ものはなぜ下に落ちるのか?~アリストテレスの落体論

アリストテレスの落体の理論は、科学者界隈では非常に評判が悪い。単に今の理論に反するだけでなく、ちょっと試せば容易に反証出来そうだからだ。

彼は重いものほど速く落ちるという。ただそれだけなら、空気の抵抗の効果であろうとも思う。しかしながら、「重さが倍になれば落ちる距離も倍になる」というのが彼の説で、これを真にうけると10倍の重さの物体は10倍の速さで落ちることになる。こんな極端なことは起こらないことは、当時においてもすぐに確かめられたと思う*1

アリストテレスの生物学的な著作や気象論は、科学としても一級品である。それなのに、この落体の理論の不手際はどうしたことなのか。また、彼の後に続く、古代や中世の人々はなぜこの主張を覆さなかったのか。

アリストテレス『天体論』

彼の落体の理論については、『天体論』*2に系統的な扱いがある。全4巻のうち、第1巻と第3巻に少し、そして第4巻に地上の元素の運動論の一部として。

もう随分と前の話になるが、某プロジェクトで多忙のあまり図書館に逃避したとき、たまたま手に取ったのがこの『天体論』で、ぱらりと開くとちょうど運良くこの2巻終わり近くだった。実はその直前までは、抽象的で難解な論議が続く。が、このあたりからは、天体の運動や大地の形状などを、経験的な証拠を交えて、科学者にも馴染みやすい論理で平明に論じている。例えば、

 「大地は球形でさして大きくはない。宇宙全体に比べると無視できるほどに小さい。」

といった結論には妙に感心させられた。

宇宙論と落体論

しかし、なぜ『天体論』で地上の現象である落体の理論が扱われたのだろうか。しかも、分量的にかなりの比率である。この古くからある問いに深入りするつもりはない。ただ、大地の宇宙の中での位置付けが、落体の議論に大きく影響することは、誰の目にも明らかだと思う。

古い素朴な宇宙論では、天は大地の上方にのみ展開している。このような宇宙論では、「下」という概念の意味は非常に明快だ。ところが大地を取り巻いて宇宙が存在するとなると、この素朴な空間の秩序は破綻してしまう。「ものが下に落ちる」という言葉遣い自体を、今一度考え直す必要がある。

この状況を、アリストテレスは「宇宙の中心」という特異点を導入することで整理してみせた。彼によると、「重い物体は世界の中心向い、軽い物体は逆に離れる」という。あるいは、「重さ」と「軽さ」を中心に向かう傾向、離れる傾向として定義するといってもよい*3。そして、我々が「下」と慣習的に呼んでいる方向は、重い物体が向かう方向、つまり宇宙の中心の方向なのだ*4。天体はここを中心に回転する。幾何的な対称性を用いた、見事な整理ある。

ところで、現代では「軽い」とは「重さが少ない」ことの言い換えに過ぎない。しかし、アリストテレスはそのような考えに論駁し、「重さ」の反対の「軽さ」という性質があるのだという。「軽さ」が多ければ多いほど、素早く地表から離れるのだそうだ*5。彼は地上に四つの元素を設定したが、そのうち「土」と「水」が重さをもち、「空気」と「火」は軽さを持つ。

アリストテレスによると、地球は宇宙の中心に重い物体が集まって形成された。対称性から、この凝集物の形状は自然と球形になるだろう。土と水が地球を形成して、その周りに空気と火が分布する。

無限に広がるかのように見える大地は、もはや、広大な宇宙の中に浮かぶ無限小に小さな塊でしかない。これが宇宙の中心にあるので、結果として重い物体は地球の表面に向かうのである。

天界と地上の分離

プラトンや後のストア派は、天体をある種の「火」の元素で構成されるとした。この説で気になるのは、地上の「火」と天界の「火」の関係である。太陽はさておき、月や天界を満たす透明な流体は、地上の「火」と随分と性質が異なるように見える。そこで、アリストテレスは、地上にはない第五元素を天界に設定した。

第五元素は、「世界の中心」に近づくでも遠ざかるでもなく、この特異点を中心に等速円運動するとされた。この性質は、「重さ」「軽さ」の定義に当てはまらない。すなわち、第五元素は重くも軽くもない。

かくのごとく、地上と天界は二つの世界に分けられ、全く違った運動が割り振られた。彼は、両者を統一的な法則を措定することはしない。だが、同じパターンの議論で扱っている。どちらにも「世界の中心」を用いて定義された、「自然な運動」をもつ。

この方針は、現在の科学者の評判はよろしくない。だがアリストテレスの時点では、天と地上を分離することに積極的な意味があったと思う。太古においては、天文学的な現象と気象現象は、共に上空で観察されることから、しばしば混同されたり、不適切に関連させられてきたからだ。アッシリアでは天文学的な現象と気象現象が同じ記録の中に纏まっており、中国の正史の天文誌は大気圏の現象(幻日や虹)も含まれている。またアリストテレスの後でも、原子論のエピキュロスは月の満ち欠けは大気の状況の変化によって起こる可能性もあるとしている。

