六花と雪の結晶の贈り物

私が雪の結晶に興味をもったのは、高校受験の勉強をしていたときに、肉眼でも意外と見えるのだという短文を読んでからです。その年の冬はたまたま関東地方にも寒波がやってきて、受験の帰り道にマフラーについた雪片は、解けかけで透明にはなっていたけれども、しっかりと六つの枝が識別できました。

顕微鏡が要らないわけですから、雪の結晶の観察は前近代から始まっています。今も六角形の結晶を「六花型」といいますが、古くから中国では雪の結晶を花にたとえて「六花」「六出花」「六出」などと言っていたのです。一方、ヨーロッパではケプラー上着の裾に舞い降りた「星型」の雪の結晶を見て、友人に小冊子"Strena Seu De Nive Sexangula" (新年の贈り物: 六角形の雪について)を献呈することを思いつきます。日本においては、幕末の土井利位『雪華図説』がこの方面の草分けであり、また一流の物理学者で啓蒙家でもあった中谷宇吉郎の著作を通じて、雪の結晶はポピュラーな科学のトピックとなりました。私も高校生時代に中谷宇吉郎『雪』(岩波新書)を古書で購入した記憶があります(長らく積んだままでしたが)。

今回は、このあたりの経緯を主に中国科学史の巨人ニーダムらによる1961年の論文に依拠して書いてみたいと思います。この論文が書かれたのは中谷の死の少し前で、彼の”Snow Crystals, Natural and Artificial”も引用されています。
https://doi.org/10.1002/j.1477-8696.1961.tb02589.x

雪の結晶

まず、雪の結晶について基本的な事実を確認しておきます。

  1. 雪の結晶には様々な形状がある。柱状や針状、乱れた方向に枝がのびるもの、全くの不定形など。
  2. どの形状になるかは気温や湿度に依存する(中谷宇吉郎の「中谷ダイヤグラム」)。
  3. 肉眼で形状が確認できるほど結晶が育つとは限らない。
  4. 破損したり解けたりしやすい

よって、気象条件に恵まれた地域れあっても、対称性が明らかでなかったり、崩れたりしている雪片の方が多いのです。このように「雑音」の方が多い観察例から六方晶系を抜き出し、本質を指し示す典型例とするためには、多少なりとも自然の規則性への信頼が必要になると思います。ところが近代前半までの物質理論は大層お粗末で、「正しい理論」を提供することはできませんでした。つまり、雪の結晶の対称性は誤った思い込みに導かれて発見され、事後的な観察の積み重ねで理解が固まっていったのです。

私は計画的な観察はしたことはないのですが、機会が有れば袖に雪を集めては目を凝らしています。しかし、図鑑にあるような立派なものは、大寒波の到来でもなければ、関東地方ではまず見かけません*1。カナダの内陸部や米国の東北部は随分と寒くなりますが、それでもそんなに綺麗な結晶が見れた訳ではありません。肉眼での観察は可能とはいえ,その気になって待ち構えないと見逃してしまうと思います。高校時代、自分の肉眼の観察を話しても信じてもらえず、クラス全体から笑われたこともあります。

近代初めまでの西方

ニーダムらによると、古代のヨーロッパでは「かなり丁寧な調査にもかかわらず」、観察の記述は見つかっていないようです*2。ただし古代人が雪に関心がなかったわけではなくて、アリストテレス的な気象論には雲や雨を含めた包括的な理論があります。

中世になると、ギリシャ系の学問はアラビアで発展します。「知恵の館」の中心人物のキンディー(9世紀)はアリストテレス的な気象論を論じ、占星術による予報もしました。Lettnickzによると雪片の形成の過程にも興味をもって、若干のコメントを残しているそうです。

These snowflakes have an elongated form because the wind freezes them together. This kind of snow is called zamharīr. (Lettnickz, p.110)*3

とりあえず形状の観察はしているのですが、単に長いという以上は(少なくともLettnick氏の紹介では)語っていないです。針状の結晶のことを指しているのでしょうか。また、イブン・シーナーの系譜を引く哲学者Abū l-Barakāt al-Baghdādī(12世紀)は、雹を球形としていて、これは多くの雪がくっついて丸くなったのだとしています(p.114)。私は当初、古代に雪の結晶の観察が無い理由を気象条件のせいかとも考えたのですが、これらバグダット近辺で活躍した学者の仕事を考えると、それだけではなさそうです。

12世紀以降、ギリシア・アラビア系の学問がヨーロッパに流入します。キンディーらの占星術的な気象学も紹介されました。ニーダムらによると、アリストテレス的な学問の導入に熱心であったアルベルトゥス・マグヌス(13世紀中ごろのスコラ学者)が雪の結晶の最初の観察者らしく、アリストテレス『気象論』第一巻への注釈の記述が紹介されています。

アルベルトゥスは雪の結晶は星型(stella figurae)で、そのような規則的な形状は2月と3月にのみ観察されると考えていたようだ。

「星形」という言葉は、現代でも欧州では雪の結晶の形状を指して使われています。ただし、アルベルトゥス自身によるこの言葉のパラフレーズは無さそうです。なお、「2月と3月にのみ」の部分は妥当かどうかは分からないのですが、冒頭述べたように、綺麗な結晶はいつでも観察できるわけではありません。

