天球の発見

天球の有用性

物理的な天球の概念が過去の遺物になった今でも、天球図の有用性は変わらない。天体は、地球の自転と公転に起因する日周運動と年周運動をする。さらに、太陽、月、惑星は各々の固有の運動もある。この複雑な運動の絡みを整理するには、天球図が便利である。まず、恒星を静止した球面上に描き、日月と惑星の経路を書き込む。そうしておいて、天球全体を日周運動・年周運動させる。

この描像を物理的な実在と捉えたのが、地球中心説(天動説)である。つまり「星の張り付いた天が動く」というわけで、見方によっては原始的な宇宙論だ。だが地球を不動とした上で恒星の連動した運動を説明するには、これ以外にはないともいえる。極端な言い方をすると、太陽中心説(地動説)は、単に天球の動きを地球の運動に置き換えただけだ。天球の有用性は、この決定的な世界観の変化を跨いでも、全く減じていないのである。

だが、現代では当たり前の天球概念の非自明さに、私は中々思い至らなかった。考えが変わったのは、中国の宇宙論史に目を通してからのことだった。

全体的な傾向からいうと中国の天文学は暦の作成に熱心で、宇宙論は手薄であった。それでも後漢から唐に至るまでの間は、宇宙論に関する論争が比較的活発な時代だった。時代の新しさもあって、西方で天球概念の形成のあった頃(古代メソポタミアギリシャ初期)に比べると、はるかに多くの史料がある。

宣夜説

この時代の中国における、最も自由奔放な宇宙論は宣夜説といって、全ての天体は各々の性情に任せて勝手に動くのだという。宇宙を無限としたので、近代中国では愛国主義的に取り上げられることもある。だが、宣夜説では恒星の連動した動きに系統的な説明ができない。科学の理論としては今一つ魅力がないように思う。歴史的には、この説は次に述べる蓋天説のアンチテーゼとしての役割があったようだ。

蓋天説

対して、中国初の数理的な天文学は、先秦時代からある蓋天説に基づいて成立した。これによると天は円形で大地は方形(天円地方)であり、各々平行な平面上に乗って向かいあっている。この円形の天の回転で天体の動きを説明するのである。ここには、天体の運行の周期性の認識が表れている。また、日月と惑星は天全体の動きに加えて独自の運動もあるとされた。天全体の運動と固有の運動の合成は、「回転する石臼の上を這う虫」という気の利いた比喩で説明された。

https://historyofscience.jp/wp-content/uploads/38-2.pdf

球と円盤の違いはあるが、蓋天説の天体の運動の説明は、宣夜説よりは天球の理論に似ている。ただし、蓋天説において天体は決して地面の下に潜らない。日没などは、遠方に遠ざかることと陰気にくるまれることの二つで説明した。これは、地面の下を天体が進むにを理不尽だと思ったのだろう。例えば、後漢の王充は『論衡』でこの点を強調して蓋天説を擁護している。

渾天説

王充が論敵として想定していたのは、天文学者の張衡が体系化した渾天説であった。渾天説も「回転する石臼の上を這う虫」式の説明はそっくり継承している。ただし大地に平行な円盤は、大地を包む球に取り替えられた。この方が遥かに天体の運動をよく表すことができたからだ。わかりやすいのは日没の説明で、太陽が徐々に遠ざかるとする蓋天説よりもはるかに経験と合致した。

渾天説はまた、渾天儀(アーミラリー球)とよばれる、天球座標を測定する機器を生み出した。渾天儀による観測が、さらに渾天説を補強した。つまり渾天説は、天文学の理論と観測がが展開されるべき、適切な空間を準備したのである。

なお、蓋天説は「表(ノーモン)」とよばれる棒による観測技術を編み出していた。この解釈の一部(一寸千里説など)は蓋天説に強く依存していたが、渾天説においても有用な部分は、渾天家も取り入れることになる。

渾天家の張衡は、理論を整備するのみでなく、水力で動く模型で自説を効果的に宣伝した。締め切った室内に模型を置き、指し示す天体の位置を読み上げさせ、観測される天体の位置と照合して見せたのである。渾天説は着実に勢力を増してゆき、南北朝時代にはすでに優位だった。

渾天説では天は大地を包んで展開する点では、西方の地球中心説に近い。アーミラリー球という観測機器を生み出した点も同様である。だが、渾天説は地球球体説は採らない。また大地は水の上に浮かぶとされた。水の下を太陽が潜る不自然さは、陰陽五行説的な自然学を用いて克服されたらしい。この辺りの理屈は、私には終生理解できないだろう。

渾天説においても大地が盛り上がっていることは認められ、唐代においては国家的なプロジェクトでこの丸みの定量的な検証すらしている。しかし、中国ではついに地球球体説に到達することはなかった。

天球説の成立へ

渾天説が定着するまでの経緯を見ると、天球概念の成立の契機とハードルがどこにあったか、自ずと浮かび上がってくると思う。

おそらく天体の円環上の動きを想定するきっかけは、周期性の認識だろう。また、恒星の連動した動きを説明するために、天体の張り付く「天」が想定されたのだろう。メソポタミアにおける黄道12球や円盤に描かれた天体図も、似たような経緯で成立していると思う。

ところが、この円環状の運動を地を包むとすると、天体を大地の下を潜らせねばならない。頭上に広がる天が、地平線を超えて足下まで広がることになる。こんなことを簡単に受け入れられるほど、古代人の思考は場当たり的ではなかった。それゆえに、可能なかぎり天体が大地の下に進むのを拒否しようとしたのだろう。

アルマゲスト』によると、古代ギリシャにも日没を「遠方に去る」「火が消える」などで説明する試みがあったようだ。これらは見かけほどナイーブな説明とは思えない。例えば王充の蓋天説擁護では、遠方の物体がどのように見えるか、かなり的確に詳説した上で、論陣を張っている。しかし在らん限りの工夫を尽くしても、このような試みでは日没の状況を再現出来なかった。

古代メソポタミアでは、新月の出現、日の出入り、惑星の早朝と夕刻の出現など、地平線近くの現象がかなり詳しく調べられていた。当時、(少なくとも計算上は)黄道12宮は大地を包むと想定されていたとされるが、その理由の一端は天体の出没への関心の高さにあるのかもしれない。もちろん、定量的な説明がスムーズにできたことが最も大きな理由なのだろう。

西方における天球説の本格的な展開は、古代ギリシャだとされる。少なくともプラトンの頃には明瞭な天球概念がある。

だが、中国の渾天説受容の時と比べると、当時のギリシャ天文学は素朴な水準にあった。メソポタミア天文学の大まかな概念は伝わっていただろうが、数理的な部分については(周期の知識を除くと)十分理解されたわけではなかった。中国では蓋天説に基づく理論と渾天説を定量的に比較した上で後者をとっているのだが、当時のギリシャで同じことが出来たとは思えない。おそらく、「哲学的」な憶測がかなり大きな役割を果たしていると思われる。

地球と天球

Twitterで、「地球説を前提とすれば、天球説は自ずと出てくるのでは」という問いかけがあった。たしかに、古代ギリシャの地球説は天球説と深く結びついており、この二つの球面の間に深い対応関係を見出していた。

古代から中世にかけて、西方の文化圏では地表面をいくつかの「klima (英語のclimate の語源)」に分割していた。これは緯度による分割で、日照時間を基準に等間隔に区切っている。ー元を辿れば、メソポタミアの日照時間の計算方法がもとになっているようだ。

