数の歴史 ~ 分数のはなし

数の歴史の話は面白い。

近代科学は数量関係の把握は命なので、今の数のシステムの成立は大事すぎるほど大事な話で、これはいろんな意味でインドやメソポタミアに遡ることになる。

位取り記数法やゼロ、負の数の威力はいうまでもないのだが、1よりも細かい数、分数や少数もまた、精密な数量関係の把握に不可欠である。また、数学の話としても、これらがまず整備されないことには、無理数の概念など生まれようがないと思う。

ところが、古代ギリシャにおいては、分数も小数も、非常に未熟な状況だったのである。

古代ギリシャ

古代ギリシャでは、数と言えば自然数のことであった。ユークリッド『原論』でも自然数しか扱わない。その後も有理数は系統的な表記方法すら確立されない。

ピタゴラス派が√2が無理数である事を証明した」といった豆知識をどこかで読まれた方も多いとおもう。私も学生時代、そう言った話を聞き齧ってえらく感心した。ところが、どうやらこの豆知識は相当のウソが混じっているようだ。そもそも無理数以前に、分数があやふやだったのである。

プトレマイオス天文学はどうなのかというと、紀元前2世紀ころに流入したメソポタミアから輸入した60進の少数を用いた。1より大きな数は10進法という変則。(この変則的な混合は、天文学に限れば近年まで続いた。)そして、用途は天文学にほぼ限定される。

それ以外の非公式の用途では、エジプトの流れを汲む分数が一般的な用途や、非公式的な計算で用いられた。

エジプトの分数は、逆数をベースにする。例えば、今の1/5に相当するものを5の上に印をつけて、(5)'のように表記した。逆数の他に、2/3だけは例外的に独立した記号があった。2を5で割った結果は(5)'が二つ分とは表記せず、(3)'と(15)' を並べて書くなど、異なった逆数たちを組み合わせてあらわした。この変換のための表がわざわざ準備されている。これは今の形の分数とはかなり違った概念である。

なお、メソポタミアにも(今と同じような)分数はない。シュメールの時代から、やはり逆数や2/3のほか、いくつかの特殊な分数を著わす言葉があった。この辺はエジプトににている。違うのは、彼らは60進小数を発展させ、逆数や特殊な「分数」をそれに変換する表を作成し、計算に用いた。

ツイッターでも、いくつか面白いツイートがあった:

これらのツイートでは、恐らくスペースの都合で1/5などの記法を用いている。この記法の問題は、「2/5や3/5。。。もあるが、分子が1の分数が何故か好まれた」という含意を持ちかねないことだ。記法がないということは、それらに相当する概念は遅れて発展してきたと思ってよいと思う。

ギリシャにおいても、状況はさほどかわらない。ただ、少しだけ改善されて2/5などに相当する略記法が作られた。ただし、この記法は著者によってもばらつきがある。それでも表記があるなら、非公式には分数はあったと思っていいのではないか?確かに「ない」といったら言い過ぎである。実際、ヘレニズム期になると単位分数の相当するものを「部分」、分数に相当するものをその複数形で指したりしている。

それでも演算の機械的な処方もまったく整備されず、分数とはどんなものなのか、基本的な考えが表明されることはなかった。例えば、プトレマイオスは『アルマゲスト』において、「1より小さな数の計算は一度60進小数に直す必要がある」としている。

これは、彼らの幾何学整数論における態度とは正反対である。

プトレマイオスより少しあとの、ディオファントス『算術』は、二次方程式連立方程式、あるいは有理数不定方程式など、実に高度な問題を恐るべき腕力で解いている。ところが、ここに至ってもまだ分数はある種の略記法扱いで、従って、彼は演算のためには一度自然言語に直す。そして意味を考えながら、場当たり的に演算をこなしていく。簡単で筋道の通ったシステムを開発整備しようという方向には進んでいない。

