西洋の数理科学の東アジアへの流入を考えるとき、明の終わりの改暦事業は大きなターニングポイントです。このときに編纂された『崇禎暦書』は、日本や朝鮮にも大きな影響を与えました。
自分がこの事業について知ったのは、薮内清の新書版の中国科学史の、あまりにも簡潔な記述を読んでのことです。読む人が読めば深い含蓄を読み取れたのかもしれませんが、無学な私には「宣教師が布教の一環として、科学的な知識を停滞した東洋にサラッと紹介して…」といった乏しいイメージしか残さなかったのでした。乏しいだけでなく、いくつもの重大な誤解を抱えながら、年月を経てしまいました。例えば、
- 専門家でない宣教師が学んだ程度の知識が、東アジアでは先端だった。
- 中国側は受け身
- 暦の技術的な知識だけに限定された
…いずれも、多分、薮内清はそんなことはいってないと思いますけど、あまりにあっさりした記述は、他の通俗的な情報源もあわせて、上記のような印象を自分の中に残してしまったわけです。
そのイメージに変化が起きたのは、橋本敬造先生のこの論文を読んでからで、消化はしきれてないけれど、とにかくこれが中国人にとってもイエズス会にとっても大変な大事業だったことは、一読した段階でヒシヒシと伝わってきました。
『崇禎暦書』:天文学の百科全書
『崇禎暦書』は、しばしば「漢訳西洋天文学書(暦算書)」などと紹介されますが、何か特定の本の翻訳ではありません。様々な書籍に基づいて編纂された叢書で、古今東西の観測記録、観測機器、数学、宇宙構造説、天文計算の手順と数表⋮などなど、豊富な内容を集めた、百科全書みたいなものです。各々のテーマについても、何か一冊の翻訳というのでない。例えば、惑星の理論を扱った『五星暦指』などは、プトレマイオス、コペルニクス、ティコ・ブラーエの三つの説を比較しながら惑星の理論を紹介してゆくという、独特の記述をしています*1。
当然のことながら、分量も膨大で、なんとあわせて46種137巻。
改暦は、書物の編纂だけではない
明末の改暦事業は書物の編纂だけをしたのではありません。新規の観測機器の製造と、理論の検証のための観測も伴っていました。西洋暦法の優秀性を説得するには、観測との一致をアピールするのが一番わかりやすかったからです。
上奏文を見ると、この戦略は、元の『授時暦』を強く意識しているようです。『授時暦』は伝統的な中国の暦の、いわば最高傑作でして、明の『大統暦』は『授時暦』を少し改良したものになっています。『授時暦』は未曾有の規模の観測装置の建設を伴っていますし、それ以前の暦に対する優位性を示すため、古今の様々な日月食のデータを持ち出して精度を確認しています。
未曾有の大事業
これだけの大事業ですから、当然、かかわった人の人数がすごい。中国側でも公的に60人くらいはかかわっています。彼らは、単なる下働きだけではなく、執筆にも関わっています。手元にある資料だと、清初期の改訂版である『西洋新法暦書』についてしかわからないのですが、複数の巻に著者として名前を残している人だけをあつめても、10名以上になります。
イエズス会の方の力の入れ方も、半端ではありません。
このころ、マテオ・リッチの後継者のニコロ・ロンゴバルドは、主要な西洋の書物を中国にそっくり持ってこよう!という、当時としては極めて野心的な試みを思い立ちます。やはり、文化大国中国と対峙するには、イエズス会もそれなりの構えが必要だったのだと思います。中国の天文学も、太陽と月に関してはまあまあの精度があります。太陽年の長さは欧州で採用されたばかりのグレゴリオ暦と同じですし、日月食の予報でも極端にひどい外れはありません。こういった暦と競うには、当時中国にいた宣教師の手持ちの文献や知識では、全く足りませんでした。おそらく、神学や哲学などについても同様だったと思います。
そこで1612年、人材と書籍を集めるため、ニコラス・トリゴーを欧州に派遣します。このとき、中国の改暦を担うために選ばれたのが、ヨハン・シュレックです。シュレックは、近代代数の開祖ヴィエタの共同研究者で、また各地を遍歴して様々な学問をみにつけた百科全書的な人物でした。語学の才にも恵まれ、若くして豊富な人脈をもっていました。イエズス会に入会するまでは、ガリレオも属していたローマの名高い山猫アカデミーに属していました。トリゴーとシュレックは欧州を回り、大量の書籍と機器を買い付け、学者たちに面会して情報の提供を依頼し、ケプラーからの情報提供の約束をとりつけました。(ただし、このときの情報や書籍の収集は医学、博物学、哲学など様々な学問が対象になっていることは、注意しておきたいと思います。シュレックのような多才な人材が選ばれたのも、理由のないことではありません。)*2
