「宇宙」:中国天文学の時間と空間

「宇宙」という言葉は存外古く、『荘子』『荀子』など戦国後半期のものには出てきますし、また『淮南子』でも何度も出て、その齊俗訓には、

往古來今謂之宙,四方上下謂之宇

という分かりやすいパラフレーズがあります。つまり宙が時間的な広がり、宇が空間的な広がりで、それを束ねて宇宙と言ったわけです。時間と空間を束ねるなんてなんと現代的的な…という感想は科学史家の大橋由紀夫氏なども述べられています。

もちろん相対論における時空とは全く異なるのですが、中国の暦算関係のものを読むと、時間と空間が相互に規定しあいながら、渾然一体となっていると感じます。

どういうことかと言いますと、暦の計算では否応なく複数の天体の運動を追いかけますし、各々の天体の運動の中にも複数の周期運動を見出します。この多重の周期運動を分析するにあたっては、ある時間で運動Aこれだけの距離を進み、それと同じ距離を進むには運動Bはこれだけの時間はかかる…というように、時間で空間を測り、また逆に空間的な距離で時間を測り…を繰り返すことになるのです。

角度と時間

この状況を具体的に見るには、中国における「度」(中国度)の定義について述べるのが分かりやすいと思います。「°」で(現在我々が用いている)バビロニア流の角度を表すと、中国度は

1中国度=360°/( 1年の日数)

という関係で定まるのですが、元来中国の「度」は「三角形の角の大きさ」のような純粋な空間的な尺度ではありません。古い占術書などで星と星の間隔の表示に「寸」「尺」といった長さの単位を使われており、「度」という言葉が限定的な状況で使われたことが推察されます*1。定義を見てわかるように、中国度は太陽が1日で進む距離なのですが、使用される時もその意味合いを保っています。

まず、一年の値(や定義)は後漢末から段々と更新されていきますが、そのたびに「度」の定義は少しずつ変えられます。また、用語の安定していない魏や晋のころの「度」の意味のブレを見ると、太陽の運動との関係がさらによく分かります。例えば、景初暦の(日月の軌道の)交点からの角距離を測る「度」は、「太陽が交点に対して、1日でどれだけ動くか」です。太陽だけでなくて交点も動いているので、ここで現れる「度」は一般的な中国度とは違います。

つまり、「度」はかなり後まで元来の意味を意識して使用され続けたのであって、天体の移動は太陽の運動をもって測られたのです。Cullenなどは、時間と「度」の関係を強く意識し、渾天義(アーミラリー球)の発明以前、赤経(差)を子午線通過の時刻で計測したかもしれないと推測しています。

「度」の単位は空間的な広がりを時間で測ったのですが、その逆もあります。乾象暦の月の黄緯の表においては、「日」が月の平均的な速度を媒介に角度から定義されており、通常の「日」とは異なります。いわば、時間を空間測ったわけです*2

多重の周期運動

既に述べたように、暦の計算ではいくつもの周期運動を扱います。恒星、太陽、月の運動だけでも、六つの独立な周期運動を扱います(惑星を入れると、この数はさらに増えます)。暦の計算で第一にすべきことは、これら多数の周期運動を整理し、与えられた日時における各々の位相を確定することです。それだけで既に、天体の大まかな位置はわかってしまいます。最後に、日月の速度の変化を補正して仕上げます。

実はこのあたりの理論の大まかな流れは、ギリシャ系の天文学でも似たようなものです。補正を幾何学的に理論化しているところは中国と違うのですが、ハンドブック的な書物(天文表)では結局、数表を組み合わせて計算を進めます。『明史』暦志にはイスラム系の回回暦も載せられていますが、(思ったよりも)違和感なく収まっています。

通史的な天文学史で大きな扱いを受ける理論、例えばプトレマイオスのエカントやケプラーの法則などは、この最後の補正に関係するものであって、周期運動の精確な理解があってはじめて有用であり、また可能になったのです。そして周期の精確な同定には、間違った場合の訂正や検証も含めると、世紀単位の時間がかかります。近代における爆発的な発展は、それ以前の長期にわたる蓄積が前提として必要でした。

月と太陽の周期たち

先程、日月と恒星の運動の理解には六つの周期が必要だと言いました。言いっぱなしもバツが悪いので、それらを列挙しておきます。

  1. 太陽日 太陽が同じ方向に戻ってくるまでの時間
  2. 回帰年 365.24219040日 (宣明暦 365.24464日 *3 )   
  3. 恒星年 365.25636300日 (宣明暦 365.25643日) 
  4. 朔望月 29.53058886日 (宣明暦 29.530595日) 
  5. 交点月 27.21222082日 (宣明暦 27.212220日) 
  6. 近点月 27.32166155日 (宣明暦 27.554546日) 

暦Wiki/周期/月 - 国立天文台暦計算室
暦Wiki/季節/季節のめぐりの周期 - 国立天文台暦計算室
暦Wiki/宣明暦 - 国立天文台暦計算室
カッコ内に日本でも長く用いられた唐の宣命暦の値を書いておきましたが、中々の精度です。

以下に各々の周期の意味を一応、書いておきます:
太陽は一日後に同じ方角に戻ってきますが、この時恒星との位置関係は少しずれています。太陽の恒星に対する運動の軌跡を描いたのが黄道です。黄道と赤道は春分点秋分点で交わり、冬至点と夏至点で一番遠ざかります。中国では、冬至から冬至に戻ってくるまでを一年としましたが、これは現代の回帰年と近い概念です。一方、地軸が首振り運動をしているので、黄道と赤道の交点は周期25,772年で一周します。よって冬至点に太陽が戻ってきても、まだ恒星に対しては元に戻っていません。恒星に対して戻るまでの時間を恒星年と言って、南朝宋の大明暦あたりから暦に回帰年と恒星年の両方が記されるようになりました*4

次に月の運動ですが、「朔望月」は太陽との位置関係が元に戻るまでの周期です。また、月の軌道(白道)は黄道に対して約5°傾傾いており、両者の交点は動いていましす。これの周期が交点月です。そして月の白道上の運動は、遠地点では遅くて近地点では速い。しかも近地点も周期運動し、この周期を近天月といいます。

西方の天文学との比較

中国の天文学では運動及び時間と緊密に結びついていた角度は、ギリシャ系の天文学では純粋に幾何的に定義され、取り扱われました。ニーダム『中国の科学と文明』ではLéopold de Saussureの見解を引いて、ギリシャと中国の天文学を次のように対比します。前者は黄道、(平均運動ではなく)真の運動、角度、年周運動を扱い、後者は赤道、平均運動、時間、日周運動を扱う、と。角度概念の違いも、この特殊な例と言えると思います。

ただ、こういった大雑把な特徴づけは当てはまらない側面も多々あります。

例えばギリシャ天文学の角度概念はメソポタミア起源ですが、メソポタミアでは角度(US)は明らかに天体の年周運動と関係付けられています。周天が360°と一年の日数に近いのは決して偶然ではありません。そして、角度はをのまま時間の単位(24時間÷360=4分)でもありました。また、角度は「黄経」のみに用いられて、黄道からの距離や天体同士の距離には長さと同じ単位を用いていました。もちろん、測量その他で純粋に幾何的な意味で用いられることはありませんでした*5

そして、プトレマイオスに於いては、赤経は天球の座標ではなく、天体の南中や出没の時刻の計算に便利な特徴量であって、時間と強く結びついていました*6。カリポス碑文では時間の単位としての度が使われています*7。現代でも、赤経を時間で表したりします。

一方、中国の「度」は太陽の運動と結びついて定義されたのですが、古くから赤緯にも同じ単位が用いられます。この用法を考えると、定義はともかくとして、天球上の二点間の隔たりを表す尺度として認識されていたのは間違いないと思います*8

*1:『開元占経』はこれらの書物の引用を豊富に含んでいます。

*2:乾象暦や景初暦の日月食の理論については、大橋由紀夫『中国における日月食予測法の成立過程』、一橋論叢、1999年8月、Cullen, C., Heavenly Numbers_ Astronomy and Authority in Early Imperial China, 2017

*3:現代の回帰年と異なり、冬至点に戻るまでの周期。これは現代値365.2427日程度。

*4:歳差を認めない暦もあり、最終的に歳差が定着するのは大衍暦以降。

*5:メソポタミアの角度については、Mathieu Ossendrijver, Babylonian Mathematical Astronomy: Procedure Texts, pp.32-33

*6:Pedersen, A Review of Almagest, 2011, pp. 99-101

*7:Neugebauer, A Histiry of Ancient Mathematical Astronomy, p. 913

*8:『開元占経』巻60-63, 65-60に含まれる恒星の位置データに既に「度」が当たり前のように赤緯に用いられています。このデータは紀元前2~1世紀の観測によるとされています。

メモ: 辿々しい黄道〜『太平御覧』所引の『礼記・月令』を求める中で

前回のおさらい

前回、『太平御覧』に引用された『礼記・月令』の異本を取り上げました。この異本には、含まれている天文記事が通用している版(『礼記正義』に含まれるテキストがベース)と大きく異なるのです。取り上げる項目は両者はほぼ同じで、季節ごとの太陽の位置と、日暮れ及び暁に南中する二十八宿が記されています。ただし、通用版では一年を十二分割しているところを、異本では二十四分割です。データの中身も全く違います。

最初は、異本のデータは通用版のものを適当に加工してでっちあげたのかと思いました。しかし、両者のデータの間には殆ど何の関係もありませんでした。さらに詳しく見ると、異本版のデータもさほどでなく、まともな計算を援用していそうな雰囲気があります。

では、このデータの根拠は何なのでしょうか?

後漢四分暦と論暦

日暮れ及び暁に南中する二十八宿の計算を記した最初の暦は、後漢四分暦です。この暦の背景には、元和二年の賈逵(30-101 CE)の論暦や永元十四年(102年)の霍融の論暦があります。

前者は日月の運行を調べる際に黄道に着目することが有効であると指摘しています:

史官一以赤道度之, 不與日月同, ...輒奏以為變、.... 。 於黃道, 自得行度, (暦を司る史官は赤道のみを用い、日月の運行と合わず、... 異変だと奏上する。...しかし、黄道にそって計測すれば、日月は規則的に運行していることがわかる。 『続漢志・律暦志中』)

中国では古来、二十八の正座を目印に、天球を天の北極を中心に分割していました(二十八宿)。これで測られるのは、現代的に言えば赤道に沿って測った角度、すなわち赤経です。しかし黄道は赤道と斜めに交わっていますから、赤経の値を見ても規則性は分かりにくいのです。そこで賈逵は黄道に沿って日月の運行を測るべきだと主張し、理論と観測器具の整備を求めました。

賈逵の提言の理論的な部分のうち、「黄道宿度」の一覧は後漢四分暦に取り入れられました。これは、黄道に沿って二十八宿の各々の宿の幅を測り、一覧にまとめたものです:

角十三度,亢十,氐十六,房五,心五,尾十八,箕十,斗二十四四分度之一,牽牛七,須女十一,虛十,危十六,營室十八,東壁十,奎十七,婁十二,胃十五,昴十二,畢十六,觜三,參八,東井三十,輿鬼四,柳十四,星七,張十七,翼十九,軫十八

中国の角度の単位「度」は1日に太陽が進む平均的な角度が一度となるように定義されています。当時はまだ太陽の速度の変化は考えていませんでしたから、黄道宿度は太陽が各々の宿を通過するのにかかる日数に他なりません。対比のために赤道宿度を抽出して掲げておきます*1:

角十二。亢九。氐十五。房五。心五。尾十八。箕十一。斗二十六四分度之一。牛八。女十二。虛十。危十七。營室十六。壁九。奎十六。婁十二。胃十四。昴十一。畢十六。觜二。參九。井三十三。鬼四。柳十五。星七。張十八。翼十八。軫十七。

一方、霍融は昼夜の長さの計算方法を問題にしました。それまでは、冬至夏至のデータを用い、その間の日については比例按分で計算していたのですが、そのような方法では全然天の運行と合わない*2とし、替えて太陽の去極度、つまり天の北極との間の角度を用いる、以下のような方法を提案します:

  1. 去極度と夜の長さが一次関数的な関係にあることを仮定
  2. 冬至夏至の夜の長さと去極度を計測してこの関数関係を確定。
  3. 節気ごとに去極度を計測して、確定した関数関係から夜の長さを求める。

なお、1の仮定は球面を平面で近似したものと考えれば正当化できます。この手順は後漢四分暦に導入され、二十四節気ごとに以下の項目を並べた一覧が作られました。

  • 太陽の位置
  • 太陽の去極度
  • 昼夜の長さ
  • 日暮れと暁の時に、南中する子午線がどの宿の何度の位置にあるか。

(昼夜の長さは夏至冬至以外は去極度から計算され、最後の項目はそうやって計算した昼夜の長さから計算されます。)

太陽関連の数値のリスト。武英殿本『後漢書』律暦志中*3

中国の天文学は幾何的な方法論に弱いのですが、天体やその軌道を球上の図形として分析することは、かなりやられています。賈逵や霍融の議論はその一例だと思います。ただ、図形的に問題を定式化したからといって、それを幾何学を用いて解くわけではなく、計測や数値的な方法を多用します。

一定速度で変化する赤経

ここで懸案の異本の話に戻ります。これには二十四節気ごとに、太陽の位置する宿が書かれています。果たしてこれは賈逵が主張した、黄道に沿って動く太陽でしょうか?

礼記・月令』の異本によると、太陽は立冬には房宿に、立春には虚宿にあります。立冬から立春の前日までが冬ですが、これは年の四分のー、すなわち後漢四分暦では

  • 365.25/4=91.3125 日

ところが「黄道宿度」よると、これだけの日数があると、太陽が房宿の頭からスタートしたとしても、立春にはは虚宿を飛び越えてしまいます。なにせ、房宿のはじめから虚宿の終わりまでの黄道宿度は、合計で90.25度しか無く、太陽は1日に一度進みますから。

後漢四分暦の代わりに後世の暦を用いても、この結果は変わりません。そもそも、房宿のはじめから虚宿の終わりまでの赤経が95.25度(小数点第二位以下は暦によって違います)しかありませんから、黄道の傾きを考えると当然の帰結です*4

つまり、この異本のデータは太陽の赤経が一定速度で変化する仮定で作られている可能性が強いのです。これは、賈逵が論暦で厳しく批判した手法に他なりません。

辿々しい黄道の取り扱い

前の節で、異本の太陽の運行が賈逵の論暦を無視していることを述べました。

このことから私は当初、異本は賈逵の論暦のあった後漢よりも酷く後ということはあるまい、と思っていました。ところが、唐の最初に成立した『五経正義』に収められた月令の注釈では、なんと前漢末の三統暦の太陽の位置が引かれています。ただし、南北朝時代の元嘉暦の数値も並列して参照されています。『五経正義』は南北朝時代の義疏に大いに依拠しています。この部分についていうと、皇侃(おうがん、488年 - 545年、南朝梁)と熊安生(ゆう あんせい、北齊ー北周、560-580ごろ活躍)らの義疏がベースになっていますから、これらの時代の目線です。

彼らには、賈逵の論暦は届かなかったのか。。。などともどかしく思っていました。

ここで再び後漢四分暦を見てみます。上の写真で引用したように、後漢四分暦には太陽関連のデータの表があります。この表では節気ごとに「日所在」、すなわち太陽がどの宿の何度のところと表示されています。賈逵の論暦をうけて作成された暦なのだから、当然これは黄道にそった一様な運動を記述しているのだろう、と私は思っていました。

ところが驚いたことに、ここには赤経が一定速度で変化する運動が載っています。では、黄道沿いの一様運動は、どこに行ったのでしょう?それは「日所在」の数値の最後に小さく書かれている、「進ニ」「退一」といった数値を用いて計算します。この値を「日所在」の値に足したり引いたりすると、黄道上を一様運動する太陽の黄道に沿った宿度が求まります。

注意していただきたいのは、これは如何なる意味でも座標変換ではないことです。単に二つの等速回転の数値を、結びつけているだけなのです。太陽が黄道に沿って一定速度で回転しつつ、赤経を一定速度で変化させるこなんて、実際にはあり得ないのですが。

さらに去極度の値を見ますと、おかしなことに気がつきます。賈逵の論暦では、春分秋分冬至夏至の時の値は、黄道が赤道と24度*5傾いた平面に乗っていると仮定し、直角を91度(精確には365.25/4度)と近似した時に期待される値になっています。ところが、後漢四分暦の値は少しずれてしまっています。しかも、春分秋分で値が異なり(89度余りと90度余り)、夏至冬至の値の関係もおかしいです。

つまり、これは黄道がある平面に乗っかっているという仮定を援用せずに、計測値をそのまま載せているのでしょう。真面目に計測をした証拠でもありますけど、同時に賈逵論暦の理論を受け止めきれなかった証拠でもあります。暦の公的な編纂物としての性格を考えれば、新規な提案に対して保守的になるのは、当然のことかもしれません。

