「歷」と「曆」

最近、明や清の時代の天文学書を眺めることがあるのですが、それらでは「歷」を「曆」の代に用いることが多いです(以下サボって新字体で書きます)。よって中国のデーターベースを検索する時に『考成』でかからない時は、「歷」で試します。

これらの字は、形も似ているし音は同じです。『説文』(大徐本)には、

-歷:過也。从止厤聲。

-曆:厤象也。从日厤聲。《史記》通用歷。

とあり、ともに音は「厤」という字と同じだというわけです。『康熙字典』でも、いくつかの韻書を引いて同じ音だとしています。しかも、暦は史記では歴とも書く、とあります。この事実はctext.orgでの検索でも簡単にチェックすることができます。現存する字書の中では『説文』についで古い『玉篇』には、

-象星辰, 分節, 序四時,…本作歷, 古本作厤

とあるようです(元の時代の刊本とのこと)。

http://www.shuowenjiezi.com/char_s.php

つまり、元は暦は歴と書いたし、さらに古くは厤と書いたと。「厤」を『康熙字典』で引いた結果を貼っておくと、

-厤:《玉篇》古文曆字。註見日部十二畫。又《說文》治也。《玉篇》理也。亦作秝。

『説文』ではおさめる、『玉篇』には「理」とあるようですが、これも「おさめる」だと思います。

字書を引いた結果で整理すると、暦は元々は「厤」だった。「歴」で代用することもあったーということになりそうです。漢字は元々は象形文字ではありますが、抽象的な事物を表す場合は、音で考えた方が良いことが多いように思います。よって、まあ自然な経緯なのかなあと思います。

字書を信じていいか

しかし慎重を期すと、字書を信用して良いのか?が気になります。

『説文』は後漢の許慎の撰とされますが、今手軽にネットで引けるものは北宋の徐鉉が断片をかき集めて作った「大徐本」です。これは、少し前に弟の徐鍇の「小徐本」を補ったもので、「新附」として新たに字が付け加わっています。「暦」は「新附」なのでは?というのが昨晩の一夜漬けの私の結論です*1。「新附」だから怪しいとまでは言いませんが。。。

同じようなことは『玉篇』にも言えて、北宋の時代に語釈や用例を削り親字の配列を変え、し親字を増補した『大広益会玉篇』が出ました。上のサイトで提供されている版がこれの系統を引いている可能性は高いと思います。『康熙字典』への引用も同様です。

一応、四庫全書に収められている版は見たのですが、少なくとも他の版よりも古い形を保っているとは言えなさそうです。まず「日」の部に入っているのに、親字が「歴」の異字体「厯」になってしまっています。部首がおかしいですし、これでは「本作厯(本来は厯と書いた)」の文が「厯は本来は厯と書いた」という意味になってしまい、明らかにおかしいです。「日の部にあるのだから、親字を然るべく置き換えて読め。」という「仕様」なのでしょうが、「字体も含めて、古来の形を極力残す」方針ではなさそうです。

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また、唐の時代の写本が日本に伝わっているのですが、欠落した部分の方がずっと多く、残った巻の番号から判断すると「暦」の部分は欠けていると思います。

つまり、この二つの字書はどちらもオリジナルは古いけれども、今アクセスできるバージョンは、かなり新しいです。

そもそもオリジナルの字書であっても、字書に書いてある起源の説明を鵜呑みにできるはずがありません。所詮は当時の信念ですから。

用例を考えると。。。

よって字書だけで結論を出すのは危険なのですが、用法を見るとまあ、さほど的外れでもないのかなあ、というのが今のところの私の結論です。「厤」や「歴」を暦の意味で用いる例は結構あるのですが、その逆は今のところ見たことがないからです。

歴史と「歴」

ところで、今日本で「歴」とだけ書いたら「歴史」をイメージすることが多いのではないでしょうか。例えば「僕は歴オタで」と名乗ると、歴史好きだとだいたいの人がわかってくれます。

しかし、ctext.orgや中央研究院の漢籍データベース

https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihp/hanji.htm

などで「歴史」と検索しても、ほとんど引っかかりません(後者は一見かなりの数がヒットしますが、よーく見ると『清史稿』(民国)だったり、添付されたタイトルの説明文が引っかかっていたりがほとんど)。

そもそも、上に引用した『説文』でも「経過する」「過ぎる」という意味だとしていますし、『康熙字典』もこれを本義としています。他の意味もありますが、「歴史」という意味はなさそうです。

Wikipedia 日本語版の「歴史」の項目を見ると、どうやら、この言葉が本格的に使われ始めるのは、江戸時代の日本とのこと。本当かどうかはもう少し調べないとわかりませんが、中国の状況は上記の通りです。なお、中国でも民国以降は随分使われます。

 

 

*1:清の鄭珍『説文新附考』https://ctext.org/library.pl?if=gb&res=85305に記載されているため。

中国の月食と宇宙論 (1)

前回のブログで、ギリシャとの比較で中国の月食や月の理論に触れたのですけど、書いてみて気になることが出てきたので、調べてみました。今回は、その備忘録です。

月食の謎

日食の仕組みは、古代メソポタミアでも中国でも、比較的早い段階から理解されていました。そして、アリストテレスプトレマイオスは、月食もまた日食と同じく、太陽光の天体による遮蔽で説明しました。

gejikeiji.hatenablog.com

ですが非専門家にとっては、月食は少し不気味で分かりにくい現象だったと思れます。例えばプルタルコス(前2世紀)によると、紀元前5世紀のアテネの政治家・将軍のニキアスは月食を恐れてシラクサ遠征軍を引き上げたそうです*1。「迷信が蔓延っていた上に、赤黒く光りだすから」とのこと。またプルタルコスの時代においても、月食の時には金物や手を叩いて不安を沈めたとことが、彼の『月の模様について』XXIX*2で語られています。この書物では、月食の仕組みも説明されているのですが、あっさりとした日食と日没の説明の後に、ほぼ一節を丸々費やしています。

中国に於いても、月食は不吉とされて太鼓などを叩いたそうです。ただ、ギリシャと違って不吉さの度合いは日食の方が甚大だとされ、対処の儀式もより壮大でした。これについては、日食の予測が困難なことを理由に挙げる解説は多いと思いますし、史料的な裏付けもあります。ただ、ギリシャ月食がより不吉とされたことをおもうと、単純にそれだけではなく、中国固有の論理があったのでしょう。例えば、日月を陰陽や君臣と対応させて、陰が陽を、臣が君を冒すからだという説明がありました。これらは後付けかもしれないのですが…

暗虚

しかし仕組みの説明に関していえば、予測や不吉さの度合いとは全く逆で、中国に於いても月食の方が難しいとされました。むしろ事態はより極端でした。ギリシャでは、月食の仕組みは日食のそれとかなり近く、遮蔽するものが月か地球かの違いだけです。

一方、中国の月食論はかなり独特です。月を隠すものは「闇虚」「暗虚」とよばれて、これは大地の影ではありません。私は当初、何か仮想的な物体による影なのかと誤解していたのですが、実は普通の意味での影ですらありません。欧州の天文学が明末に紹介されるまで、世界でトップ水準の知性たちが、この説を支持し続けました。

なお、朱載堉は十二平均律の発明で名高い明の律暦家です*3。私は暗虚のことを、ネットに転がっていたこの新井先生論文で初めて知りました*4

趙友欽は元の時代の独創的な民間の天文学者で、カメラ・オブスクラの手の込んだ実験で有名です。西方でこれに類したことが行われるのは、ルネッサンス以降でしょう。

高度だった中国天文学

暗虚説は現代から見れば、荒唐無稽です。ですが、それを生み出した中国の天文学の水準はかなり高く、月食の予報もかなり高い精度でできていました。日食についても、元の授時暦(1281年制定)ではまずまず良い予測ができていました。これに少し改良した大統暦は、1629年に科学革命進行中の西洋天文学(おそらくは、ティコ・ブラーエや後継者のロンゴモンタヌスの理論)と日食予報の勝負をしました。上記で紹介した朱載堉が亡くなったのは1611年ですから、その直後です。大統暦は惜しくも破れるのですが、ベースとなった授時暦の古さを考えると、かなり良い勝負になっていると思います。日食の開始時間の予報は二分くらいしか違いませんし、食が最大になる時刻の予報では大統暦の方が勝っています*5f:id:gejikeiji:20230411050739j:image

もちろん、日食の理論だけでは天文学の水準は測れませんし*6、また予測ができたからといって、物事を深く理解しているとは限りません*7。中国の天文学は、「背景の理論を深めず、データから数値的な予測を弾き出すことに専念した」という(ある意味では正しい)説明がよくなされます。

しかし、中国天文学月食の予測は、日月の運行のある性質を理解することによって初めて可能になったのでした。地球を中心にして見ると、太陽や月は各々の軌道面の上を動いており、大きくはみ出ることはありません。よって、日食や月食は軌道の交点近辺だけで起こることがわかります。また、これらの交点が周期的に回転していることも認識していました。彼らも、何の描像も無く数値を弾き出したのではないのです。

「こんな簡単なこと」と思うかもしれませんが、例えばエウドクソス・アリストテレスの理論やスミュルナのテオン(紀元二世紀)の理論によると、太陽は(前者においては月も)一つの平面に束縛されない複雑な運動をします。

つまり中国の天文学は、それなりに高い水準にまで発展していたのです。

なぜ暗虚論を調べるのか

このように高度な中国天文学ですが、明らかにギリシャ天文学とは異質で、背景にある宇宙論も全く異なります。我々からすれば、月食を光の遮蔽で理解する古代ギリシャの説は、非常に自然でわかりやすいです。一方、中国の暗虚論は非常にとっつきにくい。それはおそらく、ここに中国宇宙論の特異性が凝縮されているからだと思います。

思うに、ギリシャ的な月食の説明が成立するためには、宇宙の構造についてのいくつかの仮定を了承しないといけません。例えば、

  1. 月は太陽の光を借りて光る
  2. 宇宙は地球を上下左右から取り囲んでいる
  3. 宇宙は地球よりも十分大きい
  4. 太陽は地球から十分に離れている
  5. 地球は球体である

中国の宇宙論は、これらの全てを了承したわけではありません。特に、4と5が受け入れられていませんでした。また、中国には陰陽五行説に基づく、独自の自然学がありました。こういったことが全て、月の暗虚の理論の必須の前提になっているのです。

なお、中国にも「暗虚=地影(大地の影)」だとする説(地影の説)はありました。このことから、この奇妙な説をとった理由が、発想力の不足でないことがわかります。比較検討の結果、やはり暗虚の方がよかろうということになったわけです。この間の議論も非常に興味深いです。

暦家と暗虚の説:『隋書』

上記の新井論文によると、『隋書』天文志・中・七曜に引用される張衡(後漢)の説 

張衡云、「對日之衝、其大如日、日光不照、謂之闇盧闇虚逢月則食月、値星則星亡。」

が暦家の標準的な暗虚の説なのだそうです。

そこで『隋書』を検索すると、律暦下の皇極暦(劉焯撰)の「推日食所在辰術」の直前にも、さらに説明がありました。(皇極暦は施行されなかったものの、南朝北朝、双方の天文学の成果を踏まえた画期的な暦でした。)まず日食の説明があった後に続いて、以下のように詳しい、しかし難解な説明があります。

月食以月行虛道,暗氣所衝,日有暗氣,天有虛道,正黃道常與日對,如鏡居下,魄耀見陰,名曰暗虛,奄月則食,故稱「當月月食,當星星亡。」雖夜半之辰,子午相對,正隔於地,虛道即虧*8*9

まあ、「日有暗気、天有虚道」はわからないなりに飲み込むことにしましょう。とにかく、太陽自身と月の通り道にある「虚道」の両方に原因があるようです。「如鏡居下…」あたりは全く分かりません。とにかく、大地を挟んで太陽と月が正面で向き合い、かつ月が虚道に入ると月食になるようです。

