ケプラー『ルドルフ表』〜数値計算と理論の革新

ケプラー『ルドルフ表』は、引用したツイートで語られているように、非常に重要な著作である。これを執筆していた時のケプラーはさぞや充実していただろうーーーと思いきや、実は山のような単純計算に飽き飽きしていて、「もっと哲学らしい仕事がしたい」とぼやいていたという。今でも、口先では「泥臭い計算も重要」といいながら、その実アイデアのエレガントさに理論家は惹かれる。ケプラーも同じ気持ちだったのだろうか?

天文表とは何か?

『ルドルフ表』は、ケプラーの楕円軌道の理論に基づく天文表である。

「天文表」とは、中世を通じて編まれ続けた天文学書の形式で、一言で言えば天文計算のためのマニュアルだ。数表はもちろん含まれるのだが、それも計算の補助や基本データとして用いるために付けられている。そこで近年は「天文便覧」という訳語が普及しつつある。なお、天文表と時折混同されるものに、「天体暦 ephemeries」というものもある。こちらは天文表を用いた計算結果、つまり「何月何日には火星はどこに見えるか」といったことを表にしたものだ。『理科年表』の暦部のようなものである。

中世ヨーロッパの天文表は、アラビア天文学の『トレド表』に起源を持つ。そしてアラビア天文学の天文表(ズィージュ)の起源は、ササン朝ペルシアの『シャア表』で、これはインド天文学をベースにしている。

つまり西方の天文学は、幾何的で証明を重んじるギリシャ流と、算術的でアルゴリズム中心のインド流とのハイブリッドなのである。どちらが欠けても、近代天文学の成立は成らなかっただろう。天文表は、方向性としては後者に属する。

天文学の誕生 - 岩波書店

なぜ『ルドルフ表』を出したのか

中世を通して、天文表や天体暦は編纂・改訂は、職業的な天文学者の通常の仕事だった。しかし、部分的な改訂はさておき、新規の天文表の作成は大仕事であって、誰もが手をだしたわけではない。なぜ、ケプラーはこの退屈極まりない難事業に挑んだのだろう。

それは彼の天文学が、従来の常識とあまりにかけ離れていたことと関係している。天文学上の革命といえば、コペルニクスが真っ先に頭に浮かぶかもしれない。しかし科学史家ノイゲバウアーは、近代天文学の始まりをティコ・ブラーエとケプラーに置く。コペルニクス『天球の回転』を「全ての章、定理、表がプトレマイオスアルマゲスト』とパラレルだ」と評する一方、ケプラー『新天文学』を「この書物の題名ほど、中身を如実に表現する言葉はない」とした。

Astronomy and History Selected Essays | SpringerLink

このような斬新さに加えて、彼の著書はわかりやすいとは言えず、計算の間違いも多かった。また神秘主義的な傾向が強かったことも、よく知られる通りである。幸いなことに、ケプラーはすでに帝国お抱えの天文学者で、神秘主義も当時は必ずしも否定的には捉えられていなかった。故に彼の理論は無視されることはなく、検討の俎上には載せて貰えたのである。

その結果、理論の一部は受け入れられた。しかし、残りの部分については「観測と詳しく付き合わせて判断したい」という(極めて常識的な)意見が支配的だった。ところが困ったことに、「与えられた時刻の天体の位置を、ケプラーの理論に基づいて計算せよ」という問題は、ちょっとした難問である。現在では以下のリンクのような級数展開があるが、私はこれを自力で導ける自信はない。17世紀の人々が苦労したのは当然だと思う。そこで、計算を補助するマニュアル、すなわち天文表の発表が強く要望されたのである。

Equation of the center - Wikipedia

初期の成功

当時の数学の未発達を補うために、『ルドルフ表』は数値計算を多用した。このあたりの苦労は例えば下記の論文に詳しい。その苦労を見かねた友人のヴィルヘルム・シッカート(Wilhelm Schickard) は、機械式計算機を開発したという。(結局は使われなかった。)

https://www.researchgate.net/publication/231959246_Early_Numerical_Analysis_in_Kepler%27s_New_Astronomy

例えば、与えられた時刻の惑星の位置は直接計算できなかったため、その逆問題を解いて表にした。つまり、割り算を掛け算の表からの逆引きで計算するのと同じ発想だ。冒頭に引用したツイートの写真がその表である。

