なぜ三角関数の歴史を追うのか

中世科学の通史を見ると、必ずや三角法の章がある。

今でも三角関数は重要だが、フーリエ解析その他の応用まで学んで初めて面白みがわかってくるものの、地味で退屈なテクニックである。そういう目から見ると、三角法の歴史に特化した章、それどころか書籍すらも出ているのは不思議だった。

press.princeton.edu

だが、古代ギリシャ数学と近代数学のギャップ、特に数についての考え方の違いを知るに至って、考えが変わった。古代ギリシャ流の数と量、比と比例では、到底近代科学は成立しなかっただろう。中世における応用数学の実践が、数の概念を徐々に変化させていったのである。

では、応用数学の中で、なぜ特に三角法なのか。

第一に、三角法は幾何と算術の交わるところにある。非常に大雑把にいうと、前者はギリシャ、後者はインドの貢献が大きい。これらの伝統がどんな風に融合したかを、三角法の歴史を通してみることができる(かもしれない)。

第二に、数値解析的な手法との関係である。三角関数を使いこなすには、さまざまな数値的な手法が必要で、例えば各種の補間法、反復法、方程式の数値解法、そして時代が下がってからは無限級数など、これらは三角関数を扱う中で発展してきた側面がある。

第三に、長い間数理科学の花形であった、天文学との関係である。三角法の最も重要な応用先は天文学で、逆に三角法抜きに天文学の発展もありえなかった。著名な天文学者はいずれも、三角法の発展にも心を砕いた。上にリンクを貼った三角法の歴史の本は、優れた天文学史でもある。一般向けの天文学史が宇宙論中心になってしまうことが多い中、数理的手法の発展を解説してくれる本書は、非常に貴重だと思う。

起源

三角法の萌芽は、紀元前2世紀のヒッパルコスの「弦の表」にあるという。

アリストテレスが活躍したのは紀元前4世紀、公理的な幾何学を大成したユークリッドは紀元前3世紀。高度な数学を展開したアポロニウスやアルキメデスはその少しあとである。天球や地球の概念も確立し、当時のギリシャの学問は世界の最先端を進んでいたと思う。

ところが、天体の運行の観測や数値的な予測、つまり数理天文学においては、やや後発だった。紀元前1世紀に於いてですら、ローマの建築家ウィトルウィウス占星術メソポタミア南部の「カルディア人」の特技としたくらいだ。

メソポタミアは数百年に渡るデータのストックをもっていた。これを可能にしたのは規則的で正確な暦であり、また黄道十二宮などの基本的な概念が早くに整ったことも大きかった。

数理方面での彼らの武器は、よく整備された算術だった。位取り記数法に基づいた算術は、1より細かい量も組織的に扱えた。また数表の多用も彼らの数学の大きな特徴である。数表は、複雑な演算の補助として、逆問題を解くための道具として重宝された。関数の概念や代数的な記号のないこの時代、数量的な関係を表現するためには、具体的に表を書いてみせるしかなかった。例えば、今でいえば二次関数に相当する関係が数理天文学で用いられているが(いわゆるシステムB)、これも数表で表されている。

一方、ギリシャにも実用算術 λογιστικός (logistikós)という分野はあったが、著作は一つも残っていない。ニコマコス『算術』は数論の本で、実用算術はやらない。ユークリッド『原論』では割り算も長方形の面積の計算もしない。調べた範囲では、実用的な算術では、ギリシャやエジプトの取り組みは、メソポタミアほど組織的ではなかったようだ。

ギリシャは、こういった欠点をメソポタミアから流入した知識で補った。そしてヒッパルコスはさらに進んで、三角法の萌芽とされる「弦の表」を生み出す。これは、円弧の長さと対応する弦の長さを表にしたものである。円弧の長さは角度に比例するから、角度と弦の長さの対照表でもある。名前と裏腹に、三角形が三角関数の定義に使われるのはかなり後になってからだ。

弦の表は、もちろんメソポタミアの遺産の上に築かれいる。算術は言わずもがな、数表の多用、そして補完法はメソポタミア的と言っていいと思う。(弦の表の利用には、必然的に補間法が必要になる。無限に多くの角度に対応する表など、作れるはずはないからだ。)

しかしそれにもかかわらず、弦の表はギリシャでなければ現れようがなかった。

まず、角度の概念について。全天を360°に区切るのは、よく知られるようにメソポタミア起源である。しかし角度を純粋に幾何学的な量として扱ったのは、ギリシャが最初なのだ*1

そして、ギリシャ幾何学の伝統に弦の表は非常によく適合した。すでにユークリッド『ファイノメナ』では、初等的な球面の幾何で天文学の問題を整理している。三角法は、この種の豊富な幾何学と数値的な解析を媒介したのである。

ヒッパルコス以降、ギリシャの数理天文学は力強く発展する。ただし弦の表は現代のsinやcosに比べると使いにくく、今日高校で教えられる公式の殆どは未発見であった。ヒッパルコスの三角法は、まだまだ萌芽的な段階にあった。

インドの sin と算術化

ヒッパルコスらによる新たな数理天文学は、メソポタミア流の手法を隅に追いやり、東に向かって伝わってゆく。起源5世紀ごろインドに到来して改変され、独自のギリシャ風インド天文学が成立する。500年ごろに成立したアールヤバタ『アールヤバティーヤ』は、その初期の記念碑的な著作であり、現存する最古のsin の表も含まれる。

ここであえてギリシャ風の「インド天文学」としたのは、この体系が強烈な個性を放っているからだ。少し前のインド国内では独自起源説も有力だった。

ギリシャ天文学では、複数の円を重ねて天体の動きを表現する。天体の動きを大雑把に予測するには、一定速度で地球を回っていると考えて周期から計算すれば良い。さらに精度を上げるには、速度の変を表現する小さな円(周天円)を付け加えたり、円の中心を地球とずれた場所に設置したりする。

インド天文学も、やはり円を用いて平均運動からの補正を導く。ところが導かれた補正の算法を反復適応するときは、幾何的な描像はあまり顧みられていない。二回補正を入れたい時、ギリシャなら二つの円を付け加えるだろう。しかしインドでは、ただ単にアルゴリズム入れ子にする。その結果、幾何的な描像との対応が不明瞭な、不思議な計算方法が出来上がる。つまり、非常に算術的な傾向が強いのだ。

https://www.researchgate.net/publication/227009758_The_Equant_in_India_The_Mathematical_Basis_of_Ancient_Indian_Planetary_Models

三角関数のsinの導入も、彼らの算術的な嗜好の賜物といえる。「sinは三角形の辺の比率として幾何的に理解できるではないか」と思うかもしれないが、当時の三角関数は三角形ではなく円と結びついた「円関数」だった。デカルト座標系を知っていればsinは自然と円に結びつくが、当時はそのようなものはない。この条件下では、幾何的に素直なのは、ヒッパルコス流の弦の表だろう。そのせいか、運用上はsinにあたる量が頻繁に出てくるにもかかわらず、古代ギリシャは弦の表一本槍であり、またアラビアでも長いことsinと併用された。

だが、算術中心のインドでは、計算の見通しを良さを優先してsinを導入した。versin、のちにはcosも導入された。

また、インドでは近似が積極的に、あるいは無遠慮に活用された。厳密な解法と近似解の区別は、しばしば明瞭でなかった。三角関数表のに於いても、彼らは補間や補外、あるいは逐次近侍法など、算術的な手法をふんだんに用いる。ブラフマグプタ(アールヤバタのアールヤ派天文学に対抗するブラーフマ派の最も重要な人物)などは、15°毎の値を幾何的に求めた後、二次補間で間を埋めている。アールヤバタの表もsin(x)の二階微分が-sIn(x)であることを利用したと思しき補外が使われており、ギリシャ流の計算とはかなり異なる。

ただし、アールヤバタの少しあとに成立したVarahamihiraのPancasiddhantikaは4世紀以降の古い天文学書の集成で、これに含まれる表はギリシャ系統だといわれている。下記文献3.2節を参照のこと。

Mathematics in India | Princeton University Press

中国

インドの天文学と三角法は、仏教などと共に中国にも入っている。『隋書』経籍志には、「波羅門〜」といったタイトルの算術や暦術、占星術の書をいくつも見つけることができる。また『旧唐書』『新唐書』の律暦志には、迦叶氏(kasyapa) 、拘摩罗氏(Kumara)、瞿昙氏(Gautama)といったインド系の天文家の活動が伺える。瞿曇悉達『開元星経』にはsinの表もある。だが、中国の数学も天文学も、構造が変わるほどの影響は無かったようだ*2

唐代の天文学者の中から、もしただ1人だけをとりあげるとするならば、密教僧一行だろう。民間人でありながら画期的な大衍暦を編み、また開元年間の大地の計測事業を主導した。これは大地の形状を定量的に検証しようとする野心的な試みで、古代ギリシャの地球説を仮定した上での計測よりも、数段難易度が高い。

一行もインド系の天文学に興味は持ったようで、色々と刺激されるところもあっただろう。だが、彼の大衍暦は完全に中国的な算法を用いている。三角関数に関していうと、彼のtanの「表」は世界でも最古である。ここで「表」とは書いたのだが、実際にはいくつかの区間に分割して、三次関数で近似している。『大衍暦』歩晷漏や『高麗史』所収の宣命暦(我が国では江戸時代まで使われた)、特に後者にぅわしい。おそらくは、グノモン(地面に垂直に立てた棒)による観測と関係があると思われる。これはインド伝来のsinの表から計算した可能性も指摘されているが、どうもあまり数値は合わないようだ*3。そもそも、sinとtanの関係は我々が思うほど自明ではないらしい。西方においては、tanはsinとは別に、グノモンの学から派生する。

 

アラビアにおける総合

インド流の天文学と三角法は西にも伝播する。アッバース朝イスラム帝国天文学は、インド・イラン系天文学から出発し、ジージュ(天文表)とよばれる天文学書の伝統を確立する。これは、アルゴリズム的な側面を強く打ち出した数理天文学書の形式で、欧州の『アルフォンソ天文表』などもこの伝統の中に位置付けられる。ジージュには、しばしば三角法の章が設けられた。代数の開祖・アル・フワーリズミーのズィージュは、特に西方で長い間影響力を持った。彼はまた、インド算術や数理地理学の書も著している。

アッバース朝が成立して程なく、シリアやイラク北部のギリシャ語を解する知識人たちが台頭してくる。天文学においても、彼らが推奨したプトレマイオスアルマゲスト』が徐々に浸透してくる。特に、基礎理論はほぼアルマゲスト流が支配する。インド流の半算術的な理論は、異なる伝統の中では説得力をもたなかったのだろう。

ズィージュという枠組みは相変わらず活発で、三角法に関してもインド流が基本になるのだが、こちらにもギリシャ的な論証数学の影響は及ぶ。インド流とギリシャ流をより高いレベルで統合し、さらにグノモンの学も組み込んで、アラビアの三角法は本格的な自立した数学の分野になる。

tanとグノモン

アラビアの功績の一つは、グノモン(日陰棒)の学からtanを定義し、三角法の伝統に組み込んだことだろう。10世紀の天文学者で万能学者のal Biruniの『影についての詳論』という書物は、グノモンの学を確立した名著である。影の光学的な(非常に興味深い)考察や、観測における実際的な(煩わしい)計算、(全く読む気がしない)語源や詩の蘊蓄など、多彩な内容が含まれるが、三角法との関係で言うと、グノモンと関係してtanとcotanが定義されている。もちろんtan の表もある。また、sinやcosとこれらとの間の関係式や、観測・測量への応用も触れられている。

633 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

634 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

また、al Biruniの年上の同時代人、abu al-Wafaの数理天文学書(『アルマゲスト』)では、sin, cos,  versin, vercos に並んで、tanとcotanを一斉に導入し、並列に扱っている。つまり、tanやcotanに関わる問題にsin以下の伝統的な三角関数をもちいるだけでなく、逆、つまり伝統的な三角法で扱っていた問題にtanを利用したのである。特に逆三角関数を必要とする計算では、sinとcosだけで済ませると少し面倒になることがある。

tanの援用が少しも自明でないことは、al Biruniの三角法の書『円の弦の導出について』ではtanやcotanを援用していないことからもわかる。そもそも、tanやcotanは影の「長さ」として導入された。abu al-Wafaもある直角三角形の辺の長さでtanとcotanを導入している。ところが、tanが応用として有用なのは、これがsinとcosの比の値になっているからだ。「長さ」として導入したものを「比」と結びつけるのは、決して当たり前の考えではなかった。

al BiruniとAbu Al-Wadaは理論・観測ともに秀でた史上有数の天文学者で、両者で示し合わせて月食の観測をし、ホラズムとバクダットの間の経度の差を求めている。

