ニュートンを肩に乗せた巨人

ケプラー理論をめぐる混沌

ケプラーの『新天文学』は、表題に偽りない、非常に新規な天文学を打ち立てました。彼はすでに名高い天文学者でしたから、この著作もそれなりの注意をひきまして、いくつかの要素は広く受け入れられました。しかし、多くの部分については拒否感が強く、より多くの観測による証拠が求められました。

ところが、ケプラーの理論を計算に乗せるのは、当時の数学では非常に困難でした。そこでケプラーは、数値的な手法を多用した天文計算のマニュアル『ルドルフ表』を準備します。水星の太陽面通過の予測に成功するという、派手なイベントもあり、ケプラーの支持者は増えました。

しかしデータとの突き合わせが進むと、『ルドルフ表』の綻びが見えてきます。ケプラーの理論の月の理論はあまり上手くいっておらず、火星と水星以外の惑星はパラメータの選択が良くなかったからです。

 

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こういうとき、科学者はどうするか?

ケプラーの理論が真実を含んでいることは、ある程度支持されていたと思います。しかし、従来の常識に超線的で、計算も難しく、また観測にピッタリとあうわけでもない。そこで、ケプラーの理論の修正を目指す動きが自然と生まれました。修正の程度は様々だったのですが、比較的まいるどな路線を代表したのが、イスマイル・ブリオ (Ismaël Boulliau)です。

それに対して、あくまでケプラー理論を信じて、改良を目指したのが、エレミア・ホロックス(Jeremiah Horrocks)です。ニュートンが「巨人の肩に乗った小人」に自らを喩えた時、巨人として念頭にあったのはホロックスかもしれない*1、とThe biographical encyclopedia of astronomers (Springer) にはあります。

Horrocks, Jeremiah | SpringerLink

代替理論にむかったブリオ

ケプラー理論の不評な点の一つに、力学による三法則を「導出」がありました。彼の「導出」は客観的に見て論理が通っておらず、その上当時は天文学を自然学(物理学?)と結びつけることには、慎重な傾向がありました。また、ケプラーの第二法則は、『ルドルフ表』の助けがあったとしても、数学的に扱いやすいものではありませんでした。第三法則はそもそも、天文表の計算には無用でした。

ケプラー理論の根拠の強い部分は取り入れて、より簡単な計算方法を備え、自然学的な理論は取り除き、しかも観測には合う。そんな理論があれば、広く受け入れられて当然でしょう。それをやったのが、ブリオのAstronomia Philolaica(1645)です。彼はケプラーの力学的な「証明」を否定して、天文学幾何学と光学を基礎にすべきだとします。

ブリオはカルバン派の両親の下に生まれ、父の死後にカトリックに改宗、1632年にパリに移住します。ルドルフ表が1627、ガリレオ裁判が1633ですから、なかなか忙しい時代です。彼はメルセンヌのサークルにも繋がり、名だたる数学者天文学者たちと交流し、最新のデータにもアクセスできました。

メルセンヌは彼をこの国で最高の天文学者とし、リッチョーリは『新アルマゲスト』で近代の著名な天文学者のリストに加えています。理論家として有名ではありましたが、観測にも並々ならぬ関心を示して、「ダイヤモンドとルビーよりも高価な」レンズを揃えました。

彼のAstronomia Philolaicaでは、ケプラーの第一法則は認めます。その上で、第二法則に代わる速度の決定規則を提案しました。楕円は円錐を斜めに切ったものです。この円錐を水平な断面に沿った一様な運動を、軌道面に射影したものが惑星の運動だというのです。

彼の理論は、『ルドルフ表』よりもティコらのデータに合いましたし、計算もしやすかった。ケプラーのような謎な論理は振り回さない。楕円運動は円運動の射影として捉えられ、概念的にも計算手法の上でも、従来の天文学の枠内に留まるものです。高明な天文学者のこの理論が大きな支持を集めたのは、当然といえば当然でした。1660年頃は彼の絶頂期でした。相前後して、似たような幾何的な理論を試みが多く現れました。かのアイザック・ニュートンも、いくつか同様の試みをしています。

ニュートンは、ケプラー理論を様々な文献を介して知りますが、ブリオの著作は重要な情報源の一つでした。また、ブリオはケプラーの重力理論(距離に反比例するとした)を批判して、ケプラーの推論を推し進めるならばむしろ距離の二乗に反比例するはずだ、としました。ただし既に述べたように、ブリオは力学的な理論そのものに批判的でしたが。

