中国に三角関数はなかった

中世から近世までの数理科学史に興味があると、否応なしに三角法(三角関数)の歴史が一つのジャンルを成していることが眼につきます。解説のたぐいで独立の章や節が割り振られたり、専論の書籍すらあります。ところが、中国には三角関数はついぞ、誕生しませんでした。

こういうと、「以前のブログで、唐の一行のtanの表は世界でも最古だと書いているじゃないか」と言われそうです。
gejikeiji.hatenablog.com
さらに沈括によって発明されて授時暦で用いられた、円弧と矢の間の近似的な関係(弧矢術)が、ポピュラーな読み物の「三角関数の歴史」に含まれているのを見た人もあると思います。これらは、現代にあっては無用の長物かもしれませんが、いずれも美しい数学的な達成で、是非とも味わっていただきたいと思います。

しかし、ブログにも書いた通り、そもそも歴史的に「tan」は三角比の一部ですらなかったんですよね。「分類がどうなっているかは関係ないんじゃないの?」という疑問を持たれるかたもいるでしょう。以下の説明を読むと、なぜ別扱いが必要なのかわかると思います。

自分自身が三角関数の名前と定義を知ったのは、中学生くらいだったと思います。当時、自分は「三角関数」というものを少し誤解していて、任意の角度のsinやcosを計算する方法を教えてくれるものだと思っていました。もしもそんなものが計算できるなら、自分が受験勉強で悩む幾何の難問など、単純な計算で次々と解けてしまうじゃないか、なんと素晴らしい!と思い、高校に入って三角関数を学ぶことを楽しみにしていました。

ところが、実際に三角比や三角関数の授業が始まると、sinやcosの数値の計算方法は、いつまでも出てきません。一応、教科書の後ろには数表がついていましたが、この表をどうやって作ったのかは教えてもらえませんでした。授業で教わるのは30°や45°などのわかりやすい場合だけで、「そんなものは、教わらなくてもわかっている」と不服に思いました。

あまり興は乗らなかったものの、生真面目に一応の勉強はしました。そうやって色々と計算をしてみると、だんだんとこの技法の便利さが分ってきました。たしかに、与えられた角度xのsin(x)やcos(x)はおいそれとは計算できません。しかし、三角関数には様々な公式が成り立ちます。これらを駆使すると、値のわからないままでも計算を進めることができ、問題をより簡単な形に変形できるのです。

ただ、この気付きは、大学数学で習ったテーラー展開で上書きされてしまいました。これを用いると、sinやcosの値がいくらでも高い精度で求まってしまいます。しかも、その計算式は単純で美しいのです。まあ、このときの自分の感情はとても自然だとと思いますし、三角関数の歴史をたどる上でも、三角関数表の作成は重要なトピックです。問題を簡単化できるとはいえ、最終的には値を求めれないことには話になりませんから。

しかし、「値の評価を後回しにして計算を進めることができる」というのは、三角関数の非常に大きな利点です。仮に値を簡単に求められたとしても、cos, sinのままで計算を進めたほうが多くの場合は計算は楽ですし、一般的な性質もわかりやすいです。(解析学的なcosやsinの分析においても、三角関数のこの性質は当然の前提です。)

近代以前には記号的な代数の表記は萌芽的な段階でとどまっていて、代数計算はほぼ言葉でなされてきましたので、現代ほど便利ではありませんが、やはり三角関数この性質は、運用の柔軟性に非常に貢献しました。

ここで、一行のtanの表(罫表)や沈括と授時暦の弧矢弦之法、とくに後者は何を達成したのかを考えてみます(前者は複雑な幾何の問題の解を目的としていませんので)。弧矢弦之法は、球面幾何的な問題、すなわち西方では三角法や球面三角法を用いて処理された問題に適用されていたからです。

「弧矢弦之法」とは、三角関数と逆三角関数の値を近似計算をする手法です。これによって、幾何的な問題を数値の計算の繰り返しに帰着したのです。これは自分が中学生の頃に三角関数に期待したのと同じ機能と運用です。

弧矢弦之法の問題として、三角関数表を用いる方法よりも精度が低いことが挙げられます。たしかに、それは問題といえば問題なのですが、弧矢弦之法は簡単さの割には驚くほど精度は高いです。また、明末の朱載堉や、我が国の和算家たちによって、精度は改善していきました。特に後者は、ついにはテーラー展開と同様の算法にまで行き着きます。(彼らの仕事はいずれも、数学好きであれば、感心せずに読むことは不可能で、いつかまとめて書きたいと思います。)

しかしながら、三角法(三角関数)のメリットは、値の評価を後回しにして計算を進めることができる、柔軟性にあります。この点で、弧矢弦之法やその和算における後継の手法は、残念ながら劣っていました。

なお、一行の罫表は読んで時のごとく、数表の形をとっています(ただ、内容を検討すると区分的な三次関数の張り合わせになっています)。これは、「数表からアルゴリズムの提示へ」という、唐から宋の間の暦算全般の流れの一例になっています。計算の様々な局面で、後者のほうが便利なことは間違いないと思います。あともう少しで、中国にも三角法に似たものが生じたかもしれません。

三角法は、ヒッパルコスの弦の表が起源といわれます。数表を盛んに用いる計算技法は、バビロニア人の得意とするところでしたから、その影響はあるのだと思います。しかし、ギリシャ人の「図形の一般的な性質、すなわち定理」に興味をもつ精神は、三角法にも及びました。プトレマイオスは、すでに「弦の表」の一般的な性質をいくつか見つけて、表の作成に活用しています。

三角法の本格的な展開は、インドに渡ってからのことだと言われています。インドでは、より計算に向いている半弦、すなわちsinが発明されました。また、インドの算術においては、計算方法はアルゴリズムの一般的な記述で提示されます。これは、バビロニアで典型的に見られた数値例による提示方法とは一味、違います。やがて、三角法がアラビアにわたると、算術的な側面と論証数学的な方法論が融合し、より豊かになってラテン語世界に引き渡されます。

そうして、イエズス会の宣教師らによって、初めて中国に三角関数が輸入されるのでした。しかし、『崇禎暦書』の記述はちょっと中途半端でした。十分に理論が消化されるには、中国人学者らによる再構成がかなり大きな役割を果たしています。

『崇禎暦書』は、なぜ革命的だったのか?

今回は、以下のポストの整理です。

中国の近現代史を語るとき、日本と比較して、「固有の文化に固執するあまり、西洋文明の導入に及び腰で後れをとった」という言い方があると思います。そのような視点がどのくらい今でも意味をもっているのか、よくわからないのですが、一つ指摘したいのは、明末から清初の、西からの数理科学の導入は、1000年単位の遅れの、怒涛のキャッチアップだった、ということです。

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中国の近現代史を語るとき、日本と比較して、「固有の文化に固執するあまり、西洋文明の導入に及び腰で後れをとった」という言い方があると思います。そのような視点がどのくらい今でも意味をもっているのか、よくわからないのですが、一つ指摘したいのは、明末から清初の、西からの数理科学の導入は、1000年単位の遅れの、怒涛のキャッチアップだったということです。

これは別に、西洋中心主義の立場から言ってるのではないです。中国は、非常に優れた文明をもっていました。しかし、現代との比較で見た場合、確かに数理科学では欠落しているものが多かったのです。また、上で「西洋」ではなく「西方」といっているのは、バビロニアギリシャ、アラビア、ヨーロッパを、ざっくりと一つの塊として見ているからです。(インドも、ある程度この塊に入れて考えています。)

Cullenなどは、中国天文学史の醍醐味の一つは「遅れて発展したので、西方では起源が古すぎて発見の状況がわからない概念、例えば天球や黄道などの発展史が追える」というポイントを挙げているくらいです。これらは、西方ではバビロニアからギリシャに数理天文学が伝わるころの話ですけれども、中国だと前漢の後半から後漢に展開されます。(専門家外の知的なサークルの論議としては、さらに南北朝時代まで引きずります。)

測量や天文学に有用な数学のうち、幾何学や三角法といった分野は、中国ではほとんど発展しませんでした。だから、黄道を進む太陽の位置を、赤道に射影するという、西方ならばプトレマイオスアルマゲスト』でほぼ道筋がついていた話について、手探りのような算術的な手法が使われています。まず模型を作って計測し、それをなるべく単純な数列で表現しようとする。最終的には、授時暦のときに洗練された算法の手続きが成立するんですけど、やはり精度もですけど、柔軟性が三角法に比べると圧倒的に劣ります。いわんや、メネラオスプトレマイオスに端を発して、中世アラビアで華々しく展開したような、球面三角法(球面幾何)などは、思いもよらない。

ギリシャ系の数学に比べると、中国は算術的な方法論に優れていて、分数の計算なんかも早い段階で組織化されていますし、負の数、連立一次方程式、複仮定法など、『九章算術』はディオファントスとは別の意味で高度です。しかし、インドにも優れた算術の伝統はあって、これが中世にアラビアで合流します。それに、バビロニアにも有名な六十進法の位取り算術がありますし、その伝統はヘレニズム期を通して、中世にも流れ込みます。アル・フワーリズミーの算術書なども、インド式を伝えますけれども、分数を六十進法のバビロニア式になおして処理したりもしています。また、彼の代数はインド流ではなく、(東地中海を含める意味での)在地の流儀だと思います。

総じていうと、幾何学、三角法、算術、天文学、これらに全般にわたって、西方で1000年くらい、あるいはそれ以上にわたって育まれてきた知識の中で、中国に欠けているものは山のようにありました。数学的な視覚論(後の光学)などは、宇宙構造論の議論でも一定の役割があり、科学革命の時には動力学のアイデアの源泉になっていたりもするのですけれども、中国ではこの分野は欠落していたか、あるいは算家の秘伝の如くになっていたか、どちらかだと思います。

‪言うまでもないですが、中国に於いて欠落していたこれらの要素は、朝鮮半島や日本でも欠落していたわけです。それが、明末の逼迫した情勢の中、極めて短期間で百科全書的な『崇禎暦書』に怒涛のようにそれらが紹介されるわけで、これは、東アジア全体にとって、1000年来の大革命といってもいいと思います。

これに対して、江戸時代の後半の日本の蘭学は、欧州の文献を日本人が直接読みこんだことに大きな意義があったと思います。その意義の説明をするとき、中国におけるイエズス会士たちの役割を述べることが屡々あるんですけど、こういう流れだとどうしても中国の学者の主体的な関りを軽んじがちになってしまう傾向があると思います。

明末の改暦プロジェクトの立ち上げと運営における、中国人側の主体的な立ち回りについては、何回かまえのブログで触れました。
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ついで、内容の咀嚼についてコメントしたいと思います。たしかに、『崇禎暦書』の編集や内容について、イエズス会士らは主導的な役割を果たしました。しかし、執筆には10名以上の漢人の学者が関わっており、イエズス会士だけの筆によるものではありません。

また、『崇禎暦書』はあまり整理されているとは言えません。表と暦理の間に矛盾があったり、計算の方法の導出や、それどころか方法の記述が十分でなかったりしました。これが康熙帝の時代、イエズス会士の手を借りずに編纂された『暦象考成』上下編においては、十分に咀嚼し、整理された記述になっています。この咀嚼の過程においては、西洋人の指導よりも、(とくに江南地方の民間の)漢人知識人の独自の考究が大きな役割を果たしています。そして、日本の麻田派の天文学者たちも、『暦象考成』上下編や梅文鼎『暦算全書』を通じて西洋天文学を理解し、その土台の上で蘭書に立ち向かったわけです。

メモ:「刻白爾」は誰だっけ?