Clime - Wikipedia

そして、このclimateは天球の分割でもあった。それはストラボン『地理学』には非常に明瞭に述べられ、アリストテレス『気象学』でも彗星の現れた天球上の場所をclimateで表現している。また、緯度や経度、子午線も天球と地球で共通した概念であった。

https://www.jstor.org/stable/232593

この点、上記の問いかけは非常に鋭い。だが順序関係としては、天球説の方がおそらくは先なのである。中国が天球説には至っても地球説に到達しなかったことは、すでに述べた。また、古代メソポタミアでは、天球概念の少なくとも萌芽はあったが、地球説の形跡はない。アリストテレス『天体論』やディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』などによると、宇宙の中に円盤状の大地が浮かぶとする理論はアナクシメネスアナクシマンドロス、そして原子論者に見られれる。また、プトレマイオスアルマゲスト』の宇宙論では、まず天体の見え方の議論から天球説を擁護したのち、地球説の説明に入る。

むしろ、地球説は天球説に誘導されたのではないかと思われる。足下に頭上と同じ天を想定する天球説は、世界観を大きく揺るがしたと思われるが、上下の区別を完全に無効にした地球説の破壊力はそれ以上だっただろう。

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「月の錯視」の問題

アルマゲスト』その他、古代ギリシャの天球論の論証では、「天はどの方向も一様であるように見える」ことが証拠として挙げられる。正座も日月も、天球の場所によって違った大きさにはならないだろうというのだ。

ところが、実際には「月の錯視」の問題がある。つまり地平線近くでは日月も星座も、著しく大きく見える。このことは『アルマゲスト』でも議論があるが、特に隋書『天文志』天体の条に詳しい。さらに10世紀のイブン・ハイサムが指摘したように、天蓋は球状でなく、むしろ天頂が低く平らに見える。

これら錯視の議論が現状どのようになっているか、私は理解していない。だが、少なくとも前世紀まで縺れたのは確かのようだ。

 

 

 

 

 

中国の色彩論 紫は「青と赤」か、それとも「黒と赤」か

古代ギリシャでは黒と白の混合に基づく色彩論が優勢だった。アリストテレスデモクリトスも、詳細は違えど、黒白の二元論という点では共通だったらしい。これをニュートンは、黒白の混色では灰色しかできないと批判したそうだ。

ところが、偽アリストテレス『色彩論』ではそもそも画家がするような混色に基づいた議論はよろしくないとしている。その代わりに、光の差し方の違いで生ずる色の変化の観察を豊富に紹介している。アリストテレスの色彩論は黒と白の混合というよりも、「闇と光の化学変化」とでも称した方が良さそうだ。

ps‑Aristotle • de Coloribus

一方で、中国に黒白青赤黄を五色とする説があることは聞き齧っていた。この色の取り合わせは減法混色の三原色(青赤黄)を含んでいるので、染料の混色に基づく理論かとぼんやりと想像はしていたものの、具体的な内容は何も知らなかった。

『説文』の混色による色の合成

思い立ってグーグル検索をしてみると、紀元100年ごろに成立した字典『説文解字』にこの素朴な推測を裏付ける記載があることがすぐにわかった。

  • 紫:帛青赤色
  • 緑:帛青黄色也
  • 紅:帛赤白色

つまり、紫は青と赤、緑は青と黄色、紅は赤と白を混ぜて絹を染めた色だという。五行説の五色の背景には、染色の際の混色があったようだ。

紫は「黒と赤」だった?

これで一件落着と思ったのだが、「紫」の項目の段玉裁(1735-1815)による注が目に入った。これによると、紫は青赤ではなくて黒赤のはずで、青とあるのは誤りだという。

紫的解释|紫的意思|汉典“紫”字的基本解释

根拠として、穎容(2世紀後半〜)の『春秋釋例』の一節が引かれ、皇侃(488-545)による『論語』の疏、また『礼記正義』玉藻(唐、孔穎達等)も同様だそうだ。このうち、『礼記正義』を以下のリンクで参照できた。

禮記正義/29 - 维基文库,自由的图书馆

見ると、皇侃による『論語』の疏が長々と引かれている。これと段玉裁の注に引用の穎容『春秋釋例』の議論は確かに首尾一貫していて、以下のような色彩論が展開されていた。

礼記正義』の色彩論

先ず、各々の方角(東南西北と中央)には五行(木火金水土)と正色(青赤白黒黄)が対応している。これらの合成で間色とよばれる緑、紅、碧、紫と「緌黃」という色が生ずる。緑と紅の生成に関しては『説文解字』と同じである。ただし紫は黒と赤とする。また、新たに碧は青と白、「緌黃」は黄色と黒とする。

この合成の組み合わせは、以下のように決まる。先ず、間色も各々方角に対応している。例えば紫は北に対応している。そして、五行の間には「刻(克)」という関係がある。例えば、北(黒)に対応している水は、南(赤)に対応する火に対して「水刻火」という関係にある。よって、紫は黒と赤の合成になるのである。

上記の関係を表にまとめると、以下のようになる。

方角 五行 正色 間色 刻(克)

東  木  青  緑  土 

南  火  赤  紅  金

西  金  白  碧  木

北  水  黒  紫  火 

中央 土  黄  緌黃 水

この「刻(克)」という二項関係は、相克説、すなわち火→水→土→木→金の順序で,それぞれ前者に打ち勝って生じるとする説である。水と結びつく黒が、火と結びつく赤と合わさって紫を生ずる仮定は、単なる混色とは異なるように思える。どのようなイメージだったのだろうか。

まとめのようなもの

では結局のところ、段玉裁の注は正しいのだろうか。彼は『説文解字』も元々は黒と赤だったのが、後世の転写の際に、秦の時代の俗説が紛れ込んだのだという。確かに穎容『春秋釋例』は時代が近接しているので、両者は元々は同じ説だったとする考察は筋が通っているように見える。

だが、上記の緑、紅、碧の説明も、紫を「青と赤」とする説も、共に染料の混色だと素直に解釈できる。むしろ上記の説は、染料の混色に基づく説を五行の相克説と整合させる過程で生じた修正だと思う。(『説文』がどちらの説をとっていたのかはわからないが。)

上記の『礼記正義』の説で気になるのは、相克説に基づきながらも、これが二つの正色のペアを作る形でしか使われていないことだ。だが、相克説では要素の間に順序がついている。よって同じ白(金)であっても、青(木)と組むのと赤(火)と組むのとでは、役割が違って然るべきだと思う。ところがどちらの場合も白の役割は同じであって、明るさを決めている。これは、相克説の採用が後付けであることの結果だと思う。

いずれにせよ、五行説との関わりを深めることで、中国の色彩論は単なる色の現象論であることをやめて、森羅万象と結びついてしまった。黒は「水」であり北であり、音律としては「羽」である。色の説明だけに特化し場合と比べて、余計な制約を受けているようにも見える。唐代以後、どのような発展を見せたのだろうか?