この後は月が虚道に入らない場合についての説明が続くのですが、大地を隔てていても太陽の光の神妙さからか、なんら損なわれることなく、月を照らすそうです*10

暦家と暗虚の説:『新唐書

また『新唐書』暦志・三下の大衍暦への導入部分にも、暗虚の説明が出てきます。盛唐の密教僧・一行の編んだ大衍暦は影響力が大きく、故にこういった手厚い解説がついたのでしょう。ただし、それでも暦書の部分はひたすらアルゴリズムの記述です。

日月蝕の条件の説明は一行の著作『略例』からの引用で*11、日食の後に月食の説明があります:

以圓儀度⽇⽉之徑,乃以⽉徑之半減入交初限⼀度半,餘為暗虛半徑。以⽉去黃 道每度差數,令⼆徑相掩,以驗蝕分,以所入⽇遲疾乘徑,為泛所⽤刻數,⼤率去交不及三度,即⽉⾏沒在暗虛,皆入既限。

とりあえず、暗虚の文字が見えること、数値を交えて論じていることは直ちに確認していただけると思います。暗虚の半径も「入交初限一度半から月の半径を減じたもの」と具体的に与えられています。つまり、暗虚の理論は、暦家の数理的な理論と関係しながら定着したようです。ただし暗虚論を元に幾何学的にアルゴリズムを作ったのではなく、アルゴリズムが先にあって正当化しているように見えます。

月食の推算方法

暦家の月食の計算方法は、以下の論文の「五 乾象暦の食予報」で多少イメージを作ることができましたが、詳細は理解してません*12

HERMES-IR : Research & Education Resources

ギリシャ天文学を「空間と幾何の天文学」とするなら、中国天文学はしばしば「時間と算術の天文学」と対比されます。軌道のどこに月が居るかを考えるのではなくて、周期で割り算した時間の余りを考えるのです*13。これを速度で割れば角度に直すことはできますが、第一義的には時間で考えています。そもそも、中国の角度概念は時間と強く結びついていて、全天を一年の日数で割ったものです。とにかくこういった方法で、満月のときの月と交点の距離をもとめ、それを見て皆既食か部分食かなどを判定します。

また以下の論文では、中国の日月食の理論が如何に幾何的な描像に乏しいかが、具体的に語られています*14。この論文で、最初の幾何的な理論とされるのは、元の『授時暦』で、イスラム天文学の影響も視野に入っています。しかし幾何といっても三次元ではなく、球面の一部を平面で近似し、月と暗虚の重なり具合を見るのです。逆に言うと、伝統的な中国の月食理論は、このレベルの幾何の利用もなかったのです。

-曲安京,訳:大橋由 起夫,中国古代における日月食の開始終了時刻の算法と外域の暦法との関係,数学史研究,164号(2000)https://cir.nii.ac.jp/crid/1520572359650739328

ただ、上に引用した『略例』の説明では、暗虚の半径をわざわざ具体的に求めており、幾何的な直感がまるでないわけでもないのです。そもそも、黄道と月の軌道の交わる点で月食が起こるとする理解も、幾何的な描像なしにはあり得ないのですから。

後漢の張衡と唐の瞿曇悉達

上に引いた『隋書』の暗虚の説の出典は後漢の張衡なのですが、一行の同時代人の瞿曇悉達『開元占経』や『後漢書』天文志上・劉昭注(南朝梁)に長文が引用されている張衡『霊憲』の文は違ったニュアンスのように見えます(この二つは同一)。かなりの長文なので、『隋書』と対応するところだけを引用します:

當日之衝、光常不合者、蔽於地也、是謂闇虚、在星星微、月過則食

『隋書』との対応は明らかで、時代や引用の長さを考えれば、こちらが原型に近いと思います。「蔽於地也」は「地におおわれる」と読め、地影の説のようにも見えます。新井氏もその可能性を認めますし、大橋由紀夫氏や前原あやの氏は、より断定的に肯定しています*15*16。他の専門家の意見はわからないのですが、(漢文弱者の私の意見などは何の説得力もないけど) 不自然な読みではないと思います。

なお、瞿曇氏はインドから来てギリシャ・インド系天文学の九執暦を伝えた一族なので、彼ら自身は月食を地球の影だと考えていたでしょう。

ただし、起源はどうであれ、隋唐期の暦家の大勢は暗虚説だったようです。

沈括『夢渓筆談』

北宋の技術官僚・沈括の随想『夢渓筆談』には、天文学宇宙論関係でも興味深い内容の記事がいくつもあります。(『朱子語類』でも沈括の名は何度か挙げられています。)

例えば、太陽・月の運行の理論の「九道」が簡潔に説明されています。まず、月の軌道を8つの区間*17に分けます。これら8つに黄道を加えて九道といいます*18。月の速度の変化は複雑で一つの計算手順では表しきれなかったので、このように分割して処理したようです*19

少し違和感があったのは、天体の実体についての見解です。天体は気であって「形」はあるが「質」はないので、重なってもぶつからないのだ、とするのです*20。奥行き方向の広がりを説明には使わない。しかしその直前では、月が球形であることを満ち欠けの形状から結論していて*21、こちらは奥行き方向を使っています。三日月の説明では、斜め後ろから照らされることを想定しないといけませんから。

本題の日月食についてなのですが、まず、彼は黄道と月の道は一致しないことに注意します。ゆえに満月や新月の時でも必ずしも食にならず、食が起きるのは、両者が交わる点(昇交点、降交点)に月と太陽が入った時だと説明します*22。ですが、ここでは日食も月食も「月が太陽を遮る」*23「暗虚が影を作る」といった説明はありません。もちろん、これらの説明を知らなかったはずはない。ただ、日食と月食で欠けはじめる方向が逆になることが指摘されており、この説明で仕組みを暗示しているのかもしれません。何か理由があって、 敢えて露わにに言わなかったのでしょうか。

朱子と天体論

南宋の大儒、朱子も自然学の一環として天体論も論じています。これだけの超大物であれば、後世への影響も大きそうです。新井論文*24でも、趙友欽への影響について具体的な指摘があります。

万能学者の朱子にとって、天文学は多くのテーマのうちの一つに過ぎなかったでしょうが、自宅に渾儀を据え*25、蘇頌の著作をもとに研究したといいますから、相当のエネルギーを注ぎ込んでいたと思われます*26

「渾儀」はアーミラリー球のような観測器具、または天体の運行を再現してみせるシミュレーターを指すこともあります。前者を渾天儀、後者を渾象儀とよび分けることもあります。なお、朱子が参考にした蘇頌の著作にあるものは、三層にわかれ、一番上に計測機器としての渾儀、二番目にシミュレーター、三番目に報時系統を備えていたそうです*27。この蘇頌の渾儀は、機械式時計の鍵となる脱進機構を備えていました。なお、脱進機構の初めは唐の一行のようです。 ))。

朱子の関心の中心は、北極星の観測だったらしいです。中国の天文学は北極と赤道の天文学などとも言われ、西方で黄道や地平線近辺の現象が重視されるのと対比されるくらいです。北極星は、自らは動かずに他の星の運動の中心になるということで、統治論で比喩として持ち出されますし、伝統的に非常に重視されていました。

ところが、 細い管を通して観測すると、動かないはずの北極星が少し動いていることが確認できる*28朱子経書に出てくる「北辰」を北極星ではなく、北極のことだと解釈してこれを乗り越えるのですが*29

なお沈括『夢渓筆談』でも、北極星の運動を指摘し、その計測について詳しく語っています。朱子はこの書物や沈括の名を何度か言及しているので、影響を受けた可能性があります。

朱子語類

朱子の天地論については『朱子語類』の巻一と巻二が引かれることが多いように見えます*30。これは朱子の死後、弟子たちが対話の記録を持ち寄って編集したので、今ひとつ系統的でないのですが。

彼の天体論の基本は、暦家の標準的な説であった「渾天説」で、静止した大地を宇宙の真ん中に置き、天体をその周りを周回させます。そして古い蓋天説(天も地も平らで、平行)は否定します*31*32。しかし、『晋書』などにある渾天説では、平らな大地は水に浮かび、天体は天球に張り付いていました。これでは太陽は水を潜らねばならず*33月と太陽は日食の時に衝突してしまいそうです*34

それに対して、朱子は大地と水の塊を宇宙の中心にポッカリと浮かべ、それを「気」で支えました。天体は天球から離れて自由に動きまわります。万物は全て「気」から生じ、重いものが中央に固まって地になり、清いものが天や天体になりました。大地と水は中央で動きません*35。水が無くとも浮いてられる理由は、気が動き回っているからで、これが止まってしまえば須く陥落してしまうだろう、とのこと。

天運不息,晝夜輾轉,故地搉在中間。使天有一息之停,則地須陷下。惟天運轉之急,故凝結得許多渣滓在中間。地者,氣之渣滓也,所以道「輕清者為天,重濁者為地」(巻一)

 

朱子の暗虚論

月食についていうと、彼は暗虚のメカニズムを考えます。『隋書』律暦下の「日有暗気、天有虚道」の影響も感じられますが、異なるところもあり、またずっと詳しいです。以下、巻ニから関連する章句を抜粋します。

  1. 固是陰敢與陽敵,然曆家 ⼜謂之暗虛。蓋火⽇外影,其中實暗,到望時恰當著其中暗處,故⽉蝕。
  2. 月蝕是日月正相照。... 蓋陰盛亢陽,而不少讓陽故也。
  3. 月食是與日爭敵。

いずれも手短な日食の説明の後の直後で、「一方で月食は」という感じです。3の「月食是與日爭敵」は非常にわかりやすい説明で、太陽と月は反対の性質なので、それらの競合が起きるのだそうです。2の「蓋陰盛亢陽,而不少讓陽故也。」はこの月と日の競合の具体的な内容です。古来、日月は「太陽の精」「太陰の精」と言われたように、前者は陽で後者は陰です。この正反対なものの競合が日月ちょうど正反対の時に誘発される、という感じなのでしょう。

ちょっと違った説明が、1だと思います。火や太陽は外側は光(影)を発するけれども、中は暗い。上で引用した『隋書』律暦下の「日有暗氣」を詳しく語っているのだと思います。太陽の中に「暗気」があって、それが月が真っ正面にやってきた時に月に影響を与える。3の説明では、太陽と月のプラスとマイナスの打ち消し合いだというのに対して、1の説明では太陽の中に「暗気」というマイナスの要素が仕組まれていて、それが引き出されるとしているわけです。

大地の影は?

