北斗と中国の天文学

北斗七星と季節。北京天文館のウエッブページより。云看展 - 云看展 | 北斗七星那些事儿

中国では非常に古い時代、季節の判断に日没時の北斗七星の柄(斗柄、斗杓)の向きを用いたと言われています*1

地球から見た太陽と恒星の相対的な位置は、日々少しずつ変化し、一年後に元に戻ります。毎日日暮れどきに観測すると、北斗の柄の向きが図のように左周りに回転します。かつての中国では、北斗七星は一年中沈むことなく見えており、あたかも時計の針のようで、非常に印象的でわかり易かったでしょう*2*3

ただ、「日暮れどき」とか「柄の方向」の定義はボヤッとしており、当然のことながら精度は期待出来ずません。戦国期にもなれば、観測技術も一定の水準に達しますし、暦の作成に必要な知識(一年の端数や月の周期など)は揃ってきます*4。しかし一般人にも容易に使える、簡便な方法としては残ったかもしれません。実際、恒星を用いた簡便な季節の決定方法は、2000年代の日本でも民俗学的な調査で確認されるほど、頑健な生命力を持っていました。また北斗七星の月建の場合、それ以上に象徴的な意味合いが大きかったのです。例えば前漢の汝陰候墓*5出土の二十八宿盤や六壬式盤(占いの道具)*6に北斗があしらわれているのは、この季節決定法が背景にあると思われます。下の図は、以下の橋本敬造氏の論文からの引用です。
Kyoto University Research Information Repository: 先秦時代の星座と天文觀測

汝陰候墓出土(前漢初)の二十八宿盤(左)と六壬式盤(右)

円周上や正方形の辺のところに書かれているのは二十八宿と十二支で、いずれも方位を表しています。

十二支と北斗:時間と空間の結合

ここで方位を表すのに用いられている子、丑、寅、…の十二支の起源は殷の時代に遡りますが、今のように年や月、方位など、ありとあらゆる事柄と結びつくのは春秋期以降とのこと。「子」は方位としては北で、月としては冬至を含む月(例外もありますが、漢以降はほぼ11月)です。

この方位、月、十二支の結びつきは、北斗七星の柄が媒介になっています。つまり、日没時(初昏)に北斗の柄の向いている方位が月の名前を決めます。例えば11月(冬至)は北斗の柄は子(ね)すなわち「北」を指し、よってこの月を「建子月」と言います*7。このような方位と月の関連のさせ方を、「十二月建」「月建」「斗建」などと言います。

ここでは古典的な説明に従って、十二支と方位の結びつきが先にあったかの様な言い方をしてしまいましたが、実際の歴史的な経緯としては、季節と十二支の結合が先かもしれません*8。どちらが先であっても、時間と方位が結びついたことが重要です。

さて、冬至には「北」を指しているはずの北斗の柄なのですが、冒頭掲げた図を見ると下を向いています。北の空を見上げたとき、下が北、上が南、向かって右が東で左が西。よって北→東→南→西のサイクルは、天について使う時は左回りになります。一方、地図などではこのサイクルは右回りです。地上の東西南北を天に持ち上げて下から見上げたので、逆になってるわけです。

記録を遡ると…

調べた範囲で、最も古い月建の記述は戦国末期の黄老家の『鶡冠子』還流の一節だと思います*9*10

斗柄東指,天下皆春,斗柄南指,天下皆夏,斗柄西指,天下皆秋,斗柄北指,天下皆冬*11

恒星を利用した季節判定方法は世界中にありますが、それらは特定の活動(種まきや収穫、儀式など)をするタイミングを決定するために使います。この文章の通り、ただぼんやりと春夏秋冬の判別がつくだけでは、あまり役に立ちそうもありません。実はこれは、施策は全国一律に行き渡るべきだという、政治論の中での言及なのです*12

天文や暦算関係の文書ではどうでしょう。少し後になりますが、前漢の百科全書『淮南子』天文訓に詳しい記述があります。

斗指子,則冬至,…。加十五日,指癸,則小寒,…

と15日又は16日おきに合計24回、北斗の指す方向を書いています*13

先ほどのものとは対照的に、こちらは季節の分割が無闇に細かいです。この半月刻みを検知しようとするなら、「日暮れどき」という設定では、日没時刻の変動が邪魔します*14。仮にこれを実際に用いるなら、時刻を揃えるしかなさそうですし、角度も目分量では判定できないでしょう。きちんと実行しようとすれば、当時としてはそれなりに高度な技術が必要だったと思います*15

では、これは当時の先端の季節決定方法だったのでしょうか?既に述べたように、北斗の柄の方向は定性的には理解しやすいけれども、定量的な計測には向かないと思います。つまり、刻みの細かさと手法の性質がマッチしていません。また、すでに秦の制定した瑞鳳暦もあり*16、太初改暦もすぐそこに迫っていました。おそらくこれは、実用性の無い形式的なスキームだと思います。

では、北斗の柄の方法は、本当に実用的だったことがあるのでしょうか?あったとしたら、どにように運用されたのでしょうか?手掛かりは残っているのでしょうか?

