中国の音律③ 律管と京房の準


今回はいよいよ、エルメスさんのツイートにある京房の「準」についての話をする。なるべく、前のエントリーと独立に読めるように書いたつもりだ。

中国では古来、現代の西洋音楽と同様、オクターブを12分割する十二律を用いていた。各々の音はピタゴラス音階に似た、三分損益という算法で定められた。ただし、古代ギリシャ音楽理論が弦の長さについて語るのに対して、中国では律管の長さで音を表現した。(これは飽くまで象徴的な意味であって、実際の調律とは一応、別の話である。)

三分損益は、簡単な算法で共鳴しやすい波長を選んで音を刻んでゆく。そして12番目に現れる音は、ほぼオクターブ離れた音になる。この「律の循環」は、12という数字が一年の月の数や木星の周期を想起させ、自然哲学的な解釈を呼び込んだ。だがこの「循環」は所詮は近似だから、幾つもの調が現れるとどこかで音同士の関係が崩れる。

京房はこの「律の非循環」対処する、六十律というシステムを提案した。ヨーロッパで同様の方式(53平均律)が提案されたのは17世紀中頃のことである。

中国とギリシャの音律

中国と西洋の音律の類似は、すでに18世紀、中国に派遣されたイエズス会士によって気がつかれている。相当にショッキングだったようで、どちらが先か、影響関係はあったのかなど、論争になったという。私も、予備知識なしに伝統音楽の調律具を手にした時は、唖然とした。

ところが中国科学史のニーダムは、ギリシャと中国の音律の基本的な違いを冷静に指摘している。詳細は省くが、古代ギリシャの音律の基礎は、「区間の分割」が主役で、音は区間の端として定義される。例えばピタゴラス音階では、Cとオクターブ上のCの間ををまず三つの区間に分け、FとGを定める。そしてC〜F、G〜C各々さらに三つに分けて、合計七つの音(ピアノの白鍵の音)を作る。

一方、三分損益は一番低い黄鐘から林鐘を、林鐘から太簇を、と次々と生成していく。十二回これを繰り返すと、ほぼオクターブ差が出来る。この十二の音から五音又は七音を選んで宮、商、角、徴、羽などと階名をつけて調を作る。『礼記』礼運の「五声六律十二管、還相為宮」とあるのを引いて、12回目の三分損益で「宮=黄鐘」に返るとされた。(ただし後で述べる様に、これはあくまで近似。)

かくのごとく両者は基本的には別のものである。ただ生成された音の間に対応がつくだけだ。仮にFを黄鐘として三分損益を始めると、最初の6回でピアノの白鍵に対応する7つの音が出来るのだが、そもそもこの対応はあまり自然ではない。オクターブの一番低い音同士を対応させるなら、黄鐘にはCを当てないといけない。するとニーダムが既に指摘しているように、両者は一致しない。

用いる数学も、ギリシャは比の合成と分割、中国は掛け算と割り算の繰り返しで、全く異なっている。前者は現在は消滅した概念だが、掛け算とは結びつかず、そもそも演算ですらない。だが敢えて言うなら、加法や減法のイメージで考えられていた。

律と律管

音の生成について、両者はかくも異なっていた。さらにギリシャでは専ら相対的な音の同士の比率に関心が集中した。勿論中国でも「律、率也」(蔡邕『蔡氏月令』)などと言われ、比率の重要性は認識されていた。だが中国では、律が国家の儀礼や度量衡にも結びついていたこともあって、しばしば絶対的な音高が問題になった。

晋の荀勖の調整した律に阮咸が「其聲高,非興國之音」と文句をつけた話はあまりにも有名だ(『宋書』『晋書』律暦志)。名分や正統性の議論が矢鱈と喧しかった宋の時代には、黄鐘の管長が大きな問題になった。

また音律は、どれか一つの音が定まれば他の音は三分損益で一意に決まるのだが、律書の多くでは、わざわざ全ての律管の長さをあらわに計算してある。黄帝に命じられた泠綸も、12音に対応する律管を全て作成する(『呂氏春秋』)。

この十二本1組の律管は単に「律」ともいわれ、「截管為律,吹以考聲,列以物氣,道之本也。」(『続漢書』律暦志) などと言われた。つまり律管は、音律の象徴でもあった。

