)。一方、萬寶常の定めた尺の長さは漢尺の1.186倍。牛弘らに比べて律管を長くし、ピッチを下げているのです。よって晋の阮咸と同じく、彼も「高すぎる」と不平を言ったことになります。

なお、阮咸は伝説的な弦楽器の名手であり、萬寶常も各種楽器の演奏に通じた演奏家でした。実践家の感覚としては高すぎる音が、実はより古い音律に近かったわけです。

ところで、なぜ高祖は萬寶常に新律の作成を許可したのでしょうか? 華北に比べると、南朝には古い文化がよく保存されていました。いきおい、牛弘ら学者の議論は、南朝風の音律に近くなってしまいます。それに対して、高祖が「なぜ亡国の音を採用しなければいけないのか」と拒否する一幕もありました*6。少し触れたように、北朝の尺はかなり長めで基準ピッチは低かったのです。萬寶常の音律はそちら側にかなり寄せています*7

結局、萬寶常の新律は不評で採用されずに終わりました*8。しかし、『隋書』律暦志でもわざわざ「開皇十年萬寶常所造律呂水尺」としてとりあげているので、かなり印象に残ったのだと思います。

五代の争乱の後

次の唐は、隋の議論を引き継いで度量衡と音律を整えます。北朝の系統の尺は大尺として残り、南朝系統の宋氏尺が黍尺、あるいは小尺とよばれて音律用に用いられました。なお、両者の比率は1.2:1くらいとのこと。

しかし、五代十国の騒乱でまた制度が曖昧になってしまいます。そして、五代末期の後周の学者政治家の王朴が、『漢書』律暦志の記述をもとに音律を「復活」させます。それは、「累黍」といって、上黨郡牛頭山の黒黍から中くらいの大きさの黍を選んで90粒並べ、その幅を基準音「黄鐘」の律管の長さとするのです*9南宋の蔡元定『律呂新書』によると、王朴は古い伝来の尺などを参考にすることなく、専らこの「累黍」に頼ったとのこと*10*11

後周のあとをうけて中国を統一した宋は、当面はこの王朴律を継承します。しかし、宋の太祖は

先是,帝每謂雅樂聲高,近於哀思,不合中和 (『宋會要輯稿』楽・律呂)

つまり「雅楽の音が高すぎる」として新たな音律の制定を命じました。

王朴律は本当に高過ぎたのかでしょうか?文献をあたると、王朴尺は漢尺の1.02倍という数値があがっています*12

宋尺の現物については、丘光明,2001にリストがあるのですが、常用尺ばかりで律尺はありません*13。そこでグーグルで検索してみたところ、東京国立博物館所蔵の一品が引っかかりました。

長さは21cmちょっとです。仮にこれが9寸(基準音である、黄鐘の律管の長さ。1尺=10寸)だとすると、

  • 0.9x1.021(宋史の記述)x23.1cm(丘光明による漢尺の推定値)=21cmちょっと

となって、整合します。ウエッブページにはサイズ以外に一切情報がないので、なんとも言えませんが。

数値を見れば明らかなように、王朴尺は、唐の律尺=(南朝の)宋氏尺よりも、さらに漢や周の尺に近かった。ところが、宋の太祖もまた前の王朝の定めた王朴律に対して、「高すぎる」と文句をつけているのです。

太祖の命をうけた和峴らは、天体観測器具に残る尺と黍を数える方法を併用して、新たな尺を定めます。これは、唐の小尺、すなわち「(南朝の)宋氏尺」とほぼ同じでした。中々の手際だと思うのですが、和峴らの音律はなぜか不評でした。

宋は名君仁宗の下で最盛期を迎えます。この時代の音律家の李照は下問に答えて、「今の雅楽古楽より五律も高い」*14と断定します。なお、「今の雅楽」は王朴律を指すのですが、和峴の音律も高すぎるというのが彼の意見でした。そこで仁宗は李照に新たな音律を具体化するように命じ、同時に音律に詳しい学者たちの意見を募集します。これ以降、宋では実に様々な音律が提案され、定論を見ません。それらはいずれも王朴律はもちろんのこと、和峴らの音律よりも低く、ただその多くは李照律よりは高いです*15*16

まとめ

ふりかえって、戦乱で音律が乱れたあと、ほぼ確実に音律の話で揉めています。そして漢のピッチに近いものが再現されると、ほぼ毎回、「高すぎる」というクレームが残りました。高くて「哀」で亡国の音だ、と。低くて重厚な感じがこのまれたのでしょうか?