二十八宿と南斗

先に進む前に、すでに少し出てきた二十八宿について説明しておきます*17。下の図は南宋時代(1247年)に石碑に刻まれた、『蘇州天文図』です(現存する全天を覆う星図としては、世界最古)。一番内側の円は地平線に沈まない領域を示しています*18。北斗七星は柄の一番端の星以外はこの中に入っており、この時代でもかなりの部分が通年見えていたわけです。

『蘇州天文図』南宋、1247年*19

さて二十八宿なのですが、これはメソポタミアの「黄道十二宮」がそうであるように、星座を基準にした天球の分割です。ただし黄道十二宮は名前の通り黄道の分割で、名前の由来の星座にあまり忖度せずに、機械的に十二等分しています。

一方、二十八宿は天の北極周りの方角を表します。『蘇州天文図』で中心から円周に向かう28本の線がありますが、それらで区切られた一つの区画が「宿」です。一目、分割がかなり不均等であることに気付かれると思いますが、これは二十八個の星座(星官,天官)を尊重して区分けしているからです。各々の星座から基準となる星(距星)を指定して、その星が境目の線を定義します*20

例えば、マンガ『北斗の拳』の南斗聖拳の「南斗」は単に「斗」とも言い、左上にある柄杓型の星座です。北極から引かれた直線が柄杓の柄の根本を貫いてますが、ここに「斗」の距星があり、この線から右回りに、「牛」の距星が現れるまでの範囲が「斗宿」です*21

二十八宿は右回りに並べます。つまり同じ場所を見ていると、時間が経つにつれて次の星宿が現れます。つまり北極を中心に配置したこれら星宿は、時間的な区切りでもあるのです。

「北斗の柄」の現役時代?「夏小正」

さて、北斗の柄の現役時代を伝える史料なのですが、一番可能性が高いと言われているのが、戴徳『大戴礼記』夏小正です*22
大戴禮記 : 夏小正 - 中國哲學書電子化計劃
この書物は礼儀や道徳についての論集で、夏小正は夏王朝時代の制度に基づいているという触れこみです。ところが成立は前漢の終わり頃で、むしろ『淮南子』よりも遅いのです。当然、改変を経ている可能性があり*23、大層扱いずらい史料です。ただ大方の見解では、記されている内容は戦国末期よりは(おそらくかなり)古いとされています*24

では、内容を検討に移りましょう。夏小正では正月から十二月までの各々の月について、天体の動きや気候、動植物の状況について述べ、為されるべき仕事や儀礼を論じています。例えば六月の部分は、

六月。日暮れ時に、北斗の柄が真上を向く。五月に大火(蠍座α・アンタレス)が南中し、六月に北斗の柄が真上を向くのであるから、北斗の柄が心宿にぴったり対応してはいなかったことが分かる。おそらく依に当たるのだろう。依とは、尾宿のことである。桃を煮る。桃とは、杝桃である...*25

古来の伝承プラス、著者の考察が混じっている感じですね。とりあえず、北斗の柄と恒星の南中を両方見ていることがわかります。複数の方法を併用して信頼度を上げたのか、それとも複数の情報源が混じっているのか?それにしても、天体の位置関係を随分と丁寧に検討しているなと驚きました*26

北斗の柄(斗柄)の記述は、正月と七月にもあります。

正月。…初昏(昏=日暮れ) ... 斗柄縣在下。言斗柄者,所以著參之中也*27
七月。... 斗柄縣在下則旦 (旦 =日の出)

太陽と北斗の柄の関係を整理すると、

正月 六月 七月
斗柄 真下 真上 真下
太陽 初昏 初昏

夏小正での冬至は11月です。よって後の月建、則ち「冬至の月に北斗の柄は真下」という話とは異なります。後で述べるように、「柄の指す方向」の定義が変わったのでしょう。 また、日の出の時に観測している月があるのも、目を引きます。

私は、この観測スキームの次の二つの特徴は理に叶っていると思います。

  1. 正月と七月の例のように、半年を隔てたペアを使う時、片方は夜明け、もう片方は日暮れに観測すること。
  2. 春分以前のある日の日暮れ時に、北斗の柄が真下を向いていたとする。すると、日暮れどきに真上を向くのは半年後よりも前。

まず1について。この方法の優れた点は、厄介な日没・日の出の時刻の変動をキャンセルできることです。このことを理解するには、この二つの観測で北斗は同じ向きで、太陽の方向だけが変わっていることに注意してください。正月に日没が遅れる分だけ、七月には日の出が早まるので、両者で太陽の位置はちょうど正反対です*28*29

2について。正月の日暮れに北斗が真下を指すとすると、六ヶ月後の同じ時刻には真上を指すでしょう。しかし日照時間が長くなっているので、日暮れまでに北斗の柄は左に傾いてしまいます。よって、これよりも少し前、つまり正月の観測日から五ヶ月ちょっと経った後の日暮れ時に真上になります*30

時刻の計測が不確かだった時代でも、この観測のスキームは確かに(当時の観測誤差の範囲で)機能したでしょう。

北斗はどちらを指している?

すでに指摘した通り、後世の月建は明らかに柄の指す向きが夏小正と違います。正月ではなく、11月冬至に真下を向くのですから。

また、『淮南子』天文訓とほぼ同時代に成立した『史記』の天官書では、より明瞭な説明があります。それによると、北斗の柄は角宿と亢宿の境目あたり、大角(牛飼い座α アークトゥルス)*31と、それを挟んで左右に広がる星座・攝提(せってい)を指すとしており*32、夏小正の心宿や尾宿とは随分と違います。星図をじっとにらむと、前者は柄全体の方向を見ており、後者は端の二つの星を結んだ先を見ているように見えます*33

なお、上では『史記』天官書と『淮南子』天文訓の定義が同じだと仮定していますが、これは当時の天象(及び知識)と整合的です。この頃の秋分点の経度は、大角から数度しか離れておらず、また当時その事実は(誤差を伴ってですが)認識されていたと思われます*34。よって、秋分においては北斗の柄は太陽を指し、午後6時の日暮れどきには真西近くを向きます。冬至の同じ時刻には90°回って、真下になります。仮に日暮れに観測するとしても、秋分春分で合わせておくのが全体としての誤差を最小にします。

また、『淮南子』の天文訓ではなく時則訓の方に、招搖(牛飼い座γ)の「指す」方向が月毎に書かれているのですが、これは天文訓の月建の方向と同じです。招搖は北斗の柄の近くで*35、大角に向かう途中にあります*36。ただ、『石氏星経』で両者の赤経が9度ずれているので、これをどう考えるかという問題はありますが*37