Biruni

体系的なアプローチ

冒頭に掲げた本では、「インド人は、ギリシャ人の証明した定理と同じくらい、素晴らしい計算をした」とある。しかし、同時に彼らの記述は体系的な説明や証明を、しばしば欠いていた。注釈書で導出を補う場合でも、「理解の遅い者のために図をつける」などと書かれる場合もあった。

上記のabu al-Wafaやal- Biruni の著作は、それらの欠陥を補うものであった。特に、ビールーニー『円の弦の導出について』は天文学を離れて、三角法そのものに集中した最古の書物である。彼は証明そのものを楽しむかのように、一つの関係式に幾つもの導出をつけている。

 

球面三角法

インドに向かって三角法が旅立ったのち、ギリシャでは球面幾何学の発展が著しかった。

インドや中国では、球面は三次元中の立体として、ピタゴラスの定理など通常の平面幾何学と同様の手法で分析された。立体の煩わしさを避けるに於いては、適当な平面への射影を考えた。

それに対してギリシャでは、大円を球面上の直線と見做す、独自の球面幾何学を展開した。現代的に見れば、曲率一定の空間のリーマン幾何学だ。最も重要な定理はメネラオスの定理(受験数学で習う同名の定理の球面バージョン)で、プトレマイオスアルマゲスト』ではこれを弦の表とともに活用して、数理天文学のさまざまな問題に応用した。この様に三角法と球面幾何を絡めた理論を、球面三角法という。

アラビアに於いてはしかし、このメネラオスの定理を克服することが重要なテーマとなった。メネラオスの定理は、球面四角形で定義される六つの「線分」の間の関係である。10世紀のAl Quhiが示したように、この四角形を適切に選ぶと非常にエレガントな解法を与える。しかし、適切な四角形は問題ごとに手探りで見つけるしかなかった。

これを解決すべく、球面三角形についての様々な関係、すなわち正弦則、正接則などが、abu al-WadaやAbu Nasr (Al Biruniの師)によって発見された。また、球面上の角度を積極的に用いるなど、球面の幾何として膨らみが出てきた。私が特に感銘を受けたのは、polar triangleの概念だ。これは、球面三角形の間の双対関係のようなもので、polarを取ると角度と辺が入れ替わり、二度polarを取ると元に戻る。これを用いれば、例えば、三つの辺を定めてから角度を求める問題と、三つの角度を定めて辺の長さを求める問題は、互いに移り合う。

こうして球面三角法は、豊かな内容を持った本格的な分野に成長する。11世紀には、これを天文学の文脈から切り離し、まとめて整理した書物が現れる。この『球面上の弧長の決定』を著したのは、アラビア語圏の西の端、スペインのibn Muadh al-Jayyaniだった。彼は若い頃カイロで学んだともいわれる。スペインは東方に比べて遅れた地域とされることが多かったが、近年は見直しが進んでいる。彼は他にも、『薄明かりの書』で観測から大気層の厚みを推定しており、これは東方やラテン語圏に影響を与えて、例えばケプラーも参照している。

https://islamsci.mcgill.ca/RASI/BEA/Biruni_BEA.htm

アラビアの平面および球面三角法の最終的な形は、13世紀の万能学者Nasir al din Tusiの『四角形について』で与えられる。これも天文学を離れて三角法に特化した書である、なお、Tusiはプトレマイオスの体系の問題点を指摘して、Tusiの対円という仕組みを用いた書き換えを提案した。彼のこの理論とコペルニクスの理論の類似は、科学史家の間でも論議の対象となっている。

代数の応用、小数

アラビアに於いても、インドを引き継いで様々な近似法が試みられた。それらの中で代数方程式の数値解の応用は、いかにもアラビア的といって良いだろう。

15世紀の前半の天文学者・数学者カーシーは、sin 1°を求めるためにそれを三次方程式の解りして表した上で、数値的に解いた。

方程式の理論は、アルフワーリズミー二次方程式の理論が出発点である。彼は、方程式を用いて問題を解いただけでなく、方程式そのものを研究の対象として、正の解の存在条件を明らかにした。これを三次方程式に拡張したのが、11世紀の詩人数学者のウマル・ハイヤームと12世紀のSharaf Al Din Al Tusiで、後者の研究は三次方程式の判別式の初出でもある。

Sharaf al-Din al-Tusi (1135 - 1213) - Biography - MacTutor History of Mathematics

三次以上の方程式の場合、解の構成はもっぱら数値的な手法に頼った。こういった近似解法に於いて小数は非常に便利だった。多項式の代数が負の冪を含めて整備された結果、小数の仕組みの理解も深まり、12世紀から10進小数も伝統的な60進小数と共に用いられる。

Al-Samawal (1130 - 1180) - Biography - MacTutor History of Mathematics

カーシーの三角関数表の作成は、ジージュの精度の改善にも寄与した。彼も参加した『スルタンのジージュ』は、中世のジージュの最高峰である。

Kashi

スペイン、そしてヨーロッパへ

アラビアの数学や天文学は、主にスペインのアラビア語圏を介してヨーロッパに入る。スペインはアラビア語圏の他の地域と異なった、独特の発展をしていた。よって、上述のアラビアの三角法の歴史にそのままヨーロッパの歴史を接続する訳にはいかない。ヨーロッパにとっては、今まで挙げたどの書物よりも、12世紀のジャービル・イブン・アフラフの『アルマゲスト修正』が重要である。ここには、東方で起こった進歩の多くが抜け落ちている。この抜け落ちた部分をして、ヨーロッパにおける独自の発展史を語るのは、また次の機会にしたい。

Jabir ibn Aflah (1100 - 1160) - Biography - MacTutor History of Mathematics

*1:メソポタミアでは、角度と時間が同じ言葉で表され、また黄道からのズレ、いわゆる黄緯に当たる量は°とは異なる単位が用いられた。

*2:江晓原 六朝隋唐传入中土之印度天学 《汉学研究》(台湾)10卷2期(1992)

*3:曲安京(大橋由紀夫訳),一行の正接関数表(724AD), 数学史研究 153号 1997, http://www.wasan.jp/sugakusipdf/153.pdf, あるいはhttp://www.wasan.jp/sugakusipdf/158.pdf

中国の音律③ 律管と京房の準


今回はいよいよ、エルメスさんのツイートにある京房の「準」についての話をする。なるべく、前のエントリーと独立に読めるように書いたつもりだ。

中国では古来、現代の西洋音楽と同様、オクターブを12分割する十二律を用いていた。各々の音はピタゴラス音階に似た、三分損益という算法で定められた。ただし、古代ギリシャ音楽理論が弦の長さについて語るのに対して、中国では律管の長さで音を表現した。(これは飽くまで象徴的な意味であって、実際の調律とは一応、別の話である。)

三分損益は、簡単な算法で共鳴しやすい波長を選んで音を刻んでゆく。そして12番目に現れる音は、ほぼオクターブ離れた音になる。この「律の循環」は、12という数字が一年の月の数や木星の周期を想起させ、自然哲学的な解釈を呼び込んだ。だがこの「循環」は所詮は近似だから、幾つもの調が現れるとどこかで音同士の関係が崩れる。

京房はこの「律の非循環」対処する、六十律というシステムを提案した。ヨーロッパで同様の方式(53平均律)が提案されたのは17世紀中頃のことである。

中国とギリシャの音律

中国と西洋の音律の類似は、すでに18世紀、中国に派遣されたイエズス会士によって気がつかれている。相当にショッキングだったようで、どちらが先か、影響関係はあったのかなど、論争になったという。私も、予備知識なしに伝統音楽の調律具を手にした時は、唖然とした。

ところが中国科学史のニーダムは、ギリシャと中国の音律の基本的な違いを冷静に指摘している。詳細は省くが、古代ギリシャの音律の基礎は、「区間の分割」が主役で、音は区間の端として定義される。例えばピタゴラス音階では、Cとオクターブ上のCの間ををまず三つの区間に分け、FとGを定める。そしてC〜F、G〜C各々さらに三つに分けて、合計七つの音(ピアノの白鍵の音)を作る。

一方、三分損益は一番低い黄鐘から林鐘を、林鐘から太簇を、と次々と生成していく。十二回これを繰り返すと、ほぼオクターブ差が出来る。この十二の音から五音又は七音を選んで宮、商、角、徴、羽などと階名をつけて調を作る。『礼記』礼運の「五声六律十二管、還相為宮」とあるのを引いて、12回目の三分損益で「宮=黄鐘」に返るとされた。(ただし後で述べる様に、これはあくまで近似。)

かくのごとく両者は基本的には別のものである。ただ生成された音の間に対応がつくだけだ。仮にFを黄鐘として三分損益を始めると、最初の6回でピアノの白鍵に対応する7つの音が出来るのだが、そもそもこの対応はあまり自然ではない。オクターブの一番低い音同士を対応させるなら、黄鐘にはCを当てないといけない。するとニーダムが既に指摘しているように、両者は一致しない。

用いる数学も、ギリシャは比の合成と分割、中国は掛け算と割り算の繰り返しで、全く異なっている。前者は現在は消滅した概念だが、掛け算とは結びつかず、そもそも演算ですらない。だが敢えて言うなら、加法や減法のイメージで考えられていた。

律と律管

音の生成について、両者はかくも異なっていた。さらにギリシャでは専ら相対的な音の同士の比率に関心が集中した。勿論中国でも「律、率也」(蔡邕『蔡氏月令』)などと言われ、比率の重要性は認識されていた。だが中国では、律が国家の儀礼や度量衡にも結びついていたこともあって、しばしば絶対的な音高が問題になった。

晋の荀勖の調整した律に阮咸が「其聲高,非興國之音」と文句をつけた話はあまりにも有名だ(『宋書』『晋書』律暦志)。名分や正統性の議論が矢鱈と喧しかった宋の時代には、黄鐘の管長が大きな問題になった。

また音律は、どれか一つの音が定まれば他の音は三分損益で一意に決まるのだが、律書の多くでは、わざわざ全ての律管の長さをあらわに計算してある。黄帝に命じられた泠綸も、12音に対応する律管を全て作成する(『呂氏春秋』)。

この十二本1組の律管は単に「律」ともいわれ、「截管為律,吹以考聲,列以物氣,道之本也。」(『続漢書』律暦志) などと言われた。つまり律管は、音律の象徴でもあった。

京房の六十律

これに対して京房は「竹声不可以度調」、つまり律管では正確な音は出せないと言い切った。そして調律用の弦楽器、「準」を作成する。この準を用いて、彼は独自の六十律の理論を展開する。

三分損益を繰り返すと、黄鐘に決まった係数をかけていくだけで音の比率を定めていくことができ、12回目でオクターブ上の黄鐘に近い音になる。だが、これはあくまで近似に過ぎない。そもそも、三分損益が3の冪に基づく分割であるのに対し、オクターブは2の冪に基づく。しかし、2^n=3^mとなる自然数n、mは存在しない。12律は、m=12、n=19でこの等式が近似的に成り立つことを利用しているが所詮近似は近似で、しかもこの誤差は演奏においても無視できない程度に大きい。つまり『礼記』礼運の言うような、「還相為宮」は実現しない。

そこで、京房は「分卦直日之法」という独自の考え方を持ち出す。それによると、六十四卦のうち、六十の卦が分担して一年を司る*1。つまり十二回で止めるのではなく、六十回まで三分損益を繰り返すとする。幸いなことに、終わり近くの54個目に生じる「色育」は、極めて黄鐘に近かった。つまり、ほぼ「還相為宮」となっている。もちろん非常に微小な差は残るのだが、耳で感じ取るのは不可能だ。

では、残りの六つの音はなぜ必要なのか。それは、54番目の色育の階名を宮として、ここから七音からなる調(平調)を始めるからだ。この七つの音が終わってサイクルが閉じる。『続漢書』の六十律の表には、各々の律の司る日数が逐一書かれている。

ただ素朴な疑問としては、色育で黄鐘に還ったとするなら、そもそも色育の一つ手前の53番目で止めるのが筋なのではないか。実際、17世紀のメルカトルは京房とほぼ同様のシステム(53平均律)を提案するが、53で止めるのである。