今回は、この(我ながら不見識な)ポストについての言い訳です。

今朝方、清の阮元(18世紀半ばから19世紀前半)の『疇人傳』をまとめたサイトを眺めていました。
http://www.mathsgreat.com/CMhist/chouren/chouren.html

主に中国人の天文学者や数学者の伝記なんですけど、中には外国人も入っています。ぼちぼち眺めていたら、コペルニクスが目に止まりました。コペルニクスは『崇禎暦書』や『西洋新法暦書』では「歌白泥」ですけど、もう一人、「泥谷老」もコペルニクスに相当するか?と記されています。フラムスティードやアリストテレスも二人くらい候補がありました。

朦朧とした頭で「刻白爾」もコペルニクスじゃなかったっけ?と思って該当の項目を見ると、こちらはケプラーとのこと。「あれれ、そうだっけ?」と納得がいかず、漢籍リポジトリを検索してみました。

そしたら、『暦象考成後編』や『新法算書』(『西洋新法暦書』を四庫全書に入れるにあたって少し手直ししたもの)がひっかかり、該当するところを見ると、紛れもなくケプラーの事績が語られていました。

しかし諦めがつかずにググったところ、ほぼトップに、司馬江漢『刻白爾天文図解』を紹介したツイートがひっかかり、それには「刻白爾」はコペルニクスだと書いてあります。「そうそう、きっとこれだ!」と思い、早稲田大学リポジトリで上記文献を眺めてみました。

文字を読むのが億劫だったので、図だけを眺めると、惑星の軌道が卵型で書かれています。思うに、これは楕円軌道を「卵型」と紹介されていたのを誤解したんじゃないでしょうか。
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ni05/ni05_02550/ni05_02550_0001/ni05_02550_0001_p0014.jpg


卵型の軌道を紹介している以上、司馬江漢『刻白爾天文図解』のもケプラーなんじゃないか?つまり、「コペルニクスかも→ケプラーコペルニクスかも→やっぱりケプラー」と心が揺れ動いた結果、上記の一連のツイートをしたわけです。ケプラーの事績も含めて、我ながら自慢げにツイートしています。

…しかし、ふと『刻白爾天文図解』に「刻白爾」とは誰かが書いてあるはず、と思い直して最初から読み直したところ…


つまり、「刻白爾」はポーランド人で三百数十年前に地動説を発表した、と。まあ、年代は生まれた年の錯誤だと思うんですけど、これはもう、コペルニクスですね。

しかし、コペルニクスは楕円軌道じゃないし、それに中国から招来された天文学書では「刻白爾」は一貫してケプラーなわけです。どこかで混線したんでしょう。

なお、『西洋新法算書』に「歌白泥」はプトレマイオス(多録某)、ティコ・ブラーエ(第谷)とならんで何度もでてきますが、ガリレオ裁判の影響で、彼の地動説は隠されています。ゆえに、地動説の提唱者として「歌白泥」は認識されず、「刻白爾」にコペルニクスの事績とケプラーの事績が重ねられてしまったのだと思います。

最後に、ツイートでは『崇禎暦書』と書いていたところを、ブログでは『西洋新法暦書』にしています。この書物は『崇禎暦書』を清の初めに再編したものであり、自分が見ているのは『西洋新法暦書』です。両者の関係は同一のものの別版といった関係にあるので、ツイートでは安易に『崇禎暦書』と書いてしまいました。しかし、ケプラーの事績が関係する箇所(太陽の運行の理論)は、『崇禎暦書』の異なった版の間ですら差が大きいのです。ですから、無難に『西洋新法暦書』と書くことにしました。

天から地へ ② 経度と緯度の語源

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前回は、荒川清秀氏の著作*1から、「北極、南極、赤道」のように、地理学用語の訳語が天球における対応物を媒介として成立した例を紹介しました。つまり、

  • 中国では大地を平らな正方形としていたので、球体説を前提とした用語は備わっていなかった。
  • しかし、天球に類似した概念は存在。
  • 西洋においては、地球と天球の対応関係が常に意識されていた。歴史的にも、天球について設定された概念を地球に当てはめる形で、北極(arctic(英語), ἄρκτικος(ギリシャ語)、arcticus(ラテン語))などの言葉が作られた。

このような事情から、地球と天球の両方に対応物がある概念の訳語には、中国の伝統的な天文学用語にルーツを持つものがあったのでした。

今回は、「経度、緯度」もそのような例に含まれるのではないか…という考察をしてみます。これらの語はイエズス会士到着以前に、現在と同様の意味で使われた例があります。(もちろん、天球の経度や緯度です。)ただ、「北極、南極、赤道」の場合と異なって、標準的な天文学用語として定着してはいませんでした。つまり、明末の翻訳者たちがでそれらの先行例を知っていた保証は、全くないのです*2

しかし、先行する例と影響関係がなくとも、共通のルーツをもつ可能性は十分にあります。そこで、本ブログでは中国の天文学における「経、緯」の用法を浅く広く拾ってみたいと思います。特に、中国の天球説は「渾天儀」という観測機器とともに発展してきたことをふまえ、渾天儀に関連する文献を中心に調べてみました。

ただ、本当に天文学用語がルーツなのか?地理学や地図学に該当しそうな用語はないのか?という疑問は自然だと思いますので、その可能性についてもコメントしました。

例えば、ニーダムなどは、『禹跡図』(下部に写真を引用)などに見られる「計里画方」による地図のグリッドと経緯線との類似を示唆し、「座標」を表すために織物とのアナロジーから「経、緯」の語が使われたとします。この見解は基本的な事実の認識に問題があって、あまり支持されていません。しかし、ポピュラーな読み物を中心に、今も影響が残ります。また、中国の地図学の計量的な方法の限界と、今回の問題は少し関係があると思うので、勉強して反論を書いてみました。

もう一つ気になるのは、荒川氏の上記著書での議論です。氏は古典に見られる「東西為緯、南北為経」という表現を引き合いに、大地の方位と「経、緯」の結びつきを述べます。ここまでは標準的な説明なのですが、さらに『晋書』地理志*3の序論にも同様の表現が現れることを指摘しています。この指摘の意図は明示されてないのですが、「「経、緯」という語が地理学的な文脈でよく使われており、それを参考にして「経度、緯度」の語が作られた」と読み取る人もいるかもしれません(自分もそうでした)。そこで、伝統的な地理的な文書における(方位を表す)「経、緯」の語の頻度の少なさについてまとめておきました。

荒川氏の記述のもう一つの問題は、漢代の平らな大地についての言明「東西為緯、南北為経」が、1500年の時を超えて、球面座標である経緯度に直接応用されたと読めてしまうことです。この両者の間には、時代的にも概念的にも大きなギャップがあります。前者と異なり、後者は球面上の概念で、しかも座標軸と数値を伴います。天文学での「経、緯」の用例は、このギャップを埋めることができます。球が舞台になることの他に、位置の基準となる環や変位(度)と関連づけらていることも、重要なポイントです。地理や地図学の用例では、これらのどの性質も満たしません。なぜなら、こちら方面の計量的なアプローチは、天文学に比べると全く徹底していませんでしたから。

最後に、マテオ・リッチ坤輿万国全図』、特にそこに引用された李之藻の署名のある文章の「経、緯」の説明を検討して終わりにします。

「緯、経」の意味

手始めに、「経、緯」という文字の意味について調べてみました。これらの文字には様々な意味がありますが、ペアとして用いられる場合には、「織物の縦糸、横糸」という意味から説明を始めるのがわかりやすいと思います*4。この「縦糸、横糸」という意味から派生して、2つの方向、つまり「縦、横」や「南北、東西」を指す用法が生じました(詳しくは後述)。

しかし、織物の縦糸と横糸の違いは方向だけではなく、機能面でも異なっているそうです:「「緯」の字は「横糸は縦糸を反復して囲む(圍む)ので、「緯」と名づけられた。」*5。このことから、「経、緯」に様々な意味が生じました*6

例えば儒教の正統的な古典を「経書」というのに対して、外典的な書物を「緯書」といいます。また、

經之以天,緯之以地(『国語』周語下)

のように「天、地」と関係づける用法もありますし、「経」を恒常的、普通のもの、構造、理法などと結びつけ、「緯」をその反対とする用法もあります。例えば、天文学では定常的な動きをする恒星は「経星」といい、対して惑星は「五緯」といいます*7

さらに『春秋左伝正義』によると、

[疏]「天地之經緯」。○正義曰:言禮之於天地,猶織之有經緯。得經緯相錯乃成文,如天地得禮始成就。

つまり、「経緯」は織物に喩えて秩序をあらわすようです*8

これらの意味のうち、方位や方向、織物のような構造、そして秩序といった意味は、経緯度のような座標を表現するうえで、重要な基盤となっています。また、後で分かるように、「天、地」との関係も過渡期に一定の役割がありました。

「経、緯」と地上の「南北、東西」

中国の漢代までに成立した古典のなかには、「経、緯」を地上の「南北、東西」と結びつける文言がいくつもあります。

①南北之道為経,東西之道為緯(『周礼』考工記・匠人の「国中九経九緯」に対する疏)
②凡地形東西為緯,南北為経(『淮南子』墬形訓、ほぼ同一の文*9が『大戴礼記』易本命にも。)
③子午為經,卯酉為緯。(『黃帝內經』靈樞經,衛氣行)

これらの中で織物との関係が見て取りやすいのは、①だと思います。ここで「経、緯」は南北と東西に延びる道路で、それらが都城の中に張り巡らされている様を述べています*10。このように道路、堤防、水路や河川の網目を描写するために「経緯」を用いる例はいくつか見つけることが出来ました*11。これらは「網目」の方にも意味の重点があります。例えば、『水経注』で「江水經緯五湖而苞注太湖也。」(江水が縦横に連ねていて、やがて太湖に包むように注ぎこむ。)という場合、自然の河川の流路ですから、方向はまちまちでしょう。

なお、宋の建築規格書『営造法式』で縦横の網目状の構造を指して用いている箇所がありますが、「経」が縦になることも横になることも、両方あります*12。どちらにするかは、構造や機能を加味して決めているように見えます。つまり、純粋に方向だけに特化した用語ではないのです。

②は理念的な大地論であって、「経、緯」と方位の概念との結合を示しています。後世の自然哲学的な書物に度々似た文言があらわれ*13、方位を「南北、東西」とは違うものに変えたバージョンもあります(とはいえ、圧倒的多数は「南北、東西」です)*14。③は自然哲学的な医学書で、この文言のあと天の方位との対応も述べられています(後述)*15

「地上の方位」→「地球の緯度、経度」か?

ここで、荒川氏の「経度、緯度」の議論をみてみます。まず、「字面は同一だが意味の全く異なる言葉の転用だ」とする先行説を氏は否定されます(妥当だと思います)*16。そして、「経、緯」と「南北、東西」を結びつける用例を列挙し、最後に『晋書』地理志*17の例を挙げ、特に説明を加えるでもなく、「地上の方向を指す意味が生じた」と議論を閉じます。素直に解釈すれば、「地上の南北、東西」とのつながりから直接、地球の経度と緯度の訳語が生じたという説かと思われます。なお、中国では大地は正方形、天は地を取り囲む球形ですから、両者の方位の構造が違っていました。荒川氏がわざわざ「地上の方向」と断っているのは、これが理由だと思います。

しかし、この正方形で平らな大地の方位と球形の地球の方位は、そんなにスムーズに接続できるのでしょうか?一方、天球上の経度·緯度ならば、似たような概念がすでに中国にもありました。すなわち、赤道座標の緯度(赤緯)にあたるものとして「去極(度)*18*19」が、赤経にあたるものとして二十八宿の距星からの経度差が用いられていました。

それでも、『晋書』地理志*20の用例をもって、地理的な用語としての「経、緯」の定着を推測される方もいるかもしれません(自分がそうでしたから。)。しかし、これは総序で大地の構造や天との占星術的な関係を述べるなかで②の文言を踏襲しているのです*21。通常の意味での「地理的な」用例ではありません。しかも、『明史』までの二十四史の地理志(又はそれに相当する志)で「緯」の文字を検索したのですが、方位に結びついた例はこれだけでした。列伝や地理書の類まで探索しても、網目構造以外の例はそんなに見つかりませんでした*22

つまり、地理的な場所や構造物の方向を指示して「経、緯」を使用するときは、コンテキストを選ぶようです。例えば、レトリックとして凝った表現をしたいときや、網目を示すときのように他の含意も同時に表現したいときなどです。そして、後者の場合、方位以外の含意がメインである場合もあります。

これまでのところ、「経、緯」が地理的な用語として常用されていた形跡は、見つけることができていません。

伝統的な地図のグリッドと「経、緯」

『禹跡圖』(1137年)。碁盤の目のようなグリッドは、一見、経緯線に類似しているが…Needham, vol.3., Fig.226.