改暦の要員はシュレックだけではありませんでした。彼のほかにも
- カーヴィツァー(非公式にではあるが、コインブラ大学での数学の教育に携わる、コペルニクス主義者、改暦事業開始前に死去)
- アベリック(インゴールシュタット大教授、航海中に死亡)
- ジャコム・ロー(Giacomo Rho, 羅雅谷, 1593-1638)
- アダム・シャール(湯若望,1591-1666)
といった、数学や天文学に秀でた人物を選抜し、宣教団を構成し、1618年、リスボンを出港しました。宣教師以外の乗組員をふくめると総勢636名。しかし、中国に到着する前に、宣教師5名を含む45名が死亡したとのこと。中国についてからも、改暦事業開始前にカーヴィツァーが、開始後1年後にはシュレックが亡くなってしまいます。まさに命がけの大事業です。
徐光啓のリーダーシップ
以上で、明末の改暦がとてつもない大事業だったことは、わかっていただけたと思います。これだけの事業を起こすには、学識だけ優れていてもダメなのであって、朝廷の議論を動かす政治力と企画力、組織を動かすマネージメント力が必要になります。東アジアにとって幸いなことに、これらをすべて兼ね備えた、徐光啓とう人物に宣教師らは出会っていました。彼はマテオ・リッチの口述に基づいて、(クラヴィウスによって再編された)ユークリッド『原論』の一部を翻訳しており、学識は充分でした。また、橋本論文にくわしく書かれているけれども、彼の手練手管はかなりのものです。
そもそも、外国の暦法による暦の改正は、それ以前には例がありません。たしかに、当時すでにイスラム系の回回暦が日月食予報に用いられて久しく、このことが西洋暦法導入のハードルを下げたことは、間違いないと思います。しかし、正式の暦は伝統的な大統暦でした。そのような状況で西洋暦法による改暦事業を政治的に通したのですから、この一点だけでも、徐光啓は実に見事だと思います。おそらく様々な政治的が機微はあったでしょうし、イエズス会士のもつ軍事その他の技術的な知識も有利に働いたでしょう。それらの背景に加えて、暦そのものに関係するポイントとしては、
銘彼方之材質,入大統之型模(西洋の材料を、大統暦のような伝統的な鋳型にいれる)
というスローガンです。つまり、西洋の知識は入れるけれども、基本的な考え方は中国の伝統に基づくのである、と。
「大統之型模」とは?
この「大統の型模に入れる」の文言を知ったのは、多分、高校生くらいのころだったと思います。この文言と、薮内清の「古来の暦算天文学の枠を崩さない受容」といった説明(まあ、実はよく覚えてないんですけど)から、「表面上の計算方法を移植したんだろうな」くらいのイメージをもってしまったわけです。(さすがに、薮内はそこまで不注意なことは言ってません。)
では、具体的に「大統之型模」とは何なのでしょうか?まず、暦の外面的な形式で、新暦も中国流の太陰太陽暦を目指しました。『崇禎暦書』の構成も、伝統的な暦議と暦書の構成を踏まえていています。
しかし、『崇禎暦書』の構成をみると、基礎理論を紹介する「法原」がそれまでになく充実しています。太陽と月の理論が中心の伝統暦に比べて、恒星や惑星についての扱った部分の比重も増えています。三角法などの新しい数学、これまでにない宇宙構造説、地球球体説、天体の惑星の軌道論、図をふんだんに盛り込んだ記述等々、もしもこれらが「大統之型模」と矛盾しないというのであれば、「型模」はかなり抽象的なレベルの概念であるように思います。
暦の形式的な側面においても、太陽の運行を表す二十四節気は、伝統的な平気(一年を冬至を起点に時間的に二十四等分する)ではなく、定気(太陽の軌道を空間的に二十四等分)に移行しています。後者は、中国でも隋唐の暦の多くで、計算の便宜のため用いられていました。それが、おそらくは西洋の影響で表に出てきたわけです。
それから、徐光啓は、いくつもの例をあげて、中国暦法の発展が精度の向上の積み重ねであったことを説きます。たとえば、元の『授時暦』や唐の『大衍暦』の暦議には、過去の暦法との日月食の予測の精度の詳しい比較が載せられています。中国暦法を推す側は、伝統の重要性を根拠にしていましたから、「精度を重視する伝統が、昔からあったじゃないか」という論法は、かなり刺さったのではないでしょうか。