なお、「緌黃」がどういう色なのかついに分からず仕舞いだ。素直に考えれば黄色と黒だから燻んだ黄色かとは思うが、「黒と赤」が紫になることを思うとこの推論は安直すぎるかもしれない。

 

 

ニュートンを肩に乗せた巨人

ケプラー理論をめぐる混沌

ケプラーの『新天文学』は、表題に偽りない、非常に新規な天文学を打ち立てました。ケプラーはすでに名高い天文学者でしたから、この著作もそれなりの注意をひきまして、いくつかの要素は広く受け入れられました。しかし、多くの部分については拒否感が強く、より多くの観測による証拠が求められました。

ところが、ケプラーの理論を計算に乗せるのは、当時の数学では非常に困難でした。そこでケプラーは、数値的な手法を多用した天文計算のマニュアル『ルドルフ表』を準備します。水星の太陽面通過の予測に成功するという、派手なイベントもあり、ケプラーの支持者は増えました。

しかしデータとの突き合わせが進むと、『ルドルフ表』の綻びが見えてきます。ケプラーの理論の月の理論はあまり上手くいっておらず、火星と水星以外の惑星はパラメータの選択が良くなかったからです。

 

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こういうとき、科学者はどうするか?

『ルドルフ表』などのお陰で、ケプラーの理論が真実を含んでいるだろうことは、ある程度支持されていたとおもいます。しかし、従来の常識に超線的で、計算も難しく、また観測にピッタリとあうわけでもない。

そこで、ケプラーの理論の修正を目指す方向がありました。これも程度は様々だったのですが、比較的まいるどな路線を代表したのが、イスマイル・ブリオ (Ismaël Boulliau)です。それに対して、あくまでケプラー理論を信じて、改良を目指したのが、エレミア・ホロックス(Jeremiah Horrocks)です。ニュートンが「巨人の肩に乗った小人」に自らを喩えた時、巨人として念頭にあったのはホロックスかもしれない、とThe biographical encyclopedia of astronomers (Springer) にはあります。

代替理論にむかったブリオ

ケプラー理論の不評な点の一つに、力学による三法則を「導出」がありました。この「導出」は客観的に見て論理が通っておらず、その上当時は天文学を自然学(物理学?)と結びつけることには、慎重な傾向がありました。また、ケプラーの第二法則は、『ルドルフ表』の助けがあったとしても、数学的に扱いやすいものではありませんでした。第三法則はそもそも、天文表の計算には無用でした。

ケプラー理論の根拠の強い部分は取り入れて、より簡単な計算方法を備え、自然学的な謎な理論は取り除き、しかも観測には合う。そんな理論があれば、広く受け入れられて当然でしょう。それをやったのが、ブリオのAstronomia Philolaica(1645)です。彼はケプラーの力学的な「証明」を否定して、天文学幾何学と光学を基礎にすべきだとします。

ブリオはカルバン派の両親の下に生まれ、父の死後、カトリックに改宗してパリに移住します。1632年のことで、ルドルフ表が1627、ガリレオ裁判が1633、となかなか忙しい時代です。彼はメルセンヌのサークルにも繋がり、名だたる数学者天文学者たちと交流し、最新のデータにもアクセスできました。

メルセンヌは彼のことをこの国で最高の天文学者とし、リッチョーリは『新アルマゲスト』で近代の著名な天文学者のリストに加えています。理論家として有名ではありましたが、観測にも並々ならぬ関心を示して、「ダイヤモンドとルビーよりも高価な」レンズを揃えました。

彼のAstronomia Philolaicaでは、ケプラーの第一法則は認めます。その上で、第二法則に代わる、速度の決定規則を提案しました。楕円は円錐を斜めに切ったものです。この円錐を水平な断面に沿った一様な運動を、軌道面に射影したものが惑星の運動だというのです。

彼の理論は、『ルドルフ表』よりもティコらのデータに合いましたし、計算もしやすかった。ケプラーのような謎な論理は振り回さない。すでに名の知れた天文学者のこの理論が大きな支持を集めたのは、当然といえば当然でした。1660年頃は彼の絶頂期でした。相前後して、似たような幾何的な理論を試みた研究者は多くいました。アイザック・ニュートンもその一人です。

ニュートンは、ケプラー理論を様々な文献を介して知りますが、ソースの一つはブリオでした。また、ブリオはケプラーの重力理論(距離に反比例するとした)を批判して、ケプラーの推論を推し進めるならばむしろ距離の二乗に反比例するはずだ、としました。ただし既に述べたように、ブリオは力学的な理論そのものに批判的でしたが。

ニュートンを肩に乗せた巨人

ケプラーの『ルドルフ表』の誤りと対峙したとき、理論の改訂に進んだブリオと全く逆の反応をしたのが、認められぬままに夭折した エレミア・ホロックス(Jeremiah Horrocks)でした。彼はケプラーの理論の全てを、評判のよろしくなかった物理的な理論も含めて受け入れ、繰り返し最上級の賛辞を贈ります。

ホロックスは1619年にイギリスのリバプール近郊の農夫の家に生まれ、給費生としてケンブリッジで学びます。学位を取得することなく退学し、地元に戻って家庭教師として生計を立て、自作の粗末な観測機器で研究を進めます。「ダイヤとルビーより高価な」レンズなどは望むべくもありませんでしたが、彼は注意深い優れた観測家でした。

また、著名な知識人との知己に恵まれたブリオとは正反対に、彼は大学時代の友人ウォリスを介して知り合った、ウィリアム・クラブトリー(Crabtree)との文通だけが頼りでした。彼らは遂に生前は一度も会うことはありませんでした。会合の約束の前日に、ホロックスがこの世を去ってしまうからです。1641年ですから、22歳ですか。あまりにも短い人生でした。しかし、その業績は巨大でした。のちに王立協会が発足した時、真っ先にホロックスの遺稿の出版プロジェクトが手掛けられましたし、「卓越した天文学(ニュートン)」「英国天文学の誇り(ハーシェル)」などと称えられました。

まず彼は、太陽の視直径を一年に渡って毎日観測し、これが楕円軌道の仮定に合致することを確かめます。カメラ・オブスクラの原理を用いたこの視直径の計測方法は、ケプラーがアルハゼン光学の応用で開発したものですが、ケプラー本人は太陽が一番近い時と遠い時の距離の比率を計測しました。これと太陽の見かけの速度との関係から、コペルニクス理論の欠陥を指摘し、楕円軌道に向けて半歩踏み出すことになります。しかし多数の点で計測して、軌道の形状を確かめたのはホロックスです。

ホロックスはまた、ケプラーの『ルドルフ表』では予測できなかった、1639年12月の金星の太陽面通過を、通過の場所まで含めて精度よく予測して、観測で確認します。残念ながら、同時に観測をしてもらえたのは盟友クラブトリーだけで、また発表は彼の死後になってしまいますが。もしもこの予測が事前に広く知られていたら、全欧州からの賛辞を浴びたことでしょう。

そして、太陽の地心視差、つまり地球の半径と太陽までの距離の比率の評価を伝統的な値やケプラーに比べて、大幅に改善します。これで惑星の見かけの位置を補正しますし、日食の予想にも重要で、また太陽、月、地球の三体問題に基本的なパラメータでもあります。

また、特筆すべき業績として、月の理論を上げることができます。心の師たるケプラーも、月ではあまり上手くいきませんでしたが、ホロックスの理論は円と楕円を一つづつ組み合わせるシンプルな構成で、たった2分の誤差しかありませんでした。のちにニュートンも月の理論を、彼の力学理論でもって挑むのですが、近似を繰り返した挙句得た理論は、ホロックスに一致していました。彼の死後この理論は100年の間最も精確な理論であり続けました。
また、木星土星の精密な観測から、二つの天体が接近したときの速度の変化を見出します。

そして、天文表の計算に使われることのなかった、第三法則を丁寧に実証したのもホロックスです。ホロックスの天文学や数学の知識の多くは独学で、機器は手製の粗末なものでした。中央から離れた場所で、ひっそりと積み上げた業績は、死後、ホイヘンスらに回覧され注目を浴び、天体の物理学的な理論の基礎となりました。

「状態」の集合はコンパクト?

