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「黍を1200粒数える話」、最後は明と清をざっと…
明については、十二平均律の発明で有名な朱 載堉(しゅ さいいく、1536年 - 1611年)の度量衡論を田中由紀氏の論文からの抜き書き、清については、丘氏の著作の該当部分の要約になります。この辺は、一次文献はほとんど見ていません。
朱載堉
朱載堉は、十二平均律の発明で有名な明の律暦家です。マックス・ウエーバーの十二平均律を欧州文明と強く結びつける説に対する反例として、あるいはステヴィンに先行する先覚者としても、取り上げられます。お国自慢的な、あるいは進歩史観的な匂いがしますけれども、あいも変わらず欧州中心主義的な言説が大手をふっている状況では、こういった話はきちんと述べておく必要があると思います。
朱載堉が活躍した時期は、マテオ・リッチの到着の直前であり、また彼の仕事は十二平均律だけではありません。彼は当時から名の知れた人物で、前後の歴史の流れを見ますと、暦学や度量衡論でも重要な位置を占めていることがわかります。
朱載堉の度量衡論①
以下しばらく、田中2014より。
まず、彼は古くは次の三つの尺のシステムがあったとしました。
- 縦黍尺(黄帝尺):分=黍の長径、寸=9分、尺=9寸=81分
- 斜黍尺(漢尺):分=黍の斜めの幅、寸=10分、尺=9寸=90分
- 横黍尺(夏尺):分=黍の短径、寸=10分、尺=10寸=100分
これらの尺は同じ長さで、黄鐘律管の長さだそうです。歴代の短径vs長径の論争を調停した形になっています。ただ、短径が長径の0.81倍であることを前提としているのですが、これは趙氏の計測データと比較すると、黒黍の平均的なケース(0.85倍程度)よりもぐっと細長く、「黄黍」と同じ程度です。また、従来の縦と横に加えて「斜黍」が登場しています。しかし、縦と横は極大と極小であるため、微小な傾きに鈍感になります。一方、斜めの場合はそういったメカニズムは働かず、角度のずれに比例して尺がずれてしまいます。そもそも、「斜」の角度の値も指定されていないようです。
次に、黄鐘律管の容積の1龠なのですが、まず、
- 1 釜=8 斗=8x10x10x2龠の容器は、
- 底面:一辺が10横黍寸=100横黍分の正方形の外接円
- 高さ=一尺=10横黍寸=100横黍分
という寸法だとします。すると、この体積は
- 一辺の長さが9の正方形の外接円の周長は40
という「理」から決めます。よって、
上の議論で、円を直径などで指定するのでなく、内接正方形の一辺で指定しているのが気になると思いますが、これは明らかに『周礼』冬官考工記の㮚氏の嘉量の制の影響と思われます*1。王莽の「新莽嘉量」も、わざわざ内側に一辺一寸の正方形を配置していますが、これは円に内接はしておらず、隙間をあけています*2。また、円周率を定めるにあたって円と正方形を(不思議な論理で)関係づけていますが、「『周髀算経』 と趙爽注の「円は方より生まれる 」 理念を投影したのである.」*3ということのようです。
当時の常用尺
当時の公的な常用尺には、造営尺、量地尺、裁衣尺がありました。朱載堉いわく、これらは上で定義された尺(夏禹尺)と比べると、
- 造営尺=1.25夏禹尺≒32cm、量地尺=1.28夏禹尺≒32.64cm、裁衣尺=4/3 夏禹尺≒34cm
だそうです。なおcmへの換算は、丘2001、pp.407-8から数値を拾いました。
朱載堉の累黍への態度
朱載堉は、比較的早い段階の『律学新説』では、
古は, 律によって黍を並べ, それによって尺を生んだが, 今は, 黍によって尺を並べ, それによって律を求める . そのため, ある人はそれを大いに笑って, 流れに逆らって源を探るようだと言う . ああ, 流れに逆らって源を探れば, 身近なところで方法をみつけることになり , むしろ, 流れを捨て, ただ自分の考えでその源を憶測するより良くはないだろうか. (田中、p.149)