上の『禹跡圖』(1137年)は伝統的な「計里画方」という技法で描かれた、現存最古地図です*23。この東西南北に碁盤の目のようなグリッドは、一見、経線と緯線の網目にそっくりです。『中国の科学と文明』第三巻22, (d)(5)でニーダムは、両者のアナロジーを極限まで押し進めます。主な論点は以下の通り:

  • 晋代の地図学者・裴秀が用いた「准望」の語を座標と解釈し、「(裴秀のいうところの)准望座標」という表現を用いる。そして「経、緯」が「准望座標」の南北、東西方向の座標を表すとする*24
  • 地図がしばしば絹に描かれたことを、「経、緯」と織物との関係をからめて強調。
  • 『周髀算経』に記された、太陽の高度と地上の南北方向の距離の関係である「一寸千里の法」に注目。これが天と地の計量的な対応を示す点で、緯度と天の北極の高度の関係に似ていると主張。
  • 優れた測量技術の存在を示唆する。また、中世の他の地域に比べて、精度の高い地図が作られていることを指摘。

彼の説には、事実レベルの問題で既に問題があります。まず、裴秀の「准望」は今は方角のことだとされており、「准望座標系」なるものはニーダムの創作です。ニーダムの上げた文献は、「経、緯」が方位に対応することを示しているだけです*25。また、絹布に絵画や文字を記すことは、地図以外にもいくらでもあったことで、特別な含意はないと思われます。こういったわけで、彼の「経、緯=座標」説は、近年の解説では言及すらされていません。

もちろん、計里画方の比喩的な描写に「経、緯」の文字を用いた例はありますが、決して多くはないと思います*26。縦、横の線を「経、緯」とよぶことが無かったとは思いませんが、用語として定着したとは思えません。成2014では、清の時代の、計里画方による地図の作成を振り返った文書を紹介していますが、その中でも特に「経、緯」の文字は現れません。

以上は主に用語の問題の指摘でした。では地図作成の手法として、計里画方と経緯線との間に類似性はないのでしょうか?残念ながら、両者は基本的に別のものだと思った方がよさそうです*27。中国に於いても、天体の位置の観測値が観測する場所に依存することは理解されていました。しかし、西方の地球球体説のような整然とした説明はできませんでしたし、地図の作成にも応用されませんでした。

伝統的な地図の作成で用いられた主なデータは、二地点間の距離、それも実測ではなく旅程から推測された値です。グリッドの役割は、これを矛盾なく平面に製図するための補助線でした。同様の技法は設計図の作図やある種の絵画にも用いられ、しかもこれらは同一の手法と見做されていました。グリッド(またはそれに対応する概念、数値)はデータの収集の段階では全く用いられず、天文学的な観測とも関係はないそうです*28。一方、プトレマイオス『地理学』の経緯度は地図作成のための基礎的なデータであって、同書のテキストから地図がかなり再現できるのだそうです*29

清の時代においては、西方的な地球球体説と伝統的な大地観が併存します。地図においても、西洋的な『皇輿全覧図』などの地図と、伝統的な地図が併存していました。そして当時は、経緯線と計里画法ははっきりと異なったものと理解されており、両者を併記する折衷的な地図もありました*30

地上の方位と天の方位

以上は、荒川氏の言うところの「地上の方角」の話でした。では、「天の方角」と「経、緯」はどのように結びついていたのでしょうか。

中国で天が地をくるむ球とされるようになったのは後漢あたりからのことで、それ以前は地と並行の平らな円形とされました(蓋天説といいます)。そして天の方位は、地上の方位をそのまま真上に持ち上げて定められていました。地上から天を見上げる視点をとると、自然とこのようになるのではないかと思います。

上で引用した『黄帝内経』の一節③では「経、緯」を地上の南北(子午)と東西(卯酉)に対応させていましたが、それに続く文では、二十八宿を用いて天の方位と紐づけられています:

天周二十八宿,…房昴為緯,虛張為經。

二十八宿は、北極を中心とした天の分割を、標準的な28個の星座(宿)を基準に定める方法です。黄道十二宮に似ていますが、こちらは黄道を分割するのではありません。房、虛、昴、張はいずれも「宿」です。ある日時に空を見渡すと、これらの「宿」は各々、真東(卯)、真南(午)、真西(酉)、真北(子)にある、という理屈で上の引用文は書かれています(実際はそうはならないのですが、詳しくは付録に書きます。)つまり、「房昴為緯」とは、地上の東西(卯酉)を結ぶ「緯」をそのまま天に平行移動したことになります。「虛張為経」も同様です。

このように定められた「緯」は、天の真ん中を通って東西を結びます。仮に無理やりこれを球面に適用したらどうなるでしょうか?あくまで想像になりますが、おそらくは下図の「卯酉環」のように、地平線上の東から出発し、天頂、地平線上の西を通る大円になってしまったのではないでしょうか。

『天経或問』より。「卯酉」は「東西」のこと。天頂を通って、地平線上の東西の点を結ぶ。

このような「経、緯」の感覚と「経度、緯度」の概念の間には、少し隙間があるように思います。しかし、天球を用いいるようになってからは、また別の方位の感覚も生じました。そのことがもっとも明瞭に表れるのが、渾天儀に関する用語の使い方です。

なお、新たな方位の定義が生じたからと言って、旧来のそれがなくなってしまったわけではありません。相変わらず二十八宿は東西南北に七つづつ割り振られます。『黄帝内経』は医学の古典として読み継がれますし、注釈でも天地の方位の対応の在り方は修正しないものが多いように思います*31

渾天儀と経、緯①:「天経地緯」

渾天儀とは、天体の位置を計測するための球形の観測機器です*32。また、観測機器であると同時に、天を模倣する模型のようにも捉えられてきました。武帝時代の太初改暦での使用が記録にのこる初めです。この観測機器の発展と歩調を合わせるように、「大地を包む、球状の天」という考え方も定着していきます。

『新儀象法要』(宋)蘇頌撰、(淸)錢熙祚校 *33

天球説の出現以前は、「南極」と「北極」の語は大地や天体(太陽や恒星)の運動の南北の限界を指して用いられました*34。また、「北極」は北極枢、つまり天の回転の軸、或いはその近辺にある星官(星座)を指すこともありました*35。こちらの用法の場合、「南極」の語は意味を成しません。これが天球概念の定着とともに、現代の天の北極になり、対概念として南極も登場します。例えば、天球に基づく宇宙構造説の推進者だった後漢の張衡の作とされてきた『渾天儀注』*36では、

北極乃天之中也,在正北,…。南極,天之中也,在正南,…兩極相去一百八十二度半强。天轉如車轂之運也,

と南北極が軸になって天が回転する様が語られています。詳しい構造が判明している最古の渾天儀は、五胡十六国前趙のものですが、それについての記述では、

...以象北極。其運動得東西轉,以象天行。(『隋書』天文志一)

このように南北の両極が備わるのみでなく、それを軸にする回転の方向が「東西」と言われています。

以上のような南北と東西の定義に「南北為経、東西為緯」を適用すすれば、「緯度、経度」に接続しそうです。しかし、すぐにはそのような展開にはなりませんでした。

天円地方説をとる中国の場合、地平線もまた、宇宙構造論的な重要性をもっていました。例えば、唐の李淳風の渾天儀を見てみましょう。その最も外側の構造を「六合儀」といいますが、「六合」とは東西南北の四方位と天地(上下)をあわせたもので、宇宙全体をも意味します。ここに天の子午線、地平線、赤道にそって、「天經雙規」、「金渾緯規」、「金常規」が各々設置されました。また、その中には「二十八宿、十干、十二辰、經緯三百六十五度」を配列したといいます(『旧唐書』李淳風伝)。つまり、「緯」は地平線に平行な円に割り振られたわけです。

渾天儀の部品の名前は制作者によって異なりますが、北宋の蘇頌『新儀象法要 』では歴代のそれを列挙してくれています*37

  • 天經雙規:陽經雙規とも。
  • 金渾緯規:単横規、陰緯単環、陰渾、地盤平準とも。

そして渾天儀の構造を説明する中で、「天經、則縦置」(天経は縦向きに設置する)と説明しています。まとめると、

  • 經=陽、天、縦
  • 緯=陰、地、横

という対応があることがわかります。蘇頌の建設した渾天儀も、元の郭守敬の渾天儀や簡議の部品も、同じ系統の名前です。この用語の成立には「経、緯」と「天、地」との対応が重要な役割を果たしていると思います。

六合儀の図。『新儀象法要』(宋)蘇頌撰、(淸)錢熙祚校。*38

天地を立体的にとらえたとき、大地に平行な方向を「横」とするのは、自然な感覚だと思います。しかし、大地と平行な円環と対応づけるにあたっては、渾天儀が一役買っているのではと思います。「天経」「地緯」は渾天儀に装着された環で、しかもそれらには方位や北極からの角度「去極度」を示す目盛りが刻まれ、座標軸的な役割を担っています。ただし、基準は地平面ですが。

また、李淳風の渾天儀の「經緯三百六十五度」(中国度は周天が365度と少し)では、「経、緯」と「度」や数値が結びついています。ここでの「経緯」は「天經雙規、金渾緯規」を指しているのかもしれませんし、あるいは「經緯三百六十五度」でザックリと渾天儀で計測できる数値をまとめて述べているのかもしれません*39

渾天儀と経、緯②:赤道座標

ここまで紹介した用例の他に、さらに一歩、のちの赤道座標に接続しやすい用例があります。すなわち、赤道とそれに垂直な環に「緯、経」を割り振る用例です。

蘇頌の少し前、北宋の沈括『渾儀議』がそれです*40。この中で新たに提案された渾天儀の説明(「渾儀制器」)では、「六合」に相当する最外郭の構造を「體」と言います。そして、それに付属した子午線に沿った環は今まで通り「經」の文字を使って「經之規」、あるいは単に「經」とよばれています。一方、「緯」の文字は赤道に沿った環に対して割り振っています(地平線に該当する環は「紘」)。また、一番内側に設置された観測機器本体である「璣衡」については、

璣以察、衡以察

とあります。つまり、赤道座標での緯度と経度に相当するものが観測の重要な対象であり、ゆえに「経、緯」の文字を割り振ったのでしょう*41

沈括の新たな用語法は、天の両極を「南北」として、「南北為経、東西為緯」を適用した結果かもしれません。また、二つの重要な観測量に対して、織物とのアナロジーからこの語を割り振ったのかもしれません。あるいは、大雑把には縦横の方向になっていることに由来するのかもしれません。いずれにせよ、この用語法がすんなりと理解されたのは、旧来の用法から軸が少し傾いているだけで、さほど変わらないからだと思います。沈括の記述は、南宋の百科全書『玉海』巻四・天文*42にも引用されています。

この沈括と同系統の用語を用いているのが、南宋朱熹朱子)の『尚書』の注釈です。これは、蔡沈がまとめて『書集伝』という書物になり、元、明の時代には科挙の標準的な教科書にもなって広く読まれました*43。『尚書』舜典に「在璿璣玉衡以齊七政」とありますが、この「璿璣玉衡」は後漢のころからは渾天儀だとも言われていました。蔡沈・朱熹の注もこの考えを引き継いで、注で渾天儀の歴史と構造の解説をしています。

蔡沈・朱熹は子午線、赤道に対応する環は「黒雙環」、「赤単環」と名付けますが、

側立黒雙環,…,以為天經。斜倚赤單環,…。橫繞天經,…,以為天緯

つまり、渾天儀の環が表現する仮想の天上の環に「天經」(子午線方向)、「天緯」(赤道方向)という名を割り振ったわけです。これらの用語は、六合儀の内側にある「三辰儀」の説明にも使われています。なお、終わりの方に「沈括曰...」と沈括の『渾儀議』の内容の一部を引いているので、影響は明らかです。(沈括が廃止を提言している白道環を記述している点は気になるのですが。)この朱子の記述もまた、「経、緯」=「赤道座標の縦横」とすることができると思います。

『革象新書』:「経度、緯度」の出現

沈括や朱熹において、「経、緯」は赤道座標系的な意味での縦、横と関係づけられていますし、特に前者の「璣以察、衡以察」は座標の数値との対応さえ、暗示されています。とはいえ、この対応は明示されていません。また、「経、緯」のどちらを現代の経度に対応させるかは、あまり自明でないと思います。例えば、「経」は南北に相当するのだから、南北方向の変位、つまり現代の緯度に対応させても不思議はないと思います。

「経、緯」と数値の対応を明確にしたのは、元の時代の前半に活躍した趙友欽の『革象新書』が最初であって、彼は「経度、緯度」の語も使っています*44。なお、この書物は四巻本なのですが、明に入ってすぐ『重修・革象新書』という手短な二巻の要約版が作られて、広く流通したのはこの要約版のようです*45。以下は『重修…』の四庫全書版(つまり要約の方)から引用です。

天體如圎瓜、⋯周天三百六十五度餘四之一、⋯各度以二十八宿之距星、紀數謂之經度、若以天體比之彈丸、則東西南北相距、皆然東西分、則南北亦當分緯度皆以北極相去逺近、為數亦三百六十五度餘四之一、⋯

中国の伝統に従って、一周は365.25度です。また、概念的には現代の赤道座標と同じものを指してはいるのですが、「経度」は二十八宿を用いて定められていますし、「緯度」は去極度そのものです。

また、「度」のつかない「経、緯」といった語も並行して用いられていることも注意すべきです。よって「経度、緯度」はまだ単語として確立はしておらず、「経の度、緯の度」なのだと思います*46

それから日食の説明において、

不同、止曰合朔。 ⋯則為同。合朔而有食矣。

「「同經不同緯」ならば、「合朔」であるだけだ。⋯そして「同經同緯」ならば「合朔」かつ日食になる。」とありますが、この「経」は、赤道経度だとしても意味は通ると思いますが、素直に解釈すれば黄道にそった変位を表していると思います。つまり、「経、緯」の意味は曖昧さを残しているのです。

これらの『革象新書』の記述には、若干の「後継者」がいます。まず、趙友欽は道士でもあったのですが、そちらの方での弟子の陳致虚が著した 『太上洞玄靈寶無量度人上品妙經註解』には、かなり『革象新書』からの引用があり、その中に「同經不同緯、…」も含まれています。

また、明の中期の唐順之(1507-60)の『荊川先生文集』によると、

及趙緣督革象書,測經度、測緯度之法,尤更分曉,吾是以略而不言。*47

つまり、「趙友欽『革象新書』に経度、緯度の測定方法は非常に詳しく出ているので、ここでは敢えて繰り返さない。」経度緯度の計測方法は短い『重修』には載ってませんから、ここではオリジナル版を指しているのでしょう。なお、唐順之は弟子の周述学とともに、回回暦の先駆的な研究でも知られています*48

明末の宣教師の影響が広まる直前に出た、朱載堉の『律暦融通』巻四*49の「交会」の節にも、

古云:同則食,同不同不食,是也。

とあります(巻四「日食」では『革象新書』の文言*50を踏襲しているので、影響は明らかだと思います*51。)。

同じ文言は、邢雲路『古今律暦考』卷六十四暦議五でも繰り返されます。また、同じ時期の類書、章潢『図書編』巻三十二(四庫全書版)の渾天儀の説明の中に朱熹や沈括をひきながら、