中国暦法vs西洋暦法の勝負
中国の伝統を盾にして精度の問題を前面に押し出した徐光啓は、崇禎二年五月初一日(1629年6月21日)の日食の予報で、大統暦、回回暦、そして西洋暦の三者の優劣を決めようと提案します。日月食の予報は中国では非常に重視されていました。過去の改暦や回回暦の使用の拡大においても、「暦が日月食の予報を外した」ことがしばしば理由に取り上げられていますし、今回の改暦の議論の発端も、日月食だったのです*3。
それまでにも非公式ながら西洋暦法との比較は何度かなされていて、トータルで見て西洋暦法の優位は明らかでした。対する大統暦と回回暦は13世紀の成果物で*4、それ以降殆ど改訂されていません*5。16世紀終わりの、精密測定で知られるティコ・ブラーエの理論が負けるはずはないのです。さらに、イエズス会士らは万全を期して、独自の観測に基づく微修正を加えています(これの良し悪しは微妙ではあるのですが。)。まあ、政治的なデモンストレーションとして、ここで派手に一発…と思ったのでしょう。
その結果、西洋暦法は他の二つの暦法を上回るのですが、残念なことに決定的な差はつきませんでした。食の開始時刻の差は2分程度、食が最大になる時刻などは、大統暦の方ががかなり良いです。しかも文書に残る西洋暦法の予測値は少し不審な点があり、私は若干の操作を疑っています*6。この時期の西洋天文学の実力では、一発勝負ではこういったこともあり得たわけです。

そのような中途半端な結果にもかかわらず、崇禎帝の詔勅は西洋暦に非常に好意的でした。まあ、それまでの実績の積み上げもありましたから、妥当な評価ではありますが、おそらく、事前の根回しで方向性は定まっていたのでしょう。このあと、改暦事業は驚くべきスピードで立ち上がっています(日食の二か月後の、崇禎二年七月には実質上立ち上がる)。
なお、改暦を進める「暦局」は暦の頒行を司る欽天監とは別に設置されていますから、大統暦の運用は続いており、イスラム暦法の回回科も残しています。そしてこのあとも、伝統暦法の改良で改暦を目指す動きは、なかなか消えません。
改暦事業の進行
改暦事業の立ち上げに手腕を振るった徐光啓ですが、事業の進行具合も見事です。暦局の正式な開設から一ヶ月かそこらで、すでに数冊の書物が出来上がり、翌年には第一次の進呈を行っています。そのあとも、要所要所で成果をアピールし、また予算面で突出しないように注意するなど、要らぬ反感を避けるための配慮も欠かしません。プロジェクトの運営のみならず、『崇禎暦書』の執筆においても、最終的な校正は彼の手を経ていたといいますし、第一次進呈に含まれる『大測』『側天約説』には深くかかわっています。
進行中だった欧州の科学革命
駆け足で『崇禎暦書』成立の経緯をたどってきましたが、ここで橋本論文が繰り返し注意しているポイントを一つ、書き記しておきたいと思います。それは、当時の欧州は急激な変化の真っただ中だったことです:ガリレオやケプラーが登場する一方、アリストテレス的な自然学も、まだまだ有効な時代でした。
ですから、フランシスコ・フルタドは『寰有詮』はアリストテレス的な自然学の観点から、近年の進歩、例えば望遠鏡による観測の価値に一定の留保をつけています。一方、『崇禎暦書』は積極的に望遠鏡の観測の成果を宣伝するなど、正反対の立場をとっています。もちろん、ガリレオ裁判の問題がありまして、地動説についてはほぼ沈黙を余儀なくされているのですが…
既に述べたように、徐光啓は、中国の暦算の歴史を精度の改良の観点から総括していますが、西洋天文学についても、同じ視点で論じています。すなわち、西洋においても古い暦は精度が悪く、特に近年になって著しく改良が進んでいるのである、と。まあ、これは暦法改革の争点を「中国vs西洋」から「新vs旧」にずらす意図もあったと思われますが…いずれにせよ、新旧の異なる性質の知識が混ざって流入する中で、精度の問題を手掛かりに、彼なりの判断を下し、改暦事業を推し進めたわけです。
徐光啓の死と改暦のゆくえ
改暦事業の話に戻ります。徐光啓の多面的な活躍に支えられ、崇禎六年(1633年)には、おおむね『崇禎暦書』完成のめどが立っていました。この時点で、徐光啓は後継者に李天経を指名しました。自らは、その少し前に「礼部尚書兼東閣大学士つまり宰相として入閣」しています。しかし、崇禎六年十一月、徐光啓は病で他界してしまいました。すでに高齢でもありましたが、プロジェクトの運営、深夜にまでおよぶ執筆、その他の朝廷における業務と政治的な調整、こういった激務が命を縮めてしまったのかもしれません。