と述べています。つまり、黍を並べて音律を定めるのは本筋ではないが、古えの音律をしるための手がかりとして尊重しよう、ということだと思います。そして、
たとえ凶作の年, 豊作の年があっても , 肥えた土地, 痩せた土地があっても , 種に長短大小, 円形か楕円かの違いはあっても , 人の手でふさわしい
ものを選べば良いのだ. (田中、p.149)
と、難点の克服についても楽観的な展望を述べます。ただし、彼の方法は虚心坦懐な黍の計測ではなく、ある程度の目論見をもって臨んでいたことも、次の部分から伺えます:
…大きい黍を選べば, もっともふさわしい「中」 の状態に近いが, 中号の黍を選べば小さすぎる .... 古今を問わずおおむね中号の黍を用いているが, それは誤りである . ... 劉歆・ 荀朂・ 王朴といった連中は, みなこの道理を知らないで『漢書』 律暦志の「中黍」 の文章に拘泥し, そのまま黍を並べてできた尺度は短くなってしまい, 造った音楽は高くて物悲しく , 中和の音ではない.(田中、p.150)
つまり、最初から低めのピッチ=長めの尺を狙っています。
後年の『律呂正論』では、バラつきに悩まされる様がみてとれます。『隋書』律暦志の「時有水旱之差, 地有肥瘠之異, 取黍大小, 未必得中. 」(中ほどの大きさの黍は意外と得ることが難しい)という言葉に「此語誠然」(まさにその通り)と同意します。
私はかつて, 羊頭山の最も大きい秬黍を 81 粒, 糊や膠で尺の上に貼り付け, 黍を縦に並べて尺を成したが, ちょうど 8 寸だった. またある年, 82, 3 粒並べたが, 8 寸に満たなかった. またある年, 78, 9 粒を並べたらもう 8 寸になってしまった. (田中、pp.147-8)
前々回に『隋書』の同じ個所を引用した時にも述べましたが、バラつきの裾の広いデータを扱っていると、平均値近辺のサンプルは、意外と割合が少ないものです。ですから、この文章は本当に彼が苦労した結果が書かれていると思われます。やってみたら意外にバラつきのコントロールは難しかった、黍の選別の客観的な基準を打ち立てることもできなかった、ということなのでしょう。さらに続けて、
…この三県(筆者(=田中氏)注: 羊頭山は長治県, 長子県, 高平県の三県に広がる ) が産出する黍は, みな羊頭山の黍と名づけられている . つまり , 山からの距離を問わず, ただ通常より大きい黍を選べば, なんでも良いのだ. 或いは, もし縦黍81 粒, 横黍 100 粒であっても , 営造尺の 8 寸に及ばないものは, 羊頭山産であっても , 誤って用いてはならない. (田中、pp.147-8)
とあります(なお、彼は『漢書』の「子穀秬黍中者」の「中」を中ほどのサイズという意味ではなく、「適切な大きさ」だと解釈しているようです。)。つまり、実質的には造営尺が基準になっています。北宋の李照や房庶・范鎮も、ニュアンスは異なるものの、最初から太府寺尺が目標のようになっていました、目当てになっていました。特に後者は、誰も手に取ったことのない「一稃二米(一つの籾に二粒)」の黍が必要だとするのですから。
また、田中 2014、p.153 によると、
これに対し後期の著作『嘉量算経』 では, 完成した律管の容積を確認する手段としても , 黍を使っていない. たとえば, 「律管の容積が正しいかどうかを確かめるのに, 古の人は黍を用い, それを改めて水にしたが, 今さらに水銀に改めたのは何故か」 という問いに対し, 朱載堉は「水は黍よりも密であり , 水銀は水よりも密だから」...
