なぜ日食は月食よりも畏れられたか〜十月之交

中国では、日食を重大な災異としました。古くは『詩経』にも、日食を政治の乱れの現れだとして嘆く詩、「十月之交」が収められています。一方、月食も災異とはされるものの、そのグレードはグッと落ちます。この差を科学史家の中山茂氏は、予測の難しさの違いで説明していました*1。規則的に生じる現象に、人は特別な意味を感じにくいだろうというわけです。

月食は古代バビロニアでもサロス周期を用いてかなり予測ができており、中国でも前漢末の『三統暦』でもサロスとは異なる周期性が示されています。さらに後漢以降、日月の位置の計算ができるようになって、予測技術は格段に向上しました。『後漢書』律暦志・中には「論月食」という充実した項目もあります*2

漢書』や『後漢書』、それ以降の正史もいくつか*3見てみましたが、やはり災異としての月食の扱いはだいたいにおいて小さいです。(ただし、災異としての記述が消え去るわけではないです。『宋書』の場合、符瑞志、五行志、天文志に数例ありますし、『隋書』天文・下にも一件記事があります。『宋史』天文志では、日食と共に月食と災異との関係も書かれています。また、『元史』の帝紀にも月食と災異を関係づけた記事があります。)

一方日食の予測は、後漢南北朝時代天文学の進歩を経て初めて可能になりました。これに伴って日食への考え方は変化してきます。『新唐書』暦三下に引用された『略例』という書物の一節には、

日食が予測できるなら、それをもって政治の良し悪しの判断はできない*4

また、南宋朱子朱子語類理気下・天地下にも

問:「古えから日月食を災異としているが、暦家は今は前もってこれらを予測できてしまいます。どういうことでしょうか?」*5

とあります。

前もって計算できてしまう現象に、吉凶などの特別な意味を読み込みにくい。この説明は理系脳の私にはひどく印象的で、以来、バカの一つ覚えのように頭の中で反芻し、機会あれば豆知識として披露してきました。また以前、「日食は天文志か五行志か」を調べた時、月食に話が向かわなかったのは、このことが念頭にあったからです。

しかし少し考えれば当たり前ですけど、「不思議かどうか」は予測可能性だけでは決まるはずもなく、中山茂もそんなことは言ってません。

古代ギリシャの場合

例えば、古代ギリシャの場合を考えて見ます。

https://www.gutenberg.org/cache/epub/674/pg674-images.html#id_2H_4_0038

プルタルコス(紀元100年前後)の『対比列伝』のニキアス(紀元前5世紀、アテネの将軍)の伝によると、シシリア遠征の際、彼の率いる軍隊は月食に遭遇し、多いに恐れたようです。プルタルコスによると:

現代では、一般人でも、太陽が月末に暗くなることがある理由が月の効果であることを知っている。しかし、月自身が暗くなる現象はどのようにして起こるのか、なぜ突然満月の最中に突然光が失われて、色が変容してゆくのかは、簡単には理解できなかった*6

つまり、、予測可能性以外にも

  • 仕組みがわからない
  • 見た目が不思議

といったことが、神秘性の原因になり得ると思われます。(仕組みの理解は予測可能性と関係はしますが、同じではありません。月食の場合、仕組みの理解に先立って周期の発見がありました。)
プルタルコスの言葉を信じれば、月食の怖さは日食に匹敵するか、下手をするとそれ以上だったかもしれません。

史記』天官書

すでに述べたように、後漢南北朝〜隋唐における中国の天文学の進歩は目覚ましく、一般的な知識人の日月食観も、その影響を受けました。そこでもう少し遡って、『史記』天官書を見てみたいと思います。司馬遷も日食を月食よりも不吉とするのですが、理由は明快には述べていません。まず、月食がどのような間隔で生じるかを述べてから、

故月蝕,常也。

だとして、続いて日食については

日蝕,為不臧也。(「不臧」は良くない、不吉)

と対比しています。

なぜ司馬遷月食を「常也」だと言ったのでしょうか?