思うに、「北斗は冬至には子を、夏至には午を指す」という前提から出発して、この方角を見つけたのでしょう。あるいは大角や招搖を用いた季節を決める方法があり、それを取り込んだのかもしれません。

他の恒星の利用と比べると。。。

夏小正には、北斗以外の星の利用も述べられています。かいつまんで紹介すると、

  • 三月に「参」が見えなくなる
  • 四月に「昴(すばる、プレアデス)」が見えるようになる
  • 七月の日暮れ時に織女が東から昇る*38

前の二つについて説明します。恒星は、太陽と比較すると、北極中心に左回りです。ですから、日暮れどきに西の空に沈んだ後は、夜は地平線の下に居続けることになります。逆に夜明けに東から登った後は、夜見え続けます。前者をheliacal setting, 後者をheliacal risingと言って、古代メソポタミアでも詳しく観測されました。

また、南中を見るものもあります。

  • 五月(夏至の月)の日暮れの大火(アンタレス)が、六月の日暮れには「参」(オリオン座の一部)が南中。

これらは、いずれも太陽と恒星が(ほぼ)同時に観測できる時(=日没or日の出)に、両者の相対的な位置を確認しています。よってこれらは、北斗の柄の利用を含め、同じ系統の方法と言って良いと思います。

ただ、違いもあります。星の出没を見る方法は、特に計測は必要ないですが、南中の観測の為には星の高度か方位を測らないといけません。一方、山がちで地平線がよく見えない場所の場合、南中の方が見落としは少ないでしょう。

これらと比較した時、北斗の柄の向きの方法は、山がちな地形でも問題ない点で南中の方法に近く、見た目の印象でも判断できる点は、恒星の出没を見る方法に近いと思います。つまり、両者の中間です。

北極vs 地平線

中国科学史の泰斗ニーダムは、西方の天文学を地平線と黄道の利用で特徴づけ、それに対して中国の天文学を、北極と赤道の天文学としています*39。北斗七星の利用などは、その典型的な例というわけです。ニーダムはその由縁を、山がちな中国の地形に求めます。

では、他の地平線の見えにくい地域では、やはり中国に似た手法が発展するのでしょうか?世界各地の季節の決定方法*40を知るには、以下の事典が便利です(現在archive.orgで無料で閲覧できます)。

特にAstronomy in the Indo-Malay Archipelago (マレー群島の天文学)の項目を見ると、この地域は中国と条件が似ているように思います。マレー群島もやはり地平線が利用しづらい地形の様で、そのため、

  • 地平線(or 水平線)上の、天体の昇る/沈むポイントを利用しない

らしいです。これは中国も同様です。なお、地平線上のマーカーの典型例としては、ブリテン島のストーンヘンジ、北米のBig Horn Medicine Wheel(米国ワイオミング州)が挙げられていましたが、いずれも、地形的な条件が整っている場所です。平原の広がる古代メソポタミアでも、日の出のポイントから日照時間を推測しましたし、三日月が最初に昇る日の計算、惑星のheliacal risingなど、地平線上の現象に関心を集中させました。

米国ワイオミング州のMedicine Wheel*41

また、恒星の南中の利用が見られることがこの地域の特徴で、執筆者によると、他の地域にはあまり見られないそうです。理由は述べていなかったのですが、前後の記述から推測するに、地形的な要因が念頭にあるのではと思います。

つまりマレー群島も中国も、地形要因から地平線の利用を極力避ける方向に発展したように見えます。もっとも、前者の場合は北極中心とは言えず、例えば南中を見る星もオリオン座(中国の「参」)だったりします。また北斗七星の利用もありません。これは、緯度の違いが効いているのでしょうか。それから、マレー群島では星の高度を測って南中を確かめますが、中国は地面に垂直な棒(表)を用います。これで昼間の太陽の南中時に、真北の方角を割り出しておくのです。

マレー群島の竹を使った星の高度の計測。こぼれた水の量で角度を測る*42
地面に建てた棒を用いた観測*43

なお、恒星の出没による方法は、簡便さゆえかマレー群島でも多く使われます。既にのべたように、夏小正にもいくつも記述があります。しかし、大きな影響力のあった『礼記』月令*44は「夏小正」と似たカテゴリーの内容なのですが、「孟春之月:日在營室,昏參中,旦尾中。」のように恒星の南中と太陽の位置だけで、恒星の出没はありません*45

時代が降っても、天文学の確立期に重視された現象は、実用性や意味を度外視して研究され続けます。西方で言えば、恒星や惑星のheliacal rising/settingは、中世を通じて研究され続けました*46。一方中国では、日暮や日の出に南中する星宿の計算が、後漢四分暦以降、暦に乗せられるようになります*47

北極、蓋天論、赤道座標系

さて、北極を重視した中国の天文学は、どのように展開していったのでしょうか。

中国の最古の宇宙論は蓋天論とよばれ、天を北極を軸とする傘の様なものと捉えます。時代が降るとこの傘は丸みを帯びてきますが、最初の理論では完全な平面の円でした。円盤状の天が、平で正方形の大地と平行に相対します。この一見奇妙な説は、北極を中心に回転する天の理念化だと思うと、納得しやすいと思います。

一応注意しておきますと、蓋天説は単なるお話的な説ではなく、観測に基づいた数理天文学でした。そもそも日常的な観察では、天も地も平面には見えません。この整然とした仮定は、数学的な処理を単純化する為に練り上げられたもので、中国の伝統的な観測機器である、地面に垂直に建てた棒、すなわち「表」と有機的に結びついていました*48

