日本で初めて作られた暦は、江戸時代も中頃、17世紀後半に渋川春海が編んだ、貞享暦だとされる。この改暦は数年前、映画にもなった。参考にしたのは元の授時暦と言われるものの、実は状況はもうちょっと込み入っている。
どういうことかというと、授時暦の系統の暦が、すでに東アジアに二つ生まれていたのである。一つは明の正式な暦である大統暦。もう一つは朝鮮の七政算内篇で、李朝の絶頂期の世宗のころに編まれた。さらに、授時暦もすぐに改訂版が出ている。
渋川春海や、独立に改暦を目指していた関孝和は、こららのうちのどれを参考にしたのだろう?
朝鮮ルートが無視できない理由は、当時、朝鮮通信使を通じて、相当の知識人同士のやりとりがあったからである。儒学はずいぶんと影響を受けているようであり、また、数学や天文学も、方向性においては大いに影響を受けている。
ことに数学に関しては顕著で、ソロバンに基づく算術に移行して天元術を忘れた中国に対して、朝鮮は後者を保持し続ける。日本の和算の飛躍も、天元術なしには考えられない。
また、当時の中国の天文学は、反動もあったとはいえ、ヨーロッパ天文学にシフトしつつあった。それに対して朝鮮は、七政算に見られるように、明の初期の形を引き継いでいる。貞享暦の時の流れは、むしろ朝鮮にちかい。春海の師、岡野井玄貞が通信使として来日した螺山から暦算らしきものを教授された、という記述はちらほら見た。
この授時暦の伝来ルートの問題に加えて、回回暦の問題もある。大元ウルスの時代にはイスラム天文台も併設され、独自に暦を作っていた。これを明の太祖が翻訳させたものが回回暦で、朝鮮に渡って七政算外篇となる。これらは日本には来なかったかは、気になるだろう。
こういう疑問を持ったまま、特に調べるでもなく放ってあった。
先日、何気なく竹迫忍氏のウエッブページ「古天文の部屋」を見た。10年以上ぶりかもしれない。昔と打って変わって充実してて、びっくりした。しかも、懸案のかなりがこれで解決してしまった。
まず、朝鮮ルートに関しては、少なくとも直接的には気にしなくて良さそうだ。晴海は授時暦の新版を、関孝和は旧版を参考にしているようだ。ついでに、七政算内篇は大統暦の時差を補正したもののようだ。
ただし、儒学などを含めた全体的な状況を考えるに、元~明初のころの暦や算術を重んじる風潮は、朝鮮からの影響と見てよいのではないかと思う。この件でも、占術に関しては伝授を受けているのだから。
では、なぜ七政算を用いなかったのか。そもそも、朝鮮が明代の学問にこだわったのは、ある種の中華崇拝である。それを学んだ日本人が、直接中国から学ぶべしと考えても不自然ではないと思う。
次に、回回暦の問題。これについては、竹迫氏は伝来を肯定的に考えていて、春海は授時暦に回回暦(イスラム暦)を統合していたとしている。
なお、上記で回回暦由来とされる遠地点の移動に関しては、(上記にも断られているように)イエズス会士からの聞き取りに基づく『天経或問』を見たとする説が以前からある。
回回暦の背景にある理論には、三角関数など、春海の時代の日本人には未知の数学が使われている。しかも、水星や月の理論はたいをう込み入っている。果たしてどの程度理解できたのだろうか。疑問に思い、読めないことを承知で回回暦を眺めてみた。
見渡すと、やたらと「立成」という言葉が多い。これは数表という意味のようだ。つまり、理論の詳細を回避して、数表への参照を多用して計算を進めるのである。水星の理論についても、他の惑星の理論との違いを説明した箇所はない。これなら、17世紀の日本人にも理解されたに違いない。