いずれにせよ、アルベルトゥスの手短な記述は歴史的には孤立していて、次なる雪の結晶への言及は、オラウス・マグヌス『北方民族誌』(16世紀中ごろ)になります。本書は短い一章を割いて雪片の形状を論じており、下に掲げる挿絵は当時広く参照されたようです。あまり実際の雪の形状に近くはないものの、様々な形状があることは的確に表現されていますし、ひとつだけ星形が混じっています。

オラウス・マグヌス『北方民族誌』(16世紀中ごろ)
ケプラー問題

結局、ニーダムらは最初の規則性の明瞭な認識をヨハネス・ケプラーの小冊子"Strena Seu De Nive Sexangula" (新年の贈り物: 六角形の雪について)*4に帰しています。

ケプラーが友人のWacker von Wackenfels*5への贈り物に迷んでいるある日、たまたま雪片がコートに舞い降ります。六角形で羽毛のような突起を伴う雪片を目にした彼は、これこそが数学者からの贈り物としてふさわしいと決めます。

この洒落た導入のあと、彼は蜂の巣など自然界の規則的なパターンに思いを馳せた後、雪の結晶の形状を説明するため、水の粒子の配置を考察します。その際に現れる球状の粒子の詰め込み問題が、かの有名な「ケプラー予想」のネタ元です。つまり、一番かっちりと詰め込まれる配置に粒子が並んだ結果、六角形になるのだというわけです。
Kepler conjecture - Wikipedia

球体の詰め込みの考察

このように、本冊子では「六角形の理由」は考察しますが、「六角形であること」を納得させようと努力している箇所はなく、むしろ前提となっています。この頃の北西ヨーロッパでは、この事実は(ある程度)既知だったのでしょう。

ただし、実際の雪の結晶のすべてが「六角形で羽毛のような突起を伴う」わけではありません。彼は「最初に落ちてきた時には」と留保をつけているので、それ以外は乱れた結果だと考えていたのでしょう。しかし、彼はそれ裏付ける組織的な観察結果を提示していません。形状の記述もあっさりとしており、図もありません。つまり自然科学の基礎であるところの、観察の整理や記述の部分がかなり甘いのです。理論に関しても、アイデアの煌めきは感じるものの、当時の物理学の状況では多くを期待できるはずがありません。

つまりケプラーは、幾何学的な秩序への盲目的な信頼を梃子に、雪の結晶の真実にたまたま接近したわけです。ただすでに述べたように、こういった思い込みは、この段階にあっては不可欠だったと思います。また、すぐあとに続いた17世紀欧州の一連の研究によって、ケプラーの観察の弱点はかなりの程度補われました。

中国での最初の言及

ここで話を中国に移します。南北朝時代の『宋書』によると*6

大明五年(461年)の正月元日、宮廷から下がった右兵衛将軍·謝莊の衣に花雪が舞い降りたので、戻って報告したところ、帝はそれを瑞祥とし、皆で花雪詩を詠んだ。(『宋書』符瑞下*7*8

撰者の沈約は続いて『詩経』の文言の訓古学的な考察を加え、最後に

草木花多五出,花雪獨六出。(草木の花が五枚の花弁を持つが、花雪は六枚)

と結びます。このように、伝統的に中国では雪を植物の花と同列に見て、植物の花の花弁の数を五、雪は六だとしました。そして、「六出」は雪片の形状の別称のようにもなっていました。

この伝統的な説の起源をニーダムらは紀元前2世紀の『韓詩外伝』の断片

凡草木花多五出,雪花獨六出,雪花曰霙。

に求めます。上で引用した『宋書』符瑞志の文とほぼ同一で、またずっと古いです。この断片の初出は『芸文類聚』天部下・雪(唐の初期)で*9、以来、『韓詩外伝』の一節として認知され続け、今日でもそれで通っています。ただ、最近の論文Kink2022でも同様ですが、現行の十巻本には含まれていないなど、若干の不安要素も指摘されています*10

真正性に関する小さな疑問もさることながら、私がより気にするのは、『韓詩外伝』の一節が(アルベルトゥスの記述と同様)時代的に孤立していることです。書籍の残存の比率の問題もあるのでしょうが、「六出」の用例がある程度の頻度残っているのは、やはり南北朝時代以降です。(具体的な例については、付録を参照してください。なお、南北朝時代まで下げたとしても、圧倒的に世界最古です。)

ニーダムらはこの「草木花多五出,雪花獨六出」を素晴らしい観察だとほめたたえるのですが、Kink 2022は五行説の役割を指摘します。つまり、「五」は五行の「土」に、「六」は「水」に対応するからです。ここで前者の対応は「生数」、後者は「成数」です*11。冒頭に述べたように、思い込みをもって臨むことと観察による帰納は矛盾せず、むしろ相補的なものです。私が思うに、仮に「水の成数」が六でなくても、数字をいじって説明を捻りだしたのではないでしょうか。数秘術的な思考のポイントは、「ある現象にある定まった数が対応する」という信念だと思うので。