京房の問題意識

以上、「京房の六十律は、三分損益による十二律の非循環に対処するために作られた」という筋立てに乗って話を進めた。細部はともかく、全体のストーリーは非常にわかりやすい。こういう時は、現代的な問題意識を投影しすぎていないか、立ち止まって検討する必要がある。

そもそも、京房はどのような背景をもった人物だったのか。『漢書』第七十五巻の京房列伝によると、彼は独特で精緻な易法と音律の知識をもって孝廉に推挙されたそうだ。また百科事典によると、京房(前78―前37)は易に天文学を取り入れて「卦気、分卦直日(ぶんかちょくじつ)」を説いた、易学史上の重要人物として扱われている。
易学(えきがく)とは? 意味や使い方 - コトバンク
さらに『続漢書・律歴』でも六十律は「其術施行於史官,候部用之」、占星術や占いをする部門で用いられたとあり、「候気」という律管を用いた占いについて詳しく述べている。つまり、京房は音律家であるとともに易で名を挙げた人物であって、六十律の理論も応用も、また易と深い関係があった。むしろ、十二律の問題点との関係について『続漢書・律暦』は何も述べていない。色育でほぼ還るという事実も、数表をよく見るとそうなっているというだけだ。総じて残された史料からだけでは、京房その人の意図は必ずしも明らかでない。古代科学史にありがちな話だが、史料が少なすぎる。

だが、後に続く人たちの捉え方については、比較的はっきりと断言できる。彼の六十律を十二律の非循環への対処だとする理解は、南北朝時代から一般的だった。

例えば北魏の陳仲儒は、十二律が転調の際に起こす問題を指摘して六十律を推した。南朝宋の銭宝之の三百六十律は、京房の説の素直な発展である。何承天は六十律や三百六十律を非難したが、彼の新律は十二律が「還らない」で生じる差を、全ての律に(算術平均の意味で)均等に配分するというものだった。古法に一年を365日とするのと同じく、三分損益もまた近似にすぎないのだという。彼の新律は採用されなかったが、律暦志には記されている。陳仲儒の件は『通典』にも採録されている。

また、宋の蔡元定(朱子の共同研究者)の『律呂新書』律呂證辨・和声ではそれまでの研究史をこの理解に基づいてまとめている。(この時代には律の非循環はあまり認識されていなかったらしく、文句を言っている。)
蔡元定律呂證辨詳解(二) | CiNii Research

京房の準と使用法

十二律の非循環の発見という数理面での貢献の他に、彼は「準」という調音用の弦楽器の製作で名を残している。ただし、あまり詳しいことはわからない。『続漢書』には

準之狀如瑟,長丈而十三弦,隱閒九尺,以應黃鍾之律九寸;中央一弦,下有畫分寸,以為六十律清濁之節。

とだけある。準の再現を試みた北魏の陳仲儒も、あまりに簡略な記述に閉口している。瑟のような楽器で長さ一丈で、振動部の長さが九尺。黄鐘の律管の丁度10倍だ。13の弦があり、中央の弦の下にスケールがついていた。使用方法については、

均其中弦,令與黃鍾相得,案畫以求諸律

とあるので、中央の弦を黄鐘の律管に合わせ、それを基準に他の音を作ったのだろう。

『続漢書』には、全ての律について次の三つの数値が書かれている。まず、「実」。これは、黄鐘を3^{11}として、三分損益に従って計算している。黄鐘の値は12律までが厳密に整数値になる様に選ばれている。それ以降は端数が出るが、丸めて整数値にしている。「実」には単位はついておらず、抽象的に比率を表す数である。

この「実」とは別に、律管の長さと準の弦の長さも書かれている。黄鐘はそれぞれ九寸と九尺である。前者は1/100寸(0.2mm +α)までの精度だ。後者は、寸(=1/10尺)以下の端数は、分母を3^9とした分数にに直して、分子だけが書いてある(以九三之,數萬九千六百八⼗三為法)。これらは、「実」の値とぴったりと整合するので、あきらかに理論値である。そして、出されている数値はあまりにも細か過ぎ、到底実現できたとは思われない。

この数値で作った律管は、準と同じ音を出さないだろう。なぜなら、管楽器は開口端補正の問題があるからだ。よって、両者は黄鐘の管を除き、別々に運用されたと思われる。律管はおそらく、候気での使用が主眼だろう。

それにしても、準の数値の細かさには、一体どういう意味があったのだろうか。大型の準では細かい刻みを実現できることをアピールしたかったのかもしれないが、度が過ぎている。陳仲儒も頭を抱えて、伝説的な視力を持った「離朱の明」を復活してもこの細かい値の再現は無理だとしている。

魏書/卷109 - 维基文库,自由的图书馆

むしろこの数値は飾りかもしれない。つまり、準のスケールに「この律の音はここ」と目盛りがついていただろうが、その目盛りの根拠は数値ではないかもしれない。例えば2/3の長さを割り出すには、定規で測る以外に次の方法がある。同じ音を出す弦を二本並べる。片方の弦のブリッジを適当に調節して、二本を同時に弾く。純正完全五度の響きがあれば、2/3の比率が得られた証拠だ。バイオリンの調律と同じやり方である。オクターブを使えば、1/2も出せる。これを順次繰り返せば、全ての律に対応する区画がアナログ的に出せる。少なくとも、同様の手法は作った音のチェックには使える。

何も史料がないと、どうも妄想ばかりが膨らんでしまう。

ギリシャの一弦琴

弦楽器での音律の研究というと、ギリシャの一絃琴が思い起こされる。一本だけの弦しかないこの楽器は、指定通りの数値で音を鳴らすには十分だった。しかし音のハーモニーの観察には複数の弦が要る。そこでプトレマイオスなども複数の弦を持つ機器を製作した。制作にあたっては、弦長の精度の良い計測のために、様々な工夫をしている。彼はまた、管楽器が如何に音律研究に向かないかを力説し、弦楽器の優位性を説く。一方、著作の後半では弦楽器の抱える困難も、正直に告白している。弦の不均質さから張力が弦の上で一様ではなく、したがって弾く場所によって音が異なるという。

https://en.xen.wiki/images/9/9f/Barker_2001_-_Scientific_Method_in_Ptolemy%27s_Harmonics.pdf

京房も準の調整に苦労をしているのではないかと思う。機器に工夫をするか、操作に熟練するか、あるいはその両方か。後に述べる事情を考えると、後者の要素がかなりあったと思う。弦の長さが長い準の場合、弦の自重による弛みや、材質の不均一さは無視できなかったのではないか。

準はどうなったか

彼の死後、準と彼の律学はどうなったのか。『続漢書』には二つの興味深いエピソードが紹介されている。

一つ目は西暦84年のこと。「今、準を用いて六十律を整えることができる人材が官には居ません。嚴宣というものが父親からその術を伝えられているそうですので、召し出してはどうでしょう。」という上奏があった。賛否両論があったので、嚴宣を召し出してテストすることにした。ランダムに選んで鳴らした律管の音をあてさせたのである。ところが嚴宣はほとんど正解することが出来ず、この件は沙汰止みになった。

二つ目は西暦177年。音律を司っている張光らが召し出され、準について問われたのだが、彼らは答えることができなかった。彼らは戻って収蔵庫を探したところ、書物にある通りの形をした準を見つけた。しかし、弦の張り具合をどうしたらいいのかもわからず、使うことは出来なかった。こうして準は失われて、六十律は数値と候気の術が残るのみになった。

これらの逸話からは、音律の学と実践とのギャップ、準の操作の微妙さなどが伝わってくる。京房は準の精度を出すに当たって、機構の工夫よりも操作の熟練に頼ったのではないか。操作のコツの伝授が途絶えた時、その使用方法は永遠に失われてしまったのだろう。

だが、それでも準と六十律の残した印象は強かったようだ。

漢が滅びて南朝の宋の時代になると、上述の銭宝之と何承天が京房の六十律の議論を受けて、各々の議論を展開している。次の梁の武帝は『鐘律緯』という音律書を編むが、この中で京房の理論も検討している。題名にある「緯」は弦の意味だ。『隋書・律暦志』によると、

制為四器,名之為通。四器弦間九尺,臨岳高一寸二分。黃鐘之弦二百七十絲,長九尺,以次三分損益其一,以生十二律之弦絲數及弦長。

つまり「通」という調律用の弦楽器を作成した。「黃鐘之弦二百七十絲」は弦作成に何本の糸を撚るのかを指定しているのだろう。他の音は三分損益で数値を定めているが、弦の長さだけでなく「糸数」にも適応するとある。これで音は合うのだろうか*2。通は4つ作成し、各々三つの弦がある。つまり、一つの弦が一つの律を担当する。律管の発想の延長だろう。

同じ頃、これまで何度か言及した陳仲儒が梁から北魏に帰順した。琴の奏者として名高い彼は、十二律の問題点を指摘し、六十律の採用を訴えた。

「準の技は途絶えたのではないか、誰に学んだのか」という下問に、「私は琴に熱中し、また『続漢書 律暦』を読み込みました。深く研鑽を積んだところ、かなり熟達することができました。」と答え、また律書には十分な情報がなかったことを認め上で、自ら工夫して音の安定を得たとしている(『魏書・楽志』)。例えば、ブリッジの高さを揃え、柱(フレット)を入れて、常に弦を水平に保つのだという。

現代であれば、彼の創意工夫は称賛の的でしかない。しかし尚書の蕭寶夤は彼の理のあること認めながらも「而學不師授,云出己心」(師伝を受けたわけではなく、自らの考えを述べている)と非難し、結局採用されるに至らなかった。仲儒の「燧人不師資而習火」(伝説の聖人は教わらずに火の使用を習得した)「豈必要經師授然後為奇哉」といった訴えは、むしろ逆効果だったかもしれない。やはり、国家の制度としての律には、皆が納得できる典拠が必要だったのだろう。

魏書/卷109 - 维基文库,自由的图书馆

ただ、蔡元定も陳仲儒の六十律の理解に疑問を呈している。十二律の問題点の指摘は正しいが、彼のいう通りに六十律を使って調を作ると音高が合わないという。陳仲儒の動機はむしろ、弦による調律手法の確立だったのかもしれない。宋の時代になると、蔡元定の琴律書も現れ、弦楽器の位置付けも変わってくる。12平均律を発明した明の朱載堉も、研究には弦楽器を用いている。

付録: 参考文献とテキストの解釈

彼の六十律とその背景については、司馬彪『続漢書 』律歴志(西晋)がもっとも詳しいが、『宋書』『晋書』 も補完するところがある。後の二書は前者を大きく引用しているので、校訂にも用いられる。前者は現在見れる全ての版で『後漢書』と合本されている。

二十四史の現代中国語訳が以下から無料で読める。テキストも十分な校訂を経ており、巻頭の解説も私には有益だった。ただ、考勘や注釈がない。
二十四史全译 Full Modern Chinese Translation of 24-Histories : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

1965年版の中華書局の『後漢書(続漢書) 』律暦志は以下で無料公開されている:
中華書局 後漢書 (全十二冊) 1965年5月第1版 第11冊 志第一至第一八 志一 | PDF

以下の論文の70ページから『続漢書(後漢書) 律暦志』の原文と英訳がある。
ScholarlyCommons :: Home

また、以下の堀池信夫先生の論文は、京房と六十律についてのまとまった情報が手軽に読める。
堀池信夫、中国の音律学の展開と儒教
https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/1817

両者は史料の読みに異なるところがあり、六十律の数表の直後の箇所については違いが甚だしい。

截管為律,吹以考聲,列以物氣,道之本也。術家以其聲微⽽體難知,其分數不明,故作準以代之。準之聲,明暢易達,分⼨⼜粗。然弦以緩急清濁,非管無以正也。均其中弦,令與黃鍾相得,案畫以求諸律,無不如數⽽應者矣。

前者はこの部分を京房の言葉の引用とし、後者は『続漢書』の著者・司馬彪の論評で、京房の準にやや批判的な立場からのコメントだという。私はここは司馬彪の考えを述べていると思うが、準を批判したのではない思う。のちの陳仲儒らの反応を考えても、『続漢書』は準を肯定的に扱っているとするのが自然だと思う。そもそも、最後に準で求めた音が「数而応者」と比べて劣ることはない、と言っているのだから、基本的には肯定的なトーンでないとおかしい。