中国、インドとの対比

一方、中国やインドはこの点、非常に先進的と言って良い。先ごろ、光量子回路の名前にもなった『九章算術』では、分数の算術の例題が組織的に整理して並べられている。さらに、三世紀の劉徽の注には、演算の要諦について、理路整然とした解説がある。特に通分について言葉を尽くして説明しているが、端々に分数の基本的な考え方が明瞭に表れている。これだけまとまった言説が、同時代のギリシャにはあっただろうか。(劉徽の注では、小数の萌芽的な形態すら見える。10進法の小数の採用は中国が圧倒的に早く、唐に入るころには整備されていたと思われる。)

インドでも、アーリヤバタは通分の手続きを示し、ブラフマグプタは分数の四則演算および平方根の規則も明示している。

正直、私はこんな初等的な話には長いこと興味がなかったのだが、ギリシャの分数の扱いの惨状を見て考えを改めた。解かれている問題の難度は、確かにディオファントスの方が圧倒的に高い。しかし、腕力で難問をこじ開けるだけでなく、便利なシステムの開発も、科学の発展では重要な筈である。そしてこの件は、数の概念の整備という基本的な問題にも繋がる話である。

なお『九章算術』では、分数の割り算の例題に 分数の人数に分ける! という例題もある。これなどは数の演算が機械的に捉えられていた証拠でもあると思う。近ごろ話題の「超算数」の人が見たら、目を回しそうだ。なお、超算数論者のネタ元の遠山啓が「ギリシャでは分数、中国では小数を用いる算法が主流」などと書いていたが、ほとんどデマに近い。

比と比例

おそらく、遠山啓の「ギリシャは分数」は比や比例の理論のことを言っているのだと思う。古代ギリシャでは、量的な関係の把握では、比例が基本だった。音律の理論、梃子の原理、いずれも比の話である。天文も、異なった天体の周期の比率は興味の対象だった。アルキメデスも比の簡単な理論を示しているし、『原論』では非常に緻密な議論を展開している。

だが、古代ギリシャの「比」は、分数とは似て非ざるものだった。そもそも、比と比をかけたり足したりすることはできない(古代末期のパップスが少しそれらしきことをしてはいるが)。

こうなると、様々なことが面倒くさい。例えば

「AとBの比がとx:y, BとCの比がz:wのとき、AとCの比」

は比の合成とよばれ、実用上もいかにも重要そうだ。現代ならば単なる分数の掛け算であり、インドや中国では「5量法」という手法で要領よく処理される。

一方、ギリシャ数学では比の合成の理論が発達した。この概念との格闘に、古代末期から中世にかけて、名だたる数学者たちが頭を捻った。確かに『原論』の比の理論は非常に緻密で、近代に入ってデデキントが実数論を作るときに参考にしたほどだ。

だが、比と分数の対応関係が述べられ、比の合成が容易に処理されるようになるのは、中世に入ってかなり経ってからだ(13世紀モロッコのIbn al Bannaなど)。

数量関係の把握

いずれにせよ、複雑な現象を追いかけるなら比例だけでは到底、足りない。当時最も高度な数理科学は天文学だが、日月蝕や新月の出現、惑星の逆行などの理論的な予測に手をつけたのは、バビロンやウルクなどの天文学者だった。アレクサンダー大王の東征ののちしばらくして、このメソポタミア流の数理天文学ギリシャに本格的に入ってくる。

ギリシャが60進の小数を取り入れたのもこの頃で、天文学の数理的な手法も一緒に入ってきた。メソポタミア天文学者たちは様々な理論を試したが、それらは大別してシステムAとBに分類される。

前者は、天体の速度を実測値から定めて、表にしておく。これは線形補間に近い。後者は、速度の変化の割合、つまり加速度の平均を用いる。システムBを用いた位置の計算で面積則使ったらしき証拠が見出されたと数年前報道され、「古代の積分計算」などと面白がられた。

これらの手法は、ギリシャでさらに改良され、アカデミックな天文学でも初期には使われ(ゲミヌスの月の理論など)、また簡易な手法として民間の占星術などに浸透して、中世前期のヨーロッパにも伝わった(一方学問的な天文学は、ローマ時代にはラテン語に翻訳されず、伝わらなかった)。