又置黑雙環、…比為天脊、其側刻為周天去極之緯度。…别置赤單環、比為赤道、於上刻周天之經度

と語っています。

『古今律暦考』と『図書編』の場合、時期的にはイエズス会士の影響の可能性を排除できません。しかし、前者は伝統歴法の改良を志向た大部の著作で、趙縁督(友欽の字)の名も言及されています。また、後者も中国的な角度(365.25度で一周)を採用しており、この項目はもっぱら伝統的な知識に依拠しているように見えます。『図書編』巻十八には『革象新書』の引用と思しき文言もあります*52

『図書編』巻十八の渾天儀の図

『回回暦』という先例

西方の天文学が中国に流入したのは、何も明末が初めてではありません。元代から明初にかけて、イスラム系の回回暦が導入されていました。この時期には、計算方法の表面的な部分のみが取り入れられたため、地球球体説そのものは伝わりませんでした。しかし、天球座標の概念はすでに導入されており、「緯度」「経度」という訳語も当てられていました*53。ただ、この場合は基本的には黄道座標の経緯度なのですが、「赤道經緯度」とした場合は赤道座標のそれを指しています。いずれにせよ、すでにきちんと規定された「経度、緯度」の用語が使われているわけです。この他のイスラム天文学系統の書物や、周述学らの回回暦研究書などでも「経度、緯度」の語が同様に用いられています。

なお、冒頭でも述べたように、私は「明末の翻訳者らが回回暦を参考にした」と言いたいわけではありません(可能性を否定するわけでもありませんが。)。しかし、共通の起源を想定するのは自然だと思います。この時、地球球体説は紹介されていませんから、大地に関する文章よりも、もっぱら天文学関係の文章から使えそうな語彙を探したのではと思います。

安定しない「経、緯」の意味

現在残る回回暦の翻訳は、その完成された形態のようです。初期の様子が伺える文書としては、元統『緯度太陽通徑』の朝鮮銅活字本が残っています。石,2008に内容の簡単な紹介があるのですが、太陽の運行全般を扱っています*54。題の「緯度」については元統自身が同書の中で説明をしています*55

天の度は一つであるが、測定の方法には経と緯の区別がある。歳時は一つであるが、暦法には中国と外国の違いがある。中国の暦法は「経度」に基づき、自然の法則に従って四季や寒暑、節気の早い遅いを説明する。西域の暦法は「緯度」に基づいて、変化を予測し六曜の犯掩や前後の距離を説明する。*56

つまり、この「緯度」は西域の暦による計算を意味します(「経、緯」は「定常、変化」にそれぞれ対応。)*57

「経、緯」の様々な意味を反映して、「経度、緯度」の意味は安定していなかったのです。

次の例はもっと後(明末)になりますが、現代の経緯度とは明らかに異なる意味で用いられています。

右圖以五緯行度,…,緯度遲速與之相㑹也。(黃道周の易書、『三易洞璣』)

この「緯度」は後に続く数値などから経緯度の緯度ではありえません。「緯」は「五緯」、すなわち惑星を意味するのだと思いますが、運動を表すかもしれません。黃道周はイエズス会の齎した新しい天文学にも興味をもち、ある種の地動説を提案していました。そのような立ち位置の人物でも、このような形で「緯度」の語を用いていました。

「経緯之度」などの表現について

宋~明の技術的でない文書で、「経」と「緯」を分離せず、「経緯之度」等の表現をしているのを見つけました。この場合、果たして「経之度」「緯之度」をまとめて述べたのか、それとも「経緯」で一語であるのかで解釈が違ってきます。後者の場合は、ただぼんやりと天文学的な数値を意味しているかもしれないからです。今のところ判断が付きかねるので、ここに纏めて記します。

A. 天曰文者,経緯度數燦然有章也。(朱長文『 易經解 』、北宋)
B. 帝曰、「嗚呼、七曜昭昭、經緯之度不失、寡人之幸也。」(『明太祖文集』、明初)
C.其用以推歩、分経緯之度、著陵犯之占、暦家以為最密。(徐有貞『武功集』西域暦書序、明、15世紀中ごろ)

Aは『易経』繫辭伝上「仰以觀於天文,俯以察於地理,是故知幽明之故」への注で、天文と地理を対比しながら規定している文面です。「天を文と言うのは「経緯度数」が明確に示されるからだ。」。冒頭に述べた疑問だけでなく、この「経緯度数」は「経緯の度数」ではなく、「経緯と度数」かもしれません*58。ただ、地理との対比で数値が天文の特徴として挙げられているのは、興味深いと思います。

Bは、「日・月・五惑星は明るく輝いている。「經緯之度」が失われていないのは、朕の幸運である。」*59。天体の正常な運行が保たれている旨を述べており、定量的な概念を念頭に置いていないかもしれません。

Cは撰者の友人の劉中孚*60の回回暦研究を紹介する中での文章です。こちらは、なんらかの数値を表しているとは思いますが、それ以上のことを判断する材料は見つけられませんでした。

坤輿万国全図


ここまで、天文学的な用語における「経、緯」の用法の事例を積み重ねました。最後に、荒川清秀氏が取り上げたマテオ・リッチの作成した世界地図『坤輿万国全図』を検討して、文章を終わろうと思います。この時点では、まだ「経度」は出現しておらず、「経度、緯度」に該当する他の用語(「横度、直度」)も並存しており、用語の熟成には至っていません*61

まず目につくのは、右上のマテオ・リッチの署名付き文章で、

天既包地、則彼此相應。故天有南北二極、地亦有之。天分三百六十度、地亦同之。天中有赤道、…

つまり、天と地は対応し、天に南北二極があるように地にもある…と「天⇒地」の順番で用語を導入しています。「経線、(東西)緯線、経緯線」の語も、この文章に出現します。

また、中央に李之藻の署名付きの「輿地…」から始まる文章の

以南北極為経、赤道為緯

という文が目を引きます。正方形の大地を念頭に練られた「南北為経、東西為緯」という文言そのままでは、十分に経緯度の概念を伝えられないと考えたのだと思います。つまり、ぼんやりと「南北」ではなく「南北の極」と基準の点を明確にし、球面では多義性が生じそうな「東西」をさけて赤道を「緯」の基準としています。沈括が南北の極を通る環を「経」、赤道を重なる環を「緯」としたことが想起されます。なお、この文章には、渾天儀に関してではないですが、沈括の『渾儀議』が引用されています*62

とりあえず、まとめ

唐宋以降においては、渾天儀関係の文書では、「経、緯」は主に地平線を基準とした縦横と結びつける用語法が主流でした。ここでは、「経、緯」と「天、地」の結びつきが意識されています。しかし、沈括の用法ははっきりと赤道座標でした。従来と比べて、多少基準面が傾くだけですから、違和感は少なかったと思います。

沈括の用法は、暦算の専門家k中では継承者は居ないのですけれども、朱熹、趙友欽といった人々に引き継がれました。特に朱熹は暦家とは到底言えないのですが、非常に広く読まれました。沈括『渾儀議』も(『宋書』の引用を通して)読まれているようです。

先に、「経、緯」という言葉が地理的な位置関係の記述には、あまり使われなかったことを述べました。しかし、実は天体の配置の説明でも、あまり使われません。やはり、「東西南北」ではなく、「南北をつなぐ線」、「東西をつなぐ線」に特化した語の出番は、早々ないのだと思います。特に、この意味での「経、緯」は対として用いる習慣がありました。こういった語を用いるのは、やはり大地全体、あるいは宇宙全体の空間的な構造を述べる場面などに限られがちなのではないでしょうか。後者の具体化でもあった渾天儀の描写を通じて、経と緯は円環と数値との結び付きを強めていった…のかもしれません。

一方で、伝統的な地図の計里格方はどうだったか?これも、「経、緯」という言葉を使いたくなる対象ではあります。しかし、こちらは作図の補助線であって、大地の計測との関係は皆無です。やはり、地理学への数理的な方法の徹底は、近代以前は困難だったのだと思います。少なくとも、一箇所にとどまって広大な天を計測できる天文学と比較すると、計測とデータの集積・管理に多くの困難が伴います。なお、西方でも本質的には状況は同じであって、古代のヘレニズム世界での経緯度の導入は、十分な検証に欠けていた地球球体説に依存して、天球上の概念を地球に射影したに過ぎません。実測の実は、事後的に何百年もかけて後付で伴ってきたわけです。こういったことは、地球球体説のない中国では不可能でした。

よって、中国において、座標に関する言葉が醸成され得る分野は、天文学以外は考えられなかったと思います。その天文学に関する文書でも、「経、緯」の意味はあまり安定していません。天球上の環に対応するにしても、「緯」は地平線、赤道、黄道のどの可能性もありました。天体の位置を表す数を意味していても、座標を成す二つの数の対が念頭にない場合もあります。それどころか、数を念頭に置かなくても解釈できる、『明太祖集』の例もあります。意味の不確定性もさることながら、授時暦、大統暦といった暦の暦書には、ほぼ「経、緯」の語は(観測機器の記述を除くと)現れません。つまり暦算の中心的な文書では使われていないのです。今回、渾天儀に関する文書に絞ったため、この辺りは誤った印象を与えてしまっているかもしれません。

やはり、用語がきちんと規定されて定着するのは、イエズス会士が到着後、李之藻らの訳業や徐光啓らの改暦事業に負うところが大きいと思います。

ついでの考察:子午線

最後に少し脱線して、子午線の語源について。これは、十二支による方位の名、つまり「子」が北で「午」が南、に由来することは明らかでしょう。ただ、この北と南がどこを指しているのか?私はなんとなく、北極と南極ではと思っていました。自分の居る場所を通る、北極と南極を結ぶ大円が地球の子午線ですから。

しかし、これまでの流れを思い浮かべれば、まずは天球上の子午線を表す用語がまず確立したはずです。そして、『新儀象法要』その他では、この線に沿った環の説明するとき、「地平線の北と南を結ぶ」と説明しています。つまり、「子午線」の「子」と「午」は、地平線上の真北と真南の点を指しています。

付録

二十八宿と方位

二十八宿は、黄道十二宮と違って、「宿」の幅のバラつきが非常に大きいため、東西南北の四方位や十二支を用いた十二方位との対応は、元来、非常に難しいです。ですから、幾何的な事実に少し目を瞑って、機械的に7つづつの宿を四方位に割り当ててしまうのです。その模式化の理屈は下の写真の六壬式盤にわかりやすく表現されています。正方形の一番外側に二十八宿が書かれていますが、一辺に七つずつ宿がかかれています。各々の辺の中央にあるのが、房、虛、昴、張です。なお、漢の時代ごろまでは、二十八宿の名前や並びに若干のばらちきがあります。その中で、引用文とよく合うものを探しました。この写真の並びは『漢書』律暦志のものとは同じです。

楽浪郡の王盱の墓(紀元1世紀)から出土した六壬式盤の復元図*63
黄帝内經』の方位観の修正

明末、張介賓『類經』という医学書が上梓されました。これは、『黄帝内經』を再編して注釈を加えたものです。すでに述べたように、『黄帝内經』には、地上の方位をそのまま持ち上げた天の方位が展開されていました。この書物では、これを球面天文学的な方位で解釈しているのです。解釈はやや強引ながら、しかし、「経、緯」の適応のロジックについて面白いことを言っているところがあります。「子午為經,卯酉為緯。」への注として

天象定者為經,動者為緯。子午當南北二極,居其所而不移,故為經。卯酉常東升西降,列宿周旋無已,故為緯。

つまり、南北が經で東西が緯である理由を、「経=定常、緯=変化」という結びつきと球面天文学の2つから導いているのです。

また、「緯度」の語もあらわれます

分南北,分東西,如歲數之應天者,特以緯度言之耳。 (七卷 經絡類)

「天地之道,天圓地方」(一卷 攝生類)とあって宇宙論は伝統的ではありますが、刊行は1624年、『三才図会』の刊行が1609年で、ここに『坤輿万国全図』に付されたマテオ・リッチの署名入り文章がそっくり引用されていますから、その影響も十分に考えねばなりません。(『三才図会』も基本的には天円地方説で、かつ地球説を紹介しています。)

あいまいな用例

唐の開元年間の『史記正義』で、天官書の「為經緯見伏有時」への注に「五星行、南北為經東西為緯也」とあるのは、古来の平面的な方位なのか、球面を意識しているのか、後者ならどのような基準軸を設定しているのか、全く不明。

主な参考文献

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  • 荒川清秀『近代日中学術用語の形成と伝播--地理学用語を中心に』白帝社,1997
  • 吴守贤、全和钧『中国古代天体测量学及天文仪器』 中国天文学史大系、中国科学技术出版社、2008
  • 成一农, 對計里畫方在中國繪製史中地位的重新評價, 明史研究論叢, 2014, 1:24–26
  • 石云里 ”元統《緯度太陽通徑》 - 回回曆法史上的一份重要文獻”奎章閣, Vol.33, pp. 241-249 2008
  • 乐爱国,胡行华,略论朱熹对浑仪的研究,上饶师范学院学报 第24卷,第5期,2004年l0月, pp.17-20
  • Cordell D.K. Yee, “Cartography in China,” in The History of Cartography, vol.2, Book 2: Cartography in the Traditional East and Southeast Asian Societies, ed. by J. B. Harley and David Woodward (The University of Chicago Press, 1994), pp. 35—202, 228—231
  • Cullen,Christopher, Astronomy and mathematics in ancient China: the Zhou bi suanjing, CUP, 1996.