ただ、「非管無以正也。」をHegeshは「準で正しく(チューニング)できない律管はない」と取るが、ここは堀池論文の「律管でなければ音が正しいことはない」という読みが正しいと思う。少なくともそのように取ると、前後の意味は通り易くなる:

「然るに、弦は張力の緩み具合で音高が変わるので、律管でないと正しい音は出ない。そこで中央の弦を黄鐘の律管に合わせ、分画を作って他の律を求める。それで計算して調整したもの(律?)に劣ることはない。」

また、文頭の「非」を反実仮想の意味で使う用例は多く見るが、Hegeshの訳を正当化する用例はあまり知らない。例えば『魏書・律暦』の冒頭の「非律無以克和,然則律者樂之本也。」なども、反実仮想で読む方がしっくりくる。また、二十四史の現代語訳をみても、ほぼ上記の解釈で良さそうである。

「然」の直前の「分⼨⼜粗」の解釈も分かれているが、私は以下のように割り切っている。おそらくは、準のスケールには各々の律に対応する箇所にフレット又は印があっただろう。準のサイズが十分なので、印の間隔が大きいという意味ではないか。

なお、堀池先生の表3の色育の計算は間違っており、京房のあげる数字(この表の「律」)の方が正しい。また、同じ表の「準」の数字は『続漢書』の表記を誤解されている。その結果、準と律の数値の間にずれを認めて前者を実験値としている。しかし、この結論は無理だろう。他の六十律について書かれた二次文献でば、いずれも律管と準の数値の間に差を認めていない。また、数値的な一致は偶然とは思えないレベルである。

Hegeshのテキスト・翻訳についても疑問点がいくつかある。
例えば張光らのエピソードに続く「音不可書以時人」というところなのだが、1965年 中華書局版でも二十四史現代語訳でも、『宋書』『晋書』をもとにして、「音不可書以暁人」に改めている。「暁」は明らかにするという意味で、これなら「音律は明瞭に書いて人に了解させるのは不可能だ」と意味が通り、次の「知之者欲教而無從」(わかっているものが教えようとしても、甲斐がない)につながる。対してHegeshはこの改訂を採用しないのだが、訳文はあまり意味が通っていないように見える。

*1:64から春分夏至秋分冬至の四至に相当する4引いて60を得るらしい。

*2:周波数の分布を完全に比例的にするには、糸の長さと半径を同じ比率で拡大縮小しなければいけない。糸の本数は断面積に比例するだろうから、三分損益で出る値の二乗にしなければいけない。ただし、一番効くのは最も長い波長であるから、あまり影響はないだろう。なお、十二平均律の朱載堉も面積を長さと同じ律で拡大縮小しているのは、『鐘律緯』の影響かもしれない。

中国の音律と調律② 三分損益の数理と六十律

このツイートをきっかけに、中国の音律について調べ始めたのだった。


ヘルメスさんが取り上げている、京房の六十律を理解するには、音律の数理に踏み込まなければならない。

三分損益とは

以下では、基底音(黄鐘)の管の長さを1とする。慣例的には9寸とされることが多いが、それでは数学的にはややこしくなるからだ。

中国の音律の基本的な構造は二つある。一つはオクターブの概念で、管の長さを半分にするとオクターブ高い音が現れる。

このオクターブを更に細かく分割するのに用いられるのが三分損益で、これは管の長さを2/3または4/3にして、次々と音を定義していく。

まず黄鐘(管長=1)から始まって、次の林鐘の管長は1\times 2/3=2/3である。4/3倍しないのは、1オクターブ内に収めるためである。次の太簇を得るには、林鐘を4/3倍する。2/3をかけると、4/9になって、1/2よりも小さくなって一つ高いオクターブになってしまうからだ。

つまり、2/3と4/3のどちらを掛けるかは、管の長さが1/2を超え、1以下になるように決めるのである。

  • 基本的には2/3にするのだが、1/2よりも短くなった時には2倍して辻褄を合わせる

と言い直してもよい。さらに言い換えると

  • 基本的には1/3倍したい。しかし、結果が1と1/2の間に入るよう、2を何回かかけて調整する

とも言える。この見方をすると、後で述べるようにk回三分損益の繰り返しをした結果を、一つの式で書くことができる。

さて、三分損益を続けて合計12回繰り返すとしよう、すると管の長さは8/9の6乗、すなわち0.4936…となって、まずまず1/2に近い。そこで「声六律十二管 還相為宮」*1、すなわちこれでオクターブ差が生成されたかのように言われた。また「2」と「3」を組み合わせることから、「参天両地」とも結びつけられた。

参天両地(さんてんりょうち)とは? 意味や使い方 - コトバンク

上記のアルゴリズムの適応の最初の数回は「2/3をかける」と「4/3をかける」が交互に現れる。前者を「下生」、後者を「上生」と言った。また、12の音律の奇数番目を「律」といって「陽」と結びつけ、偶数番目を「呂」といって「陰」に結びつけた。すると、下生で陽から陰が、上生で陰から陽が生じる。陰陽と非常に上手く結びついている。

ところが何度かループを回した先は、「上生」と「下生」のパターンが逆転してしまう。だが『漢書・律暦志』ではこの点に言及がなく、言われたままの操作をするとオクターブずれた音も出てきてしまう。おそらく、このずれは適是二倍したり1/2したりして修正することが暗黙の了解だったのだろう。一方、『続漢書・律暦志』ではどちらが使われたか、リストの形で正しく書かれている。『隋書・律暦志』によると、南朝梁 ・武帝が前者は(暗黙の前提を無視すると)音律としておかしく、後者は陰陽とかみ合わぬとしている。宋の時代の『夢渓筆談』では、律と呂をさらに陰陽に分けることでこのあたりの辻褄を合わせている*2

この三分損益は、ギリシャピタゴラス音階との類似性が指摘される。ニーダムなどは大胆にも、両者ともメソポタミアから分岐したと推測する。確かに、律の起源譚で伶倫が西にいって律管を作る話は思わせぶりではあるが、果たしてどうだろうか。

三分損益と対数

三分損益は、管の長さの対数をとると簡単な式に書き直すことができる。

三分損益は管の長さが1/2を超え1以下になるようにかける数を調整するのだった。これは管の長さをLとすると、2を底とする対数を使って


 0\leq - \log_2 L<1
と書ける。つまり、基本的には管の長さを1/3にしたいのだけど、この条件を満たすように2を何度かかけて調整するのである。

ところで管の長さを1/3にすると、管の長さは LからL'=L/3になって、


 - \log_2 L'=- \log_2 (L/3)=- \log_2 L+ \log_2 3
となる。これが上の条件を満たすように管の長さを 2^n倍する。つまり、 n

 - \log_2 L'=- \log_2 (2^n L/3)=-\log_2 L+\log_2 3+n
が0以上1未満になるように、 nを選ぶ。

これは、実数 xの小数部分 x mod 1を使うときれいにかける。


 - \log_2 L'=(-\log_2 L+\log_2 3) mod 1
よって、三分損益k回繰り返すと

 - \log_2 L'=(-\log_2 L+k\log_2 3) mod 1
となる。そして黄鐘の管の長さを1にしたのだから、黄鐘から出発してk回三分損益を繰り返すと、

 - \log_2 L'=(k\log_2 3) mod 1
になる。これがなるべく黄鐘の値、すなわちゼロに近づくようにkを選ぶのである。言い換えると、 k\log_2 3がなるべく整数に近くなるように、kを選べばよい。

往きて還らず

ところが、\log_2 3無理数である。よって、kをどうとっても k\log_2 3は整数にはならず、よって三分損益ではいくら繰り返してもオクターブ差は作れないことがわかる。

このような一般論は無理であっても、「k=12ではダメ」ということは具体的な計算でも確かめられた筈だ。それを確かめて問題をはっきりと提示したのが、ヘルメスさんのツイートに出てくる前漢末・京房だった。宋の時代の蔡元定は、これを「往而不還(往きて還らず)」と表現した。

京房の六十律と銭楽之の三百六十律

しかし\log_2 3無理数だということは, k\log_2 3はkを適切な大きな整数にすると、いくらでも小さくできるということだ。つまり、十分大きな自然数まで探索範囲を広げれば、いくらでも精度良く「還る」ことができる。

完全な後知恵になるが、このようなkの探索には、\log_2 3を近似する有理数をさがせばよい。その分母が良いkの候補である。Wolfram alphaになげてみると、

  • 3/2, 8/5, 19/12, (27/17), 65/41, 84/53, 485/306, (569/359) …

という近似有理数の列を返してくれた。カッコ内の分数は筆者が加えた(b/aとc/dで上下から挟んでいるとき、(b+c)/(a+d)も近似有理数になる)。
19/12に対応するのが十二律で、次の27/17は(今回は触れないが)宋の時代の蔡元定の十八律である。京房の六十律は、その次の次、84/53に相当する。k=53とすると黄鐘からの差はたったの3.6セントで、ほぼ識別不能だろう(k=59、すなわち合計六十音になるまで続けた理由には、次回述べる。)。

京房の路線を引き継いだのが南朝劉宋の銭楽之で、k値の探索範囲を359まで増やした。kをこの値にすると音の数は360となって、易の理屈では都合が良いらしい。そして569/359と\log_2 3の差は0.0000042…とそれまでに現れるどの有理数よりも、よい近似を与える。だが、途中で現れるk=306もなかなか良い近似だ。実は、こちらの方がk\log_2 3の小数部分は最小であり、より近くまで「還っている」(後者の0.00147…に対して前者は0.00153…)。よって、本来ならここで止めるべきだっただろう。

ここについては、銭楽之の計算間違いが疑われている。
表計算ソフトを用いた中国音律学の理解 (2) : 銭氏三百六十律をめぐって | CiNii Research

『続漢書・律歴志』に数値が残る六十律と異なり、三百六十律は『隋書』律暦志に音の配列(低→高)のみが記され,管の長さは省かれている。また、三分損益で最後に生成される(k=359)のが「安運」であることも書かれている。だが、この安運の位置がおかしい。一番最後に配列されているのだが、計算すると最初から二番目、すなわち黄鐘の直後にくるはずなのだ。おそらくは少しだけ値がずれて、黄鐘を跨いでしまったのだろう。

だがこれ以外は、矛盾はないようだ。数値が残っていないので検証は難しいのだが、六十律の間に入る律の個数は、上記の間違い以外は全て正しい。もし真面目に全て計算したのだとしたら、当時の算木を用いた計算では、かなりの労力だっただろう。

簡便な三百六十律の計算方法

銭楽之は、何の当てもなく三百六十律を延々と計算したのだろうか。もしかしたら、何かの方法で目処を立ててから初めてのではないか。

少し考えて思いつくのは、『後漢書』律暦志にある京房の計算を利用することである。それによると、三分損益を53回繰り返すと、元は9寸だった管の長さが「8.98寸+α」と完全には「還ら」ないで、少し縮む。一方、41回では「4.55寸+α」の「遅時」の音になる。これはオクターブ高い黄鐘の管=4.5寸よりもやや長い。

そこで、この遅時に三分損益を53回施せば少し縮んで、オクターブ高い黄鐘の管に近づくことになる。つまり、


 4.55\times(8.98/9)
程度の長さになることが、三分損益を実際にやらずに確認できる。同様に

 4.55\times(8.98/9)^6
は「遅時」を出発点に三分損益を53\times 6回した結果を与える。これは4.5、つまりオクターブ高い黄鐘の音に非常に近い。言い換えると、黄鐘に

41+53\times 6=359
回の三分損益を施すと、オクターブ高い黄鐘に近い音が得られることがわかる。こういった目途がついていれば、大変な計算をこなす勇気も湧くかもしれない。

なお、同じ手法で『隋書』の配列を、実際に管の長さを計算することなく作成できる。六十律の隣あった律の間に、いくつの律が入るかだけを出せば良いからだ。これは、8.98/9+αの冪乗の表を作っておき、それを六十律の管の長さ同士の比を比べれば、簡単に出すことができる。

これらの簡便な方法は、演算の回数が少ないので誤差が累積せず、粗い精度でやっても正しい答えがえられる。ところが、実際には少し間違えた結果を銭楽之は得ている。仮に用いたとすると、かなり荒い計算をしたことになる。

精度の問題

六十律や三百六十律の計算はどのような精度でなされたのか。下記のリンク先で、六十律の数値の検討がなされている。
表計算ソフトを用いた中国音律学の理解 : 六十律や律呂隔八相生図をめぐって | CiNii Research

