「状態」の集合はコンパクト?

「Alaogluの定理」というのがある。これは、

  •  B をノルムつきのベクトル空間としたとき、 B^*の閉球が、 Bが与える弱位相についてコンパクト

という主張である。これが時々量子基礎論の世界に漏れ聞こえてきて、「つまり、状態の集合はコンパクト集合なんだ!」という理解というか、誤解を引き起こす。

なるほど、作用素代数の本を見ると、「状態\omega」は有界作用素の上の正の線形汎関数\omegaで、\omega(I)=1を充たすものと定義されている。

 B有界作用素の成す空間として、上の定理に当てはめるて少し敷衍すると、確かにこの意味での状態の集合はコンパクトである。

まず定理から、\omega(I)\le1を充たすものたちの集合がコンパクトであり、拘束条件\omega\ge 0\omega(I)=1で定義される集合が、上記の位相で閉じているからだ。

だが、問題はこの「状態」は普通に物理的な状態と思っていいのだろうか?

病的な例

今、次のような\omega_0を考える:

 

\omega_0(X):=\lim_{n\to\infty}\frac{1}{n+1}\sum_{i=0}^{n}\langle i|X|i\rangle

鋭い人は「右辺は収束しないかもしれないでしょ」と思うだろう。実は先日、ツイッターでそう指摘されてしどろもどろになってしまった。このブログを かいているのも、そのときの後始末である。

とりあえず、仮に今これが収束したとしよう。すると、X\ge 0ならば\omega_0(X)\ge 0、つまり\omega_0 は正の線形汎関数である。また、\omega_0(I)=1もすぐにわかるだろう。

後は、収束しない場合をなんとかするだけで、「状態」を定義できる。幸い仮に収束しない場合でも、振動するだけで発散はしない。こういう場合は、「バナッハ極限」という裏技がある。これは、

  1. 有界な数列から数への連続線形写像である
  2. 収束する数列については、普通の極限
  3. それ以外の場合(つまり振動する場合)については、Hahn-Banachの定理を用いて拡張

というものである(複数種類ありえるが、どれを取るかは決めておく)。上記\omega_0の定義の極限を、このバナッハ極限とすれば、みごとにこれは「状態」を定義する。

\omega_0は定義からわかるように、「一様分布」のようなものである。無限個の要素の上の「一様分布」だから、一つの値をとる「確率」はゼロとするしかない。実際、

\omega_0(|i\rangle\langle i|)=0

がすぐにわかる。よって、

\sum_{i=0}^\infty\omega_0(|i\rangle\langle i|)=0\neq 1=\omega_0(I)=\omega_0(\sum_{i=0}^\infty|i\rangle\langle i|)

でとなる。つまり、「確率の和の規則」が破綻しているのである。

密度をもつ状態

そもそも、物理や量子情報の普通の教科書では、状態は密度作用素で定義される。密度作用素とは、正定値でトレースが1の作用素のことだ。作用素代数の本では、状態\omegaに対してある密度作用素\rho_\omegaがあって、\omega(X)={\rm tr} \rho_{\omega} Xと書けるとき、normalであるという。状態がnormalなら、先にのべたような確率の和の法則の破綻は起きない。

よって、普通は物理的な状態はnormalな状態で表現されるとし、そうでない状態は数学的な道具と割り切る。

トレースクラス

では、normalな状態で生成される(複素j線形空間は、どのような特徴を持つだろうか。normal な状態は密度作用素で表現できるので、両者の空間を同一視することにする。密度作用素が生成するノルム付きの線形空間は、トレースが有限な作用素全体に等しい。この空間をトレースクラスという。

今、トレースクラスをB_*と書くと、

(B_*)^*=B

つまり、B_*の双対空間は、有界線形作用素の空間Bである。

これは、

ということを意味する。

Predual 

一般にdualをとると Bになる空間B_*Bのpreduaという言う。

量子力学の場合は、オブザーバブル有界作用素であった。これの成す空間は、幸いなことにpredualが存在して、それがトレースクラスなのであった。

古典系の場合は、オブザーバブル有界な関数の集合L^\inftyで、そのpredualは絶対値が積分可能な関数の集合L^1である。つまり、確率密度関数が状態を表現することになる。

なお、一般のバナッハ空間は必ずしもpredualを持つとは限らない。例えば、C^*環はバナッハ空間だが、predualをもつならば、それは必ずvon-Neumann環になってしまう。逆にvon-Neumann環ならばpredualを持ってくれる。量子や古典のオブザーバブルの空間はいずれもvon-Neumann環を成しており、このあたりは実に上手く数学が機能している。

一般化確率論

量子論や古典論を形式的に一般化した、一般化確率論では、このあたりのことはどうなっているか。

ここで、一般化確率論とは、状態と観測の集合、そしてそれらから確率分布への写像、の三つ組のことである。状態も観測も、特に数学的な構造は何も仮定しない。だが、確率分布への写像をいわば核として、これらを表現するノルム付きの線形空間の双対な組みを構成することができる。

