中国の音律と調律①

こんな思い付きを呟いたところたちどころに、FFのet_al_2021さんが竹という素材の利便性と、中国では手軽に入ることを教えて下さった。さらに、弦は前近代の素材では不安定なことも指摘された。

なるほど、と感心しているところにFFのヘルメスさんから、そもそも私のツイートの典拠は?と指摘されてしまった。よくよく考えると、百科事典の中国の音律の説明からの類推で、あまり根拠がない。彼曰く、東西どちらとも相対的な音は弦で定め、菅で基準の音を決めたのではないかという。そして、


これは、一度東西の音律について少し調べてみなければならないようだ。以下は、その備忘録である。

康熙字典』を引いてみる

今は多くの漢籍がネット上で気軽に見ることができる。その中で便利なのが字典、特に『康熙字典』である。これは清朝考証学の成果でもあり、この文化の円熟期の考え方を知る史料でもある。

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康熙字典』で「律」を引くと「法律」といった意味も載せられているが、第一義的には「音嵂(音律)」だとしている。この部分は宋代以降の韻書*1の引用である。「時代を遡るとどうなのか」といったいったことは追々考えるとして、とりあえず続きを引用する。なお、出典は《》で示している。

  1. 《玉篇》六律也。
  2. 《廣韻》律呂也。
  3. 《說文》均布也。(十二律均布節氣,故有六律,六均。)
  4. 《爾雅·釋器》律謂之分。《註》律管,所以分氣。
  5. 漢書律歷志》律有十二,陽六爲律,隂六爲呂,黃帝之所作也。黃帝使泠綸自大夏之西,昆侖之隂,取竹之解谷生,其竅厚均者,斷兩節閒而吹之,以爲黃鐘之宮,制十二筩以聽鳳之鳴。其雄鳴爲六,雌鳴亦六,比黃鐘之宮而皆可以生之,是爲律本。
  6. 後漢·律曆志=『続漢書 律暦志』》殿中候用玉律十二,惟二至乃候,靈臺用竹律六十候日如其曆。
  7. 史記·律書註》古律用竹,又用玉。漢末以銅爲之。
  8. 《書·舜典》同律度量衡。
  9. 《禮·王制》考時月,定日同律。

これ以降は「《爾雅·釋詁》法也。」など、「法律」という意味に関係する説明に移る*2

漢書』律暦志① 律の起源

一連の引用の中で、最も長いのが5の『漢書』律暦志からの引用である。

漢書』はいわずと知れた中国最初の正史で、律と暦をまとめて律暦とした点も含め、後世の規範となった。特にこの説話の部分は「律」についてのイメージが凝縮されているからか、非常に頻繁に引用される。

まず冒頭、「律有十二」と宣言されている。すなわち、オクターブを西洋音楽と同じく、十二に分割したのである*3。このうち、低い方から数えて奇数番目の六つの音を陰陽五行の「陽」と結びつけ、(狭義の)律と呼んだ。そして残りの六つを陰と結びつけ、呂といった。そこで律のことを「六律」または「律呂」とも称する (各々引用1、2を参照。)

十二律(じゅうじりつ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

漢書』からの引用に戻ると、導入部に続いて、律の起源説話が紹介される。

伝説上の帝王の黄帝は、泠綸(伶倫)という人物を中国の西の「昆侖之隂」に派遣して「解谷」に生える竹を取ってこさせた。泠綸は空洞が均一な竹を選び、両方の節を絶って吹いた。これが「黄鐘」の音で、階名は「宮」とした。さらに合計十二の笛を鳳凰の鳴き声を参考に作った。『爾雅』釈鳥では鳳凰のホウは雌、オウは雌としている。前者が声が陽の律、陰の呂である。十二律の全ての音は、一番下の黄鐘から生成され、故に黄鐘が律の基本だという。

律=律管

漢書』の説話では音律は十二本の竹の管、すなわち律管と分かち難く結びついている。この律管のこともまた、「律」と呼んだようである。

まず、4の『爾雅』釈器の記述を見てみよう。『爾雅』は漢初までに成立した用語集で、「釈器」では様々な器物を扱う。よってこの「律」は器具であり、素直に考えれば調律具だろう。全ての項目がいずれも「x謂之y」という形式だから、あれこれ考えずに律の機能は「分」だ、と取っていいだろう。「分」には「分割する、分別する」といった意味がある。何を「分」するかは書いていないが、「音」だとするのが自然だと思う*4

