中国の月食と宇宙論(3)~金環日食のこと

月食論を通じた、中国の宇宙構造論」というコンセプトでここ二回ほど書いてたのですが、前回、主に利用した『南齊書』天文志上では、『春秋』桓公三年七月の日食記事を引用しています:

《春秋》魯桓三年日蝕,貫中下上竟黑。

これはもしかして金環食ではないか?という可能性を探ってみたいと思います。

日食には、皆既日食、部分食、そして金環食があります。皆既日食になるには、地球からみた月の軌道が、ほぼ太陽の真ん中を通過しないといけません。このコースから逸れると、部分的にしか太陽が隠れない部分食になります。
一方、月が然るべき軌道を通っても、月が地球から遠ざかりすぎると見かけの大きさが小さくなり、太陽を覆いきれなくなります。これが金環食です。

ギリシャ天文学での金環食

金環食は、地球と日月の間の距離の変動の証拠となります。そこで、古代ギリシャ系の天文学では宇宙構造論と結びついて関心がもたれました*1

例えば、古代末期のシンプリキオスのアリストテレス『天について』への注釈では、皆既食と金環食の存在から、日月までの距離は一定ではない結論しています。これを論拠の一つとして、彼はアリストテレスの同心球体説よりも、天文学者たちが好んで用いた周転円の理論の方が、現象によくあうとしています。

ただ、周天円を用いた天文学者が軒並み金環食を肯定したわけではありません。例えばプトレマイオスなどは、大きな例外です。(なお、ヒッパルコスは肯定派。)

また、学問的な文書ではありませんが、紀元前190年ごろの偽エウドクソスによるパピルス文書には、これらとは全く別の見解が述べられています。なんと、皆既日食はあり得ず全て金環食だというのです。

では金環食は観測できたのでしょうか。
まず、偽エウドクソスの文書は、文書の性質上、どのような観測に基づいたのか全くわかりません。皆既食の時に見えるコロナをこのように表現している可能性もあります。シンプリキオスは哲学者で天文学者のソシゲネスを引用しているのですが、こちらも観測に基づくのか伝聞に基づくのか、今ひとつ定かではありません*2*3

残念なことに、誰の目にも確かな金環食の記録は、古代には無いのです。金環食の観測は裸眼では困難で、曇りや夕刻などで太陽光が弱まっていなければ難しかったと言われています*4

10世紀のアラビアでは再び同心球体説を主張するものが現れ、再び金環食に関心が向けられます。そこで大天文学者ビールーニーは、イランのAbu al-Abbas Iranshahriという人物の金環食の観測報告に着目し、そしてインド系の天文学の理論では金環食が可能になることを指摘しています。

ビールーニーの示唆を受けてインド系の理論のパラメーターを観測から定めて金環食を予測し、観測によって確かめたのは、14世紀初頭のWabkanawiです。彼の予測や観測は現代の理論と整合的で、疑う理由はあまりないと思います。ただ彼の仕事がどのくらい影響力があったのか、私には不明です。

つまり、金環食は日月までの距離の情報を与えてくれるので、宇宙論上も重要な現象だったのですが、確認は中々大変だったのです。

何を問題にしたいのか

さて、本題の『南齊書』への『春秋』の引用なのですが、今普通に見れる『春秋』の校訂版では、

秋,七月,壬辰朔,日有食之,既。

すなわちこの日食は皆既食だったとしています*5。つまり、メジャーな校訂版に取り込まれてていない異端のテキストなのですが、『南齊書』の時代を知る史料としては、十分有用だと思います。

では、この時代に金環食が話題に上ることは、現実的にあり得たのでしょうか?テキストに入る前に、基本的な前提条件を確認したいと思います。

観測は可能??

まず、この時代の中国で、金環食の観測はできたのでしょうか?先にも述べたとおり、古代ギリシャではできたかどうかよくわからないので、中国でも難しかったに相違ないと思います。ただ、肯定的な要素もないわけではないです。

第一に中国はガリレオ以前にも太陽の黒点を盛んに観測していて、『晋書』天文志にもずいぶんと記事があります。今残っているものだけでも、太陽の活動の長期的な変化を論ずるデータを与える程度には、観測が残っています。観測の方法は今となってはわからないのですが、黒点の観測ができたなら、金環食の観測も直ちには否定できないと思います。そもそも、気象条件などによっては肉眼でも観測できることは、すでに述べた通りです。