*1:荒川清秀『近代日中学術用語の形成と伝播--地理学用語を中心に』白帝社,1997,pp.60-67

*2:「緯度、経線、緯線」という語は、比較的早い段階(1602年刊行の『坤輿万国全図』)で出現します。この時点では、まだ様々な文献に触れていない可能性があります。

*3:氏は漢書としているが、誤り

*4:荒川氏は、この意味を段玉裁『説文解字注』を引用して「原義」とされています。ですが、一般的には『説文解字』が本来の意味を伝えているととは限りませんし、また、『説文解字』の大徐本、小徐本ともに「経」の本義を「織」としています。なお、段玉裁の校訂は『太平御覽』を根拠にしています。

*5:『釋名』:「緯,圍也。反覆圍繞,以爲經也」

*6:唐の慧琳『一切経音義』第二十七の以下の「經」の字の説明は示唆的でした。「經、貫穿也攝也。玉篇云:久也、常也、經營、規求也、經里數也、法也、理也、度也。凡東西為緯,南北為經,喩如織也。」すなわち、「経」とは貫き通すこと、統括すること、長く続くこと、安定していること、運営すること、計画を立てること、距離を測ること、また法であり、理であり、規範である、「凡東西為緯,南北為經」と意味をならべたてたあと、「喩如織也」と織物とのアナロジーを強調しています。

*7:『 春秋左伝正義』「正義曰…二十八宿,則著天不動,故謂二十八宿為經,五星為緯。言若織之經緯然也。」なお、『玉海』巻三「禮小宰疏,周髀七曜,皆云「周天三百六十五度四分度之一。 大宗伯疏二十八宿,隨天左轉為經,五星右旋為緯。」。ここでは、左右と経緯が結びついているように見えます。

*8:孫子算経』序文に、「夫算者天地之經緯…」とあるのは、これを踏まえてのことだそうです。大川 俊隆, 『孫子算経』訳注稿(1), 大阪産業大学学会, 巻 36, p. 1-42,(2019) ,p.4

*9:凡地,東西為緯,南北為経

*10:なお、考工記の原文でも注でも方位についてのコメントはなく、注への補足的な説明である疏ではじ南北、東西が出てきます。

*11:「疏為溝洫,縱橫經緯」(水路を整備して疎通させ、縦横南北にはりめぐらし…)(『宋史』杜範列伝)、「縱橫經緯㟁塍、俱已修築」(縦横南北に堤防やあぜ道が既に整備されている)(明の張內蘊, 陳應芳『三吴水考』巻十四)、また『水経注』巻十四で網目のように道路が整備されている様を「經緯通達」としています。また、郭璞(景純)の『江賦』の「注五湖以漫漭」に注釈して「江水經緯五湖而苞注太湖也。」(江水が縦横に連ねていて、それはやがて太湖に包むように注ぎこむ。)。これは文字通りの網目ではありませんが、比喩的に河川が複数の湖の間を縦横に流れる様を表しています。なお、後者は王與之『周禮訂義』、王応麟『玉海』、朱長文『吳郡圖經續記』などに再録されています。

*12:『営造法式』巻十二に「竹笆」という竹を編むように組み合わせて造る構造材の規格が出ています。このとき、2つの方向の竹材の片方を「経」、もう片方を「緯」としているのですが、壁に使用されるときは、「並横經縱緯相交織之」、つまり「經」を横にします。ただし、状況によっては、「或髙少而廣多者則縱經横緯織之」だそうです。織物の場合と同様、この「經、緯」も構造的な役割の違いがあります。

*13:②を漢籍リポジトリなどで検索にかけると、宋の雷思齊『易図通変』、宋の鮑雲龍,『天原発微』などが並びます。②は「山為積德,川為積刑、⋯」と続きます。

*14:清の陳夢雷『周易淺述』では、「圜圖」では「経、緯」は「南北、東西」であるとするのだけれども、「方圖」では「方圖以西北東南為經,則東北西南為緯。」、つまり、「西北ー東南」が「經」で、「東北ー西南」が「緯」であるとします。この場合、「経、緯」は方位の別名ではなく、独立した概念として扱われています。

*15:③は「衛気」についての質問「願聞衛氣之行,出入之合,何如?」への答えの中にでてきて、天や陰陽に関係した文言が続きます:「歲有十二月,日有十二辰,子午為經,卯酉為緯。天周二十八宿,而一面七星,四七二十八星。房昴為緯,虛張為經。是故房至畢為陽,昴至心為陰。陽主晝,陰主夜。故衛氣之行,一日一夜五十周於身,晝日行於陽二十五周,夜行於陰二十五周,周於五藏。」

*16:荒川氏が批判されているのは、佐藤亨、近世語彙の研究。桜楓社 、1983.6 に見られる説です。荒木氏の要約によれば、佐藤氏は道教宇宙論の用語「緯度」(『雲笈七簸』など)、また「計画、運営する」(「筹划;经营规划。」、『漢語大詞典』)という意味の語である「経度」を転用したものとしているそうです。

*17:荒川氏は『漢書』とされるが、『漢書』地理志には「経、緯」を方位に関係させた文言はない。

*18:天の北極からの角距離

*19:ヒッパルコス赤緯よりも「去極度」を多用しているそうで、自然な発想なのかもしれません。Duke, D. W. (2002). Hipparchus’ Coordinate System. Archive for History of Exact Sciences, 56(5), 427–433, p.427

*20:著書には『漢書』とあるが、誤り

*21:⋯昔黃帝令豎亥步自東極,至于西極,五億十萬九千八百八步。⋯所謂南北爲經,東西爲緯。天有十二次,日月之所躔;地有十二辰,王侯之所國也。⋯

*22:自分が見つけた例を二つあげると、「漢舊儀曰:「長安城方六十三里,經緯各長十五里,十二城門,.... 」(『後漢書』郡国志一への李賢注)。もうひとつは、天文学書の『周髀算經』で「立二十八宿,以周天曆度之法」という観測のスキームの準備段階で、南北と東西の方向に線を引くのですが、それを「正督經緯」としています。『水経注』では、先の注で取り上げた二つの例がありますが、単なる方位ではなく網目が意識されています。『括地志』の逸文、『元和郡県志』、『太平寰宇記』をctext.orgで検索したのですが、何も見つかりませんでした。

*23:石刻図で、原図は1100年ごろと思われる。

*24:「いつから「経、緯」が(裴秀のいうところの)准望座標に用いられるようになったのかはわからないが、(At what time the terms ching (経)and wei(緯) were first used for the chun-wang(准望) coordinates (as Phei Hsiu (裴秀)called them) is hard to say, but ....(漢字の挿入は筆者。p.541))と、あたかも既定事実のように扱って話が前にすすんでいます。

*25:文献的な証拠として、ニーダムは次をあげています。まず、『淮南子』墬形訓の②及びそのやや後の部分に付された高誘注(後漢)「子午為經、卯酉為緯、言經短緯長也。」(『淮南子』墬形訓の「闔四海之內東西二萬八千里南北二萬六千里」への注。)。そして、『呂氏春秋 』有始覽、有始の高誘注「四海之內、緯長經短、子午為經、卯酉為緯」(「凡四海之內、東西二萬八千里、南北二萬六千里」につけられた。)。 

*26:明の時代の羅洪先『廣輿圖』(計里画方で描かれた地図)に寄せられた霍冀の序では「計里畫方者,所以較遠量邇,經延緯袤,區別域聚」とあります。とはいえ、これは碁盤のマス目や鳥を捕まえる網などの比喩が並ぶ中の一つにすぎません。また、本図は非常に好評で版を重ね、新たな序文がいくつも寄せられているのですが、その中でこのような表現はこれ一つです。

*27:Cordell D.K. Yee,1994、成2014

*28:成2014。作図においては、特に、統治機構の中でより上位の都市からの方位と距離を優先した。また、方角よりは距離を優先。それゆえ、方角は十分に反映されず、『廣輿圖』では東西逆転すらあった。グリッドの目が細かすぎると、グリッドと矛盾なく地図を作製することは困難になるとされた。

*29:ゆえに、現存の付属地図は後世の再現ではないかという説もあります。このあたりの論争の状況は全く把握していないのですが、一部の写本の付属地図から、再現の試みがあったことはある程度証拠づけられるようです。とにかく、そのような議論が起きる程度に、経緯度のデータで地理的な情報をよく表現できていたということです。また、中世のイスラム世界の地図は模式的なものが多いのですが、経緯度のデータの集積や精度の向上は進行していました。

*30:https://www.mpiwg-berlin.mpg.de/research/projects/reception-latitude-and-longitude-early-modern-china-1644-1900, https://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/721142。小島 泰雄. 中国都市図の近代的転回. 歴史地理学 = The Historical geography / 歴史地理学会 編. 52(1) (通号 248) 2010.1,p.105~113. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I10595919

*31:ここに踏み込んだ例外としては、明末の張介賓『類經』があります。付録参照。

*32:天の状況をシュミレートするための類似の機器も、同じ名前でよばれることがありました。西方のアーミラリー球もほぼ同様の用途と構造をしています。明末にアダム・シャールらによって著された『渾天儀説』はシュミレーターとしてのアーミラリー球を扱っており、「渾天儀」がアーミラリー球の訳語として用いられています

*33:台湾華文電子書庫、19/142

*34:例えば『漢書』天文志には「冬至日南極,…夏至日北極」のように冬至夏至の太陽の日周運動の通り道を各々指しています。また、『周髀算經』下で恒星の「璿璣」の動きを述べている箇所で「何以知其南北極之時?」「其南極至地所識九尺一寸半,…」。

*35:『周髀算經』を参照

*36:『渾天儀』,『渾天儀図注』とも。張衡の撰述でないとの説もある。散佚して、現在は残らない。主な断片は、次の三つ。①『晋書』天文志に紹介されている、葛洪の論に引用されている。②『後漢書』律暦志の劉昭注に「張衡渾儀曰」として引用。③『開元占経』巻一の冒頭に「『渾天儀注』曰」,「『渾天儀図注』曰」として引用。①の引用から、晋の時代には成立していたとされる。なお、『隋書』経籍志には記載されていない。『旧唐書』経籍志に「《渾天儀》一卷張衡撰」として掲載される。輯本としては、嚴可均(げんかきん)の『全後漢文』卷五十五張衡四、馬国翰『玉函山房輯佚書.』など。徐余麟『中国学术名著提要 科技卷』 复旦大学出版社 1996 , pp.118-121.

*37:右渾儀,、其制為輪三重。一曰六合儀、縱置於地渾中、即天經也、與地渾相結、其體不動。二曰…。三曰…。…天經者、對地渾也。又名陽經環者、以地渾為陰緯環對名也。

*38:https://taiwanebook.ncl.edu.tw/zh-tw/book/NTUL-9910015612/reader(24/142)、07/02/2025閲覧 。

*39:渾天儀では、赤道座標系の経線や緯線、黄道にそった角度、そして方角を計測できます。後者の意味の場合は、「経緯」でまとめて二つの方向の組、あるいは秩序を表すのだと思います。なお、漢語大詞典出版社の二十四史全訳の『旧唐書』ではこの部分の翻訳を避けて、原文を引き写しています。一方、『新唐書』天文志一にもほぼ同じ文言(ただし、「十干」が「十日」となっている)があるのですが、そちらの二十四史全訳では、前者の解釈をとっていて、「経、緯」を各々特定の環に対応させています。

*40:『宋史』天文志に長文で引用されて残っています

*41:さらに沈括は、唐の梁令瓚が「紘」に刻んだ十二辰の目盛りを「緯」に移し、また「天中單環」という地平線の東西と天頂を結ぶ環をとりのぞきました。観測の実務の反省から、「天頂と地平線」よりも「北極と赤道」を重視したことがうかがわれます。

*42:科挙の対策のために編まれたもいわれる

*43:乐,胡,2004,p.19「收录了以上朱熹对于浑仪结构的描述,而《书集传》是宋代以后科举考试的重要教科书之一 。」

*44:朱熹の同書への影響については 新井2009,p.86, 注11。

*45:四庫提要を参照。この『重修…』もどのくらい読まれたかは判定しがたいのですが、のちに、康煕帝時代の李光地という政治家が天文学者の梅文鼎に入門書の執筆を依頼するのですが、そのとき「『革象新書』のようなスタイルで」と述べています(Catherine Jami, The Emperor's New Mathematics, (2012), p.218)。また、1525年、朝鮮の李純が『革象新書』を入手し、「目輪」をいう観測機器を製作したそうですが、これは『原本…』にしか記載がありません(Shi,Yunli, A Note on the Islamic Influence on the Astronomical Instrumentation of the Chosôn Dynasty, Historia Scientiarum: International Journal of the History of Science Society of Japan Volume: 13 pp. 33-41(2003), pp.1-2.)。また、後に述べるいくつかの引用があり、まずまず読まれたのではと思ってはいます。ただし、趙友欽は暦家とは言えないと思いますし、そこまで専門的な内容ではありません。また、大統暦の編纂に参考にされた形式はありません。