追伸1

本記事では音の高さとイメージについての具体的なコメントのある論争だけを拾いました。しかし、この他にも激しい論争が沢山ありまして、北魏では、あまりに苛烈な論難をしたために、死刑に相当すると指弾された元匡のような例もあります(結局は降格のみ)*17。これは政治的な対立が絡んだ結果のようですが…また、本稿では基準ピッチの話ばかりしましたが、論点はそればかりではありませんでした。

狭義の音律については、過去にかいたものがあります。
gejikeiji.hatenablog.com
gejikeiji.hatenablog.com
gejikeiji.hatenablog.com

追伸 2

上で引用した荀勗の音律に対する阮咸のクレーム

聲高則悲,非興國之音,亡國之音。亡國之音哀以思,其人困。今聲不合雅,懼非德正至和之音*18

なのですが、これはある種の決まり文句で、元ネタは『礼記』楽記篇や『毛詩』大序の一節です。前者のほうで引用すると(太字が阮咸のクレームと共通)、

凡音者,生人心者也。情動於中,故形於聲,聲成文謂之音。是故治世之音,安以樂,其政和。亂世之音,怨以怒,其政乖。亡國之音,哀以思,其民困。聲音之道與政通矣。

『毛詩』大序もだいたい同じ*19で、『古今和歌集』の序に影響を与えたそうです。解釈については、次のブログが懇切丁寧です。

ざっくりというと、「亡国の音楽は悲しくて、民衆が苦しんでいるのがわかる」などと、人心と音楽の間に影響関係を認める説です。

この説を最初に見た時、「辛い時に聞いた音楽は悲しく聞こえるよね」と納得しかかったのですが、そういう考え方は「声無哀楽論」(音そのものには哀楽はないとする議論)と言われる異説だそうです。古典的な説では、音楽自体に哀楽が宿り、音楽が人心に直接作用するらしいです。

唐の初期、楽律の議論において、やはり南朝の斉や陳の楽曲を「亡国の音」として嫌う議論がありました。それに対して太宗は、「夫音聲感人。自然之道也。故歡者聞之。則悅。憂者聽之則悲。悲悅之情。在於人心。非由樂也。(『唐会要』巻32 雅楽)」つまり、「聞く人の心理状態によって、楽しくも悲しくも聞こえる。悲悅は人の心にあるのであって、音楽そのものの中にあるわけではない。」として異論をなだめました。

「声無哀楽論」は以下のブログがわかりやすいです。https://chutetsu.hateblo.jp/entry/2022/02/08/120000https://chutetsu.hateblo.jp/entry/2022/02/15/120000

主な参考文献
  1. 丘光明、中国科学技术史 24 度量衡卷、科学出版社、2001
  2. 丘光明著、加島淳一郎訳、中国古代度量衡、計量史研究 22[23]2000
  3. 丘光明著、加島淳一郎訳、中国古代度量衡(3)、計量史研 究 23 匚24] 2001

*1:なお、以下で扱うのは、国家の儀式で使う音楽のことであって、民間や仏教寺院の音楽は話が別です。また公的な音楽にあっても、律書での規定と実際のチューニングには、多少の違いがあった可能性があります。これは論理的な可能性だけではなくて、現存する古楽器などを材料にして、真面目に検討されている話です。