では、カメラ・オブスクラ(ピンホールカメラ)のような観測手段は当時、利用可能だったでしょうか?これも直接的な史料がないのですが、肯定的な材料はあります。

まず、戦国時代の『墨子』には、世界でも圧倒的に最古のカメラ·オブスクラの記述があります。そのあと長い間記述が無いのですが、北宋の沈括『夢渓筆談』にはかなり詳しい記述があって、飛ぶ鳥の像にも言及があります。そして、像が逆さになることについて、凹面鏡と統一的に説明していますが、ここで「算家謂之格術」、つまり数学系の学問をしている人には馴染みのことで、格術と名前まで付いている。おそらく、記録の無かった時代においても「算家」はこの機器に馴染みがあったのでしょう。

なお、時代は後になりますが、元の時代には金環食が観測されています:

(世宗中統)二十九年壬辰正月甲午朔日有食之、有物漸侵入日中不能既日體如金環左右有珥上抱氣(『元史』天文志)*6

これもどうやって観測したかは記述がないのですが、ピンホールはグノモン(地面に垂直に建てた棒)の影の精確な計測のだめに活用されています。よって、同じ機構を用いた可能性は十分あります。

どうやらこのピンホールは自慢の機構らしく、誇らしげに暦議で紹介されていますが、似たものは以前からあった可能性があると思います。なぜなら、中山茂曰く、数尺程度のグノモンでも、なんの工夫もなく影を測れば相当な誤差が生じるようなのです。確かに、太陽の視直径は0.5度ありますから、反影の大きさは数センチになってしまうでしょう。ところが、唐の時代の僧一行のグノモンによる観測はなかなか正確です。もしかしたら、ピンホールは既に以前から使用されていたかもしれません。

月食の推算方法との関係

観測手段の有無と同時に、当時の宇宙論金環食を許容したか?も問題です。つまり、太陽や月と大地との距離が変化することを認めねばなりません。もしもここが否定されていたら、議論の俎上に昇ることはないでしょう。

困ったことに、南北朝から徐々に形成される中国流の日月食の理論では、太陽、月、暗虚(月食のときに月を隠す影)の見かけの大きさは不変とされます。このような考え方の下では、金環食などは問題外のはずです。

ただ二点、逃げ道があります。

まず、このような考え方が定着した時期によっては、『南齊書』の解釈には関係しない可能性があります。次に中国の天文学の理論では、幾何的なモデルの役割がやや曖昧なのです。例えば、上の前提は授時暦でも保持されているのですが、既に述べたように元の時代には金環食が観測されています。

『南齊書』の記事

以上の前提条件を頭の片隅において、ここからは記事そのものを読んでみます。まず、先にも引用した

《春秋》魯桓三年日蝕,貫中下上竟黑。

という、やや文意の取りにくい引用文に続いて、

疑者以為日月正等,月何得小而見日中?鄭玄云:「月正掩日,日光從四邊出,故言從中起也。」

つまり、

「日月の大きさはぴったり同じであるのに、なぜ月が小さく太陽の真ん中に見いだされるのか」と疑問を持ったものがいた。それに対して鄭玄は「月が太陽を丁度ぴったり覆うので、日光が四辺から漏れ出てくるのだ。ゆえに「日食が真ん中から起きる」という。」と答えた。

と続きます。つまり、「貫中下上竟黑」は太陽の真ん中が隠れている状況だと解釈されているように見えます。これは、やはり金環食を話題にしているのでは?

しかし一歩引いて考えると、「日光從四邊出」は単に皆既日食の時のコロナの光では?という可能性もあります。もう少し文献を探ってみたくなるところです。

なお、この鄭玄の言葉は出所がわからず、よってこに短い文言の本来のコンテキストは不明です*7。ですが、ここではあくまで『南齊書』の著者の解釈が問題なので、それはあまり関係ありません。

『春秋左傳正義』

そこで比較的近い時代に書かれた、『春秋左傳』への注釈、つまり『春秋左傳正義』を見てみました。これは『春秋左傳』への注釈(西晋の杜預の『春秋経伝集解』)や、その注釈へのさらなる注釈、いわゆる「疏」(南北朝末期〜隋の初めの劉炫『春秋述義』、沈文阿『春秋経伝義略』)を、唐の初めにまとめなおして整理したものです。

現存の『春秋左傳』の対応する記事は、すでに述べたように『南齊書』所引のものとは随分違います。ところが、かなり参考になることが書いてあるのです。

まず、「注」に

日光輪存而中食者,相奄密,故日光溢出。皆既者,正相當,而相奄間疏也。

とあり、この部分に「疏」では、

日月之體,大小正同。相掩密者,二體相近,正映其形,故光得溢出而中食也。相掩疏者,二體相遠,月近而日遠,自人望之,則月之所映者廣,故日光不復能見而日食既也。

前者だけだと短すぎてよくわからないけれども、こうやって並べて見ると、比較的意味は取りやすいと思います。大意としては、

日月は同じ大きさ。日月の間の距離が近いと周りから光が漏れる。しかし月が近く太陽が離れたところにあると、光が漏れなくて皆既日食

つまり、太陽の距離によっては、ギリギリ覆うのが精一杯で光が漏れる場合と、余裕を持って覆って皆既食になる場合があることが説明されています。前者の状況は、まさに金環食が観測される状況です。