ケプラーは、泣きごとを言いながらも何とか『ルドルフ表』を完成させた。苦労の甲斐あって、天文表の威力は絶大だった。特にガッサンディによる水星の太陽面通過の観測は、本表の正確さを強く印象づけた。内惑星の太陽面通過は、それらの天体が太陽を周回しているか否かの判断材料になるので、中世においても一度ならず議論があった。だが誤った「観測」(おそらくは誤認)もあって、議論は混乱していたのである。ケプラーの理論の認知度は一気に上昇し、以前の反対者の一部は絶賛に回った。

ガリレオとの対比

偉大なる同時代人、ガリレオも科学革命を天文学の方面から押し進めた人物だった。だが、両者の仕事の方向性はびっくりするほど違う。端的に言って、ガリレオの仕事は(当時の伝統的な)天文学者らしくないのである。

彼は望遠鏡で月の表面の凹凸や金星の満ち欠けの様子を観測した。こういったもっぱら定性的なデーターで、ガリレオアリストテレスの自然学に反駁した。一方、ケプラー天体の運行の規則を探り、数値予測でプトレマイオスを乗り越えた。

ケプラーの『世界の調和』や『新天文学』は、様式も内容も従来の天文学書から大きく外れていたが、『ルドルフ表』に於いては、伝統的な天文学と同じ土俵で真っ向から勝負したのである。

限界の露呈と混迷

だがそれでもケプラーの理論はすんなりとは受け入れられなかった。精査が進むと、『ルドルフ表』にも粗が見え始めたからだ。例えば月の理論は不要に複雑で、あまり成功とはいえなかった*1。また火星と水星以外の惑星については、パラメータの値が良くなかった。

それに加えて、数表頼みでしか計算が進まないのは、何かと不便であった。この計算の困難は、上記の誤差の問題の原因でもあった。そもそも、既知のパラメータの軌道を計算のも一苦労なのだから、データからパラメータの値を決めるのは、更に大変だった。

ケプラー理論の受容後も、計算の問題は人々を悩まし続けることになる。1670年ごろ、エドモンド・ハレーはパラメータの新たな決定方法を考案するが、実用的ではなかった。1680年に実際的な観測家フラムスチードがとった対策は、有能な計算助手たちの採用だった。

つまり、ケプラーの新規で常識はずれの理論は、運用面で不便だった上に、観測との整合性にも問題を残していた。全面的な受容にブレーキがかかるのは当然の話である。

楕円軌道は意外と受け入れられた

だが既に述べたように、ケプラー理論の全てに拒否反応があったわけではない。

彼に先立つコペルニクスの理論では、惑星は太陽からやや離れた点を中心に、しかも上下に複雑に振動しながら周回していた。これはプトレマイオス理論の名残りである。一方、ケプラーの理論では、惑星は太陽の周りを一定の軌道面に沿って周回しており、非常に見通しがよかった。中世を通して天文学者は惑星の上下振動の計算に手を焼いていたので、この新基軸は地球中心説の論者にも歓迎された。

しばしば、ケプラーの革新を「円から楕円へ」などと言ったりする。伝統的な円運動を捨てて、楕円軌道を採用したことは大きな革新だったし、これを中々受け入れられない者もいた。しかし、楕円は円錐を斜めに切った断面である。よって円運動の変形として受け止めることも可能で、決して拒否一色ではなかったのである。

また、楕円軌道を受け入れないものも、決して円の数を増やして対抗しようとはしなかった。既存の円運動の理論に満足しなければ、素直に楕円または楕円に近い曲線に宗旨変えした。

第二法則の問題

それよりも問題だったのは、第二法則、すなわち面積速度一定の規則である。こちらは、ケプラーに好意的な立場の人たちでも、受け入れに躊躇した。なぜなら、従来の等速回転を基本とする考えと真っ向から対立する考え方だったからだ。

実はプトレマイオスも回転速度の変化を導入してはいるのだが、等速回転の幾何的な変形で生成している(エカント点の導入) 。一方、第二法則はそういった手法では表現できなかった。しかも、すでに述べたケプラー理論の数学的な難しさは、主に面積速度一定の規則に由来していた。