「Alaogluの定理」というのがある。これは、

  •  B をノルムつきのベクトル空間としたとき、 B^*の閉球が、 Bが与える弱位相についてコンパクト

という主張である。これが時々量子基礎論の世界に漏れ聞こえてきて、「つまり、状態の集合はコンパクト集合なんだ!という理解というか、誤解を引き起こす。

なるほど、作用素代数の本を見ると、「状態\omega」は有界作用素の上の正の線形汎関数\omegaで、\omega(I)=1を充たすものと定義されている。

 B有界作用素の成す空間として、上の定理に当てはめるて少し敷衍すると、確かにこの意味での状態の集合はコンパクトである。

まず定理から、\omega(I)\le1を充たすものたちの集合がコンパクトであり、拘束条件\omega\ge 0\omega(I)=1で定義される集合が、上記の位相で閉じているからだ。

だが、問題はこの「状態」は普通に物理的な状態と思っていいのだろうか?

病的な例

今、次のような\omega_0を考える:

 

\omega_0(X):=\lim_{n\to\infty}\frac{1}{n+1}\sum_{i=0}^{n}\langle i|X|i\rangle

鋭い人は「右辺は収束しないかもしれないでしょ」と思うだろう。実は先日、ツイッターでそう指摘されてしどろもどろになってしまった。このブログを かいているのも、そのときの後始末である。

とりあえず、仮に今これが収束したとしよう。すると、X\ge 0ならば\omega_0(X)\ge 0、つまり\omega_0 は正の線形汎関数である。また、\omega_0(I)=1もすぐにわかるだろう。

後は、収束しない場合をなんとかするだけで、「状態」を定義できる。幸い、仮に収束しない場合でも、振動するだけで発散はしない。こういう場合は、「バナッハ極限」という裏技がある。これは、

  1. 有界な数列から数への連続線形写像である
  2. 収束する数列については、普通の極限
  3. それ以外の場合(つまり振動する場合)については、Hahn-Banachの定理を用いて拡張

というものである(複数種類ありえるが、どれを取るかは決めておく)。上記\omega_0の定義の極限を、このバナッハ極限とすれば、みごとにこれは「状態」を定義する。

\omega_0は定義からわかるように、「一様分布」のようなものである。無限個の要素の上の「一様分布」だから、一つの値をとる「確率」はゼロとするしかない。実際、

\omega_0(|i\rangle\langle i|)=0

がすぐにわかる。よって、

\sum_{i=0}^\infty\omega_0(|i\rangle\langle i|)=0\neq 1=\omega_0(I)=\omega_0(\sum_{i=0}^\infty|i\rangle\langle i|)

でとなる。つまり、「確率の和の規則」が破綻しているのである。

密度をもつ状態

そもそも、物理や量子情報の普通の教科書では、状態は密度作用素で定義される。密度作用素とは、正定値でトレースが1の作用素のことだ。作用素代数の本では、状態\omegaに対してある密度作用素\rho_\omegaがあって、\omega(X)={\rm tr} \rho_{\omega} Xと書けるとき、normalであるという。状態がnormalなら、先にのべたような確率の和の法則の破綻は起きない。

よって、普通は物理的な状態はnormalな状態で表現されるとし、そうでない状態は数学的な道具と割り切る。

トレースクラス

では、normalな状態で生成される(複素j線形空間は、どのような特徴を持つだろうか。normal な状態は密度作用素で表現できたので、両者の空間を同一視することにする。密度作用素が生成するノルム付きの線形空間は、トレースが有限な作用素全体に等しい。この空間をトレースクラスという。

今、トレースクラスをB_*と書くと、

(B_*)^*=B

つまり、B_*の双対空間は、有界線形作用素の空間Bである。

これは、

ということを意味する。

Predual 

一般にdualをとると Bになる空間B_*Bのpreduaという言う。

量子力学の場合は、オブザーバブル有界作用素であった。この空間は、幸いなことにpredualが存在する。古典系の場合は、オブザーバブル有界な関数の集合L^\inftyで、そのpredualは絶対値が積分可能な関数の集合L^1である。つまり、確率密度関数が状態を表現することになる。

なお、一般のバナッハ空間は必ずしもpredualを持つとは限らない。例えば、C^*環がpredualをもつならば、それは必ずvon-Neumann環であり、von-Neumann環ならばpredualを持つ。量子や古典のオブザーバブルの空間はいずれもvon-Neumann環で、このあたりは実に上手くできている。

一般化確率論

量子論や古典論を形式的に一般化した、一般化確率論では、このあたりのことはどうなっているか。

ここで、一般化確率論とは、状態と観測の集合、そしてそれらから確率分布への写像、の三つ組のことである。状態も観測も、特に数学的な構造は何も仮定しない。だが、確率分布への写像をいわば核として、これらを表現するノルム付きの線形空間の双対な組みを構成することができる。

一般的に、この表現は忠実ではなく、状態と観測の集合に同値類を導入することになる。つまり、このどんな観測でも区別できない状態は同一視され、どんな状態に対しても同じ統計を与える観測も同一視される。

そして状態の表現は、オブザーバブルが成す空間のPredualの要素になっている。

弱位相とは

Alaogluの定理そのものと同様、そこに出てきた「Bで与えられる弱位相(或いは弱*位相)」も、かなり誤解の多い代物である。特にセミノルムの族を用いた表現では、ノルム位相と一見近く見えてしまう。

セミノルムはノルムとほぼ同じ性質を持つが、セミノルムp(x)=0はかならず必ずしもx=0を意味しない。ただ、それ以外はノルムと同じ性質を持つ。よって、これで「ε球もどき」を定義できる

「Bで与えられる弱位相」を定義するには、次のようなセミノルムたちを使う。

p_x(x_*):=|x(x_*)|

ここでx\in B,x_*\in B_*である。集合V_{x,\epsilon}を「ε球もどき」、すなわちこのセミノルムがε未満のものたちの集まりとしよう。上記の位相の基本近傍系は、この類の集合の、有限個の交わりで生成される。

重要なのは、このセミノルムは、ある一つの方向の違いしか検出しないことだ。よって、これが小さくても、他の成分は大きいかもしれない。もちろん、様々なxについて交わりを取る。しかし所詮は有限個しか取れない。もしも有限次元なら、これで全ての成分を小さく抑えれるが、無限次元では無理である。

つまり、この位相はかなり粗いのである。ノルム位相にちょっと似た定式化なので、コロリと騙されてしまいそうだが、実際は似て非るものなのだ。

(もしも一般位相の「積位相」を理解されている方なら、その言葉でこの位相を簡単に理解できる。)

この位相の荒さは半端ではない。時に弱位相は「各点収束の位相」などと端折って言及されることもあるが、その言い方はちょっと甘い。以下、少し具体的に見てみる。

稠密?