これを踏まえると、『五経正義』の保守的な態度も決して不自然ではありません。では、南北朝時代の暦、例えば元嘉暦などはどのような立場で作成されたのでしょうか。

最終的な到達点

南北朝時代の状況を述べる前に、隋唐期の到達点を最初に押さえておきたいと思います。この時期になると、黄道宿度(二十八宿の広がりを、黄道に沿った角度で計測)を求める他に、

  1. 黄道上の点の黄経から、その点の
    1. 去極度(直角と赤緯の差)を求める
    2. 赤経を求める
  2. 月の軌道上の点の軌道に沿った角変位から、
    1. 去極度を求める
    2. 同じ赤緯を持つ黄道上の点を求める

といったいった計算のための数表が完備します。つまり、赤道と太陽、月の軌道の間の位置関係が、数量的に把握されます。これに伴って、太陽の運動は黄道に沿った運動として理論化され、必要に応じて表で変換するスタイルに移行したのです。赤経の値の結果を表にしたものは姿を消しますが、これは冗長を避けるだけでなく、歳差で冬至点が動くと結果が変わってしまうからではないかと思います。

ここに至ってやっと「黄道」は暦算の中に確たる位置を占めるようになり、盛唐の大衍暦で太陽と月の理論は一応の完成を見ます。ここまで至るには、後漢四分暦から南北朝時代を丸々費やすことになりました。

宋書』律暦志

『続漢書』律暦志の次のまとまった記録は『宋書』律暦志及び天文志です*6二十四史全訳の序文によれば、『宋書』の志は元嘉暦の選者である何承天が編纂に関わった国史が、大いに利用されているようです。

その『宋書』律暦志の中と下で元嘉暦と大明暦が扱われているのですが、全体を通してもっぱら冬至点や太陽の周期の精度、そして歳差の問題に焦点が当てられています。

黄道に関する件では、霍融の議論、すなわち昼夜の長さと去極度との関係は論じられていますが、賈逵の議論はスルーされています。月の運行の画期的な理論で知られる、後漢末の劉洪の乾象暦の扱いにおいても、冬至と一年の長さもの精密化がまず取り上げられ、月の理論については、遅速を明らかにしたと手短にあるだけで、重要な革新とされる月道と黄道の傾斜の理解には触れていません。

魏の揚偉の景初暦については、論暦と暦書が紹介されます。この暦は乾象暦の月の理論を日月食の予報に結びつけた点で画期的とされます。しかし黄道と赤道の関係については、後漢四分暦と変わらぬ論じ方で、上に画像で引用した表と同じ構造の表を載せています(数値は少しだけ違います)。

宋書』律暦志の中心は、やはり南朝宋の何承天の元嘉暦と祖沖の大明暦でしょう。前者は黄道と月の軌道の関係(2.1)は乾象暦を受け継いでいて明瞭なのですが、黄道と赤道の関係については何も論じていません。少なくとも『宋書』律暦志に引用される太陽と二十八宿、昼夜の長さの関係を示す表に於いては、後漢四分暦にあった黄道去極度すら消えています。しかも太陽の赤経は、一定速度で変化しています。

続く祖沖の大明暦では、赤経を一定速度で変化させる太陽は表から姿消しました。大明暦では歳差を導入しているので、冬至点が少しずつ動いてしまい、よって毎年使い回せる表の形には書けるはずはないのです。そして赤道にそった太陽の運動の算出方法はどこにも書いていないので、祖沖がこの問題をどう処理したかは、はっきりとは断言できないです。しかし、元嘉暦に続けて紹介されているこの暦で、特別な注記がなければ、同じ方法に基づいているととりあえず考えておくのが無難なのではないかと思います。

総じていうと、『宋書』律暦志は黄道の赤道に対する傾斜についてほぼ沈黙を保っています。

なぜ黄道傾斜は詳しく扱われなかったか

しかし、同じ『宋書』でも天文志を見ると、かなり印象が変わります*7。そこでは黄夏至冬至春分秋分での太陽の去極度と黄道傾斜との関係が、数値付きで説明されています。また、「昼夜の長さ」*8秋分春分で等しくなる理由も明瞭にされています。

このことを念頭に、今一度律暦志を読み返すと、一見後漢四分暦から変わり映えのしない太陽の表も、ちょっとした違いのあることに気が付きます。後漢四分暦や景初暦と異なって、元嘉暦と大明暦では、昼夜の長さは冬至を中心に対称になっているのです。これは、黄道傾斜の去極度と日照時間の関係の理解を背景にしているのだと思われます。つまり、図形的な描像はおそらく理解しているのです。

ここで乾象暦以降の月の理論をもう一度振り返ってみます。この暦以降、月道と黄道の傾斜が暦に取り入れられました。しかしこの時、月の運動の速度は、月道にではなくて黄道に沿っ角度で測られました。月道の傾斜の導入は、月と黄道の距離を説明することが主な目的であって、黄経の変化率への影響は論じられていなかったのです。この月の理論の月道を黄道黄道を赤道に置き換えると、後漢四分暦〜元嘉暦の太陽の理論になります。

月道の黄道に対する傾斜が小さく(ほぼ5°)、これで問題なかったのですが、太陽の赤経の変化に同じ考えを適応してしまうと、黄道傾斜故に大変な誤差になってしまいます。これはまさに賈逵が指摘したことであり、優れた暦算家であった何承天もまた、十分理解していたのではと思います。おそらく黄道上の点の赤経を求める良い方法がなく、やむを得ずあのような扱いになったのではないでしょうか。

黄道に沿った運動の赤経

では、黄道に沿った運動の赤経の変化は、どのように理解が進んだのでしょうか。萌芽は既に後漢の時代にあって、後漢四分暦のすぐ後に活躍した張衡の『渾天注』『渾儀圖注』*9では、賈逵の論とほぼ変わらぬ天球と黄道を記述しています。そして、黄道にそった変位と赤経の関係について調べるために、天球の模型を製造して計測で数値を得、算術的に考察して表にしています。幾何学が未熟だった中国に於いては、これが現実的なアプローチだったのでしょう。解決方法は初等的ですが、球面上の図形の問題に還元して考察していることは、注意すべきポイントだと思います。

ただ、彼は二つの変異の関係を、45°刻みという非常に荒い刻みの区分線形関数で近似しており*10、あまり精確とは言えません。なお、張衡の理論と同じ結論は、後漢末の劉洪の乾象暦に於いても略述されています*11。しかしこの程度の精度では、何承天らが採用に踏み切らなかったのは当然だと思います。

この線形関数での近似を二次関数*12に改めたのが、隋の暦家の劉焯の皇極暦です。ところが、皇極暦は施行されずに終わりますし、唐の李淳風の麟徳暦では一度取り除かれてしまいます。李淳風は優れた見識を備えた暦算家で、我々の皇極暦についての知識は、彼の選述した『隋書・律暦志』に依拠しているくらいですから、この理論を正確に理解していました。また、麟徳暦に於いても黄道宿度の表は示されていて、

黃道宿度、左中郎將賈達、檢日月所去赤道不同,更鑄黃道渾儀所檢者。
(黄道宿度の一覧)
臣等今所修撰討論,更造木渾圖交絡調賦黃赤二道三百六十五度有奇,校量大率,與此符會。今歷以步日行月及五星出入循此。其月行交絡黃道,進退亦宜有別。每交輒差,不可詳盡。今亦依黃道推步。(『旧唐書・暦志中』)

と書かれているので、問題意識は明らかに持っていますし、「模型を作って計測する」という張衡のやり方も継承しています。おそらくは、皇極暦の変換表の正確さについて確信を持てず、採用を見送ったのではないでしょうか。のちに一行が大衍暦で同種の理論を採用するに当たっても、数値は皇極暦とは随分違いますから、李淳風の判断は妥当だったと思います。

なお、麟徳暦には、後漢四分暦や元嘉暦に一見似た、太陽関連の数値の表があります。しかし、麟徳暦の太陽の位置は黄道に沿った角度で測っており、全く違った理解に基づくものです*13

まとめ

後漢四分暦の後、皇極暦が登場する以前の太陽の理論は、赤道からの距離については黄道傾斜に基づくものの、赤経の変化についてはこれを活かせていませんでした。赤経の値が必要な時は、仕方がなくあたかも赤道に沿って等速変化するかのように見做して計算しました。この歪な構造には、座標変換の信頼できる数理の不足という実際的な制約も一役買っているのではと思います。この制約は、劉焯や一行の努力によって克服されることになります。

以上のことから、太平御覧版『礼記・月令』の成立時期について言えることは何かあるでしょうか?既に述べたように、この文書では、太陽の赤経は一定速度で変化したとしています。よって、麟徳暦や大衍暦の登場よりも酷く後にはならなさそう、くらいのことは言っても良いと思います。

主な参考文献

[1] Christopher Cullen, Heavenly Numbers: Astronomy and Authority in Early Imperial China. Oxford: Oxford University Press, 2017.
[2] 张培瑜 等、中国古代暦法、中国天文学史大系、中国科学技術出版社、2012

*1:特定の箇所の引用ではありません。上記の黄道宿度と同じ順序で配置している一覧がなかったので。

*2:不與天相應, 或時差至二刻半」『続漢志・律暦志中』

*3:范曄『後漢書』は志を欠いたままであったため、南朝梁の劉昭が司馬彪『続漢書』の志を『後漢書』に組み込み、今に至る。

*4:この時代、太陽は冬に速く動きましたから、太陽の速度変化が繰り込まれると結果はますます悪くなります

*5:これはバビロニア的な現代の角度の単位では約23.7°に等しく、現代の理論値23.75°にかなり近いです。なお、同時代のプトレマイオスの値は23.9°です。

*6:宋書』の志の編目については、中華書局版に準拠しました。武英殿本や百納本では、律志と暦志が分離していますが、これは本来の形ではなかろうとの考えのようです。理由としては、第一に律志を納める巻十一の題目や細目が不自然であること。第二に、律志と暦志の分離は、『明史』が初めてとされているから(暦志しかないケースはいくつもあります。)『四庫提要』宋書一百巻には、「稱凡損益前史諸志爲八門。曰律歷。曰禮。曰樂。曰天文。曰五行。曰符瑞。曰州郡。曰百官。是律歷未嘗分兩門。今本總目。題卷十一志第一志序。卷十二志第二歷上。卷十三志第三歷下。而每卷細目。作志第一律志序。志第二歷上。志第三歷下。則出於後人編目。強爲分割。非約原本之舊次。此其明證矣。」ただし、二十四史全訳本は別の復元をしており、律志と暦志上中下に分けられています。

*7:正史の天文志は、天体の異変を記るす場として紹介されることが多いと思いますが、『宋書』以降、観測機器や宇宙構造論についての記述も含まれることが多いです。

*8:当時は、日が暮れてから二刻半までが昼とされていたので、当時の用語で言うならば、春分秋分でも昼夜は等しくなりません。

*9:いずれも唐の瞿曇悉達『開元占経』巻一での引用。これらは散逸して全貌は不明で、張衡の著作に付けられた注釈の可能性もある

*10:このあたりの説明の仕方は、かなり時代錯誤的な用語を用いています。当時、関数概念も、いわゆる数式もありません。何度ごとに何度づつ変わり、ある箇所で折り返す旨が自然言語で書かれています。

*11:「推有進退,進加退減所得也。進退有差,起二分度後,率四度轉增少,少每半者,三而轉之,差滿三止,歷五度而減如初。」『晋書』律暦志

*12:これも時代錯誤的な言い方で、本当は2回階差が一定の数表

*13:なお、麟徳暦は歳差を採用していないので、この表は毎年使い回せることになっています。

メモ 太平御覧・時序の礼記・月令

礼記・月令』は月々の天文現象の記事を含むため、天文学史では定番の文献です。ところが、これの『太平御覧』への引用を見ると、天文現象の部分が全然違うのです。そこで、両者の違いについて簡単にメモを残すことにしました。

礼記・月令』とは?

礼記・月令』は一年を十二ヶ月と日数が不明の「中央土」に分割します:

 

孟春、仲春、李春,   孟夏、仲夏、李夏

中央土

孟秋、仲秋、李秋,   孟冬、仲冬、李冬

 

四季に分割して、各々の季節をさらに三分割し、さらに半端な日を中央中央土に。この中央土の挿入場所や日数はいくつか解釈があるようです。まあ、とにかく一年がだいたい十二の月に分割されている。

その上で月毎の季節の状況、それを踏まえてどんな儀礼や政策をすべきかが記されています。各々の月の条文の出だしは、例えば

仲秋之月,日在角,昏牽牛中,旦觜觿中。

のように天体現象から始まります。太陽が角宿にあり、日暮れどきに牽牛が、夜明けどきには觜觿が南中する。この後は対応する音律や数、味、各々の季節の気候の描写、儀礼、為すべき政策の話が続きます。また、季節違いの儀礼や施策によって生じる弊害も具体的に書かれています。これらは周の制度という触れ込みではあるのですが、後漢の鄭玄によって早くも指摘されたように、戦国末の『呂氏春秋』の十二紀を一纏めにしたものです。前漢武帝のころの、『 淮南子』時則訓にもにたような記述があります。

天体の話に戻ると、『月令』では各々の月を特徴づけるのは太陽と恒星で、(天体としての)月の話は一切出てきません。では、これは太陽暦的な十二分割なのでしょうか。科学史家でそのような立場をとる人も居ますし、そうでない人も居ます。しかし、伝統的にどう読まれたかというと、これらの月は太陰太陽暦の各々の月と対応させられてきました。

現代の科学史家で伝統説と同じ立場の人に例えばCullenが居ますが、彼は天体現象が月の何日にくるか書かれていないこと、日暮れ時や暁という指定にも曖昧さがあることを上げ、閏月で多少シフトしても誤差の範囲ではないかとします。彼はむしろ、太陽暦的に一年を十二分割した暦が残っていないことを重視しています*1

二十四節気と七十二候

上述のように、中国の伝統的な暦では、各々の月は月の満ち欠けの周期に合わせています。これは太陽の運行とは無関係ですから、別に季節の進行を示すマーカーが必要になります。これが年(回帰年)を等分割した二十四節気(24分割)と七十二候(72分割)です。いずれも、『月令』の記述から名前が取られています(このことがまた、『月令』太陽暦説を促すのだと思います)。

例えば、秋の中頃に対応する節気は「白露」と「秋分*2で、各々がさらに三分割されます。

-白露→「鴻雁來」「玄鳥歸」「群鳥養羞」

-秋分→「雷始收聲」「蟄蟲壞戶」「水始涸」

これら七十ニ候の名前は『礼記・月令』の「仲秋之月」の季節の描写と見事に対応しています:

盲風至,鴻雁來,玄鳥歸,群鳥養羞。...