この説をケプラーの説明と比較すると、幾何的なイメージが著しく弱く、「数」だけで議論が閉じています。そもそも「六出」という記述にしてから、「出」の数しか語っていないのです。また、ケプラーは雪を無機物として扱っているのですが、中国では草木の花と同列に見て「雪花」などと称しいます。

性理学と博物学

既に述べたように、南北朝以降、「六出」の用例はある程度の頻度見られるようになります。しかし、宋に入るまでは文学的な表現にとどまっています。しかしニーダムらの論文によると、12世紀後半(つまりアルベルトゥスより一世紀弱前)南宋の性理学者の朱熹朱子)は雪片の形状の原因について、壮大な自然哲学に裏打ちされた論考を残しています。以下に『朱氏語類』の該当部分を山田1963, p.231の訳文で引用します。

雪の花が必ず六弁になるゆえんは、おそらく霰がおちるとき強い 風に打ち開かれるから、六弁をつくる(成六出)だけだ。たとえば、ひとがどろどろの泥団子を地面に投げると泥はは必ずまわりへ 走って稜弁をつくる。六は陰の教でもあり、大陰玄精石も六稜である。おそらく天地自然の教であろう*12

「大陰玄精石」とは硫化カルシウムの六方晶系だそうです。また、「六」の由来として、「陰数」(すなわち偶数)だという根拠を付け加えています。陰陽説的な言明に加えて、「霰がおちるとき強い風に打ち開かれる」というように、「機械論的な」イメージが加わっているのが特徴だと思います。

山田論文によると、朱熹は雲、雨、雹や霰などを含んだ理論を展開しており、雹や霰の適切な観察結果も述べているとのことです*13

硫化カルシウムの六方晶系

朱熹の観察眼は鋭く、現象を説明する手腕も見事ですが、一方で「大雪が豐年の兆し」「龍は雨を降らせる」といった説にも理論的な根拠を与えてしまっています。思うに、彼の理論は何でも説明できる代わりに、「xxは不可能」という言明を導きにくい構造になっているのではないでしょうか。

ニーダムらは、朱熹のこの説明が後々までも継承されたとして、明初の王逵『蠡海集』を引用しています。この書は天文、地理、人身、庶物、曆數、氣候、鬼神、事義の章を立て、「究理」の立場から論じています*14

雪為陰之極、全得水之成數、雪花毎每皆六出。雪者雨露之凝結。…*15

こういった性理学的な文献だけでなく、博物学的な関心から雪に触れている著作も残されています。特にニーダムらは、本草学の集大成、明の李時珍『本草綱目』の雪や雹の記述を引用しています。

時珍曰︰按劉熙《釋名》云︰雪,洗也。洗除瘴癘蟲蝗也。凡花五出,雪花六出,陰之成數也

時珍曰︰程子云︰雹者陰陽相搏之氣,蓋氣也。或云︰雹者,炮也,中物如炮也。曾子云︰陽之專氣為雹,陰之專氣為霰。陸農師云︰陰包陽為雹,陽包陰為霰。雪六出而成花,雹三出而成實。陰陽之辨也。…

ここでも、雲、雨、霰、雹、雪などを含めた総合的な説明が展開されています。程子は北宋の性理学者(兄弟なので、二程などとも)です。曾子孔子の弟子ですが、この部分は『大戴礼記』(前漢)に残る遺文です*16。「陸農師」は、北宋の陸佃のことで、引用文は彼の『埤雅』からとられています。(ニーダムらはこの引用元の同定に失敗しています。)

『埤雅』は、いわゆる名物学の書です。宋代の名物学は、経学の枠内で展開した博物学の如き趣きがありました*17経書に出現する文物の名称を、観察や聞き取りを含めた実証的な態度で考察するのです。文献調査においても、本草書も大いに参考にしていました。壮麗な性理学の展開を横目に見ながら、具体的な事物に集中する学問もたいそう盛んだったわけです*18。『埤雅』に寄せられた序文によると、著者の陸佃は農夫や工匠から広く聞き取り、風聞は自ら試してから記録したとのこと。ただし、雪などに関していうとそこまで独自の観察眼を発揮したとはいえなさそうです。『埤雅』の「雪」の項目には

雪六出而成華,言凡草木華五出,雪華獨六出,隂之成數也。

と雪の形状を数秘術的に解釈し、「雹」の項目では雹や霰を含んでより包括的に

陽散隂為霰、隂包陽為雹。曽子曰「陽之專氣為雹、隂之專氣為霰」是也*19。申豐以為、古者藏冰固隂、沍寒而無雹、蓋陽無所洩雹之所以生也*20。雹形今似半珠、其粒皆三出。蓋雪六出而成華、雹三出而成實。此隂陽之辨也。

とあります(太字部分が本草綱目に引用)。雹と雪の形状の違いが「蓋雪六出而成華、雹三出而成實。此隂陽之辨也。」と陰陽説的な数秘術で説明されていて、同時代の性理学の説との関係が気になるところです。なお、『埤雅』は北宋ですから朱熹の前の段階です。