『続漢書』も『隋書』もほぼ同じ手続きが書かれている。まず、黄鐘に177147=3^{19}という数値を割り振る(「実」とよんでいる)。これに「寸」などの単位は付かない。完全に抽象的な数である。三分損益は、「2又は4をかけてから3で割る」と算法が統一的に指定されている。この「実」は、十二律を端数なく表現できるように取ってある。そしてここまでも計算は、全く誤りなしに進んでいる。

ここから先は割り算にあまりが出る。結果の精度を見ると、誤差はあっても最初の一桁がずれるかどうかだ。なかなかの精度だと思う。結果の表示では「実」は整数だが、裏の計算では端数も残していただろう。試みに、小数点以下第二位を四捨五入して第一位まで保って検算したところ、整数部分は全て正しく出てしまった。『後漢書』の数値はこれよりも荒いので、もう少し粗略な方法なのだと思う。

三分損益の計算で、4/3をかけるステップでは誤差が拡大する。特にこれが何度か続いた後は、精度が落ちている。しかし、その後には必ずや2/3をかけるステップが現れ、ここで誤差は縮小する。そしていくつかのステップをまとめると1よりも小さな数の掛け算になる。よって、カオス力学系のような野放図の誤差の拡大は起きない。楽では無いが、手に負えないということもなさそうだ。

『続漢書』では、抽象的な数値をさらに律管の長さに変換している。やはり、抽象的な数では座りが悪いのか。黄鐘を九寸とし、十分の一寸を分、100分の1寸を小分とし、それ以下の端数は「強弱」でプラスかマイナスかを表し、大きさを「微」「中」などで定性的に表した。

これらは比例計算や1よりも小さな数の扱い方の例としても、非常に興味深い。

メルカトルの53平均律

「六十律」をwikipediaで引くと、17世紀の数理科学者ニコラス・メルカトルの53平均律へのリンクが貼られている。(なお、「メルカトル図法」のメルカトルは前の世紀の別人。)天文学者として有名で、ケプラーの理論の受容においても、非常に重要な役割を果たした。
歴史は繰り返すとはよくいったもので、彼も完全5度(2/3)や完全4度(4/3)の積み重ねを53回繰り返すと、ほぼオクターブ差が得られることに気がついたようだ。「平均律」とは言ったものの、音と音の間隔はバラバラである。

ところで、戯れに(安運は黄鐘に等しいとして飛ばして)30おきに360律から音を拾いあげてみた。つまり、31、61…と拾いあげる。するとほぼ平均律に一致している。個々の音の幅は「359平均律」にはなっていないのだろうが、30くらいまとめると平滑化されるのだろう。ただし歴史上、そういう観点で三百六十律が使われた事実はない。

何に用いたのか

では、これら六十律や三百六十律は何に用いたのか。あまりにも細かすぎる刻みは、実際の演奏には全く役に立たない。では音律の理論としては、のちに影響はあったのか。『続漢書』の後、『宋書』『晋書』『隋書』の律暦も京房の説を紹介しているので、魏晋南北朝時代においては常に意識されていたのだと思う。『魏書』楽志によると、北魏の琴の奏者・陳沖儒が十二律の問題を指摘し、京房の六十律の採用を願い出た。また、何承天の画期的な新律は、六十律の否定から生まれた。このころまでは、十二律の「往きて還らず」という問題は、理論家の間では共有されていたのだろう。だが、問題点の提起という以上の影響はあっただろうか。

今明らかになっている六十律の応用は、「候気」とよばれる占いだ。灰を詰めた律管を円環状に並べると、日付に対応する律管の灰が飛ぶ。その飛び方をみて占いをした。ここで各々の律管は一年のある区分に対応するので、数が多ければ多いほど細かい占いができる。

『続漢書』律暦志に「殿中候用玉律十二,惟二至乃候、靈臺用竹律六十候日如其曆。」にあるように、簡易な占いは十二の玉製の律管を用いた。しかし、冬至夏至の微妙な時期には、天文台で竹製の六十の律管を用いたのである。『漢書』京房伝によれば、彼は占術の専門家として名を成したのであった。

京房の「準」

音律の歴史における京房の功績の第一は、「往きて還らず」という問題を際立たせたことだろう。そして、もう一つの功績として挙げられるのが、調律用の弦楽器「準」である。伝統的な中国の音律学では、「律」が音律と律管の両方の意味を兼ねたことから類推されるように、律管が音律の基準とされた。

もっとも、調律の実際はまた違っただろう。現代においても、実際の調律と理論とはずれがある。若い頃、調律師に転職した知り合いに音律の理論のことを尋ねてみたら「そういう話は実際はあんまり関係ないので。。。。」と言われてしまった。だが、建前としては、律管=律=音律だった。それに対して京房は「竹聲不可以度調」、竹の律管などではダメだと言い放った。ゆえに準を作ったのである、と。今回は長くなったので、準の話はまた次にしたい。

*1:礼記』礼運

*2:東洋文庫版、第一巻、pp.108-110

中国の音律と調律①

こんな思い付きを呟いたところたちどころに、FFのet_al_2021さんが竹という素材の利便性と、中国では手軽に入ることを教えて下さった。さらに、弦は前近代の素材では不安定なことも指摘された。

なるほど、と感心しているところにFFのヘルメスさんから、そもそも私のツイートの典拠は?と指摘されてしまった。よくよく考えると、百科事典の中国の音律の説明からの類推で、あまり根拠がない。彼曰く、東西どちらとも相対的な音は弦で定め、菅で基準の音を決めたのではないかという。そして、


これは、一度東西の音律について少し調べてみなければならないようだ。以下は、その備忘録である。

康熙字典』を引いてみる

今は多くの漢籍がネット上で気軽に見ることができる。その中で便利なのが字典、特に『康熙字典』である。これは清朝考証学の成果でもあり、この文化の円熟期の考え方を知る史料でもある。

中國哲學書電子化計劃
康熙字典網上版
数字化《说文解字》字头检索

康熙字典』で「律」を引くと「法律」といった意味も載せられているが、第一義的には「音嵂(音律)」だとしている。この部分は宋代以降の韻書*1の引用である。「時代を遡るとどうなのか」といったいったことは追々考えるとして、とりあえず続きを引用する。なお、出典は《》で示している。

  1. 《玉篇》六律也。
  2. 《廣韻》律呂也。
  3. 《說文》均布也。(十二律均布節氣,故有六律,六均。)
  4. 《爾雅·釋器》律謂之分。《註》律管,所以分氣。
  5. 漢書律歷志》律有十二,陽六爲律,隂六爲呂,黃帝之所作也。黃帝使泠綸自大夏之西,昆侖之隂,取竹之解谷生,其竅厚均者,斷兩節閒而吹之,以爲黃鐘之宮,制十二筩以聽鳳之鳴。其雄鳴爲六,雌鳴亦六,比黃鐘之宮而皆可以生之,是爲律本。
  6. 後漢·律曆志=『続漢書 律暦志』》殿中候用玉律十二,惟二至乃候,靈臺用竹律六十候日如其曆。
  7. 史記·律書註》古律用竹,又用玉。漢末以銅爲之。
  8. 《書·舜典》同律度量衡。
  9. 《禮·王制》考時月,定日同律。

これ以降は「《爾雅·釋詁》法也。」など、「法律」という意味に関係する説明に移る*2

漢書』律暦志① 律の起源

一連の引用の中で、最も長いのが5の『漢書』律暦志からの引用である。

漢書』はいわずと知れた中国最初の正史で、律と暦をまとめて律暦とした点も含め、後世の規範となった。特にこの説話の部分は「律」についてのイメージが凝縮されているからか、非常に頻繁に引用される。

まず冒頭、「律有十二」と宣言されている。すなわち、オクターブを西洋音楽と同じく、十二に分割したのである*3。このうち、低い方から数えて奇数番目の六つの音を陰陽五行の「陽」と結びつけ、(狭義の)律と呼んだ。そして残りの六つを陰と結びつけ、呂といった。そこで律のことを「六律」または「律呂」とも称する (各々引用1、2を参照。)

十二律(じゅうじりつ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

漢書』からの引用に戻ると、導入部に続いて、律の起源説話が紹介される。

伝説上の帝王の黄帝は、泠綸(伶倫)という人物を中国の西の「昆侖之隂」に派遣して「解谷」に生える竹を取ってこさせた。泠綸は空洞が均一な竹を選び、両方の節を絶って吹いた。これが「黄鐘」の音で、階名は「宮」とした。さらに合計十二の笛を鳳凰の鳴き声を参考に作った。『爾雅』釈鳥では鳳凰のホウは雌、オウは雌としている。前者が声が陽の律、陰の呂である。十二律の全ての音は、一番下の黄鐘から生成され、故に黄鐘が律の基本だという。

律=律管

漢書』の説話では音律は十二本の竹の管、すなわち律管と分かち難く結びついている。この律管のこともまた、「律」と呼んだようである。

まず、4の『爾雅』釈器の記述を見てみよう。『爾雅』は漢初までに成立した用語集で、「釈器」では様々な器物を扱う。よってこの「律」は器具であり、素直に考えれば調律具だろう。全ての項目がいずれも「x謂之y」という形式だから、あれこれ考えずに律の機能は「分」だ、と取っていいだろう。「分」には「分割する、分別する」といった意味がある。何を「分」するかは書いていないが、「音」だとするのが自然だと思う*4

爾雅注疏 : 卷五 - 中國哲學書電子化計劃

「律」が器具を意味することは、6, 7の引用からもわかると思う。7の『史記・律書註』(唐の中ごろ成立)では「律」は古くは竹や玉で、漢末以降は銅で作ったという。

漢書』律暦志② 律と暦、度量衡

十二律はまた十二支と対応し、それを介して方位や時間、また季節(節気)、十二ヶ月と結びついた。9番目に引いた『禮記』王制の記述はこの関係の中で理解できるだろう。

8番目に引用した『尚書』虞書・舜典の「同律度量衡」の元々の意味は、おそらくは律や度量衡を国内で統一したという意味なのだと思う。しかし、『漢書』律暦志に引用されて以来、この言葉は別の意味を帯びることになる。

漢書』律暦志は、前漢末〜新の碩学、劉歆の理論に基づいている。彼は長さや容積の単位は黄鐘の律管を基準に定義し「新莽嘉量」という標準器を作成した。さらに劉歆は音律と暦も統一してみせた。だから、『史記』では暦書と律書が別れていたのをひとまとめにし、更に度量衡までも包摂してしまったのである。「同律度量衡」の文句も、音律と度量衡の統一のことだと解釈されて、『晋書』『宋書』など、後世のの律暦志でも踏襲されていく。

律と気

この『漢書』律暦志の理論は、採用している起源譚からも解るように、「陰陽の気」が重要な役割を果たしている。気と律との関係は『康熙字典』でも明らかに重視されている。

例えば、3の『説文解字』(2世紀前半)の「均布也」を見てみよう。「均一に布告・施される」くらいの意味なので、この「律」を法律や規則だとすると、何ら字句を補わずとも辻褄が合う。だが、カッコ内の北宋の『說文解字繫傳』で付け加わった註では、唐突に「節気」が出てきて、これを均布するのだと言う。

さらに、4の『爾雅』の註(西晋時代のもの)を見ると、調律器具と思しき律管の用法が「分気」だとされている。この注も難解だが、幸い宋の時代に書かれた「疏」が解説してくれている。細かい語釈はさておき*5、冒頭ズバリ

鄭注《月令》云:「律,候氣之管也。以銅為之。」

と鄭玄(後漢)の『礼記』月令への注を引用しているのが、ほぼ答えなのである。律管は「候氣」に使うのだと。つまり、「分気」とは「候氣」なのだ。実は、律管の説明で使われた6の『後漢書』律暦志からの引用分に出てくる「候」も同じ意味であり、実は本文にはこの「候気」について纏まった記述がある。これとエルメスさんが引用した「京房の六十律」の理論は密接に関係するので、説明しておきたい。

京房の六十律--両漢経学の展開と律暦学 | NDLサーチ | 国立国会図書館
https://onl.sc/JTucsX6
https://onl.sc/Lepfrwm
堀池信夫、中国の音律学の展開と儒教https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/1817

「候気」は占いに用いられた手法で、灰を詰めた律管をぐるりと環状に配置する。風が入らぬように、部屋は閉め切っておく。すると念頭にある月に対応する律管が反応し、灰が飛び散る。この飛び散りかたを見て占いをするのである。風や人が触れた時と気に感じた時とでは、灰の飛び方が違うらしい。堀池信夫論文によれば、この法が生じたのは漢になったからで、京房によって完成されたという。