爾雅注疏 : 卷五 - 中國哲學書電子化計劃

「律」が器具を意味することは、6, 7の引用からもわかると思う。7の『史記・律書註』(唐の中ごろ成立)では「律」は古くは竹や玉で、漢末以降は銅で作ったという。

漢書』律暦志② 律と暦、度量衡

十二律はまた十二支と対応し、それを介して方位や時間、また季節(節気)、十二ヶ月と結びついた。9番目に引いた『禮記』王制の記述はこの関係の中で理解できるだろう。

8番目に引用した『尚書』虞書・舜典の「同律度量衡」の元々の意味は、おそらくは律や度量衡を国内で統一したという意味なのだと思う。しかし、『漢書』律暦志に引用されて以来、この言葉は別の意味を帯びることになる。

漢書』律暦志は、前漢末〜新の碩学、劉歆の理論に基づいている。彼は長さや容積の単位は黄鐘の律管を基準に定義し「新莽嘉量」という標準器を作成した。さらに劉歆は音律と暦も統一してみせた。だから、『史記』では暦書と律書が別れていたのをひとまとめにし、更に度量衡までも包摂してしまったのである。「同律度量衡」の文句も、音律と度量衡の統一のことだと解釈されて、『晋書』『宋書』など、後世のの律暦志でも踏襲されていく。

律と気

この『漢書』律暦志の理論は、採用している起源譚からも解るように、「陰陽の気」が重要な役割を果たしている。気と律との関係は『康熙字典』でも明らかに重視されている。

例えば、3の『説文解字』(2世紀前半)の「均布也」を見てみよう。「均一に布告・施される」くらいの意味なので、この「律」を法律や規則だとすると、何ら字句を補わずとも辻褄が合う。だが、カッコ内の北宋の『說文解字繫傳』で付け加わった註では、唐突に「節気」が出てきて、これを均布するのだと言う。

さらに、4の『爾雅』の註(西晋時代のもの)を見ると、調律器具と思しき律管の用法が「分気」だとされている。この注も難解だが、幸い宋の時代に書かれた「疏」が解説してくれている。細かい語釈はさておき*5、冒頭ズバリ

鄭注《月令》云:「律,候氣之管也。以銅為之。」

と鄭玄(後漢)の『礼記』月令への注を引用しているのが、ほぼ答えなのである。律管は「候氣」に使うのだと。つまり、「分気」とは「候氣」なのだ。実は、律管の説明で使われた6の『後漢書』律暦志からの引用分に出てくる「候」も同じ意味であり、実は本文にはこの「候気」について纏まった記述がある。これとエルメスさんが引用した「京房の六十律」の理論は密接に関係するので、説明しておきたい。

京房の六十律--両漢経学の展開と律暦学 | NDLサーチ | 国立国会図書館
https://onl.sc/JTucsX6
https://onl.sc/Lepfrwm
堀池信夫、中国の音律学の展開と儒教https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/1817

「候気」は占いに用いられた手法で、灰を詰めた律管をぐるりと環状に配置する。風が入らぬように、部屋は閉め切っておく。すると念頭にある月に対応する律管が反応し、灰が飛び散る。この飛び散りかたを見て占いをするのである。風や人が触れた時と気に感じた時とでは、灰の飛び方が違うらしい。堀池信夫論文によれば、この法が生じたのは漢になったからで、京房によって完成されたという。

律と候気と度量衡

この疑似科学的な現象は、中国では長く根強く信じられてきた。疑った人も多く居たが、例えば北宋の技術官僚の沈括*6南宋の蔡元定、朱熹*7といった優れた知性の持ち主が支持した。

背景としては、律管の長さを定める方法の論議があった。相対的な長さの比率は『漢書』の理論で決まる。しかし基準音たる黄鐘の管の長さは、別の方法で定めねばならない。この問題は、単なる楽理の問題に留まらなかった。なぜなら、国家的な儀式での楽曲の演奏に直接左右してしまうのだから。またすでに述べたように、黄鐘の音高の決定は、もう一つの国家の大事、度量衡とも関係していた。

しかし、標準器の新莽嘉量は4世紀ー18世紀の間は行方不明になっており*8、使えなかった。また、形のない音の同一性を確保するのは至難の技である。

現在長さの単位メートルは、光の波長で定義している。律管の長さも音の波長と比例関係にあるから、似ているといえば似ている。しかし現在の基準では用いる光の生成手順が明らかで、設備さえあれば誰でも(然るべき訓練を経ていれば)再現できる。一方、黄鐘の音は生成方法も検証方法も明らかではない。師弟で丁寧に継承していくしかないが、目に見えぬ音を継承するのは容易ではない。

漢書』には一応、音律以外に黍の実を並べたり枡に詰めたりして長さや容積を定義する方法も書かれている。だが黍の実の大きさはばらつきがあり、どう考えても目安にしかならない。藁にも縋る気持ちからか、産地を厳選するなどして粒を揃える工夫もなされたのだけれど、よい結果は得られなかった。そこで、候気が律管の長さを検証する方法として、改めて着目されたのである。