蓋天説と渾天説(大橋由紀夫『科学史ミニ講義(2) 蓋天説と渾天説の話』)https://historyofscience.jp/wp-content/uploads/38-2.pdf

蓋天説から出発した中国でも、天が大地を包んでいるという説(渾天説)が紀元前後頃から優勢になります*49。蓋天説と渾天説の論争には、暦家の範疇に収まらない人々が参画しており*50、暦学的な数値のみならず「自然学的」な問題が重視されました。蓋天家は「天体は地面の下を通過できるのか」と渾天説を非難し、逆に渾天家は地平線における天体の出没を自然に説明できるとして、自説のメリットを強調します。

蓋天説では、天体の出没は天体までの距離で説明します。遠くに離れると見えなくなるとするわけです。これは、実際に観察される天体の出没の状況とはかなり違います。おそらく理論の形成のときには、出没の状況などは二次的な興味しかなかったのでしょう。

なお、西方においても天が地の上方に展開する宇宙論はあったようです*51。しかし、それらに基づく高度な数理天文学は生まれませんでした。メソポタミアでは天球の概念は不明瞭ですが、黄道十二宮の帯は大地をぐるりと取り巻いています。これは、彼らが地平線上の現象に関心があったことと、無縁ではないと思います。

地平線上の現象という蓋天説の致命的な欠陥については、王充などが視覚論的な議論を駆使して補おうとするのですが、やはり分が悪かったようです。南北朝期には、渾天説がはっきりと優勢になります。

しかし渾天説の時代になっても、蓋天説の影響は残りました。特に宇宙や地球のサイズの推測値はあまり変わらすに受け継がれます。ざっくりというと、太陽も月もかなり大地に近く、西方の宇宙観に比べると小ぢんまりとしていました*52。伝統的な観測機器の「表」も生き残り、巨大化して精度を極限まで高めました。

また、北極の重視は, 北極を中心にした天の分割、すなわち二十八宿や赤道座標系を生み出しました。一方、メソポタミアでは黄道十二宮を重視し、ギリシャに渡ってプトレマイオスに見られるような、黄道座標系につながりました*53

それから、上に掲げた『蘇州天文図』のような円形の星図は、蓋天家の用いた「蓋図」の系譜を引いています。これは宇宙構造論に関係なく便利で、晋の劉智は蓋図で太陽の軌道を描写して見せ、「蓋圖已定,仰觀雖明」と有用性を強調します。ただし、「日暮れや夜明けを定めることはできない」と限界も指摘しています*54。また、唐の高名な天文学者の一行は、蓋図で月の軌道を考察しました*55

象徴としての北極と北斗

天の北極はまた、象徴的な役割も持っていました。『論語』では、理想の君主を北極星(北辰)になぞらえます。

為政以德,譬如北辰,居其所而衆星共之。(『論語』為政)

君主自らは動かず、臣下が君主を中心にして動く*56。いかにも中国的な考え方です。

北極付近に設定された星座(天官、星官) *57も、この北極の役割に応じて仰々しいです*58。『史記』天官書によると*59、常に動かない天極星(北極星)の傍らの三つの星が三公*60、あるいは帝の子供。その周辺のカギ状に並んだ四つの星は後宮及び正妃、環状に護衛に並んでいる十二の星は藩臣*61。これらをまとめて「紫宮」と呼びます*62。インターネットのコトバンクによると、明清の皇帝の宮殿を「紫禁城」といったのも、起源を辿るとこれが由来だそうです(典拠は書いてませんでした)*63

北斗はこれらより古くからある星座で、明らかに身近な用具の形に基づいています。しかし、『史記』『漢書』ではその北斗も皇帝の乗る車とされ、

斗為帝⾞,運于中央,臨制四海。分陰陽,建四時,均五⾏,移節度,定緒紀,皆繫於⽃。

と、様々な役割を負わされました。緯書『春秋文耀鉤』では「天帝の舌」とされました*64

帝車としての北斗七星。北京天文館より引用。云看展 - 云看展 | 北斗七星那些事儿 六壬式盤と同じく、北斗七星の鏡映が使われています。

様々な機能が付された北斗ですが、中心はやはり、季節を指し示す機能です。こちらも夏小正からバージョンアップしています。北斗七星の杓(柄の部分)のみでなく、三つの部分(杓、衡、魁)に分け、そのすべてを用います。各々、柄*65、真ん中の星*66カップの部分またはその端の星です。それらは観測すべき時刻(日没、夜中、明け方)も、指し示す二十八宿(角、南斗、参)も違い、また各々に対応する地上の地域があります*67

この『史記』の説は、二十八宿の説明で用いた、『蘇州天文図』の跋文でも繰り返されています。この石刻図の元になったのは、皇太子の教育用に作成された図と天文知識のダイジェストです。長くもない文章の中に、北斗の月建のこともしっかりと書かれています*68

形骸化していた北斗の柄

しかしながら北宋の技術官僚・沈括は、歳差の影響で季節と柄の指す方向がズレていることを指摘します。さらに進んで、月の名前の由来を月建に求める旧来の説は無用だと切って捨てました。最初に述べたように、これは方位と季節を結びつける、月建の中核的な機能です。天文学的な実践から乖離して千数百年が経ち、形骸化がかなり進行していたと思われます。

正月寅,二月卯,などを斗杓の指す方向で説明し、「建」と呼ぶが、それは必ずし必要でない。春を寅、卯、辰とし、夏を巳、午、未とするのは当たり前で、「斗建」による必要はない。「斗建」は歳差のせいでずれてしまうが、古人はまだ歳差の法を知らなかったのだ*69

*1:吴守贤、全和钧、中国古代天体测量学及天文仪器、中国科学技术出版社、2008、陈久金、中国少数民族天文学史、中国科学技术出版社、2008 に各々、北斗の柄に関する章があり、以下の記述は多くをこの両書によっています。