一般的に、この表現は忠実ではなく、状態と観測の集合に同値類を導入することになる。つまり、このどんな観測でも区別できない状態は同一視され、どんな状態に対しても同じ統計を与える観測も同一視される。そして状態の表現は、オブザーバブルが成す空間のPredualの要素になっている。

弱位相とは

Alaogluの定理そのものと同様、そこに出てきた「Bで与えられる弱位相(或いは弱*位相)」も、かなり誤解の多い代物である。特にセミノルムの族を用いた表現では、ノルム位相と一見似て見える。それゆえに何となくノルム位相に近い性質を期待してしまうかもしれない。

セミノルムはノルムとほぼ同じ性質を持つが、セミノルムp(x)=0はかならず必ずしもx=0を意味しない。ただ、それ以外はノルムと同じ性質を持つ。よって、これで「ε球もどき」を定義できる

「Bで与えられる弱位相」を定義するには、次のようなセミノルムたちを使う。

p_x(x_*):=|x(x_*)|

ここでx\in B,x_*\in B_*である。集合V_{x,\epsilon}を「ε球もどき」、すなわちこのセミノルムがε未満のものたちの集まりとしよう。上記の位相の基本近傍系は、この類の集合の有限個の交わりで生成される。

困ったことには、このセミノルムp_xは、xと「直交する」方向は検出してくれない。よって、もちろん、様々なxについて交わりを取ることで、この難点はある程度カバーできる。だが、定義にある通り有限個のp_xの交わりしか取れないので、無限次元では殆どの方向の成分の違いが反映されない。(有限次元ならば、ノルム位相と同値になる。)

つまり、この位相はかなり粗いのである。ノルム位相にちょっと似た定式化なので、コロリと騙されてしまいそうだが、実際は似て非るものなのだ。

(もしも一般位相の「積位相」を理解されている方なら、その言葉でこの位相を簡単に理解できる。)

この位相の荒さは半端ではない。時に弱位相は「各点収束の位相」などと端折って言及されることもあるが、その言い方はちょっと甘い。以下、少し具体的に見てみる。

稠密?

実はこの位相で

  • Predualの閉じた球は、dualの閉じた球の中で稠密で、従ってnormalな状態の集合は状態の集合の中で稠密

という定理が成り立つ。これは、「normalな状態で全ての状態が近似できる」ということを示しており、非常に有用な定理である。しかし、このように粗い位相であってみれば、物理的な意味合いはよくよく吟味した方が無難である。

「稠密」という言葉を最初に習うのは、「有理数の実数の中での稠密性」なのではないかと思う。この場合、「与えられた任意の実数に収束する有理数の列を構成できる」ことと同じだった。だが、同様の事実は今回は成立しない。例えば、病的な状態の例を挙げたが、その構成はnormalな状態の列では不可能で、Banach極限を使わざるを得なかったことを思い起こしていただきたい。

そもそも、「稠密」とはなんだっただろう。定義に戻ってかんがえると、先の定義は

  • 任意の状態の任意の近傍に、少なくとも一つnormalな状態がある

ということだ。上記の「近傍」を「基本近傍系に含まれる任意の集合」としても同じなので、上で定義した「ε球もどき」の有限個の交わりだけを考える。これは有限個のオブザーバブルだけを用いて違いを検出すること意味する。要するに、「観測のセットに応じて近似状態を選んでも良い」というルールの下では「いくらでも良く近似できる」のである。

抽象的な表現には用心

ところが、点列による近似可能性と一見よく似た言明がなりたつ。つまり、

「与えられた任意の状態に収束するnormalな状態のnetを構成できる」

のである。ここでnetとは、点列に似ているが、添字が自然数とは限らず、任意の半順序集合の要素を許すものだ。このような点列もどきのものの収束も、形式上は点列と似たように定義できてしまう。しかし、具体的に意味するところは随分と違うのは、今までの議論からも明らかだろう。

セミノルムもnetも、数学者は意図してノルムや点列に似せて定義している。証明がやりやすいからなのだと思う。実際netの収束で書いてもらう方が、証明は読みやすいことが多い。彼らは「定義の意味を厳密に捉えて、決して拡大解釈しない」という点については徹底した訓練を受けているので、間違いを起こすことなく、抽象化の利点だけを享受できる。

だが、我々数学素人には少し手強いトラップだと思う。

参考文献

関数解析に関して、私がもっとも頼みにしているのは、以下の教科書です。

link.springer.com

 

ヒルベルト空間上の作用素に関しては、また線形作用素をメインにした関数解析の本、或いは作用素代数の教科書の最初の方にまとまっているレビューを見られるとよいと思います。