博物学的な学問の進展とともに、「草木は五出、雪は六出」というテーゼも吟味にさらされるようになります。ニーダムらによると、『酉陽雑俎』(唐、段成式)で梔子が六出だと指摘されています。

クチナシ。花びらが六枚ある。

また明の時代の唐錦『龍江夢餘錄』の一節では、まず伝統的な説を述べた後、

然至春則雪皆五出。(しかし、春になると五つの突起になる)。

とし、

豈春雪獨非水所結耶。恐未為定論也。

と、春の雪が「水所結」であるかどうか疑問を提出しています*21。雪の結晶は暖かくなると溶けたり崩れたりしますから、枝が一つ落ちることはあるようです。

この異論はかなり有名だったようで、同時代の郎瑛『七修類稿』でも批判的に取り上げられています*22。ただし、批判のポイントは理論の部分で、彼の説明は

至春則陽和矣,一時雖寒而成雪, 非至盛之時,故散碎而不見其形質耳,亦不特五出也。

つまり春は陽の気の影響で「散碎而不見其形質」であるだけだ、と。五出のあること自体は否定していません*23。後に明末の謝肇淛『五雑俎』では、複数年にわたる観察を議論のベースに置きます。

至後雪花五出,此相沿之言。然余每冬春之交,取雪花視之,皆六出;其五出者,十不能一二也,乃知古語亦不盡然。(『五雑俎』天部ニ)

「少数の五出はあったが、春になると常に五出であるとは言えない」とのこと。まあ、妥当な観察だと思います。

結局は伝統的な説の容認ですし、陰陽の自然学も健在です。また、「五か六か」と相変わらず数だけを論じて、形状の話に向かいません。「散碎而不見其形質」と書いているのだから、「五出」が乱れた形状だった事くらいはわかっていたと思います。しかし、形状の問題を議論の中心に持ってくることはなかかったようです。

ただ,この「春の五出」の問題を巡る論議を見ると、より徹底した観察によって認識の精度は上がっていることがわかります。また、伝統説を無批判に飲み込んでいるのではなく、吟味に晒していることも注意すべきだと思います*24

イエズス会の影響

謝肇淛の少し後、イエズス会が西洋の科学革命初期の知識をたずさえて中国にやってきます。このとき、ケプラーイエズス会に情報提供で協力している*25のですが、彼の雪の六角形の説明も伝わったようです。イエズス会士ウルシスと徐光啓の水利技術書『泰西水法』の巻五に、雨、霰、雪の生成について扱っており、さらに「雪花はなぜ六出なのか」という問いに

方體相等,聚成大方,必以八圍一。圓體相等,聚成大圓,必以六圍一。此定理中之定数也。

「同じ大きさの正方形が集まって大きな正方形を作るときは、8つの正方形で一つの正方形を取り囲む。同様に、円の場合はかならず六つの円で一つの円を囲む。」

ケプラーの少し後のThomae Bartholini, De nivis usu medico observationes variae (1661)の図解。 https://archive.org/details/bub_gb_A4E54uRxx4MC/page/n23/mode/2up

この時代に生きた方以智という学者がいます。彼はイエズス会士とも交流があり、ヨーロッパ流の自然学を伝統的な陰陽五行説の中に大胆に取り入れ、『物理小識』という自然学書を著わしました。この書物は原理原則から説き起こし、天体、気象、生物、と森羅万象を説明します。『泰西水法』の影響は顕著ですが、特に雪の六角形の説明は全く同じです。

雪花六出者、圜一圍六同體相依。(『物理小識』、風雷雨暘類、霜雪*26

数秘術的な議論からの縛がなくなったせいか、「春は五出」という話は「気候が緩んだから少し変形」という形で肯定されます*27

方以智には『物理小識』の前に『通雅』という名物学的な著作もあって、「雪花六出。朱子曰一六之數也。」(『通雅』釈天)と述べています。これは。伝統的な「成数」による説明のように見えます。『物理小識』ではこれが破棄されたと思って良いのか気になるところです。

いずれにせよ、清朝ではその後、徐々にこの伝統説が強くなってきて『康熙字典』の雪の項目も『埤雅』を引用しています*28。欧州からの伝来説に十分な説得力がなかったことは一つの原因だとは思いますが、保守主義的な傾向も感じます。

ケプラー以降、17ー18世紀

では、同じ時代、つまりケプラーの時代の欧州はどうなったのでしょう?……というレトリックでニーダムらは話を西方にに戻し、デカルトやロバート・フックら、17世紀の観察を紹介します。

デカルト『気象論』

数学者・哲学者のデカルトの観察は意外にも秀逸で、ケプラーの素朴な描写からは大きな進歩です。数種類の雪片を観察された状況の説明付きて図示しています。ZやMは怪しげですが、OやQに変化するのだそうで、生成途中の仮想的な状態なのだと思います。

デカルトの壮大で臆説に満ちた自然学はあまりにも有名ですが、雪や雹の生成のプロセスについても、あたかも見てきたかのように詳しく生き生きとしています。当然いろいろと間違っているのですが、こういった思索が、結晶の形状と気象条件を関連させる観察を促したのも事実だと思います。