*46:上記で「⋯」として飛ばした次の文は、中国における角度概念の有様を示していて、興味深いです。まだ経度緯度の概念が未成熟だったことを表していると思います:「其度在赤道者、正得一度之廣、去赤道則漸逺而漸狹、雖名一度實不及一度也、」、赤道において「一度」は本当に「一度の幅」があるが、赤道から遠ざかるに従って徐々に狭くなり、名前は「一度」であっても一度の幅は無い⋯

*47:萬曆元年(1573)純白齋刊本、巻七・與思萬節主事。https://rbook.ncl.edu.tw/NCLSearch/Search/SearchDetail?item=4d95c306585b4a17800841bcc3148f82fDE5ODcwNw2.7RbKEciYnhdm7eUz_5_Z9MKQr7llawkamvZBn9Kj4v0_&page=&SourceID=0&HasImage=(268/898)。これ以前の二つの刊本、明嘉靖己酉(1549)無錫安如石編刊本、明嘉靖癸丑(1553)浙江葉氏寶山堂刊本は掲載されている文書がぐっと少なく、上記に引用した文書は入っていません。四庫全書本はこの短い版によっているようです。一方、民国で編纂された四部叢刊初編本は萬曆元年の長い版によっているようです。

*48:例えば、『勿菴歷算書記』の提要に「西法約有九家。…五爲唐順之周述學所撰歷宗通議歷宗中經。」。また、小林 博行,『関訂書』に見られる明代後期の中国・回回暦法研究について、科学史研究. 第Ⅲ期、日本科学史学会 編 (269)、pp. 85-98,2014を参照。回回暦も「經度、緯度」を用いていますが、ここでは直接的に『革象新書』を引用していますから、出所はあきらかだと思います。

*49:これはマテオ・リッチを有名にした世界地図が出る少し前に書かれたいます。

*50:「日如大赤丸、月如小黒丸…」

*51:新井2009、注36

*52:新井2009、注34。『原本』『重修』のどちらにもある「月體半明」の「月體本無圎缺、如懸黒漆丸…」という部分が、『図書編』巻十八「月変総叙」に引用されています(四庫全書版の五十葉下。

*53:回回暦は、現在、『明史』暦志、明の貝琳『七政推步』(15c)、李氏朝鮮の『世宗実録』七政算に残っています。『明史』暦志が詳しいけれども、清に入って大分はいってから編纂されたものですから、明末の翻訳語に汚染されている可能性がありますけれど、後の二つは、成立年代などを見る限り大丈夫そうです。なお、『朝鮮王朝実録』は複数の印刷本を、別々の場所に保管したため、伝世が途切れることはありませんでした。一番の危機は豊臣秀吉の侵略ですが、乱後に驚くべき早さで残ったコピーから複数の完本が作られました。この作業は、1610年代、つまり西洋の影響が広まる前に完了しています。

*54:p.243, ”表 1 《緯度太陽通徑 》 正文內容一覽”参照。また、「推緯度太陽程式」という表で計算あれているのは太陽の黄道座標での経度(十二宮その中での角度で表記)です。

*55:石,2008,p.242

*56:天度 一也,測數有經緯之分 。 歲時一也,曆法有中外之辨 。 夫中國曆法,經度也,順推其常,定四時寒暑節令之早暮也 。 西域曆法,緯度也,預追其變 ,紀六曜犯掩前後之遠近也 。

*57:なぜこのような呼び名が使われたのか?石,2008では、次のような推測を(あまり強い根拠のないことを述べたうえで)提示しています。明初のアラビア占星術書『天文書』の序文によると、明太祖は、西域の天文学は「緯度」の計算ができる点が優れていて、この方法は中国にはないと述べています:「西域陰陽家 推測天象至為精密,有驗其緯度之法,又中國書之所未備,…」。なお、中国の惑星の計算では、黄道座標の経度は計算できたけれども、緯度の計算方法は作られませんでした。これを補ったのが回回暦の長所の一つとされたわけです。もしも、元統の説明がこの手の文言を受けてのことであるなら、『緯度太陽通徑』の「緯度」も元をたどると経緯度の「緯度」であるということになります。 ただ、元統の言葉は別の解釈もできると思います。例えば、中国の暦も周期の値は非常に精確で、周期運動中での速度の変化に誤差が多いことを示したのかもしれません。いずれにせよ、「経度、緯度」の語の意味が安定していないことは見て取れます。

*58:その場合は、「経緯」は天の秩序、法則といった意味だと思います

*59:明の太祖は占星術を非常に重んじたのだそうで、回回暦の導入に積極的に動いた理由の一端はそこにあるようです。李 亮(Liang Li)"朱元璋与明代天文历法", 安徽史学 2019 年第 5 期, pp.19-26

*60:劉信の字。陈占山. "明代汉族学者与伊斯兰天文、历法之学". 自然科学史研究. 33.01, pp.34-43(2014),p.36

*61:①右上の「地與海本是圓形…」で始まるマテオ・リッチの署名付き文章(『乾坤体義』の冒頭にもほぼ同じ文章があり。)、「経線、(東西)緯線、経緯線」の語が出現。②左下に「太陽出入赤道緯度」と題のついた数表あり。

*62:「沈括曰、古人候天自安南至岳䑓、纔六千里而北極星十五度、稍北不巳 庸詎知極星之不直在人上乎。」

*63:张雨丝:六壬式盘天盘布局问题补议 ,出土文献, 2022年第3期76-98,156,157,共25页, 図10。

 天から地へ:地球に関する訳語の成立事情

もう随分と前になりますが、「地球」の語源を調べたことがありました。
gejikeiji.hatenablog.com

この話の中で、「まず「天球」の語が訳語として成立し、そのアナロジーで「地球」という語が出来た」という点は黄河清氏の論文を引用して済ませてしまったわけですけど、氏は詳しい議論はしてくれておらず、単に

  • 荒川清秀『近代日中学術用語の形成と伝播--地理学用語を中心に』白帝社,1997

を引用して済ませています。そこで、随分日数が経ってしまいましたが、今回は上記著作の該当部分、すなわち、「1.13 マテオ・リッチ世界図の訳語の先駆性」(pp.60-67)に目を通してみました。今の所、あまり氏の議論には納得できてはいないです。

荒川氏の立論

この節で氏は、マテオ・リッチの『坤輿万国全図』に現れる訳語を検討されています。

坤輿万国全図東北大学附属図書館所蔵狩野文庫、https://touda.tohoku.ac.jp/portal/item/10010000025430

「地球」「天球」に関する部分を引用しますと、

たとえ ば,「 地球」は熟したカタ チと しては, リ ッチ図 の右躇第一副の「地球概説」ともいうべき部分や,左端第六副の「論地球比九重天之星遠且大幾何」の題, その説明文中にみえているが,地図の右端の地球概説の ところに は,
地与海本是円形而合為ー球,居天球之中
とあり,「地球」が「天球」からの類推で生まれたことがわかる 。

このあと特に補足はないので、この一文だけで、主張の証明とされているようです。

この一文は、すぐに説明するように、クラヴィウス『サクロボスコの天球論への注釈』の地球球体説の、極めて忠実な要約です。そして、特にそれ以外の示唆があるとは思われないのです。

『サクロボスコの天球論への注釈』

この書物の著者クラヴィウスは著名な天文学者で、グレゴリオ改暦を支え、またイエズス会教育機関のカリキュラムの制定に大きな影響がありました。本書は文字通り13世紀のサクロボスコ『天球論』への注釈なのですが、本テキストの10倍はありそうな長さで、コペルニクスの名前も何度もでてきますし、最先端を意識した内容になっています。

これの地球球体説の議論の進み方は、サクロボスコのテキストにそって、次のようになっています。

  1. 天は球形
  2. 大地が球形
  3. 海が全体として球形
  4. 大地と海の球は同じ中心をもち一体であり、また天の中心にある
海が球形であることの論証。クラビウス『サクロボスコの天球論への注釈』

以上の議論を荒川氏が着目した文章と比較すると、両者はきっちりと対応していることがわかると思います。まず、地と海が円各々円であって(地与海本是円形)、それらが合わさって一つの球になっている(合為ー球)。そうしてそれらが天球の中心にいる(居天球之中)。つまり、クラヴィウスの議論の忠実な要約であって、それ以外の意味を読み取ることは、難しいと思います。

天球に関する用語の先行

このあと続いて、氏は「赤道、北極、南極」などの用語が、天球での該当物を表すものとして、中国の天文学でももちいられていたことを指摘しています。

相互理解を図る上で、中国と西方の共通の要素、つまり天球においてまず訳語を確立したというのは、あり得そうなシナリオだと思います。実際、マテオ・リッチ本人が「地与海本是円形而合為ー球,居天球之中」に続いて

天既包地、則彼此相應。故天有南北二極、地亦有之。天分三百六十度、地亦同之。天中有赤道、…

と述べ、天の南北二極と赤道を先に述べてから、「地にもこれがある」と説明しているのです。

この流れを考えれば、「地球よりも天球が先」という推測は自然でしょう。

ただし、荒川氏は

こうした伝統的な用語を天文学から流用したということは,リ ッチの用語がのちの中国人知識人にも受け入れられる大きな原因の一つとなった。

と述べるのみで、「天球が先」という説の論拠にはされていません。上記の論は、氏の文章を読んで私が勝手に思った話です。

西方でも「天球」が先だった

なお、中国人への説明のしやすさということを別にしても、「天球と地球の対応」という思考は、マテオ・リッチにとっても自然な思考だったと思われます。

よく知られているように、「地球」の概念は古代ギリシャの発明です。そして、天球もまた、今のところはギリシャの発明とされています。ではどちらが先だったか?これについては、ほぼ確実に「天球」が先でしょう。アリストテレス『天について』第二巻によれば、「球の天+平らな大地」という主張も当時あったことがわかります(原子論者など)。そして、彼のこの著作においてもプトレマイオスアルマゲスト』巻一においても、まず天が球形であることを示してから地球球体説に進みます。後者などは、「天が丸いのだから、対応する地も丸いと考えるのが自然」とすら述べています。

なお、古代メソポタミアの数理天文学においては、黄道の周りの獣帯が、大地をぐるりと上下からとりまいています。これは、天球概念の萌芽である⋯かもしれず、そうでないかも知れないのですが、「地に覆いかぶさる天井」よりは、天球に一歩近いと思います。一方、地球球体説を匂わせる物は、メソポタミアにはかけらもありません。中国の状況を考えても、天球のほうが地球よりも発想しやすい概念だったのではないでしょうか。

地球の北極、南極、赤道なども、やはり天球のそれが先にあったと思われます。当時は天動説で地球は静止している設定でした。ですから、「北極」なんかは天の動きを基準に定義するしかなく、天の北極を地上に射影して地球の北極が成立したと思われます。なお、北極を意味するarctic(英語)の語源はἄρκτικοςで、この語は「くま」「おおぐま座」や「北方」を意味する名詞ἄρκτοςの形容詞形です。オデュッセウスはこの星座を使って航海をしたそうです。(なお、私のギリシャ語の知識はかなりあやふやなので、そのつもりで読んでください。)

赤道も同様だと思います。また、現代の北回帰線、南回帰線の回帰線(英語:tropics)は、ギリシャ語のτροπικόςに遡ります*1)。これは元来、天球上の仮想的な円でした。例えば、アリストテレス『気象論』の第一巻の彗星や銀河の位置の記述で、回帰線や天の赤道が使われています。そして、第二巻五章(362a20あたりから)、これらの用語が地上の場所を使うのに用いられ、北回帰線(θερμὴ τροπή「暑い(夏の)回帰線」みたいな感じですか… )から南は暑くて人が住めない、北の"ὑπὸ τὴν ἄρκτον"「おおぐま座の下」は寒くて人が住めない等、これらを地上の場所を表すのに用いています。

このような赤道に平行な円による区切りκλίμαは英語climate(気候) の語源になっていますが、常に天と地の区域の対応を意識して論じられました*2。たとえば、ストラボン『地理誌』の第一巻と第二巻では、この概念について詳しく論じていますが、2.5.3では次のように述べています。

πεντάζωνον μὲν γὰρ ὑποθέσθαι δεῖ τὸν οὐρανόν, πεντάζωνον δὲ καὶ τὴν γῆν, ὁμωνύμους δὲ καὶ τὰς ζώνας τὰς κάτω ταῖς ἄνω.

