レギオモンタヌスと山本義隆『世界の見方の転換』

山本義隆氏は、カリスマ的な物理教育者で、また科学史の著作も多い。『熱学思想の史的展開』などは、私も受験勉強の憂さ晴らしで随分と読み込んだ。今となっては、彼の著作は書店で少し眼を通すだけになってしまった。ところが最近、表題の本がネットにもよく取り上げられているのに気が付いた。以前、自分がやり玉にあげたネットの記事にも、本書が盛んに引かれている。先日懐かしさもあって検索したところ、科学史家の先生(諫早氏)もブログで取り上げているようだ。

researchmap.jp

往年の愛読者にとっては残念なことに、相当辛辣なレビューがよせられていた。また他のネット記事やブログでの感想を見る限り、上記の諫早氏は、他の人とひどく異なる読み方をしているのでもなさそうだ。私は本書をよんでいない。したがって、本書の内容については何もいえない。ただ、多くの人が読んだ結果、少なからぬ人に生じたと思われる、科学史についてありがちな誤解について語りたいと思う。

何が問題なのか

さて、上記に引用した諫早氏のブログでは何が問題視されているかというと、まず、古代のプトレマイオスの後、途中を抜かしてコペルニクスの手前のレギオモンタヌスあたりまで話が飛ぶらしい。コペルニクスまで飛ばなかったことが、せめてもの救いかもしれない。また、このこととおそらくは連動して、レギオモンタヌスの成したことに関しても、若干の過大評価があるという。

中世の天文学のテーマは大まかに言えば、

1.数理的な手法の発展

2.観測との照合、理論及び機器の進歩

3.現象論を超えた、物理的な理論の模索

の三点である。ただし、最初の二つと最後のテーマはあまり噛み合わず、並行して探究された。この、「1、2及び3の間が埋まらなかった」という点に関しては、レギオモンタヌスも同様なのだが、この点を曖昧になっているという。

つまり、レギオモンタヌスと師のポイエルバッハはあたかも、「プトレマイオス以降では初めてこれらの問題を初めて本格的に取り組み、かつ有機的に関連させて扱った人物」と印象づけられる作りになっているようだ。

山本氏が実際、どういう記述をしているかはわからない。しかし、他の感想をあさると、こういった印象をもった読者は、一定数居そうな気配である。

レギオモンタヌスの位置付け

実際のところをいうと、レギオモンタヌスは、11-12世紀スペイン(当時はアラビア語圏)の天文学者たちの影響をかなり受けている。彼の『アルマゲスト』に対する理解も批判も、中世アラビア語圏の天文学者に導かれて成立しているといっていい。とくに、ジャービル・イブン・アフラフとアル・ビトゥルージの影響は直接的で、かつ大きい。彼が偉大な天文学者であることは確かではあるけれども、その業績は、基本的にギリシャ・インド・アラビアの伝統を受け継ぐ中世天文学の流れに於いてこそ、的確に理解できると思う。

なぜこういったことを気にしないといけないのか。科学革命期を理解したければこの時期に何がなされたかを知ればよく、来歴などどうでも良いではないか。だが、科学革命期の特異性を理解するには、その前の時代や隣接地域との差を見なければならないと思う。

そうはいっても、例えばマクスウエルの物理を理解する上で、イスタンブールやカイロを気にする必要はあまりなさそうだ。そこで、以下ではアラビア語天文学の状況にかなりのスペースを割いて、「比較の必要がある」という話をしたいと思う。

インド・アラビア数学との関係

まず、数理的な改善について。当たり前ではあるが、観測と理論を摺合せるにしても、計算が十分な精度でできなかれば始まらない。よって、天文学の進歩において、一見地味なこの方面の改善が与えた影響は、思いの外大きい。ケプラーの新理論も『ルドルフ表』が提供されて以降、ぐっと認知度が上がる。中世の天文学の進歩においては、インド流の算術と三角法が本質的だった。これらはギリシャ流の手法と合わさって、アラビア流に洗練されて欧州に入る。

レギオモンタヌスもこの流れの恩恵を受けている。特に、彼の三角法の著書の球面三角法の章は、ジャービルの『アルマゲスト修正』からの大量の引用があり、カルダノに剽窃よばわりされるほどであった。