是月也,日夜分,雷始收聲。蟄蟲壞戶,殺氣浸盛,陽氣日衰、水始涸。

これほどストレートではありませんが、二十四節季の名前のうち、「雨水」など、『礼記・月令』(あるいは『呂氏春秋・十二紀』)から採られたと思しき名前もあります。

二十四節季が(後に若干の変形はあるものの)出そろうのは、前漢武帝のころの、『 淮南子』天文訓です。

一方、七十二候が最初に暦に現れるのは、北魏の正光暦(523年〜)、ついで同じく北魏興和曆(540〜)です。南朝の方の正史には記載がなく、次に現れるのは隋の皇極暦。これらは候の名前は『礼記・月令』からとられてはいるものの、今と違う部分があります。安定するのは唐の大衍暦からではと思います。

大衍暦の候の名前は、成立時期不明の『逸周書・時訓解』から取られました。

七十二候,原于周公《時訓》。 《月令》雖頗有增益,然先後之次則 間。自後魏始載于曆,乃依《易軌》所傳,不合經義。今改從古。(『新唐書・暦三上』)

ここで著者は『逸周書・時訓解』を『礼記・月令』よりも古いとしています*3。しかし、これだけ細かい分割がそんなに古く遡るのかどうか。二十四節季が定まった、漢の時代以降ではないのか、と疑いたくなります*4

話が横道にそれますが、秋分の部分を抜き出すと、

秋分之日,雷始收聲,又五日,蟄蟲培戶,又五日,水始涸。雷不始收聲,諸侯淫汏,蟄蟲不培戶,民靡有賴,水不始涸,甲蟲為害。

季節の不調が、悪いことの予兆になるみたいですね。

『太平御覧』の『礼記・月令』

宋の時代の初期、『太平御覧』という類書(百科全書)が奉勅撰されました。記述が全て古典の引用だけで構成されるという形式で、他の文化圏では余りないのでは?と思います。当然、『礼記・月令』からの引用と思しき文章もたくさんあります。

例えば、時序部十一・冬上の「『礼月令』曰」で始まる文章があります。しかし、これは今よく用いられるテキストとは随分と違った独特のフォーマットで、内容も違います。特に天体関係の記述が違います。同様のフォーマットの文章が『月令』や『礼』からの引用として時序部の他の季節に載せられており、合わせると12ヶ月分が全て揃います。これらは『礼記・月令』の、現在は失われたバージョンからの引用でしょう。(ただ、二月之中気のところだけはやや乱れていて、「…春分之日,玄鳥至,雷乃發聲,祀朝日于東郊,…」と体裁も整わず、候への分解も明示されていません)

「仲秋之月」に対応する部分はこんな感じです。

又曰:八月之節,日在翼,昏南斗中,曉畢中,斗建酉位之初,律中南呂。白露之日,鴻雁來,後五日,玄鳥歸,後五日,群鳥養羞。是月也,養衰老,授几杖,行糜粥飲食。子乃儺,以達秋氣,命樂正習吹。

又曰:八月中氣,日在軫,昏南斗中,曉東井中,斗建酉位之中。秋分之日,雷乃收聲,後五日,蟄蟲坯戶,後五日,水始涸。是月也,祀夕月於西郊,命有司享壽星於南郊。日夜分,則同度量,平權衡,祭馬社。

まず、月の呼び名が「仲秋」でなくて、「八月」です。こうやって番号で呼ぶ方式もかなり古くて『詩経』でも使っていますが、とにかく普段見る『礼記・月令』とは違います。

また、月が更に「八月節」と「八月中氣」(つまり二十四節気に)、更に五日ごとの七十二候に分けられています。オリジナルの『礼記・月令』ではそもそも太陽の位置と月の関係は曖昧でした。

ところが、この太平御覧の記述だと、中央土の配置によって若干揺れはあるのでしょうが、太陽暦的な区切りである二十四節気に非常に強くリンクして月が配置されています。

伝統的な中国の太陰太陽暦では、ここまで強く節気と月は対応しません。二十四節季を一つ置きにとった「中気」が各々の月に含まれればよしとするのです。そうでないと、閏月など置く余地がなくなってしまいましから。ところが、この『太平御覧』の引用だと、各々の月は中気だけでなく、もう一つの節気も含むことになっています。

なお、ここで私は太陽暦的な暦の存在を主張したいわけではなくて、今見る『礼記・月令』との違いを強調しているのです。

正月之節の部分の「後五日魚上冰」の後に入っている割注では、

昔在周公作時訓,定二十四氣,辨七十二候,每候相去各五日,

とされていますが、『逸周書・時訓解』が念頭にあるのでしょう。二月中気の乱れた部分を除くと、節気や候の名前は『逸周書』や大衍暦と(字まで含めて)ほぼ同じです。

それから、太平御覧版にはオリジナルの方にはない、「斗建酉位之中」のように「斗建」の記述があります。これは、「日没時には北斗七星の柄の方向が酉の真ん中、すなわち真西の方向を向いている」ということです。これは、初期の二十四節気を記した『淮南子・天文訓』でも、24分割は北斗の柄が指す方向で定義されていたことを思い起こさせます。ただし、後者では指す方向は「建」ではなく「指」を用いています。

つまり、普通に考えると、

呂氏春秋』などにある時令が成立→『淮南子』などの二十四節気が成立→『逸周書・時訓解』などの七十二候が成立→『太平御覧』版の『月令』の成立

となっていると思われます。

太陽や恒星の位置

節気や候を完備し、それが後のものと同じということになると、太平御覧バージョンは後漢の後半以降に『礼記・月令』を改変してできたものだと思われます。この時、太陽と恒星のデータを大幅に書き換えているのです。私の興味は、この書き換えが何に基づいたのか?という問題です。

もともと24分割に対応したデータはないのだから、必然的に書き換えが必要になるのですが、決して適当に水増ししたのではないことは、八月の部分を比べるだけでも明らかだと思います。比較のために以下に再度、引用します。

標準版:

日在角,昏牽牛中,旦觜觿中。

『太平御覧』版:

八月之節,日在翼,昏南斗中,曉畢中,..八月中氣,日在軫,昏南斗中,曉東井中。

全く一致していません。少し月をずらしたりしても、全然無理そうです。以下に、太平御覧バージョンのデータから抜き書きしておきます。

 

正月之節,日在虛,昏昴中,曉心中,

  中氣,日在危,昏畢中,曉尾中,

二月之節,日在營室,昏東井中,曉箕中,

  中氣,日在奎,昏東井中,曉南斗中,

三月之節,日在婁,昏柳中,曉南斗中,

  中氣,日在胃,昏張中,曉南斗中,

四月之節,日在卯,昏翼中,曉牽牛中,

  中氣,日在畢,昏軫中,曉須女中,

五月之節,日在參,昏角中,曉危中,

  中氣 日在東井,昏亢中,曉營室中,

六月之節,日在東井。昏氐中,曉東璧中,

  中氣 日在柳,昏尾中,曉奎中,

七月之節,日在張,昏尾中,曉婁中,

  中氣,日在張,昏箕中,曉昴中,

八月之節,日在翼,昏南斗中,曉畢中,

  中氣,日在軫,昏南斗中,曉東井中,

九月之節,日在角,昏牽牛中,曉東井中,

  中氣,日在氐,昏須女中,曉柳中,

十月之節,日在房。昏虛中,曉張中,

  中氣,日在尾,昏危中,曉翼中,

十一月之節,日在箕,昏營室中,曉軫中,

   中氣,日在南斗,昏東壁中,曉角中,

十二月之節,日在南斗,昬奎中,曉亢中,

   中氣,日在婺女,昏婁中,曉氐中,

真面目に計算していると思わせる点

ここから後、角度を中国度で表す時は漢字で度と書き、バビロニア起源の現在の角度を用いる時は°をもちいます。両者はほぼ一致しますが、中国度は太陽が平均的な運動で一日に動く角度を一度としていました。

以下の点から、このデータはある程度暦学的な計算を経て、生成されていると思われます。

  • 幅の広い宿は連続して現れ、幅の狭いものは飛ばされている。

二十八宿」は天の北極を中心にした天球の分割で、天体の位置を測る基準に用いられます。この分割は全く等分割ではありません。以下に各々の宿の幅(度)の記述を、『漢書・律暦志』から引用します。この値は唐になってもかわりません(ただ、細かな端数が斗(南斗)宿又は虚宿にしわ寄せされます)。

角十二。亢九。氐十五。房五。心五。尾十八。箕十一。

斗(南斗)二十六。牛八。女十二。虛十。危十七。營室十六。壁九。

奎十六。婁十二。胃十四。昴十一。畢十六。觜二。參九。

井三十三。鬼四。柳十五。星七。張十八。翼十八。軫十七。

かなり幅にばらつきがありますが、例えば占いで用いる六壬式盤では、宿の名前が等間隔に刻まれていますし、非専門的な文献では幅の違いに頓着しないこともあります。しかし、本文書は分割の不等性をまじめに反映しています。

  • 南斗が二月中ごろ(春分)、三月頭、三月中ごろの明け方、と三連続で南中。

最初と最後の観測日の間隔はほぼ三十日で、その間に太陽と恒星の位置関係は、30度変わります。しかし、南斗の幅は26度しかありません。これは、日の出の時刻がこの間で早まっていることを考慮しないと、出てこない結論です。つまり、太陽の位置に一律に足し算や引き算をして出したのではなく、もう少し凝ったことをしています。後漢四分暦以降、日暮れと暁に南中する宿、あるいはこれらの瞬間に南中している子午線と太陽の間の角度が記されていますから、そういった結果が使われていると思われます。

まず、一日で太陽はほぼ一度、西から東に動くことを念頭に置きます。すると、冬至だけでなくその十五日後も南斗にとどまるんだから、冬至においては南斗の前半、つまり11度以下でなければいけません。また、冬至の十五日前には箕宿にいるので、南斗四度以前はあり得ないです。そしてこの値からは、南北朝から唐の末ごろに絞ることができます(かなり緩めに見ています)。

なお、次に述べる理由で、ここでは太陽の運行の不均等さは考慮していません。(仮に不均等さを考慮すると、冬は赤経の変化が速く、範囲は逆に狭まるので、どちらにせよ上の考察は動きません。)

黄道傾斜は考慮されていない

では、この太陽の赤経の変化の不等性はこの文書で考慮されているでしょうか。この不等性の原因は主に二つあります。そもそも、太陽がその軌道(黄道)上を進む速度が、ケプラーの法則のせいで一定ではありません。しかしこれよりも強力に効くのが、黄道が赤道に対して傾斜していること。このせいで、太陽は冬至夏至付近では速く、春分秋分の付近でゆっくりになります。

この黄道の傾斜は、後漢四分暦では既に採用されています。しかし、冬至近辺に太陽が動いた距離を『太平御覧』バージョンから拾うと、はっきりと短すぎるのです。よって、黄道傾斜は考慮されていないと思われます。

 

*1:陳美東などは太陽暦説で、DP Morgan氏などもどちらかといえば太陽暦説。

*2:秋分の日や秋分点のことも「秋分」と呼びましたが、ここでは秋分点から始まる約15日の期間。

*3:武則天の頃の『後漢書』卷六十下·列傳第二十下への李賢注に「周書時訓曰「春分之日玄鳥至,…」」とあり、この時に既に『逸周書・時訓解』がこの手の話題を論じる際の基本的な文献だとされていたことがわかります。

*4:『逸周書』の中には明らかに戦国期に遡る部分があるそうです。しかし、時訓解はどうなのか。XIN Jia-dai, CHEN Yi-wen, QU An-jing, The Influences of Phenology on the Order of 24 Solar Terms in Ancient China では、時訓解も含めて戦国期を想定しています。一方、 Daniel Patric Morgan, The Planetary Visibility Tables in the Second-Century BC Manuscript Wu xing zhan 五星占,  East Asian Science, Technology, and Medicine , No. 43, Special Issue on Numerical Tables and Tabular Layouts in Chinese Scholarly Documents: Part I: On the Work to Produce Tables and the Meaning of their Format (2016), p. 48では、「天文学史家は、たいてい 『逸周書』をrejectしている」として、 黄沛栄氏の漢代偽作説を引用しています。私は後者の方がしっくりきます。なお、一行の時の『周書』のテキストと現存のとは若干違いそうです。 上記引用箇所のやや後に「又先寒露三日,天根朝覿,《時訓》「爰始收潦」、…」とあるのですが、私の見た『逸周書・時訓解』には対応する文言はありません。

北斗と中国の天文学

北斗七星と季節。北京天文館のウエッブページより。云看展 - 云看展 | 北斗七星那些事儿

中国では非常に古い時代、季節の判断に日没時の北斗七星の柄(斗柄、斗杓)の向きを用いたと言われています*1

地球から見た太陽と恒星の相対的な位置は、日々少しずつ変化し、一年後に元に戻ります。毎日日暮れどきに観測すると、北斗の柄の向きが図のように左周りに回転します。かつての中国では、北斗七星は一年中沈むことなく見えており、あたかも時計の針のようで、非常に印象的でわかり易かったでしょう*2*3

ただ、「日暮れどき」とか「柄の方向」の定義はボヤッとしており、当然のことながら精度は期待出来ずません。戦国期にもなれば、観測技術も一定の水準に達しますし、暦の作成に必要な知識(一年の端数や月の周期など)は揃ってきます*4。しかし一般人にも容易に使える、簡便な方法としては残ったかもしれません。実際、恒星を用いた簡便な季節の決定方法は、2000年代の日本でも民俗学的な調査で確認されるほど、頑健な生命力を持っていました。また北斗七星の月建の場合、それ以上に象徴的な意味合いが大きかったのです。例えば前漢の汝陰候墓*5出土の二十八宿盤や六壬式盤(占いの道具)*6に北斗があしらわれているのは、この季節決定法が背景にあると思われます。下の図は、以下の橋本敬造氏の論文からの引用です。
Kyoto University Research Information Repository: 先秦時代の星座と天文觀測

汝陰候墓出土(前漢初)の二十八宿盤(左)と六壬式盤(右)

円周上や正方形の辺のところに書かれているのは二十八宿と十二支で、いずれも方位を表しています。

十二支と北斗:時間と空間の結合

ここで方位を表すのに用いられている子、丑、寅、…の十二支の起源は殷の時代に遡りますが、今のように年や月、方位など、ありとあらゆる事柄と結びつくのは春秋期以降とのこと。「子」は方位としては北で、月としては冬至を含む月(例外もありますが、漢以降はほぼ11月)です。

この方位、月、十二支の結びつきは、北斗七星の柄が媒介になっています。つまり、日没時(初昏)に北斗の柄の向いている方位が月の名前を決めます。例えば11月(冬至)は北斗の柄は子(ね)すなわち「北」を指し、よってこの月を「建子月」と言います*7。このような方位と月の関連のさせ方を、「十二月建」「月建」「斗建」などと言います。

ここでは古典的な説明に従って、十二支と方位の結びつきが先にあったかの様な言い方をしてしまいましたが、実際の歴史的な経緯としては、季節と十二支の結合が先かもしれません*8。どちらが先であっても、時間と方位が結びついたことが重要です。

さて、冬至には「北」を指しているはずの北斗の柄なのですが、冒頭掲げた図を見ると下を向いています。北の空を見上げたとき、下が北、上が南、向かって右が東で左が西。よって北→東→南→西のサイクルは、天について使う時は左回りになります。一方、地図などではこのサイクルは右回りです。地上の東西南北を天に持ち上げて下から見上げたので、逆になってるわけです。

記録を遡ると…

調べた範囲で、最も古い月建の記述は戦国末期の黄老家の『鶡冠子』還流の一節だと思います*9*10

斗柄東指,天下皆春,斗柄南指,天下皆夏,斗柄西指,天下皆秋,斗柄北指,天下皆冬*11

恒星を利用した季節判定方法は世界中にありますが、それらは特定の活動(種まきや収穫、儀式など)をするタイミングを決定するために使います。この文章の通り、ただぼんやりと春夏秋冬の判別がつくだけでは、あまり役に立ちそうもありません。実はこれは、施策は全国一律に行き渡るべきだという、政治論の中での言及なのです*12

天文や暦算関係の文書ではどうでしょう。少し後になりますが、前漢の百科全書『淮南子』天文訓に詳しい記述があります。

斗指子,則冬至,…。加十五日,指癸,則小寒,…

と15日又は16日おきに合計24回、北斗の指す方向を書いています*13

先ほどのものとは対照的に、こちらは季節の分割が無闇に細かいです。この半月刻みを検知しようとするなら、「日暮れどき」という設定では、日没時刻の変動が邪魔します*14。仮にこれを実際に用いるなら、時刻を揃えるしかなさそうですし、角度も目分量では判定できないでしょう。きちんと実行しようとすれば、当時としてはそれなりに高度な技術が必要だったと思います*15

では、これは当時の先端の季節決定方法だったのでしょうか?既に述べたように、北斗の柄の方向は定性的には理解しやすいけれども、定量的な計測には向かないと思います。つまり、刻みの細かさと手法の性質がマッチしていません。また、すでに秦の制定した瑞鳳暦もあり*16、太初改暦もすぐそこに迫っていました。おそらくこれは、実用性の無い形式的なスキームだと思います。

では、北斗の柄の方法は、本当に実用的だったことがあるのでしょうか?あったとしたら、どにように運用されたのでしょうか?手掛かりは残っているのでしょうか?