*2:インターネット上の科学図書館で公開されている新城新蔵『東洋天文学史大綱』p.7など。新城新蔵『東洋天文学史の研究』弘文社、1928年所収。

*3:太古の中国における季節の決定方法の問題について、基本的な考え方の整理としては、新城新藏. <研究>二十八宿の傳來を論ず. 史林 1918, 3(1): 18-42https://doi.org/10.14989/shirin_3_18、あるいはhttp://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/ShinjyoShinzo/28shuku.pdfの「古代に於ける観象授時」がよく整理されていると思いました。ただし、本論文の全体的な内容は古いと思います。

*4:戦国期に入る頃には、一年の端数が1/4日であることや、かなり正確な月の会期周期、メトン周期が知られており(张培瑜 等, 中国古代历法 中国科学技术出版社, 2008年, 第一章第一節 p. 3)

*5:夏侯嬰と一族の墓なので、夏侯の墓と言及される場合もあります

*6:六壬式盤については 张雨丝,六壬式盘天盘布局问题补议,出土文献,2022年03期 No.11

*7:以下の暦wiki「三正論」のページも参照。https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/BBB0C0B5CFC0.html。また、東洋文庫版『夢渓筆談』第一巻、pp. 175-176

*8:一年がほぼ十二ヶ月なのははっきりとしている一方、方向を十二分割するのはさほど自明とはいえません。また「建」という字は、「作る、確立する」といった意味で、「指し示す」という意味はなさそうです。『康煕字典』でも、「斗建」の「建」は特殊な扱いになっています。

*9:以下の記述は、吴守贤、全和钧、中国古代天体测量学及天文仪器、中国科学技术出版社、2008、陈久金、中国少数民族天文学史、中国科学技术出版社、2008 などを参考にしています。

*10:『鶡冠子』は「著者の伝記は不明な点が多く、時代を下るとともに逸話が増え、著書の巻数も増える」という取り扱い注意の著作なのですが、前漢の出土文書にあらわれる黄老思想と共通点が多いということで、脚光を浴びることになったようです。後世の付加もあるが、コアの部分は戦国末期の著者(たち)によるものだろうとのこと。なお、「還流」篇はだいたい真作だと思われているようです。英語や中国語のwikipediaは記載が豊富で、また https://doi.org/10.1017/S0362502800003850Peerenboom は基本的な情報がまとまっていました。

*11:https://ctext.org/he-guan-zi/huan-liu/zh

*12:『鶡冠子』は人事と自然を積極的に関係付けますから、これも単なる比喩ではなさそうです。

*13:立春立夏夏至立秋立冬までの五つの区間が16日。

*14:北緯34度(洛陽や長安)を仮定すると、日没時間は±1時間ほど変動し、これは±15度のズレ繋がります。これは約半月分。淮南の緯度(32度)だともう少しマシですが、やはり厳しそうです。

*15:角度を直接計測れる渾天儀があったかどうかは微妙な時期ですが、時間経過を計測する漏刻と、地面に垂直に建てた棒(表)はありました。これで真下又は真上になる時刻を計測できます。この値から、簡単な比例計算で特定の時刻での柄の向きを計算できます。時間の計測の誤差は、推し量り難い部分もありますが、20分から30分の誤差は十分に生じ得たと思います。以下の論文では、紀元600年ごろ以降の中国の日月食の観測された時刻と、現代の理論値の比較をしています。月食の場合、外れ値を除くと大体は30分程度の誤差に収まるか、といったところです。ただ、食の開始の判定いかんでも数分はずれるでしょうから、そこはまた考察の必要はありそうです。M. STEELE and F. R. STEPHENSON, ASTRONOMICAL EVIDENCE FOR THE ACCURACY OF CLOCKS IN PRE-JESUIT CHINA, JHA, xxix (1998) 。いずれにせよ、この論文の扱っているデータはいずれも新しく、紀元前ではありません。異なった文化圏になりますが、古代メソポタミア月食の時刻の計測誤差は、紀元前150年ごろの場合、大体は30-40分くらいか、それ以下です。J. M. STEELE and F. R. STEPHENSON,THE ACCURACY OF ECLIPSE TIMES MEASURED BY THE BABYLONIANS, JHA, xxviii (1997)

*16:淮南子』天文訓にも、太陽や月の周期が正確に記されています。

*17:簡潔な説明が暦wikihttps://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/C6F3BDBDC8ACBDC9.html。発展史的なことは、橋本敬造『先秦時代の星座と天文観測』https://doi.org/10.14989/66604を参考にしてください。

*18:この領域は緯度によって違うのですが、おそらくは北緯35度付近を想定していると思われます。北斗七星については、北宋時代の観測データが残っており、少なくとも北斗七星については、『蘇州天文図』と整合しています。

*19:以下の史料の挿入図を加工しました:竹迫忍『中国古代星図の年代推定法』第24回天文文化研究会(2023)、発表資料。 https://www.kotenmon.com/ronbun.htmlより入手。

*20:ただし、この「距星」がどれかの明示的な記録はあまり残っていないようで、星図から読み取ったり、理論計算で推測することになります。宮島 一 彦、東アジアの古星図における距星の特定、大阪市立科学館研究報告 28, 33 - 42 (2018)、薮内清、淳祐天文図とヘベリウス星図、天文月報 = The astronomical herald 69 (1), p17-21, 1975-12、日本天文学

*21:「南斗」は『史記』天官書で「南斗為廟」、つまり皇帝の宗廟とのこと。中々大きな役割を持たされていますが、歴代の天文志の体系では北斗が圧倒的に偉く、あまり南斗とは並び立ちそうもありません。しかしウィキペディアによると、道教では両者を対にする象徴体系を用いているようです。