朱子月食を暦家の説に従って、暗虚で説明しました。しかし、月が太陽の光を借りて光る以上、大地が月に影を落とす可能性を考えないのはおかしいのではないか?これは、そもそも「満月の時、なぜ太陽の光は地に遮られずに、月を照らすことができるのか?」という疑問とも関係します。

いい加減長くなったので、今回はこの位にします。

*1:『対比列伝』

*2:これは『モラリア』の第12巻です

*3:朱載堉の月食論は、『明史』暦志・一や『律暦融通』巻四にあります。上記に記された議論は両方に出ています。『律暦融通』の議論では、旧説として大地による遮蔽説を紹介し、それを反駁しています。『律暦融通』はWikisourceでは、『古今図書集成』に収録された巻四が公開されています。https://zh.wikisource.org/wiki/欽定古今圖書集成/曆象彙編/曆法典/第049卷 また、archive.orgでは四庫全書版があります。https://archive.org/details/06054861.cn

*4:朱載堉『律暦融通』における趙友欽の影響は随所に見て取れて、直接引用している箇所もあります。

*5:西洋暦法では、何故か食が最大になる時刻が開始と終了の中点から外れていますが、月の速度の変化を考慮に入れたとしても明らかに外れすぎています。仮に中点に寄せた値にすると、誤差はさらに大きくなります。ここは下の表の元になった文献が、西洋暦法推進の立場から書かれていることも考慮すべきかもしれません。また、大統暦が大きく劣っている食の継続時間なのですが、この暦が作られたときの明の都(南京)に合わせて作ったまま未調整だったせいかもしれません。南京での日食の継続時間は、大統暦の計算に近いです。

*6:例えば、ティコの月の理論は、日月食が起こる近辺の運動についてはあまり大きな差にはなりませんが、その他のところでは非常に精度を改善しています。中国には地球球体説もなく、視差の取り扱いもアドホックです。また惑星の理論での優劣ははっきりとしています。

*7:このことは、近年の機械学習の発達のおかげで、広く知られるようになったと思います。正確に交通量の予測ができても、AIやAIのプログラムの作成者が交通量が決まる仕組みを理解しているとは言えないでしょう。

*8:魄:魂、月の暗い部分。https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I024436691-00?lang=en においては、地球からの照り返しで月の暗い部分が薄く光る現象だとされていますが、「耀」とこれの対だけが書かれているので、やはり暗い部分を指すのではと思います。

*9:耀 輝く、輝き。虧:損なったり欠けたりすること。

*10:既月兆日光,當午更耀,時亦隔地,無廢稟明。諒以天光神妙,應感玄通,正當夜半,何害虧稟。月由虛道,表裏俱食。

*11:舊歷考日蝕淺深,皆自張子信所傳,云積候所得,而未曉其然也。つまり「旧い日食の理論は遡ると張子信(北魏-北斉、歳差の発見者)によっていて、観測の蓄積に拠ったとしているが、明晰でない」と前置きした後に続きます

*12:本論文では、中国の月食理論を「大地による遮蔽」としています。私が見た範囲では、この解釈の同意者は少ないと思います。

*13:もちろん、周期も速度も変化しますから、その補正は入れます

*14:ただ大衍暦の説明はありません。

*15:https://doi.org/10.15057/10621及びhttps://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I024436691-00?lang=en 後者は日本中國學會のホームページからダウンロード可能。http://nippon-chugoku-gakkai.org

*16:なお、星が暗くなるというのはおかしな話ですが、光を太陽から借りるという理論からは仕方がないのでしょう。『隋書』所引の「値星則星亡」よりは現実に近いですし。

*17:紅(南)、黒(北)、青(東)、白(西)の各々をさらに黄道の内(北)と外(南)にわけます。月の道全てを白道と呼ぶのは、見た範囲では元史からです。

*18:黃道內外各四,并黃道為九。黄道も加える理由は、内外を移る時に一瞬通過するからという理由にようです(『新唐書』暦志三)

*19:日月之行,有遲有速,難可以一術御也。故因其合散,分為數段,每段以一色名之,欲以別算位而已。

*20:日、月,氣也,有形而無質,故相直而無礙。

*21:日月之形如丸。何以知之?以月盈虧可驗也。

*22:なお、昇降点の中国名とインド名の紹介が末尾にありました:「交初謂之『羅睺』,交中謂之『計都』。」前者が東、つまり昇交点。

*23:日食の説明はかなり前から現代と同じです。

*24:新井論文の注11

*25:義剛言:「樓上渾儀可見。」曰:「是。」, 『朱子語類論語五・為政篇上・為政以德章

*26:『明史』天文志・一に、「其後朱熹家有渾儀,頗考水運制度,卒不可得。蘇頌之書雖在,大抵於渾象以為詳,而其尺寸多不載,是以難遽復云。」、つまり、蘇頌の著作を深く研究したものの、各部品の寸法が記載されていないため、復元できなかった。「水運」は水で駆動という意味です。朱子天文学への取り組み、特に渾儀の研究については、https://repository.globethics.net/handle/20.500.12424/1071648?show=fullを参考にしました。また、渾儀全般については、https://dl.ndl.go.jp/pid/10632018/1/1

*27:三段階目の報時の機構が二段目と内部で連結しているのかまでは、よくわかりませんでした。https://dl.ndl.go.jp/pid/10632018/1/1

*28:「極星亦微轉」(論語五・為政篇上・為政以徳篇)

*29:「北辰是那中間無星處,這些子不動,是天之樞紐。北辰無星,…」(論語五・為政篇上・為政以徳篇)など。

*30:以下の記述は、朱子之理氣論新詮 https://scholars.lib.ntu.edu.tw/bitstream/123456789/365939/1/朱子理氣論新詮.pdfを主に参考にしています。

*31:「渾儀可取,蓋天不可用。」巻ニ

*32:蓋天説と渾天説については https://doi.org/10.14989/66532

*33:蓋天説を採った王充(後漢)は、これを根拠に渾天説を非難します。

*34:既に述べたように、『夢渓筆談』ではこれに答えるために、天体は「形」はあるが「質」はない、としたのでした

*35:「天地初間只是陰陽之氣。 便結成箇地在中央。氣之清者便為天,為日月,為星辰,只在外,常周環運轉。地便只在中央不動,不是在下。」「清剛者為天,重濁者為地。」(巻一)

月食と月の理論~幾何学的な理論の勝利

なぜ月の理論を語るのか

プトレマイオスの理論について、本ブログでもたびたび取り上げてきましたけど、主に惑星の理論のことを取り上げることが多かったです。しかし、ギリシャ天文学幾何学的な方法のメリットがわかりやすいのはむしろ、月や日月食の理論だと思います。

月食メソポタミアに於いても、周期を利用した予測が実用化されていました。彼らはそれに飽きたらず、月と太陽の軌跡に基づく方法を次々と試みていきます。残念ながら、この一連の試みは失敗に終わってしましたが、惑星の理論などより遥かに高度です*1。『アルマゲスト』も、まず太陽と月を扱います。彼の優れた日食の理論は、本書の最初のクライマックスであり、メソポタミア以来の経緯を念頭に置くと、一層感動的です。分量的にも、ほぼ惑星理論に匹敵します。

また、中世アラビアでプトレマイオス天文学が推し進められたときも、まず手をつけたのは太陽と月の理論であり、惑星の観測は後回しにされました。イエズス会が中国でヨーロッパ天文学の優位を示した時も、日食の予測で中国の伝統天文学と勝負したのです。

月食の重要性

もうちょっと前のことになりますが、皆既月食があってりました。普段は関心のない人でも、あの日ばかりは月のことを話題にしたと思います。

古代から中世の天文学で、月食は非常に重視された現象でした。なぜか?それは、月の方向を正確に計測する、貴重な機会だったからです。

月なんかいつでも見えるじゃないかと思うかもそれません。しかし、月はとても地球に近く、緯度や経度によって、見える場所がかなり大きくずれてしまうのです。地球の中心と表面とでは、月の大きさ二つ分くらい、ずれてしまいます。これを、地心視差といいます。ところが、月食は月が地球の影になる現象ですから、地球上のどこでも同時に起こります。地心視差は関係しないのです。

そうして、皆既月食のちょうど真ん中の時点に於いて、月の位置は、地球の中心に対して太陽と正反対のはず。皆既月食でなくとも、やはり真ん中の時点では、黄経でほとんど180度反対のところに太陽と月が向かい合います。よって、この瞬間においては、太陽の位置から月の方向がわかります。ただし、ここで「月の方向」とは地球の中心から見た月の方向です。

こうやって月の位置がいくつかの時点でわかると、それをもとに月の軌道のパラメータがきまり、理論計算ができます。しつこいですけど、これで計算できるのは、地球の中心から見た月の方向です。これを実際に地表から観測する方向と比べると、地心視差の大きさがわかります。そして地心視差からは、地球の半径と月までの距離の比率がわかります。

なお、上で「太陽の位置から月の位置がわかる」と書きましたが、夜は太陽は見えませんから、これはもちろん理論計算をするのです。それで『アルマゲスト』は最初に太陽の理論を仕上げてから月の話に入ります。これは彼の提案する、観測プログラムの順番でもあるわけです。惑星の理論にも太陽は関係しますから、中世では天文台ができるとまず、太陽の観測をしました。

データのでどころ

月の運動を決めるには、多くの月食が必要です。まず周期を決めるのにもいくつか必要であり、それらは十分に時間間隔が開いていないと精度がでません。そして運行速度の変化の理論を作るためにも、最低三つの月食が必要です。『アルマゲスト』では合計15の月食を用いていますが、ここに掲げられていないデータも多数、見ていると思います。最終的に使わなかったデータは、古代でも中世でもあまり表にださないからです*2

それをプトレマイオス個人がすべて準備できたはずはなく、先人のデータを多く活用しています。そして、『アルマゲスト』で用いられた15の月食のうち、10は古代メソポタミアの観測データなのです。特に、平均運動からのずれを定めるのに用いた三つは精度が必要ですが、それはMardukempad 王(Marduk-apla-iddina II, 紀元前722-710)の時のものです。

彼がメソポタミアのデータを紹介する時の淡々とした扱い、メソポタミアの理論家の計算を紹介する時の「古代の数学者」という言及の仕方は、両者の断絶を感じさせません。実際は、メソポタミア天文学の移入にはさまざまな経緯があったに相違ないのですが。『アルマゲスト』の月の理論は、メソポタミア以来の伝統を背景に成立しているのです*3

一方、惑星の研究に於いては、「古い観測には、質のよいデータはあまりなく、優れた先行研究もない」という趣旨のことを述べており、メソポタミアのデータの比率はぐっと下がります。

精度はどんなものだったか

では、古代メソポタミアからのデータをふんだんに利用した、プトレマイオスの理論の精度はどんなものだったでしょうか。例えば、月の地心視差(平均的な距離の時)は、プトレマイオスの見積りでは1度7分。これから推測される月までの距離は、地球の半径の59倍 *4。現代の値は57分および60.4倍。

ちょっとずれてますが、ことの困難さを考えると、かなり良い線をいっていると思います。プトレマイオスの理論は紀元2世紀、メソポタミアのデータは紀元前700年以前ですから。

月食の観測からは、太陽までの距離も見積もることができます。プトレマイオスはこれを月までの距離の20倍としました。これは、かなりの過小評価です。伝統的なアリスタルコス由来の値とほぼ一致していますから、きっとそちらに引きずられたのでしょう。月までの距離の方はアリスタルコスの値(地球の半径の20倍)よりも大幅に改善していますが、やや過小評価気味なのは、やはり伝統的な値に引きずられたのだと思います。

誤差が大きいとはいえ、太陽までの距離が非常に遠いことは示された訳で、これは古代や中世においはかなり深い印象を与えたようです。ああ宇宙はかくも大きく、地球はこんなにも小さいのかと。

地球球体説

さて、月食のデータの話に戻りますと、プトレマイオスメソポタミアのデータをアレクサンドリアの経度に時差を補正し用いています。ただ、時差の確定がそんなにすぐ出来たはずはなく、アレクサンドロス大王の東征後、天文学者たちによる努力があったのだと思います。

こうやってメソポタミアのデータを活かせたのも、地球球体説があったからです。また『アルマゲスト』第一巻では、「東西で同じ現象が、時間差をもってみえる」ことを、大地が東西方向に丸みを帯びていることの証拠としています。

一方、南北方向の丸みの証拠としては、星の高度や見える星の違いが挙げられています。こちらは紀元前4世紀のアリストテレス『天について』でも既に述べられています。勝手な想像ですが、エジプトを訪れたギリシャ人が、現地の知識人と交流する中で気がついたのではないでしょうか*5。なお、現代も用いられる時間の単位は、エジプト流とメソポタミア流の混合です。

幾何の積極的な活用

地球球体説もそうなのですが、月の地心視差の理論やそれを用いた日食の理論は、ギリシャ幾何学的なアプローチの典型的な成功例と言ってよいのではないかと思います。確かに、周天円による惑星の理論もなかなか秀逸なのですが、現象を説明する能力に直接幾何学が響くのは、むしろこちらではないかと思います*6

視差の問題を考えないならば、説明能力の上では*7、天球に射影した軌跡だけが正確に計算できれば良いです。よってここだけに着目すると、「他の地域は三角関数を用いないが、ギリシャは用いる」といった程度のことになってしまいます。しかし、地心視差は月と地球の幾何学的な関係の問題です(日食の場合は太陽も含む)。立体幾何学を援用するのが効果的で、むしろ他のアプローチは思いつかないくらいです。