律と候気と度量衡

この疑似科学的な現象は、中国では長く根強く信じられてきた。疑った人も多く居たが、例えば北宋の技術官僚の沈括*6南宋の蔡元定、朱熹*7といった優れた知性の持ち主が支持した。

背景としては、律管の長さを定める方法の論議があった。相対的な長さの比率は『漢書』の理論で決まる。しかし基準音たる黄鐘の管の長さは、別の方法で定めねばならない。この問題は、単なる楽理の問題に留まらなかった。なぜなら、国家的な儀式での楽曲の演奏に直接左右してしまうのだから。またすでに述べたように、黄鐘の音高の決定は、もう一つの国家の大事、度量衡とも関係していた。

しかし、標準器の新莽嘉量は4世紀ー18世紀の間は行方不明になっており*8、使えなかった。また、形のない音の同一性を確保するのは至難の技である。

現在長さの単位メートルは、光の波長で定義している。律管の長さも音の波長と比例関係にあるから、似ているといえば似ている。しかし現在の基準では用いる光の生成手順が明らかで、設備さえあれば誰でも(然るべき訓練を経ていれば)再現できる。一方、黄鐘の音は生成方法も検証方法も明らかではない。師弟で丁寧に継承していくしかないが、目に見えぬ音を継承するのは容易ではない。

漢書』には一応、音律以外に黍の実を並べたり枡に詰めたりして長さや容積を定義する方法も書かれている。だが黍の実の大きさはばらつきがあり、どう考えても目安にしかならない。藁にも縋る気持ちからか、産地を厳選するなどして粒を揃える工夫もなされたのだけれど、よい結果は得られなかった。そこで、候気が律管の長さを検証する方法として、改めて着目されたのである。

もっとも、時代が下って明の時代になると候気は否定されがちだった。
https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/download/7302
十二平均律の発明者・朱載堉も、「灰が飛ぶ」という現象には否定的だったことが、下の文献の四・1に述べられている*9
https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/download/4156
とにかくも確認できない現象は否定した上で、彼は音律と気との関係、気と自然現象の関係を認め、極めようとした。例えば陽の気が勝る冬至においては、灰や土は乾燥して飛びやすくなることは認める。そして、音律と暦日との関係も詳しく考察する。

康熙字典』の記述では、律と候気の関係が前面に出ている。だが、一度真剣に検討されたのちに懐疑が広まった経緯を思い起こすと、少なくとも再現性の悪さは認識されていたのではないかと思う。「灰が飛ぶ」という際立った現象が言及されていないのは、そのせいかもしれない*10

律は返らない:『康熙字典』が触れなかいこと

康熙字典』にない重要概念に、律の循環があった。『礼記』礼運に「五聲、六律、十二管,還相為宮也」とあるように、オクターブ毎に元の音名に戻る。ここで、五聲とは十二律から取り出した五つの音(宮、商、角、微、羽)で、現代の階名に近い概念である*11。黄鐘から出発して、三分損益で次々と音を生成すると、十二回目に黄鐘のオクターブ上の音にかなり近くなる。この循環が季節の変動とのアナロジーをよんだのだ。

律と暦の融合は、すでに述べた劉歆で頂点に達する。「其法以律起曆」「律,法也,莫不取法焉」といった言葉は彼の理論の本質を端的に表している。つまり、律この世界の背後にある理法であって、よって暦も律に基づいて作る。だが、以後は律暦志という体裁は保つものの、暦と律の関係はなくなる訳ではないが、希薄になってゆく。やはり無理のある統合だったのだろう*12

律だけに限っても、劉歆の用いた三分損益法には、律が厳密には循環しないという欠点があった。このことを指摘したのが、ヘルメスさんのツイートで紹介されていた京房である。前漢末の元帝の時代だから、劉歆よりもむしろ先なのだ。

この「律は厳密には循環しない」という問題は、西方の音律においても別の形で議論されて、十二平均律を生む。西方に少し先んじて中国でも、すでに触れた朱載堉が十二平均律を提唱している。彼は劉歆に負けず劣らず暦と律の相関を信じて、季節と同じく律も循環すべしと考えたのだった*13

だが、朱載堉の音律は、清朝の取り上げるところとはならず*14儒者の大勢も、古典的な三分損益を重視したという*15

やっと話のスタートに立った感があるが、長くなったのでこのあたりにする。

補足 編鐘:『康熙字典』が触れないこと②

他にも『康熙字典』に引用されていない重要な話がある。例えば、上記の『漢書』からの引用は実は『呂氏春秋古楽の孫引きで、こちらを見ると竹で律管を作ったのち、12の鐘も作るのである。『國語』周語下にも、「度律均鍾」とある。鐘というと有名な曽侯乙墓編鐘を思い出す。あれの他にも、発掘例は他にいくつもある。これらの編鐘の分析で、先秦時代の音律についても解明が進んだ。
呂氏春秋 : 仲夏紀 : 古樂 - 中國哲學書電子化計劃
國語 : 周語下 - 中國哲學書電子化計劃
曽侯乙墓編鐘とは【そうこおつぼへんしょう】 - 意味・解説 : 考古用語辞典 Archeology-Words

三國志演義』にも登場する蔡邕『月令章句』では、鐘が先で律管は後としている *16。ニーダム『中国の科学と文明』*17でも鐘を先として、「弦で音を作り、共鳴する様に鐘を作ったのだろう」としている。また、紀元前四世紀以前は律は鐘だったというChavanessの説を引く。ニーダムによれば、『詩経』では音楽への言及は多くあって音の正確さを気にかける詩句もあるのに、律は出てこないという。*18。そして、「律」の原義は演奏に関する規則だったとする。この点は他の研究も漁ってみないといけないが、少なくとも鐘も重要だったのだろう。

実際の歴史はさておき、『呂氏春秋』ですでに律管を先にし、『漢書』以降でこの説話が引かれる時は鐘の件は省かれがちである。また、気との呼応を考えると管の方が都合がよろしいように思う。「律」は漢以前に、調律器具であると同時に音律そのものの名称として定着していたと思われる。

では、エルメスさんの引用した京房も用いた、弦楽器はどうなのか。調律具の作成や調律において、弦楽器を活用するのは非常に自然だと思う。この件もまたの機会に。

*1:『集韻』『韻会』『正韻』

*2:文献巡りをして見て、古典に現れた字句が決まり文句と化して繰り返し現れる頻度に、改めて圧倒された。中世においては、西においても古典に巻き付けるようにしてテキストを編んでゆく。だが、漢字文化圏の場合、どんなことにも一々経書に典拠を求めるようなところがあり、独特の圧迫感がある

*3:引用部分には書かれていないが低い方から 黄鐘-大呂(たいりょ)-太簇(たいそく)-夾鐘(きょうしょう)-姑洗-仲呂-蕤賓(すいひん)-林鐘-夷則-南呂-無射(ぶえき)-応鐘と名前が付いている。

*4:『爾雅注疏』を見ると、「分」の音は「分音粉」である。『康熙字典』で「分」を引くと、この音に対応する字義としては、『爾雅』および『爾雅注疏』のこの部分のみが引用されている。つまり『爾雅注疏』や『康熙字典』では、ここの「分」は一般的な意味とは違う、特殊な意味を持つと想定しているのだと思う。

*5:語釈の要点を述べると、末尾の「總而言之(要するに)」以降に「陰陽の気は全て律と対応している。故に『礼記』月令では月毎に律を対応させている。それをもって十二月の気を「分候」する。」とある。「陰、陽皆稱律。故《月令》十二月皆云「律中」是也。以其分候十二月氣,故又名分。郭云:「律管可以分氣。」是也。」リンク先の25 https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=259011#釋器第六

*6:ただし、沈括『夢渓筆談』の候気の方法もメカニズムも、後漢書のものと少し異なるように思う。後者は律管をやや真ん中を低くしながらも、対応する方角に向けて配置する。数や方角との感応を狙うからだ。一方、前者は地面を平らにして律管を埋める。東洋文庫の薮内清訳によると、地面に垂直に埋めるようだ。沈括曰く、冬至になると陽の気が上昇し始めるが、最も深くまで届く黄鐘の管だけが反応するという。

*7:朱子語類』巻74「今治曆家用律呂候氣,其法最精。氣之至也,分寸不差,便是這氣都在地中透上來。如十一月冬至,黃鐘管距地九寸,以葭灰實其中,至之日,氣至灰去,晷刻不差。」気が地に浸透することが原因としている。蔡元定『律呂新書』も同様。この点は先の沈括の説に近いか。ただし、『律呂新書』では律管の設置の仕方は『後漢書』を引用している。

*8:岩田重雄, 「新莽嘉量について」『計量史研究』第26巻2号、p.93-99、日本計量史学会、2004年12月27日, NAID 110002345744

*9:実験した上での結論らしいが、現代的な意味での「非存在の実験的検証」に該当するかどうかは、論文の記述ではあきらかではない。

*10:なお、ニーダム『中国の科学と文明』、26,h,7,(iii)でも候気のまとまった取扱いがある。

*11:「五声」「五音」と言った場合には「宮、商、角、徴、羽」の五つの階名を十二律のどれかに割り振って用い、「七音」という場合には「変徴、変宮」を加えた。

*12:「推法密要」と絶賛された劉歆の『三統暦』は、律や経書との辻褄合わせは巧妙だったが、基本的には周期に基づく計算だった。周期の見積もりは時代相応の精度だったので、時間と共に天象からのずれが溜まっていった。

*13:https://cir.nii.ac.jp/crid/1050288469019240320

*14:「例えば戴念祖は、康熙帝の『律呂正義』歬編が朱載堉の理論の一部を採用しながらも、結局は三分損益法を選んだことに言及する。乾隆帝の『律呂正義後編』については、「三分損益律を死守し、新法密律を攻擊したのは、その遲れた、陳腐な音律観念がそうしたのである」と述べ、『四庫全書總目提要』の朱載堉評も、『律呂正義後編』の「姊妹編」だと言う」田中有紀「江永の十二平均律解釋と河圖・洛書の學」2015、http://nippon-chugoku-gakkai.orgから取れます。

*15:先の引用の続き、およびhttps://cir.nii.ac.jp/crid/1050288469019240320

*16:「先有其鍾後有其律」、その鐘が先にあって、後で律管ができた

*17:26,h,7,(iii), p.191

*18:確かに『詩経』に律の用例は一つだけで、しかも意味は律管ではなさそうだ。だが、ニーダムが『詩経』のどの詩句を「音の正確さを気にかけている」としたのかは明示されていない。もしかしたら、小雅・鼓鐘の「鼓鍾欽欽、鼓瑟鼓琴。/笙磬同音。/以雅以南、以籥不偕」かもしれない。これは単にユニゾンで演奏しているだけではないか。ただ数種の楽器でー合奏しているので、チューニングに気を使っていることは間違いないと思う。なお、ニーダムは薮内清の反論があることも注記している

天球の発見

天球の有用性

物理的な天球の概念が過去の遺物になった今でも、天球図の有用性は変わらない。太陽、月、惑星の運動を理解するには、地球の自転や公転の影響を差し引いた残りを見るのが良い。このためには、恒星の張り付いた天球を想定して、これに日周運動と年周運動を担当してもらう。すると、日月と惑星の運動は、天球上の軌跡として自然と理解される。

この描像を物理的な実在と捉えたのが、地球中心説(天動説)である。見方によっては原始的な宇宙論だが、地球を不動とした上で天体の運動を理解するには、これ以外にはないともいえる。例えば、恒星が全て連動して動くことも、天球を用いると簡単に説明できる。

天球は原始的な概念?