実はこの位相で

  • Predualの閉じた球は、dualの閉じた球の中で稠密で、従ってnormalな状態の集合は状態の集合の中で稠密

なのである。これは、「normalな状態で全ての状態が近似できる!」ということを示しており、非常に有用な定理である。しかし、このように粗い位相であってみれば、物理的な意味合いはよくよく吟味した方が無難である。

「稠密」という言葉を最初に習うのは、「有理数の実数の中での稠密性」なのではないかと思う。この場合、「与えられた任意の実数に収束する有理数の列を構成できる」ことと同じだった。しかし今我々が扱っている位相では、よくよく「稠密」の定義に戻って考えるべきである。「稠密」とは、

  • 任意の状態の任意の近傍に、少なくとも一つnormalな状態がある

ということだ。上記の「近傍」を「基本近傍系に含まれる任意の集合」としても同じなので、上で定義した「ε球もどき」の有限個の交わりだけを考えれば十分である。これは、有限個のオブザーバブルの期待値だけを見て近いと判定しているのであった。そして、上記の定義の「少なくとも一つnormalな状態がある」と言っている状態は、当然このオブザーバブルの組みに依存して良い。つまり、あるオブザーバブルの組で状態の違いを判定するときはこのnormalな状態で近似し、別のオブザーバブルの組で判定する時は別のnormalな状態で近似して。。。ということをやっても良い。

要するに、観測のセットに応じて近似状態を選んでも良いのである。決して「与えられた任意の状態に収束するnormalな状態の列を構成できる」わけではない。

抽象的な表現には用心

ところが、一見、これに似た言明がなりたつ。つまり、

「与えられた任意の状態に収束するnormalな状態のnetを構成できる」

netとは点列に似ているが、添字が自然数とは限らず、任意の半順序集合の要素を許す。このような点列もどきのものの収束も、形式上は点列と似たように定義できてしまう。しかし、具体的に意味するところは随分と違う。

セミノルムもnetも、数学者は意図してノルムや点列に似せて定義している。証明がやりやすいからなのだと思う。実際netの収束で書いてもらう方が、証明は読みやすいことが多い。彼らは「定義の意味を厳密に捉えて、決して拡大解釈しない」という点については徹底した訓練を受けているので、間違いを起こすことなく、抽象化の利点だけを享受できる。

だが、我々数学素人には少し手強いトラップだと思う。

参考文献

関数解析に関して、私がもっとも頼みにしているのは、以下の教科書です。

link.springer.com

 

ヒルベルト空間上の作用素に関しては、また線形作用素をメインにした関数解析の本、或いは作用素代数の教科書の最初の方にまとまっているレビューを見られるとよいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

ケプラー『ルドルフ表』

ケプラー『ルドルフ表』は、引用したツイートで語られているように、非常に重要な著作だ。これを執筆していた時のケプラーはさぞや充実していただろう。。。と思いきや、山のような数値計算に苦しめられ、「もっと哲学らしい仕事がしたい」とぼやいていたという。

天文表とは何か?

『ルドルフ表』は、ケプラーの楕円軌道の理論に基づく天文表である。

「天文表」とは、中世を通じて編まれ続けた天文学書の形式で、一言で言えば天文計算のためのマニュアルだ。数表はもちろん含まれるのだが、それも計算の補助や基本データとして用いるために付けられている。そこで近年は「天文便覧」という訳語が与えられることもある。なお、天文表と時折混同されるものに、「天体暦 ephemeries」というものもある。こちらは天文表を用いた計算結果、つまり「何月何日には火星はどこに見えるか」といったことを表にしたものだ。『理科年表』の暦部のようなものである。

中世ヨーロッパの天文表は、アラビア天文学の『トレド表』に起源を持つ。そしてアラビア天文学の天文表(ズィージュ)の起源は、ササン朝ペルシアの『シャア表』で、これはインド天文学をベースにしている。

つまり西方の天文学は、幾何的で論理的な証明を重んじるギリシャ流と、算術的でアルゴリズム中心のインド流とのハイブリッドなのである。どちらが欠けても、近代天文学の成立は成らなかっただろう。

天文学の誕生 - 岩波書店

なぜ『ルドルフ表』を出したのか

中世を通して天文表や天体暦の編纂・改訂は、職業的な天文学者の通常の仕事だった。しかし、天文学者占星術師としての一般的な事情以上に、ケプラーはこの難事業に挑む理由があった。それは彼の天文学が、従来の常識とあまりにかけ離れていたことと関係している。天文学上の革命といえば、コペルニクスが真っ先に頭に浮かぶかもしれない。しかし科学史家ノイゲバウアーは、近代天文学の始まりをティコ・ブラーエとケプラーに置く。コペルニクス『天球の回転』を「全ての章、定理、表がプトレマイオスアルマゲスト』とパラレルだ」と評する一方、ケプラー『新天文学』を「この書物の題名ほど、中身を如実に表現する言葉はない」とした。

Astronomy and History Selected Essays | SpringerLink

このような斬新さに加えて、彼の著書はわかりやすいとは言えず、計算の間違いも多かった。また神秘主義的な傾向が強かったことも、よく知られる通りである。幸いなことに、ケプラーはすでに帝国お抱えの天文学者で、神秘主義も当時は必ずしも否定的には捉えられていなかった。故に彼の理論は無視されることはなく、検討の俎上には載せて貰えたのである。

その結果、理論の一部は受け入れられた。しかし、残りの部分については「観測と詳しく付き合わせて判断したい」という意見が支配的だった。ところが困ったことに、「与えられた時刻の天体の位置を、ケプラーの理論に基づいて計算せよ」という問題は、ちょっとした難問である。現在では以下のリンクのような級数展開を用いるが、私は自力で導ける自信はない。17世紀の人々が苦労したのは当然だと思う。そこで、計算を補助するマニュアル、すなわち天文表の発表が強く要望されたのである。

Equation of the center - Wikipedia

『ルドルフ表』の成功と限界

当時の数学の未発達を補うために、『ルドルフ表』は数値計算を多用した。このあたりの苦労は例えば下記の論文に詳しい。その苦労を見かねた友人のヴィルヘルム・シッカート(Wilhelm Schickard) は、機械式計算機を開発したという。(結局は使われなかった。)

https://www.researchgate.net/publication/231959246_Early_Numerical_Analysis_in_Kepler%27s_New_Astronomy

例えば、与えられた時刻の惑星の位置は直接計算できなかったため、その逆問題を解いて表にした。つまり、割り算を掛け算の表からの逆引きで計算するのと同じ発想だ。冒頭に引用したツイートの写真がその表である。

ケプラーは、泣きごとを言いながらも何とか『ルドルフ表』を完成させた。苦労の甲斐あって、天文表の威力は絶大だった。特にガッサンディによる水星の太陽面通過の観測は、本表の正確さを強く印象づけた。内惑星の太陽面通過は、それらの天体が太陽を周回しているか否かの判断材料になるので、中世においても議論があった。だが誤った「観測」(おそらくは誤認)から、議論は混乱していたのである。ケプラーの理論の認知度は一気に上昇し、以前の反対者の一部は絶賛に回った。

だが精査が進むと、『ルドルフ表』にも粗が見え始めた。例えば、月の理論はあまり成功とはいえなかった。また、今から見れば、火星と水星以外のパラメータは良くなかったのだ。

それに加えて、数表頼みでしか計算が進まないのは、何かと不便であった。この計算の困難は、上記の誤差の問題の原因でもあった。そもそも、既知のパラメータの軌道を計算のも一苦労なのだから、データからパラメータの値を決めるのは、更に苦労が大きかったのである。