京房の六十律

これに対して京房は「竹声不可以度調」、つまり律管では正確な音は出せないと言い切った。そして調律用の弦楽器、「準」を作成する。この準を用いて、彼は独自の六十律の理論を展開する。

三分損益を繰り返すと、黄鐘に決まった係数をかけていくだけで音の比率を定めていくことができ、12回目でオクターブ上の黄鐘に近い音になる。だが、これはあくまで近似に過ぎない。そもそも、三分損益が3の冪に基づく分割であるのに対し、オクターブは2の冪に基づく。しかし、2^n=3^mとなる自然数n、mは存在しない。12律は、m=12、n=19でこの等式が近似的に成り立つことを利用しているが所詮近似は近似で、しかもこの誤差は演奏においても無視できない程度に大きい。つまり『礼記』礼運の言うような、「還相為宮」は実現しない。

そこで、京房は「分卦直日之法」という独自の考え方を持ち出す。それによると、六十四卦のうち、六十の卦が分担して一年を司る*1。つまり十二回で止めるのではなく、六十回まで三分損益を繰り返すとする。幸いなことに、終わり近くの54個目に生じる「色育」は、極めて黄鐘に近かった。つまり、ほぼ「還相為宮」となっている。もちろん非常に微小な差は残るのだが、耳で感じ取るのは不可能だ。

では、残りの六つの音はなぜ必要なのか。それは、54番目の色育の階名を宮として、ここから七音からなる調(平調)を始めるからだ。この七つの音が終わってサイクルが閉じる。『続漢書』の六十律の表には、各々の律の司る日数が逐一書かれている。

ただ素朴な疑問としては、色育で黄鐘に還ったとするなら、そもそも色育の一つ手前の53番目で止めるのが筋なのではないか。実際、17世紀のメルカトルは京房とほぼ同様のシステム(53平均律)を提案するが、53で止めるのである。

京房の問題意識

以上、「京房の六十律は、三分損益による十二律の非循環に対処するために作られた」という筋立てに乗って話を進めた。細部はともかく、全体のストーリーは非常にわかりやすい。こういう時は、現代的な問題意識を投影しすぎていないか、立ち止まって検討する必要がある。

そもそも、京房はどのような背景をもった人物だったのか。『漢書』第七十五巻の京房列伝によると、彼は独特で精緻な易法と音律の知識をもって孝廉に推挙されたそうだ。また百科事典によると、京房(前78―前37)は易に天文学を取り入れて「卦気、分卦直日(ぶんかちょくじつ)」を説いた、易学史上の重要人物として扱われている。
易学(えきがく)とは? 意味や使い方 - コトバンク
さらに『続漢書・律歴』でも六十律は「其術施行於史官,候部用之」、占星術や占いをする部門で用いられたとあり、「候気」という律管を用いた占いについて詳しく述べている。つまり、京房は音律家であるとともに易で名を挙げた人物であって、六十律の理論も応用も、また易と深い関係があった。むしろ、十二律の問題点との関係について『続漢書・律暦』は何も述べていない。色育でほぼ還るという事実も、数表をよく見るとそうなっているというだけだ。総じて残された史料からだけでは、京房その人の意図は必ずしも明らかでない。古代科学史にありがちな話だが、史料が少なすぎる。

だが、後に続く人たちの捉え方については、比較的はっきりと断言できる。彼の六十律を十二律の非循環への対処だとする理解は、南北朝時代から一般的だった。

例えば北魏の陳仲儒は、十二律が転調の際に起こす問題を指摘して六十律を推した。南朝宋の銭宝之の三百六十律は、京房の説の素直な発展である。何承天は六十律や三百六十律を非難したが、彼の新律は十二律が「還らない」で生じる差を、全ての律に(算術平均の意味で)均等に配分するというものだった。古法に一年を365日とするのと同じく、三分損益もまた近似にすぎないのだという。彼の新律は採用されなかったが、律暦志には記されている。陳仲儒の件は『通典』にも採録されている。

また、宋の蔡元定(朱子の共同研究者)の『律呂新書』律呂證辨・和声ではそれまでの研究史をこの理解に基づいてまとめている。(この時代には律の非循環はあまり認識されていなかったらしく、文句を言っている。)
蔡元定律呂證辨詳解(二) | CiNii Research