*22:新城新蔵「東洋天文学史大綱」新城新蔵『東洋天文学史の研究』弘文社、1928年所収。吴守贤、全和钧、中国古代天体测量学及天文仪器、中国科学技术出版社、2008、陈久金、中国少数民族天文学史、中国科学技术出版社、2008

*23:華強『「夏小正」新考証』安徽省科学技術出版社(2017)では、いくつか具体的な指摘があります。わかりやすいのは、十月に「時有養夜。養者,長也」です。五月(夏至)に「時有養日。養,長也。」とあることを考えると、これは夜がもっとも長い、つまり冬至だと言っていると思われます。しかるに、十一月の条に「冬至」と書かれており、また夏至との間隔が五ヶ月では辻褄が合いません。著者は十一月と十二月の条を後世の挿入とし、夏の暦は一年が十ヶ月であるとしています。この主張に与するかどうかはさておき、夏小正の取り扱いの難しさは伝わって来ます。

*24:天文学的な検討によると紀元前600年〜800年、あるいは更に遡るかもしれないそうです(http://wanibeer.web.fc2.com/hakron/ , 第一章二節への注釈(7) を参照。)。ただ、テキストの解釈がまだ定まり切らない中、こういった計算に意味を見出さない見解もあります(Cullen, Astronomy and mathematics in ancient China: the Zhou bi suanjing, CUP, 1996)。

*25: 平澤歩先生の博士論文の一章二節 http://wanibeer.web.fc2.com/hakron/。ctext .orgのテキストに底本の陰影と異なるところがあるので、原文を貼り付けます。此見斗柄之不正當心也。蓋當依。依、尾也。煮桃。桃也者、 杝桃也。杝桃也者、山桃也。煮以爲豆實也。鷹始摯。始摯而 言之何也、諱殺之辭也、故言摯云。

*26:しかし、心宿の幅が5度程度と狭いこと、そもそも精度の荒い方法であることを思うと、果たして意味があるのかは微妙だと思います。また、用いられている二十八宿の定義も検討の余地があります。橋本敬造『先秦時代の星座と天文観測』https://doi.org/10.14989/66604によると、漢代以降標準となる二十八宿が広まっていくのは、戦国期のようです。これとはやや異なる系譜のものもあって、劉向『洪範五行伝論』にも残っており、前漢の汝陰候墓出土の二十八宿盤も、この数値に近いようです。両者が前後関係にあるものなのか、あるいは別バージョンなのかはよくわかりません。「夏小正」との関係でいくと、参宿、心宿、尾宿が各々違ってきます。参宿は少しずれるくらいなのですが、心宿は通常の尾宿あたりにシフトして、大火(さそり座αアンタレス)はその西どなりの房宿になってしまいます。すると、「北斗の柄が心を指す」ことと「大火が五月に南中し、北斗の柄が六月に真上を向く」ことが矛盾ではなくなります。

*27:参宿は、心宿や尾宿のちょうど反対側にあります。ですから、これは北斗の柄を逆側に伸ばした先に当たると言っているのでしょう。

*28:ただし、太陽の平均運動からのズレは無視しています

*29:なお、「初昏」と「旦」の定義なのですが、後漢四分暦以降の暦では、日が没していても明るいうちは昼とします。後漢四分暦では、日没から二刻半(一日は100刻なので、40分くらい)まで「昏」が続きます。「旦」も同様です。よって春分でも昼の方がやや長く、55刻あります。そして、日没や暁の時の恒星の南中の観測は、この規定による夜の始まりと終わりで行います。もしもこの規定に沿うならば、ここで述べた「日没・日の出の時刻の変動のキャンセル」は上手くいきません。しかしながら、後漢四分暦のこの規定を過去に遡って適応する必然性はないと思います。例えば『礼記』月令、あるいは『呂氏春秋』十二紀では春分秋分においては「日夜分」とありますし、『礼記正義』月令によると、後漢の馬融は「晝有五十刻,夜有五十刻,據日出日入為限。」と言っており、いずれも日夜の境目を」昏」の始まり、「旦」の終わりとしています。よって、恒星の観測の時間も柔軟に考えて良いはずで、このスキームによる太陽の運動の打ち消しの効果が発揮できた可能性は十分あると思います。

*30:仮に観測地点を北緯34°とします。すると、正月の観測時点から五か月後の日没時、北斗の柄は真上よりも右に5°くらい傾いています。計算は以下の通り。まず、正月と同じ時刻に観測(太陽の光で見えませんが)したとしたら、右に30°ほど傾いています(一年で360°回るから)。そこから日没するまでの1時間40分くらい、左周りに回転(15°/1時間)しますから、日没時にはまだ5°くらい右に傾いています。この程度のズレならば、大雑把な観測では誤差範囲でしょうし、また5日か6日待てばほぼ真上になります。

*31:これはかなり明るくて目立つ星です

*32:攝提者,直斗杓所指

*33:こういった「北斗の柄の方向問題は、吴守贤、全和钧、中国古代天体测量学及天文仪器、中国科学技术出版社、2008の第二章第四節、あるいは陈久金、中国少数民族天文学史、中国科学技术出版社、2008の第一章第一節、pp.86-94などに詳しく論じられています(いずれもarchive.orgでDL可能)。この中で、北斗が太古には九星あり、第八星が「招搖」(牛飼い座γ)、第九星が「梗河」(牛飼い座ε)との説が展開されており、緯書に見える北斗九星との関係を仄めかしています。また、この北斗九星の第一、五、七、八、九星を結んだ先に心宿があることを指摘しています。

