中国の月食と宇宙論(2) 『南齊書』天文志

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前回から随分間が空いてしまいました。この間、関連するいろんなものを読んでかなり考えも変わってきてしまいました。すると前回との接続が難しくなり、ズルズルと間が空いてしまったのでした。でも放置するのももったいないので、とりあえず続編を書きます。上のような事情から、なるべく前回と独立に読めるよう、重複を憚らずに書いてみたいと思います。

月食の理論と宇宙構造論

このシリーズでは中国の月食の理論がお題目です。不覚ながら、調べを進めるまで気がつかなかったのですが、日月食の理論、特に月食の理論は宇宙構造論に非常に強く依存しているのです。

アリストテレス以来の「地球が月を隠すと月食」という説は,

  1. 大地が宇宙に浮かんでいる
  2. 月は太陽の光を受けて光る
  3. 大地の大きさは、宇宙全体よりかなり小さい
  4. 太陽までの距離に比べても、すごく小さい
  5. 地球は球形

といった前提が共有されないと成り立ちません。

月食を大地の影で説明する大前提として、よほど特殊な配置出ない限り、地球が太陽光を遮ってはいけません。地球を挟んで月と太陽が相対しても、大抵の状況では満月になるのです。このためには、大地は小さく、太陽は遠く、宇宙は大きい必要があります。また、アリストテレスらは月食の影が丸いことを地球球体説の証拠としています。逆にいうと、大地が球形でないとこの月食の説明は苦しいです。

漢代以降の中国、特に暦家の間で標準的だった「渾天説」においては、1-3は了解されていましたが、4と5の仮定は受け入れられませんでした。

まず、大地は完全な平面ではないものの、球とは程遠い形状でした。例えば朱子などは、大地の形状を中華饅頭に喩えて真ん中の盛り上がりを崑崙としています*1。宇宙が大地に較べて非常に広大なことは認識されていましたが、それでもギリシャで地球の大きさをほぼ無限小としたほどではありません。それから、太陽はかなり大地に近いとされていました。ゆえに、月に太陽の光が届くことの説明にも工夫が必要でした。朱子朱子語類』の説明は光の回り込みのようなイメージだと思うのですが、明の朱載堉『律暦融通』巻四・交會では磁石と鉄のアナロジーを用いています*2

暗虚の理論

以上のことから、中国では遮蔽説はかなり部が悪かったのです。そこで出てきたのが「暗虚」あるいは「闇虚」の理論です。

「暗虚」という言葉は後漢の張衡『霊憲』の

當日之衝,光常不合者,蔽於地也。是謂暗虛。在星星微、月過則食。

が最初のようです*3。これは「地に蔽われて光が届かないことを暗虚という」とも読め、張衡の説はアリストテレス的だったかもしれません。

ところが、南北朝時代を跨いだ後に成立した『隋書』天文志には同じ文が変形されて引用されています。

張衡云、「對日之衝、其大如日、日光不照、謂之闇盧、闇虚逢月則食月、値星則星亡。」

「地に蔽われる」という部分が取り除かれ、「暗虚」という言葉が何を指すかはっきりしません。そして同じく『隋書』の律暦志では、劉焯の難解な暗虚論が引用されています。劉焯は、南朝北朝両方の暦学の成果を総合して、画期的な皇極暦を作った暦家です。

月食以月行虛道,暗氣所沖,日有暗氣,天有虛道,正黃道常與日對,如鏡居下,魄耀見陰,名曰暗虛,奄月則食,故稱「當月月食,當星星亡。」雖夜半之辰,子午相對,正隔於地,虛道即虧。

なかなか難解ですが、月食の原因は太陽の持つ暗気で、月が虚道に入って太陽と正面から相対する時に、この暗気が月を掩うらしいです。

オリジナルの張衡の説が遮蔽説だったことは断言はできないのですが、かなり有力な解釈です。いずれにせよ、遮蔽説は当時の宇宙構造論や自然学と相性が良く無さそうです。結局のところ、隋唐の完成期に残った理論は、「日有暗気、天有虚道」の暗虚説でした。

『南齊書』天文志

後漢から南北朝時代にかけて、日食や月食について一体どのような議論があったのでしょうか?『晋書』天文志は宇宙論論争が詳述されているのですが、残念ながらこの件についての議論はありませんでした。また、C. Cullenの著作などで詳しく紹介された『後漢書』律暦志は、月や太陽の運行についての議論を記していますが、食の仕組みには踏み込んでいません。『宋書』の律暦志や天文志にも特に記述はなく、完全に諦めモードに入って放置しておりました。

ところが最近、ひょんなことから『南齊書』天文志を見たところ、かなり詳しい記述があったのです。こんな短命王朝の短い史書、きっと天文関係なんか適当にお茶を濁しているだろうとタカを括っていたのですが…以前取り上げたように、『南齊書』は日食の記録が天文志に集約される初めでもあり、また編纂の方針が揺れに揺れたことが卷五十二列傳第三十三檀超伝から読み取れます。
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暦家でない人々の参加