京房の準と使用法

十二律の非循環の発見という数理面での貢献の他に、彼は「準」という調音用の弦楽器の製作で名を残している。ただし、あまり詳しいことはわからない。『続漢書』には

準之狀如瑟,長丈而十三弦,隱閒九尺,以應黃鍾之律九寸;中央一弦,下有畫分寸,以為六十律清濁之節。

とだけある。準の再現を試みた北魏の陳仲儒も、あまりに簡略な記述に閉口している。瑟のような楽器で長さ一丈で、振動部の長さが九尺。黄鐘の律管の丁度10倍だ。13の弦があり、中央の弦の下にスケールがついていた。使用方法については、

均其中弦,令與黃鍾相得,案畫以求諸律

とあるので、中央の弦を黄鐘の律管に合わせ、それを基準に他の音を作ったのだろう。

『続漢書』には、全ての律について次の三つの数値が書かれている。まず、「実」。これは、黄鐘を3^{11}として、三分損益に従って計算している。黄鐘の値は12律までが厳密に整数値になる様に選ばれている。それ以降は端数が出るが、丸めて整数値にしている。「実」には単位はついておらず、抽象的に比率を表す数である。

この「実」とは別に、律管の長さと準の弦の長さも書かれている。黄鐘はそれぞれ九寸と九尺である。前者は1/100寸(0.2mm +α)までの精度だ。後者は、寸(=1/10尺)以下の端数は、分母を3^9とした分数にに直して、分子だけが書いてある(以九三之,數萬九千六百八⼗三為法)。これらは、「実」の値とぴったりと整合するので、あきらかに理論値である。そして、出されている数値はあまりにも細か過ぎ、到底実現できたとは思われない。

この数値で作った律管は、準と同じ音を出さないだろう。なぜなら、管楽器は開口端補正の問題があるからだ。よって、両者は黄鐘の管を除き、別々に運用されたと思われる。律管はおそらく、候気での使用が主眼だろう。

それにしても、準の数値の細かさには、一体どういう意味があったのだろうか。大型の準では細かい刻みを実現できることをアピールしたかったのかもしれないが、度が過ぎている。陳仲儒も頭を抱えて、伝説的な視力を持った「離朱の明」を復活してもこの細かい値の再現は無理だとしている。

魏書/卷109 - 维基文库,自由的图书馆

むしろこの数値は飾りかもしれない。つまり、準のスケールに「この律の音はここ」と目盛りがついていただろうが、その目盛りの根拠は数値ではないかもしれない。例えば2/3の長さを割り出すには、定規で測る以外に次の方法がある。同じ音を出す弦を二本並べる。片方の弦のブリッジを適当に調節して、二本を同時に弾く。純正完全五度の響きがあれば、2/3の比率が得られた証拠だ。バイオリンの調律と同じやり方である。オクターブを使えば、1/2も出せる。これを順次繰り返せば、全ての律に対応する区画がアナログ的に出せる。少なくとも、同様の手法は作った音のチェックには使える。

何も史料がないと、どうも妄想ばかりが膨らんでしまう。

ギリシャの一弦琴

弦楽器での音律の研究というと、ギリシャの一絃琴が思い起こされる。一本だけの弦しかないこの楽器は、指定通りの数値で音を鳴らすには十分だった。しかし音のハーモニーの観察には複数の弦が要る。そこでプトレマイオスなども複数の弦を持つ機器を製作した。制作にあたっては、弦長の精度の良い計測のために、様々な工夫をしている。彼はまた、管楽器が如何に音律研究に向かないかを力説し、弦楽器の優位性を説く。一方、著作の後半では弦楽器の抱える困難も、正直に告白している。弦の不均質さから張力が弦の上で一様ではなく、したがって弾く場所によって音が異なるという。

https://en.xen.wiki/images/9/9f/Barker_2001_-_Scientific_Method_in_Ptolemy%27s_Harmonics.pdf

京房も準の調整に苦労をしているのではないかと思う。機器に工夫をするか、操作に熟練するか、あるいはその両方か。後に述べる事情を考えると、後者の要素がかなりあったと思う。弦の長さが長い準の場合、弦の自重による弛みや、材質の不均一さは無視できなかったのではないか。