ニュートンを肩に乗せた巨人

ケプラーの『ルドルフ表』の誤りと対峙したとき、理論の改訂に進んだブリオと全く逆の反応をしたのが、認められぬままに夭折した エレミア・ホロックス(Jeremiah Horrocks)でした。彼はケプラーの理論の全てを、評判のよろしくなかった物理的な理論も含めて受け入れ、繰り返し最上級の賛辞を贈ります。

ホロックスは1619年にイギリスのリバプール近郊の農夫の家に生まれ、給費生としてケンブリッジで学びます。しかし、そこでは彼の望んだ最先端の天文学や数学は教えられていませんでいた。学位を取得することなく退学し、地元に戻って家庭教師として生計を立て、自作の粗末な観測機器で研究を進めます。「ダイヤとルビーより高価な」レンズなどは望むべくもありませんでしたが、それでも一定の水準の観測機器を入手できたのは、当時の欧州の技術水準の向上が背景にあると思います。

また、著名な知識人との知己に恵まれたブリオとは正反対に、彼は大学時代の友人ウォリスを介して知り合った、ウィリアム・クラブトリー(Crabtree)との文通だけが頼りでした。彼らは遂に生前は一度も会うことはありませんでした。会合の約束の前日に、ホロックスが世を去ってしまうからです。1641年ですから、22歳ですか。あまりにも短い人生でした。しかし、その業績は巨大でした。少しあとに発足した王立協会は真っ先にホロックスの遺稿の出版を手掛け、「卓越した天文学(ニュートン)」「英国天文学の誇り(ハーシェル)」などと最大限の賛辞が贈られました。

まず彼は、太陽の視直径を一年に渡って毎日観測し、これが楕円軌道の仮定に合致することを確かめます。カメラ・オブスクラの原理を用いたこの視直径の計測方法は、ケプラーがアルハゼン光学の応用で開発したものです。ケプラー本人は太陽が一番近い時と遠い時の距離の比率を計測して、プトレマイオス=コペルニクスの理論(両者の理論は基本的に同じ)の欠点を指摘します。しかし多数の点で計測して、軌道の形状を確かめたのはホロックスです。

ホロックスはまた、ケプラーの『ルドルフ表』では予測できなかった、1639年12月の金星の太陽面通過を予測して、観測で確認します。彼の計算は、通過の場所までも見事に予測していました。残念ながら、同時に観測をしてもらえたのは盟友クラブトリーだけで、また発表は彼の死後になってしました。もしもこの予測が事前に広く知られていたら、全欧州から賛辞を浴びたことでしょう。

彼の遺作"Venus in sole visa" (太陽の中に見ゆる金星)では、当時の主要な天文表を比較し、『ルドルフ表』をもっとも高く評価します。しかし、欠点として地球の軌道要素の値の問題、具体的には離心率と半径の問題を挙げます。我々は天体の運動と地球の運動の合成を観測しますから、ここが疎かだと他の全てが狂ってしまいます。この問題点をホロックスは大いに改善します。

このほか、第三法則を丁寧に検証したのもホロックスです。当時の天文学は、天体の位置の予測が最大の責務でしたから、直接それに関係のない第三法則に意義を見出すのは、決して当たり前の感覚ではありませんでした。また、木星土星の精密な観測から、二つの天体が接近したときの速度の変化を見出します。もう少し時間が彼に与えられていたならば、両者の相互作用を発見したかもしれません。

ホロックスの理論的な業績としては、月の理論を上げることができます。心の師たるケプラーも、月ではあまり上手くいきませんでしたが、ホロックスの理論は円と楕円を一つづつ組み合わせるシンプルな構成で、しかもたった2分の誤差しかありませんでした。のちにニュートンも彼の新力学で月の理論に挑むのですが、近似を繰り返した挙句得た理論は、ホロックスの理論と同一でした。この理論は彼の死後100年の間、最も精確な理論であり続けました。

また一見地味な仕事ではありますが、ホロックスは計算方法の改良にもかなり意を用いています。これも、ケプラーの第二法則受容の障壁の一つが計算量だったことを思うと、見かけよりもよほど重要な仕事であることが分かると思います。

ホロックスの天文学や数学の知識の多くは独学で、機器は手製の粗末なものでした。中央から離れた場所で、ひっそりと積み上げた業績は、死後、ホイヘンスらに回覧され注目を浴び、天体の物理学的な理論の基礎となりました。

*1:It is believed that when Sir Isaac Newton stated he had stood on the shoulders of giants, he had Horrocks in mind.”