*34:太初改暦やそれに伴う観測プログラムで得られたデータは前漢末の『三統暦』に引き継がれ、恒星の位置データについては『開元星経』所引の『石氏星経』に残るとされています。これらを比べると、確かに攝提の広がる範囲に、秋分点の経度が含まれています。三統暦の秋分点は、中国度で角宿10度。『石氏星経』によると攝提の距星は角宿8度で、大角は入亢二度半。なお、角宿12度= 亢宿0度。なお、『石氏星経』のデータは「中国天文学史・上」(明文書局,1984)の付表2。これは藪内清『漢代における観測技術と石氏星経の成立』の付表を再録したもの。

*35:史記』天官書に「杓端有兩星:一內為矛,招搖」

*36:現在の星図では、両者は共に牛飼い座にあり、経度も近いです

*37:大角は入亢二度半、招搖は入氐二度半。亢宿9度=氐宿0度。

*38:この「織女」が現在の織女星なのか、女宿なのかは不明。

*39:例えば、Needham, J. , Science and Civilisation in China, vol. 3, Mathematics and the Sciences of the Heavens and the Earth, CUP, 1959

*40:日本などでも(聞き取り調査で調べられる程度に)最近まで伝統的な方法が残っていました。すばる(プレアデス星団)やオリオン座の腰の三ツ星使ったようです。季節だけでなく、漁に出かけるタイミング(時刻)の判断にも用いたようです。下に引く事典のAstronomy in Japanの項目は参考になりました。また、中野 真備氏(人間文化研究機構創発センター研究員)のWeb連載https://nagisamagazine.wixsite.com/t-jiyudaigaku/星の林に漕ぎ出でて-私の天文民俗学-中野真備で調査の状況や文献などの全体の雰囲気が少し掴めます。そこで言及されている北尾浩一氏の調査は、著作も出ていますが、Webでも一部読むことができますhttp://www2a.biglobe.ne.jp/~kitao/oaaminzoku.htm。道具や設備を用いる方法としては、八重山群島の「星見石」は有名だと思いますが、遺構の調査はあるものの、方法を再現した研究は無いようです。

*41:Wikipedia英語版よりhttps://en.wikipedia.org/wiki/Medicine_Wheel/Medicine_Mountain_National_Historic_Landmark

*42:https://link.springer.com/referencework/10.1007/978-1-4020-4425-0のAstronomy in the Indo-Malay Archipelagoの項目より。

*43:Wikimedia Commons File:SSID-12797191 欽定書經圖說 第1冊 卷一、二.pdfより。この書物は清朝末期に編纂されたもので、古代を知る史料としては不適切なのですが、雰囲気が出るせいか、なぜかよく用いられます。現在残っている表の現物は、影の長さの計測に特化した洗練した形状になってしまっており、原型からはほど遠いと思われます。います。元の時代のものなどは、高さを稼ぐために建造物を立て、その上に細い水平の棒を設置して、下の地面に影を作らせます。

*44:戦国末期の『呂氏春秋』十二紀と同一。太陽と恒星の部分は、『 淮南子 』時則訓も同一。

*45:南中の重視はまた、「天子南面す」という言葉ども関係づけられました。前漢の劉向『說苑』辨物に「故天子南面視四星之中,知民之緩急...」。Cullenのhttps://doi.org/10.1017/CBO9780511563720(本書はarchive.orgでDL可能)

*46:これらは、「周期の最初or最後に観測されるの日の計算」を目指します。しかし、太陽の光がどの程度邪魔をするのかという位置天文学では扱えない条件を含むため、本来は良い問題設定ではないと思います。実際は、機械的に「ある角度以上離れたら見えることにする」としていました。

*47:张培瑜 等, 中国古代历法 中国科学技术出版社, 2008年, 第一章第四節(archive.orgでDL可能)、Cullen, http://dx.doi.org/10.1177/002182860703800104 

*48:蓋天論者は、表(あるいは髀)とよばれる、地面に垂直に立てた棒を観測に用いました。同様の観測器具は世界中で広く使われて、科学史ではグノモン又はノーモン(gnomon)とよばれます。天と地は平行で平らと仮定したので、髀の影の先端は、天体の位置の反転になっています。つまり、髀(表)という観測器具と蓋天説は非常に相性が良いのです(山田慶兒、梁武の蓋天説、東方學報 (1975), 48: 99-134)。髀(表)は測量にも用いられていました。例えば遠方の山の高さを計測する方法が案出されました。これは山までの距離が未知でも使える非常に巧妙な方法で、同じ手法で蓋天家は太陽までの距離を推測しました.。下の図の出所である大橋由紀夫氏の解説が興味深いです。幾何の結果としては、エラトステネスの地球の大きさの計測よりも、はるかに巧妙で面白いです。また、Cullenのhttps://doi.org/10.1017/CBO9780511563720も示唆に富んでいます(archive.orgでダウンロード可)。

*49:このあたりの論争は、上の図の出所の大橋由紀夫氏の解説や、以下の論文に手際よくまとめられています。https://doi.org/10.14989/66532。一次文献としては、『晋書』や『隋書』の天文志がまとまっています。

*50:例えば、反主流的な思想家として知られる王充や桓譚、名高い経学者の揚雄、鄭玄、蔡邕。また、水力駆動の渾象(渾天説的な天体模型)の製作者である張衡も、思想家や文人としての側面が知られています。

*51:アリストテレス『天について』第2巻やプトレマイオスアルマゲスト』第1巻。プトレマイオスは天体の出没の説明の不自然さをこれらの宇宙論への反論の材料にしています。

*52:この体系では、場所による天体の高度の違いを大地の丸みではなく、天体までの距離が近いことを用いて説明しました。そのせいで太陽までの距離は、ほぼ地球の半径と同じオーダーの値になっています。

*53:月や惑星の軌道はそんなに黄道からずれないので、黄道方向とそれ以外に分解して理論を進めるのは、良い戦略だったと思います。中国もこの方法論の一部を後漢以降は取り入れ、大きな成果がありました。