六方晶系であることの説明は、ケプラーに似ています。つまり、平面上に粒子がならび、ある粒子の周りを6つの粒子が取り囲む配置を考えています。多分、ケプラーの著作を見ているのではないでしょうか*29

次にロバート・フックの顕微鏡観察誌『ミクログラフィア』。デカルトがこの問題をアリストテレス以来の気象論のトピックとして論じたのに対し、彼は物質の幾何的な構造の一例として扱っています。しかも、「水の氷結物」という章を設けてその一節で論じているのです。非常にシステマティックです。

フック『ミクログラフィア』。Fig 2 と3が雪。

これらの図を見ると、雪の結晶の多様性と通底する規則性への認識を感じ取ることができると思います。フックは「結晶によって枝の形は様々だが、一つの結晶では六本とも同じ形だ」と見事に指摘しています。さらに、「顕微鏡で細部を観察すると、興味深さの程度が減る、なぜなら細かな不規則なパターンが見えるから。これらは降雪途中で乱されて生じたのだろう」として、規則性への強い信念を感じます。(なお、彼が「不規則」だと考えた細かな枝分かれは、現代からみるとフラクタル的な規則の現れです。)。

彼ら以外にも17世紀にはいくつかの発見がありますが、次の18世紀はほとんどなんの進展もなく、19世紀を迎えます。

19世紀、ヨーロッパと日本

19世紀、ヨーロッパの雪の結晶の研究は活気を取り戻し、正確な顕微鏡観察に基づく精巧な図説が出回り、結晶の分類も進みます。

このあたりからニーダムらは筆を再び極東に、しかし今回は日本に向けます。もちろん、お目当ては土井利位『雪華図説』です。

土井利位『雪華図説』

世界的な雪の結晶の研究者であった中谷宇吉郎が啓蒙書で大きくとりあげたこともあって、非常によく知られていると思います。

この顕微鏡観察による雪の分類の研究は、明らかに蘭学の系引いています。ですが、もともと日本は中国文化圏ですから、「六出」「六出花」「六花」などの文言は、当然入ってきてます。試みに検索したら、武田信玄の「寄濃州僧」という漢詩が引っかかりました;

気似岐陽九月寒 三冬六出洒朱欄 …

ただ、「六出」という言葉は結晶の形状とは理解されず、花と雪のイメージを重ねるレトリックとして用いられたようです。例えば、伝統的な雪の表象の「雪輪」は環状の輪郭で、花弁のような刻みがありますが、その数も6とは限りません。例えば下記のリンクの写真や解説、鈴木1997の解説が参考になると思いますが、「「六花」「六出」という言葉は雪片の形状を意識して用いたのではない」という理解が一般的のようです。
学芸の小部屋 -戸栗美術館-

そもそも、『雪華図説』の顕微鏡図を引用した鈴木牧之『北越雪譜』ですら、

肉眼のおよばざる至微物ゆゑ、昨日の雪も今日の雪も一望の白糢糊を為なすのみ。

図書カード:北越雪譜
と記しています。もしも著者が「六出花」を肉眼で観察したことがあれば、また別のいい方をしたと思います。なお、『北越雪譜』の著者の鈴木牧之は雪国の越後の人で、江戸と往復しながら商売をしており、雪は馴染みの存在だったはずです。その人物の観察経験がこの程度のなのだから、あとは推して知るべしだと思います。

ただ、朱子学本草学を深く学んだ人が、文献中の「六出」の意味を取り損ねるとは思えないので、一部に理解している人はいたでしょう。前の節で取り上げた『本草綱目』は江戸時代の初めに林羅山によって紹介され、江戸期の本草学の成立に決定的な影響がありました。もちろん、雪に関する項目がどのくらい読まれかは定かではありませんが…

このあと、18世紀にはいると、西欧の知識を記した中国の書物の輸入が大幅に緩められまました。このときに入ってきた游藝『天経或問』は、天文学の入門書として広く読まれましたが、自然学的な内容も含みます。先に触れた方以智も序文をよせており、彼の説も大いに取り入れられているそうです*30。雪の六角形については、『泰西水法』『物理小識』と同様の説明がついており、上で引用した文言がそっくり繰り返されます。

こう言った「イエズス会→中国人による咀嚼→日本」という経路のほか、蘭学による西洋から直接の知識の輸入がありました。『雪華図説』の直接的な契機になったのはオランダ人マルチネット(J. F. Martinet, 1729-1795)の『格致問答』(Katechismus der natuur, vol 1, 1777)だそうで、ここからいくつかの図を引用しています。本書の影印が以下のリンクで読めます。
v.1 (1777) - Katechismus der natuur - Biodiversity Heritage Library
以下のリンク先の『格致問答』についての解説は、分かりやすかったです。
https://www.literatuurgeschiedenis.org/teksten/katechismus-der-natuur-en-kleine-katechismus-der-natuur-voor-kinderen