大橋由紀夫氏*7は周期的な規則性が「月蝕、常也」の理由だとしています。同様の見解は、既に戦前、東洋学者の飯島忠夫が述べています。

しかし大橋氏も指摘しているように、『史記』の述べる月食の規則は、全く不正確です。飯島忠夫の論敵の橋本増吉も同じ指摘をしていて、「月食の頻度の多いことを「常也」としているのだ」という論を立てています*8。対して、大橋由紀夫氏は「規則性は気づいていたが、正しい規則を得ていなかった」としています。

私は、橋本増吉の議論の方が腹に落ちますが、いずれにせよすぐ後に述べるように、月食を「常」としたのは『史記』よりもさらに古く、冒頭に紹介した『詩経』の「十月之交」の一節です。『史記』の記述がこれの影響を受けていない筈はありません。

十月之交

中国の学問では、経書ほど重要なものはありません。例えば冒頭に紹介した、『詩経』小雅の「十月之交」で始まる詩は、何度も引用されます*9

十月之交、朔日*10辛卯。 日有食之、亦孔之醜。 

大意は、「九月と十月の境目*11即ち十月一日、干支は辛卯だった。日食があり、それは非常に悪い予兆。」くらいでしょうか。

このように、古来、政治の乱れは天体の動きや気候に影響すると考えられていました。続いて天変と悪政を代わる代わる嘆いてから、

彼月而食、則維其常。此日而食、于何不臧。

つまり「先日の「月而食」(月食)は「常」だった。一方、この「日而食」(日食)はなんと良くない予兆であろうか。」*12

なお、『春秋』(孔子が著したという触れ込みの年代記)には日食の記事は多くあるが、月食の記事は全くないそうです*13。つまり、月食は「十月之交」の時代から、神秘性のグレードが低かったと言えると思います。

また規則性との関係については、次の句が示唆的です。

日月告凶、不用其行。

すなわち「日月が凶事を告げるときは、通常の運行に従わない」とあります。これは規則性と予兆の関係を明快に述べた句で、非常に興味深いと思います。まず、日食は明らかに凶事ですから、よって不規則な現象ということになります。では、月食はどうでしょう?「常」を保つのだから規則的…だと思って良いのでしょうか?

それでも月食も災異

冒頭、「月食は日食ほど怖がられなかった」と書きました。しかしグレードは落ちるものの、やはり月食も災異とされてはいました。『漢書』天文志では「十月之交」の引用に続けて次のように補足しています。

詩経』の伝*14には「月食も「常」とは言い難いが、日食に比べるとより通常に近い。日食は本当に不吉である」と書いてあるように、月食は小さな変異であるとは言える、しかし、完全に通常の現象とは言えない。*15

また、班固撰『白虎通德論』災変には、日月食の際の対処法が書かれています*16。そこでは「日食者必殺」と日食の方が明らかに重視されており、また生贄を供えて太鼓を打ち鳴らすなど、仰々しい儀式をします。ですが、月食のときも「夫人擊鏡,傅人擊杖,庶人之妻楔搔。」と生贄はしないものの、様々なものを打ち鳴らして大騒ぎすることがわかります。このあたりはローマ人が月食の時に青銅器を打ち鳴らし、松明を掲げて月の光を取り戻そうとしたというのに似ています*17

月食の災異の違い

月食の災異の差は、単なる強弱ではありません。様々な性質が異なるのです。

例えば『礼記』昏義には、

男性の携わる表向きの政治等で不届きなことが起こると日食が、女性の携わる奥向きのことで起きると月食が発生する*18

また『管子』四時によると、

日と月は陽と陰を各々掌る。徳は陽で刑罰は陰なので、徳に問題があると日食が、刑罰に問題があると月食が生じる*19

このほか、前漢に成立した『詩経』の注釈、毛伝には、

月,臣道。日,君道。

これらの違いは、陰陽説で整理できます*20

 陽    陰
 日    月
 男    女
 徳    刑
 君    臣

やがて「日食=月による太陽の侵犯」という認識が広まります*21。すると陰が陽を、臣が君を犯すという、非常に重大な凶兆となりました*22

なぜ月食は軽く見られたか

以上、日月食の序列の成立が『詩経 』や『春秋』に遡ること、また単なる序列ではない、両者の性質の違いについてみてきました。これらを踏まえて、月食の災異の度合いが軽く見られた理由を考えて見たいと思います。

