科学史の解説で、「地動説は天動説よりもシンプルに惑星の逆行などを説明する」といった説明は多い。確かに惑星の見かけの運動は、惑星固有の運動と、観測者の居る地球の運動に分けて理解するほうが理解しやすい。惑星ごとに異なる逆行の振幅も、地球との相対的な位置と速度の差で説明できる。また、外惑星と定性的に異なった動きをする内惑星の運行も、統一的に理解できる。
ではなぜ、太陽中心説は古代や中世において主流にならなかったのか。自然学などの都合上、地球に動いてもらっては困るという理由はあっただろう。しかしそれだけならば、ティコ・ブラーエの提唱した、太陽が他の惑星を引き連れて地球を周回するシステムもある。この説は太陽中心説のメリットを大幅に取り込んでおり、ティコの死後も半世紀以上にわたって生き残る。
また、内惑星(水星、金星)だけを太陽の周りを周回させる理論は、古代の後期には現れており、中世前期のラテン語世界では非常に優勢で、その後も決して忘れさられることはなかった。内惑星はあまり太陽から大きく離れることはないので、それらが太陽を周回するという説は、意外とハードルが低いのかもしれない。
広義のもを含む各種の太陽中心説は、なぜ古代や中世の数理天文学で主流にならなかったのか。これらに比して、プトレマイオスの理論の長所はどこにあるのか。
プトレマイオス天文学は、ギリシャ語圏からアラビア語圏に、そしてラテン語圏へと宗教や言語を超え、既存の宇宙論や天文学を押し退けて定着した。(なお、古代に於いては『アルマゲスト』はローマ帝国西方部分には広まらず、ラテン語訳もない。) 優れた理論でなければ、こんなことは到底有り得ない。
天文学の理論には様々な側面があるが、ここでは「天体の動きを予測し、説明する数理モデル」という側面に焦点を絞って考えたい。
数学と計算の問題
この問題を考えるとき、古代や中世のある時期までの、数学の未熟さに思いを致しておく必要がある。まず、三角法や球面三角法はプトレマイオス自身がその萌芽の形成に努めていたくらいで、非常に未熟であった。現代の高校の教科書に載っている公式のほとんどは未発見であり、それどころか正弦も余弦も正接も無いのである。球面三角法は、使いづらいメネラオスの定理しかなく、黄道座標から赤道座標への変換も荒い近似によっていた。数理科学のインフラというべき算術も、えらく不便な代物であった。これらが解消されるのは、インドから正弦を基礎にした三角法や算術を導入し、球面三角法の革新が進んだのちのことである。よって「計算コストが安い」という意味でシンプルなモデルが求められた。
太陽中心説の理論的な明快さは、この意味では全く役に立たない。結局計算のためには、どこかで地球中心に書き換えねばならないからである。それどころか、以下に述べるように、太陽中心説はむしろ計算コストの点では不利なのである。
ところで、特に古い解説では、「円をいくつも重ねて」などと天動説の複雑さが誇張気味に語られた。だが、計算のコストを考えればそのような理論が用いられたはずもない。円の個数は、水星と月をのぞくと一つか二つである。中世でも同様で、この数はコペルニクスに至るまで、増えることはない。
「エカント」
今、仮に太陽中心のモデルを考え、ただしプトレマイオス流に円運動を基本に軌道を表現したとしよう:ここで楕円軌道を用いないのは、古代の数学で数量的に扱える代物ではないからだ。ケプラーの時代ですら、計算の困難さが難点とされて、受容の足枷になったぐらいだ。
円軌道ベースで進めるのであれば、ケプラーも一時やっていた様に、楕円軌道をエカントを伴った離心円で表現するのが簡単で、精度も良い。(見かけの方角も距離も、離心率の一次のオーダーまで楕円軌道と一致し、二次のオーダーの項も極端に違ってはいない。)
離心円とエカントについては、国立天文台のホームページ
これの「離心円の役割」の解説がわかりやすいと思う。以下の話では「円運動の速度を少し変化させる仕組み」といった程度の理解で十分である。
この理論を地球中心に書き直すと、惑星の見かけの運動は二つの「エカント付き離心円」の重ね合わせになる。これはすでに楕円軌道よりは簡単であるが、プトレマイオスの理論はさらに簡単で、「エカント付き離心円」は一つしか使わない。もう一つはただの等速円運動である。
この単純化による精度の劣化を小さくするには、二つの軌道のうち、より円に近く(=離心率が小さい)、また軌道半径が小さい方を単純な円運動にするのが良い。
例えば、外惑星の場合は、軌道の歪みも半径も地球よりも大きいので、地球の公転を単純な円運動で近似するのが良い。「エカント付き離心円」は、より円運動からの外れが大きな外惑星の公転軌道を主に担当させる。さらに、地球の軌道の歪みも一部こちらに組み込む。(フーリエ展開の言葉で言えば、定数の部分がこちらに繰り込まれる。)
ただし、金星の場合、軌道の歪みも半径も地球よりも小さいので、上記の役割は逆になる。
そして太陽の場合は、地球の軌道だけが関係する。それを「エカント付き離心円」で表現しても良いのだが、見かけの方角だけを気にするので、エカントのない単なる離心円で済ませられている。これも上記の国立天文台の解説がわかりやすいが、「エカント付き離心円」よりもずっと数学的な扱いが楽だということだけ押さえていただければ、以下の話では事足りる。
「エカント付き離心円」を単なる離心円にしてしまうと、距離の計算は精度がひどく落ちてしまうのだが、方角の精度はあまり変わらない。