目途はたったとはいえ『崇禎暦書』は未完成、それに中国伝統暦法や回回暦との論争もまだ残っていました。それに加えて、彼の死と李天経の着任までは数か月のタイムラグがあました。非常にタイミングの悪いことに、この間の崇禎七年三月に、非常に目立つ日食がありました。
ところが、主導者不在の暦局は動きが鈍く、予測を提出したときには、日食まで一ヶ月を切っていました。これに対して、欽天監の大統暦の予測は三ヶ月前に提出済み。それに加えて、伝統暦法の改良による改暦を目指していた、魏文魁が独自の予測を提出しています。
結果としては、残念なことに、新法の精度は他の二法に劣っていました。これは、「古い表を誤って参考にしたため」と後で釈明され、日食の食分の数値が修正されます。しかし、後出しの印象は残ったでしょうし、しかも修正後もそんなに他の二法よりよくないです。
これをうけて、暦局は李天経の西局と並立して魏文魁の東局が設けられることになりました。アダム・シャールは「李天経は譲歩しすぎだ、徐光啓が生きていたら…」という趣旨の愚痴を残していますが、客観的にみればやむを得ない決定だと思います。当初、崇禎帝は伝統的な暦法と西洋暦法の融合を希望したようですが、両者の理論は水と油ですから、別々に部局を建てて競争することになりました。
今に残る『治暦縁起』や『明史』暦志によると、東局は西局に負け続け、崇禎11年正月に解散が決まります。
ただ、朝鮮半島に残る断片などを用いた近年の論文によると、どうやら伝統暦法が良い成績を出している場合もあるようで*7、もう少し勉強しないとフェアな評価は難しそうです。とはいえ、トータルで見れば西洋暦法の優位が揺らぐとは思えません。特に、途中から日月食のみならず、伝統暦法が苦手とする惑星の運動が比較の題材に加わっています。伝統暦法には惑星の黄道からのずれを説明する理論が欠けていたので、勝ち目はありませんでした。
東局の解散と共に、西洋暦法が天文学的な計算全般に用いられることになりました。ただし、正式な暦は旧来の大統暦のままであり、二十四節気も中国の伝統的な方法で決めれれていました。西洋暦法の全面的な採用が決まったのは、崇禎十六年(1643年)八月のことです:
時帝已深知西法之密。迨十六年三月乙丑朔日食,測又獨驗。八月,詔西法果密,即改為《大統曆法》,通行天下。未幾國變,竟未施行。(『明史』暦志一、曆法沿革)
ところが暦の頒布を見ぬまま、この翌年の三月、明は李自成に滅ぼされてしまいます。新暦法が『時憲暦』として日の目を見るのは次の清王朝に入ってのことで、これは動乱期にあえて北京に踏みとどまったアダム・シャールの活躍によるものです*8。
参考文献
- Alighieri, Sperello di Serego, and Corsi, Elisabetta, The eclipse of 21 June 1629 in Beijing in the context of the reform of the Chinese calendar, Journal of Astronomical History and Heritage, Vol. 23, Issue 2, pp. 327-334 (2020)
- Chu, Longfei. “From the Jesuits’ Treatises to the Imperial Compendium: The Appropriation of the Tychonic System in Seventeenth and Eighteenth-century China,” Revue d’histoire des sciences 70 (2017), 20;
- Lingfeng, Lü. “Eclipses and the Victory of European Astronomy in China.” East Asian Science, Technology, and Medicine, no. 27, 2007, pp. 127–45. JSTOR, http://www.jstor.org/stable/43151255. Accessed 21 Apr. 2025.