準はどうなったか

彼の死後、準と彼の律学はどうなったのか。『続漢書』には二つの興味深いエピソードが紹介されている。

一つ目は西暦84年のこと。「今、準を用いて六十律を整えることができる人材が官には居ません。嚴宣というものが父親からその術を伝えられているそうですので、召し出してはどうでしょう。」という上奏があった。賛否両論があったので、嚴宣を召し出してテストすることにした。ランダムに選んで鳴らした律管の音をあてさせたのである。ところが嚴宣はほとんど正解することが出来ず、この件は沙汰止みになった。

二つ目は西暦177年。音律を司っている張光らが召し出され、準について問われたのだが、彼らは答えることができなかった。彼らは戻って収蔵庫を探したところ、書物にある通りの形をした準を見つけた。しかし、弦の張り具合をどうしたらいいのかもわからず、使うことは出来なかった。こうして準は失われて、六十律は数値と候気の術が残るのみになった。

これらの逸話からは、音律の学と実践とのギャップ、準の操作の微妙さなどが伝わってくる。京房は準の精度を出すに当たって、機構の工夫よりも操作の熟練に頼ったのではないか。操作のコツの伝授が途絶えた時、その使用方法は永遠に失われてしまったのだろう。

だが、それでも準と六十律の残した印象は強かったようだ。

漢が滅びて南朝の宋の時代になると、上述の銭宝之と何承天が京房の六十律の議論を受けて、各々の議論を展開している。次の梁の武帝は『鐘律緯』という音律書を編むが、この中で京房の理論も検討している。題名にある「緯」は弦の意味だ。『隋書・律暦志』によると、

制為四器,名之為通。四器弦間九尺,臨岳高一寸二分。黃鐘之弦二百七十絲,長九尺,以次三分損益其一,以生十二律之弦絲數及弦長。

つまり「通」という調律用の弦楽器を作成した。「黃鐘之弦二百七十絲」は弦作成に何本の糸を撚るのかを指定しているのだろう。他の音は三分損益で数値を定めているが、弦の長さだけでなく「糸数」にも適応するとある。これで音は合うのだろうか*2。通は4つ作成し、各々三つの弦がある。つまり、一つの弦が一つの律を担当する。律管の発想の延長だろう。

同じ頃、これまで何度か言及した陳仲儒が梁から北魏に帰順した。琴の奏者として名高い彼は、十二律の問題点を指摘し、六十律の採用を訴えた。

「準の技は途絶えたのではないか、誰に学んだのか」という下問に、「私は琴に熱中し、また『続漢書 律暦』を読み込みました。深く研鑽を積んだところ、かなり熟達することができました。」と答え、また律書には十分な情報がなかったことを認め上で、自ら工夫して音の安定を得たとしている(『魏書・楽志』)。例えば、ブリッジの高さを揃え、柱(フレット)を入れて、常に弦を水平に保つのだという。

現代であれば、彼の創意工夫は称賛の的でしかない。しかし尚書の蕭寶夤は彼の理のあること認めながらも「而學不師授,云出己心」(師伝を受けたわけではなく、自らの考えを述べている)と非難し、結局採用されるに至らなかった。仲儒の「燧人不師資而習火」(伝説の聖人は教わらずに火の使用を習得した)「豈必要經師授然後為奇哉」といった訴えは、むしろ逆効果だったかもしれない。やはり、国家の制度としての律には、皆が納得できる典拠が必要だったのだろう。

魏書/卷109 - 维基文库,自由的图书馆

ただ、蔡元定も陳仲儒の六十律の理解に疑問を呈している。十二律の問題点の指摘は正しいが、彼のいう通りに六十律を使って調を作ると音高が合わないという。陳仲儒の動機はむしろ、弦による調律手法の確立だったのかもしれない。宋の時代になると、蔡元定の琴律書も現れ、弦楽器の位置付けも変わってくる。12平均律を発明した明の朱載堉も、研究には弦楽器を用いている。

付録: 参考文献とテキストの解釈

彼の六十律とその背景については、司馬彪『続漢書 』律歴志(西晋)がもっとも詳しいが、『宋書』『晋書』 も補完するところがある。後の二書は前者を大きく引用しているので、校訂にも用いられる。前者は現在見れる全ての版で『後漢書』と合本されている。

二十四史の現代中国語訳が以下から無料で読める。テキストも十分な校訂を経ており、巻頭の解説も私には有益だった。ただ、考勘や注釈がない。
二十四史全译 Full Modern Chinese Translation of 24-Histories : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