『南齊書』天文志上では、「史臣曰:日月代照,實重天行。上交下蝕,同度相掩。」あたりから、後漢以来の日食と月食に関する議論を辿っています。

議論に参加しているのは、専門の暦家だけではありません。黄香(後漢の政治家・文人。二十四孝の一人)、王逸(後漢、『楚辞』の注釈)、そして経学者の鄭玄といった人々の名前が上がり、また匿名で「先儒」「説者」の議論が紹介されています。同様のことは『晋書』天文志の宇宙論論争や『後漢書』律暦志の論暦についても言えます*4。天体の運行の問題が、当時は広い関心をよんでいたことがわかります。

日食は月食と共に議論された

『南齊書』天文志上では、まず日食の進行、すなわち何処からかけ始めてどこから回復し始めるかといった経過を、詳しく説明します。太陽と交点の位置関係に応じて分類し、具体的で細かいです。

これには二つ目的があります。第一に、古来からの「日有五蝕」の説、つまり日食は東西南北、そして中央と五通りの起点があるとの説に反駁するためです。東や真ん中から起こることなどあり得ない、というわけです。

第二に、王逸の以下の議論を封じるためだと思います。

月若掩日,當蝕日西,月行既疾,須臾應過西崖既,復次食東崖。今察日蝕,西崖缺而光已復,過東崖而獨不掩。

議論の流れだけを抜き出すと、「もしも月が太陽を覆うのであればxxxxとなるだろう。一方、日食を観察すると、yyyyとなっている。」つまり、王逸は遮蔽説に反駁するにあたって、日食の進行する様態を論拠にしているのです。しかし、この説明(yyyy)が現実とは食い違っていることは、既に詳しく記述済みの日食の様態から明らかなわけで、

逸之此意,實為巨疑

つまり「彼の考えは実に大きな疑いが向けられた」の一言で一刀両断です。

この後、議論は月食に移ります。

王充『論衡』説日篇と『南齊書』

月食の議論に戻る前に、日食のことをもう少しだけ続けます。

この時代、独特の日食論を掲げた人物としては、後漢の独創的な思想家・王充がいます。(なお、彼も暦家ではありません。) 彼の『論衡』説日篇の日月食に関する部分を読んだところ、『南齊書』をよりよく理解できたと感じました。

例えば、先ほどの王逸のものと語句までそっくりな議論が出ています*5。それから、王充は日食と月食の議論を次のように結びつけます。

日蝕、謂月蝕之,月誰蝕之者?無蝕月也,月自損也。以月論日,亦如日蝕,光自損也。

「日食は月が日を蝕するのだtいうが、では何が月を蝕して月食を起こすのだろう?月を蝕するものは何もない、月は自ら損なわれるのだ。このことから類推すると、日食もまた自ら光を損なうのだ」
見事なレトリックです。まず「月が自ら光を失って月食が起きる」という独特の月食論を立てて、類似した現象である日食もまた同様だとするのです。

一方、『南齊書』には「先儒」の説として、類似の月食論が紹介されています。

月以望蝕,去日極遠,誰蝕月乎?

「月は満月の時に蝕がおきる。この時は太陽は月から遠く、何も月を蝕するものがないではないか?」おそらく、「先儒」は王充と同じく月が自ら蝕するのだと考えていたのでしょう。

最初、私は「太陽と遠いから、蝕するものがない」という論を飲み込めませんでした。太陽は光源ですから、遠くにある方が月食の発生にはむしろ有利な気がしてしまったのです。しかし、中国の日月食の理論を「月と太陽の相互作用」だと思うと、飲み込みやすいことに気がつきました。

陰陽と日月の相互作用

『南齊書』に限らず、日食と月食はしばしば続けて論じられました。見た目にも似た現象ですから、当然かもしれません。アリストテレスの説も、光の遮蔽という共通項で両者を結びつけた結果と言えると思います。ただ中国の場合、両者の関連付け方が今とは違いました。

中国では月と太陽を各々、陰と陽に結びつけていました。すると日食は「陰が陽に勝つ」と特徴づけられます。故に『宋史』天文志一に

則日食,是為陰勝陽,其變重,自古聖人畏之。

とああるように、とても深刻な異変とされました。王充も遮蔽説への反論の一つとして、「陰が陽を圧倒するなどという、おかしなことが起こるはずがない」という論理を持ち出しているくらいです。