何を当たり前のことを、と思われるかもしれません。しかし、歴史を紐解くとこのアプローチは決して必然でもなんでもないことが分かります。実は中国では、盛唐の密教僧・一行以来、幾何的な考察を抜きに、地心視差に相当する補正を組み込んでいました。緯度経度への依存性なども「多項式」で表現します*8。これを知った時は、自分の視野の狭さを思い知らされた気がしました。地心視差の効果はかなり顕著ですから、理論が精密化すれば幾何学的な視点が無くとも、計算式に組み込まれうるわけです。

しかし、仕組みを理解しないデータ駆動的なやり方では、様々な限界があります。精度も劣るでしょうし、改善も幾何学抜きでは方針が立てずらいと思います。

理論依存性の強いデータの解釈

上述したように、地心視差へのアプローチでは、三次元幾何的なアプローチが有効でした。しかし、奥行き方向の配置や形状は、多少なりとも間接的な推論に頼らないとわかりません。

そもそも、「月食は地球の影である」という説明も、そんなに当たり前ではないです。中国では、大地の影だとする説もあったのですが、大地とは別の「闇虚」または「暗虚」というものの影だとする説が有力でした。南宋の思想家の朱子も暗虚説でしたし、元の時代の民間の天文学者、趙友欽も「地形が影に反映されていない」ことから地影の説に反対しました*9。これは、アリストテレス月食の影を地球球体説の根拠にしたことと、好対照です。「大胆な仮説が正しかった場合、大きなメリットを受けれる」という、よく聞く話の一例になっています。(もちろん、事後の検証が前提ですが。)

では、仮説が間違っていたらどうでしょう。ひどく間違っていたらダメだと思いますが、少々の間違いの場合はやはりご利益があると思います。今回取り上げた件では、プトレマイオスは理論計算を多用してデータの解釈を進めています。理論的な太陽を用いて月の位置を求め、月の理論を作り、月の理論値と観測値を比べて地心視差を求める。これらの理論では、天体の軌道は円運動の組み合わせだ仮定しています。もちろん、この仮定は厳密には正しくありません。しかしこの少々間違った仮定が、多くの正しい認識を引き出す上で、大きな役割を果たしているのです。

*1:従来、メソポタミア天文学は予測のための計算のみで、仕組みの理解に関心がなかったとされてきました。近年、この月の理論の分析などから、メソポタミア天文学についてのこの描像も(立場によって程度は様々ですが)修正されつつあります。

*2:これは、「理論に合わないデータを捨てた」というだけではないです。古代や中世には平均二乗法がありませんから、データにピッタリとあう曲線を選びます。例えば円ならば3つの点をピッタリと通るように決めます。この時、得られたデータのうちどの3点を選ぶかで円はかなり異なってくるでしょう。全体の傾向を反映するよう、データの中から3点を選ぶわけですが、用いなかったデータは必ずしも記されないのです。

*3:アリストテレスが参考にしたユードクソスの理論や、スミュルナのテオン(プトレマイオスと同じ時代)は、太陽は黄道を通るのではなく、その近辺をふらつきながら運動します。一方、メソポタミアの月の理論では、太陽は黄道を通り、プトレマイオスも同様です。影響関係までは言い切れませんが。

*4:ただし、満月と新月の場合の平均値。

*5:天文学ではないですが、現地の知識人との交流で、歴史についての知見を得た逸話が、ヘロドトス『歴史』にあります。

*6:以下に書くことは、中山茂氏などが散々書いていることです。

*7:もちろん宇宙論としては全然違います

*8:これは計算手続きを現代的に書けば多項式であるという意味で、もちろん代数記法があったわけではありません。

*9:https://doi.org/10.14989/134682

メモ:五行志と天文志

先日、時計の精度の問題が気になって調べていたら、今更ながら、『漢書』『後漢書』の日食記事は五行志にある、ということを知りました*1

科学史の一般向けの新書などによると、上空の特異な現象、たとえば日食、超新星や彗星、さらには虹や暈などの気象光学現象などは天文志に載せることになっているはずです。(なお、暦や天体の位置の数理は律暦志または暦志。)ですが、『漢書』は正史の第一号ですから、まだ最終的な形式に落ち着いては居なかったのでしょう。少し検索してわかったのですが、「隕石」も『漢書』では五行志なのです。そもそも、天文志は撰者の班固の死後、妹の班昭が補ったのでした。

中国的な考え方では、自然の現象及びそれと人事との関係は、陰陽説や五行説で整理されます。ですから、五行志にこれらの記録があるのも決しておかしくはない。では、天文志との線引きはどこにあるのでしょう?また、これらを一括して天文志に収録する様になったのは、いつからなのか?

そういった素朴な疑問をもって呟いたところ、「東大中国思想文化学研究室の住人」先生からご教示を頂けました。

つまり、『漢書』五行志は劉向『洪範五行伝論』をベースにしており、そこに天体の異常も取り上げられているから、ということらしいです。ただし、天文志も日食記事は全くないわけではない。その線引きについて理解するには、上記に引用の論文などを見て、勉強しないといけないとのこと。

ただ、当時にあっても第三者から見ると、基準は不明瞭だったらしいです。

『洪範五行伝』

示して下さった一文は、『漢書』五行志に引用された『洪範五行伝』(前漢の中頃までに一応成立、著者もよくわからない)の一節です。今までのところ、この書物の成立や伝世の事情は「混み入っているのだな」という認識しかありません*2。いわんやこの一節の全体の中での位置付けなども、わかりかねます。以下、わかる範囲のことを書いておきます。

この書は『尚書』洪範をベースして、五行説的な視点で失政と災異について述べたもの。では『尚書』洪範とはどのような内容かというと、箕子が周の武王に政治論を語ったという体裁をとった書で、九疇(五行,五事,八政,五紀,皇極,三徳,稽疑,庶徴,五福、六極)を整えよ、と説きます。五行は九疇の筆頭ですし、結構長々と説明がありましす。また、五行説の最初期の文献の一つでもあります。しかし、洪範そのものを見る限り、九疇の他の項目と五行は、あまり関連付けられていなさそうです*3

上記ツイートの一節の「皇之不極」は、この九疇の中の「皇極」が乱れている状況で、こういった時にどのようなことが起きるかが以下、(先生のツイートの「…」の部分に)列挙されています。それらの中で天象に関わる部分が「日月亂行、星辰逆行」ということのようです。

いつ日食の記事は天文志に集約されたのか

では、いつ日食の記事が天文志に集約されたのでしょうか。「研究室の住人」先生曰く『魏書』(北朝北魏の歴史書で、次の北斉の時代に編まれた)では、すでにそにような状況にあるとのことでした。

二十四史のうち、後漢から南北朝時代にかけて編まれたのは、古い順から

  • 後漢書 南朝劉宋、范曄。「志」は東晋の司馬彪『続漢書』から後世取って併せた。
  • 宋書 斉、梁、沈約
  • 南斉書 梁、蕭子顕 537年以前*4
  • 魏書 北斉、魏収 天保5 (554) 年完成

 
となります。(その他の南北朝時代を扱う正史は隋〜唐で編まれる。) これらをhttps://ctext.org の検索機能で検索をかけました。ここには同じ史料でも複数の版があるのですが、書名検索で一番上にくるものを用いました。

後漢書

まず、『後漢書』、あるいは『続漢書』の志。この律暦志の律は、劉歆に先立つ京房の六十律であり、暦では後漢末の蔡邕と同様、『漢書』の三統暦に批判的です。ですが、「日蝕は五行志か天文志か」という点では、『漢書』と同様に五行志が主です。「日蝕」は三例、「日有蝕之」は八例でいずれも五行志、「日食」「日有食之」はゼロ*5

紀や伝、こちらは范曄『後漢書』なのですが、には「日食」が42*6、「日有食之」が8、「日有蝕之」も2あります。また日食の意味を読み取って言上したといった逸話も多いです。官吏の伝に「以日食免」(日食があったので免職になった)といった記載があります。『漢書』では見当たらなかったので調べてみたところ、三公の役職にある官吏を策免(策書にて罷免する)という慣例が、107年から魏の文帝が221年の日食の折に廃止するまで続いたらしいです。

「隕石」はどうかというと、二例あっていずれも天文志なのですが、ただこの二例のうちの片方がなぜか五行志にも重複して取り上げられています(「石隕(石がおちる)」と表記されています)。劉昭(南朝梁)の注でもこの重複は取り上げられて、比較的時代が近いこの注釈者にも理由はわからないそうです*7

宋書

宋書』は何承天・山謙之・蘇宝生・徐爰らが宋がまだ健在だった頃に書いた材料をベースに、沈約が斉および梁の時代にわたって完成させたものです。同時代資料をふんだんに用い、原資料の引用も豊富です。沈約は生涯で合計245巻もの書物を編み、また律家でもあったとか。

肝心の日食記事なのですが、「日蝕」は28例で、うち1例が列伝。3例が暦志にあり、いずれも日蝕の予報に関わる文脈です。天文には一例だけで、残りは礼志に14、符瑞志に3、五行志が5。なぜか礼志その他にも拡散しています。天文志に集約されるどころではないです。

なお、この「符瑞志」を設けるのは『宋書』が最初だと思います。「研究室の住人」先生曰く、『南斉書』の祥瑞志、それから『魏書』霊徴志の下巻などが類似の内容とのことです。

南斉書

もっとも興味深いのが『南斉書』です。結論からいうと、どうやらここがターニングポイントのようです。

『南斉書』の「志」には15例の「日蝕」の用例がありますが、うち10例が「天文志」で、圧倒的に多いです。4例が「礼志」、1例が「輿服志」ですが、いずれも日蝕の時はこのようにするといった一般論で、この時代に起きた事例ではなさそうです。この他、「日有頻食」と「日有五蝕」が天文志に一つづつ。前者は具体例が念頭にあり、後者は一般論です。

ここまでのところを実は先日、連続ツイートして、「研究室の住人」先生から問題点の指摘と、『南斉書』が転換点だということは間違いなかろう、という簡単なコメントをいただきました(指摘を頂いた点は反映させたつもりです。)。ただしTwitterでの気軽なやり取りなので、「正しいと保証があった」わけではないことは申し添えておきます。

どのような議論があったのか

検索のついでに引っかかったのですが、『南斉書』列伝に、南朝の宋末から斉にかけての、檀超と江淹による国史編纂事業の記事があります。どうやら彼らの編纂した資料が、『南斉書』の基礎になっているようです*8。我々の議論にも大いに関係しそうなので、少し見てみたいと思います。


それは、卷四十八列傳第二十九にある袁彖(えんたん)の伝と、卷五十二列傳第三十三にある檀超の伝です。まず檀超の伝を見て見ます。

建元二年, 初置史官,以(檀)超與驃騎記室江淹掌史職。上表立條例,…。立十志:《律歷》、《禮樂》、《天文》、《五行》、《郊祀》、《刑法》、《藝文》依班固,《朝會》、《輿服》依蔡邕、司馬彪,…。班固五星載《天文》,日蝕載《五行》;改日蝕入《天文志》。

「建元」は斉の太祖の年号で、その二年に檀超と江淹が史官となって、先代の史書にならって編纂を始めます。ただし、班固『漢書』の書き方を改めて、日食を天文志に移したとあります。これがおそらく、『南斉書』に繋がったのだと思います。

しかし、話の始まりはもう少し前のようです。袁彖(えんたん)の伝を見ますと、後の斉の太祖の下で、太傅相国主簿・秘書丞であった時(当然、斉の建国前)、袁彖は檀超らの国史の編纂の方針に反対意見を述べているようです。このことから、檀超の国史との関わりは宋の時代に始まっていそうです。また、この頃の檀超の「日食問題」についての方針は後とは少し違っていたようです。

議駮國史,檀超以《天文志》紀緯序位度,《五行志》載當時詳沴,二篇所記,事用相懸,日蝕為災,宜居《五行》。超欲立處士傳。彖曰:「…」

つまり、袁彖は檀超の次の二つの方針に反対したのです。

  • 天文志は「緯序位度」、すなわち天体の現象の位置や順序を、五行志は「當時詳沴」をしるすべき。日蝕は災異なので五行志であるべし。
  • 処士(官僚として出仕しなかったもの)にも伝を立てよう。