*2:世説新語』では、阮咸が左遷させられたという話がついていて、また阮咸の不満もかなり控えめに書かれています。『世説新語』の文章は、若干の言葉が補われてそのまま『太平御覧』雅楽下にも引用されていますから、よほど広まったのだと思います。また、『晋書』巻49・阮籍伝にも左遷の件は述べられています(『晋書』列伝と律暦志は著者が異なります)。

*3:「勖於千載之外,推百代之法,度數既宜,聲韻又契,可謂切密,信而有徵也。而時人寡識,據無聞之一尺,忽周漢之兩器,雷同臧否,何其謬哉!」(『晋書』律暦志・審度)。同じ著者の『隋書』律暦志も同様です。

*4:『隋書』第78巻列伝「芸術」

*5:『隋書』律暦志一・審度。この考証においては、古い計量器や計測器の検証のほかに、後に述べる「累黍」、つまり黍を並べて長さを測ったり、容積を測って『漢書』の記述と比較する方法も併せて用いられました。そのとき、黍を縦に並べるか横に並べるかが屡々議論になりました。黍は楕円形なので、並べ方によって幅が違うので…

*6:『隋書』音楽中「開皇二年,…高祖不從,曰:「梁樂亡國之音,奈何遣我用邪?」」

*7:この時の隋の基準ピッチは、おそらくは北周の最後の制度を踏襲していると思います。対応する尺は「蔡邕銅籥尺」、または「後周玉尺」とよばれて、漢尺の1.158倍。

*8:一方で、ある仏教僧からは好意的なコメントがあったことが記されており、西域の音楽との交流のあとがちらりと見えます。実は、音律の制定をリードした鄭譯も、中々議論が定まらないので、龜茲人の蘇祗婆が齎した、胡琵琶を用いた音律の採用を提案しています。これも採用はされず仕舞いでしたが。(『隋書』音楽志中,及び以下のp.15を参照。 渡辺進一郎、雅楽の来た道ー遣唐使と音楽、専修大学東アジア世界史研究センター年報 第2号 2009年3月(5) )。

*9:この手法は、古い計測器の現物の考察と併せて、南北朝時代やその後の北宋でも盛んに用いられました。最後の「累黍」による尺の決定は、清の康熙帝の時です。

*10:なお、『旧五代史』に王朴が累黍で音律を定めた旨が書かれているのは確かなのですが、累黍「だけ」なのかは、素人の感想ですけど、断言しがたく思います。むしろ、『隋書』律暦志のような文献に依拠しているのでは。

*11:彼の音律はかなり独特だったらしく、陈其射『中国古代乐律学概论』でもややスペースを取って諸説が紹介されています

*12:陈其射『中国古代乐律学概论』の王朴律の節の注。また、丘光明,2001の宋代の尺度についての節に、楽律で使われた尺を扱った小節があって、そこに様々な律尺とその長さの一覧表があり、その表からもこの数値はチェックできます。一次資料では、『宋史』律暦志四、あるいは『宋會要輯稿』楽・律呂に「王樸律準尺比漢錢尺寸長二分有奇,比影表尺短四分…」「又有後周王樸律準尺,比晉前尺長二分一厘,比梁表尺短一厘,有司天監影表尺,比晉前尺長六分三厘,同晉后尺」とあります。漢錢尺はおそらく漢尺と同じでしょう。晉前尺は、すでに述べたように漢尺と同じです。やや多めに引用したのはクロスチェックのためです。梁表尺は漢尺の1.0221倍(『隋書』律暦志一・審度)、そして影表尺は上の引用文の末尾にあるように漢尺の1.063倍ですから、辻褄はあっています。影表尺と同じとされる晋後尺も『隋書』律暦志一・審度に記載があって、上の数字をチェックできます。