*54:「蓋圖已定,仰觀雖明,而未可正昏明,分晝夜。」(『隋書』天文志・蓋図)

*55:新唐書』天文志。また、宮島一彦. 日本の古星図と東アジアの天文学. 人文學報 1999, 82: 45-99, https://doi.org/10.14989/48530 。彼は、図の中心を軸に回転する回竹の棒を取り付け、これをメジャーとして用いました。この作図法で得られる射影は北極を中心とした正距方位図法で、西方でよく用いられたステレオ写像とは異なります。中国の星図を解析すると、やはり正距方位図法だそうです。北極中心というところは伝統通りですが、北極からの角距離という蓋天説には無い、渾天説的な概念を用いています。

*56:ここでの「共」の字の意味は、字典や注釈をいくつか見たのですが、解釈を絞ることができませんでした。まず、インターネットの『漢典』の上げる字義のうち、該当しそうなものを列挙すると、①(gōngと読んで)恭敬する②(gǒng)手を折りたたんで挨拶する、取り囲む。③(gòng)周りを旋回する。そして、②と③で論語のこの文が用例に上がっています。 注釈書ですと、邢昺『論語注疏』では「北辰常居其所而不移,故眾星共尊之」とあって、これは①の意味ではと思います。一方、『論語集注』では「共,向也,言眾星四面旋繞而歸向之也。」とあって、これは②又は③だと思います。『康熙字典』は『論語集注』と同じ解釈です。おおむね②や③が優勢なのですが、『論語』為政以外に目ぼしい用例がないのが気になるところです。後世の理解はともかく、この文が書かれた時点での意図はむしろ①かもしれません。現代の注釈書には整理されているのだと思いますが、未見です。

*57:中国の星座については、大阪市立科学館http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~kazu/chinaseiza/chinaseiza.htmlに網羅的な概説があります。竹迫忍『中国古代星図の年代推定法』第24回天文文化研究会(2023)、発表資料(https://www.kotenmon.com/ronbun.htmlより入手可能)も、非常に優れた概説だと思います。同氏のウエッブページ「古天文の部屋」も内容が豊富ですが、とくにhttps://www.kotenmon.com/str/china/china.htmlに基本的な参考文献がまとまっているのはありがたかったです。また、これら理系的な入門に対して補完的なのが、前原あやの『星座の三家分類の形成と日本における受容』東アジア文化交渉研究第8号。

*58:漢書』天文志では冒頭、「經星(恒星のこと)常宿中外官凡百⼀⼗八名,積數七百八⼗三星, 皆有州國官宮物類之象。」つまり、全ての星座は地域、官、宮廷の物の象徴であるとし、この象徴性を利用した占いをすると述べます。

*59:漢書』天文志も文言までほぼ同じ

*60:上位の三つの官職。秦から漢の哀帝までは丞相・御史大夫・太尉、以後名を変えて、大司徒(もと丞相)・大司馬(もと太尉)・大司空。(『世界大百科事典』平凡社)

*61:こういった象徴的な命名である以上、星座が形状による比喩でないことは明らかです。そして星一つで一つの星座、というのが結構あります。星図では星座の形はかなりいい加減に書かれます。位置が正確に計測されるのは、星座の中の一つの星(距星)だけです。(ただし、北斗七星は例外。)書写を繰り返されてゆがんだ星図と実際の天体とを対応させるのは大変な作業のようで、ゆえに『蘇州天文図』のような石刻図が貴重なのだそうです。

*62:中宮天極星,其⼀明者,泰⼀之常居也,旁三星三公,或曰⼦屬。後句四星,末⼤星正妃,餘三星後宮之屬也。環之匡衞⼗⼆星,藩⾂。皆曰紫宮。」武英殿版『漢書

*63:コトバンクの記述では、起源600年前後から使われる星座の体系での、「紫微垣(しびえん)」が起源だと書いてありますが、この「紫微垣」は「紫宮」から来ています。

*64:史記索隠』天官書の引用。後漢の官吏・李杜が「今陛下之有尚書,猶天之有北斗也。」(『後漢書』李杜列傳)と引用したのが有名。『藝文類聚·尚書』『太平御覽·星上』に引用あり。

*65:「孟康曰:杓,斗柄也」武英殿版『漢書』の注。

*66:「晉灼曰:衡,⽃之中央。」武英殿版『漢書』の注。のちに玉衡とよばれる星だと思われます

*67:「分野説」のはしりと言われています。

*68:年号をとって淳祐天文図とも言います。宮島一 彦『蘇州天文図に関する若干の検討と碑文の訳注』大阪市立科学館研究報告 29, 49 - 64 (2019)、薮内清、淳祐天文図とヘベリウス星図、天文月報 = The astronomical herald 69 (1), p17-21, 1975-12、日本天文学会。碑文の原文は、成映鴻、蘇州孔廟淳祐星圖之研究、臺中師專學報,n.15,p175-206、およびhttp://starvyg.blogspot.com/2005/09/blog-post.html。天文図の作成の背景も興味深いものがあります。原図の作成者の黄裳(1146-1194)についてはBaidu百科の解説を、また同時に作成された『帝王绍运图』についてはhttp://flgj.cupl.edu.cn/info/1098/4111.htm。地理図については、增田忠雄. 宋代の地圖と民族運動. 史林 1942, 27(1): 65-83、青山 定雄. 栗棘庵所蔵の輿地図について. 東洋学報 : 東洋文庫和文紀要 / 東洋文庫 編. 37(4) 1955.04,p.471-499. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I4991869

*69:「正月寅,二月卯,謂之建,其說謂斗杓所建,不必用此說。但春為寅、卯、辰,夏為巳、午、未,理自當然,不須因斗建也。緣斗建有歳差,蓋古人未有歳差之法。」『夢渓筆談』象数一。