とにかく陰が陽を圧するのが日食ならば、月食はその逆ということになります。『宋史』の先に引用した箇所の少し後では、月食

則月為之食,是為陽勝陰,其變輕。

と説明しています。この「陽勝陰」が暗虚の理論の重要な柱です*6

『南齊書』の「先儒」の議論はこういった議論への反論で、遠くにある太陽が月と相互作用する筈がない、という論理だったのだと思います。

一方暗虚論では、「月と太陽が真正面から向かいあうこと」の必要性を執拗に強調します。満月の時は単に黄経で見て正反対なだけで、本当には向かい合っていない。黄緯がずれていますから。よって、月と太陽が軌道の交点に入る必要があります。離れていても相互作用するには、それ相応の条件が必要、ということなのでしょう。

『南齊書』と『隋書』の暗虚論

上記の「先儒」の問いへの答えとして、「説者」は太陽から大地を隔てた反対側にあっても、その月に及び得るとします。なぜなら、まず大地は宇宙に比べたら小さい*7。さらに、

日有暗氣,天有虛道,常與日衡相對。月行在虛道中,則為氣所弇,故月為蝕也。雖時加夜半,日月當子午,正隔於地,猶為暗氣所蝕,以天體大而地形小故也。暗虛之氣,如以鏡在日下,其光耀魄,乃見於陰中,常與日衡相對,故當星星亡,當月月蝕。

この部分は上に引用した『隋書』律暦志下に引用される劉焯の論と、用いる語句すらも似ています。
例えば『隋書』の暗虚を鏡に喩えた箇所

如鏡居下,魄耀見陰,名曰暗虛、奄月則食,故稱「當月月食,當星星亡。」

に対応して『南齊書』では

暗虛之氣,如以鏡在日下,其光耀魄,乃見於陰中,常與日衡相對、故當星星亡,當月月蝕。

とあります。両者の対応関係は読解の手がかりになりそうです。

前者では、「如(…のようだ)」は「鏡居下,魄耀見陰」にかかっています。よって、後者ではそれに対応する「以鏡在日下,其光耀魄,乃見於陰中」にかかります。つまり、

太陽の下で鏡で光が「魄」を照らし、「見於陰中」であるのと同じように、暗虚は通常、太陽の真向かいにある空間(日衝)*8に相対し、ゆえに月に星に当たれば星が見えなくなり、月に当たれば月食になる。

ここで「魄」は何であるか。『二十四史全訳』(漢語大詞典)では「人魂魄」としています。すると「輝魄」は、知覚作用への働きかけということになると思います。一方、『隋書』天文志中の、張衡の説を引用した件の数行前には

月者陰之精也。…日光照之,則見其明。日光所不照,則謂之魄。

とありますし、天体、特に月に関連して用いるときは、『康熙字典』が『尚書』の疏をひいて

魄者,形也。謂月之輪廓無光之處名魄也。

と説明するような意味があります*9。つまり、「輝魄」は暗いところを照らすことだとも解釈できるかもしれません。

どちらであっても、「見於陰中」の主語、すなわち陰の中に現れるのものは、光あるいは光で照らされたところでしょう。「鏡で太陽光を暗いところに照りつける」のと同じように、暗虚は太陽の前の空間に相対していて、月に当たれば月食を生じるのです。

『隋書』所引の劉焯の論は簡潔すぎて分かりづらかったのですが、同様に読んでよいと思います。

*1:大抵地之形如饅頭,其撚尖處則崑崙也。『朱子語類』禮三・周禮・地官

*2:日沒地中,月在天 上,猶能受其光者,譬如磁石隔物,猶能引針,二氣潛 通,自然相感,非地所能隔也。

*3:張衡『霊憲』は散逸しましたが、劉昭(南朝梁)による『後漢書』注にかなりの分量が引用されています。

*4:特に後漢書の議論は太陽の軌道面の傾きや月の運行の不等という、非常に数理的な話題なのですが、賈逵のような経学者が議論をリードしているのです

*5:「假令日在東,月在西,月之行疾,東及日,掩日崖,須臾過日而東,西崖初掩之處光當復,東崖未掩者當復食。今察日之食,西崖光缺;其復也,西崖光復,過掩東崖復西崖,謂之合襲相掩障,如何?」 王逸は王充の誤記ではないか?と疑ってしまうほど、そっくりです(そんな説、見たことないですけど…)

*6:上の引用の直前と直後に「月之行在望與日對沖,月入於闇虛之內。」「所謂闇虛,蓋日火外明,其對必有闇氣,大小與日體同。此日月交會薄食之大略也。」とあります。

*7:以天體大而地形小故也。

*8:この「日衝」の解釈は前原あやの氏の『霊憲』における「日之衝」の解釈を参考にしています。https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I024436691-00?lang=en

*9:張衡『霊憲』には「月光生於日之所照,魄生於日之所蔽」(月光は太陽が照らしたところに生じ、魄は覆い隠されたところに生ずる)とあって、これはこの字義で解釈できると思います。ただし前原あやの先生は、月の暗い部分への地球の照り返しのことだとしていますが、月の光っていない部分だという点は同じです。https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I024436691-00?lang=en