*13:すでに述べたように、唐の始めにおいて、常用尺である大尺と音律及び天体観測用の小尺が分かれました。それ以降、両者は分離しています。

*14:小島毅, 宋代の楽律論、p.277。同p.278。

*15:丘光明,2001の宋代の尺度についての節に、楽律で使われた尺を扱った小節があって、そこに様々な律尺とその長さの一覧表があります。

*16:宋の音律については、小島毅, 宋代の楽律論、東洋文化研究所紀要、vol. 109 pp.273-305

*17:『魏書』列伝第七上、元匡

*18:『晋書』律暦志・審度

*19:情發於聲,聲成文謂之音。治世之音安以樂,其政和;亂世之音怨以怒,其政乖;亡國之音哀以思,其民困。

インドの三角関数の近似

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インドは三角関数の発展で独自の貢献をしてきました。一言でいえば、「インド人は、ギリシャ人の証明した定理と同じくらい、素晴らしい計算をした」*1のです。手始めに、ギリシャ流の不便な「弦の表(chord、すなわち 2\sin(x/2))を計算に適した正弦(sin)に置き換えました。よって、世界最古の正弦(sin)の表はインドなのですが、表の作成におえる彼らの手法は極めて独創的です。現存最古の表は5世紀おわり~6世紀はじめの、アーリヤバタのものなのですが、二階微分を用いた補外に基づきます。また、7世紀のブラフマグプタは、二次補間式を用いています。14世期に始まるインド南部のケーララ学派では、現代流に書き直すとテーラー展開が得られる、非常に洗練された算法を開発されていました。これらも後世の数学の発展を先取りしているようで驚きなのですが、以下では現代の数学では現れない、独特の「インドならでは」の三角関数の近似をとりあげたいと思います。

なお、三角関数のおおまかな歴史については、以前記事をかきました。
gejikeiji.hatenablog.com

バースカラⅠ世

バースカラⅠ世は7世紀に活躍した、アールヤ派の数学者・天文学者です。彼のMahabhaskariya (バースカラの大著作)には、次のような不思議なsin の近似式があります。今、\thetaを「度」で表した角度だとすると、
\sin(\theta)\approx \frac{4\theta(180 − \theta)}{40,500 − \theta(180 − \theta)}
係数が複雑なのは、全周が360°という人為的なきまりのせいで、変数を適切にとると実にシンプルな式になります。次の式では、角度は弧度法です。
\sin(x)\approx \frac{16x(\pi-x)}{5\pi^2-4x(\pi-x)}
これでずっとすっきりしますが、[\tex:\pi]が度々出てくるので、\sin(x)のかわりに\sin(\pi x)を考えると、
\sin(\pi x)\approx \frac{16x(1-x)}{5-4x(1-x)}
と非常にシンプルになります。これをプロットしてみると、実によく合うことがわかります。

ぴったり合い過ぎてかえってわかりにくいのですが、誤差は一番悪いところで0.0018くらい。両端と30°、90°のところでsinと一致する様に、係数は調整されている模様。

sinとバースカラⅠ世の近似の差

なお、少し係数をいじって他の点でsinと一致するようにすると、とたちどころに誤差は拡大してしまいます。例えば30°のところで合わせるかわりに45°のところで合わせるようにすると、

改変して、45°でsinと合うようにした場合。

縦軸のスケールがかわってしまっていて見にくいですが、数値を見て頂くとわかるように、最悪のところでの誤差が0.003くらいまで増えてしまっています。つまり、バースカラⅠ世かなり最適に近くチューンされているようです。

なお、この式をツイッタ―(X)で呟いたところ、「Pade近似ではないか」との指摘がありました。これは、ざっくりいうとテーラー展開の有理関数版です。つまり、微係数やを合うようにするのです。
Pade近似とは #制御工学 - Qiita
もしそうなら、それはそれで驚きなのではありますが、実際は違います。バースカラⅠ世の式の微係数は全くsinと合いません。そして、最悪ケースの誤差をみるかぎり、Pade近似よりもバースカラⅠ世の近似の方がよいのです。Pade近似で0°~180°の範囲でよく合う式を作るなら、真ん中の90°のところを中心にしてPade近似をするのがよさそうです。ここでは用いたツール(Wolfram alpha)の都合で、sinのかわりにcosにし、x=0を中心にしたPade近似の誤差を計算しました:

Pade近似

さすがに中心付近ではぴたっと合います。しかし、両端で急激に悪くなってしまいます。

世界最初のsinの表が登場して100年余りでこのように優れた近似が登場したことは、極めておどろくべきだと思います。

16世紀のインド中部、三角関数の放棄?