1965年版の中華書局の『後漢書(続漢書) 』律暦志は以下で無料公開されている:
中華書局 後漢書 (全十二冊) 1965年5月第1版 第11冊 志第一至第一八 志一 | PDF

以下の論文の70ページから『続漢書(後漢書) 律暦志』の原文と英訳がある。
ScholarlyCommons :: Home

また、以下の堀池信夫先生の論文は、京房と六十律についてのまとまった情報が手軽に読める。
堀池信夫、中国の音律学の展開と儒教
https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/1817

両者は史料の読みに異なるところがあり、六十律の数表の直後の箇所については違いが甚だしい。

截管為律,吹以考聲,列以物氣,道之本也。術家以其聲微⽽體難知,其分數不明,故作準以代之。準之聲,明暢易達,分⼨⼜粗。然弦以緩急清濁,非管無以正也。均其中弦,令與黃鍾相得,案畫以求諸律,無不如數⽽應者矣。

前者はこの部分を京房の言葉の引用とし、後者は『続漢書』の著者・司馬彪の論評で、京房の準にやや批判的な立場からのコメントだという。私はここは司馬彪の考えを述べていると思うが、準を批判したのではない思う。のちの陳仲儒らの反応を考えても、『続漢書』は準を肯定的に扱っているとするのが自然だと思う。そもそも、最後に準で求めた音が「数而応者」と比べて劣ることはない、と言っているのだから、基本的には肯定的なトーンでないとおかしい。

ただ、「非管無以正也。」をHegeshは「準で正しく(チューニング)できない律管はない」と取るが、ここは堀池論文の「律管でなければ音が正しいことはない」という読みが正しいと思う。少なくともそのように取ると、前後の意味は通り易くなる:

「然るに、弦は張力の緩み具合で音高が変わるので、律管でないと正しい音は出ない。そこで中央の弦を黄鐘の律管に合わせ、分画を作って他の律を求める。それで計算して調整したもの(律?)に劣ることはない。」

また、文頭の「非」を反実仮想の意味で使う用例は多く見るが、Hegeshの訳を正当化する用例はあまり知らない。例えば『魏書・律暦』の冒頭の「非律無以克和,然則律者樂之本也。」なども、反実仮想で読む方がしっくりくる。また、二十四史の現代語訳をみても、ほぼ上記の解釈で良さそうである。

「然」の直前の「分⼨⼜粗」の解釈も分かれているが、私は以下のように割り切っている。おそらくは、準のスケールには各々の律に対応する箇所にフレット又は印があっただろう。準のサイズが十分なので、印の間隔が大きいという意味ではないか。

なお、堀池先生の表3の色育の計算は間違っており、京房のあげる数字(この表の「律」)の方が正しい。また、同じ表の「準」の数字は『続漢書』の表記を誤解されている。その結果、準と律の数値の間にずれを認めて前者を実験値としている。しかし、この結論は無理だろう。他の六十律について書かれた二次文献でば、いずれも律管と準の数値の間に差を認めていない。また、数値的な一致は偶然とは思えないレベルである。

Hegeshのテキスト・翻訳についても疑問点がいくつかある。
例えば張光らのエピソードに続く「音不可書以時人」というところなのだが、1965年 中華書局版でも二十四史現代語訳でも、『宋書』『晋書』をもとにして、「音不可書以暁人」に改めている。「暁」は明らかにするという意味で、これなら「音律は明瞭に書いて人に了解させるのは不可能だ」と意味が通り、次の「知之者欲教而無從」(わかっているものが教えようとしても、甲斐がない)につながる。対してHegeshはこの改訂を採用しないのだが、訳文はあまり意味が通っていないように見える。

*1:64から春分夏至秋分冬至の四至に相当する4引いて60を得るらしい。

*2:周波数の分布を完全に比例的にするには、糸の長さと半径を同じ比率で拡大縮小しなければいけない。糸の本数は断面積に比例するだろうから、三分損益で出る値の二乗にしなければいけない。ただし、一番効くのは最も長い波長であるから、あまり影響はないだろう。なお、十二平均律の朱載堉も面積を長さと同じ律で拡大縮小しているのは、『鐘律緯』の影響かもしれない。