まず、予測可能性についてです。既に見たように、『史記・天官書』の記述は実際と合わぬものでした。『史記』の天官書や暦書の内容は、当時の太初改暦の成果はあまり反映されていないようです。それどころか、漢代以前の古い説に基づく可能性があるといわれています。しかし今問題になるのは、『詩経 』や『春秋』の成立した頃の話です。さすがにこのころには、まだ月食の正しい規則は知られていなかったのではと思います。

では、他に考えられる要因はないのでしょうか。ここで、上で紹介した日月食の性質についての記述をもう一度思い出してみます。すると、これらは「なぜ日食の方が月食よりも重大なのか」の説明にもなっていることに気が付くと思います。文献ではごく一部が戦国期で、多くは漢代以降の史料なのですが、いずれも

  • 太陽は目立つ。よって重要。よってそれが侵される日食は重大。

という単純なロジックが背景にありそうに見えます。こういった素朴なロジックは案外、起源が古いのではないかと思います。

橋本増吉の「常=回数が多い」説については史料が全くないわけですが、常識的に考えて、頻度の認識が規則性の認識に先立つことは、まず間違いないでしょう。これらに加えて、月は太陽と異なって満ち欠けします。普段欠けることのない太陽の食に比べたら、定常的に欠ける月の食はインパクトが低かった。。。という可能性もあると思います。

つまり、月食の予測が可能になる以前に日月食の災異のランク付けは確立していて、その要因の候補は目星がつかないわけではない、ということです。

予測可能性と「十月之交」

最後に「十月之交」の詩の解釈にけじめをつけておきます。読みようによっては、この詩の

日月告凶、不用其行。

彼月而食、則維其常。此日而食、于何不臧。

の部分は、月食の予測可能性と災異の度合いの関係を示しているととれてしまうからです。

ですが、少なくとも『管子』の頃には、軽いとはいえ凶事を告げる現象とされていました。このことを考えると、「日月食ともに凶事を告げ、どちらも不規則だ」と取るのが自然だと思います。つまり、

  • 日月は告凶の時は、通常の運行をしない。先の「月而食」はまだ大した異常ではなかった。しかし、今回の日食のなんと不吉なことか。

こんな感じでしょうか。

だとすると、この詩のこの部分は日月食の序列と予測可能性とを関係づけるものではなく、『史記』で月食を「常」としたのも、「大した災異ではない」とか「頻繁におこる」といった意味だととるのが自然ということになると思います。

なお以上の議論に拘らす、「日月告凶、不用其行。」は不規則性と予兆の関係をコンパクトに表現した名文句だと思います。

補足:日食のこと

冒頭、『新唐書』所引の『略例』の「日食は予測できるから、政治の良し悪しの反映ではない」といった一節引用しました。付け加えて、場所によって皆既日食が部分日食に見えること(視差の影響)も計算できるのだとしています。

この『略例』はどういう書物なのでしょうか。

後漢の賈逵らの論暦(黄道とその重要性の認識)、や劉洪の乾象暦(月の運行のまとまった理論)あたりから、中国の月や太陽、日月食の理論は順調に発展していきましす。その後、暦算は北朝南朝に別れて発展しますが、隋唐期にはこの二つの流れが融合し、密教僧一行の大衍暦に結実します。この画期的な暦については、『新唐書』に背景や基本的な考え方を含めて、詳しく紹介されています。

冒頭、

開元九年,《麟德歷》署日蝕比不效,詔僧一行作新歷。

つまり、「麟德歷でしばしば日食の予報が外れたので一行に新しい暦を作らせた」とあり、日食の予報精度の向上が新暦作成の重要なモチベーションとされています。この頃には日食はある程度予測できるものとされていたわけです。そして一行の死の年に、同輩の天文学者らが編集したのが、