ただし、これらの手法が天文学の外に使われることは、あまりなかった。例外としては、プトレマイオスの屈折の研究がある。彼は入射角と屈折角の関係を、システムBを用いて表現して見せた。驚いたことには、スネルの法則からもさほどずれていない。これは、何の説明もなく数表で与えられており、うっかりすると実測値のようにも読めてしまう。だが、数値を検討すると、端数がない上にピッタリとシステムBに合致する。

数の話から話題がややずれてしまったが、定量的な関係の把握において、数の概念の整備は非常に重要だった。これらのシステムの運用に、ギリシャ流の数のシステムは全く不足だったのは、いうまでもない。比や比例に基づく数量関係の把握と、ギリシャ的な数のシステムは、互いに見合ったものだった。それで足りぬ部分を、メソポタミア流の手法が補ったのである。

だが、プトレマイオスは上記のシステムBで表現された関係を言葉に直すにあたっては、再び比例の概念に頼らざるを得ない。そして、いく通りかの方法で「屈折角の増加の割合が、入射角の増加につれて減少する」といった内容のことを述べる。残念ながら、ギリシャ伝統の枠組みに、メソポタミア伝来の手法が統合しきれずに混ざっている。

また、彼が天文学において一年の長さを「365日と1/4から1/300を引いたもの」としている点からも、エジプト=ギリシャ流がまだまだ根強いことがわかる。

インドからアラビア語圏へ

結局のところ、西方における数と算術の貧困が解消されるのは中世に入ってからで、よく知られるようにインドの影響が非常に強い。インド流の算術は、主に天文学に伴って入ってきたようである。アラビアの数学者・天文学者たちは、ギリシャメソポタミア、インドといった異なった伝統から様々な技法をうけとり、それらを取捨選択して整備し、普及させていった。

ただ、最初の頃は、一般においてはギリシャ・ローマとほぼ同質の算術が使われていたらしい。10世紀のAbu al Wafaの算術書は、そう言った伝統的な算術を論じている。大枠は崩さぬまま、誤りは正しし、一部にインド流を混ぜている。

時代が下って、11世紀のウクリーディーシーの算術書では、ほぼインド流に基づいている。ただし、元来は砂をまぶした算盤を用い、消して書き直しながら計算が進められていたのを、紙を用いた筆算にあらためている。当時の実務においては、検証を可能にするために過程を残すことが求められたようだ。本書はまた、10進小数の萌芽的な利用でも知られる。

小数はこのあとも、多項式の負の冪の算法が整備されるに伴って整備が進む。次の世紀のal Samawal のものは、後のステビンの小数と比較してもそん色がない。なお、60進法との併用は、このあとも続く。

ヨーロッパへ

ヨーロッパへのインド流算術の導入の歴史は、実はさほど簡単ではない。アルフワーリズミーのインド算術書のラテン語訳が残っているが、これは60進小数に変換して分数を処理するなど、あまり整っているとはいえない。そもそも、これがアラビア語の書物の内容をどの程度反映しているかもよくわからない。

実際、何が伝搬し、何が再発明されたのかは様々な議論がある。

例えば、横棒を用いて分子と分母を区切る記法はibn Al Bannaの有名な算術書が初出である。だが本書のラテン語訳は知られていない。また10進小数はステビンやネーピアが独立に発明したというのが今のところは通説である。しかし、前者とアラビアの小数との類似はよく指摘される。また亡命したビザンツ人たちが「トルコ人たち」の10進小数について語った、ギリシャ語の記録が残っている

これらに限らず、アラビア語圏で先行して現れたものの、伝搬を示す史料に欠ける案件は多数ある。この事は直ちに伝搬が不可能であることを意味はしない。フィボナッチのように本格的ではなくとも、アフリカ北岸で算術を学んだものは、他にも居たかもしれない。だが、そういう話は想像の域を出ず、真相はやぶの中である。

ただ言えることは、ヨーロッパにおける算術は、基本的にインド起源でアラビアで発展した方法をベースにしている。そして、16世紀中ごろまでは、違いはあれど、同じようなシステムと考えることができる。個々の項目において、何が伝わり伝わらなかったかは、歴史の大まかな流れからいえば、細かな話ではないかと思う。