自然学と天文学

また、ケプラーの自然学と天文学を融合しようとする姿勢は、少なからず反発を呼んだ。理由の一つは、彼の力学的な説明があまり成功していなかったことにある。それに、過去にこの手の自然学を強調するアプローチが挫折していたことも大きかった。そもそも、コペルニクスが自然学的な理由で唾棄したプトレマイオスのエカントの有効性を示したのは、楕円軌道以前のケプラーだった。(『新天文学』においても、火星以外はエカントである。)

代替理論との競争

このような状況下提案されたのが、イスマイル・ブリオによる代替案である。彼は円錐を水平に切った円上の等速回転を考える。これの斜めな平面への射影として惑星の運動を記述したのである。ブリオの理論は、楕円軌道でありながらも伝統的な天文学の手法で容易に扱えた。また観測との誤差は概ね1分未満で、『ルドルフ表』を凌駕する部分もあったのである。1660年ごろは彼の絶頂期であった。ブリオに類似の理論は多数も現れ、アイザック・ニュートンも同種の理論を試みている。

ただし、ブリオの理論がケプラーの全否定でないことは明らかである。むしろ彼も『ルドルフ表』に深い感銘をうけていたし、彼の著作はニュートンケプラー理論を知る際の情報源の一つでもあった。

遡って1630年代後半、イングランドの片田舎でひっそりとケプラー理論の洗練に取り組んだ人物がいた。のちにイギリス天文学の誇りとも称賛された、エレミア・ホロックスである。彼の改善は、金星の太陽面通過の精確な予測と観測という快挙を、人知れず上げていた。また、距離の測定に基づく地球の楕円軌道の立証、月の理論の改良、計算方法の改善など膨大な業績を残して、1641年に余りにも短い生涯を終えていた。

彼の遺稿が知れ渡り、それに基づく丁寧な解析がなされるころには、状況はケプラー理論に有利になっていった。

最終的な顛末

ケプラーの理論が受容されるにあたっては、運も含めて、さまざまな要因が働いている。例えばニコラス・メルカトルの幾何的な理論は、パラメータをうまくとっていさえすれば、当時のケプラー理論を上回れていたはずだという*2

そして、確固たる事実として彼の法則が受容されたのは、ニュートンの力学による裏付けを得てからのことである。例えば、ホイヘンスなどもニュートンの『プリンキピア』を見てケプラーの全面的な受容に踏み切る。このころまでに、天文学者は徐々に天体の物理を語ることを躊躇しなくなってきていた。

ニュートン以前は、ケプラーを受容しても単なる経験則と捉えるものもも多かった。例えばカッシーニは楕円に近い別の曲線を提案していた。物理に踏み込まずに天体の位置を扱う伝統的な天文学では、この辺りが限界かもしれない。

しかし、それでもケプラー理論の勝利に於いては、「経験則としての限定的な受容」が絶対的な必要条件だったのは明らかだ。ブリオ以下、数多の代替理論に伝統的な土俵で決して負けなかったことが、意味のなかったはずはない。

また、『新天文学』の不可思議な自然学を忘れたとしても、彼の数理的な理論そのものに、物理的なメッセージがたくさん詰まっている。例えば、全ての惑星の軌道面は太陽を通り、運行速度は太陽との位置関係だけで決まる。これらはコペルニクスにはない特徴で*3、太陽の惑星のダイナミクスへの直接的な影響を、強く示唆していた。

ケプラーは、ニュートンのように新たな力学理論を生み出すことは出来なかったし、ガリレオのようにレトリックで読者を魅了することも出来なかった。彼の自然学は不細工で、『新天文学』は何度読んでも分かりづらい。結局、彼の理論を支えたのは、「哲学者らしからぬ」単純計算を積み上げた『ルドルフ表』と、その後継者らによる地道な改良だった。

1996HisSc..34..451A Page 451

https://www.jstor.org/stable/41133878

 

 

 

 

*1:月は地球と太陽の両方の重力の影響がどちらも無視できないので、非常に複雑な運動をする。

*2:彼自身はケプラー理論の支持者で、幾何的な理論はあくまで近似つもりだった。

*3:コペルニクスにあっては、惑星の公転速度は地球の位置も影響していた。これは、プトレマイオス理論を書き直す際、本来は地球の運動に属するフーリエ成分の一部が惑星の軌道の方に紛れ込んだからだ。