この問題が最も顕著に現れたのは、金星の理論だった。金星の軌道は他の惑星に比べてひときわ円に近く、従来的な円軌道がかなり有効だった。一方、『ルドルフ表』は主にパラメータの値の問題から、精度を落としていた。

ケプラー理論の受容後も、計算の問題は人々を悩まし続けることになる。1670年ごろ、エドモンド・ハレーはパラメータの新たな決定方法を考案するが、実用的ではなかった。1680年に実際的な観測家フラムスチードがとった対策は、有能な計算助手たちの採用だった。

つまり、ケプラーの新規で常識はずれの理論は、運用面で不便だった上に、観測との整合性にも問題を残していた。全面的な受容にブレーキがかかるのは当然の話である。

何が受け入れ難かったのか

だが既に述べたように、ケプラー理論の全てに拒否反応があったわけではない。

彼に先立つコペルニクスの理論では、惑星は太陽からやや離れた点を中心に、しかも上下に複雑に振動しながら周回していた。これはプトレマイオス理論の名残りである。一方、ケプラーの理論では、惑星は太陽の周りを一定の軌道面に沿って周回しており、非常に見通しがよかった。中世を通して天文学者は惑星の上下振動の計算に手を焼いていたので、この新基軸は地球中心説の論者にも歓迎された。

では一体、彼の理論のどこが常識外れだったのか。まず、彼は伝統的な円運動を捨てて、楕円軌道を採用した。ファインマンの解説も、この点を非常に強調していたと思う。確かに、楕円軌道にも大きな抵抗があった。しかし、楕円は円錐を斜めに切って得られる曲線なので、円運動の変形として受け止めることも可能だったのである。それよりも問題だったのは、第二法則、すなわち面積速度一定の規則である。これは、従来の等速回転を基本とする考えと真っ向から対立した。

実はプトレマイオスも回転速度の変化を導入してはいるのだが、等速回転の幾何的な変形で生成している(エカント点の導入) 。一方、第二法則はそういった手法では表現できなかった。しかも、すでに述べたケプラー理論の数学的な難しさは、主に面積速度一定の規則に由来していた。

こういった個別の論点以外に、ケプラーの自然学と天文学を融合しようとする姿勢は、少なからず反発を呼んだ。理由の一つは、彼の力学的な説明があまり成功していなかったことにある。だがそれ以上に、過去にこの手のアプローチが悉く挫折していたことも大きかった。そもそも、コペルニクスが自然学的に不合理だとして廃止したプトレマイオスのエカントを復活してみせたのは、楕円軌道以前のケプラーだった。(『新天文学』においても、火星以外はエカントである。)

代替理論か、理論の洗練か

このような状況下提案されたのが、イスマイル・ブリオによる代替案である。彼は円錐を水平に切った円上の等速回転を考える。これの斜めな平面への射影として惑星の運動を記述したのである。ブリオの理論は、楕円軌道でありながらも伝統的な天文学の手法で容易に扱えた。また観測との誤差は概ね1分未満で、『ルドルフ表』を凌駕する部分もあったのである。1660年ごろは彼の絶頂期であった。ブリオに類似の理論は多数も現れ、アイザック・ニュートンも同種の理論を試みている。

ただし、ブリオの理論がケプラーの全否定でないことは明らかである。むしろ彼も『ルドルフ表』に深い感銘をうけていたし、彼の著作はニュートンケプラー理論を知る際の情報源の一つでもあった。

遡って1630年代後半、イングランドの片田舎でひっそりとケプラー理論の洗練に取り組んだ人物がいた。のちにイギリス天文学の誇りとも称賛された、エレミア・ホロックスである。彼の改善は、金星の太陽面通過の精確な予測と観測という快挙を、人知れず上げていた。また、距離の測定に基づく地球の楕円軌道の立証、月の理論の改良、計算方法の改善など膨大な業績を残して、1641年に余りにも短い生涯を終えていた。彼の遺稿が知れ渡り、それに基づく丁寧な解析がなされるようになると、状況はケプラー理論に有利になっていった。

最終的な顛末

ケプラー理論の勝利には、思想的な潮流の変化も幸いしていた。天文学者は徐々に天体の物理を語ることを躊躇しなくなってきていた。また若干の偶然もあった。例えばニコラス・メルカトルの幾何的な理論は、パラメータの取り方によっては当時のケプラー理論を上回れたのだそうだ。そもそも円の個数さえ気にしなければ、周転円でケプラー運動を十分に近似できる。

ケプラーの理論が受容された際にも、それは経験則として受け入れられたのであって、例えばカッシーニは楕円に近い別の曲線を提案した。物理に踏み込まずに天体の位置を扱う伝統的な天文学では、この辺りが限界かもしれない。

結局、ケプラーの法則が確固たる事実として受け入れられるのは、ニュートンの力学的による裏付けを得てからにことである。例えば、ホイヘンスなどもニュートンの『プリンキピア』を見てケプラーの全面的な受容に踏み切る。

ケプラーは、ニュートンのように新たな力学を作るこはもちろん、ガリレオのような華麗なレトリックで大きな構想を宣伝することもできなかった。だが、物理的な天体論が盛り上がるにあたっては、伝統的天文学の枠内にとどまるところの、経験則としてのケプラーの理論の与えた示唆が重要だった。例えば、全ての惑星の軌道面は太陽を通り、運行速度は太陽との位置関係で決まるといったことは、太陽の惑星への(直接又は間接の)影響を示唆した。しかも面積速度一定の規則が、幾何的な説明を悉く撥ねつけ、かつそれらを凌駕したことは大きかった。

1996HisSc..34..451A Page 451

https://www.jstor.org/stable/41133878

 

 

 

 

光は丸くなる? 光の直進性と影

光の直進性は当たり前か

近代光学の成立に大きく貢献したイブン・アル・ハイサム『光学』では、光の基本的な性質は全て実験や観察で確認をとっている(ことになっている)のだが、直進性についてもいく通りもの実験や観察をあげている。9世紀の「アラブの哲学者」キンディーもロウソクの光を穴を通して投影したり、遮蔽物の影の観察から直進性の「証明」としている。

この分かりやすくて当たり前の性質に、なぜここまでする必要があるのか?

正直、勉強が足りないので直接的な考察はできないのだけれども、乏しい光学史の知識をかき集めると、光の直進性は必ずしも自明ではないのだ、という点はなんとなく理解できる。

光と陰

アリストテレスの名を冠した『問題集』という古代の小論集がある。様々な話題についての問題提起や短い考察を多数集めたもので、数世紀にわたって書き継がれた。

この中のBook XV, 6 (911b3)では、あみかごの四角い隙間から漏れる光の像が丸みを帯びていることを報告し、光又は視線の直進性との関係を問う。そして、鋭い角には視線が届かないからという説明をしている。この観察は、中世でも広い関心をよんだ。13世紀のロジャー・ベーコンは、四角い窓から入った光の像の観察から、「光は丸くなる傾向がある」とした。ペッカム(John Peckham)は四角い穴の後ろに立てたスクリーンを離すにつれて像が丸みを増すことに注意し、光の直進性がこの現象と整合性するのか?と疑問を提している。

https://www.jstor.org/stable/41133285

現代の話になるが、ある時、イラストの描きのコツを発信しているアカウントからのツイートが流れてきた。影と光の描き方をまとめたもので、「光は丸みを帯びる」という説を写真と図付きで解説してあった。