とのことで、累黍はすっかり形式的になっています。
容積と黍1200粒
累黍の問題点の一つに、「黍1200粒」と黄鐘律管のサイズの規定が整合しないという問題がありました。朱載堉の「982立方分」の規定の場合は、どうだったのでしょう。
朱載堉の尺の定義は、実質的に二つであって、長径81粒分と短径100粒分です。
趙氏の計測データをみると、黍の種類にあまり関係せず、短径100粒で尺を定義した場合、810立方分にはほぼ1000粒前後入ります。よって、朱載堉の982立方分の黄鐘律管には1200粒ちょっとの数が入ります。
しかし、上で見た引用では、朱載堉は主に長径81粒の規定で計測しているようです。つまり、むしろ「長径81粒が一尺」で考えるべきでしょう。すでにのべたように、短径が長径の0.81倍程度になるのは、趙氏のデータでは黄黍です。それをもとにして、「長径81粒が一尺」での982立方分に何粒入るか?を計算すると、1100-1250粒程度です。これは、悪くない数値ではないかと思います。
清・康煕年間の累黍
中国最後の最後の累黍は清の康煕年間に行われました。丘2001のpp.421-2に、簡単なまとめがあります。以下は、ほぼその記述の要約です。
『御製律呂正義』上篇巻一、黃鐘律分有圖では、歴代の尺を『隋書』律暦志と宋の史書に基づいて振り返り、
然尺者所以度律,而黍者所以定尺,古今尺度雖各不同,而律之長短合不可更,黍少大小又未嘗變,
「律は尺で決まり、尺は黍で定まる、古今の尺は変わってはいるが、律管の長さは変えられない、黍の大きさは未だかつて変化したことはない…」
なんと格調高い、そして白々しい原則の表明であることか。隋、宋、そして明における累黍の欠陥との格闘など、まるで無かったかのようです。とにかく、康熙帝自ら累黍をしたことになっており、度量権衡の条によると
- 黍を縦に100粒並べると十寸=今尺(造営尺)≒32cm
- 黍を横にに100粒並べると8.1寸=清律尺≒25.92cm
- 黄鐘律管の長さ=清律尺における9寸、つまり今尺(造営尺)の0.81x0.9倍≒23.328cm
である、と。これにおいて、朱載堉の影響は明らかでしょう。ただし、黄鐘律管の長さは、一尺ではなく9寸になっています。これは、王莽尺よりも明らかに長いです。
後に、乾隆帝の時代に新莽嘉量が宮廷の倉庫発見され、内々に研究が進みます。例えば、『御製律呂正義後編』でも、当時の律尺と古来のそれとの差が記されています。しかし、あまりその存在は広くは知られなかったようで、度量衡制度にも全く影響しませんでした。その後、新莽嘉量は再び行方不明になり、清朝が滅びた時に再発見されます。煤と油に塗れて台所に放置されていたそうです。
乾隆帝の時代、それまで天体観測には唐の小尺が王朝を超えて維持されていたのを廃止し、造営尺に統一しました。
参考文献
- 田中有紀、朱載堉の楽律論における『周礼』考工記・嘉量の制―後期の数学書及び楽律書を中心に、経済学季報 63 (4), 119-155, 2014-03-31、立正大学経済学会http://purl.org/coar/resource_type/c_6501
- 丘光明、中国科学技术史 24 度量衡卷、科学出版社、2001
- 丘光明著、加島淳一郎訳、中国古代度量衡、計量史研究 22[23]2000
- 丘光明、コンラッド ヘルマン著、松本栄寿訳、中国古代度量衡における黄鐘律管と累黍、計量史研究 28−1 [31] 2006
- 児島憲明『蔡元定律呂證辨詳解(一)』人文科学研究 第 130 輯、新潟大学リポジトリより取得
- 小島毅『宋代の楽律論』東洋文化研究所紀要 Vol. 109 p.273-305 (1989) https://doi.org/10.15083/00027188
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- 赵晓军、山西羊头山黍样实测度量衡标准考、文物世界 wwsj 2010.1