二十八宿と南斗

先に進む前に、すでに少し出てきた二十八宿について説明しておきます*17。下の図は南宋時代(1247年)に石碑に刻まれた、『蘇州天文図』です(現存する全天を覆う星図としては、世界最古)。一番内側の円は地平線に沈まない領域を示しています*18。北斗七星は柄の一番端の星以外はこの中に入っており、この時代でもかなりの部分が通年見えていたわけです。

『蘇州天文図』南宋、1247年*19

さて二十八宿なのですが、これはメソポタミアの「黄道十二宮」がそうであるように、星座を基準にした天球の分割です。ただし黄道十二宮は名前の通り黄道の分割で、名前の由来の星座にあまり忖度せずに、機械的に十二等分しています。

一方、二十八宿は天の北極周りの方角を表します。『蘇州天文図』で中心から円周に向かう28本の線がありますが、それらで区切られた一つの区画が「宿」です。一目、分割がかなり不均等であることに気付かれると思いますが、これは二十八個の星座(星官,天官)を尊重して区分けしているからです。各々の星座から基準となる星(距星)を指定して、その星が境目の線を定義します*20

例えば、マンガ『北斗の拳』の南斗聖拳の「南斗」は単に「斗」とも言い、左上にある柄杓型の星座です。北極から引かれた直線が柄杓の柄の根本を貫いてますが、ここに「斗」の距星があり、この線から右回りに、「牛」の距星が現れるまでの範囲が「斗宿」です*21

二十八宿は右回りに並べます。つまり同じ場所を見ていると、時間が経つにつれて次の星宿が現れます。つまり北極を中心に配置したこれら星宿は、時間的な区切りでもあるのです。

「北斗の柄」の現役時代?「夏小正」

さて、北斗の柄の現役時代を伝える史料なのですが、一番可能性が高いと言われているのが、戴徳『大戴礼記』夏小正です*22
大戴禮記 : 夏小正 - 中國哲學書電子化計劃
この書物は礼儀や道徳についての論集で、夏小正は夏王朝時代の制度に基づいているという触れこみです。ところが成立は前漢の終わり頃で、むしろ『淮南子』よりも遅いのです。当然、改変を経ている可能性があり*23、大層扱いずらい史料です。ただ大方の見解では、記されている内容は戦国末期よりは(おそらくかなり)古いとされています*24

では、内容を検討に移りましょう。夏小正では正月から十二月までの各々の月について、天体の動きや気候、動植物の状況について述べ、為されるべき仕事や儀礼を論じています。例えば六月の部分は、

六月。日暮れ時に、北斗の柄が真上を向く。五月に大火(蠍座α・アンタレス)が南中し、六月に北斗の柄が真上を向くのであるから、北斗の柄が心宿にぴったり対応してはいなかったことが分かる。おそらく依に当たるのだろう。依とは、尾宿のことである。桃を煮る。桃とは、杝桃である...*25

古来の伝承プラス、著者の考察が混じっている感じですね。とりあえず、北斗の柄と恒星の南中を両方見ていることがわかります。複数の方法を併用して信頼度を上げたのか、それとも複数の情報源が混じっているのか?それにしても、天体の位置関係を随分と丁寧に検討しているなと驚きました*26

北斗の柄(斗柄)の記述は、正月と七月にもあります。

正月。…初昏(昏=日暮れ) ... 斗柄縣在下。言斗柄者,所以著參之中也*27
七月。... 斗柄縣在下則旦 (旦 =日の出)

太陽と北斗の柄の関係を整理すると、

正月 六月 七月
斗柄 真下 真上 真下
太陽 初昏 初昏

夏小正での冬至は11月です。よって後の月建、則ち「冬至の月に北斗の柄は真下」という話とは異なります。後で述べるように、「柄の指す方向」の定義が変わったのでしょう。 また、日の出の時に観測している月があるのも、目を引きます。

私は、この観測スキームの次の二つの特徴は理に叶っていると思います。

  1. 正月と七月の例のように、半年を隔てたペアを使う時、片方は夜明け、もう片方は日暮れに観測すること。
  2. 春分以前のある日の日暮れ時に、北斗の柄が真下を向いていたとする。すると、日暮れどきに真上を向くのは半年後よりも前。

まず1について。この方法の優れた点は、厄介な日没・日の出の時刻の変動をキャンセルできることです。このことを理解するには、この二つの観測で北斗は同じ向きで、太陽の方向だけが変わっていることに注意してください。正月に日没が遅れる分だけ、七月には日の出が早まるので、両者で太陽の位置はちょうど正反対です*28*29

2について。正月の日暮れに北斗が真下を指すとすると、六ヶ月後の同じ時刻には真上を指すでしょう。しかし日照時間が長くなっているので、日暮れまでに北斗の柄は左に傾いてしまいます。よって、これよりも少し前、つまり正月の観測日から五ヶ月ちょっと経った後の日暮れ時に真上になります*30

時刻の計測が不確かだった時代でも、この観測のスキームは確かに(当時の観測誤差の範囲で)機能したでしょう。

北斗はどちらを指している?

すでに指摘した通り、後世の月建は明らかに柄の指す向きが夏小正と違います。正月ではなく、11月冬至に真下を向くのですから。

また、『淮南子』天文訓とほぼ同時代に成立した『史記』の天官書では、より明瞭な説明があります。それによると、北斗の柄は角宿と亢宿の境目あたり、大角(牛飼い座α アークトゥルス)*31と、それを挟んで左右に広がる星座・攝提(せってい)を指すとしており*32、夏小正の心宿や尾宿とは随分と違います。星図をじっとにらむと、前者は柄全体の方向を見ており、後者は端の二つの星を結んだ先を見ているように見えます*33

なお、上では『史記』天官書と『淮南子』天文訓の定義が同じだと仮定していますが、これは当時の天象(及び知識)と整合的です。この頃の秋分点の経度は、大角から数度しか離れておらず、また当時その事実は(誤差を伴ってですが)認識されていたと思われます*34。よって、秋分においては北斗の柄は太陽を指し、午後6時の日暮れどきには真西近くを向きます。冬至の同じ時刻には90°回って、真下になります。仮に日暮れに観測するとしても、秋分春分で合わせておくのが全体としての誤差を最小にします。

また、『淮南子』の天文訓ではなく時則訓の方に、招搖(牛飼い座γ)の「指す」方向が月毎に書かれているのですが、これは天文訓の月建の方向と同じです。招搖は北斗の柄の近くで*35、大角に向かう途中にあります*36。ただ、『石氏星経』で両者の赤経が9度ずれているので、これをどう考えるかという問題はありますが*37

思うに、「北斗は冬至には子を、夏至には午を指す」という前提から出発して、この方角を見つけたのでしょう。あるいは大角や招搖を用いた季節を決める方法があり、それを取り込んだのかもしれません。

他の恒星の利用と比べると。。。

夏小正には、北斗以外の星の利用も述べられています。かいつまんで紹介すると、

  • 三月に「参」が見えなくなる
  • 四月に「昴(すばる、プレアデス)」が見えるようになる
  • 七月の日暮れ時に織女が東から昇る*38

前の二つについて説明します。恒星は、太陽と比較すると、北極中心に左回りです。ですから、日暮れどきに西の空に沈んだ後は、夜は地平線の下に居続けることになります。逆に夜明けに東から登った後は、夜見え続けます。前者をheliacal setting, 後者をheliacal risingと言って、古代メソポタミアでも詳しく観測されました。

また、南中を見るものもあります。

  • 五月(夏至の月)の日暮れの大火(アンタレス)が、六月の日暮れには「参」(オリオン座の一部)が南中。

これらは、いずれも太陽と恒星が(ほぼ)同時に観測できる時(=日没or日の出)に、両者の相対的な位置を確認しています。よってこれらは、北斗の柄の利用を含め、同じ系統の方法と言って良いと思います。

ただ、違いもあります。星の出没を見る方法は、特に計測は必要ないですが、南中の観測の為には星の高度か方位を測らないといけません。一方、山がちで地平線がよく見えない場所の場合、南中の方が見落としは少ないでしょう。

これらと比較した時、北斗の柄の向きの方法は、山がちな地形でも問題ない点で南中の方法に近く、見た目の印象でも判断できる点は、恒星の出没を見る方法に近いと思います。つまり、両者の中間です。

北極vs 地平線

中国科学史の泰斗ニーダムは、西方の天文学を地平線と黄道の利用で特徴づけ、それに対して中国の天文学を、北極と赤道の天文学としています*39。北斗七星の利用などは、その典型的な例というわけです。ニーダムはその由縁を、山がちな中国の地形に求めます。

では、他の地平線の見えにくい地域では、やはり中国に似た手法が発展するのでしょうか?世界各地の季節の決定方法*40を知るには、以下の事典が便利です(現在archive.orgで無料で閲覧できます)。

特にAstronomy in the Indo-Malay Archipelago (マレー群島の天文学)の項目を見ると、この地域は中国と条件が似ているように思います。マレー群島もやはり地平線が利用しづらい地形の様で、そのため、

  • 地平線(or 水平線)上の、天体の昇る/沈むポイントを利用しない

らしいです。これは中国も同様です。なお、地平線上のマーカーの典型例としては、ブリテン島のストーンヘンジ、北米のBig Horn Medicine Wheel(米国ワイオミング州)が挙げられていましたが、いずれも、地形的な条件が整っている場所です。平原の広がる古代メソポタミアでも、日の出のポイントから日照時間を推測しましたし、三日月が最初に昇る日の計算、惑星のheliacal risingなど、地平線上の現象に関心を集中させました。

米国ワイオミング州のMedicine Wheel*41

また、恒星の南中の利用が見られることがこの地域の特徴で、執筆者によると、他の地域にはあまり見られないそうです。理由は述べていなかったのですが、前後の記述から推測するに、地形的な要因が念頭にあるのではと思います。

つまりマレー群島も中国も、地形要因から地平線の利用を極力避ける方向に発展したように見えます。もっとも、前者の場合は北極中心とは言えず、例えば南中を見る星もオリオン座(中国の「参」)だったりします。また北斗七星の利用もありません。これは、緯度の違いが効いているのでしょうか。それから、マレー群島では星の高度を測って南中を確かめますが、中国は地面に垂直な棒(表)を用います。これで昼間の太陽の南中時に、真北の方角を割り出しておくのです。

マレー群島の竹を使った星の高度の計測。こぼれた水の量で角度を測る*42
地面に建てた棒を用いた観測*43

なお、恒星の出没による方法は、簡便さゆえかマレー群島でも多く使われます。既にのべたように、夏小正にもいくつも記述があります。しかし、大きな影響力のあった『礼記』月令*44は「夏小正」と似たカテゴリーの内容なのですが、「孟春之月:日在營室,昏參中,旦尾中。」のように恒星の南中と太陽の位置だけで、恒星の出没はありません*45

時代が降っても、天文学の確立期に重視された現象は、実用性や意味を度外視して研究され続けます。西方で言えば、恒星や惑星のheliacal rising/settingは、中世を通じて研究され続けました*46。一方中国では、日暮や日の出に南中する星宿の計算が、後漢四分暦以降、暦に乗せられるようになります*47

北極、蓋天論、赤道座標系

さて、北極を重視した中国の天文学は、どのように展開していったのでしょうか。

中国の最古の宇宙論は蓋天論とよばれ、天を北極を軸とする傘の様なものと捉えます。時代が降るとこの傘は丸みを帯びてきますが、最初の理論では完全な平面の円でした。円盤状の天が、平で正方形の大地と平行に相対します。この一見奇妙な説は、北極を中心に回転する天の理念化だと思うと、納得しやすいと思います。

一応注意しておきますと、蓋天説は単なるお話的な説ではなく、観測に基づいた数理天文学でした。そもそも日常的な観察では、天も地も平面には見えません。この整然とした仮定は、数学的な処理を単純化する為に練り上げられたもので、中国の伝統的な観測機器である、地面に垂直に建てた棒、すなわち「表」と有機的に結びついていました*48

蓋天説と渾天説(大橋由紀夫『科学史ミニ講義(2) 蓋天説と渾天説の話』)https://historyofscience.jp/wp-content/uploads/38-2.pdf

蓋天説から出発した中国でも、天が大地を包んでいるという説(渾天説)が紀元前後頃から優勢になります*49。蓋天説と渾天説の論争には、暦家の範疇に収まらない人々が参画しており*50、暦学的な数値のみならず「自然学的」な問題が重視されました。蓋天家は「天体は地面の下を通過できるのか」と渾天説を非難し、逆に渾天家は地平線における天体の出没を自然に説明できるとして、自説のメリットを強調します。

蓋天説では、天体の出没は天体までの距離で説明します。遠くに離れると見えなくなるとするわけです。これは、実際に観察される天体の出没の状況とはかなり違います。おそらく理論の形成のときには、出没の状況などは二次的な興味しかなかったのでしょう。

なお、西方においても天が地の上方に展開する宇宙論はあったようです*51。しかし、それらに基づく高度な数理天文学は生まれませんでした。メソポタミアでは天球の概念は不明瞭ですが、黄道十二宮の帯は大地をぐるりと取り巻いています。これは、彼らが地平線上の現象に関心があったことと、無縁ではないと思います。

地平線上の現象という蓋天説の致命的な欠陥については、王充などが視覚論的な議論を駆使して補おうとするのですが、やはり分が悪かったようです。南北朝期には、渾天説がはっきりと優勢になります。

しかし渾天説の時代になっても、蓋天説の影響は残りました。特に宇宙や地球のサイズの推測値はあまり変わらすに受け継がれます。ざっくりというと、太陽も月もかなり大地に近く、西方の宇宙観に比べると小ぢんまりとしていました*52。伝統的な観測機器の「表」も生き残り、巨大化して精度を極限まで高めました。

また、北極の重視は, 北極を中心にした天の分割、すなわち二十八宿や赤道座標系を生み出しました。一方、メソポタミアでは黄道十二宮を重視し、ギリシャに渡ってプトレマイオスに見られるような、黄道座標系につながりました*53

それから、上に掲げた『蘇州天文図』のような円形の星図は、蓋天家の用いた「蓋図」の系譜を引いています。これは宇宙構造論に関係なく便利で、晋の劉智は蓋図で太陽の軌道を描写して見せ、「蓋圖已定,仰觀雖明」と有用性を強調します。ただし、「日暮れや夜明けを定めることはできない」と限界も指摘しています*54。また、唐の高名な天文学者の一行は、蓋図で月の軌道を考察しました*55

象徴としての北極と北斗

天の北極はまた、象徴的な役割も持っていました。『論語』では、理想の君主を北極星(北辰)になぞらえます。

為政以德,譬如北辰,居其所而衆星共之。(『論語』為政)

君主自らは動かず、臣下が君主を中心にして動く*56。いかにも中国的な考え方です。

北極付近に設定された星座(天官、星官) *57も、この北極の役割に応じて仰々しいです*58。『史記』天官書によると*59、常に動かない天極星(北極星)の傍らの三つの星が三公*60、あるいは帝の子供。その周辺のカギ状に並んだ四つの星は後宮及び正妃、環状に護衛に並んでいる十二の星は藩臣*61。これらをまとめて「紫宮」と呼びます*62。インターネットのコトバンクによると、明清の皇帝の宮殿を「紫禁城」といったのも、起源を辿るとこれが由来だそうです(典拠は書いてませんでした)*63

北斗はこれらより古くからある星座で、明らかに身近な用具の形に基づいています。しかし、『史記』『漢書』ではその北斗も皇帝の乗る車とされ、

斗為帝⾞,運于中央,臨制四海。分陰陽,建四時,均五⾏,移節度,定緒紀,皆繫於⽃。

と、様々な役割を負わされました。緯書『春秋文耀鉤』では「天帝の舌」とされました*64

帝車としての北斗七星。北京天文館より引用。云看展 - 云看展 | 北斗七星那些事儿 六壬式盤と同じく、北斗七星の鏡映が使われています。

様々な機能が付された北斗ですが、中心はやはり、季節を指し示す機能です。こちらも夏小正からバージョンアップしています。北斗七星の杓(柄の部分)のみでなく、三つの部分(杓、衡、魁)に分け、そのすべてを用います。各々、柄*65、真ん中の星*66カップの部分またはその端の星です。それらは観測すべき時刻(日没、夜中、明け方)も、指し示す二十八宿(角、南斗、参)も違い、また各々に対応する地上の地域があります*67

この『史記』の説は、二十八宿の説明で用いた、『蘇州天文図』の跋文でも繰り返されています。この石刻図の元になったのは、皇太子の教育用に作成された図と天文知識のダイジェストです。長くもない文章の中に、北斗の月建のこともしっかりと書かれています*68

形骸化していた北斗の柄

しかしながら北宋の技術官僚・沈括は、歳差の影響で季節と柄の指す方向がズレていることを指摘します。さらに進んで、月の名前の由来を月建に求める旧来の説は無用だと切って捨てました。最初に述べたように、これは方位と季節を結びつける、月建の中核的な機能です。天文学的な実践から乖離して千数百年が経ち、形骸化がかなり進行していたと思われます。

正月寅,二月卯,などを斗杓の指す方向で説明し、「建」と呼ぶが、それは必ずし必要でない。春を寅、卯、辰とし、夏を巳、午、未とするのは当たり前で、「斗建」による必要はない。「斗建」は歳差のせいでずれてしまうが、古人はまだ歳差の法を知らなかったのだ*69

*1:吴守贤、全和钧、中国古代天体测量学及天文仪器、中国科学技术出版社、2008、陈久金、中国少数民族天文学史、中国科学技术出版社、2008 に各々、北斗の柄に関する章があり、以下の記述は多くをこの両書によっています。

*2:インターネット上の科学図書館で公開されている新城新蔵『東洋天文学史大綱』p.7など。新城新蔵『東洋天文学史の研究』弘文社、1928年所収。

*3:太古の中国における季節の決定方法の問題について、基本的な考え方の整理としては、新城新藏. <研究>二十八宿の傳來を論ず. 史林 1918, 3(1): 18-42https://doi.org/10.14989/shirin_3_18、あるいはhttp://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/ShinjyoShinzo/28shuku.pdfの「古代に於ける観象授時」がよく整理されていると思いました。ただし、本論文の全体的な内容は古いと思います。

*4:戦国期に入る頃には、一年の端数が1/4日であることや、かなり正確な月の会期周期、メトン周期が知られており(张培瑜 等, 中国古代历法 中国科学技术出版社, 2008年, 第一章第一節 p. 3)

*5:夏侯嬰と一族の墓なので、夏侯の墓と言及される場合もあります

*6:六壬式盤については 张雨丝,六壬式盘天盘布局问题补议,出土文献,2022年03期 No.11

*7:以下の暦wiki「三正論」のページも参照。https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/BBB0C0B5CFC0.html。また、東洋文庫版『夢渓筆談』第一巻、pp. 175-176

*8:一年がほぼ十二ヶ月なのははっきりとしている一方、方向を十二分割するのはさほど自明とはいえません。また「建」という字は、「作る、確立する」といった意味で、「指し示す」という意味はなさそうです。『康煕字典』でも、「斗建」の「建」は特殊な扱いになっています。