世界に先駆けて三角関数数値計算の技法に磨きをかけたインドですが、16世紀初頭のNandigrama(真ん中の西のほう)のガネーシャの天文計算の書は、なんと三角関数表を用いない!のだそうです。

たとえば、
 \phi=\arcsin(\frac{s}{\sqrt{s^2+12^2}})

\phi\approx 5s-\frac{s^2}{10}
と近似されています。式をよーくみるとわかるとおもいますが、\phiの定義式は奇関数ですから、テーラー展開すると、二次の項はないはず。なのに、近似式は二次関数。こんなの合うはずないと思うじゃないですか。ところが、図を書いてみると、s=20くらいまではかなりよく合います。

ガネーシャの近似式

これより少し前(14世期)からインド南部のケーララでは、円弧の長さや三角関数多項式で近似する手法が開発されていました。思想的には少し似たものがあるのかもしれません。

冒頭で述べたように、ケーララ学派の算法を現代的に書き直すと、テーラー展開になります。彼らの数学については、インターネット上で解説が多く上がっています。

主な参考文献
  • Glen van Brummelen, The mathematics of the heavens and the earth: the early history of trigonometry, Princeton, 2009
  • Kim Plofker, Mathematics in Inda, Princeton, 2009

*1: 'Indian mathematicians were as skilled at computation as their Greek counterparts had been at geometric proof.',   van brummelen,  p.94

黄色は明るい~明るさと色の関係

色は、なかなか複雑な構造をした感覚です。これを整理して図示したのが表式系ですけど、心理的な印象に基づく体系だけに絞っても、何種類もあります。なぜ一本化出来ないかというと、各々、独自の強みと弱みがあるからです。つまり、一つの図式では十分に表現出来ないほどに、色は込み入った構造を持っているのです。ただ、どの表式系も三次元に色が配置されている点は共通で、色の三次元性は19世紀も半ばになってやっと整理されてきました。それまでは、大小様々な混乱がありました。

色と明るさの関係などはその一つではないかと思います。現代のどの表式系でも、明るさをあらわす属性(明度、輝度など)が色相(hue)と分離した独立の性質として建てられています。例えば、同じ「黄」や「青」の色相であっても明るい色もあれば暗い色もある、ということになります。

アリストテレス的体系

しかるに、アリストテレスに代表される、古典期ギリシャの色の体系は、この色相と明るさは強く関係付けら得ていました。アリストテレスは、色を「明るい」順番に以下のように一次元的に配列します。

アリストテレス的な色の系列

そして、全ての色は白と黒の「混合」で生じるとしました*1

現代では、すでに述べたように色相と明るさは別の属性だと考えられ、通常は3次元空間で表現されます。また、白と黒のどのような混合でも中間の色は生じませんから、この理論は控えめにいって未熟なのです。

明るい色と暗い色

しかし、色が「明るさ」に着目して配列されている点は興味深いです。先ほど、色相と明るさは別の属性であると述べました。しかるに、黄色を青に比べて明るく感じるのは、かなり一般的な感覚だと思います。このあたりを、現代の表色系ではどのように処理しているのでしょうか?