もっとも、時代が下って明の時代になると候気は否定されがちだった。
https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/download/7302
十二平均律の発明者・朱載堉も、「灰が飛ぶ」という現象には否定的だったことが、下の文献の四・1に述べられている*9
https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/download/4156
とにかくも確認できない現象は否定した上で、彼は音律と気との関係、気と自然現象の関係を認め、極めようとした。例えば陽の気が勝る冬至においては、灰や土は乾燥して飛びやすくなることは認める。そして、音律と暦日との関係も詳しく考察する。

康熙字典』の記述では、律と候気の関係が前面に出ている。だが、一度真剣に検討されたのちに懐疑が広まった経緯を思い起こすと、少なくとも再現性の悪さは認識されていたのではないかと思う。「灰が飛ぶ」という際立った現象が言及されていないのは、そのせいかもしれない*10

律は返らない:『康熙字典』が触れなかいこと

康熙字典』にない重要概念に、律の循環があった。『礼記』礼運に「五聲、六律、十二管,還相為宮也」とあるように、オクターブ毎に元の音名に戻る。ここで、五聲とは十二律から取り出した五つの音(宮、商、角、微、羽)で、現代の階名に近い概念である*11。黄鐘から出発して、三分損益で次々と音を生成すると、十二回目に黄鐘のオクターブ上の音にかなり近くなる。この循環が季節の変動とのアナロジーをよんだのだ。

律と暦の融合は、すでに述べた劉歆で頂点に達する。「其法以律起曆」「律,法也,莫不取法焉」といった言葉は彼の理論の本質を端的に表している。つまり、律この世界の背後にある理法であって、よって暦も律に基づいて作る。だが、以後は律暦志という体裁は保つものの、暦と律の関係はなくなる訳ではないが、希薄になってゆく。やはり無理のある統合だったのだろう*12

律だけに限っても、劉歆の用いた三分損益法には、律が厳密には循環しないという欠点があった。このことを指摘したのが、ヘルメスさんのツイートで紹介されていた京房である。前漢末の元帝の時代だから、劉歆よりもむしろ先なのだ。

この「律は厳密には循環しない」という問題は、西方の音律においても別の形で議論されて、十二平均律を生む。西方に少し先んじて中国でも、すでに触れた朱載堉が十二平均律を提唱している。彼は劉歆に負けず劣らず暦と律の相関を信じて、季節と同じく律も循環すべしと考えたのだった*13

だが、朱載堉の音律は、清朝の取り上げるところとはならず*14儒者の大勢も、古典的な三分損益を重視したという*15

やっと話のスタートに立った感があるが、長くなったのでこのあたりにする。

補足 編鐘:『康熙字典』が触れないこと②

他にも『康熙字典』に引用されていない重要な話がある。例えば、上記の『漢書』からの引用は実は『呂氏春秋古楽の孫引きで、こちらを見ると竹で律管を作ったのち、12の鐘も作るのである。『國語』周語下にも、「度律均鍾」とある。鐘というと有名な曽侯乙墓編鐘を思い出す。あれの他にも、発掘例は他にいくつもある。これらの編鐘の分析で、先秦時代の音律についても解明が進んだ。
呂氏春秋 : 仲夏紀 : 古樂 - 中國哲學書電子化計劃
國語 : 周語下 - 中國哲學書電子化計劃
曽侯乙墓編鐘とは【そうこおつぼへんしょう】 - 意味・解説 : 考古用語辞典 Archeology-Words

三國志演義』にも登場する蔡邕『月令章句』では、鐘が先で律管は後としている *16。ニーダム『中国の科学と文明』*17でも鐘を先として、「弦で音を作り、共鳴する様に鐘を作ったのだろう」としている。また、紀元前四世紀以前は律は鐘だったというChavanessの説を引く。ニーダムによれば、『詩経』では音楽への言及は多くあって音の正確さを気にかける詩句もあるのに、律は出てこないという。*18。そして、「律」の原義は演奏に関する規則だったとする。この点は他の研究も漁ってみないといけないが、少なくとも鐘も重要だったのだろう。

実際の歴史はさておき、『呂氏春秋』ですでに律管を先にし、『漢書』以降でこの説話が引かれる時は鐘の件は省かれがちである。また、気との呼応を考えると管の方が都合がよろしいように思う。「律」は漢以前に、調律器具であると同時に音律そのものの名称として定着していたと思われる。