以下、残念ながら日食についての袁彖の主張は書かれていません。ですが上記の方針に反対したのだから、「日食は天文志」と主張したと考えるのが自然だと思います。

なお、檀超の上記の主張も、「日食は五行志」と言う点では『漢書』と同じですが、取り扱う内容の基準は明瞭になっているように思います。これだと、彗星や隕石も五行志になるのではないでしょうか。

檀超と江淹の国史に対しては様々な議論があったようで、例えば檀超の伝にも左僕射の王儉による反対意見があったことが記されています。様々な論点があるのですが、日食に関係しそうなのは、

《洪範》九疇,一曰五行。五行之本,先乎水火之精,是為日月五行之宗也。今宜憲章前軌,無所改革。

のところです。『尚書』洪範の「九疇」の第一は五行で、そして日月は「五行之宗」だとあります。よって(日月は他の天体とは別格なので)今まで通り日月に関する異変は五行志であるべし、と言いたいのでしょう。

そして議論の結果は、日食の件については変更なしとなったようです:

詔:「日月災隸《天文》,餘如儉議。」

ただしそれ以外は王倹の主張通りとのことで、かなりの改変が必要になったと思われます。この後、檀超は終生史官として国史の編纂に努めるのですが、完成前に亡くなります。江淹がその先を続けるのですが、やはり完成することは出来なかったようです。各方面から注文がついて、なかなか終えれなかったのかもそれません。

付録:ところで「皇極」とは

上で曖昧にしてしまったのですが、天体の異変と関係する「皇極」とは何なのでしょうか。以下メモがわりに、今回調べたことを書いておきます。

「皇極」の「皇」は天下の統治者として、問題は「極」です。例えば『康熙字典』では、「建物の梁」という意味を本義とします*9。これで少しイメージができた気がしました。続きを見ると、易の「太極」という意味が挙げられていて、「皇極」「大中」*10をも意味するとあります。そして典拠は残念なことに、『尚書』洪範とその注疏です。よって結局、腰を落としてこれを読まないと仕方が無さそうです。

この書の全体的な雰囲気、特に五行説との関係(の薄さ)を確認したかったので、ざっと読んでみることにしまた*11

皇極の説明のところには、「五福を集めて民に配る」*12、「有能なもの、正しいものを報いよ」*13「自らの好悪を押し出すな、偏らず寛容でおれ」といったことが書かれています*14

つまり「皇極」とはある種の原則ないしは道徳であって、君主がなすべきことの指針を与えています。しかしそれだけではなくて、「君主から出て民に広まり、民と君主でこれを保つ」*15とあって、教化によって民にも広まるべきものとされています。皇極が安定すると、民は徒党を組んで反抗したりしなくなるのだそうです*16

では、教化しても効果がない時はどうするのか。これについては、「不協于極」であっても、「不罹于咎,皇則受之」、つまり責めるようなことはせずに、鷹揚に受け止めよと書いてあります。そうして穏やかな表情で「私は徳を好む」と言うべきである*17、と。つまり、滲み出る人徳で感じ入らせるのが理想だということなのでしょうか。一方、徳を尊重しない輩は「汝雖錫之福,其作汝⽤咎」*18。つまり君主が福を賜っても君主に災いしか為さないぞ、との注意はあります。

*1:https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/002182869802900102

*2:例えば、http://nippon-chugoku-gakkai.org/wp-content/uploads/2019/08/2012_02.pdf

*3:尚書』洪範や『洪範五行伝』、『洪範五行伝論』については、「住人」先生の博士論文の草稿http://wanibeer.web.fc2.com/hakron/

*4:この年に蕭子顕死去

*5:最初は「日蝕「日食」のみで検索したのですが、「研究室の住人」先生の指摘で改めました。

*6:ここで「日食星」といったものは、一応避けたつもり

*7:五行志の方に注がある:「天文志末已載石隕,未解此篇所以重記」

*8:ネット版のジャパンナレッジの国史大辞典『南斉書』の項目、執筆者は池田温、https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1569。また、漢語大詞典出版社の二十四史全譯『南齊書』冒頭の「全訳出版説明」にも、『南斉書』の基礎資料の筆頭に、この国史編纂事業が挙げられています。ただ、これらの主張の根拠は、私には今のところ不明です。蕭子顕による自序は散逸しているとのことで、『梁書』と『南史』の蕭子顕の伝を見たのですが、両者はほぼ同じで、しかも梁武帝に願い出て史書を編んだ、といった簡単な経緯しか書かれていませんでした。

*9:https://www.zdic.net で調べると、今でもこれが本義とされるようです

*10:Wikisourceで『尚書正義』をみると、正義に「皇」は大で「極」は中である、とあります。

*11:読解にあたっては、Wikisourceの『尚書正義』,各種の字書の他、無料公開の英訳を参考にしました。

*12:「斂時五福,用敷錫厥庶民。」。「斂」は「集める」、「時=是」、「五福」は洪範九疇の8番目。「用=以」、「敷」は広くあまねく、「錫」は与える、共に、などの意味がある。「厥=其」。この五福を集めて広く多くの民に広く賜る。

*13:「人之有能有為,使羞其⾏,⽽邦其昌。」有能なものはその行いを前に押し出させよ, すると国は栄える(其=将、副詞、昌=栄える)、「凡厥正⼈,既富⽅⾕」正しい人は報いよ。(厥は指示代名詞でその、方=并に(ならびに)、谷は俸禄や位)

*14:私が少し引っかかったのは「無虐煢獨而畏高明」です。前半の「頼りない弱いものを虐めるな」は違和感がないのですが、後半「高貴なものは尊重せよ」というところは、旧秩序との妥協のようにも見えます

*15:「惟時厥庶民于汝極。錫汝保極:」ただここにその多くの民、汝の極において、汝と共に極を保つ

*16:「凡厥庶民,無有淫朋,人無有比德,惟皇作極」 民は「淫朋」も「比徳」も持つことはない。人=民ととって良いでしょう。「比徳」は「比周之徳」と注にある。「比周」も「淫朋」も(よろしからぬ)徒党のことらしいです。ただ、この解釈だと「徳」の字が浮いてしまうように思います。

*17:「而康而色,曰:『予攸好德。』」二番目の「而」は二人称の人称代名詞。「色」は表情。

*18:後半の文の動詞は「作」。do, make。「用」は介詞。on, for。「咎」は罪の意味もあるがここでは災い。

メモ:クトゥルフ神話でおなじみのジョン・ディーの『幾何原論序説』

以前、クトゥルフ神話でおなじみのジョン・ディー(1527-1609)の『幾何原論序説』をプロジェクトグーテンベルグでみつけた。ジョン·ディーはオカルティストとしての側面だけが界隈では有名だが、しかし、ちゃんと数学者でもあり、数学の実用的な有用性を理解し普及に努めた 。このような(今から見ると)二面性を持った人物は、近代初期には珍しくはなかった。

この本は、ユークリッドの原論の序として書かれたもので、「数学とは何か」がざっくり手短にかかれているもの。形而上的な出だしから始まって、数や量の概念を説明し、純粋・応用数学の各部門の説明に入っていき、最後には数学的学問の総覧を掲げて終わる。

数、量、代数

本書は冒頭、数学の基礎的概念として、古代ギリシャの伝統に従って「数」と「量」を挙げる。前者不可分なる単位(Vnit)で測られるもので、自然数。後者は長さ、面積、体積みたいなもの。前者を扱うのが算術、後者は幾何で扱う。これは実に窮屈な体系だった。古代にあっては、無理数はもちろん、分数も比の計算の補助であって、数としては認められなかった。

この古色蒼然とした出だしは、しかし、直ぐに雰囲気を一新する。「応用的な算術」として、分数、(天文学での)60進小数、そして無理数、とくにk乗根がリストされ、それら及び未知数を扱うより一般的な算術として「コス代数」があげられる。無理数のところでは、この数が幾何的な量をも扱うことが出来ることが明言されている。

また、代数の有用性だけでなく、その純粋な理論としての深さにも敬意を表している。代数は中世に於いては、アラビアでもヨーロッパでも、実用的な算術の一部として扱われた。アラビアは代数の本場ではあるが、当地でも数学のメインストリートにはなかった。

つまり、彼は数の範囲や量との関係、そして代数の位置づけについて、かなり近代寄りの認識を示している。本書は一般向けに書かれたものだから、当時、これはすでに先端的な尖った認識ではなかったのだろう。古代→中世アラビア→ルネッサンスを経て、この時代にはここまで来ていたということだ。

なお、彼は代数の起源については、この時代によくあるように、それをディオファントス『算術』に求めている。最初、代数はイスラムからの移入で始まったが、ギリシャ語文献の翻訳が進んでディオファントスが発見されると、そちらに起源を求めるようになった。ディオファントス『算術』を代数として読んでよいのかどうかは、今でも数学史家の中でも評価がわかれる。だが、当時の雰囲気では後者一択だったのだろう。

数学の有用性と広がり

基本的な概念の紹介に続いて、「数学の有用性を示す」として応用例を手短にいくつか挙げるのだけれど、概ね比例を用いた簡便な数学である。「円の正方形化」の解法も言うほどのものでなくて、素朴な近似値での議論である。また応用家の中から、代数を用いずに算術的な方法で未知数を求める方法、つまりツルカメ算の如きものが様々に工夫されている旨が書かれている。

そのあと、数学的諸学問についての解説が続く。このいくつかは彼自身の造語と思われる。興味深いものとして、円運動の合成で直線や円錐曲線などが作れることを指摘していること。これは天文学とも関連するはずだが、機械学的な応用のコンテキストで述べている。

また、ポンプや噴水などに使われた、流体の性質(当時は真空を嫌う故、と説明された)の研究を一つの学問とし、テコや滑車の議論は「増幅の学」と称してまた別の学問としている。このあたりは、呼称の違いを除くと中世の先例に近い。

ゲベル Geberとは誰か?

本書で一つ面白いと思ったのが、Geberについての言及。Geberは8c-9cの錬金術師Jabir Ibn Hayanのラテン名だが、かれが代数学のソースの様に扱われ(先に述べたように、それより早くディオファントスが代数を創始したとしている)、また、Geberが数学や天文学に長じていたとする。

これは、もう一人のGeber, すなわち12世紀アンダルシアの天文学者·数学者のJabir ibn Aflahが合流しているのだろう。しかし、このGeberに代数の著作はあったのだろうか。錬金術では非常に多くのGeberの文献があって、かなり本人作でないものが多いと思われている*1。本職の錬金術どころか、こんな分野までGeberに仮託されるとは。とんでもない知の巨人に見えたことだろう。

魔術とジョン·ディー

そして最後の方に、「魔法使いの異端なんて誹謗中傷嘘だ」と愚痴っているが、水晶球を覗き込み、あるいは天使と頻繁に交信してたたのだから、強ち事実無根ともいえまい。

*1:どの程度そうであるか、また、仮託にしても元のものがイスラム起源かラテン起源か、それについてはナショナリズムも絡むのだろうか、面倒な議論があるようだ

古代~中世~近代の天文学史にありがちな誤解

プトレマイオスは円をたくさん使うか?

まず、プトレマイオスは惑星の黄経の説明には円を二つしか使わない。そんなに円をたくさん使ったら、古代の貧弱な数学では使いこなせません。そして、後世も円の数は増えません*1。「現象に合わせるために円の数を増やして対応したが、複雑になりすぎて崩壊した」といった解説も昔はよくあったのですが、ほとんどフィクションと言って良いと思います。

データに合うだけなのか?円に意味はないか?