既に述べたように、現代は様々な表式系があるのですが、その一つ「マンセル表色系」の場合で説明します。マンセル表色系では、色相のほかに「明度(明るさ)」と「彩度」という属性を考えます。彩度とは色味の強さのことで、白〜灰色〜黒ではゼロの値をとり、そこから遠ざかるほど大きな値になります。おのおのの色相で彩度のもっとも高い色を「純色」といいます。

確かに同じ色相の中にも明るい色も暗い色もあるのですが、純色に着目すれば明るさの比較ができます。たとえば、「黄色は青よりも明るい」という言明は「純色で比較するなら」と注釈を加えれば、マンセル表色系でも意味のある言明になります。

アリストテレスの時代に「純色」の概念は望むべくもありませんが、色の混色の観察は断片的ながら適切ですし、ぼんやりと「純度の高い色」の認識はあったと思います。そして、一次元に並べた五つの色は、なんらかの意味で「主要な色」だとの認識だったと思われます。なぜ際立った色が数少ないかについて、『感覚と感覚されるもの』の中で音律とのアナロジーを持ち出しています。つまり、これらの主要な色は2対3や4対3のような単純な整数比に対応するのだ、と。

しかし、不思議なことに黄色や赤はともかく、leak green(πρασινον)とはくすんだ緑色です。なぜこの色が主要な色に選ばれたのでしょう。色の体系の整合性の問題なのかもしれませんが、私には不明です。

中世における変容

中世になると、染色の技術も盛んになり、また職人たちにも技術について文書を残すものが現れ、また知識人も技術に興味を持ちます。

するとやがて、染料の色を濃くしていくと明るい色から暗い色に変化することが注意され、アリストテレス的な1次元的な配列にも変化がもたらされます。

たとえば、ラテン語にも翻訳された、イランのイブン・スィーナー『魂論』の色の理論では、白から黒に至る系列が三本記述されています。

また、13世紀の博学者トゥーシーは、技術者Al-Jawahari al-Nishaburiに基づいて、5つ以上の系列を記述しています。このように染色の技術を媒介にして、多次元的な色空間が徐々に理解されていきました。

イブン・スィーナーの色の体系
トゥーシーの色の体系
中国の五色と色の明るさ

さて、明るさと色相を積極的に絡めた古代ギリシャに対して、両者をより分離してあつかったのが、前回も触れた中国の五色説で、この説では黒白赤青黄の五色を「正色」とします。つまり、黒や白と残りの三色は、対等の関係にあるわけです。
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今まで述べた西方の事情が念頭にあると、後漢の鄭玄の赤系統の色の系列は、ちょっと興味深いです。もっとも薄い「縓」という色から始めて、染色を繰り返すにつれて徐々に色が濃くなり、ついには七回目にして黒になります。各段階の色の名前は以下の通り。

回数 1 2 3 4 5 6 7
色名 赬=赤 緇=黒

この系列を作成するにあたり、彼は『爾雅』釈器と『周礼』考工記をあわせ、さらに欠落した4,6に相当する部分を独自の考察で補っています。

黒を混ぜると

色を濃くするには、何度も染めるほか、「黒を混ぜる」という手もあります。鄭玄も『周礼』考工記の注で

染纁者、三入而成。又再染以黒、則為緅。…又復再染以黒、乃成緇矣。

と述べています。つまり、さらに赤系統の染料にさらに漬けるのではなく、黒で染めるのも同じ効果をもたらすと考えていたのか、と。

今でも、黒や白をまぜることは、色相を変えずに明るさを変える手軽な手法として多様されています(彩度が落ちてしまいますから、安易な多用はいけないと教わりますが。。。。)、

『説文』と色の明るさ

後に鄭玄のこの構成は、注疏や正義に継承されていきます。また、彼の少し前に編纂された許慎の『説文』とも(細かい齟齬はあるものの)概ね整合性があるように思います。

ここでは『説文』で色の明るさをどう扱っているか、とくに鄭玄も述べた「赤の系列」において見ています。

まず、鄭玄の「赤の系列」の最も薄い赤系統の色を表す「縓」という字を調べてみると、

縓: 帛赤黃色。一染謂之縓,再染謂之䞓,三染謂之纁。

つまり、「縓」は赤と黄色の中間とされています。最初に見たときは、「オレンジっぽい色なのか、じゃあ鄭玄のいう薄い赤とは違うじゃないか」と思いました。しかし、続く「一染謂之縓,…」の部分は『爾雅』釈器からとってきており、鄭玄と同じ同じ色の系列が念頭にありそうです。実際、2回染色したときの色「䞓」については

䞓:赤色也。...