アリストテレスは、この二つの世界の違いを現象が規則的か否かだとした。例外はあるが、まだ観測技術の十分でない当時としては、悪くない目安だったと思う。彗星などの少数の例外を除いて、彼は適切に大気圏の内と外の現象のより分けに成功している。

運動の理論

ここで冒頭で批判した、彼の悪名高い「重さと移動距離の比例関係」に話を移そう。

この主張が経験から直接に導かれたとは、ちょっと考え難い。恐らくは『自然学』にあるような、移動距離と「力」の比例関係と共通の背景があると思う。もしも「力」を重さに置き換えれば、重さと単位時間あたりの移動距離、すなわち速さが比例することになる。

ただ『自然学』のこの部分は、物体の本性に反した「強制的な力」による運動を扱っている。アリストテレスにおいては、重い物体の落下のような、本性に従う自然な運動と強制的な運動は明瞭に区別されている。しかし、両者の量的な側面には共通点があると考えたのではないか。

少なくとも後世、天秤を議論する際には、強制的な運動と自然な運動の間に、ある種の等価性を仮定する。たとえば、天秤を論じたサービト・イブン・クッラ『カラストゥーンの書』(9世紀)によると、天秤の腕を動かした時、片方の腕は「自然な運動により」下降し、もう片方の腕は「強制的に」上げられる。両者が釣り合う時に天秤は釣り合うとされる。釣り合いを考えるのだから、両者を比較可能なものと考えていたに相違ない。同種の考え方は、古代のアリストテレス派の『機械学問答集』、ヘロン『機械学』(1世紀)にやや明瞭ではないが、見てとることができる。

Kyoto University Research Information Repository: アラビアにおける「重さの学」の伝統 : サービト・イブン・クッラ『カラストゥーンの書』ラテン語訳の翻訳と検討 (数学史の研究)

アリストテレスの自然学の対象

上記で肝心なポイントが憶測を交えた書き方になり、また後世の議論の紹介に依存したのは、一つには私の勉強不足に原因がある。だがそもそも、アリストテレス自身、力学をあまり包括的に論じてはいないのである。

彼の自然学の著作の非常に大きな部分は、生物を扱っている。「史上最初にして、最も偉大な生物学者」ともいわれるほどだ。石ころの落下を観察するかわりに、彼はレスボスの海で海洋生物を観察·解剖し、また鶏の卵に穴をあけて発生を観察した。彼の自然学は、生物の研究と非常に相性が良い。天体の運動を論じるときにも、動物の運動を引き合いに出すくらいなのだ。それに対して、現代の物理学は単純な振る舞いをする無機物から分析を始める。

古代や中世の後継者たちは、しばしば無機物の運動や変化にも大きな興味を持った。その時に依拠したアリストテレスのテキストはしかし、上記のような問題意識で書かれているのである。「物理の研究を始めたいのに、なぜか手元には生物学の教科書しかない」ようなものだ。

彼の運動の理論は、一冊の著作には纏まっておらず、『天体論』のほか、『自然学』『動物運動論』『夢について』などに、各々異なった前後関係の中で論じられている。これらの(時に矛盾する要素もある)議論を突き合わせて、まとまった議論を形成したのは古代後期から中世の注釈家たちだった。

梃子の原理と力学

既に見たように、落体の運動の説明においては、アリストテレス的な「力と移動距離の比例」はあまり上手くいっていない。ところが、アリストテレス派の『機械学問題集』やヘロン『機械学』、サービト『カラストゥーンの書』に始まる「釣り合いの学」、すなわち現代の静力学では、なかなかの成功を収めている。

これらの書物では、天秤の釣り合いの条件を「力と移動距離の比例」という命題から見事に導き出している。その論法は、現代の仮想変位の原理に似たところがある。つまり、少し動かした時に、両腕の運動が釣り合うことをもって、釣り合いの条件としているのである。同様の議論は、楔やネジ、滑車などによる力の増幅もなどにも適応された。また、アルキメデスによる重心の理論も、同様の筋立てで正当化された。

「釣り合い学」は一つの独立した数理科学として確立し、秤や機械の設計と運用といった応用もあった。これだけ成功した「力と移動距離の比例」の原理は、そう簡単に覆せなかっただろう。逆に、当時落体の法則に興味が向けられたとしても、時計の技術が未発達の時代に、どこまでの成果が期待できただろうか。

History of Virtual Work Laws | SpringerLink

Mohammed Abattouy, Greek Mechanics in Arabic Context: Thābit ibn Qurra, al-Isfizārī and the Arabic Traditions of Aristotelian and Euclidean Mechanics - PhilPapers

 

「梃の原理」は宇宙的なスケールでも論じられる。al-Isfizariやal-Kahzini (11世紀、セルジューク朝)は、重心の定義を「もしも妨げるものがなかったとしたら、自然な運動の結果、宇宙の中心と一致することになる点」と定義した。すると当然、地球の重心は世界の中心に一致することになる。しかし、地球の表面は微小ながらも変動し、重心も変わるはずだ。そこで10世紀アラビアのビールニーや13世紀オックスフォードのブラドワーディンは、地球はこのずれを補正して僅かだが動いているはずだとした。近代科学の創出時においても、梃子の原理と運動のアナロジーは、ケプラーデカルトらに用いられる。