天体ごとに最適化されたモデル
プトレマイオスの理論を振り返って見ると、地球の公転軌道に相当する成分の扱いが、天体ごとに異なっていることがわかる。
まず、地球ー太陽間の距離と方角の両方の精度を求められる金星の理論においては、「エカント付き離心円」という凝った仕組みを用いた。ついで、距離については精度を要さない太陽の理論では単なる離心円であった。外惑星の理論においては、すでに述べた理由で惑星の公転運動の寄与を詳しく扱う方が合理的で、地球の公転運動の寄与は簡略な扱いで済ませた。
基本的に、プトレマイオス理論は個々の天体をバラバラに独立して扱う。理論の統一性という点では問題があるが、個々の特性に応じてモデルを最適化できる強みもある。それに対して、太陽中心説では、惑星と太陽の見かけの運動は背後で有機的に繋がっており、切り離すことが出来ない。
ここで、「科学としての天文学を語るならば、惑星運動の統一的な説明を目指すべきではないか」という疑問は当然あるだろう。だが如何に美しい理論であろうとも、観測を説明する道具として使えなければ、科学としては片手落ちである。
また、プトレマイオスも理論の統一性の問題は気にしており、金星および外惑星の黄経の理論は、モデルのパラメータが違うだけで同じ形式の理論になっている。つまり、道具としての簡単さと理論的な統一性を、ある程度両立させているのである。このように上手く事が運んだのは、偶然にも軌道の歪みが金星ー地球ー外惑星の順に大きくなっていたからなのだが。
もしも太陽中心説を用いていたら
ティコ的な理論や、内惑星のみといった広義のものも含めても、太陽中心説を元にした数理モデルが、古代や中世において試された証拠はない。上述したラテン語圏の説はあくまで定性的で、定量的な理論は残されていない。だが仮に定量的な理論の試みがあったとしても、以下に述べる理由で、プトレマイオス理論よりもむしろ悪くなっていただろう。
先にも述べたように、プトレマイオスの太陽のモデルは単なる離心円だった。よって、太陽中心説の理論を作るなら、地球の軌道はこれを反転させて、単なる離心円になっただろう。コペルニクスも同じことをやっている。これを「エカント付き離心円」に改めるには、天才ケプラーの登場を待たなければならなかった。この革新には光学の理論も関係するので、少なくとも10世紀以前には不可能だった。古代や中世の初めには間に合わない。
単なる離心円でも、地球ー太陽の方角はほぼ正しく出せる。だが、距離については誤差が著しい。これが狂うと、惑星の見かけの方向の精度にも影響する。惑星は太陽の周りを回っているからだ。
特に金星の場合、この影響は著しい。金星の軌道離心率も公転半径も地球よりも小さいので、金星の公転軌道を正確に理論化できていても、地球の軌道を疎かに扱った埋め合わせにはならない。
プトレマイオスの金星の理論では、地球の公転運動の寄与が「エカント付き離心円」を用いて詳しく扱われていたから、上記のような太陽中心説では太刀打ちできなかっただろう。
コペルニクス
後世、コペルニクスはプトレマイオスの理論を太陽中心に変形し、しかもほとんど変わらぬ計算結果を引き出す理論を作ってみせる。上に述べたように、これは決して簡単なことではない。
コペルニクスはまず、プトレマイオスが1つの円で済ませている要素を、複数の円にバラす。その上で、ある円は地球の運動に、ある円は惑星の運動にと再配分するのである。ただし副作用として、理論に現れる円の数はぐっと増えてしまった。また、再配分のときに、金星の公転軌道に地球の公転運動の寄与を組み込んでしまった。なぜこうなったかというと、元々のプトレマイオスの理論で、天体ごとに地球の公転の寄与の取り扱いが違ったからだ。バラして共通部分をとりだすと、金星の場合は余りがでてしまい、それが金星の公転に組み込まれた。その結果、金星は一惑星に過ぎない筈の地球のご機嫌を伺いながら運動することになる。あまり筋は通っているとはえない。
このような欠点こそあれ、彼の理論は「エカント」を使わないという利点もあった。等速円運動を第一と考える立場からは、プトレマイオスのエカントは妥協に過ぎなかったからだ。例えば、『プロイセン表』を編んだエラスムス・ラインホルトは、太陽中心説には全く共感しなかったが、等速円運動原理主義の立場からコペルニクス理論を支持し、天文表まで作成したのである。
では、彼はどのような経緯でこの分解に至ったのか。それはまた別の機会にしたいが、成功の前提として、中世における数理的な理論の発展があったことは強調しておきたい。古代の貧弱な数理では、到底同じことは不可能だっただろう。例えば、上で「円運動の入れ替え」とさらりと言ってしまったが、これもアル・クシュチーやレギオモンタヌスの貢献で可能になったのである。古代や中世前期に、同様の理論を期待するのがそもそも無理なのだ。
太陽中心説vs 地球中心説?
近代科学革命において、太陽中心説が果たした役割の大きさは、今更いうまでもない。地球中心説のままニュートンの力学が誕生するシナリオは、ちょっと想像がつかないからだ。
だが、遡って古代や中世の天文学史を追っていると、この「太陽中心vs地球中心」という論点はさほど気にならなくなってくる。なぜなら、ほかにいくらでも論じるべき事があるからだ。近代で重要になった論点を不用意に遡って当てはめると、歴史的な変遷は歪んで見えてしまう。