となっていて、「縓」は薄い赤で間違いないと思います。

つまり、薄い明るい色は染料を薄めても作れるし、また黄色を混ぜても作れる、と考えていたことになると思います。

また、鄭玄の系列で5段階目に当たる「緅」については

緅:帛青赤色也。从糸取聲。

となっていてます。つまり、「青」を混ぜると暗くなると思っていたのだすると、両者の辻褄が合います。

白を混ぜるか、黄色を混ぜるか

さて、『説文解字』では、薄い赤「縓」は赤と黃色の混色とされましたが、白を混ぜた場合については、

紅:帛赤白色。

とあります。「紅」は後に赤を表すようになってしまいますが、古典的には「間色」の一つとされており、明確に赤と異なる色でした。清の段玉裁曰く、「按此今人所謂粉紅、桃紅也。」、つまり今で言うピンク色だろうと。推測の根拠は説明してくれてはいませんが、今の日本の色の表現とほぼ一致しています。

確かに染料を薄めたのと白を混ぜたのでは彩度が違いますから、「縓」ではなく別の色である「紅」になる、というのはそれなりに納得できるところです。

しかるに、赤に黄色を混ぜると色相が変わってしまいます。同じ疑問は、暗くするために青を混ぜていることについても当てはまります。

ただ、後者の青との混色については、一応解決の目処があります。中国の「青」は英語でgrueなどといわれ、青から緑の間の非常に幅の広い色全体、あるいはその範囲の中のある特定の色を表します。ここでは、おそらくは黒に近い紺色なのではと思います。もしかしたら、「黄」についても同様で、現在の黄色よりも彩度の低い色を指していたのかもしれません。

よって「黄」や「青」で明度の調整をすることをさほど怪しむことはないのかもしれません。しかるに、「白」や「黒」との混色との使い分けの基準も、今のところわからないです。

今ひとつ体系的でない五色説

言わずもがなではありますが、『説文解字』の五色説に、近代の表色系のような精密さを求めてはいけないのでしょう。だいたい、「青」が上述のような多義性をもっている時点で、相当の意味の幅を覚悟しないといけないわけです。例えば、「濃い赤」と思しき「緅」は上に引用したように、

緅:帛青赤色也。

という説明だったわけですが、

紫:帛青赤色。

と完全に説明がバッティングしてしまっています。

付録:「説文解字』の白や黒との混色

なお、『説文』でも白や黒を混ぜている例は「紅」以外にもいくつかあります。

縹:帛青白色也。
黇:白黃色也。
㳷:青黑色
䵎:黃黑色也。

「縹」については、段玉裁の注を信じれば浅い青とのことで、辻褄があいます。

付録:色の三属性

色の構造の表現の仕方は一通りではありませんが、通常は3つの属性を用いいて表現します。例えばマンセル表色系では以下の3つを用います。

  • 色相(Hue) :赤、オレンジ、黄色、緑、青、紫。。。。といった色の方向性のこと。プリズム分光して現れる単色光の色は、各々異なる色相です*2
  • 明度(Value): 文字通り「明るさ」です。同じ色を出すライトでも、光の量を増やすと「明度」は上がります。
  • 彩度(Chroma):鮮やかさ。白、灰色、黒、といった「色味のない」色は彩度はゼロとされます(白〜灰色〜黒は明度が違うだけで同じ「色」)。それに対して、プリズムで分光したときに観測される単色光の色は、各々の色相で最も彩度の高い色(純色)です。
主な参考文献

*1:この「混合」は今一つ曖昧で、アリストテレス『感覚と感覚されるものについて』とアリストテレス派の『色について』の間でも違いがあります。絵の具の混色も視野にはいっていますが、それだけでもないのです。

*2:ただし、逆は真ならずで、紫と赤の間の色相の色は、いずれも紫と赤の単色光の混合で得られます。