*9:以下の記述は、吴守贤、全和钧、中国古代天体测量学及天文仪器、中国科学技术出版社、2008、陈久金、中国少数民族天文学史、中国科学技术出版社、2008 などを参考にしています。

*10:『鶡冠子』は「著者の伝記は不明な点が多く、時代を下るとともに逸話が増え、著書の巻数も増える」という取り扱い注意の著作なのですが、前漢の出土文書にあらわれる黄老思想と共通点が多いということで、脚光を浴びることになったようです。後世の付加もあるが、コアの部分は戦国末期の著者(たち)によるものだろうとのこと。なお、「還流」篇はだいたい真作だと思われているようです。英語や中国語のwikipediaは記載が豊富で、また https://doi.org/10.1017/S0362502800003850Peerenboom は基本的な情報がまとまっていました。

*11:https://ctext.org/he-guan-zi/huan-liu/zh

*12:『鶡冠子』は人事と自然を積極的に関係付けますから、これも単なる比喩ではなさそうです。

*13:立春立夏夏至立秋立冬までの五つの区間が16日。

*14:北緯34度(洛陽や長安)を仮定すると、日没時間は±1時間ほど変動し、これは±15度のズレ繋がります。これは約半月分。淮南の緯度(32度)だともう少しマシですが、やはり厳しそうです。

*15:角度を直接計測れる渾天儀があったかどうかは微妙な時期ですが、時間経過を計測する漏刻と、地面に垂直に建てた棒(表)はありました。これで真下又は真上になる時刻を計測できます。この値から、簡単な比例計算で特定の時刻での柄の向きを計算できます。時間の計測の誤差は、推し量り難い部分もありますが、20分から30分の誤差は十分に生じ得たと思います。以下の論文では、紀元600年ごろ以降の中国の日月食の観測された時刻と、現代の理論値の比較をしています。月食の場合、外れ値を除くと大体は30分程度の誤差に収まるか、といったところです。ただ、食の開始の判定いかんでも数分はずれるでしょうから、そこはまた考察の必要はありそうです。M. STEELE and F. R. STEPHENSON, ASTRONOMICAL EVIDENCE FOR THE ACCURACY OF CLOCKS IN PRE-JESUIT CHINA, JHA, xxix (1998) 。いずれにせよ、この論文の扱っているデータはいずれも新しく、紀元前ではありません。異なった文化圏になりますが、古代メソポタミア月食の時刻の計測誤差は、紀元前150年ごろの場合、大体は30-40分くらいか、それ以下です。J. M. STEELE and F. R. STEPHENSON,THE ACCURACY OF ECLIPSE TIMES MEASURED BY THE BABYLONIANS, JHA, xxviii (1997)

*16:淮南子』天文訓にも、太陽や月の周期が正確に記されています。

*17:簡潔な説明が暦wikihttps://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/C6F3BDBDC8ACBDC9.html。発展史的なことは、橋本敬造『先秦時代の星座と天文観測』https://doi.org/10.14989/66604を参考にしてください。

*18:この領域は緯度によって違うのですが、おそらくは北緯35度付近を想定していると思われます。北斗七星については、北宋時代の観測データが残っており、少なくとも北斗七星については、『蘇州天文図』と整合しています。

*19:以下の史料の挿入図を加工しました:竹迫忍『中国古代星図の年代推定法』第24回天文文化研究会(2023)、発表資料。 https://www.kotenmon.com/ronbun.htmlより入手。

*20:ただし、この「距星」がどれかの明示的な記録はあまり残っていないようで、星図から読み取ったり、理論計算で推測することになります。宮島 一 彦、東アジアの古星図における距星の特定、大阪市立科学館研究報告 28, 33 - 42 (2018)、薮内清、淳祐天文図とヘベリウス星図、天文月報 = The astronomical herald 69 (1), p17-21, 1975-12、日本天文学

*21:「南斗」は『史記』天官書で「南斗為廟」、つまり皇帝の宗廟とのこと。中々大きな役割を持たされていますが、歴代の天文志の体系では北斗が圧倒的に偉く、あまり南斗とは並び立ちそうもありません。しかしウィキペディアによると、道教では両者を対にする象徴体系を用いているようです。

*22:新城新蔵「東洋天文学史大綱」新城新蔵『東洋天文学史の研究』弘文社、1928年所収。吴守贤、全和钧、中国古代天体测量学及天文仪器、中国科学技术出版社、2008、陈久金、中国少数民族天文学史、中国科学技术出版社、2008

*23:華強『「夏小正」新考証』安徽省科学技術出版社(2017)では、いくつか具体的な指摘があります。わかりやすいのは、十月に「時有養夜。養者,長也」です。五月(夏至)に「時有養日。養,長也。」とあることを考えると、これは夜がもっとも長い、つまり冬至だと言っていると思われます。しかるに、十一月の条に「冬至」と書かれており、また夏至との間隔が五ヶ月では辻褄が合いません。著者は十一月と十二月の条を後世の挿入とし、夏の暦は一年が十ヶ月であるとしています。この主張に与するかどうかはさておき、夏小正の取り扱いの難しさは伝わって来ます。

*24:天文学的な検討によると紀元前600年〜800年、あるいは更に遡るかもしれないそうです(http://wanibeer.web.fc2.com/hakron/ , 第一章二節への注釈(7) を参照。)。ただ、テキストの解釈がまだ定まり切らない中、こういった計算に意味を見出さない見解もあります(Cullen, Astronomy and mathematics in ancient China: the Zhou bi suanjing, CUP, 1996)。

*25: 平澤歩先生の博士論文の一章二節 http://wanibeer.web.fc2.com/hakron/。ctext .orgのテキストに底本の陰影と異なるところがあるので、原文を貼り付けます。此見斗柄之不正當心也。蓋當依。依、尾也。煮桃。桃也者、 杝桃也。杝桃也者、山桃也。煮以爲豆實也。鷹始摯。始摯而 言之何也、諱殺之辭也、故言摯云。

*26:しかし、心宿の幅が5度程度と狭いこと、そもそも精度の荒い方法であることを思うと、果たして意味があるのかは微妙だと思います。また、用いられている二十八宿の定義も検討の余地があります。橋本敬造『先秦時代の星座と天文観測』https://doi.org/10.14989/66604によると、漢代以降標準となる二十八宿が広まっていくのは、戦国期のようです。これとはやや異なる系譜のものもあって、劉向『洪範五行伝論』にも残っており、前漢の汝陰候墓出土の二十八宿盤も、この数値に近いようです。両者が前後関係にあるものなのか、あるいは別バージョンなのかはよくわかりません。「夏小正」との関係でいくと、参宿、心宿、尾宿が各々違ってきます。参宿は少しずれるくらいなのですが、心宿は通常の尾宿あたりにシフトして、大火(さそり座αアンタレス)はその西どなりの房宿になってしまいます。すると、「北斗の柄が心を指す」ことと「大火が五月に南中し、北斗の柄が六月に真上を向く」ことが矛盾ではなくなります。

*27:参宿は、心宿や尾宿のちょうど反対側にあります。ですから、これは北斗の柄を逆側に伸ばした先に当たると言っているのでしょう。

*28:ただし、太陽の平均運動からのズレは無視しています

*29:なお、「初昏」と「旦」の定義なのですが、後漢四分暦以降の暦では、日が没していても明るいうちは昼とします。後漢四分暦では、日没から二刻半(一日は100刻なので、40分くらい)まで「昏」が続きます。「旦」も同様です。よって春分でも昼の方がやや長く、55刻あります。そして、日没や暁の時の恒星の南中の観測は、この規定による夜の始まりと終わりで行います。もしもこの規定に沿うならば、ここで述べた「日没・日の出の時刻の変動のキャンセル」は上手くいきません。しかしながら、後漢四分暦のこの規定を過去に遡って適応する必然性はないと思います。例えば『礼記』月令、あるいは『呂氏春秋』十二紀では春分秋分においては「日夜分」とありますし、『礼記正義』月令によると、後漢の馬融は「晝有五十刻,夜有五十刻,據日出日入為限。」と言っており、いずれも日夜の境目を」昏」の始まり、「旦」の終わりとしています。よって、恒星の観測の時間も柔軟に考えて良いはずで、このスキームによる太陽の運動の打ち消しの効果が発揮できた可能性は十分あると思います。

*30:仮に観測地点を北緯34°とします。すると、正月の観測時点から五か月後の日没時、北斗の柄は真上よりも右に5°くらい傾いています。計算は以下の通り。まず、正月と同じ時刻に観測(太陽の光で見えませんが)したとしたら、右に30°ほど傾いています(一年で360°回るから)。そこから日没するまでの1時間40分くらい、左周りに回転(15°/1時間)しますから、日没時にはまだ5°くらい右に傾いています。この程度のズレならば、大雑把な観測では誤差範囲でしょうし、また5日か6日待てばほぼ真上になります。

*31:これはかなり明るくて目立つ星です

*32:攝提者,直斗杓所指

*33:こういった「北斗の柄の方向問題は、吴守贤、全和钧、中国古代天体测量学及天文仪器、中国科学技术出版社、2008の第二章第四節、あるいは陈久金、中国少数民族天文学史、中国科学技术出版社、2008の第一章第一節、pp.86-94などに詳しく論じられています(いずれもarchive.orgでDL可能)。この中で、北斗が太古には九星あり、第八星が「招搖」(牛飼い座γ)、第九星が「梗河」(牛飼い座ε)との説が展開されており、緯書に見える北斗九星との関係を仄めかしています。また、この北斗九星の第一、五、七、八、九星を結んだ先に心宿があることを指摘しています。

*34:太初改暦やそれに伴う観測プログラムで得られたデータは前漢末の『三統暦』に引き継がれ、恒星の位置データについては『開元星経』所引の『石氏星経』に残るとされています。これらを比べると、確かに攝提の広がる範囲に、秋分点の経度が含まれています。三統暦の秋分点は、中国度で角宿10度。『石氏星経』によると攝提の距星は角宿8度で、大角は入亢二度半。なお、角宿12度= 亢宿0度。なお、『石氏星経』のデータは「中国天文学史・上」(明文書局,1984)の付表2。これは藪内清『漢代における観測技術と石氏星経の成立』の付表を再録したもの。

*35:史記』天官書に「杓端有兩星:一內為矛,招搖」

*36:現在の星図では、両者は共に牛飼い座にあり、経度も近いです

*37:大角は入亢二度半、招搖は入氐二度半。亢宿9度=氐宿0度。

*38:この「織女」が現在の織女星なのか、女宿なのかは不明。

*39:例えば、Needham, J. , Science and Civilisation in China, vol. 3, Mathematics and the Sciences of the Heavens and the Earth, CUP, 1959

*40:日本などでも(聞き取り調査で調べられる程度に)最近まで伝統的な方法が残っていました。すばる(プレアデス星団)やオリオン座の腰の三ツ星使ったようです。季節だけでなく、漁に出かけるタイミング(時刻)の判断にも用いたようです。下に引く事典のAstronomy in Japanの項目は参考になりました。また、中野 真備氏(人間文化研究機構創発センター研究員)のWeb連載https://nagisamagazine.wixsite.com/t-jiyudaigaku/星の林に漕ぎ出でて-私の天文民俗学-中野真備で調査の状況や文献などの全体の雰囲気が少し掴めます。そこで言及されている北尾浩一氏の調査は、著作も出ていますが、Webでも一部読むことができますhttp://www2a.biglobe.ne.jp/~kitao/oaaminzoku.htm。道具や設備を用いる方法としては、八重山群島の「星見石」は有名だと思いますが、遺構の調査はあるものの、方法を再現した研究は無いようです。

*41:Wikipedia英語版よりhttps://en.wikipedia.org/wiki/Medicine_Wheel/Medicine_Mountain_National_Historic_Landmark

*42:https://link.springer.com/referencework/10.1007/978-1-4020-4425-0のAstronomy in the Indo-Malay Archipelagoの項目より。

*43:Wikimedia Commons File:SSID-12797191 欽定書經圖說 第1冊 卷一、二.pdfより。この書物は清朝末期に編纂されたもので、古代を知る史料としては不適切なのですが、雰囲気が出るせいか、なぜかよく用いられます。現在残っている表の現物は、影の長さの計測に特化した洗練した形状になってしまっており、原型からはほど遠いと思われます。います。元の時代のものなどは、高さを稼ぐために建造物を立て、その上に細い水平の棒を設置して、下の地面に影を作らせます。

*44:戦国末期の『呂氏春秋』十二紀と同一。太陽と恒星の部分は、『 淮南子 』時則訓も同一。

*45:南中の重視はまた、「天子南面す」という言葉ども関係づけられました。前漢の劉向『說苑』辨物に「故天子南面視四星之中,知民之緩急...」。Cullenのhttps://doi.org/10.1017/CBO9780511563720(本書はarchive.orgでDL可能)

*46:これらは、「周期の最初or最後に観測されるの日の計算」を目指します。しかし、太陽の光がどの程度邪魔をするのかという位置天文学では扱えない条件を含むため、本来は良い問題設定ではないと思います。実際は、機械的に「ある角度以上離れたら見えることにする」としていました。

*47:张培瑜 等, 中国古代历法 中国科学技术出版社, 2008年, 第一章第四節(archive.orgでDL可能)、Cullen, http://dx.doi.org/10.1177/002182860703800104 

*48:蓋天論者は、表(あるいは髀)とよばれる、地面に垂直に立てた棒を観測に用いました。同様の観測器具は世界中で広く使われて、科学史ではグノモン又はノーモン(gnomon)とよばれます。天と地は平行で平らと仮定したので、髀の影の先端は、天体の位置の反転になっています。つまり、髀(表)という観測器具と蓋天説は非常に相性が良いのです(山田慶兒、梁武の蓋天説、東方學報 (1975), 48: 99-134)。髀(表)は測量にも用いられていました。例えば遠方の山の高さを計測する方法が案出されました。これは山までの距離が未知でも使える非常に巧妙な方法で、同じ手法で蓋天家は太陽までの距離を推測しました.。下の図の出所である大橋由紀夫氏の解説が興味深いです。幾何の結果としては、エラトステネスの地球の大きさの計測よりも、はるかに巧妙で面白いです。また、Cullenのhttps://doi.org/10.1017/CBO9780511563720も示唆に富んでいます(archive.orgでダウンロード可)。

*49:このあたりの論争は、上の図の出所の大橋由紀夫氏の解説や、以下の論文に手際よくまとめられています。https://doi.org/10.14989/66532。一次文献としては、『晋書』や『隋書』の天文志がまとまっています。

*50:例えば、反主流的な思想家として知られる王充や桓譚、名高い経学者の揚雄、鄭玄、蔡邕。また、水力駆動の渾象(渾天説的な天体模型)の製作者である張衡も、思想家や文人としての側面が知られています。

*51:アリストテレス『天について』第2巻やプトレマイオスアルマゲスト』第1巻。プトレマイオスは天体の出没の説明の不自然さをこれらの宇宙論への反論の材料にしています。

*52:この体系では、場所による天体の高度の違いを大地の丸みではなく、天体までの距離が近いことを用いて説明しました。そのせいで太陽までの距離は、ほぼ地球の半径と同じオーダーの値になっています。

*53:月や惑星の軌道はそんなに黄道からずれないので、黄道方向とそれ以外に分解して理論を進めるのは、良い戦略だったと思います。中国もこの方法論の一部を後漢以降は取り入れ、大きな成果がありました。

*54:「蓋圖已定,仰觀雖明,而未可正昏明,分晝夜。」(『隋書』天文志・蓋図)

*55:新唐書』天文志。また、宮島一彦. 日本の古星図と東アジアの天文学. 人文學報 1999, 82: 45-99, https://doi.org/10.14989/48530 。彼は、図の中心を軸に回転する回竹の棒を取り付け、これをメジャーとして用いました。この作図法で得られる射影は北極を中心とした正距方位図法で、西方でよく用いられたステレオ写像とは異なります。中国の星図を解析すると、やはり正距方位図法だそうです。北極中心というところは伝統通りですが、北極からの角距離という蓋天説には無い、渾天説的な概念を用いています。

*56:ここでの「共」の字の意味は、字典や注釈をいくつか見たのですが、解釈を絞ることができませんでした。まず、インターネットの『漢典』の上げる字義のうち、該当しそうなものを列挙すると、①(gōngと読んで)恭敬する②(gǒng)手を折りたたんで挨拶する、取り囲む。③(gòng)周りを旋回する。そして、②と③で論語のこの文が用例に上がっています。 注釈書ですと、邢昺『論語注疏』では「北辰常居其所而不移,故眾星共尊之」とあって、これは①の意味ではと思います。一方、『論語集注』では「共,向也,言眾星四面旋繞而歸向之也。」とあって、これは②又は③だと思います。『康熙字典』は『論語集注』と同じ解釈です。おおむね②や③が優勢なのですが、『論語』為政以外に目ぼしい用例がないのが気になるところです。後世の理解はともかく、この文が書かれた時点での意図はむしろ①かもしれません。現代の注釈書には整理されているのだと思いますが、未見です。