この現代では当たり前の天球概念の非自明さに、私は中々思い至らなかった。だが、天球の「発見」は天文学史上の一大事件だったのである。そもそも、恒星が北極を中心に回転運動をしていることも、ぼんやりと夜空を眺めていては気が付きようがない。また、日月の運行が恒星の動きと関連させて理解すると整理できることも、観測の蓄積が無ければ全く思い至らないだろう。

また、天球を受け入れるということは、天が頭上だけでなく、地面の下にも続いていること認めなけれいけない。これに対する反発は、かなりあったようだ。科学的な知見の蓄積がやがて地球球体説や地動説を促したわけだが、天球概念の成立も、これと匹敵する大きな転換だったといってよいと思う。

西方で天球概念の萌芽は、すでに古代メソポタミアにあった。日月と惑星が黄道十二宮を巡ることに気づいた当時の天文学者は、獣帯を大地を取り巻く帯と考えて計算を進めたようだ。だが、彼らの抱いた物理的な描像を記したテキストは、今のところ知られていない。はっきりとした天球概念が確認できるのは、古代ギリシャの著作においてである。

ずっと後の後漢の頃になって、中国でも渾天説という天球の概念を含んだ宇宙論が体系化される。この時代、中国にはすでに蓋天説という別の体系があり、両者の論争がしばらく続いた。時代の新しさもあって、こちらは論争の跡をより詳しく辿ることができる。

宣夜説

この時代の中国に宣夜説という宇宙論があったらしい。早くに師伝が絶えて詳しいことは不明だが、全ての天体は各々の性情に任せて勝手に動くという説が伝わっている。宇宙を無限だと考えたとも言われ、現代の中国では愛国主義的に取り上げられることもある。だが、宣夜説では恒星の連動した動きに系統的な説明ができない。科学の理論としては、今一つ魅力がないように思う。歴史的には、この説は次に述べる蓋天説のアンチテーゼとしての役割があったようだ。

蓋天説

対して、中国初の数理的な天文学は、先秦時代からある蓋天説に基づいて成立した。これによると天は円形で大地は方形(天円地方)であり、各々平行な平面上に乗って向かいあっている。この円形の天の回転で天体の動きを説明するのである。ここには、天体の運行の周期性の認識が表れている。また、日月と惑星は天全体の動きに加えて独自の運動もあるとされた。天全体の運動と固有の運動の合成は、「回転する石臼の上を這う虫」という気の利いた比喩で説明された。

https://historyofscience.jp/wp-content/uploads/38-2.pdf

球と円盤の違いはあるが、蓋天説の天体の運動の説明は、宣夜説よりは天球の理論に似ている。ただし、蓋天説において天体は決して地面の下に潜らない。日没などは、遠方に遠ざかることと陰気にくるまれることの二つで説明した。これは、地面の下を天体が進むにを理不尽だと思ったのだろう。例えば、後漢の王充は『論衡』でこの点を強調して蓋天説を擁護している。

渾天説

王充が論敵として想定していたのは、天文学者の張衡が体系化した渾天説であった。渾天説も「回転する石臼の上を這う虫」式の説明はそっくり継承している。ただし大地に平行な円盤は、大地を包む球に取り替えられた。この方が遥かに天体の運動をよく表すことができたからだ。わかりやすいのは日没の説明で、太陽が徐々に遠ざかるとする蓋天説よりもはるかに経験と合致した。

渾天説はまた、渾天儀(アーミラリー球)とよばれる、天球座標を測定する機器を生み出した。渾天儀による観測が、さらに渾天説を補強した。つまり渾天説は、天文学の理論と観測がが展開されるべき、適切な空間を準備したのである。

なお、蓋天説は「表(ノーモン)」とよばれる棒による観測技術を編み出していた。この解釈の一部(一寸千里説など)は蓋天説に強く依存していたが、渾天説においても有用な部分は、渾天家も取り入れることになる。

渾天家の張衡は、理論を整備するのみでなく、水力で動く模型で自説を宣伝した。締め切った室内に模型を置き、指し示す天体の位置を読み上げさせ、観測される天体の位置と照合して見せたのである。渾天説は着実に勢力を増してゆき、南北朝時代にはすでに優位だった。

渾天説では天は大地を包んで展開する点では、西方の地球中心説に近い。アーミラリー球という観測機器を生み出した点も同様である。だが、渾天説は地球球体説は採らない。また大地は水の上に浮かぶとされた。水の下を太陽が潜る不自然さは、陰陽五行説的な自然学を用いて克服されたらしい。この辺りの理屈は、私の理解を超えている。

ただし、中国ではついに地球球体説に到達することはなかった。

天球説の成立へ

渾天説が定着するまでの経緯を見ると、天球概念の成立の契機とハードルがどこにあったか、自ずと浮かび上がってくると思う。

おそらく天体の円環上の動きを想定するきっかけは、周期性の認識だろう。また、恒星の連動した動きを説明するために、天体の張り付く「天」が想定されたのだろう。メソポタミアにおける黄道12球や円盤に描かれた天体図も、似たような経緯で成立していると思う。

ところが、この円環状の運動が地を包むとすると、天体に大地の下を潜らせねばならない。頭上に広がる天が、地平線を超えて足下まで広がることになる。こんなことを簡単に受け入れられるほど、古代人の思考は場当たり的ではなかった。それゆえに、可能なかぎり天体が大地の下に進むのを拒否しようとしたのだろう。

アルマゲスト』によると、古代ギリシャにも日没を「遠方に去る」「火が消える」などで説明する試みがあったようだ。これらは見かけほどナイーブな説明とは思えない。例えば後漢の王充が蓋天説を擁護するにあたって、遠方の物体がどのように見えるかを的確に詳説した上で、論陣を張っている。しかし在らん限りの工夫を尽くしても、このような試みでは日没の状況を再現出来なかった。

古代メソポタミアでは、新月の出現、日の出入り、惑星の早朝と夕刻の出現など、地平線近くの現象がかなり詳しく調べられていた。当時、(少なくとも計算上は)黄道12宮は大地を包むと想定されていたとされるが、その理由の一端は天体の出没への関心の高さにあるのかもしれない。

西方における天球説の本格的な展開は、古代ギリシャだとされる。どれだけ遅く見積もっても、プラトンの頃には明瞭な天球概念がある。だがこのころのギリシャ天文学の水準は、まだまだ低い。世界最先端のメソポタミア天文学ですら、天体の定量的な数理モデルはもう少しあとのことになる。

後の中国では定量的な比較検討もへて、蓋天説を捨てて渾天説を採用しているが、そのようなことができる状況では到底なかっただろう。おそらく、哲学的な憶測がかなり大きな役割を果たしていると思われる。

地球と天球

Twitterで、「地球説を前提とすれば、天球説は自ずと出てくるのでは」という問いかけがあった。たしかに、古代ギリシャの地球説は天球説と深く結びついており、この二つの球面の間に深い対応関係を見出していた。

古代から中世にかけて、西方の文化圏では地表面をいくつかの"klima (英語のclimate の語源)"に分割していた。これは緯度による分割で、日照時間を基準に等間隔に区切っている。ー元を辿れば、メソポタミアの日照時間の計算方法がもとになっているようだ。

Clime - Wikipedia

そして、このclimateは天球の分割でもあった。それはストラボン『地理学』には非常に明瞭に述べられ、アリストテレス『気象学』でも彗星の現れた天球上の場所をclimateで表現している。また、緯度や経度、子午線も天球と地球で共通した概念であった。

https://www.jstor.org/stable/232593

この点、上記の問いかけは非常に鋭い。だが順序関係としては、天球説の方が先なのである。中国が天球説には至っても地球説に到達しなかったことは、すでに述べた。また古代メソポタミアでは、天球概念の少なくとも萌芽はあったが、地球説は形跡すらない。アリストテレス『天体論』やディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』などによると、宇宙の中に円盤状の大地が浮かぶとする理論はアナクシメネスアナクシマンドロス、そして原子論者に見られれる。また、プトレマイオスアルマゲスト』の宇宙論では、まず天体の見え方の議論から天球説を擁護したのち、地球説の説明に入る。

むしろ、地球説は天球説に誘導されたのではないかと思われる。足下に頭上と同じ天を想定する天球説は、世界観を大きく揺るがしたと思われるが、上下の区別を完全に無効にした地球説の破壊力はそれ以上だっただろう。

gejikeiji.hatenablog.com

「月の錯視」の問題

アルマゲスト』その他、古代ギリシャの天球論の論証では、「天はどの方向も一様であるように見える」ことが証拠として挙げられる。星座も日月も、天球の場所によって違った大きさにはならないだろうというのだ。

ところが、実際には「月の錯視」の問題がある。つまり地平線近くでは日月も星座も、著しく大きく見える。このことは『アルマゲスト』でも議論があるが、特に『隋書』「天文志」天体の条に詳しい。さらに10世紀のイブン・ハイサムが指摘したように、天蓋は球状でなく、むしろ天頂が低く平らに見える。 この錯視のメカニズムは、前世紀まで論争が続いた難しい問題である。

しかし正確な原因はわからないまでも、西方においてはこれはある種の錯覚であって、実際に近づいたり巨大化するわけではないとされた。

一方、中国においては少し状況が違う。『隋書』「天文志」でも、「実際に近づく」「伸びる」といった説のあったことが記されている。だが、「比較するものが近くにあると大きく見える」、あるいは「上方にあって上目使いで見ると小さく見える」といった、錯視だとする説もあった。後者は現代の説明に近いのだが、議論の行く末は今ひとつわからない。とりあえず、14世紀の趙友欽(赵友钦、Zhao Youqin)の『革象新書』では、本当に近づいているとして、地球を天球の中心から少しずらしている。ただし彼は非常に独自色の強い思索家だったので、全体の傾向はまた違ったかもしれない。

Kyoto University Research Information Repository: 趙友欽の天文學

 

 

中国の色彩論 紫は「青と赤」か、それとも「黒と赤」か

古代ギリシャでは黒と白の混合に基づく色彩論が優勢だった。アリストテレスデモクリトスも、詳細は違えど、黒白の二元論という点では共通だったらしい。これをニュートンは、黒白の混色では灰色しかできないと批判したそうだ。

ところが、偽アリストテレス『色彩論』では、そもそも画家がするような混色に基づいた議論はよろしくない、としている*1 。その代わりに、光の差し方の違いで生ずる色の変化を豊富に紹介している。この色彩論は、黒と白の混合というよりも「闇と光の化学変化」とでも称した方が良さそうだ。

ps‑Aristotle • de Coloribus

一方で、中国に黒白青赤黄を五色とする説があることは聞き齧っていた。この色の取り合わせは減法混色の三原色(青赤黄)を含んでいるので、染料の混色に基づく理論かとぼんやりと想像はしていたものの、具体的な内容は何も知らなかった。

『説文』の混色による色の合成

思い立ってグーグル検索をしてみると、紀元100年ごろに成立した字典『説文解字』にこの素朴な推測を裏付ける記載があることがすぐにわかった。

  • 紫:帛青赤色
  • 緑:帛青黄色也
  • 紅:帛赤白色

つまり、紫は青と赤、緑は青と黄色、紅は赤と白を混ぜて絹を染めた色だという。五行説の五色の背景には、染色の際の混色があったようだ。

なお、『説文』の「糸」部には、他にも染色に絡めた字義の説明が多い。例えば、以下の例はいずれも混色だろう。

縹:帛青白色也。从糸㶾聲。
緹:帛丹黃色。从糸是聲。
縓:帛赤黃色。一染謂之縓,再染謂之䞓,三染謂之纁。从糸原聲。
紺:帛深青揚赤色。从糸甘聲。

また、これも青と赤の混色である。

緅:帛青赤色也。从糸取聲。

これは、『論語』鄉黨 の「君子不以紺緅飾。」でおなじみの、深い紫である(「青紅色,黑中帶紅的顏色」(五南国語活用辞典))。

紫は「黒と赤」だった?