Katechismus der natuur Dl. 1

本書は問答形式で、自然界全般のことをわかり易く紹介した啓蒙書で、全四巻。雪の件は第一巻にあります。翻訳ツールで雪の結晶図の直前を少し見てみたのですが、顕微鏡観察の具体的な方法や、注意すべき点が書かれていました。この記述と輸入した複式顕微鏡を活用した成果が、『雪華図説』です。ニーダムらもKink2022も、同図説のスケッチの正確さを認めています。一見様式化され過ぎているようにも見えますが、「肉眼の解像力を限界まで酷使する分野では、細部の様式化はむしろ不可避」でした*31。ニーダムらは、一見精緻に見えてもデフォルメの多いJames Glaisher(1855)のスケッチと比較して、土井の図に一定の評価を与えています。Kink2022は、(土井が参考にした文献と比較して)考察面でも一歩進んでおり、先人の引用ではない独自の観察である点を高く評価しています。

一方で、鈴木1997では、ほぼ同時代のWilliam Scoresbyの多面的な研究と比較して、サイズや気象データの記録がない、立体構造に無関心であるなど、かなり見劣りがすると指摘しています*32。そもそも、土井が参考にしたKatechismus der natuurは啓蒙書に過ぎません。雪の形状の美しさやバラエティについては述べても、それ以上深い問題意識は提示されていないのです。そのような書物から出発した『雪華図説』には、それ相応の限界があったというわけです。ただし、Scoresbyの研究は欧州に於いても画期的だったことは注記しておきたいと思います。

なお、『雪華図説』の雪の結晶の形成の理論は『泰西水法』〜『天経或問』の説明を踏襲しています。上に引用した「凡物、方體相等,聚成大方,必以八圍一。圓體相等,聚成大圓,必以六圍一。此定理中之定数也。」という文言がそっくり『雪華図説』でも繰り返されており、影響関係はあきらかです*33

『雪華図説』の一節。雪の結晶の形状の原因を説明している部分。

中国系統の文献の影響は、「春の雪は五出か」という疑問に言及していることからも、明らかだと思います。なお土井利位は上述の理屈から、この疑問を不当としています。そして、彼は伝統的な数秘術による「陰数」や「成数」を用いた説明に言及していないことも重要なポイントで、つまり、『泰西水法』〜『天経或問』の説に非常に忠実なわけです。一方、通俗版ともいえる『北越雪譜』による解説では、『雪華図説』の説と中国の古代からの「陰数」を用いた説を並べて記述しています。

当然のことではありますが、『雪華図説』が欧米に知られることはなく、また明治以降の西洋科学にも直接はつながっていません。中谷宇吉郎が興味をのも、雪の研究を始めたあとです。ただし、紋様などデザインの分野ではちょっとしたブームを引き起こしたようで、間接的に日本人の科学に対する態度に影響を与えているかもしれません。

結論に替えて

この論文には、ニーダムの科学史観が強く反映されていると思います。彼曰く、各々の文化圏での科学的な探求は、どこかの時点で一つのユニバーサルな科学に流れ込むのだそうです。今回読んだ論文でも、時間の順序にしたがいつつ、東西の間を行き来しながら叙述を進めて行きます*34

これに対して、近年は明末以降アヘン戦争まで続いた、欧州の科学の現地化が強調されます。方以智などに代表されるこの動きを肯定的に捉えている研究者が多くいる中、Kink2022は行き止まりの袋小路だと否定的な見解を述べています。例えば、『康煕字典』では雪の形成の理論が『埤雅』の伝統的な説明に回帰しているなどの「保守化」がみられることを指摘します。Kink2022はニーダムと同様に『雪華図説』を高く評価していますが、これは中国における科学の現地化を叩くための前振りです。つまり、そのまま受容したほうが良い成果が出ているではないか、というわけです。(確かに清朝では独自の雪の顕微鏡観察記録は作られていません。)

しかしながら、江戸時代の日本に西洋の科学が浸透するにあたっては、この中国化が大きな役割を果たしています。『雪華図説』でも雪の結晶を「六出」と述べるなど、中国的な語彙を用い、中国化された西洋説の影響を大きく受けています。これは、『雪華図説』を含む日本的な博物学全般、さらには天文学や数学においても同様です。異質の学問体系の導入にあたって、既存の学問体系とのすり合わせが無駄であるはずがないのです。

一方で、ある時点以降、清朝の科学は停滞期を迎えているように見えます。要は、それを中国化した上での消化という方法論のせいにして良いのかどうかだと思います。

付録:南北朝時代とそれ以降の「六出」の用例

ニーダムらは南朝梁の昭明太子・蕭統の著作として伝わる『錦帯書十二月啟』*35*36

彤雲*37垂四面之葉,玉雪開六出之花。

を引用しています。これが蕭統の真作であるかどうか現在定見は無いようですが(ニーダムらは疑った形跡はありません)、唐以前であることは確定しているようです*38

この他に私の探索した二例を掲げておきます。まず、陳の張正見の五言八句「應衡陽王教詠雪」*39の出だしは

九冬飄逺雪 六出表豐年 …

つまり「六出は豊作の兆しだ」というのですが、この「六出」は前後関係から明らかに雪を指します。*40

また、Lu, 2015, p. 311は梁出身で西魏北周に仕えた庾信(Yu Xin)の「郊行值雪」*41

…雪花開六出 氷珠映九光 …

を雪の結晶の形状の認識の証拠とし、さらに「映九光」を光の屈折によるスペクトルの表現だとしています。

下って唐や宋、元の例は検索するとかなりあります。例えばランダムにあげると、

六出飛花處處飄 ... (章孝標(791-873)《春雪詩》、『唐摭言』(唐末~五代初の詩集))