  • 《歷術》七篇、《略例》一篇、《歷議》十篇

です。

上記で紹介した『略例』の一節は、自信に満ち溢れています。しかし、『新唐書』暦志の全体的なトーンは、少し違います。まず、『略例』の引用の直前では、麟德暦による日食の予言が外れて不食になった例をあげて、「計算が外れたのだが、徳が天を動かしたのだ」*23と微妙な言い方です。そして、改暦の後についても、日々の太陽の観測結果は理論計算から少しではあるけれど、不規則にずれることを証言しています。

なお、現代の計算によると、大衍暦の的中率は50%ちょっとだそうです*24。また視差の影響についても、大衍暦は一部の要因しか取り入れていません。これらを考慮すると、『略例』の論調は過激だと思います。

日食予報の的中率は、唐末の宣命暦では70パーセントを超えるようですが*25、それでもまだまだ誤差はあります。冒頭、『朱子語類』に載せられた問いを引用しましたが、朱子の答えは「大まかには計算できるが、合わないところもある。食が起こるのに無いと言ってしまう暦家もいれば、無いのに起こるといってしまう暦家もいる。」*26というものです。

それでも、日食は基本的には予測ができるとており、この事象そのものを異変とした古い時代とはちょっと違っています。異変は計算と観測のずれという、より小さなところに押し込められています。

補足:月而食

もう一度「月而食」の解釈について触れます。すでに述べたように、これは大抵、月食だとされます。古くから定着した解釈ですし、自然でもあるので、私もそのラインに沿って考察をしました。しかし、『漢書』天文志で表明された、月食が「常」というのはおかしい、という違和感は気になります。

もっとも、『詩経』などの経書の言葉は漢の時代には既に難解になっていて、人々が理解に苦しんだ箇所はここだけではないので、気にする必要はないのかもしれません。しかし他の可能性として、例えば「月而食」は月食と欠けた月の両方を含んでいた可能性はないのでしょうか。そして後に月食と狭く解釈された結果、『漢書』天文志の違和感の表明にも繋がった。。。*27

後には月の満ち欠けは、太陽光の照射の角度で説明されるようになります。この認識が浸透してしまった後では、月食新月を一つの範疇に入れることはあり得ません。しかし、『論衡』にはこの(当時、既に通説だった)満ち欠けのメカニズムを否定し、月は自分で光を発して、勝手に欠けるのだとします。もしかしたら、古くから伝わる説かもしれません。この理論のもとでは月食は満ち欠けと同じ範疇の現象で、ただ不規則に起こるだけだという論も不可能ではないのでは。

まあ、以上素人の戯言ですが…

*1:『日本の天文学岩波新書。Shigeru Nakayama, Characteristics of Chinese Astrology, Isis, Vol. 57, No. 4 (Winter, 1966), pp. 442-454

*2:もちろん予測が外れることもあったようで、そういった予測外の月食は五行志に「月蝕非其月」として記載されました(三例記載されています。)

*3:宋書』『隋書』『旧唐書』『新唐書』『宋史』『元史』『明史』

*4:「若皆可以常數求,則無以知政教之休咎。今更設考日蝕或限術,得常則合於數。」

*5:問:「自古以日月之蝕為災異。如今曆家卻自預先算得,是如何?」

*6:このように月食の原理が理解されなかった背景として、プルタルコスは、「月が太陽の光を借りてどのように輝き或いは光を失うか明らかにした人物をアナコサグラスだが、このシシリア遠征の時期にはまだアナクサゴラスの説はあまり広まっていなかった。なぜなら自然学や哲学に対して人々が偏見を持っていたからだ。」と述べています。

*7:大橋由紀夫「中国における日月食予測法の成立過程」https://hdl.handle.net/10086/10621

*8:橋本増吉「詩経春秋の暦法http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/science/scilib.html#kodai

