中国と西方の天文学

中国の天文学は、やや遅れて発展した。

西方の数理天文学は、古代メソポタミアにはじまる。これがギリシャ~インド~アラビア~ヨーロッパと継承されていく。対して中国では、ほぼ一独自の発展を遂げる。(もちろん、外来の影響はあった。)

だが、立ち上がりの時点で既に、西と東の差は歴然としていた。例えば、メソポタミアでは知られていた、月や惑星が獣帯にそって動き、この帯にそった分割(今の黄経に近いもの)が運動の分析に便利であることが中国で知られるのは、後漢に入ってからである。このスタート時点での差は、最後まで埋まっていない。

唐の玄宗の頃にインドからインド化された西方天文学九執暦が入るが、当代一流の天文学者密教僧の一行ですら理解できなかった。次いで、元の時代にはイスラム天文台が作られ、暦が明初に翻訳される。抵抗が大きかったにも拘わらず、翻訳が行われた背景には、官吏と皇帝の権力闘争もあっただろうが、やはりすぐれた暦だったからだろう。

明代はどうしたわけか、何度も天文学者からの進言があったのに、改暦は全く行われない。回回暦も同様で、元の時代のままである。これでは、当時最新の西洋天文学に適うはずがない。日食の予報で精度の差をみせつけられ、中国伝統天文学イスラム天文学も、徐々に分が悪くなっていった。

ただし、予報を比較すると、日食の持続時間や食分こそは大きくずれるが、食分のピークの時刻は大統暦のほうが良い数値をだした。もし改暦が行われていたら、もう少し健闘できたかもしれない。なにせ、地球から太陽までの距離の見積もりは、ヨーロッパでも中々正確にならなかった。この不備が日食の予報に影響しないはずがない。特に、ヨーロッパ近辺で作成した天文表を経度差で補正して用いる場合には。ただもうすぐケプラーニュートンの登場となるから、そこまでくると勝負にならない。

かつて精読した中山茂の本では、ギリシャ幾何学的なモデルを作る手法に対し、古代メソポタミアや中国の算術的、あるいは代数的な手法を対置していた。後者は、データから補間して天体の位置を計算する「クソ実証主義的な」手法で、最小二乗法的な発想がなく、データに合わない時に修正の方針が立たないことが問題だとされた。

読んだ当時はあまり疑問に思わなかったが、最近は違和感を感じるようになった。

中国の理論も、天球上の太陽と月の道筋は考える。一方、ギリシャ系の天文学幾何学的な理論も、かなり現象論的な理論である。なるほど惑星の理論においては、周天円の役割ははっきりとしている。外惑星に関しては、周天円は太陽の平均運動そのもので、地球の公転の効果そのものである。だが、月や太陽の場合、周天円の意味はそれほど明瞭ではない。特に、月の場合は周転円を重ねることで、距離については非常にまずい予測を出すようになった。

出来上がった理論を見れば、ギリシャ系の天文学が優れているのは確かではある。しかし、これは中国の出足が遅れたからで、手法の問題ばかりではない気がする。特に、太陽と月においては。

南仏で14世紀に活躍した、ゲルソニデスというユダヤ人学者がいる。哲学者として有名だが、天文学でも多くの仕事を残している。その一つに、悪名高いプトレマイオスの月の理論の改良がある。

プトレマイオスの理論では、半月の時に視直径が二倍になってしまい、あまりにも非現実的だった。これは、見かけの方向の変動に合わせるために円を重ねていき、奥行き方向への配慮が足りなかったからである。それに対し、ゲルソニデスの理論で使う円はたった一つである。(ただし、中心は地球の中心とは異なる場所に固定される。)これで過大な距離の変動を抑えることができた。

ゲルソニデスの理論は、十分な精度を出したようだ。だが、運行速度の決定は、かなり複雑な幾何的な処理を経る。このプロセスが何らかの物理的な描像に対応するとは、ちょっと思えない。ならば、中国流に算術的に表現するのもありではないかと思ってしまう。

また、「最小二乗法的な発想」は西方の天文学にも存在しない。プトレマイオスもその後継者も、選び出したデータにぴったりと合うように軌道要素を決めていく。