中国の色彩論 紫は「青と赤」か、それとも「黒と赤」か

古代ギリシャでは黒と白の混合に基づく色彩論が優勢だった。アリストテレスデモクリトスも、詳細は違えど、黒白の二元論という点では共通だったらしい。これをニュートンは、黒白の混色では灰色しかできないと批判したそうだ。

ところが、偽アリストテレス『色彩論』では、そもそも画家がするような混色に基づいた議論はよろしくない、としている。その代わりに、光の差し方の違いで生ずる色の変化を豊富に紹介している。この色彩論は、黒と白の混合というよりも「闇と光の化学変化」とでも称した方が良さそうだ。

ps‑Aristotle • de Coloribus

一方で、中国に黒白青赤黄を五色とする説があることは聞き齧っていた。この色の取り合わせは減法混色の三原色(青赤黄)を含んでいるので、染料の混色に基づく理論かとぼんやりと想像はしていたものの、具体的な内容は何も知らなかった。

『説文』の混色による色の合成

思い立ってグーグル検索をしてみると、紀元100年ごろに成立した字典『説文解字』にこの素朴な推測を裏付ける記載があることがすぐにわかった。

  • 紫:帛青赤色
  • 緑:帛青黄色也
  • 紅:帛赤白色

つまり、紫は青と赤、緑は青と黄色、紅は赤と白を混ぜて絹を染めた色だという。五行説の五色の背景には、染色の際の混色があったようだ。

なお、『説文』の「糸」部には、他にも染色に絡めた字義の説明が多い。例えば、以下の例はいずれも混色だろう。

縹:帛青白色也。从糸㶾聲。
緹:帛丹黃色。从糸是聲。
縓:帛赤黃色。一染謂之縓,再染謂之䞓,三染謂之纁。从糸原聲。
紺:帛深青揚赤色。从糸甘聲。

また、これも青と赤の混色である。

緅:帛青赤色也。从糸取聲。

これは、『論語』鄉黨 の「君子不以紺緅飾。」でお馴染みで、深い紫である(「青紅色,黑中帶紅的顏色」(五南国語活用辞典))。

紫は「黒と赤」だった?

これで一件落着と思ったのだが、「紫」の項目の段玉裁(1735-1815)による注が目に入った。これによると、紫は青赤ではなくて黒赤のはずで、青とあるのは誤りだという。

紫的解释|紫的意思|汉典“紫”字的基本解释

根拠として、穎容(2世紀後半〜)の『春秋釋例』の一節が引かれ、皇侃(488-545)による『論語』の疏、また『礼記正義』玉藻(唐、孔穎達等)も同様だそうだ。このうち、『礼記正義』を以下のリンクで参照できた。

禮記正義/29 - 维基文库,自由的图书馆

見ると、皇侃による『論語』の疏が長々と引かれている。これと段玉裁の注に引用の穎容『春秋釋例』の議論は確かに首尾一貫していて、以下のような色彩論が展開されていた。

礼記正義』の色彩論

先ず、各々の方角(東南西北と中央)には五行(木火金水土)と正色(青赤白黒黄)が対応している。正色の合成で間色とよばれる緑、紅、碧、紫と「緌黃」という色が生ずる。緑と紅の生成に関しては『説文解字』と同じである。ただし紫は黒と赤とする。また、新たに碧は青と白、「緌黃」は黄色と黒とする。

この合成の組み合わせは、以下のように決まる。先ず、間色も各々方角に対応している。例えば紫は北に対応している。そして、五行の間には「刻(克)」という関係がある。例えば、黒に対応している水は、赤に対応する火に対して「水刻火」という関係にある。よって、紫は黒と赤の合成になるのである。

上記の関係を表にまとめると、以下のようになる。

方角 五行 正色 間色 刻(克)

東  木  青  緑  土 

南  火  赤  紅  金

西  金  白  碧  木

北  水  黒  紫  火 

中央 土  黄  緌黃 水

この「刻(克)」という二項関係は、相克説といい、火→水→土→木→金の順序でそれぞれ後ろのものが前のものに打ち克つとする説である。水と結びつく黒が、火と結びつく赤と合わさって紫を生ずる仮定は、単なる混色とは異なるように思える。どのようなイメージだったのだろうか。

まとめのようなもの

では結局のところ、紫は「青と赤」なのか、それとも「黒と赤」なのか。

 

上記の緑、紅、碧の説明は、どれも染料の混色だと素直に解釈できる。するとやはり、素直に「青と赤」が先ず最初にあり、五行説の体系化に伴って「黒と赤」になったとするのが自然だと思う。段玉裁も、「『説文解字』も元々は「黒と赤」だったのが、後世の転写の際に、秦の時代の俗説が紛れ込んだのだ」と説明しており、古くに「青と赤」の説があったこと自体は否定していない。

また、『説文』の「帛...」は、他の用例を見ると、やはり帛の染色になぞらえた説明で、色を二つ並べたら、二つの染料を混ぜることを意味する。他の解釈はまず、あり得ない。「黒と赤」を混ぜたら、紫にはなるまい。上で挙げた「緅」なら得られるかもしれなが。よって、『説文』の原文が「黒と赤」はあり得ないと思う。

確かに、『説文』と穎容『春秋釋例』は時代が近接している。しかし、この頃の五行説はまだ整理が進まず、論者によってばらつきがある。時代が近いから同じ説だっただろう、とは言えないと思う。

上記の『礼記正義』の説で気になるのは、相克説が二つの正色を組みにする機能しか果たしていないことだ。相克説では本来、要素の間に順序がついている。よって同じ白(金)であっても、青(木)と組むのと赤(火)と組むのとでは、役割が違って然るべきだと思う。ところがどちらの場合も、白は色を明るくする役割を果たし、青と組んで碧を、赤と組んで紅を生じている。これは、相克説の採用が後付けであることの結果だと思う。

いずれにせよ、五行説との関わりを深めることで、中国の色彩論は単なる色の現象論であることをやめて、森羅万象と結びついてしまった。黒は「水」であり北であり、音階としては「羽」である。色だけの説明に特化し場合と比べて、余計な制約を受けているようにも見える。唐代以後、どのような発展を見せたのだろうか?

なお、「緌黃」がどういう色なのかついに分からず仕舞いだ。「黄色と黒」の間だから燻んだ黄色かとは思うが、「黒と赤」が紫になることを思うと、この推論は安直すぎるかもしれない。