各々の円には、割合とはっきりとした意味があります。プトレマイオスも惑星の動きと太陽の動きに関係があることは気が付いており、二つの円の片方は太陽の影響、すなわち地球の自転の効果を表現しています*2

その結果プトレマイオスの理論は、惑星の距離の変動も正確に再現してくれます。惑星までの距離は当時計測できませんから*3*4、これは奇跡といってよいと思います*5*6

のちに、コペルニクスプトレマイオスの理論を太陽中心変換して自分の理論を作ります。これできちんとした理論になったのは、計測できないはずの距離の変動も含めて、プトレマイオスの理論が優秀だったからです。

のちの理論との連続性

プトレマイオスの二つの円のうち、片方は地球の公転、もう片方は惑星の公転に対応しています。ですから、この二つの円の比率はそのまま地球と惑星の軌道半径の比率に相当します。プトレマイオス天文学で得られたデータは、このようにコペルニクスの理論でもそのまま役にたったのでした。

現代の理論とプトレマイオスの理論は割合とよい対応関係があり、したがって、現代の知見からパラメータの精度を議論することが比較的容易にできます*7

なぜ優れた理論ができたのか

既に述べたように、プトレマイオスの理論は、観測データを説明するだけでなくて、計測できなかったはずの距離の変動についても、なかなか正確な予言をしており、これがのちの発展において重要でした。このように優れた理論が出来たのは、運もあったでしょうが、やはり現象の特徴を的確に抽出しているからではないかと思います。『アルマゲスト』の惑星の理論の導入部分は、「今でも初めて分析する現象の現象論を作るなら、こんな風に考えるだろう」と思うほど、見事です。

当時の自然学では、「天体は円運動する」「世界は有限で地球は中心で静止」といったことを主張していました。プトレマイオスもこれらは一応、守ります。ですが、これらの原理原則だけでは天体の運行は決定されません。そこで、彼は天体の運動のもつ性質を丁寧に吟味して、「このような円の使い方はこれを説明するのに使えそうだ」「このやり方ではダメそうだ」と、使える円運動の組み合わせを絞りこみます。それからいよいよデータに合わせて、円の大きさや回転速度などを決めました。決して闇雲に数値合わせをしたのではないのです。

現象論的なアプローチ

現代では、状況が与えられれば物体の運動を決定する式が書けてしまいます。よって原理的には、あとはその式を解いていくだけです*8。しかし、当時の自然学はそのような理論になっていません。正しいか間違っているかの問題ではなく、現代の運動方程式シュレーディンガー方程式と同じ機能を目指した理論がなかったのです。したがって、自然学の原則に矛盾しないように留意しながらも、現象から逆に理論を決めるしかありませんでした。

現代でも非常に込み入った現象を扱う場合は、物理学の基本法則から出発して計算できないことが多いです。そういう場合、プトレマイオスがやったように、基本法則に留意しながら、現象から理論を決めていきます。

この際、基本法則は極力尊重するのですが、現象にあう簡潔な理論を作るために、基本法則の一部を踏み躙ることもあります。プトレマイオスも同様で、有名な周天円や離心円、エカントなどは、まさにその例でした。アリストテレスによれば、天体は世界の中心の周りに、一定の速さで回転するはずですから*9

メソポタミアギリシャ

以上、いかにプトレマイオスが凄いかという話をかいつまんでしました。「古代ギリシャは人類の叡智の源泉だ」などと言いますが、私もある意味ではその通りだと思います。5世紀以降、インドの天文学ギリシャ天文学の影響で根本的に変わってしまいますし、プトレマイオスの時代の中国の数理天文学は、かなり出足が遅れています。

ですが古代ギリシャ天文学、特に数理天文学は先行文明たるメソポタミアの影響を抜きに語ることは難しいです*10。古代メソポタミアから勘定すれば、中国やインドに比べても、むしろ歴史は長いといってよいでしょう。『アルマゲスト』では紀元前700年代中頃のバビロニア王Nabonassarの時代のデータも用いられています。「データを供給しただけではないか」と思われるかもしれませんが、それは理論至上主義というものです。そもそも、対象についての理解が深まっていないと、何を測れば良いか、どのように整理したらいいかもわからない。つまり、メソポタミアの段階で既にいくつもの重要な発見があったのです*11

また、「ギリシャの文明は先行する文明が行き詰まった後に発展した」というイメージを持っている人も、多いかもしれません。しかし、メソポタミアの数理天文学が発展のピークを迎えるのは、紀元前3世紀ごろで、ギリシャの数理天文学がそれに追いつくのは次の世紀のことといわれることが多いです。この頃には、既にアレクサンダー大王アリストテレス、そしてユークリッドもこの世には居ませんでした。

コペルニクスへの恩恵と足かせ

先にも述べたように、コペルニクスの理論は基本的にプトレマイオスの理論の座標変換です*12

したがって、コペルニクスの理論も、プトレマイオスの理論のいろんな特徴をそのまま引き継いでいます。元々のプトレマイオスの理論が優れていたため、コペルニクスの理論は太陽系をかなり正確に描き出すことができました。すでに述べたように、方角は観測できても距離を測る術のない当時、これは奇跡的なことといってよいと思います。

しかし、いかに優れた理論とはいえ、1000年以上前のものですから、耐用年数はほぼ切れています。この間、観測技術も数学も、随分と進歩しました。プトレマイオスの時には現実的だった妥協も、コペルニクスの時の環境では、むしろ無用な足かせとなってしまった。

そのような例として、「太陽中心説と言いながら、実は太陽が中心ではない」という問題があります。彼の理論で、太陽系の中心は太陽から少し外れており、地球はこの点を周りに等速円運動します。なぜこんなことになったのでしょう?また、どにような弊害があったのでしょう?

「円か楕円か」以前の大問題

ところで、プトレマイオスからコペルニクスが引き継いだ弊害として、よく円運動の絶対視が挙げられます。そして

ケプラーはティコのデータから三角測量の要領で火星の軌道をプロットし、楕円軌道を見出した。円でない回転運動を説明するために、太陽からの引力という考え方が必要になって、ニュートンの重力理論に繋がった。」

こんな説明を聞いたことがある人は、結構いるのではと思います。ですが、太陽からの影響で惑星の運動を説明しようとケプラーが考えたのは、楕円軌道導入の前です。彼は円軌道のまま「真の太陽」を太陽系の中心にし、太陽の力学的な影響力について語っているのです。また、当時の精度ではこのような素朴な方法で円からのずれを見出すことは、無理だったと思われます*13*14

なお、ケプラーの理論のうち抵抗がより大きかったのは、楕円軌道よりもむしろ第二法則でした。概念的に非常に飲み込み難かった上に、計算が面倒だったからです。「楕円は円錐を斜めに切ったものだから」と円運動の延長として飲み込めた人たちにとっても、第二法則は規格外過ぎました。

もちろん、楕円軌道にも反対者は多くいたのですが、彼らも円運動の数を増やして楕円に対抗する手段はとりませんでした*15

ちなみに第三法則は賛成反対以前に、なかなか論じられませんでした。天体の位置の計算には役に立たなかったからだそうで、当時の平均的な天文学の問題意識を反映していると思います*16

ケプラー『ルドルフ表』〜数値計算と理論の革新 - QmQの日記gejikeiji.hatenablog.com
ニュートンを肩に乗せた巨人 - QmQの日記gejikeiji.hatenablog.com

「平均太陽」の重視という弊害

少し脱線しましたが、上で「真の太陽」という言葉を用いました。これと対になるのは「平均太陽」という言葉です。太陽の進む速さは刻一刻変化しますが、平均速度で動く仮想の点を「平均太陽」といいます*17

すでに述べたように、プトレマイオスも、太陽と惑星の動きの関係は気がついていて、二つの円の片方はその影響の表現に使いました。ですが、この時使ったのは真の太陽ではなくて、平均太陽でした。当時の数学の水準を思えば、これは現実的な選択でもありました*18。ですから、二つの円のうちの一つは、この平均太陽の運動そのもの。コペルニクスの理論は、プトレマイオス理論の座標変換なので、世界の中心はこの平均太陽なのでした。

しかし、平均太陽に着目すると、いろんなことが見えなくなってしまいます。例えば、惑星はある平面からはみ出さずに太陽を周回しているけれど、そんなことも気が付きにくくなります。プトレマイオスコペルニクスの理論では、惑星の軌道は上下に複雑に揺れます。それを実現させるために、円の傾きを振動させたりするのですが、これは円運動の原則に反してしまいそうです*19

また、計算も著しく困難でした*20

こういった状況で、ケプラーは真の太陽を中心におき、「惑星は太陽を通る平面にそって円運動をする」という非常にシンプルな理論で観測を説明してみせました。彼の新しい工夫のメリットは明らかで、地球中心説の論者にも歓迎されたのです。もちろん、ニュートンが力学的な太陽系の理論を構想するにあたっても、「太陽が真の中心である」ということは、非常に重要でした。

アルマゲスト』は到達点ではなく出発点(1)

近代まで『アルマゲスト』は重要な書物であり続け、アラビア語ラテン語に翻訳され、注釈や要約、そして最新の数学やデータを取り込んだ再編成などが書かれました。この間、基本的な枠組みが不変であったのは確かです。しかし、それは停滞と同じことなのでしょうか。

例えば、ニュートン以降、量子力学相対性理論が誕生するまで、物理学は古典物理学の時代でした。ではこの間、物理学は停滞していたでしょうか。むしろニュートンを出発点として、急速に発達したと思います。ニュートン『プリンキピア』と同じように、『アルマゲスト』も出発点であって、到達点ではないのです。

ただし、古代や中世においては、近代以降と異なって数理的な学問をする人の数が少なく、ただでさえ研究の継承·発展はうまくいきません*21。また政治的な変動期にあたっては研究は停滞します。せっかく作られた天文台も、政変があれば潰れてしまいました。ほかの文化圏に中心が移る時は、翻訳に時間がかかりますし、さらに失われる書物も多く、再発見や再発明は度々起こります*22

アルマゲスト』は出発点(2)

では、『アルマゲスト』から天文学はどのように進歩していったのでしょうか。

アルマゲスト』は非常に良くできた理論でした。そのおかげで、今や何を観測しなければならないかが、はっきりと指定されました。『アルマゲスト』には、パラメータを決めるために必要な観測や観測機器についても、書かれています。つまり、単なる理論書ではなく、観測プログラムの提案でもありましました。目次を見ると、太陽→月→恒星→惑星という順番で記述が進みますが、観測もこの順番で進めて行きます。

一方、プトレマイオスのデータの扱いは今から見ると、かなり危うい側面があります。信頼性も時代も様々なデータの中から、自分の仮説に都合の良いものをとってきているように見えます。例えば金星において、二つの離心率がピッタリと一致しているのですが、そんなバカなことはないので、よほど選んだか少しいじっているでしょう。値がばらついた時にどの値を取るかについても、あまり客観的な指針はなさそうです*23*24。また、太陽の軌道要素の推定では、冬至夏至を観測から直接決める方法をとっており、見るからに誤差が大きそうです*25

理論の創成期にはある程度、こういったこともやむを得ないと思います。ですが、どこかで誰かがきちんと検証しなければ、科学としては確立しません。その意味で、中世に入ってからの観測と計算は、欠けていたピースを埋めたものといって良いと思います*26

中世においても、データ処理の詳細は明かされないことが多いのだけれど、詳しく書き残しているビールーニーやマグリービーといった天文学者もおり、それを紹介したものを読むと、プトレマイオスよりは今に近くなっていると思います。

例えば、ビールーニーの場合は、複数の方法でデータを取って比較したり、データの処理も複数の方法で試し、先人のデータの解析をやり直したり、バラついた値から系統的に代表値をとったり、、、といった具合です。『マスウード宝典』VI,7 では、太陽の軌道要素について、先人たちと自らの観測データ及び軌道要素の推定方法を詳しく検討しています。計算も自らもう一度やり直しています。このような取り組みの結果、彼は『アルマゲスト』の推定の誤差の大きいことを認め、その主張を破棄して、太陽の遠地点の移動を認めるに至ります*27

ビールーニーのこの仕事がヨーロッパに伝わることはありませんでした。しかし、太陽の軌道要素の推定方法自体は、彼以前のアラビアの天文学者たちの工夫によるもので、これはスペインを介してヨーロッパにも伝わっています。ケプラーが地球の軌道を推定するときは、ティコの太陽の理論に大きく依存するのですが、ティコの太陽の軌道要素の推定は、アラビア由来の中間季節法をベースにしています。

アルマゲスト』は出発点(3)