*57:中国の星座については、大阪市立科学館http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~kazu/chinaseiza/chinaseiza.htmlに網羅的な概説があります。竹迫忍『中国古代星図の年代推定法』第24回天文文化研究会(2023)、発表資料(https://www.kotenmon.com/ronbun.htmlより入手可能)も、非常に優れた概説だと思います。同氏のウエッブページ「古天文の部屋」も内容が豊富ですが、とくにhttps://www.kotenmon.com/str/china/china.htmlに基本的な参考文献がまとまっているのはありがたかったです。また、これら理系的な入門に対して補完的なのが、前原あやの『星座の三家分類の形成と日本における受容』東アジア文化交渉研究第8号。

*58:漢書』天文志では冒頭、「經星(恒星のこと)常宿中外官凡百⼀⼗八名,積數七百八⼗三星, 皆有州國官宮物類之象。」つまり、全ての星座は地域、官、宮廷の物の象徴であるとし、この象徴性を利用した占いをすると述べます。

*59:漢書』天文志も文言までほぼ同じ

*60:上位の三つの官職。秦から漢の哀帝までは丞相・御史大夫・太尉、以後名を変えて、大司徒(もと丞相)・大司馬(もと太尉)・大司空。(『世界大百科事典』平凡社)

*61:こういった象徴的な命名である以上、星座が形状による比喩でないことは明らかです。そして星一つで一つの星座、というのが結構あります。星図では星座の形はかなりいい加減に書かれます。位置が正確に計測されるのは、星座の中の一つの星(距星)だけです。(ただし、北斗七星は例外。)書写を繰り返されてゆがんだ星図と実際の天体とを対応させるのは大変な作業のようで、ゆえに『蘇州天文図』のような石刻図が貴重なのだそうです。

*62:中宮天極星,其⼀明者,泰⼀之常居也,旁三星三公,或曰⼦屬。後句四星,末⼤星正妃,餘三星後宮之屬也。環之匡衞⼗⼆星,藩⾂。皆曰紫宮。」武英殿版『漢書

*63:コトバンクの記述では、起源600年前後から使われる星座の体系での、「紫微垣(しびえん)」が起源だと書いてありますが、この「紫微垣」は「紫宮」から来ています。

*64:史記索隠』天官書の引用。後漢の官吏・李杜が「今陛下之有尚書,猶天之有北斗也。」(『後漢書』李杜列傳)と引用したのが有名。『藝文類聚·尚書』『太平御覽·星上』に引用あり。

*65:「孟康曰:杓,斗柄也」武英殿版『漢書』の注。

*66:「晉灼曰:衡,⽃之中央。」武英殿版『漢書』の注。のちに玉衡とよばれる星だと思われます

*67:「分野説」のはしりと言われています。

*68:年号をとって淳祐天文図とも言います。宮島一 彦『蘇州天文図に関する若干の検討と碑文の訳注』大阪市立科学館研究報告 29, 49 - 64 (2019)、薮内清、淳祐天文図とヘベリウス星図、天文月報 = The astronomical herald 69 (1), p17-21, 1975-12、日本天文学会。碑文の原文は、成映鴻、蘇州孔廟淳祐星圖之研究、臺中師專學報,n.15,p175-206、およびhttp://starvyg.blogspot.com/2005/09/blog-post.html。天文図の作成の背景も興味深いものがあります。原図の作成者の黄裳(1146-1194)についてはBaidu百科の解説を、また同時に作成された『帝王绍运图』についてはhttp://flgj.cupl.edu.cn/info/1098/4111.htm。地理図については、增田忠雄. 宋代の地圖と民族運動. 史林 1942, 27(1): 65-83、青山 定雄. 栗棘庵所蔵の輿地図について. 東洋学報 : 東洋文庫和文紀要 / 東洋文庫 編. 37(4) 1955.04,p.471-499. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I4991869

*69:「正月寅,二月卯,謂之建,其說謂斗杓所建,不必用此說。但春為寅、卯、辰,夏為巳、午、未,理自當然,不須因斗建也。緣斗建有歳差,蓋古人未有歳差之法。」『夢渓筆談』象数一。

なぜ日食は月食よりも畏れられたか〜十月之交

中国では、日食を重大な災異としました。古くは『詩経』にも、日食を政治の乱れの現れだとして嘆く詩、「十月之交」が収められています。一方、月食も災異とはされるものの、そのグレードはグッと落ちます。この差を科学史家の中山茂氏は、予測の難しさの違いで説明していました*1。規則的に生じる現象に、人は特別な意味を感じにくいだろうというわけです。

月食は古代バビロニアでもサロス周期を用いてかなり予測ができており、中国でも前漢末の『三統暦』でもサロスとは異なる周期性が示されています。さらに後漢以降、日月の位置の計算ができるようになって、予測技術は格段に向上しました。『後漢書』律暦志・中には「論月食」という充実した項目もあります*2

漢書』や『後漢書』、それ以降の正史もいくつか*3見てみましたが、やはり災異としての月食の扱いはだいたいにおいて小さいです。(ただし、災異としての記述が消え去るわけではないです。『宋書』の場合、符瑞志、五行志、天文志に数例ありますし、『隋書』天文・下にも一件記事があります。『宋史』天文志では、日食と共に月食と災異との関係も書かれています。また、『元史』の帝紀にも月食と災異を関係づけた記事があります。)

一方日食の予測は、後漢南北朝時代天文学の進歩を経て初めて可能になりました。これに伴って日食への考え方は変化してきます。『新唐書』暦三下に引用された『略例』という書物の一節には、

日食が予測できるなら、それをもって政治の良し悪しの判断はできない*4

また、南宋朱子朱子語類理気下・天地下にも

問:「古えから日月食を災異としているが、暦家は今は前もってこれらを予測できてしまいます。どういうことでしょうか?」*5

とあります。

前もって計算できてしまう現象に、吉凶などの特別な意味を読み込みにくい。この説明は理系脳の私にはひどく印象的で、以来、バカの一つ覚えのように頭の中で反芻し、機会あれば豆知識として披露してきました。また以前、「日食は天文志か五行志か」を調べた時、月食に話が向かわなかったのは、このことが念頭にあったからです。

しかし少し考えれば当たり前ですけど、「不思議かどうか」は予測可能性だけでは決まるはずもなく、中山茂もそんなことは言ってません。

古代ギリシャの場合

例えば、古代ギリシャの場合を考えて見ます。

https://www.gutenberg.org/cache/epub/674/pg674-images.html#id_2H_4_0038

プルタルコス(紀元100年前後)の『対比列伝』のニキアス(紀元前5世紀、アテネの将軍)の伝によると、シシリア遠征の際、彼の率いる軍隊は月食に遭遇し、多いに恐れたようです。プルタルコスによると:

現代では、一般人でも、太陽が月末に暗くなることがある理由が月の効果であることを知っている。しかし、月自身が暗くなる現象はどのようにして起こるのか、なぜ突然満月の最中に突然光が失われて、色が変容してゆくのかは、簡単には理解できなかった*6

つまり、、予測可能性以外にも

  • 仕組みがわからない
  • 見た目が不思議

といったことが、神秘性の原因になり得ると思われます。(仕組みの理解は予測可能性と関係はしますが、同じではありません。月食の場合、仕組みの理解に先立って周期の発見がありました。)
プルタルコスの言葉を信じれば、月食の怖さは日食に匹敵するか、下手をするとそれ以上だったかもしれません。

史記』天官書

すでに述べたように、後漢南北朝〜隋唐における中国の天文学の進歩は目覚ましく、一般的な知識人の日月食観も、その影響を受けました。そこでもう少し遡って、『史記』天官書を見てみたいと思います。司馬遷も日食を月食よりも不吉とするのですが、理由は明快には述べていません。まず、月食がどのような間隔で生じるかを述べてから、

故月蝕,常也。

だとして、続いて日食については

日蝕,為不臧也。(「不臧」は良くない、不吉)

と対比しています。

なぜ司馬遷月食を「常也」だと言ったのでしょうか?

大橋由紀夫氏*7は周期的な規則性が「月蝕、常也」の理由だとしています。同様の見解は、既に戦前、東洋学者の飯島忠夫が述べています。

しかし大橋氏も指摘しているように、『史記』の述べる月食の規則は、全く不正確です。飯島忠夫の論敵の橋本増吉も同じ指摘をしていて、「月食の頻度の多いことを「常也」としているのだ」という論を立てています*8。対して、大橋由紀夫氏は「規則性は気づいていたが、正しい規則を得ていなかった」としています。

私は、橋本増吉の議論の方が腹に落ちますが、いずれにせよすぐ後に述べるように、月食を「常」としたのは『史記』よりもさらに古く、冒頭に紹介した『詩経』の「十月之交」の一節です。『史記』の記述がこれの影響を受けていない筈はありません。

十月之交

中国の学問では、経書ほど重要なものはありません。例えば冒頭に紹介した、『詩経』小雅の「十月之交」で始まる詩は、何度も引用されます*9

十月之交、朔日*10辛卯。 日有食之、亦孔之醜。 

大意は、「九月と十月の境目*11即ち十月一日、干支は辛卯だった。日食があり、それは非常に悪い予兆。」くらいでしょうか。

このように、古来、政治の乱れは天体の動きや気候に影響すると考えられていました。続いて天変と悪政を代わる代わる嘆いてから、

彼月而食、則維其常。此日而食、于何不臧。

つまり「先日の「月而食」(月食)は「常」だった。一方、この「日而食」(日食)はなんと良くない予兆であろうか。」*12

なお、『春秋』(孔子が著したという触れ込みの年代記)には日食の記事は多くあるが、月食の記事は全くないそうです*13。つまり、月食は「十月之交」の時代から、神秘性のグレードが低かったと言えると思います。

また規則性との関係については、次の句が示唆的です。

日月告凶、不用其行。

すなわち「日月が凶事を告げるときは、通常の運行に従わない」とあります。これは規則性と予兆の関係を明快に述べた句で、非常に興味深いと思います。まず、日食は明らかに凶事ですから、よって不規則な現象ということになります。では、月食はどうでしょう?「常」を保つのだから規則的…だと思って良いのでしょうか?

それでも月食も災異

冒頭、「月食は日食ほど怖がられなかった」と書きました。しかしグレードは落ちるものの、やはり月食も災異とされてはいました。『漢書』天文志では「十月之交」の引用に続けて次のように補足しています。

詩経』の伝*14には「月食も「常」とは言い難いが、日食に比べるとより通常に近い。日食は本当に不吉である」と書いてあるように、月食は小さな変異であるとは言える、しかし、完全に通常の現象とは言えない。*15

また、班固撰『白虎通德論』災変には、日月食の際の対処法が書かれています*16。そこでは「日食者必殺」と日食の方が明らかに重視されており、また生贄を供えて太鼓を打ち鳴らすなど、仰々しい儀式をします。ですが、月食のときも「夫人擊鏡,傅人擊杖,庶人之妻楔搔。」と生贄はしないものの、様々なものを打ち鳴らして大騒ぎすることがわかります。このあたりはローマ人が月食の時に青銅器を打ち鳴らし、松明を掲げて月の光を取り戻そうとしたというのに似ています*17

月食の災異の違い

月食の災異の差は、単なる強弱ではありません。様々な性質が異なるのです。

例えば『礼記』昏義には、

男性の携わる表向きの政治等で不届きなことが起こると日食が、女性の携わる奥向きのことで起きると月食が発生する*18

また『管子』四時によると、

日と月は陽と陰を各々掌る。徳は陽で刑罰は陰なので、徳に問題があると日食が、刑罰に問題があると月食が生じる*19

このほか、前漢に成立した『詩経』の注釈、毛伝には、

月,臣道。日,君道。

これらの違いは、陰陽説で整理できます*20

 陽    陰
 日    月
 男    女
 徳    刑
 君    臣

やがて「日食=月による太陽の侵犯」という認識が広まります*21。すると陰が陽を、臣が君を犯すという、非常に重大な凶兆となりました*22

なぜ月食は軽く見られたか

以上、日月食の序列の成立が『詩経 』や『春秋』に遡ること、また単なる序列ではない、両者の性質の違いについてみてきました。これらを踏まえて、月食の災異の度合いが軽く見られた理由を考えて見たいと思います。

まず、予測可能性についてです。既に見たように、『史記・天官書』の記述は実際と合わぬものでした。『史記』の天官書や暦書の内容は、当時の太初改暦の成果はあまり反映されていないようです。それどころか、漢代以前の古い説に基づく可能性があるといわれています。しかし今問題になるのは、『詩経 』や『春秋』の成立した頃の話です。さすがにこのころには、まだ月食の正しい規則は知られていなかったのではと思います。

では、他に考えられる要因はないのでしょうか。ここで、上で紹介した日月食の性質についての記述をもう一度思い出してみます。すると、これらは「なぜ日食の方が月食よりも重大なのか」の説明にもなっていることに気が付くと思います。文献ではごく一部が戦国期で、多くは漢代以降の史料なのですが、いずれも

  • 太陽は目立つ。よって重要。よってそれが侵される日食は重大。

という単純なロジックが背景にありそうに見えます。こういった素朴なロジックは案外、起源が古いのではないかと思います。

橋本増吉の「常=回数が多い」説については史料が全くないわけですが、常識的に考えて、頻度の認識が規則性の認識に先立つことは、まず間違いないでしょう。これらに加えて、月は太陽と異なって満ち欠けします。普段欠けることのない太陽の食に比べたら、定常的に欠ける月の食はインパクトが低かった。。。という可能性もあると思います。

つまり、月食の予測が可能になる以前に日月食の災異のランク付けは確立していて、その要因の候補は目星がつかないわけではない、ということです。

予測可能性と「十月之交」

最後に「十月之交」の詩の解釈にけじめをつけておきます。読みようによっては、この詩の

日月告凶、不用其行。

彼月而食、則維其常。此日而食、于何不臧。

の部分は、月食の予測可能性と災異の度合いの関係を示しているととれてしまうからです。

ですが、少なくとも『管子』の頃には、軽いとはいえ凶事を告げる現象とされていました。このことを考えると、「日月食ともに凶事を告げ、どちらも不規則だ」と取るのが自然だと思います。つまり、

  • 日月は告凶の時は、通常の運行をしない。先の「月而食」はまだ大した異常ではなかった。しかし、今回の日食のなんと不吉なことか。

こんな感じでしょうか。

だとすると、この詩のこの部分は日月食の序列と予測可能性とを関係づけるものではなく、『史記』で月食を「常」としたのも、「大した災異ではない」とか「頻繁におこる」といった意味だととるのが自然ということになると思います。

なお以上の議論に拘らす、「日月告凶、不用其行。」は不規則性と予兆の関係をコンパクトに表現した名文句だと思います。

補足:日食のこと

冒頭、『新唐書』所引の『略例』の「日食は予測できるから、政治の良し悪しの反映ではない」といった一節引用しました。付け加えて、場所によって皆既日食が部分日食に見えること(視差の影響)も計算できるのだとしています。

この『略例』はどういう書物なのでしょうか。

後漢の賈逵らの論暦(黄道とその重要性の認識)、や劉洪の乾象暦(月の運行のまとまった理論)あたりから、中国の月や太陽、日月食の理論は順調に発展していきましす。その後、暦算は北朝南朝に別れて発展しますが、隋唐期にはこの二つの流れが融合し、密教僧一行の大衍暦に結実します。この画期的な暦については、『新唐書』に背景や基本的な考え方を含めて、詳しく紹介されています。

冒頭、

開元九年,《麟德歷》署日蝕比不效,詔僧一行作新歷。

つまり、「麟德歷でしばしば日食の予報が外れたので一行に新しい暦を作らせた」とあり、日食の予報精度の向上が新暦作成の重要なモチベーションとされています。この頃には日食はある程度予測できるものとされていたわけです。そして一行の死の年に、同輩の天文学者らが編集したのが、

  • 《歷術》七篇、《略例》一篇、《歷議》十篇

です。

上記で紹介した『略例』の一節は、自信に満ち溢れています。しかし、『新唐書』暦志の全体的なトーンは、少し違います。まず、『略例』の引用の直前では、麟德暦による日食の予言が外れて不食になった例をあげて、「計算が外れたのだが、徳が天を動かしたのだ」*23と微妙な言い方です。そして、改暦の後についても、日々の太陽の観測結果は理論計算から少しではあるけれど、不規則にずれることを証言しています。

なお、現代の計算によると、大衍暦の的中率は50%ちょっとだそうです*24。また視差の影響についても、大衍暦は一部の要因しか取り入れていません。これらを考慮すると、『略例』の論調は過激だと思います。

日食予報の的中率は、唐末の宣命暦では70パーセントを超えるようですが*25、それでもまだまだ誤差はあります。冒頭、『朱子語類』に載せられた問いを引用しましたが、朱子の答えは「大まかには計算できるが、合わないところもある。食が起こるのに無いと言ってしまう暦家もいれば、無いのに起こるといってしまう暦家もいる。」*26というものです。

それでも、日食は基本的には予測ができるとており、この事象そのものを異変とした古い時代とはちょっと違っています。異変は計算と観測のずれという、より小さなところに押し込められています。