これで一件落着と思ったのだが、「紫」の項目の段玉裁(1735-1815)による注が目に入った。これによると、紫は青赤ではなくて黒赤のはずで、青とあるのは誤りだという。

紫的解释|紫的意思|汉典“紫”字的基本解释

根拠として、穎容(2世紀後半〜)の『春秋釋例』の一節が引かれ、皇侃(488-545)による『論語』の疏、また『礼記正義』玉藻(唐、孔穎達等)も同様だそうだ。このうち、『礼記正義』を以下のリンクで参照できた。

禮記正義/29 - 维基文库,自由的图书馆

見ると、皇侃による『論語』の疏を引用しながら色の理論が述べられている。これと段玉裁の注に引用の穎容『春秋釋例』の議論は確かに首尾一貫していて、以下のような色彩論が展開されていた。

礼記正義』の色彩論

先ず、各々の方角(東南西北と中央)には五行(木火金水土)と正色(青赤白黒黄)が対応している。正色の合成で間色とよばれる緑、紅、碧、紫と「 騮黃」という色が生ずる。緑と紅の生成に関しては『説文解字』と同じである。ただし紫は黒と赤とする。また、新たに碧は青と白、「 騮黃」は黄色と黒とする*2

この合成の組み合わせは、以下のように決まる。先ず、間色も各々方角に対応している。例えば紫は北に対応している。そして、五行の間には「刻(克)」という関係がある。例えば、黒に対応している水は、赤に対応する火に対して「水刻火」という関係にある。よって、紫は黒と赤の合成になるのである。

上記の関係を表にまとめると、以下のようになる。

方角 五行 正色 間色 刻(克)

東  木  青  緑  土 

南  火  赤  紅  金

西  金  白  碧  木

北  水  黒  紫  火 

中央 土  黄   騮黃 水

この「刻(克)」という二項関係は、相克説といい、火→水→土→木→金の順序でそれぞれ後ろのものが前のものに打ち克つとする説である。水と結びつく黒が、火と結びつく赤と合わさって紫を生ずる仮定は、単なる混色とは異なるように思える。どのようなイメージだったのだろうか。

まとめのようなもの

では結局のところ、紫は「青と赤」なのか、それとも「黒と赤」なのか。

 

上記の緑、紅、碧の説明は、どれも染料の混色だと素直に解釈できる。するとやはり、素直に「青と赤」が先ず最初にあり、五行説の体系化に伴って「黒と赤」になったとするのが自然だと思う。段玉裁も、「『説文解字』も元々は「黒と赤」だったのが、後世の転写の際に、秦の時代の俗説が紛れ込んだのだ」と説明しており、古くに「青と赤」の説があったこと自体は否定していない。

また、『説文』の「帛...」は、他の用例を見ると、やはり帛の染色になぞらえた説明で、色を二つ並べたら、二つの染料を混ぜることを意味する。他の解釈はまず、あり得ない。「黒と赤」を混ぜたら、紫にはなるまい。上で挙げた「緅」なら得られるかもしれなが。よって、『説文』の原文が「黒と赤」はあり得ないと思う。

確かに、『説文』と穎容『春秋釋例』は時代が近接している。しかし、この頃の五行説はまだ整理が進まず、論者によってばらつきがある。時代が近いから同じ説だっただろう、とは言えないと思う。

上記の『礼記正義』の説で気になるのは、相克説が二つの正色を組みにする機能しか果たしていないことだ。相克説では本来、要素の間に順序がついている。よって同じ白(金)であっても、青(木)と組むのと赤(火)と組むのとでは、役割が違って然るべきだと思う。ところがどちらの場合も、白は色を明るくする役割を果たし、青と組んで碧を、赤と組んで紅を生じている。これは、相克説の採用が後付けであることの結果だと思う。

いずれにせよ、五行説との関わりを深めることで、中国の色彩論は単なる色の現象論であることをやめて、森羅万象と結びついてしまった。黒は「水」であり北であり、音階としては「羽」である。色だけの説明に特化し場合と比べて、余計な制約を受けているようにも見える。唐代以後、どのような発展を見せたのだろうか?

なお、「 騮黃」がどういう色なのかついに分からず仕舞いだ。「黄色と黒」の間だから燻んだ黄色かとは思うが、「黒と赤」が紫になることを思うと、この推論は安直すぎるかもしれない。

 

 

*1:part 2, δεῖ δὲ καὶ πάντων τούτων ποιεῖσθαι τὴν θεωρίαν μὴ καθάπερ οἱ ζωγράφοι τὰ χρώματα ταῦτα κεραννύντας, ἀλλ’ ἀπὸ τῶν εἰρημένων τὰς ἀνακλωμένας αὐγὰς πρὸς ἀλλήλας συμβάλλοντας·

*2:「 騮」の文字をWikimediaではスキャンしそこねて別の文字になっている。

ニュートンを肩に乗せた巨人

ケプラー理論をめぐる混沌

ケプラーの『新天文学』は、表題に偽りない、非常に新規な天文学を打ち立てました。彼はすでに名高い天文学者でしたから、この著作もそれなりの注意をひきまして、いくつかの要素は広く受け入れられました。しかし、多くの部分については拒否感が強く、より多くの観測による証拠が求められました。

ところが、ケプラーの理論を計算に乗せるのは、当時の数学では非常に困難でした。そこでケプラーは、数値的な手法を多用した天文計算のマニュアル『ルドルフ表』を準備します。水星の太陽面通過の予測に成功するという、派手なイベントもあり、ケプラーの支持者は増えました。

しかしデータとの突き合わせが進むと、『ルドルフ表』の綻びが見えてきます。ケプラーの理論の月の理論はあまり上手くいっておらず、火星と水星以外の惑星はパラメータの選択が良くなかったからです。

 

gejikeiji.hatenablog.com

 

こういうとき、科学者はどうするか?

ケプラーの理論が真実を含んでいることは、ある程度支持されていたと思います。しかし、従来の常識に超線的で、計算も難しく、また観測にピッタリとあうわけでもない。そこで、ケプラーの理論の修正を目指す動きが自然と生まれました。修正の程度は様々だったのですが、比較的まいるどな路線を代表したのが、イスマイル・ブリオ (Ismaël Boulliau)です。

それに対して、あくまでケプラー理論を信じて、改良を目指したのが、エレミア・ホロックス(Jeremiah Horrocks)です。ニュートンが「巨人の肩に乗った小人」に自らを喩えた時、巨人として念頭にあったのはホロックスかもしれない*1、とThe biographical encyclopedia of astronomers (Springer) にはあります。

Horrocks, Jeremiah | SpringerLink

代替理論にむかったブリオ

ケプラー理論の不評な点の一つに、力学による三法則を「導出」がありました。彼の「導出」は客観的に見て論理が通っておらず、その上当時は天文学を自然学(物理学?)と結びつけることには、慎重な傾向がありました。また、ケプラーの第二法則は、『ルドルフ表』の助けがあったとしても、数学的に扱いやすいものではありませんでした。第三法則はそもそも、天文表の計算には無用でした。

ケプラー理論の根拠の強い部分は取り入れて、より簡単な計算方法を備え、自然学的な理論は取り除き、しかも観測には合う。そんな理論があれば、広く受け入れられて当然でしょう。それをやったのが、ブリオのAstronomia Philolaica(1645)です。彼はケプラーの力学的な「証明」を否定して、天文学幾何学と光学を基礎にすべきだとします。

ブリオはカルバン派の両親の下に生まれ、父の死後にカトリックに改宗、1632年にパリに移住します。ルドルフ表が1627、ガリレオ裁判が1633ですから、なかなか忙しい時代です。彼はメルセンヌのサークルにも繋がり、名だたる数学者天文学者たちと交流し、最新のデータにもアクセスできました。

メルセンヌは彼をこの国で最高の天文学者とし、リッチョーリは『新アルマゲスト』で近代の著名な天文学者のリストに加えています。理論家として有名ではありましたが、観測にも並々ならぬ関心を示して、「ダイヤモンドとルビーよりも高価な」レンズを揃えました。

彼のAstronomia Philolaicaでは、ケプラーの第一法則は認めます。その上で、第二法則に代わる速度の決定規則を提案しました。楕円は円錐を斜めに切ったものです。この円錐を水平な断面に沿った一様な運動を、軌道面に射影したものが惑星の運動だというのです。

彼の理論は、『ルドルフ表』よりもティコらのデータに合いましたし、計算もしやすかった。ケプラーのような謎な論理は振り回さない。楕円運動は円運動の射影として捉えられ、概念的にも計算手法の上でも、従来の天文学の枠内に留まるものです。高明な天文学者のこの理論が大きな支持を集めたのは、当然といえば当然でした。1660年頃は彼の絶頂期でした。相前後して、似たような幾何的な理論を試みが多く現れました。かのアイザック・ニュートンも、いくつか同様の試みをしています。

ニュートンは、ケプラー理論を様々な文献を介して知りますが、ブリオの著作は重要な情報源の一つでした。また、ブリオはケプラーの重力理論(距離に反比例するとした)を批判して、ケプラーの推論を推し進めるならばむしろ距離の二乗に反比例するはずだ、としました。ただし既に述べたように、ブリオは力学的な理論そのものに批判的でしたが。

ニュートンを肩に乗せた巨人

ケプラーの『ルドルフ表』の誤りと対峙したとき、理論の改訂に進んだブリオと全く逆の反応をしたのが、認められぬままに夭折した エレミア・ホロックス(Jeremiah Horrocks)でした。彼はケプラーの理論の全てを、評判のよろしくなかった物理的な理論も含めて受け入れ、繰り返し最上級の賛辞を贈ります。

ホロックスは1619年にイギリスのリバプール近郊の農夫の家に生まれ、給費生としてケンブリッジで学びます。しかし、そこでは彼の望んだ最先端の天文学や数学は教えられていませんでいた。学位を取得することなく退学し、地元に戻って家庭教師として生計を立て、自作の粗末な観測機器で研究を進めます。「ダイヤとルビーより高価な」レンズなどは望むべくもありませんでしたが、それでも一定の水準の観測機器を入手できたのは、当時の欧州の技術水準の向上が背景にあると思います。

また、著名な知識人との知己に恵まれたブリオとは正反対に、彼は大学時代の友人ウォリスを介して知り合った、ウィリアム・クラブトリー(Crabtree)との文通だけが頼りでした。彼らは遂に生前は一度も会うことはありませんでした。会合の約束の前日に、ホロックスが世を去ってしまうからです。1641年ですから、22歳ですか。あまりにも短い人生でした。しかし、その業績は巨大でした。少しあとに発足した王立協会は真っ先にホロックスの遺稿の出版を手掛け、「卓越した天文学(ニュートン)」「英国天文学の誇り(ハーシェル)」などと最大限の賛辞が贈られました。

まず彼は、太陽の視直径を一年に渡って毎日観測し、これが楕円軌道の仮定に合致することを確かめます。カメラ・オブスクラの原理を用いたこの視直径の計測方法は、ケプラーがアルハゼン光学の応用で開発したものです。ケプラー本人は太陽が一番近い時と遠い時の距離の比率を計測して、プトレマイオス=コペルニクスの理論(両者の理論は基本的に同じ)の欠点を指摘します。しかし多数の点で計測して、軌道の形状を確かめたのはホロックスです。

ホロックスはまた、ケプラーの『ルドルフ表』では予測できなかった、1639年12月の金星の太陽面通過を予測して、観測で確認します。彼の計算は、通過の場所までも見事に予測していました。残念ながら、同時に観測をしてもらえたのは盟友クラブトリーだけで、また発表は彼の死後になってしました。もしもこの予測が事前に広く知られていたら、全欧州から賛辞を浴びたことでしょう。

彼の遺作"Venus in sole visa" (太陽の中に見ゆる金星)では、当時の主要な天文表を比較し、『ルドルフ表』をもっとも高く評価します。しかし、欠点として地球の軌道要素の値の問題、具体的には離心率と半径の問題を挙げます。我々は天体の運動と地球の運動の合成を観測しますから、ここが疎かだと他の全てが狂ってしまいます。この問題点をホロックスは大いに改善します。

このほか、第三法則を丁寧に検証したのもホロックスです。当時の天文学は、天体の位置の予測が最大の責務でしたから、直接それに関係のない第三法則に意義を見出すのは、決して当たり前の感覚ではありませんでした。また、木星土星の精密な観測から、二つの天体が接近したときの速度の変化を見出します。もう少し時間が彼に与えられていたならば、両者の相互作用を発見したかもしれません。

ホロックスの理論的な業績としては、月の理論を上げることができます。心の師たるケプラーも、月ではあまり上手くいきませんでしたが、ホロックスの理論は円と楕円を一つづつ組み合わせるシンプルな構成で、しかもたった2分の誤差しかありませんでした。のちにニュートンも彼の新力学で月の理論に挑むのですが、近似を繰り返した挙句得た理論は、ホロックスの理論と同一でした。この理論は彼の死後100年の間、最も精確な理論であり続けました。

また一見地味な仕事ではありますが、ホロックスは計算方法の改良にもかなり意を用いています。これも、ケプラーの第二法則受容の障壁の一つが計算量だったことを思うと、見かけよりもよほど重要な仕事であることが分かると思います。

ホロックスの天文学や数学の知識の多くは独学で、機器は手製の粗末なものでした。中央から離れた場所で、ひっそりと積み上げた業績は、死後、ホイヘンスらに回覧され注目を浴び、天体の物理学的な理論の基礎となりました。

*1:It is believed that when Sir Isaac Newton stated he had stood on the shoulders of giants, he had Horrocks in mind.”