目的論的な傾向

上のようにまとめてしまうと、アリストテレス自然学は、関心の中心や発展の程度が違うだけで、近代科学の前身のように見えてしまう。だが、古代ギリシャの思想と現代の科学は、やはり別のものなのだ。

今までにすでに、アリストテレスと近代科学との違いとして、統一的な自然法則よりも場合分けに走る傾向や、生物のような有機物のありさまを基礎に自然学が組まれている点を挙げた。

このほかに、アリストテレスの目的論的な傾向の問題がある。彼は、どんな事柄についても、それを可能にする動力因や質料因(物質的基盤)のほかに、「〜のため」「〜を目指して」といった目的因を追求することを推奨した*6。例えば物体の自然な運動は、それらが「第一の不動の動者」を慕うという目的因が設定されている。

目的論的な傾向は運動や変化の説明の細部に及ぶ。各々の運動には常に終着点が設定されており、それを現実化して終わるのである。ちょうど、卵がヒナになるという目標を達成して発生が終わるのと同じだ。これは彼の理論では比喩でもなんでもなく、運動も発生もどちらも変化の一例としてとらえらていた。

落体の場合でいえば、重い物体の落下は世界の中心に至るのが目標である。途中で地面という障害があれば、そこが目標地点で、目標に到達して運動が終了し、一旦は停止する。

目的論的な思考は、生物学では非常に有効であった。また、アリストテレス派『機械学問答集』、ヘロン『機械学』『反射視学』のような、工学的な研究を促す要因になっているかもしれない。だが、自然の第一原理にこれを組み込むのは、現代的な科学とは相当に違う考えと言ってよい。この違いに比べれば、落体の法則云々といったことは、むしろ枝葉といっても良いかもしれない。

ただし、物体の自然な運動を議論するとき、常に「第一の不動の動者」が持ち出されるわけではない。彼は、常に事物の直接的な原因を問題とした。原因の連鎖を遡った果てを、一々言及したりはしないのだ。お陰で個々の現象についての彼の議論は、かなり健全である。

また「第一の不動の動者」はユダヤ教的な神と異なって、祈りに反応して奇跡を起こしたりはしない。淡々と宇宙を睥睨しているだけである。聖書やコーランの奇跡とアリストテレス的な自然学との関係は、中世の神学者や哲学者が頭を痛めたところであり、宗教との摩擦の原因の一つともなった。ガリレオ裁判の印象から、アリストテレスカトリックは仲良しに見えるかもしれないが、12世紀には数度の禁令が出ている。

古代は、近代とも、そして中世ともはっきりと異なっていたのである。

投射体とインピートゥスの理論

最後に、冒頭の連投ツイートにあった、インピートゥスの理論についてコメントしておきたい。投射体(ものと投げるときの運動)についてのアリストテレスの理論は、古来異論が多くあった。

例えば、アリストテレス派『自然学問答集』では地面に斜めに投げ下ろした物体の運動を論じる。アリストテレス流の運動論によれば、重い物体は地面という目的地に到達したら停止するはずだ。しかし、実際には物体は停止せずに跳ね返る。そこである種の「勢い(インピートゥス)」が内在していて運動を続けるのだとした。古代末期の「破壊的な」注釈者、ピロポノスはよりは包括的にこの理論を展開した。また、光学家の反射の説明にもその匂いを感じることができる。

中世アラビア語圏においても、イブン・シーナ―『治癒の書』はインピートゥス理論をさらに深めた。本書は、アラビア語圏のギリシャ的な学問では最もメジャーな著作であって、ラテン語世界は、最初は同書の翻訳を通じてアリストテレス的な自然学を知ったのである*7。また、西欧の中世後期のジャン・ビューリダンの理論は、科学革命の前史としてよく取り上げられる*8

ただし、インピートゥスの理論は、同時代の静力学のような緻密な数理科学になることも、技術に応用されることも、長いことなかった。状況が変わるのはルネッサンス期のタルタリアあたり、ガリレオの登場の少し前のことだ。

 

*1:総重量ではなく、密度が問題なのだという擁護をみかけたことがあるが、アリストテレス自身が『天体論』でその議論を否定している。

*2:『天について』『天界について』などと訳されることもある。ラテン語ではde Carlo。なお、『宇宙論』de Muneo はアリストテレスに仮託された後世の書。

*3:このあたりは『天体論』第1巻

*4:ただし、アリストテレスは宇宙に於いても「上下」という言葉を、地球の南北の軸に対応して定義でき、それをもとに「左右」も定義できるとする。

*5:このように二つの対になる性質を各々実体化するやり方は、彼の自然学では頻繁に使われる。

*6:ただし、全ての現象に目的因があるわけではないことは、彼も理解していた。例えば、『形而上学』では月食の原因について論じて、目的因はないとしている。

*7:ただし、このインピートゥスを含む部分は翻訳されていない。

*8:ただし、ビューリダンの理論と先行者たちの間の影響関係はよくわからない。