恥を忍んで私訳を記すと、「天は5つの区域に別れると仮定するべきで、大地もまた同様である。大地の区分けは天の区分けと名前を共有する。」*3また、科学史家のノイゲバウアーなどは、κλίμαを基本的に球面天文学の話題として扱い、地理的な区分への応用を後に回しています*4

どちらが先か後かは別にしても、このような天球と地球を対応させる考え方は、サクロボスコにおいてもクラヴィウスおいても、はっきりと受けつがれています。そして、天球は中国にもあった。それならば、まず天球及びそれに関する用語を決めたのではないでしょうか。

なお、荒川氏が引用したリッチの文の続きは、こんな感じです。

…天既包地、則彼此相應故。天有南北二極、地亦有之。天分三百六十度、地亦同之。天中有赤道、自赤道而南二十三度半為南道、赤道而北二十三度半為北道、…日行赤道、則晝夜平、行南道則晝短、行北道則晝長。故天球有晝夜平圏,列於中晝短晝長二圏。列於南北、以著日行之界、地球亦有三圏對於下焉。

天に南北二極があり、赤道、南道、北道(南回帰線、北回帰線)があるように、地球にもそれに対応するものがあることが述べられています。「天球⇒地球」という順序で用語が導入されているのです。

よって、「天球」と「地球」の語のうち、どちらかを先に導入したのであれば、「天球」が先なのだと思います。

まとめ、その他

「天球」が先か、或いは「地球」が先か?あるいは同時なのか?「北極、南極、赤道」といった訳語の成立過程を思えば、「天球」が先なのでは、と思います。決め手には欠けますけれど…また、「天球」という訳語が先に成立した場合、どんなシナリオが考えられるか?というのは、前のブログで書いたように、ある程度具体的なことが言えるわけです:おそらく、『尚書』に現れる器物「天球」が、天球儀の訳語として使われ、また sphaera calestis (天球 )を表すのにも使われた、と。

なお、クラヴィウス『サクロボスコの天球論への注釈』において、天球と天球儀の間のアナロジーは、はっきりとしてます。表紙がこんな感じですし…(同じ図をマテオ・リッチも用いています)。

『サクロボスコの天球論への注釈』

また、天球儀としての「天球」があらわれる『新法算書』(巻十九・二十)所収の『渾天儀說』でも同様です。

さて、「赤道、北極、南極」は天球における対応物を媒介にして、訳語が成立したのでした。他にそのような例はないのでしょうか?

私が思うに、「緯度、経度」も同様だと思うのです。それについては、また改めて書きたいと思います。

「水」が丸い?: サクロボスコとクラヴィウスの議論

アリストテレス『天について』でも、天、水、土(大地)が球をなすことを証明しています。しかし、水の球の議論は、天が球であることを証明する中で現れます。また、議論の内容はあくまで抽象的に「元素としての水」のなす球について語り、自然学的な原理から演繹してみせているだけです。

それが、後の古代末期(5−6世紀)のシンプリキオスの注釈では、水滴が球になること、器に満たした水の面が丸みをおびること、といった経験論的な証拠をあげます。
それのみならず、海上を行く船において、マストの根本よりも上部のほうが遠くを見通せることを論じて、証拠としています。ここで、議論は抽象的な水の球ではなく、眼前に広がる海を対象にしています。

サクロボスコになると、個々の論点はシンプリキオスから代わり映えしないのですが、水の球は天球の議論と切り離されて、大地の議論のあとに置かれ、むしろこちらと一体です。(ただし、Thorndikeの英訳で「The sea is spherical」と節の前に書かれているのは、彼の提示したラテン語テキストには無いので、翻訳の際に添付した説明と思われます。)

なお、地と水の球の一体性は、サクロボスコにあっては明示的には述べられていません。では、クラヴィウスが最初にとりあげたのか?というとそうではなさそうで、先人の議論をうけて記述が進んでいます。

以上、いつか独立したエントリーで書いておきたいです。

参考文献

*1:τροπικόςは、名詞τροπήに対応する形容詞で、τροπικός κύκλοςは回帰「円」

*2:Goldstein,& Bowen, 1983

*3: なお、Duaneの英訳では、"Thus there must be the hypothesis that the heavens are five-zoned, and that the earth is also five-zoned, with these zones having the same names as those above."自分の見たいくつかの英訳の中で、これが一番逐語的であると思います。

*4:Neugebauer, O 1975), の該当する章( D.1.3 Climata)

『崇禎暦書』:東アジアは、どうやって西洋科学に出会ったか

西洋の数理科学の東アジアへの流入を考えるとき、明の終わりの改暦事業は大きなターニングポイントです。このときに編纂された『崇禎暦書』は、日本や朝鮮にも大きな影響を与えました。

自分がこの事業について知ったのは、薮内清の新書版の中国科学史の、あまりにも簡潔な記述を読んでのことです。読む人が読めば深い含蓄を読み取れたのかもしれませんが、無学な私には「宣教師が布教の一環として、科学的な知識を停滞した東洋にサラッと紹介して…」といった乏しいイメージしか残さなかったのでした。乏しいだけでなく、いくつもの重大な誤解を抱えながら、年月を経てしまいました。例えば、

  1. 専門家でない宣教師が学んだ程度の知識が、東アジアでは先端だった。
  2. 中国側は受け身
  3. 暦の技術的な知識だけに限定された

…いずれも、多分、薮内清はそんなことはいってないと思いますけど、あまりにあっさりした記述は、他の通俗的な情報源もあわせて、上記のような印象を自分の中に残してしまったわけです。

そのイメージに変化が起きたのは、橋本敬造先生のこの論文を読んでからで、消化はしきれてないけれど、とにかくこれが中国人にとってもイエズス会にとっても大変な大事業だったことは、一読した段階でヒシヒシと伝わってきました。

『崇禎暦書』:天文学の百科全書

『崇禎暦書』は、しばしば「漢訳西洋天文学書(暦算書)」などと紹介されますが、何か特定の本の翻訳ではありません。様々な書籍に基づいて編纂された叢書で、古今東西の観測記録、観測機器、数学、宇宙構造説、天文計算の手順と数表⋮などなど、豊富な内容を集めた、百科全書みたいなものです。各々のテーマについても、何か一冊の翻訳というのでない。例えば、惑星の理論を扱った『五星暦指』などは、プトレマイオスコペルニクス、ティコ・ブラーエの三つの説を比較しながら惑星の理論を紹介してゆくという、独特の記述をしています*1

当然のことながら、分量も膨大で、なんとあわせて46種137巻。

改暦は、書物の編纂だけではない

明末の改暦事業は書物の編纂だけをしたのではありません。新規の観測機器の製造と、理論の検証のための観測も伴っていました。西洋暦法の優秀性を説得するには、観測との一致をアピールするのが一番わかりやすかったからです。

上奏文を見ると、この戦略は、元の『授時暦』を強く意識しているようです。『授時暦』は伝統的な中国の暦の、いわば最高傑作でして、明の『大統暦』は『授時暦』を少し改良したものになっています。『授時暦』は未曾有の規模の観測装置の建設を伴っていますし、それ以前の暦に対する優位性を示すため、古今の様々な日月食のデータを持ち出して精度を確認しています。

未曾有の大事業

これだけの大事業ですから、当然、かかわった人の人数がすごい。中国側でも公的に60人くらいはかかわっています。彼らは、単なる下働きだけではなく、執筆にも関わっています。手元にある資料だと、清初期の改訂版である『西洋新法暦書』についてしかわからないのですが、複数の巻に著者として名前を残している人だけをあつめても、10名以上になります。

イエズス会の方の力の入れ方も、半端ではありません。

このころ、マテオ・リッチの後継者のニコロ・ロンゴバルドは、主要な西洋の書物を中国にそっくり持ってこよう!という、当時としては極めて野心的な試みを思い立ちます。やはり、文化大国中国と対峙するには、イエズス会もそれなりの構えが必要だったのだと思います。中国の天文学も、太陽と月に関してはまあまあの精度があります。太陽年の長さは欧州で採用されたばかりのグレゴリオ暦と同じですし、日月食の予報でも極端にひどい外れはありません。こういった暦と競うには、当時中国にいた宣教師の手持ちの文献や知識では、全く足りませんでした。おそらく、神学や哲学などについても同様だったと思います。

そこで1612年、人材と書籍を集めるため、ニコラス・トリゴーを欧州に派遣します。このとき、中国の改暦を担うために選ばれたのが、ヨハン・シュレックです。シュレックは、近代代数の開祖ヴィエタの共同研究者で、また各地を遍歴して様々な学問をみにつけた百科全書的な人物でした。語学の才にも恵まれ、若くして豊富な人脈をもっていました。イエズス会に入会するまでは、ガリレオも属していたローマの名高い山猫アカデミーに属していました。トリゴーとシュレックは欧州を回り、大量の書籍と機器を買い付け、学者たちに面会して情報の提供を依頼し、ケプラーからの情報提供の約束をとりつけました。(ただし、このときの情報や書籍の収集は医学、博物学、哲学など様々な学問が対象になっていることは、注意しておきたいと思います。シュレックのような多才な人材が選ばれたのも、理由のないことではありません。)*2

改暦の要員はシュレックだけではありませんでした。彼のほかにも

  • カーヴィツァー(非公式にではあるが、コインブラ大学での数学の教育に携わる、コペルニクス主義者、改暦事業開始前に死去)
  • アベリック(インゴールシュタット大教授、航海中に死亡)
  • ジャコム・ロー(Giacomo Rho, 羅雅谷, 1593-1638)
  • アダム・シャール(湯若望,1591-1666)

といった、数学や天文学に秀でた人物を選抜し、宣教団を構成し、1618年、リスボンを出港しました。宣教師以外の乗組員をふくめると総勢636名。しかし、中国に到着する前に、宣教師5名を含む45名が死亡したとのこと。中国についてからも、改暦事業開始前にカーヴィツァーが、開始後1年後にはシュレックが亡くなってしまいます。まさに命がけの大事業です。

徐光啓のリーダーシップ

以上で、明末の改暦がとてつもない大事業だったことは、わかっていただけたと思います。これだけの事業を起こすには、学識だけ優れていてもダメなのであって、朝廷の議論を動かす政治力と企画力、組織を動かすマネージメント力が必要になります。東アジアにとって幸いなことに、これらをすべて兼ね備えた、徐光啓とう人物に宣教師らは出会っていました。彼はマテオ・リッチの口述に基づいて、(クラヴィウスによって再編された)ユークリッド『原論』の一部を翻訳しており、学識は充分でした。また、橋本論文にくわしく書かれているけれども、彼の手練手管はかなりのものです。

そもそも、外国の暦法による暦の改正は、それ以前には例がありません。たしかに、当時すでにイスラム系の回回暦が日月食予報に用いられて久しく、このことが西洋暦法導入のハードルを下げたことは、間違いないと思います。しかし、正式の暦は伝統的な大統暦でした。そのような状況で西洋暦法による改暦事業を政治的に通したのですから、この一点だけでも、徐光啓は実に見事だと思います。おそらく様々な政治的が機微はあったでしょうし、イエズス会士のもつ軍事その他の技術的な知識も有利に働いたでしょう。それらの背景に加えて、暦そのものに関係するポイントとしては、

銘彼方之材質,入大統之型模(西洋の材料を、大統暦のような伝統的な鋳型にいれる)

というスローガンです。つまり、西洋の知識は入れるけれども、基本的な考え方は中国の伝統に基づくのである、と。

「大統之型模」とは?

この「大統の型模に入れる」の文言を知ったのは、多分、高校生くらいのころだったと思います。この文言と、薮内清の「古来の暦算天文学の枠を崩さない受容」といった説明(まあ、実はよく覚えてないんですけど)から、「表面上の計算方法を移植したんだろうな」くらいのイメージをもってしまったわけです。(さすがに、薮内はそこまで不注意なことは言ってません。)

では、具体的に「大統之型模」とは何なのでしょうか?まず、暦の外面的な形式で、新暦も中国流の太陰太陽暦を目指しました。『崇禎暦書』の構成も、伝統的な暦議と暦書の構成を踏まえていています。

しかし、『崇禎暦書』の構成をみると、基礎理論を紹介する「法原」がそれまでになく充実しています。太陽と月の理論が中心の伝統暦に比べて、恒星や惑星についての扱った部分の比重も増えています。三角法などの新しい数学、これまでにない宇宙構造説、地球球体説、天体の惑星の軌道論、図をふんだんに盛り込んだ記述等々、もしもこれらが「大統之型模」と矛盾しないというのであれば、「型模」はかなり抽象的なレベルの概念であるように思います。

暦の形式的な側面においても、太陽の運行を表す二十四節気は、伝統的な平気(一年を冬至を起点に時間的に二十四等分する)ではなく、定気(太陽の軌道を空間的に二十四等分)に移行しています。後者は、中国でも隋唐の暦の多くで、計算の便宜のため用いられていました。それが、おそらくは西洋の影響で表に出てきたわけです。

それから、徐光啓は、いくつもの例をあげて、中国暦法の発展が精度の向上の積み重ねであったことを説きます。たとえば、元の『授時暦』や唐の『大衍暦』の暦議には、過去の暦法との日月食の予測の精度の詳しい比較が載せられています。中国暦法を推す側は、伝統の重要性を根拠にしていましたから、「精度を重視する伝統が、昔からあったじゃないか」という論法は、かなり刺さったのではないでしょうか。

中国暦法vs西洋暦法の勝負

中国の伝統を盾にして精度の問題を前面に押し出した徐光啓は、崇禎二年五月初一日(1629年6月21日)の日食の予報で、大統暦、回回暦、そして西洋暦の三者の優劣を決めようと提案します。日月食の予報は中国では非常に重視されていました。過去の改暦や回回暦の使用の拡大においても、「暦が日月食の予報を外した」ことがしばしば理由に取り上げられていますし、今回の改暦の議論の発端も、日月食だったのです*3