- Noël Golvers, Johann Schreck Terrentius, SJ: his European network and the origins of the Jesuit Library in Peking, Brepols, 2020
- 王广超. 明清之际定气注历之转变, 自然科学史研究,2012,31( 1) : 26 -36
- 杜昇云 [ほか] 主编. 中国古代天文学的转轨与近代天文学, 中国科学技术出版社, 2008.12, ("十一五"国家重点图书出版规划项目・科技史文库 . 中国天文学史大系). 9787504648419. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-Ia1000067842
- 橋本, 敬造. 『崇禎暦書』の成立と「科学革命」. 関西大学社会学部紀要. 12 2,p.67-84, 関西大学社会学部. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000025-I012850004833119
- 李 亮、吕凌峰、石云里、被“遗漏”的交食—传教士对崇祯改历时期交食记录的选择性删除、《中国科技史杂志》第 35 卷 第 3 期( 2014 年) : 303 ~ 315
一次文献について
明末の改暦の経緯の基本的な資料は、主に次の二つのようです。まず、『明史』暦志一の「曆法沿革」の段。
- 张廷玉 ,等. 明史 .北京 : 中华书局 ,1974
もう一つ重要な史料は、徐光啓、李天経『治暦縁起』で、これは『西洋新法暦書』や『新法算書』に含められています。
- 任继愈主编 中国科学技术典籍通汇 天文卷 第八分册 大象出版社 1993,
にファクシミリ版が含まれています。潘鼐による貴重な解説もついています。
『崇禎暦書』は完本が残っていないのですが、これの増補改訂版の『西洋新法暦書』なども参考にして、校訂版がでてるそうです。私は残念ながら持ってませんが、『崇禎暦書』の各種写本・版本は違いが大きいそうで(Chu2017)、相当の労作と思われます。
- 徐光啓 編纂 ; 潘鼐 匯編. 崇禎曆書 : 崇禎暦書 上下, 上海古籍出版社 2009
当然、イエズス会側の史料も見るべきではあるのですけど、今のところ、自分はそちら方面は見れていません。
*1:ロンゴモンタヌス『アストロノミア・ダニカ』(デンマーク天文学)も、この三者を比較しているのですが、円の組み合わせの技法は全てティコ流であって、ただ太陽と惑星の配置が違うだけです。しかし、『崇禎暦書』では、むしろ円の用い方の比較が眼目です。なお、当時はガリレオ裁判の時期で、『崇禎暦書』には地動説への言及はなく、コペルニクスの体系はティコ流の配置に直して紹介されました。
*2:トリゴーがシュレックの欧州回遊の伴侶に選んだのは、シュレックの多面的な活動を評価したからと思われます。以上、欧州における情報収集やシュレックについての情報は、Golver2020を見ました。
*3:西方では、ここまで極端な日月食偏重は無いと思うのですが…
*4:対する大統暦は元の授時暦の改良版、回回暦は元の時代のジャマール・アッディーン. Jamāl al-Dīnのジージュ(天文表)に基づきます。できた当時の水準でいえば、ともに非常に優れた暦でした。
*5:それどころか南京から北京への遷都にも対応も不十分であった可能性があります。このときの日食についても、南京についての予報だとすると、より精度は上がります。大統暦ではないですが、回回暦については、竹迫忍氏は、「南京の視差の表をそのまま適用している」と結論しています。
*6:不審なのは、食が最大になる時刻の西洋暦法での計算値(11時36分)は、開始と終了の予測値の中間(11時26分30秒)から大きくずれています。しかも、誤差を減らす方向にずれています。月や太陽の速度は一定でないとはいえ、このずれは大きすぎると思います。
*7:李 , et.al.,2014など。
*8:以上、徐光啓の死後の部分については、杜2008, pp.105-6や王2012,p.30、李et.al. 2014を参考にしました