確かに、直線的な光線から柔らかい陰影が形作られるという事実は、直感的には納得しがたいのかもしれない。

カメラ・オブスクラ

上で述べた伝アリストテレス『問題集』には、木漏れ日がカメラ・オブスクラとして機能して、日食の像が地面に写されることも載せられている。特に、穴の形が像に影響しないことを鋭く指摘している(Book XV, 11 (912b28))。いうまでもないが、この問いと上述の編みかごの話は基本的にどちらも同じ問題で、穴の大きさとスクリーンまでの距離の比率が違うだけだ。

このカメラ・オブスクラも、日食の観測への応用ということもあって、ベーコンらの注意を引いた。しかし、彼らの光と陰の理解は上述のごとく混乱していて、筋の通った分析を示せなかった。

14世紀に入ると、Egidius de Baisiu という無名の光学家と、高明なユダヤ人学者のゲルソニデスが不完全ながらも一定のまとまった分析を残す。ただし、これらが広く知られれることは無かったとされる。その後は一旦、光学の理論は停滞してむしろ機器制作が盛んになる。結局、満足な理論はケプラーの登場を待つことになる。

なお、ケプラーは、ヘブライ語で書かれたゲルソニデスの仕事にアクセスできなかったとされる。アヴィニョン法王庁に出入りし、観測機器「ヤコブの杖」の発明で全欧州で知られていた高名な人物でもそんなものなのだろうか。意外とアイデアの伝搬の壁はあちこちにあるものだ。

アラビア語圏での展開

上記の欧州での展開においては、アラビア語圏での研究の貢献が小さくない。イブン・アル・ハイサム『光学』第一巻には、穴が十分小さい時のカメラ・オブスクラについての詳しい記述がある。また、同書で展開される「点状解析」が、ケプラーの理論の主要な道具である。

この「点状解析」とは、光源の各点から発する光線(狭いが有限の幅があると思われていた)を一本一本追跡する分析で、明るさは照射する光線の密度に比例すると仮定する。

点状解析の起源は、キンディーの『視学』だとされる。同書のカメラ・オブスクラの記述では、スクリーンを一次元の線にしてしまっているが、像の倒立が見事に説明されている。また別の箇所では、「視線」を一本一本追跡し、本数と視覚の明瞭さを比例させている。つまり、イブン・アル・ハイサムの点状解析の構成要素は、全てキンディー『視学』に見つけることが出来る。

ただし、キンディーは半影や像のぼやけを全く記述していない。理論整然としたキンディーの議論は、ベーコンらが悩んだ現象を捨象してしまっている。

では、半影を含んだ議論はアラビア語圏では現れなかったのか。実は、欧州には伝わらなかったが、イブン・アル・ハイサムは『影について』『食の形について』という論考でこれらの問題を(ほぼケプラーの水準で)見事に分析して見せていた。なにせ、彼は無限小解析や円錐曲線論でも著しい業績のある、大数学者でもあるのだ。数理科学者としての腕力は、キンディーやベーコンとは格が違う。

なお、『食の形』を日食の観測の記録とする紹介を複数見かけたが、この書は理論が主な内容である。むしろ、観測をどの程度真面目にやったかは怪しいと私は思っている。なぜなら、日光がほぼ水平に入ってくる設定で分析をしているからだ。一応該当する日食はあるらしいしが、そのような稀な現象を捉えたという確率は、やはり低いのではないか。入射の方向が斜めでも、理論の本質的な部分は変わらないから、通常の日食の観測で代用した可能性が大きいと思う。

全く観測しなかった可能性もないわけではないが、穴の大きさや部屋の暗さなど、実際的な注意が書かれているので、何らかの観測はしていると思う。

ラテン中世の事情

それにしても、なぜ中世の欧州ではこれだけ迷走したのか。

一つには、ベーコンもペッカムも数学的な学問の専門家ではない、という事情がある。大数学者イブン・アル・ハイサムとの比較は無謀であるにしても、当時の平凡な天文学者よりも数学は駄目だっただろう。これは、当時の自然学探求者の限界といって良いと思う。

もう一つあげるとするならば、13世紀ラテン世界の光学家の、極度なまでに折衷に走る傾向だ。彼らの主な拠り所はイブン・アル・ハイサム『光学』だったが、その他様々な古代や中世の理論を複雑に組み合わせていた。この問題においても、『問題集』の議論が影響を与えている。

彼らの手元には、アリストテレスプラトンユークリッド、キンディー、イブン・シーナーの著作のみならず、それらの注釈や再編版などがあった。これら雑多で質もまちまちな典拠を比較し再評価する作業は、決して簡単ではなかったのだろう。

 

参考文献

D. Raynaud, A Critical Edition of Ibn al-Haytham’s On the Shape of the Eclipse: The First Experimental Study of the Camera Obscura, Springer 2016.

 

古代原子論者の視覚論

現代の科学に「近い」理論

我々科学者が昔の科学を語るとき、ついつい現代と表面上似た理論に入れ込んでしまいがちである。学問的な説として失敗していることは明らかでも、「発想は素晴らしい」などと思ってしまう。古代においても、地球中心説よりは太陽中心説四元素説よりも原子論の方がなぜか魅力的に映る。

古代の原子論は、レウキッポスが始祖とされ、デモクリトスが大成した。デモクリトスは自然学のさまざまな主題について多数の著作を成していいるので、自然現象の説明に相当力を入れたのだと思う。アリストテレスは彼の説を批判したが、慧眼を称えてもいる。

少し時代が降ると、アリストテレスの学派は非常に弱くなってしまい、ストア派エピクロス派の時代になる。前者の自然学は、プラトンと共通点が多い。アリストテレスプラトンは共通点も多く、故にこの3者の自然学はなにかと似ている。例えば、彼らはすべて四元素説を採用した。

視覚論について言うならば、ストア派は眼から放出されるプネウマの作用で視覚を説明していた。このように、眼からの能動的な働きかけを想定する視覚論を流出説(外送説)という。プラトンピタゴラス派、そしてユークリッドなどの幾何学的な視覚論もまた、流出説であった。

これらに対して、デモクリトスエピクロスの視覚論は流入説に分類される。流入説では、眼は外部からの流入を受け入れるだけである。現代の視覚論は、光の流入で視覚を説明するので、流入説である。つまり、原子論者は物質理論でも視覚論でも、ストア派その他と対立して現代に近い理論を展開していた。。。。という説明を組み上げることはできる。

だが、原子論者の視覚論と現代の視覚論は、本当に同じ範疇で括ってしまって良いのだろうか?