*9:テキストは詩經 : 小雅 : 祈父之什 : 十月之交 - 中國哲學書電子化計劃によっています。武英殿本版『毛詩正義』だそうです。このサイトの他、高亨 注,詩経今注(簡体版)(全2册)-中国古典文学叢書,上海古籍, 2018 及び  刘毓庆; 李蹊, 詩経、中華経典名著全本全注全訳叢書、中華書局、2011 を参考にしました。

*10:「朔月」とする校訂本があり、そちらの方が最近の傾向なのか?とも思いますが、どちらでも結局は月の初日の意味です。

*11:参考にした二つの白話訳はこの解釈でしたが、ctext.orgの英訳は天体の交会の意味でとっています。ここでは前者を採用しました。その理由は、日食が月と太陽の交会だという認識が定着するのは、もう少し後になると思われるからです。

*12:この「月而食」も「日而食」も、かなり広く検索をかけても、全く他の用例がありません。ですが、「日有食之」とあった後に続くのだから、「日而食」は日食でほぼ確定です。それと対になっている「月而食」は『漢書』天文志以来、一貫して月食だとされています。

*13:中華経典名著全本全注全訳叢書(中華書局、2011)の注。私も、ctext.orgの版を使って、「月食(蝕)」「月有食(蝕)之」「月為之食」「月而食」を検索しましたが、いずれもヒットしませんでした。

*14:『毛詩』ではないそうです

*15:詩傳曰:「月食非常也,比之日食猶常也,日食則不臧矣。」謂之小變,可也;謂之正行,非也。

*16:日食者必殺之何?陰侵陽也。鼓用牲於社。社者眾陰之主,以朱絲縈之,鳴鼓攻之,以陽責陰也。故《春秋傳》曰:「日食鼓用牲于社。」所以必用牲者,社,地別神也,尊之,故不敢虛責也。日食,大水則鼓於用牲於社,大旱則雲祭未雨,非苟虛也,助陽責下,求陰之道也。月食救之者,陰失明也,故角尾交日。月食救之者,謂夫人擊鏡,傅人擊杖,庶人之妻楔搔。

*17:プルタルコス『対比列伝』アエミリウス・パウル

*18:是故男教不修,陽事不得,適見於天,日為之食;婦順不修,陰事不得,適見於天,月為之食。

*19:日掌陽,月掌陰,… 陽為德,陰為刑,…, 是故日食,則失德之國惡之。月食,則失刑之國惡之。

*20:上で引用した班固撰『白虎通德論』の「日食者必殺之何?陰侵陽也。」や、少し後の鄭玄の注(鄭箋)に、「日月交會而日食,陰侵陽,臣侵君之象。」とありますから、この時期には確実に陰陽説による整理が入っている。

*21:次の注で引用している鄭箋はそのような認識を前提としていますし、また王充『論衡』説日に「儒者謂「日蝕、月蝕也」。彼見日蝕常於晦朔,晦朔、月與日合,故得蝕之。」「或說:「日食者、月掩之也」などとあります。また『開元占経』に「《五經通義》曰:「日蝕者,月往蔽之;君臣反不以道,故蝕。」」とあります。この『五経通義』は散逸しましたが、見た範囲では、前漢末の劉向の著作とされることが普通のようです。ただ、『旧唐書』経籍上には同名の書物が劉向の著作として載せられているのですが、『漢書』その他にも記載はありません。

*22:後漢の鄭玄の注(鄭箋)に、「日月交會而日食,陰侵陽,臣侵君之象。」

*23:雖算術乖外,不宜如此,然後知德之動天,不俟終日矣。

*24:竹迫忍、大衍暦法による日食計算と進朔の検証、数学史研究、208号、2011

*25:竹迫忍、宣明暦法による日食月食とその検証、数学史研究、212、(2012)

*26:只大約可算,亦自有不合處。有曆家以為當食而不食者,有以為不當食而食者。

*27:今まで省略してきた月の様態の記述があるので、それも一応検討しておきます。「彼月而微、此日而微。」。「彼」は「以前の」「先日の」、「微」は鄭玄の注釈によると、光が弱くなることを言う(「微、謂不明」)ようです。よって、「月而微」は欠けた月でも月食でもどちらでも当てはまります。