ただし注釈者たちは、この二つの可能性の両方を現実だと思っていたのか? 前者のケースは、単に説明のための仮想的な状況設定かもしれません*8

しかし、ここで改めて両者を並べてみると、かなり似ていると思うのです:

鄭玄云:「月正掩日,日光從四邊出,故言從中起也。」

相掩密者,二體相近,正映其形,故光得溢出而中食也。

そうして、全てを一貫して理解するには、やはり金環食を論じていると思うのがスッキリするのでは。。。?

感想のようなもの

素人の調べものなので当然なのですが、まあ、あまりはっきりとしたことは分かりませんでした。

ただこの件がどうだったとしても、『春秋左傳正義』の記述は非常に興味深いと思います。それは、日月の空間的な配置、特に奥行き方向の拡がりを考慮して議論が組み立てられているからです。これは、ギリシャ系の天文学では当たり前のことです。しかし中国の天文学は算術的で、幾何的な描像は弱いです。天球上の二次元の幾何はともかく、三次元的な描像の利用には消極的です。例えば北宋の沈括『夢渓筆談』では、天体同士がぶつからない理由を距離の違いで説明するのではなく、天体は気であって「形」はあるが「質」はない、とするのです*9

『春秋左傳正義』や『毛詩正義』の「疏」の部分は劉焯*10や劉炫といった、暦算に詳しい人物の義疏がベースになっており、天文学的な内容が充実しています。日月食についても詳しくかかれており、また機会があればメモを残したいと思います。

*1:Mozaffari, S.M. (2015). Annular Eclipses and Considerations About Solar and Lunar Angular Diameters in Medieval Astronomy. In: Orchiston, W., Green, D., Strom, R. (eds) New Insights From Recent Studies in Historical Astronomy: Following in the Footsteps of F. Richard Stephenson. Astrophysics and Space Science Proceedings, vol 43. Springer, Cham. https://doi.org/10.1007/978-3-319-07614-0_9

*2:同じく(周天円説の根拠として)ソシゲネスの語る金星の明るさの変化などは、現実には生じない現象です。

*3:下記の文献のpp.89-90. Bowen, A. C. (2008). Simplicius’ commentary on Aristotle, De Caelo 2.10–12: An annotated translation (Part 2). SCIAMVS, 9, 25–131. https://www.sciamvs.org/files/SCIAMVS_09_025-131_Bowen.pdf

*4:金環食そのものはともかくとして、太陽や月の視直径はディオプトラ(dioptra)という機器で(太陽の場合は朝夕や曇りの時を選んで)観測されています。そして月の視直径についてはかなり変動することが確認されています。一方で、太陽の視直径は一定だとする見解が、プトレマイオスやプロクロスによって主張されています。どちらも太陽までの距離の変動は認めていますから、現在の視覚の理論からするとあり得ないのですが、古代の視覚論のどれかでは可能なのかもしれません。もっともプトレマイオスの場合は、ある種の近似として言っているのかもしれませんが

*5:『春秋左傳』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』の注疏にはいずれも「既,盡也」、さらに『春秋左傳正義』では「食既者,謂日光盡也 」とあります。律暦志などでの用法でも、既と言えば皆既食。

*6:該当する金環食は現代の理論計算でも確かめられています

*7:鄭玄には『駮五経異義』という散逸した著作があります。清に入ってこの断片集が出ており、『南齊書』の上記の部分が取り入れられているのですが、『南齊書』には特に出所が書かれていないことが注記されています。

*8:ところで「注」の上の引用文の直前には「食有上下者,行有高下」と書いてあります。「疏」では上下を南北の意味にとって、月と太陽の軌道がどちらが南かで欠け方が違うのだという説明をしています。しかし、もう一つの解釈としては、大地から見ての高度の可能性は無いのでしょうか?勝手な思いつきなのですが、そうだとすると、月が完全に太陽を隠すケースと周囲から漏れるケース、両方が実在する可能性として挙げられていることになります。

*9:日、月,氣也,有形而無質,故相直而無礙。

*10:隋。南朝北朝両方の天文学の流れを取り入れた、画期的な皇極暦の撰者。