補足:月而食

もう一度「月而食」の解釈について触れます。すでに述べたように、これは大抵、月食だとされます。古くから定着した解釈ですし、自然でもあるので、私もそのラインに沿って考察をしました。しかし、『漢書』天文志で表明された、月食が「常」というのはおかしい、という違和感は気になります。

もっとも、『詩経』などの経書の言葉は漢の時代には既に難解になっていて、人々が理解に苦しんだ箇所はここだけではないので、気にする必要はないのかもしれません。しかし他の可能性として、例えば「月而食」は月食と欠けた月の両方を含んでいた可能性はないのでしょうか。そして後に月食と狭く解釈された結果、『漢書』天文志の違和感の表明にも繋がった。。。*27

後には月の満ち欠けは、太陽光の照射の角度で説明されるようになります。この認識が浸透してしまった後では、月食新月を一つの範疇に入れることはあり得ません。しかし、『論衡』にはこの(当時、既に通説だった)満ち欠けのメカニズムを否定し、月は自分で光を発して、勝手に欠けるのだとします。もしかしたら、古くから伝わる説かもしれません。この理論のもとでは月食は満ち欠けと同じ範疇の現象で、ただ不規則に起こるだけだという論も不可能ではないのでは。

まあ、以上素人の戯言ですが…

*1:『日本の天文学岩波新書。Shigeru Nakayama, Characteristics of Chinese Astrology, Isis, Vol. 57, No. 4 (Winter, 1966), pp. 442-454

*2:もちろん予測が外れることもあったようで、そういった予測外の月食は五行志に「月蝕非其月」として記載されました(三例記載されています。)

*3:宋書』『隋書』『旧唐書』『新唐書』『宋史』『元史』『明史』

*4:「若皆可以常數求,則無以知政教之休咎。今更設考日蝕或限術,得常則合於數。」

*5:問:「自古以日月之蝕為災異。如今曆家卻自預先算得,是如何?」

*6:このように月食の原理が理解されなかった背景として、プルタルコスは、「月が太陽の光を借りてどのように輝き或いは光を失うか明らかにした人物をアナコサグラスだが、このシシリア遠征の時期にはまだアナクサゴラスの説はあまり広まっていなかった。なぜなら自然学や哲学に対して人々が偏見を持っていたからだ。」と述べています。

*7:大橋由紀夫「中国における日月食予測法の成立過程」https://hdl.handle.net/10086/10621

*8:橋本増吉「詩経春秋の暦法http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/science/scilib.html#kodai

*9:テキストは詩經 : 小雅 : 祈父之什 : 十月之交 - 中國哲學書電子化計劃によっています。武英殿本版『毛詩正義』だそうです。このサイトの他、高亨 注,詩経今注(簡体版)(全2册)-中国古典文学叢書,上海古籍, 2018 及び  刘毓庆; 李蹊, 詩経、中華経典名著全本全注全訳叢書、中華書局、2011 を参考にしました。

*10:「朔月」とする校訂本があり、そちらの方が最近の傾向なのか?とも思いますが、どちらでも結局は月の初日の意味です。

*11:参考にした二つの白話訳はこの解釈でしたが、ctext.orgの英訳は天体の交会の意味でとっています。ここでは前者を採用しました。その理由は、日食が月と太陽の交会だという認識が定着するのは、もう少し後になると思われるからです。

*12:この「月而食」も「日而食」も、かなり広く検索をかけても、全く他の用例がありません。ですが、「日有食之」とあった後に続くのだから、「日而食」は日食でほぼ確定です。それと対になっている「月而食」は『漢書』天文志以来、一貫して月食だとされています。

*13:中華経典名著全本全注全訳叢書(中華書局、2011)の注。私も、ctext.orgの版を使って、「月食(蝕)」「月有食(蝕)之」「月為之食」「月而食」を検索しましたが、いずれもヒットしませんでした。

*14:『毛詩』ではないそうです

*15:詩傳曰:「月食非常也,比之日食猶常也,日食則不臧矣。」謂之小變,可也;謂之正行,非也。

*16:日食者必殺之何?陰侵陽也。鼓用牲於社。社者眾陰之主,以朱絲縈之,鳴鼓攻之,以陽責陰也。故《春秋傳》曰:「日食鼓用牲于社。」所以必用牲者,社,地別神也,尊之,故不敢虛責也。日食,大水則鼓於用牲於社,大旱則雲祭未雨,非苟虛也,助陽責下,求陰之道也。月食救之者,陰失明也,故角尾交日。月食救之者,謂夫人擊鏡,傅人擊杖,庶人之妻楔搔。

*17:プルタルコス『対比列伝』アエミリウス・パウル

*18:是故男教不修,陽事不得,適見於天,日為之食;婦順不修,陰事不得,適見於天,月為之食。

*19:日掌陽,月掌陰,… 陽為德,陰為刑,…, 是故日食,則失德之國惡之。月食,則失刑之國惡之。

*20:上で引用した班固撰『白虎通德論』の「日食者必殺之何?陰侵陽也。」や、少し後の鄭玄の注(鄭箋)に、「日月交會而日食,陰侵陽,臣侵君之象。」とありますから、この時期には確実に陰陽説による整理が入っている。

*21:次の注で引用している鄭箋はそのような認識を前提としていますし、また王充『論衡』説日に「儒者謂「日蝕、月蝕也」。彼見日蝕常於晦朔,晦朔、月與日合,故得蝕之。」「或說:「日食者、月掩之也」などとあります。また『開元占経』に「《五經通義》曰:「日蝕者,月往蔽之;君臣反不以道,故蝕。」」とあります。この『五経通義』は散逸しましたが、見た範囲では、前漢末の劉向の著作とされることが普通のようです。ただ、『旧唐書』経籍上には同名の書物が劉向の著作として載せられているのですが、『漢書』その他にも記載はありません。

*22:後漢の鄭玄の注(鄭箋)に、「日月交會而日食,陰侵陽,臣侵君之象。」

*23:雖算術乖外,不宜如此,然後知德之動天,不俟終日矣。

*24:竹迫忍、大衍暦法による日食計算と進朔の検証、数学史研究、208号、2011

*25:竹迫忍、宣明暦法による日食月食とその検証、数学史研究、212、(2012)

*26:只大約可算,亦自有不合處。有曆家以為當食而不食者,有以為不當食而食者。

*27:今まで省略してきた月の様態の記述があるので、それも一応検討しておきます。「彼月而微、此日而微。」。「彼」は「以前の」「先日の」、「微」は鄭玄の注釈によると、光が弱くなることを言う(「微、謂不明」)ようです。よって、「月而微」は欠けた月でも月食でもどちらでも当てはまります。

中国の月食と宇宙論(3)~金環日食のこと

月食論を通じた、中国の宇宙構造論」というコンセプトでここ二回ほど書いてたのですが、前回、主に利用した『南齊書』天文志上では、『春秋』桓公三年七月の日食記事を引用しています:

《春秋》魯桓三年日蝕,貫中下上竟黑。

これはもしかして金環食ではないか?という可能性を探ってみたいと思います。

日食には、皆既日食、部分食、そして金環食があります。皆既日食になるには、地球からみた月の軌道が、ほぼ太陽の真ん中を通過しないといけません。このコースから逸れると、部分的にしか太陽が隠れない部分食になります。
一方、月が然るべき軌道を通っても、月が地球から遠ざかりすぎると見かけの大きさが小さくなり、太陽を覆いきれなくなります。これが金環食です。

ギリシャ天文学での金環食

金環食は、地球と日月の間の距離の変動の証拠となります。そこで、古代ギリシャ系の天文学では宇宙構造論と結びついて関心がもたれました*1

例えば、古代末期のシンプリキオスのアリストテレス『天について』への注釈では、皆既食と金環食の存在から、日月までの距離は一定ではない結論しています。これを論拠の一つとして、彼はアリストテレスの同心球体説よりも、天文学者たちが好んで用いた周転円の理論の方が、現象によくあうとしています。

ただ、周天円を用いた天文学者が軒並み金環食を肯定したわけではありません。例えばプトレマイオスなどは、大きな例外です。(なお、ヒッパルコスは肯定派。)

また、学問的な文書ではありませんが、紀元前190年ごろの偽エウドクソスによるパピルス文書には、これらとは全く別の見解が述べられています。なんと、皆既日食はあり得ず全て金環食だというのです。

では金環食は観測できたのでしょうか。
まず、偽エウドクソスの文書は、文書の性質上、どのような観測に基づいたのか全くわかりません。皆既食の時に見えるコロナをこのように表現している可能性もあります。シンプリキオスは哲学者で天文学者のソシゲネスを引用しているのですが、こちらも観測に基づくのか伝聞に基づくのか、今ひとつ定かではありません*2*3

残念なことに、誰の目にも確かな金環食の記録は、古代には無いのです。金環食の観測は裸眼では困難で、曇りや夕刻などで太陽光が弱まっていなければ難しかったと言われています*4

10世紀のアラビアでは再び同心球体説を主張するものが現れ、再び金環食に関心が向けられます。そこで大天文学者ビールーニーは、イランのAbu al-Abbas Iranshahriという人物の金環食の観測報告に着目し、そしてインド系の天文学の理論では金環食が可能になることを指摘しています。

ビールーニーの示唆を受けてインド系の理論のパラメーターを観測から定めて金環食を予測し、観測によって確かめたのは、14世紀初頭のWabkanawiです。彼の予測や観測は現代の理論と整合的で、疑う理由はあまりないと思います。ただ彼の仕事がどのくらい影響力があったのか、私には不明です。

つまり、金環食は日月までの距離の情報を与えてくれるので、宇宙論上も重要な現象だったのですが、確認は中々大変だったのです。

何を問題にしたいのか

さて、本題の『南齊書』への『春秋』の引用なのですが、今普通に見れる『春秋』の校訂版では、

秋,七月,壬辰朔,日有食之,既。

すなわちこの日食は皆既食だったとしています*5。つまり、メジャーな校訂版に取り込まれてていない異端のテキストなのですが、『南齊書』の時代を知る史料としては、十分有用だと思います。

では、この時代に金環食が話題に上ることは、現実的にあり得たのでしょうか?テキストに入る前に、基本的な前提条件を確認したいと思います。

観測は可能??

まず、この時代の中国で、金環食の観測はできたのでしょうか?先にも述べたとおり、古代ギリシャではできたかどうかよくわからないので、中国でも難しかったに相違ないと思います。ただ、肯定的な要素もないわけではないです。

第一に中国はガリレオ以前にも太陽の黒点を盛んに観測していて、『晋書』天文志にもずいぶんと記事があります。今残っているものだけでも、太陽の活動の長期的な変化を論ずるデータを与える程度には、観測が残っています。観測の方法は今となってはわからないのですが、黒点の観測ができたなら、金環食の観測も直ちには否定できないと思います。そもそも、気象条件などによっては肉眼でも観測できることは、すでに述べた通りです。

では、カメラ・オブスクラ(ピンホールカメラ)のような観測手段は当時、利用可能だったでしょうか?これも直接的な史料がないのですが、肯定的な材料はあります。

まず、戦国時代の『墨子』には、世界でも圧倒的に最古のカメラ·オブスクラの記述があります。そのあと長い間記述が無いのですが、北宋の沈括『夢渓筆談』にはかなり詳しい記述があって、飛ぶ鳥の像にも言及があります。そして、像が逆さになることについて、凹面鏡と統一的に説明していますが、ここで「算家謂之格術」、つまり数学系の学問をしている人には馴染みのことで、格術と名前まで付いている。おそらく、記録の無かった時代においても「算家」はこの機器に馴染みがあったのでしょう。

なお、時代は後になりますが、元の時代には金環食が観測されています:

(世宗中統)二十九年壬辰正月甲午朔日有食之、有物漸侵入日中不能既日體如金環左右有珥上抱氣(『元史』天文志)*6

これもどうやって観測したかは記述がないのですが、ピンホールはグノモン(地面に垂直に建てた棒)の影の精確な計測のだめに活用されています。よって、同じ機構を用いた可能性は十分あります。

どうやらこのピンホールは自慢の機構らしく、誇らしげに暦議で紹介されていますが、似たものは以前からあった可能性があると思います。なぜなら、中山茂曰く、数尺程度のグノモンでも、なんの工夫もなく影を測れば相当な誤差が生じるようなのです。確かに、太陽の視直径は0.5度ありますから、反影の大きさは数センチになってしまうでしょう。ところが、唐の時代の僧一行のグノモンによる観測はなかなか正確です。もしかしたら、ピンホールは既に以前から使用されていたかもしれません。

月食の推算方法との関係

観測手段の有無と同時に、当時の宇宙論金環食を許容したか?も問題です。つまり、太陽や月と大地との距離が変化することを認めねばなりません。もしもここが否定されていたら、議論の俎上に昇ることはないでしょう。

困ったことに、南北朝から徐々に形成される中国流の日月食の理論では、太陽、月、暗虚(月食のときに月を隠す影)の見かけの大きさは不変とされます。このような考え方の下では、金環食などは問題外のはずです。

ただ二点、逃げ道があります。

まず、このような考え方が定着した時期によっては、『南齊書』の解釈には関係しない可能性があります。次に中国の天文学の理論では、幾何的なモデルの役割がやや曖昧なのです。例えば、上の前提は授時暦でも保持されているのですが、既に述べたように元の時代には金環食が観測されています。

『南齊書』の記事

以上の前提条件を頭の片隅において、ここからは記事そのものを読んでみます。まず、先にも引用した

《春秋》魯桓三年日蝕,貫中下上竟黑。

という、やや文意の取りにくい引用文に続いて、

疑者以為日月正等,月何得小而見日中?鄭玄云:「月正掩日,日光從四邊出,故言從中起也。」

つまり、

「日月の大きさはぴったり同じであるのに、なぜ月が小さく太陽の真ん中に見いだされるのか」と疑問を持ったものがいた。それに対して鄭玄は「月が太陽を丁度ぴったり覆うので、日光が四辺から漏れ出てくるのだ。ゆえに「日食が真ん中から起きる」という。」と答えた。

と続きます。つまり、「貫中下上竟黑」は太陽の真ん中が隠れている状況だと解釈されているように見えます。これは、やはり金環食を話題にしているのでは?

しかし一歩引いて考えると、「日光從四邊出」は単に皆既日食の時のコロナの光では?という可能性もあります。もう少し文献を探ってみたくなるところです。

なお、この鄭玄の言葉は出所がわからず、よってこに短い文言の本来のコンテキストは不明です*7。ですが、ここではあくまで『南齊書』の著者の解釈が問題なので、それはあまり関係ありません。

『春秋左傳正義』

そこで比較的近い時代に書かれた、『春秋左傳』への注釈、つまり『春秋左傳正義』を見てみました。これは『春秋左傳』への注釈(西晋の杜預の『春秋経伝集解』)や、その注釈へのさらなる注釈、いわゆる「疏」(南北朝末期〜隋の初めの劉炫『春秋述義』、沈文阿『春秋経伝義略』)を、唐の初めにまとめなおして整理したものです。

現存の『春秋左傳』の対応する記事は、すでに述べたように『南齊書』所引のものとは随分違います。ところが、かなり参考になることが書いてあるのです。

まず、「注」に

日光輪存而中食者,相奄密,故日光溢出。皆既者,正相當,而相奄間疏也。

とあり、この部分に「疏」では、

日月之體,大小正同。相掩密者,二體相近,正映其形,故光得溢出而中食也。相掩疏者,二體相遠,月近而日遠,自人望之,則月之所映者廣,故日光不復能見而日食既也。

前者だけだと短すぎてよくわからないけれども、こうやって並べて見ると、比較的意味は取りやすいと思います。大意としては、

日月は同じ大きさ。日月の間の距離が近いと周りから光が漏れる。しかし月が近く太陽が離れたところにあると、光が漏れなくて皆既日食

つまり、太陽の距離によっては、ギリギリ覆うのが精一杯で光が漏れる場合と、余裕を持って覆って皆既食になる場合があることが説明されています。前者の状況は、まさに金環食が観測される状況です。

ただし注釈者たちは、この二つの可能性の両方を現実だと思っていたのか? 前者のケースは、単に説明のための仮想的な状況設定かもしれません*8

しかし、ここで改めて両者を並べてみると、かなり似ていると思うのです:

鄭玄云:「月正掩日,日光從四邊出,故言從中起也。」

相掩密者,二體相近,正映其形,故光得溢出而中食也。

そうして、全てを一貫して理解するには、やはり金環食を論じていると思うのがスッキリするのでは。。。?