などが挙げられます*42

参考文献

*1:記録的な大寒波が到来した年には、全く崩れていない美しい結晶が観察できました

*2:参考文献にあげたLettnickの著作は表題は古代後期と末期の注釈家たちも扱っているのですが、やはり目ぼしい記載は見当たりません。

*3:出典として、Rasâ'il al-Kindi al-falsafiyya, ed. M. Abü Rida, 2 vols, Cairo 1950, 1953.の第二巻pp.80-85が引用されています。これはキンディーの複数の著作を二巻にまとめて出版したもので、タイトルは編集者のM. Abü Rida による。

*4:ラテン語テキストや英訳をarchive.orgで見ることが出来ます。邦訳は、ヨハネス・ケプラー (榎本恵美子・訳) 「新年の贈り物あるいは六角形の雪について」 『知の考古学』、第11号、1977年、276-296頁

*5:https://en.wikipedia.org/wiki/Wacker_von_Wackenfels

*6:これはニーダムらは引用していません。

*7:「大明五年正月戊午元日,花雪降殿庭。時右衛將軍謝莊下殿,雪集衣。還白,上以為瑞。於是公卿並作花雪詩。」

*8:なお、『太平御覧』時序部·元日に引用されている『宋書』は「孝武帝大明五年正月旦雪,江夏王義恭以衣承雪,作六出花,進以為瑞,帝大悅。」となっており、衣の雪を報じたのは江夏王の劉義恭だとなっています。以降、これを踏襲した記述が相次ぎます。『資治通鑑』宋紀十一大明五年の「春正月戊午朔朝賀朝直遥翻雪落太宰義恭衣有六出。義恭奏以為瑞上悦。義恭、以上猜暴懼不自容、每卑辭遜色曲意祗奉。由是終上之世、得免於禍」、また『類説』六出花、朱熹資治通鑑綱目』も同様。明の類書『山堂肆考』では『宋書』と『資治通鑑綱目』の違いを指摘しています。江夏王・義恭(劉義恭)は皇族で重鎮でしたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E7%BE%A9%E6%81%AD。しかし疑り深い孝文帝を持ち上げるために何かと気を使ったことが、『南史』の伝に出ています。

*9:『初学記』天部下·雪(盛唐),『太平御覧』天部十二・雪(宋の初期)などにも残っており、ニーダムらは『太平御覧』を引用。

*10:例えば『四庫提要』では両方の可能性を並置しています。西村,1963, pp.2-5を参照。『韓詩外伝』は各々の章段の独立性が高く、非常に多くの異本の存在が推測されるとのこと。漢書芸文志によると韓詩外伝は六巻だが、隋書経籍志以降は十巻。また、各種文献に残る遺文には趣旨は同じでも長短のばらつきがある。

*11:「生数」「成数」がいつからある概念かは知らないのですが、水~土に1~5、あるいは6~10を対応させる説は前漢以前からあったようです(平澤,2014, 第一章。)。

*12:雪花所以必六出者,蓋只是霰下,被猛風拍開,故成六出。如人擲一團爛泥於地,泥必灒開成稜瓣也。又,六者陰數,大陰玄精石亦六稜,蓋天地自然之數。(『朱子語類理気下・天地下)

*13:ただ、これを19世紀のレイノルズの観察と比較するのはいかがなものかと思います。例えば、デカルト『気象学』でも、雹や霰の中には球を八分割した形のものがある、と述べられていて、尖った形状であることは、もう少し早くから観察されていました。

*14:分天文地理人身庶物曆數氣候鬼神事義八門。皆卽數究理。推求天地人物之所以然。(四庫提要)

*15:早稲田大学所蔵の江戸時代の和刻本。https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i05/i05_01217/index.html

*16:真正として受け入れる場合が多いようです。末永高康「『曾子』初探 : 『大戴礼記曾子立事篇を中心にして」『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編』第58巻、2007年

*17:名物学については、辜承堯, 2018, 青木正児の名物学研究とその評価について: 関西大学東西学術研究所, A227–A248 https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/2084。また、澁澤尙、羅願爾雅翼考、立命館文學 538-560, 2019-12、原田信 陸佃の『禮象』について--出土彝器收録の意圖、中国文学研究,巻36, 60-73, 2010年12月 http://ci.nii.ac.jp/naid/120005300959 の本論に入る前の概説部分を参考にしました。また、西村三郎、文明のなかの博物学:西欧と日本(上) 1999年08月31日, 紀伊國屋書店、第三章。なお、清の時代に入ると、名物学は考証学的な色彩を強めるのだそうです。