では、エルメスさんの引用した京房も用いた、弦楽器はどうなのか。調律具の作成や調律において、弦楽器を活用するのは非常に自然だと思う。この件もまたの機会に。

*1:『集韻』『韻会』『正韻』

*2:文献巡りをして見て、古典に現れた字句が決まり文句と化して繰り返し現れる頻度に、改めて圧倒された。中世においては、西においても古典に巻き付けるようにしてテキストを編んでゆく。だが、漢字文化圏の場合、どんなことにも一々経書に典拠を求めるようなところがあり、独特の圧迫感がある

*3:引用部分には書かれていないが低い方から 黄鐘-大呂(たいりょ)-太簇(たいそく)-夾鐘(きょうしょう)-姑洗-仲呂-蕤賓(すいひん)-林鐘-夷則-南呂-無射(ぶえき)-応鐘と名前が付いている。

*4:『爾雅注疏』を見ると、「分」の音は「分音粉」である。『康熙字典』で「分」を引くと、この音に対応する字義としては、『爾雅』および『爾雅注疏』のこの部分のみが引用されている。つまり『爾雅注疏』や『康熙字典』では、ここの「分」は一般的な意味とは違う、特殊な意味を持つと想定しているのだと思う。

*5:語釈の要点を述べると、末尾の「總而言之(要するに)」以降に「陰陽の気は全て律と対応している。故に『礼記』月令では月毎に律を対応させている。それをもって十二月の気を「分候」する。」とある。「陰、陽皆稱律。故《月令》十二月皆云「律中」是也。以其分候十二月氣,故又名分。郭云:「律管可以分氣。」是也。」リンク先の25 https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=259011#釋器第六

*6:ただし、沈括『夢渓筆談』の候気の方法もメカニズムも、後漢書のものと少し異なるように思う。後者は律管をやや真ん中を低くしながらも、対応する方角に向けて配置する。数や方角との感応を狙うからだ。一方、前者は地面を平らにして律管を埋める。東洋文庫の薮内清訳によると、地面に垂直に埋めるようだ。沈括曰く、冬至になると陽の気が上昇し始めるが、最も深くまで届く黄鐘の管だけが反応するという。

*7:朱子語類』巻74「今治曆家用律呂候氣,其法最精。氣之至也,分寸不差,便是這氣都在地中透上來。如十一月冬至,黃鐘管距地九寸,以葭灰實其中,至之日,氣至灰去,晷刻不差。」気が地に浸透することが原因としている。蔡元定『律呂新書』も同様。この点は先の沈括の説に近いか。ただし、『律呂新書』では律管の設置の仕方は『後漢書』を引用している。

*8:岩田重雄, 「新莽嘉量について」『計量史研究』第26巻2号、p.93-99、日本計量史学会、2004年12月27日, NAID 110002345744

*9:実験した上での結論らしいが、現代的な意味での「非存在の実験的検証」に該当するかどうかは、論文の記述ではあきらかではない。

*10:なお、ニーダム『中国の科学と文明』、26,h,7,(iii)でも候気のまとまった取扱いがある。

*11:「五声」「五音」と言った場合には「宮、商、角、徴、羽」の五つの階名を十二律のどれかに割り振って用い、「七音」という場合には「変徴、変宮」を加えた。

*12:「推法密要」と絶賛された劉歆の『三統暦』は、律や経書との辻褄合わせは巧妙だったが、基本的には周期に基づく計算だった。周期の見積もりは時代相応の精度だったので、時間と共に天象からのずれが溜まっていった。

*13:https://cir.nii.ac.jp/crid/1050288469019240320

*14:「例えば戴念祖は、康熙帝の『律呂正義』歬編が朱載堉の理論の一部を採用しながらも、結局は三分損益法を選んだことに言及する。乾隆帝の『律呂正義後編』については、「三分損益律を死守し、新法密律を攻擊したのは、その遲れた、陳腐な音律観念がそうしたのである」と述べ、『四庫全書總目提要』の朱載堉評も、『律呂正義後編』の「姊妹編」だと言う」田中有紀「江永の十二平均律解釋と河圖・洛書の學」2015、http://nippon-chugoku-gakkai.orgから取れます。

*15:先の引用の続き、およびhttps://cir.nii.ac.jp/crid/1050288469019240320

*16:「先有其鍾後有其律」、その鐘が先にあって、後で律管ができた

*17:26,h,7,(iii), p.191

*18:確かに『詩経』に律の用例は一つだけで、しかも意味は律管ではなさそうだ。だが、ニーダムが『詩経』のどの詩句を「音の正確さを気にかけている」としたのかは明示されていない。もしかしたら、小雅・鼓鐘の「鼓鍾欽欽、鼓瑟鼓琴。/笙磬同音。/以雅以南、以籥不偕」かもしれない。これは単にユニゾンで演奏しているだけではないか。ただ数種の楽器でー合奏しているので、チューニングに気を使っていることは間違いないと思う。なお、ニーダムは薮内清の反論があることも注記している