アルマゲスト』はまた、三角法、球面三角法を含む新しい数学を提示した書物でもあります。ですが、これらはまだまだ萌芽的な段階で、『アルマゲスト』では意外なほど単純な数学が多用されていますし、荒っぽい近似も多いです。例えば、黄道座標と赤道座標の間の変換に用いた近似などは、あまりにも思い切りが良すぎるように思います*28

現在コンピューターによる数値計算で盛んに使われる、反復法らしきものも登場します。しかし、一回しかループを回しませんから「反復」と言って良いかどうか。彼の『惑星理論』の計算では、中世に入って何度も反復計算してみたら結論が(定性的に)ひっくり返った、なんて部分もあります。

また、三角法はインドにおいて算術的に洗練され、sinやversinが導入されて、アラビアに入ってきます。ギリシャ流とインド流の長所を合わせ、さらにグノモン(日影棒)の数理から出てきたtanを取り込んで、新しい三角法が誕生したのは、中世のアラビアにおいてでした。球面三角法もほぼ面目を一新します。

算術全般においても、インド流算術の影響は大きいですし、代数を取り入れたり、補間法を改善したり、また数の概念*29を考え直したりといったことは、中世において徐々に進行していきます。ケプラーの理論が仮に古代に出ていたとしても、到底計算が追いつかなかったでしょう。17世期の当時ですら、計算上の困難が大問題だったのですから。

なぜ三角関数の歴史を追うのか - QmQの日記gejikeiji.hatenablog.com

天文学宇宙論

科学史を概説する際、どうしても「大きな話」が中心になりがちだと思います。天文学の歴史の場合は、宇宙論の話ばかりになってしまうことも多く、すると科学としての天文学の歴史は見えづらくなってしまうのではないでしょうか*30

物理学でいうと、量子力学の誕生は確かに大事件でした。しかし、私が少しわかる分野の話をしますと、光の物理学は量子力学以前からありまして、その段階で様々なことが明らかになりました。今は量子光学というものがありますが、そこでも古典光学由来の概念が有効に使われています。科学の中身の充実は安定した枠組みがあってこそであり、またこうやって蓄積した知識は、枠組みの変化があっても、突然無意味になったりはしません。

プトレマイオス地球中心説は、今は跡形もなく消し飛んでしまいました。ですが、地球中心説を用いて収集された知識や、鍛え上げられた数学、データの取り扱いの問題、洗練された問題意識などは、コペルニクス以降も残るか、あるいは次の段階の何かに発展していきました。特に天文学の場合、数理的な科学の揺かごでもあったわけで、一見地味に見える通常科学的な活動が、静かに革命を準備していたと思います。

中世でも宇宙論論議の的

宇宙論についても、中世の人は何の検討もしなかったわけではないのです。むしろ、コペルニクスの議論は、中世以来の宇宙論と並べて見ると、全く孤立していたわけではないことがわかります。

中世に於いては、アラビアでもヨーロッパでも地球の運動を肯定的に検討することは、あまりなかったのですが、それでも論理的な可能性としては意識されていましたから、一応論駁はするのです。「地球の静止を当たり前として、仮定していることすらあえて言わない、論議もしない」状況と、この状況を比べた時、どちらが太陽中心説が生じやすいかは明らかだと思います。

また、論駁の内容も、時代によって変わってきます。プトレマイオスは「地球が回転するならば、鳥などは後ろに取り残される」としましたが*31。中世も後半になると、アラビアでもヨーロッパでも「地球が回転しても、大気も一緒に周り、我々は気がつくことができない」という議論が出てきます。コペルニクスの上記の議論への反論も、同じ議論です。(ただし、中世の先人たちは地球の運動を肯定する方向には行きませんでした。)

また、すでに述べたように、プトレマイオスの理論はアリストテレスの自然学と衝突する点が多々ありました。この矛盾を解消する努力は、やはりアラビアとヨーロッパの双方で現れ、コペルニクスの理論もその流れで理解できる部分がかなりあるのです。

*1:ただし、遠地点の移動などの永年変化の理論については話が別です。ただ、コペルニクスもこの部分は『アルフォンソ表』の理論を地球のパラメータの変化に焼き直して保存しています。永年変化も含めて簡潔な理論にするには、力学的な理論を完成させるしかなかったと思います

*2:アルマゲスト』の理論のわかりやすい説明は国立天文台暦Wiki/アルマゲスト - 国立天文台暦計算室があります。本格的な解説としては、A Survey of the Almagest | SpringerLinkが分かりやすいです。また、大部ですがA History of Ancient Mathematical Astronomy | SpringerLinkも参考になります『アルマゲスト』のハイベア版からのToomerによる英訳はinternet archive で公開されています。

*3:ただし、月については距離が近いこともあって、方位のずれから正確に知ることができました。太陽についても、かなり遠いということはデータから評価できましたが、距離の推定値は相当過少でした。ケプラーに至って初めて少し訂正されましたが、まだまだ過少でした。この問題はティコやケプラーの理論に、かなり良くない影響を与えています。

*4:プトレマイオスらの周天円の理論の根拠に、「惑星の明るさの変動」をあげる解説をたまに見ます。これは、古代末期のシンプリキオスが引用するソシゲネス(2世紀の哲学者)の説明なのです。しかし、金星までの距離はかなり変動するにも関わらす、満ち欠けとの兼ね合いで明るさはほとんど変化しません。にもかかわらず、彼らは金星の明るさ(大きさ)が大きく変動するとして、周天円の根拠にしています。おそらくは周天円の理論が先にあって、この明るさの変動は理論から導いたのでしょう。

*5:中世の終わり~近代の初めごろ、レギオモンタヌスやオジアンダー(コペルニクス『天球の回転』の序文の著者)が明るさの変動を根拠にプトレマイオス理論の距離の変動は過大だとするのですが、値を評価するかぎり、濡れ衣といってよいと思います。実際、火星の明るさはかなり変動します。確かに距離の最大と最小の比率ほどの変化は観測されないのですが、それは最小値が滅多におこらす、また最大値は太陽の裏に隠れた位置になるからです。レギオモンタヌスの批判は、彼の構想した同心球理論から逆に推論した可能性が高いです。

*6:惑星の理論に比べて、プトレマイオスの月の理論はあまりうまくいっていません。太陽と地球の双方の重力が無視できず、複雑な運動をするからです。方位の説明を優先して理論を作ったのですが、距離の変動があまりにも現実離れしてしまいました。イブン・シャーティルとコペルニクスの月の理論(パラメータの値を除くと両者の理論は同一)は、この問題を大いに改善しています。

*7:例えば、プトレマイオスと後継者による、火星と金星の理論の精度については、以下の二つの論文を参考にしてください。(PDF) Mu¬yī al-Dīn al-Maghribī’s Measurements of Mars at the Maragha Observatory | Seyyed Mohammad Mozaffari - Academia.edu https://www.researchgate.net/publication/330877716_The_Orbital_Elements_of_Venus_in_Medieval_Islamic_Astronomy_Interaction_Between_Traditions_and_the_Accuracy_of_Observations

*8:ただし、実際には中々そのように上手くことは運びません。数式が複雑すぎて解けない、式を立てるのに必要なデータが得られない、といった問題が生じるからです。ですが、原理的には式を立てて解けば良いのだ、という事実は理論を進める上で非常に重要です。

*9:アリストテレスは、天文学者エウドクソスの理論、すなわち地球を中心に回転する球の合成の運動で天体の動きを説明する説を採用していました。この理論がどのような現象の説明を目指したのか、あるいは目指さなかったのか、球の組み合わせはどのようなものだったのか。はっきりとした史料がなく、科学史家の間でも解釈に幅があります。

*10:時代が古く、文献が少ない時代の科学の理論の影響の有無を結論づけるのは、一般的には難しいです。しかし天文学の、特に数理的な側面に絞ると、いくつかの重要な部分はほぼ間違いなくメソポタミア起源です。ユークリッド的な論証数学や、天文学でもヘレニズム以前の古典期の哲学的な宇宙論天文学にどの程度の影響があったのかは非常に熱い議論があります。

*11:規則正しく正確な暦、黄道十二宮など天体の位置を現す方法が規格化されていたことは、非常に大きいです。中国で、惑星や月が黄道近辺を動くことに注意して黄経に着目するのは紀元前後頃で、大きなブレイクスルーでした(大橋由紀夫「買達の月行遅疾論」『数字史研究』通巻136号、 1993年、pp. 29-41.) 。また、60進法に基づく算術も重要な遺産で、エジプト・ギリシャ流の算術では1よりも細かな量の扱いは極めて不便でした。それから、メソポタミアの数表を用いる方法も、関数や代数表現のない時代、天体の運動を表現する上で必須でした。

*12:ベクトルも座標も関数もない当時の数学でこれをやるのは、大変なことです

*13:例えばhttps://www.jstor.org/stable/227848?origin=JSTOR-pdfなどを参照

*14:実際には、プトレマイオス流のエカントという数学的な手法の復活が、楕円軌道に至る上で大きな役割を果たします。

*15:なお、周天円は今で言えばフーリエ展開に相当しますから、原理的には周天円でいくらでもケプラーの理論を近似できます。当時の数学では到底無理だったでしょうが。

*16:以下の私の過去の記事に若干これらの件について詳しく書いていますが、元ネタはhttps://doi.org/10.1177/007327539603400403(これはタイトルで検索すると無料公開版がヒットすると思います)が大きく、また必要に応じて本レビューの参考文献や、Biographical Encyclopedia of Astronomers | SpringerLinkなどの事典類を見ています。

*17:以下では太陽だけを問題にしますが、プトレマイオス天文学では「平均運動」の概念が非常に重視されました。ケプラーの理論への非難の一つには、「真の天体の位置から平均的な運動を計算するのが面倒」というものがありました。ケプラーは対して、そもそも平均的な位置をいちいち計算する必要はないのだ、と反論します。

*18:これは、「プトレマイオスは本当は真の太陽を使いたかったのだが妥協した」という意味ではないです。ただ、やりたくても無理だっただろうと思います。

*19:この振動を円運動で置き換えることは、中世からコペルニクスに至るまで、いくつかの案がありました。イブン・シャーティルやコペルニクスが月の理論で用いたことで有名なNasir al Din Tusiの「Tusiの対円」も、当初の目的はこの振動の表現でした。Naṣīr al-Dīn al-Ṭūsī’s Memoir on Astronomy (al-Tadhkira fī cilm al-hay’a) | SpringerLink

*20:ヨーロッパで広く使われていた『アルフォンソ表』も『アルマゲスト』を踏襲しています。数理天文学の先進地域だった東方のイスラム圏でも、精度のよい近似や厳密計算ができたのは13-14世紀のころで、大抵はインド流の簡便な理論などで済ませていました

*21:例えば古代に於いて、プトレマイオス天文学はあまり進展しません。中世に於いても、例えばアラビアではマドラサが各地に作られましたが、天文学が全ての地域で標準的に教えられたわけではありません。ティムール帝国のウルグ・ベクの時代、サマルカンドでは優れた天文学教育があったようです。しかし、いくつかの大都市を除くと、一般的な状況だとは思えません。例えばこの直後のイスタンブールでは、マドラサで教えること良いか悪いか議論が分かれたそうです。

*22:天文学の場合、ローマの没落する頃からインドがもっとも活発な拠点になり、のちにアラビアでギリシャとインドの伝統が合わさります。そして、それがヨーロッパに伝わります。この全ての段階で、時間の遅れと情報の損失があります。

*23:論者の中にはこの点を極端に誇張して見せる人もいるのですが、すでに述べたように、彼の採用した値は健全といって良いと思います。

*24:古代や中世のデータ解析については、以下の解説などを参考にしました https://www.jstor.org/stable/41133373The treatment of observations in early astronomy | SpringerLink

*25:最大値や最小値の近辺では、太陽の高度はあまり変化しません。ですから、最小値や最大値をとる点をデータから直接決める方法は、誤差が大きいのです。プトレマイオスは、冬至夏至春分秋分を結んだ直線の交点に太陽があるとして、円軌道の中心を調整しました。これを季節法といいます。