それまでにも非公式ながら西洋暦法との比較は何度かなされていて、トータルで見て西洋暦法の優位は明らかでした。対する大統暦と回回暦は13世紀の成果物で*4、それ以降殆ど改訂されていません*5。16世紀終わりの、精密測定で知られるティコ・ブラーエの理論が負けるはずはないのです。さらに、イエズス会士らは万全を期して、独自の観測に基づく微修正を加えています(これの良し悪しは微妙ではあるのですが。)。まあ、政治的なデモンストレーションとして、ここで派手に一発…と思ったのでしょう。

その結果、西洋暦法は他の二つの暦法を上回るのですが、残念なことに決定的な差はつきませんでした。食の開始時刻の差は2分程度、食が最大になる時刻などは、大統暦の方ががかなり良いです。しかも文書に残る西洋暦法の予測値は少し不審な点があり、私は若干の操作を疑っています*6。この時期の西洋天文学の実力では、一発勝負ではこういったこともあり得たわけです。

崇禎二年の日食。上から大統暦、回回暦、西洋暦法、当時の観測値、現代の理論計算(Alighieri, and Corsi, 2020)

そのような中途半端な結果にもかかわらず、崇禎帝の詔勅は西洋暦に非常に好意的でした。まあ、それまでの実績の積み上げもありましたから、妥当な評価ではありますが、おそらく、事前の根回しで方向性は定まっていたのでしょう。このあと、改暦事業は驚くべきスピードで立ち上がっています(日食の二か月後の、崇禎二年七月には実質上立ち上がる)。

なお、改暦を進める「暦局」は暦の頒行を司る欽天監とは別に設置されていますから、大統暦の運用は続いており、イスラム暦法の回回科も残しています。そしてこのあとも、伝統暦法の改良で改暦を目指す動きは、なかなか消えません。

改暦事業の進行

改暦事業の立ち上げに手腕を振るった徐光啓ですが、事業の進行具合も見事です。暦局の正式な開設から一ヶ月かそこらで、すでに数冊の書物が出来上がり、翌年には第一次の進呈を行っています。そのあとも、要所要所で成果をアピールし、また予算面で突出しないように注意するなど、要らぬ反感を避けるための配慮も欠かしません。プロジェクトの運営のみならず、『崇禎暦書』の執筆においても、最終的な校正は彼の手を経ていたといいますし、第一次進呈に含まれる『大測』『側天約説』には深くかかわっています。

進行中だった欧州の科学革命

駆け足で『崇禎暦書』成立の経緯をたどってきましたが、ここで橋本論文が繰り返し注意しているポイントを一つ、書き記しておきたいと思います。それは、当時の欧州は急激な変化の真っただ中だったことです:ガリレオケプラーが登場する一方、アリストテレス的な自然学も、まだまだ有効な時代でした。

ですから、フランシスコ・フルタドは『寰有詮』はアリストテレス的な自然学の観点から、近年の進歩、例えば望遠鏡による観測の価値に一定の留保をつけています。一方、『崇禎暦書』は積極的に望遠鏡の観測の成果を宣伝するなど、正反対の立場をとっています。もちろん、ガリレオ裁判の問題がありまして、地動説についてはほぼ沈黙を余儀なくされているのですが…

既に述べたように、徐光啓は、中国の暦算の歴史を精度の改良の観点から総括していますが、西洋天文学についても、同じ視点で論じています。すなわち、西洋においても古い暦は精度が悪く、特に近年になって著しく改良が進んでいるのである、と。まあ、これは暦法改革の争点を「中国vs西洋」から「新vs旧」にずらす意図もあったと思われますが…いずれにせよ、新旧の異なる性質の知識が混ざって流入する中で、精度の問題を手掛かりに、彼なりの判断を下し、改暦事業を推し進めたわけです。

徐光啓の死と改暦のゆくえ

改暦事業の話に戻ります。徐光啓の多面的な活躍に支えられ、崇禎六年(1633年)には、おおむね『崇禎暦書』完成のめどが立っていました。この時点で、徐光啓は後継者に李天経を指名しました。自らは、その少し前に「礼部尚書兼東閣大学士つまり宰相として入閣」しています。しかし、崇禎六年十一月、徐光啓は病で他界してしまいました。すでに高齢でもありましたが、プロジェクトの運営、深夜にまでおよぶ執筆、その他の朝廷における業務と政治的な調整、こういった激務が命を縮めてしまったのかもしれません。

目途はたったとはいえ『崇禎暦書』は未完成、それに中国伝統暦法や回回暦との論争もまだ残っていました。それに加えて、彼の死と李天経の着任までは数か月のタイムラグがあました。非常にタイミングの悪いことに、この間の崇禎七年三月に、非常に目立つ日食がありました。

ところが、主導者不在の暦局は動きが鈍く、予測を提出したときには、日食まで一ヶ月を切っていました。これに対して、欽天監の大統暦の予測は三ヶ月前に提出済み。それに加えて、伝統暦法の改良による改暦を目指していた、魏文魁が独自の予測を提出しています。

結果としては、残念なことに、新法の精度は他の二法に劣っていました。これは、「古い表を誤って参考にしたため」と後で釈明され、日食の食分の数値が修正されます。しかし、後出しの印象は残ったでしょうし、しかも修正後もそんなに他の二法よりよくないです。

これをうけて、暦局は李天経の西局と並立して魏文魁の東局が設けられることになりました。アダム・シャールは「李天経は譲歩しすぎだ、徐光啓が生きていたら…」という趣旨の愚痴を残していますが、客観的にみればやむを得ない決定だと思います。当初、崇禎帝は伝統的な暦法と西洋暦法の融合を希望したようですが、両者の理論は水と油ですから、別々に部局を建てて競争することになりました。

今に残る『治暦縁起』や『明史』暦志によると、東局は西局に負け続け、崇禎11年正月に解散が決まります。

ただ、朝鮮半島に残る断片などを用いた近年の論文によると、どうやら伝統暦法が良い成績を出している場合もあるようで*7、もう少し勉強しないとフェアな評価は難しそうです。とはいえ、トータルで見れば西洋暦法の優位が揺らぐとは思えません。特に、途中から日月食のみならず、伝統暦法が苦手とする惑星の運動が比較の題材に加わっています。伝統暦法には惑星の黄道からのずれを説明する理論が欠けていたので、勝ち目はありませんでした。

東局の解散と共に、西洋暦法天文学的な計算全般に用いられることになりました。ただし、正式な暦は旧来の大統暦のままであり、二十四節気も中国の伝統的な方法で決めれれていました。西洋暦法の全面的な採用が決まったのは、崇禎十六年(1643年)八月のことです:

時帝已深知西法之密。迨十六年三月乙丑朔日食,測又獨驗。八月,詔西法果密,即改為《大統曆法》,通行天下。未幾國變,竟未施行。(『明史』暦志一、曆法沿革)

ところが暦の頒布を見ぬまま、この翌年の三月、明は李自成に滅ぼされてしまいます。新暦法が『時憲暦』として日の目を見るのは次の清王朝に入ってのことで、これは動乱期にあえて北京に踏みとどまったアダム・シャールの活躍によるものです*8

参考文献
  • Alighieri, Sperello di Serego, and Corsi, Elisabetta, The eclipse of 21 June 1629 in Beijing in the context of the reform of the Chinese calendar, Journal of Astronomical History and Heritage, Vol. 23, Issue 2, pp. 327-334 (2020)
  • Chu, Longfei. “From the Jesuits’ Treatises to the Imperial Compendium: The Appropriation of the Tychonic System in Seventeenth and Eighteenth-century China,” Revue d’histoire des sciences 70 (2017), 20;
  • Lingfeng, Lü. “Eclipses and the Victory of European Astronomy in China.” East Asian Science, Technology, and Medicine, no. 27, 2007, pp. 127–45. JSTOR, http://www.jstor.org/stable/43151255. Accessed 21 Apr. 2025.
  • Noël Golvers, Johann Schreck Terrentius, SJ: his European network and the origins of the Jesuit Library in Peking, Brepols, 2020
  • 王广超. 明清之际定气注历之转变, 自然科学史研究,2012,31( 1) : 26 -36
  • 杜昇云 [ほか] 主编. 中国古代天文学的转轨与近代天文学, 中国科学技术出版社, 2008.12, ("十一五"国家重点图书出版规划项目・科技史文库 . 中国天文学史大系). 9787504648419. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-Ia1000067842
  • 橋本, 敬造. 『崇禎暦書』の成立と「科学革命」. 関西大学社会学部紀要. 12 2,p.67-84, 関西大学社会学部. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000025-I012850004833119
  • 李 亮、吕凌峰、石云里、被“遗漏”的交食—传教士对崇祯改历时期交食记录的选择性删除、《中国科技史杂志》第 35 卷 第 3 期( 2014 年) : 303 ~ 315
一次文献について

明末の改暦の経緯の基本的な資料は、主に次の二つのようです。まず、『明史』暦志一の「曆法沿革」の段。

  • 张廷玉 ,等. 明史 .北京 : 中华书局 ,1974

もう一つ重要な史料は、徐光啓、李天経『治暦縁起』で、これは『西洋新法暦書』や『新法算書』に含められています。

  • 任继愈主编 中国科学技术典籍通汇 天文卷 第八分册 大象出版社 1993,

ファクシミリ版が含まれています。潘鼐による貴重な解説もついています。

『崇禎暦書』は完本が残っていないのですが、これの増補改訂版の『西洋新法暦書』なども参考にして、校訂版がでてるそうです。私は残念ながら持ってませんが、『崇禎暦書』の各種写本・版本は違いが大きいそうで(Chu2017)、相当の労作と思われます。

  • 徐光啓 編纂 ; 潘鼐 匯編. 崇禎曆書 : 崇禎暦書 上下, 上海古籍出版社 2009

当然、イエズス会側の史料も見るべきではあるのですけど、今のところ、自分はそちら方面は見れていません。

*1:ロンゴモンタヌス『アストロノミア・ダニカ』(デンマーク天文学)も、この三者を比較しているのですが、円の組み合わせの技法は全てティコ流であって、ただ太陽と惑星の配置が違うだけです。しかし、『崇禎暦書』では、むしろ円の用い方の比較が眼目です。なお、当時はガリレオ裁判の時期で、『崇禎暦書』には地動説への言及はなく、コペルニクスの体系はティコ流の配置に直して紹介されました。

*2:トリゴーがシュレックの欧州回遊の伴侶に選んだのは、シュレックの多面的な活動を評価したからと思われます。以上、欧州における情報収集やシュレックについての情報は、Golver2020を見ました。

*3:西方では、ここまで極端な日月食偏重は無いと思うのですが…

*4:対する大統暦は元の授時暦の改良版、回回暦は元の時代のジャマール・アッディーン. Jamāl al-Dīnのジージュ(天文表)に基づきます。できた当時の水準でいえば、ともに非常に優れた暦でした。

*5:それどころか南京から北京への遷都にも対応も不十分であった可能性があります。このときの日食についても、南京についての予報だとすると、より精度は上がります。大統暦ではないですが、回回暦については、竹迫忍氏は、「南京の視差の表をそのまま適用している」と結論しています。

*6:不審なのは、食が最大になる時刻の西洋暦法での計算値(11時36分)は、開始と終了の予測値の中間(11時26分30秒)から大きくずれています。しかも、誤差を減らす方向にずれています。月や太陽の速度は一定でないとはいえ、このずれは大きすぎると思います。

*7:李 , et.al.,2014など。

*8:以上、徐光啓の死後の部分については、杜2008, pp.105-6や王2012,p.30、李et.al. 2014を参考にしました

メモ:『太平御覧』引用の「月令」の正体

gejikeiji.hatenablog.com
gejikeiji.hatenablog.com
かつて、『太平御覧』に「礼月令曰く」などとして引用されている、『礼記』月令に似た文書の正体をあれこれ詮索しました。これらを書いたとき、私はそれを『礼記』月令の異本だと思っていました。しかし、どうやらそれは大間違いだったようです。極めて高いです。全くお恥ずかしい限りですけど…

実はさきほど、 (唐)李林甫等撰『唐月令注』という書物を何気なく開いていました。最初の序文的な前振りの部分をすっとばして本文に目を落とすと、『唐明皇御刊 礼月令』というタイトルで始まります。そして、のっけから
「正月之節、日在虚」とすごく見たことがある出だしです。どう見てもこれは、『太平御覧』に「礼月令曰く」として引用されていたものでした。

archive.org

なお、「明皇」は玄宗皇帝のことで、つまり、その時代に作られた、『礼記』月令のフォーマットに沿った文書だということですね。
前の記事では南北朝~唐の終わり、そして大衍暦から大幅にはくだらないだろう、といったので、一応はその範囲に入っています。しかし、内用の素朴さから、正直、自分はもう少し早いんじゃないかと思っていたので、良い勉強になりました。

まだ内容の検討は全然してないのですけど、勉強不足を痛感した次第です。