平面三角法に関しても、多くの関係式はまずアラビア語圏で現れたのち、欧州で現れる。もっとも、後で現れたからといって伝搬したとは限らず、欧州に独自性がなかった訳でもない。

また、レギオモンタヌスの主著『アルマゲスト要綱』は、『アルマゲスト』の演繹と帰納が織り交ざる(それはそれで魅力的な)記述を、論理的な展開に沿って再編したものである。数学的な補題は最初に集められ、あとはそれを参照するだけにした。だが、こういった再構成もアラビア語圏でも何度もなされていたことで、前述のジャービルアルマゲスト修正』もその一例である。

Jabir ibn Aflah (1100 - 1160) - Biography - MacTutor History of Mathematics

古代と中世の観測天文学とレギオモンタヌス

次に、観測と理論の摺合せに関していえば、アラビアでの継続的な観測によるパラメータの改善に触れないわけにはいかない。太陽や月のパラメータは、9世紀~10世紀の「黄金時代」の段階で、かなり改善された。この時期あまり進まなかった惑星のパラメータや恒星表も、続く世紀で改善が進むことが、近年の研究でわかってきている。

当時はまだ、統計学どころか確率論もなく、誤差論は全く未発達であった。だが、ビールーニーの『マスウード宝典』などを見ると、常識論的な議論の範疇ではあるが、慎重な検討がデータに対して加えられていたことがわかる。

https://www.researchgate.net/profile/S-Mozaffari

本書に基づいた記事で、アラビア天文学に基づく『アルフォンソ表』の不正確さがやり玉にあげているものをみた。実際のところをいえば、様々な欠陥はあったものの、この天文表の理論は、『アルマゲスト』よりは改善されている点がほとんどである。また、地理的なデータに関していうならば、地中海の東西方向の広がりについてのプトレマイオス『地理学』の有名な過大評価は、かなり修正されている。

いずれにせよ、当時『アルフォンソ表』の完成から100年、そのベースになった『トレド表』からは200年経過している。中世的な基準でも、そろそろ包括的な観測に基づいた、抜本的な改正をすべき時期に来ていた。当時最新の『スルタンの天文表』は言うに及ばす、13世紀や14世紀前半に東方で編纂された天文表に比べても、『アルフォンソ表』ははっきりと劣っていた。例えば東方では11世紀には修正済みの、インド系要素からきた不正確さを未だにひきずっていた。こういった点を踏まえると、『アルフォンソ表』に問題を感じ、修正を試みること自身は、特に中世の伝統からの決別ではなく、むしろその伝統の忠実な履行といえると思う。レギオモンタヌスらの活発な観測活動には、特筆すべき点が多々あるが、それでも中世天文学的な流れで理解できる部分が多い。

各種観測データのうち、古代から中世に関心が集中したのは、日月蝕などの特徴的なイベントと、天体の見かけの方角だった。それ以外のデータ、つまり天体の大きさ、明るさ、太陽面通過、地心視差などは、あまり系統的な追及はなされなかった。これらは、天体までの距離にも関係するし、物理的な宇宙像を検討する際には重要なデータで、実際、度々言及された。だが、その割に系統的な観測をした天文学者は例外的で、理論的な検討も深みに欠けるケースが多かった。

例えば、レギオモンタヌスがビアンキニへの手紙で、金星と火星の見かけの面積(明るさ)の変動に基づいて、プトレマイオス理論を批判したことは、『世界の見方の転換』にも引用があるようだ。だが、レギオモンタヌスの説明は、古代末期以来、何度も言い古されたフレーズの繰り返しである。ただ過去にはプトレマイオス説擁護に用いられていた文言を、否定の材料に読み替えているだけのことだ。深い理論的な考察も、系統的な観測の形跡も見られない。(ある程度の定性的な観察はしていたと思う。)

さらにいえば、彼の批判は的外れであった。彼はこの観察を根拠に、プトレマイオスは惑星までの距離の変動を過大に見積もっているとした。しかし、レギオモンタヌスが非難した「過大な」数値は、現代の実測値にかなり近いのである。(これは以前やや詳しく述べた。なお、軌道要素の長期的な変化は、今の議論では無視できる程度である。)

 

gejikeiji.hatenablog.com

 