*18:南宋の鄭樵『通志』昆蟲草木略の自序では、「學者操窮理盡性之說,以虛無為宗,實學置而不問」と性理学に傾きがちな当時の学風を批判しています。

*19:『大戴禮記』曾子天圓にこの文句があります。「陰陽之氣,各從其所,則靜矣;偏則風,俱則雷,交則電,亂則霧,和則雨;陽氣勝,則散為雨露;陰氣勝,則凝為霜雪;陽之專氣為雹,陰之專氣為霰,霰雹者,一氣之化也。」

*20:『春秋左伝』昭公四年春「大雨雹,季武子問於申豐曰,雹可禦乎,對曰,聖人在上,無雹,雖有不為災,古者日在北陸,而藏冰西陸,朝覿而出之,其藏冰也,深山窮谷,固陰沍寒,於是乎取之」が念頭にあると思われます。ここで「申豐」は人名で、季武子の家臣。

*21:訳文をつけれていないのは、私の読解力が足りないからです。Kink2022 sec.2の脚注に英訳があるのですが、幾つか腑に落ちない点があるので、このままにしておきます。まず、この疑問の程度のニュアンス。それから「水所結」をconnected to warter と翻訳していること。

*22:Kink 2022 sec.2. 「雪花六出,先儒以雪為水結,地六為水,故六出也。雲間唐龍江以為春雪五出,豈非水所結耶?勿得其義。不知水乃陰物,陰盛極寒,則成雪也,地六為水之說非謬;至春則陽和矣,一時雖寒而成雪, 非至盛之時,故散碎而不見其形質耳,亦不特五出也。」(『七修類稿』巻ニ天地類)

*23:この点、Kink2022の本記述への言及は批判的な側面のみを語っていて、一面的すぎると思います

*24:Kink2022, Sec.2の終わり

*25:ガリレオは協力要請を断っています

*26:https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_c0124/index.html

*27:春五出。以煖而稍化耳。(上記の文への割注)

*28:Kink2022

*29:この件についてではないのですが、ライプニッツデカルトケプラーを引用せずに参考にしているのでは、と疑っています。

*30:Kink2022 及び、吉田忠『天経或問』の受容、科学史研究、II, 24, 1985

*31:鈴木1997

*32:鈴木1997 pp. 46-52

*33:Kink2022, sec. 6. 鈴木1997では同時代の欧州の文献の影響を考えているのですが、Kinkの指摘の方が適切だと思います。

*34:このような歴史観に基づいて、ニーダムの『中国の科学と文明』の天文学史部分では、イエズス会の西洋天文学導入にかなりのページを割いています。だだし、彼は科学の紹介をキリスト教布教の手段と位置づけたイエズス会の方針にかなり批判的です。このせいで科学のユニバーサルな性質が歪められ、アリストテレス的な天球理論が紹介され、地動説が伝わらず、また中国側の長所にも気が付かなかったと。

*35:昭明太子・蕭統は『文選』の編纂で知られる

*36: 単に『錦帯書』とも。清の嚴可均 『全上古三代秦漢三國六朝文』全梁文十九や元末明初の『説郛(せっぷ)』正七十六に収録。昭明太子・蕭統は『文選』の撰者でもあります。『錦帯書』は書儀あるいは月儀、すなわち六朝〜唐の頃に盛んに出された書翰の文例集の一つ。「では、書儀とは如何なるものか。周一良『書儀源流考』 によると「いわゆる書儀とは、つま り手紙の書き方・範本で、人々が模倣・援用すること。」と定義されている。」(祁小春『唐代書儀と王羲之尺牘との関係について』関西大学東西学術研究所紀要50, 2017年4月) 書儀と月儀の違いは題目の選び方にあるようです。なお、英文の解説ではこれを「詩」と紹介するものがあるが、誤り。

*37:あかね雲. (雪の降る前の)陰うつな黒ずんだ雲.

*38:祁小春『唐代書儀と王羲之尺牘との関係について』関西大学東西学術研究所紀要50, 2017年4月, pp.404-405

*39:私の見つけた範囲での初出は唐・開元年間の類書『初学記』天部下です

*40:話がずれますが、『宋書』符瑞志と共に、雪を良い兆しとしているのも興味深いです。矢嶋美都子『豐作を言祝ぐ詩 ―「喜雨」詩から「喜雪」詩へ―』日本中国学会報 第三十七集 1985年, p.85

*41:現代に伝わる初出は『庾開府集』です。この書物の伝世については、やや不安な点があります。『四庫提要』の「庾開府集箋註 十卷」の項目を参照。なお、明末の写本が東洋研究所で見ることができます、http://shanben.ioc.u-tokyo.ac.jp/main_p.php?nu=D7114600&order=rn_no&no=01674。これの巻四に出ています。

*42:またctext.orgで各種詩文集が検索できます。『全唐詩』などは網羅的で便利だと思います。宋や南北朝時代のものが一部混入し、作者を間違えていたりするそうですが、今は南北朝〜宋にかけての使用状況を概観したいだけですから、問題ないと思います。宋の時代に編纂された『文苑英華』も検索できます。これらの文集の性格については例えば以下のリンクを参照。https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/koten/kanshi/nihon1_3.htm