*26:なお、古代でこういった検証をしたという文献は今のところ見つかっていません。簡単な確認程度の観測はやっているのかもしれませんが、パラメータの値を決めるための、系統的な観測はやっていない可能性が高いのではないでしょうか。数学的な注釈や、アリストテレスの自然学、プラトン哲学との関係を論じたものは残っており、後世にも大きな影響があったのですが。

*27:この時、彼は『アルマゲスト』の遠地点の推定を検討の上で否定して、中世に入ってからの複数のデータのセットを改めて検討して推定もやり直し、この結論に至っています。アラビア語圏だったスペインのザルカーリウや中国の13世紀の授時暦では、古代の観測記録を説明するために、天文常数の変化を仮定しました。共に天文常数の変化を結論しているのですが、ビールーニープトレマイオスの値を否定して古代人の限界を強調したので、彼らの議論とは真逆です。このビールーニーの態度は孤立したものではなく、東方の天文学者に多く見られる態度のようです。https://doi.org/10.1177/002182861304400305,https://www.researchgate.net/publication/258796887_Limitations_of_Methods_The_Accuracy_of_the_Values_Measured_for_the_Earth%27sSun%27s_Orbital_Elements_in_the_Middle_East_AD_800-1500_Part_2,An analysis of medieval solar theories | SpringerLinkDetermination of the Suns Orbit | SpringerLink

*28:The end of an error: Bianchini, Regiomontanus, and the tabulation of stellar coordinates | SpringerLink

*29:古代ギリシャにおいて、数といえば自然数のことで、分数は比を扱う算法の補助であり、もちろん無理数やゼロ、負の数などはありません。なお、「√2が無理数である」ということをピタゴラスが証明したというのは伝説で、アリストテレスは「正方形の辺と対角線は比をなさない」と言っています。

*30:似たようなことが、医学史や化学史にもあると思います。例えば、医学史と言いながら、ほとんど生理学と解剖学の歴史になっていて、病気についての知見の増大やそれに伴う専門分化についてほとんど触れていないものを時折見ますが、いかに素人が相手とはいえ、まずいのではないでしょうか。化学史でも、具体的な物質についてのや処理の技法の歴史をすっ飛ばして、物質理論ばかり説明するのも考えものだと思います。

*31:この議論は古代人の無知として、嘲笑をもって取り上げられることが多いと思います。しかし、これはプトレマイオスが根本的な問題をでき得る限り経験から証明しようとする努力の一貫で、後世においてもその観点から議論されました。なお、彼は地球の大きさを考慮して地表付近の速度が非常に速いことを指摘しており、かなり本格的です。

地動説の迫害の話

上のツイートをまとめなおしました。

コペルニクスは迫害されたか?

まず、コペルニクスなのですが、彼は教会内に職を得てますし、生前から「コメンタリオルス」と呼ばれる地動説の草稿が回覧されていて、彼の学説は秘密でもなんでもありませんでした。これをさらに発展させたのが死後直後に出版された『天球の回転について』で、教皇にも献呈されました。もちろん、迫害などは一切ありませんでした。

反動

この空気が変わるのは、コペルニクスが世を去る頃です。宗教改革が激しさを増し、その反作用としてトリエントの公会議などでカトリックでは保守派が強くなってきました。反動宗教改革イエズス会はこの少し前、1530年くらいだったとおもいます。知識人への対処も穏健な方針が転換されて、厳しくなったようです。例えば、ガリレオの望遠鏡の観測を全否定したアリストテレス主義者のクレモニーニも、カトリック教会からの干渉に悩まされました。

教会の天文学への取り組み

ただ、教会全体が反知性主義に走ったというわけではなくて、例えば今用いられているグレゴリオ暦の制定も、このころです。イエズス会にもクラヴィウスのような優れた天文学者がおり、彼の指導で天文学教育の組織化が進みました。中国に西洋の天文学や数学を伝えたマティオ·リッチなどもこの時期ですし、デカルトもこの教育改革の申し子と言って良いかもしれません。

イエズス会天文学者たちは、ティコ・ブラーエのような「太陽が地球の周りをまわるり、他の惑星は太陽の周りを回る」という理論、あるいは一部の惑星のみを太陽の周りを周回させる理論など、地動説のメリットを大幅に取りいれた理論を支持します。17世紀の半ばには楕円軌道も取り入れますが、これは決して遅くはありません。

まだまだ国家による科学研究のサポートが十分でない時代、イエズス会の組織的な取り組みは貴重でした。例えばジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリは若い研究者らとともに、綿密な観測と実験を繰り返します。

ですから、ガリレオの望遠鏡の観測は、イエズス会士の天文学者たちも刺激を受けます。例えば、クリストフ・シャイナーも望遠鏡を作成して観測し、ガリレオと独自に黒点の移動に気が付きました。こういった具合ですから、ガリレオローマ大学を訪問した時は大歓迎をうけました。

ガリレオ

ところが、黒点についての議論はどちらが先に発見したかの論争に発展してしまいました。このつまらぬ論争が、両者の関係をより親密にしなかったことは明らかでしょう。

ガリレオは、非常に能弁でした。彼の著作はコペルニクスの数理天文学書とは違って、より広い聴取に訴えました。また、論調はより論争的で、淡々と論理を積み上げるというより、敵の欠点をグリグリと突くものでありました。しかも、達筆だから読んで面白い。

しかし、この議論の立て方が、論争の相手側に良い印象を与えたはずはない。どうも教会の空気がおかしい、ということを聞いたガリレオは再びローマを訪れるのですが、彼は腰を低くして釈明に努めるどころか、あらゆるところに出向き、天動説を論破しまくりました。

客観的に見ると、ガリレオ当時の証拠では、地動説は到底良く実証されたとはいえませんでした。それでも論敵をねじ伏せたのだから、彼はかなりの能弁だったのでしょうが、同時に負けた方も納得いかんでしょう。なぜなら、客観的にはまだどっちも正しい可能性があったのだから。

また、素人なのにも関わらず、聖書の字句の解釈にもコメントし、伝統的な解釈に難癖をつけたのは、その筋の専門家に良い印象はなかったでしょう。科学史Lindberg曰く、「もう少し上手くやっていれば、あんなことにならずに、かつ地動説のメリットを宣伝できただろう」。

https://www.amazon.co.jp/When-Science-Christianity-David-Lindberg/dp/0226482162

ガリレオ裁判のインパク

ガリレオの裁判の結果、コペルニクス説は教義に反するとされてしまいます。デカルトが『宇宙論』の出版を取りやめる程度に、大きなインパクトがありました。しかし、もう1633年ですから、ケプラーもバリバリと仕事をだしてましたし、流れを大きく変えたわけでもないと思われます。

ガリレオも蟄居ではあるけど、非人道的な刑罰などがあったわけでもなく、著作も発表しています。それから、1650前後に活発に活動したイスマイル・ブリオ(Ismaël Bullialdus)という、(改変された)ケプラー流の理論を推進した天文学者がパリにいましたが、カルバン派からカトリックに改宗して叙任を受けています。

このような状況を考えると、魔女狩りみたいな地動説狩りのようなことは、まず考えられないです。また「孤高のガリレオが地動説を支持して、迫害と戦った」といった、俗説的な戯画化はかなり事実から乖離していると思います。

アリストテレスプトレマイオスキリスト教

なお、「チ。」に限らずプトレマイオスアリストテレスカトリック教会は同じ穴のムジナと扱われて丸ごと叩かれることが多いとおもいますが、この三者は全然一体ではないです。

まず、アリストテレスを素直に読むと、聖書の奇跡も、天地の創造も、また最後の審判も否定されてしまいます。ですから、12世紀にはアリストテレス自然学は何度も禁令がでてますし、ガリレオ当時もクレモニーニへの圧迫があったことは、既に述べました。

また、コペルニクスには、最後のアリストテレス主義者という側面があります。アリストテレスによると、天体は地球を中心として一定の速さで円運動します。しかし、プトレマイオスは現象との一致を優先して、この原則からかなり逸脱します。プトレマイオスの逸脱への態度はアラビアとヨーロッパで違いましたし、時代や地域、人によって様々でしたが、忘れ去られたことはありません。スペインのイスラム圏の註釈家アヴェロエスなどは、「現在のプトレマイオス的な天文学は真の天文学ではない!」とぶったぎりました。

コペルニクスもやはりプトレマイオスの逸脱を気にかけました。彼が取り上げた問題は一つではありませんが、「エカント」の問題は有名です。これは天体の速度の変化を許す仕組みです。コペルニクスはこれを自然学の原理に反していると考え、等速回転の組み合わせで置き換えることに成功しました。彼はこれを自らの理論の大きなセールスポイントとしていましたし、コペルニクス理論に基づく『プロイセン表』を作成したラインホルトは地動説には関心がなく、こちらのメリットにひかれたのでした。

科学史家Swerdlowによると、エカントの除去は彼の地動説にとっても非常に重要だったといいます。つまり、エカントを等速回転する円の組み合わせに書き直して、円の順番を入れ替えることで、地動説を生み出したというのです。当時は座標の考え方もベクトルもないし、数学の枠組みが今とは全然ちがいましたから、こうでもしないと、太陽中心への書き換えは難しかったでしょう。

こういう具合なので、プトレマイオスアリストテレスを一緒くたにすると、コペルニクスが何をやったか全然わからなくなってしまいます。またアリストテレス主義とユダヤ教系の宗教のギャップを忘れると、両者の調整の中から生じたあれこれも、全く視野に入らなくなります。

地動説は全く圧迫されなかったのか

ここまで教会をやや擁護してしまいましたが、私は別に「カトリックは地動説に反対なんかしてないんだ!」「科学的見地から冷静に対処したんだ!」と言っているのではないです。ガリレオ裁判の結果、地動説は教義に反するとされました。

また、イエズス会が当時、先端的の科学研究に積極的に取り組み、その上で天動説擁護の論陣を張っていたことは上述の通りなのですが、ここに教会の方針が全く影響しなかったはずはありません。彼らの内心どうだったのか、つまり表向きと同じように天動説支持だったのか、それとも内心では地動説に傾いていたのか、今も議論が分かれるところらしいです。16世紀後半以来の、思想的な締め付けは決して過小評価されてはいけないのでしょう。

また、「カトリックは、むしろ真理を聖書を経ないで直接自然から知りうるとする主張を問題視したのであって、地動説を問題にしたのではない。」という説明も見たことがありますが、まあ、やはり地動説自体が問題になっています。

結局、一言で言うと?

かつて、「科学の宗教の闘争」という漫画のような単純化が席巻したことがありました。今もその余韻はそこここに感じられます。その反動なのか、私が学生の頃は、「キリスト教が近代科学を生み出した」などと科学と宗教の互恵的な関係を強調する書籍が、一般向けに出回っていました。ヨーロッパ中世に於いて学術の土台を作ったのは教会でしたし、キリスト教アリストテレス的な自然学のアンチテーゼとしての役割もありました。そういったことが、かなり誇張して強調されたわけです。

ですが、今まで述べたことを総合すれば、「科学の宗教の闘争」「キリスト教が近代科学を生み出した」この両極端なストーリーのどちらも支持できないことは明らかだと思います。残念なことに、両者の関係を一言でさらりといい表すことは難しいようです。

なぜガリレオ裁判はあのような結果に至ったのか?

現在ほぼすべての教会が地動説を受け入れていることを考えると、地動説とキリスト教の間に本質的な矛盾は無さそうです。少し調べた範囲では、17世紀当時の平均的な教義の理解においても、教皇庁の決定があのように苛烈になる必然性はなかったと思います。にもかかわらず、ガリレオの個人的な特性や、超巨大組織・ローマ教会内部の政治的な事情もあって、事態はあのように進んでしまいました。

このプロセスにおいては、あまりにも多くの本質的でない要素が絡んでいます。科学と宗教の問題を考える上で、果たしてこの事件を取り上げるのが有意義なのか、それすら疑問に感じてしまいます。もっとも、こういった不純な要素を伴わぬ事例もまた、滅多にないのかもしれません。所詮、科学も宗教も生身の人間が担うのですから。

なお、最初の話の枕にした「チ。」の結末はこういう形のようです。