原子論者のエイドロン説

以下、原子論者エピクロスルクレティウスの視覚論を説明する(デモクリトスの説については、不確定なところがある)。

古代の視覚論の最大の課題は、視覚が空間を隔てて作用する仕組みの解明だった。触覚の場合は手が直接触れるので、対象物を細やかに把握できてもあまり不思議はない。ところが、視覚は時に長大な距離を超えて、しかも詳細に対象を把握する。

エピクロスは、この距離の問題を視覚対象の飛来で解決しようとした。「エイドロン εἴδωλον」すなわち物体の表層から剥がれた原子の薄い膜が飛来するとしたのである。エイドロンいわば物体の模型である。これが向こうから飛来してくれるのであれば、あとは触覚と大差のない機構で感覚の成立を説明できる。

9世紀「アラブの哲学者」キンディーは、原子論者に対して次のように反論した。厚さのない円を、円と同じ平面上に目線を合わせると線分に見え、円であることは知覚できない。ところが、原子論者の議論の仕組みを信じるならば、「円」のエイドロンが眼に取り込まれ、「円」全体の形状を把握できるはずだ。

この反論がフェアかどうかはさておき、エイドロンによる視覚論は、対象を全体として丸ごと把握することを可能にしてしまう。なぜなら、対象のミニチュアたるエイドロンが丸ごと感覚器官に取り込まれてしまうからだ。

Encyclopedia of the History of Arabic Science - Google ブックス

流出説

原子論者がエイドロンの飛来で距離の問題を克服したのに対して、流出説は眼の方から放出物を出すことで対象までの距離を埋める。あちらからやって来るのを待つかわりに、こちらから手を伸ばすのである。だが、それ以外は両者の構造は類似している。実際、ストア派も原子論者も視覚と触覚のアナロジーをしばしば持ち出し、距離による視覚の劣化の説明なども、驚くほどパラレルだ。

だが、一見アルカイックに見える流出説には一つ長所がある。それは、眼からの流出物があくまで対象とは独立な存在であることだ。よって、対象の情報が取り込まれるプロセスは、エイドロン説ほどには自明ではない。ここに、ユークリッドプトレマイオスらのような、分析的な理論が生まれる契機があった。

彼ら幾何的な理論家は、「視線」という光線状の射線が目から円錐状に放出されるとした。この視線の束が成す円錐を「視円錐」といい、頂点は眼の奥にあって、底面には視覚対象がある。視線は、対象物に到達するとその情報(プトレマイオスによると「色」)を持ち帰り、眼のセンサー(彼はそれを角膜とする)で補足される。このように規定すると、形状の知覚の議論は、視円錐の幾何学的に帰着される。ここで、視線が対象物の表面を機械的にスキャンするだけ、というのが問題の数学化において非常に重要なポイントである。

原子論の視覚論では、エイドロンとして完成した視覚像が外に有り、あとはそれを如何に取り込むかだけが問題だった。一方、視線の理論では、視線によるスキャンによって像を形作る。前者は「像」を全体として取り込むのに対して、後者は視線が照射する点に分解される。つまり、視線の理論の方が、より分析的な視覚論なのである。

視円錐による幾何学的な分析は、おそらくは測量や絵画などと強い関係があったのだという。ユークリッド『視学』はそれらの応用を意識したと思しき命題が多くあり、ゲミヌスやファーラービーの概説も、これらの応用に言及がある(特に後者は詳しい)。

エイドロンと光と視線

現代の視覚論は、光の流入で視覚を説明する。流入説という点では、エイドロンの理論と同じである。しかし、光はエイドロンとはかなり異質な存在だ。光は対象の内部から湧き出るわけではない。光源から発せられ、対象の表面で跳ね返って眼に届く。対象の外部からやってきて表面をスキャンするという点では、むしろ視線に似ているかもしれない。

実際、のちにイブン・ハイサムが光による視覚の理論を作るにあたって参考にしたのは、ユークリッドプトレマイオスの理論だった。彼の「光」は視線とほぼ逆のコースを通って感知され、「視円錐」の概念も保存される(現代でもこの概念は現役である)。

つまり、現代の視覚論は、基本的には視線論の子孫なのである。同じ流入説であっても、エイドロン説の影響は比較的小さいと言える。イブン・ハイサムへの影響という点では、むしろアリストテレスの感覚論、ガレノスの眼や神経の解剖学の影響の方が大きい。

原子論の「メリット」

だが、それでも原子論者の視覚論は少なからず言及され続けた。これは、アリストテレスの視覚論(「色」に基づく独自の流入説)がほとんど無視されたのとは対照的である。(ただし、上で少し述べたように、彼の感覚論や色の理論は影響力が強かった。)

例えば、2世紀の文人アプレイウスは、鏡の反射の説明で、各種の流出説と原子論者のエイドロン説を併記したが、アリストテレスへの言及はない(アプレイウス『弁明』15)。

Apuleius, Apologia: seminar

原子論者の説明では、鏡にぶつかったエイドロンは、壁に衝突した固い球のように跳ね返されるのだという。これは日常目にする現象からの類推だから、非常にわかりやすい。エイドロンと球は、大きさが異なるだけで、同じく原子の塊とされたから、この類推は自然だと思う。

一方、視線の理論においても、視線の反射は衝突のアナロジーで説明された。しかし、視線は一瞬で遠い星にまで到達するなど、重さを持った固い球とは違うところの方が多い。「視線」の難点の一つは、その性質が身近な何者にも似ていないことにあった。対して、エイドロンは日常手にする「物」の延長として理解できた。

ただし、この「わかりやすさ」は、科学的な実証のやり易さとは別の話である。例えば、エイドロンの軌跡を浮かび上がらせて反射の様を観察することなどはできない。この点、光とエイドロンは決定的に違う。

光学史における役割

このほか、原子論者の観察には、彼らだからこそ気がついた鋭いものもあった。例えば、ルクレティウスは、非常に明るいもの見たときに眼がダメージを感じることを指摘している。視線の理論の立場からは、これは見つけにくいかもしれない。なお、この現象は、イブン・ハイサムも着目して流入説の根拠にしている。

だが、それ以上に重要なのは、エイドロン説が「説明に苦しんだこと」の中にある。

例えば、9世紀のフナイン・ブン・イスハークは、「エイドロンが都合よく瞳孔のサイズに縮小して入るのは、都合がよすぎるのではないか」という批判を投げかけている。しかも、多数の人間の瞳孔に同時にこれが起こるのはありえない、というのである。

一方、流出説の場合、視線は眼から放出されるのであるから、ひとたび情報をスキャンしたら、眼に情報を持ち帰る点に全く不都合はなかった。真っ直ぐ眼の奥の一点に収斂する直線にそって情報を持ち帰るのだが、元々その経路をたどって対象の表面にやってきたのである。

それに対して、エイドロンは観察者の外部からやって来るのである。眼の都合に合わせて飛来する経路が定まるのは、どう見ても都合が悪い。 

この点でいうならば、光もエイドロンと同様である。対象の表面で乱反射されたら、あらゆる方向に直進する。観察者の都合にあわせて、眼の奥の一点に集約する必然性は一つもないのである。つまり、眼の中における、像の形成の問題がここに生ずることになる。

この問題は、イブン・アル・ハイサムによって気が付かれ、不十分ながら論じらるものの、ケプラーデカルトの近代光学の成立によって、はじめて解決されるのである。

もちろん、古代の原子論者がこの問題に気が付いていたわけではない。ただ、その理論の難点の先には、光の視覚論の非常に重要な問題が潜んでいた。エイドロン説への批判が、上記の論者たちにこの問題への注意を喚起した可能性は、あるかもしれない。

「説明できる」のは良いことなのか

エイドロンは対象の内部から湧いてきたがゆえに、対象との関係の説明が楽で、視線論は眼から射出されるがゆえに、眼の機能の一部として振る舞う事に疑念の余地がなかった。楽に説明できることの何が問題なのかというと、分析的な思考がストップしてしまう点である。学問の進化においては、「一通り説明できる」理論よりも、むしろ「問題点を浮き上がらせる」理論が重要なのだと思う。