感想のようなもの

素人の調べものなので当然なのですが、まあ、あまりはっきりとしたことは分かりませんでした。

ただこの件がどうだったとしても、『春秋左傳正義』の記述は非常に興味深いと思います。それは、日月の空間的な配置、特に奥行き方向の拡がりを考慮して議論が組み立てられているからです。これは、ギリシャ系の天文学では当たり前のことです。しかし中国の天文学は算術的で、幾何的な描像は弱いです。天球上の二次元の幾何はともかく、三次元的な描像の利用には消極的です。例えば北宋の沈括『夢渓筆談』では、天体同士がぶつからない理由を距離の違いで説明するのではなく、天体は気であって「形」はあるが「質」はない、とするのです*9

『春秋左傳正義』や『毛詩正義』の「疏」の部分は劉焯*10や劉炫といった、暦算に詳しい人物の義疏がベースになっており、天文学的な内容が充実しています。日月食についても詳しくかかれており、また機会があればメモを残したいと思います。

*1:Mozaffari, S.M. (2015). Annular Eclipses and Considerations About Solar and Lunar Angular Diameters in Medieval Astronomy. In: Orchiston, W., Green, D., Strom, R. (eds) New Insights From Recent Studies in Historical Astronomy: Following in the Footsteps of F. Richard Stephenson. Astrophysics and Space Science Proceedings, vol 43. Springer, Cham. https://doi.org/10.1007/978-3-319-07614-0_9

*2:同じく(周天円説の根拠として)ソシゲネスの語る金星の明るさの変化などは、現実には生じない現象です。

*3:下記の文献のpp.89-90. Bowen, A. C. (2008). Simplicius’ commentary on Aristotle, De Caelo 2.10–12: An annotated translation (Part 2). SCIAMVS, 9, 25–131. https://www.sciamvs.org/files/SCIAMVS_09_025-131_Bowen.pdf

*4:金環食そのものはともかくとして、太陽や月の視直径はディオプトラ(dioptra)という機器で(太陽の場合は朝夕や曇りの時を選んで)観測されています。そして月の視直径についてはかなり変動することが確認されています。一方で、太陽の視直径は一定だとする見解が、プトレマイオスやプロクロスによって主張されています。どちらも太陽までの距離の変動は認めていますから、現在の視覚の理論からするとあり得ないのですが、古代の視覚論のどれかでは可能なのかもしれません。もっともプトレマイオスの場合は、ある種の近似として言っているのかもしれませんが

*5:『春秋左傳』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』の注疏にはいずれも「既,盡也」、さらに『春秋左傳正義』では「食既者,謂日光盡也 」とあります。律暦志などでの用法でも、既と言えば皆既食。

*6:該当する金環食は現代の理論計算でも確かめられています

*7:鄭玄には『駮五経異義』という散逸した著作があります。清に入ってこの断片集が出ており、『南齊書』の上記の部分が取り入れられているのですが、『南齊書』には特に出所が書かれていないことが注記されています。

*8:ところで「注」の上の引用文の直前には「食有上下者,行有高下」と書いてあります。「疏」では上下を南北の意味にとって、月と太陽の軌道がどちらが南かで欠け方が違うのだという説明をしています。しかし、もう一つの解釈としては、大地から見ての高度の可能性は無いのでしょうか?勝手な思いつきなのですが、そうだとすると、月が完全に太陽を隠すケースと周囲から漏れるケース、両方が実在する可能性として挙げられていることになります。

*9:日、月,氣也,有形而無質,故相直而無礙。

*10:隋。南朝北朝両方の天文学の流れを取り入れた、画期的な皇極暦の撰者。

中国の月食と宇宙論(2) 『南齊書』天文志

gejikeiji.hatenablog.com
前回から随分間が空いてしまいました。この間、関連するいろんなものを読んでかなり考えも変わってきてしまいました。すると前回との接続が難しくなり、ズルズルと間が空いてしまったのでした。でも放置するのももったいないので、とりあえず続編を書きます。上のような事情から、なるべく前回と独立に読めるよう、重複を憚らずに書いてみたいと思います。

月食の理論と宇宙構造論

このシリーズでは中国の月食の理論がお題目です。不覚ながら、調べを進めるまで気がつかなかったのですが、日月食の理論、特に月食の理論は宇宙構造論に非常に強く依存しているのです。

アリストテレス以来の「地球が月を隠すと月食」という説は,

  1. 大地が宇宙に浮かんでいる
  2. 月は太陽の光を受けて光る
  3. 大地の大きさは、宇宙全体よりかなり小さい
  4. 太陽までの距離に比べても、すごく小さい
  5. 地球は球形

といった前提が共有されないと成り立ちません。

月食を大地の影で説明する大前提として、よほど特殊な配置出ない限り、地球が太陽光を遮ってはいけません。地球を挟んで月と太陽が相対しても、大抵の状況では満月になるのです。このためには、大地は小さく、太陽は遠く、宇宙は大きい必要があります。また、アリストテレスらは月食の影が丸いことを地球球体説の証拠としています。逆にいうと、大地が球形でないとこの月食の説明は苦しいです。

漢代以降の中国、特に暦家の間で標準的だった「渾天説」においては、1-3は了解されていましたが、4と5の仮定は受け入れられませんでした。

まず、大地は完全な平面ではないものの、球とは程遠い形状でした。例えば朱子などは、大地の形状を中華饅頭に喩えて真ん中の盛り上がりを崑崙としています*1。宇宙が大地に較べて非常に広大なことは認識されていましたが、それでもギリシャで地球の大きさをほぼ無限小としたほどではありません。それから、太陽はかなり大地に近いとされていました。ゆえに、月に太陽の光が届くことの説明にも工夫が必要でした。朱子朱子語類』の説明は光の回り込みのようなイメージだと思うのですが、明の朱載堉『律暦融通』巻四・交會では磁石と鉄のアナロジーを用いています*2

暗虚の理論

以上のことから、中国では遮蔽説はかなり部が悪かったのです。そこで出てきたのが「暗虚」あるいは「闇虚」の理論です。

「暗虚」という言葉は後漢の張衡『霊憲』の

當日之衝,光常不合者,蔽於地也。是謂暗虛。在星星微、月過則食。

が最初のようです*3。これは「地に蔽われて光が届かないことを暗虚という」とも読め、張衡の説はアリストテレス的だったかもしれません。

ところが、南北朝時代を跨いだ後に成立した『隋書』天文志には同じ文が変形されて引用されています。

張衡云、「對日之衝、其大如日、日光不照、謂之闇盧、闇虚逢月則食月、値星則星亡。」

「地に蔽われる」という部分が取り除かれ、「暗虚」という言葉が何を指すかはっきりしません。そして同じく『隋書』の律暦志では、劉焯の難解な暗虚論が引用されています。劉焯は、南朝北朝両方の暦学の成果を総合して、画期的な皇極暦を作った暦家です。

月食以月行虛道,暗氣所沖,日有暗氣,天有虛道,正黃道常與日對,如鏡居下,魄耀見陰,名曰暗虛,奄月則食,故稱「當月月食,當星星亡。」雖夜半之辰,子午相對,正隔於地,虛道即虧。

なかなか難解ですが、月食の原因は太陽の持つ暗気で、月が虚道に入って太陽と正面から相対する時に、この暗気が月を掩うらしいです。

オリジナルの張衡の説が遮蔽説だったことは断言はできないのですが、かなり有力な解釈です。いずれにせよ、遮蔽説は当時の宇宙構造論や自然学と相性が良く無さそうです。結局のところ、隋唐の完成期に残った理論は、「日有暗気、天有虚道」の暗虚説でした。

『南齊書』天文志

後漢から南北朝時代にかけて、日食や月食について一体どのような議論があったのでしょうか?『晋書』天文志は宇宙論論争が詳述されているのですが、残念ながらこの件についての議論はありませんでした。また、C. Cullenの著作などで詳しく紹介された『後漢書』律暦志は、月や太陽の運行についての議論を記していますが、食の仕組みには踏み込んでいません。『宋書』の律暦志や天文志にも特に記述はなく、完全に諦めモードに入って放置しておりました。

ところが最近、ひょんなことから『南齊書』天文志を見たところ、かなり詳しい記述があったのです。こんな短命王朝の短い史書、きっと天文関係なんか適当にお茶を濁しているだろうとタカを括っていたのですが…以前取り上げたように、『南齊書』は日食の記録が天文志に集約される初めでもあり、また編纂の方針が揺れに揺れたことが卷五十二列傳第三十三檀超伝から読み取れます。
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暦家でない人々の参加

『南齊書』天文志上では、「史臣曰:日月代照,實重天行。上交下蝕,同度相掩。」あたりから、後漢以来の日食と月食に関する議論を辿っています。

議論に参加しているのは、専門の暦家だけではありません。黄香(後漢の政治家・文人。二十四孝の一人)、王逸(後漢、『楚辞』の注釈)、そして経学者の鄭玄といった人々の名前が上がり、また匿名で「先儒」「説者」の議論が紹介されています。同様のことは『晋書』天文志の宇宙論論争や『後漢書』律暦志の論暦についても言えます*4。天体の運行の問題が、当時は広い関心をよんでいたことがわかります。

日食は月食と共に議論された

『南齊書』天文志上では、まず日食の進行、すなわち何処からかけ始めてどこから回復し始めるかといった経過を、詳しく説明します。太陽と交点の位置関係に応じて分類し、具体的で細かいです。

これには二つ目的があります。第一に、古来からの「日有五蝕」の説、つまり日食は東西南北、そして中央と五通りの起点があるとの説に反駁するためです。東や真ん中から起こることなどあり得ない、というわけです。

第二に、王逸の以下の議論を封じるためだと思います。

月若掩日,當蝕日西,月行既疾,須臾應過西崖既,復次食東崖。今察日蝕,西崖缺而光已復,過東崖而獨不掩。

議論の流れだけを抜き出すと、「もしも月が太陽を覆うのであればxxxxとなるだろう。一方、日食を観察すると、yyyyとなっている。」つまり、王逸は遮蔽説に反駁するにあたって、日食の進行する様態を論拠にしているのです。しかし、この説明(yyyy)が現実とは食い違っていることは、既に詳しく記述済みの日食の様態から明らかなわけで、

逸之此意,實為巨疑

つまり「彼の考えは実に大きな疑いが向けられた」の一言で一刀両断です。

この後、議論は月食に移ります。

王充『論衡』説日篇と『南齊書』

月食の議論に戻る前に、日食のことをもう少しだけ続けます。

この時代、独特の日食論を掲げた人物としては、後漢の独創的な思想家・王充がいます。(なお、彼も暦家ではありません。) 彼の『論衡』説日篇の日月食に関する部分を読んだところ、『南齊書』をよりよく理解できたと感じました。

例えば、先ほどの王逸のものと語句までそっくりな議論が出ています*5。それから、王充は日食と月食の議論を次のように結びつけます。

日蝕、謂月蝕之,月誰蝕之者?無蝕月也,月自損也。以月論日,亦如日蝕,光自損也。

「日食は月が日を蝕するのだtいうが、では何が月を蝕して月食を起こすのだろう?月を蝕するものは何もない、月は自ら損なわれるのだ。このことから類推すると、日食もまた自ら光を損なうのだ」
見事なレトリックです。まず「月が自ら光を失って月食が起きる」という独特の月食論を立てて、類似した現象である日食もまた同様だとするのです。

一方、『南齊書』には「先儒」の説として、類似の月食論が紹介されています。

月以望蝕,去日極遠,誰蝕月乎?

「月は満月の時に蝕がおきる。この時は太陽は月から遠く、何も月を蝕するものがないではないか?」おそらく、「先儒」は王充と同じく月が自ら蝕するのだと考えていたのでしょう。

最初、私は「太陽と遠いから、蝕するものがない」という論を飲み込めませんでした。太陽は光源ですから、遠くにある方が月食の発生にはむしろ有利な気がしてしまったのです。しかし、中国の日月食の理論を「月と太陽の相互作用」だと思うと、飲み込みやすいことに気がつきました。

陰陽と日月の相互作用

『南齊書』に限らず、日食と月食はしばしば続けて論じられました。見た目にも似た現象ですから、当然かもしれません。アリストテレスの説も、光の遮蔽という共通項で両者を結びつけた結果と言えると思います。ただ中国の場合、両者の関連付け方が今とは違いました。

中国では月と太陽を各々、陰と陽に結びつけていました。すると日食は「陰が陽に勝つ」と特徴づけられます。故に『宋史』天文志一に

則日食,是為陰勝陽,其變重,自古聖人畏之。

とああるように、とても深刻な異変とされました。王充も遮蔽説への反論の一つとして、「陰が陽を圧倒するなどという、おかしなことが起こるはずがない」という論理を持ち出しているくらいです。

とにかく陰が陽を圧するのが日食ならば、月食はその逆ということになります。『宋史』の先に引用した箇所の少し後では、月食

則月為之食,是為陽勝陰,其變輕。

と説明しています。この「陽勝陰」が暗虚の理論の重要な柱です*6

『南齊書』の「先儒」の議論はこういった議論への反論で、遠くにある太陽が月と相互作用する筈がない、という論理だったのだと思います。

一方暗虚論では、「月と太陽が真正面から向かいあうこと」の必要性を執拗に強調します。満月の時は単に黄経で見て正反対なだけで、本当には向かい合っていない。黄緯がずれていますから。よって、月と太陽が軌道の交点に入る必要があります。離れていても相互作用するには、それ相応の条件が必要、ということなのでしょう。

『南齊書』と『隋書』の暗虚論

上記の「先儒」の問いへの答えとして、「説者」は太陽から大地を隔てた反対側にあっても、その月に及び得るとします。なぜなら、まず大地は宇宙に比べたら小さい*7。さらに、

日有暗氣,天有虛道,常與日衡相對。月行在虛道中,則為氣所弇,故月為蝕也。雖時加夜半,日月當子午,正隔於地,猶為暗氣所蝕,以天體大而地形小故也。暗虛之氣,如以鏡在日下,其光耀魄,乃見於陰中,常與日衡相對,故當星星亡,當月月蝕。

この部分は上に引用した『隋書』律暦志下に引用される劉焯の論と、用いる語句すらも似ています。
例えば『隋書』の暗虚を鏡に喩えた箇所

如鏡居下,魄耀見陰,名曰暗虛、奄月則食,故稱「當月月食,當星星亡。」

に対応して『南齊書』では

暗虛之氣,如以鏡在日下,其光耀魄,乃見於陰中,常與日衡相對、故當星星亡,當月月蝕。

とあります。両者の対応関係は読解の手がかりになりそうです。

前者では、「如(…のようだ)」は「鏡居下,魄耀見陰」にかかっています。よって、後者ではそれに対応する「以鏡在日下,其光耀魄,乃見於陰中」にかかります。つまり、

太陽の下で鏡で光が「魄」を照らし、「見於陰中」であるのと同じように、暗虚は通常、太陽の真向かいにある空間(日衝)*8に相対し、ゆえに月に星に当たれば星が見えなくなり、月に当たれば月食になる。

ここで「魄」は何であるか。『二十四史全訳』(漢語大詞典)では「人魂魄」としています。すると「輝魄」は、知覚作用への働きかけということになると思います。一方、『隋書』天文志中の、張衡の説を引用した件の数行前には

月者陰之精也。…日光照之,則見其明。日光所不照,則謂之魄。

とありますし、天体、特に月に関連して用いるときは、『康熙字典』が『尚書』の疏をひいて

魄者,形也。謂月之輪廓無光之處名魄也。

と説明するような意味があります*9。つまり、「輝魄」は暗いところを照らすことだとも解釈できるかもしれません。

どちらであっても、「見於陰中」の主語、すなわち陰の中に現れるのものは、光あるいは光で照らされたところでしょう。「鏡で太陽光を暗いところに照りつける」のと同じように、暗虚は太陽の前の空間に相対していて、月に当たれば月食を生じるのです。

『隋書』所引の劉焯の論は簡潔すぎて分かりづらかったのですが、同様に読んでよいと思います。

*1:大抵地之形如饅頭,其撚尖處則崑崙也。『朱子語類』禮三・周禮・地官

*2:日沒地中,月在天 上,猶能受其光者,譬如磁石隔物,猶能引針,二氣潛 通,自然相感,非地所能隔也。

*3:張衡『霊憲』は散逸しましたが、劉昭(南朝梁)による『後漢書』注にかなりの分量が引用されています。

*4:特に後漢書の議論は太陽の軌道面の傾きや月の運行の不等という、非常に数理的な話題なのですが、賈逵のような経学者が議論をリードしているのです

*5:「假令日在東,月在西,月之行疾,東及日,掩日崖,須臾過日而東,西崖初掩之處光當復,東崖未掩者當復食。今察日之食,西崖光缺;其復也,西崖光復,過掩東崖復西崖,謂之合襲相掩障,如何?」 王逸は王充の誤記ではないか?と疑ってしまうほど、そっくりです(そんな説、見たことないですけど…)

*6:上の引用の直前と直後に「月之行在望與日對沖,月入於闇虛之內。」「所謂闇虛,蓋日火外明,其對必有闇氣,大小與日體同。此日月交會薄食之大略也。」とあります。

*7:以天體大而地形小故也。

*8:この「日衝」の解釈は前原あやの氏の『霊憲』における「日之衝」の解釈を参考にしています。https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I024436691-00?lang=en

*9:張衡『霊憲』には「月光生於日之所照,魄生於日之所蔽」(月光は太陽が照らしたところに生じ、魄は覆い隠されたところに生ずる)とあって、これはこの字義で解釈できると思います。ただし前原あやの先生は、月の暗い部分への地球の照り返しのことだとしていますが、月の光っていない部分だという点は同じです。https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I024436691-00?lang=en