物理的な天体の理論を目指して

彼はなぜ、距離の変動を小さく見積もりたがったのか。それは、3番目に挙げた、物理的な天体の理論の探究に関係している。そして、これこそは、スペインのアラビア語圏の影響がもっとも深い点である。

10世紀終わりごろから、スペイン(アンダルシア)は東方とははっきりと異なった学問的な伝統を築きつつあった。とくに天文学宇宙論における独自の動きを、科学史Sabraは「アンダルシアの反乱」と名付けた。

The Andalusian Revolt against Ptolemaic Astronomy: Averroes and al‐Biṭrūjī | ISMI

彼の論文で筆頭に挙げられるのが、12世紀の大哲学者アヴェロエスである。アヴェロエスは、プトレマイオス理論のアリストテレス的な自然学との齟齬を徹底的にあげつらい、単なる現象論に過ぎず、「現在は真の天文学は存在しない」とした。そして同心球体説、つまり地球を中心とした球体に天体が張り付いて等速回転する、エウドクソス=アリストテレスの体系を推奨した。しかし、この理論は現象をよく説明できず、プトレマイオス理論に敗れ去った経緯がある。アヴェロエスもこのことはよく理解しており、修正の必要性は認めたのだが、具体的な方針は示せなかった。

具体的な理論の提案に踏み込むのは、ほぼ同時期のアル・ビトゥルージである。彼の理論は同心球説ではあるけれども、エウドクソス説とはかなり違う。球の運動は等速回転を基本とはするものの、回転軸の端点が規格外の運動をする。直接的には、少し前のザルカーリウの恒星の理論との類似が指摘される。また、天球の運動の原因に関しても、アリストテレスと異なる見解をとっており、アヴェロエスの復古調とはかなり雰囲気が異なる。なお、彼がどの程度エウドクソス理論を知っていたかは、議論が分かれるところである。(そもそも、エウドクソスの理論の詳細についても、今でも専門家間でも論議が分かれている。)

Bitruji

彼らの著作はラテン語で広くよまれて、一時は大きな反響があった。しかし、アル・ビトゥルージの理論は現象論として成功していなかった。彼自ら、プトレマイオスに及ばないことを告白しているのである。ロジャー・ベーコンなどの賛同者もいたが、プトレマイオスを許容する宇宙論を揺るがすことはなかった。それでも彼らの影響は、折に触れて浮上してきた。Henry of Langensteinの同心球体説もその例であり、レギオモンタヌスからコペルニクスにかけての時代にも、また同心球体説があちこちで探求された。

レギオモンタヌスは、アル・ビトゥルージを散々に批判する。しかし、それは同じ路線を進むものとしての批判であって、彼も同じく同心球体説を試みるのである。同心球体説では、天体と地球の間の距離は変化しない。これが、天体までの距離の変動を小さく見積もろうとする先の議論に関係している。

http://www.jstor.org/stable/j.ctt1q1xth3.10

1998JHA....29..157S Page 157

言わずもがなではあるが、同心球体説がプトレマイオス理論に匹敵する現象論を提示するに至ることは、ついになかった。「アンダルシアの反乱」やその欧州への影響に着目した科学史Sabraも、反乱の成果については非常に否定的である。レギオモンタヌスの物理的な天文学への試みは、なるほど野心的ではあったが、他の中世の試みと同様、やはり天文学の他の側面と融合させることは叶わなかった。

世界的な視野から見た位置付け

最後に、レギオモンタヌス『アルマゲスト要綱』が達成した水準についても、一言コメントしておきたい。確かに本書は、随所に新機軸が盛り込まれている。しかし、それらはイスラム圏も含めて見渡した場合、必ずしも最新とはいかなかった。例えば、コペルニクスが地動説形成のために多用した(と推測される)周転円理論と離心円理論の同値性に関しては、眼と鼻の先のイスタンブールの高名な天文学者、クシュチーが数十年先行する。J Ragepなどは、影響関係の可能性を論じているほどである。(M Shankなどは反論しており、もとより十分な証拠のある話ではない。)

この時期、欧州に見逃せない重大な変化があった。だが、隣接するアラビア語圏にも、同じ伝統に属する、同じ程度に高度な天文学があった。両者を比較の上、違いを炙り出さないことには、欧州で起こったことの何が特殊だったのか、よくわからないのではないか。