玉と球~日本の場合

前回、中国における球体を表す言葉、とくに「球」が球体を表すようになった経緯について、素人的な考察をしました。

  • 球はもともとは、玉(ぎょく)という鉱物と関係のある言葉で、美しい玉や玉製の「磬」という打楽器を表した。
  • 球体という意味をもつきっかけの第一は、音。ボール、転じて球体のもの全般を表す「毬」や「鞠」と音が同じ。例は多くはないが、毬の代わりに球を用いることもあった。
  • しかし、「丸」「円」「渾」「立円」などが数学や天文学では球体を表すのに使われていた。
  • それらや「毬」「鞠」などを押しのけたのは、明末の翻訳運動の時。ただ、古い用語も併存。

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この話で、「玉(ぎょく)は丸くない」というところは大事で、日本人はうっかりしやすいと思います。現代のものでも昔のものでも、中国の字書の「玉」の項目に、丸いものという意味はないです。純粋に材料の名前で、特定の形状のイメージはないのでしょう。実際、様々な形状の玉製品があります。

しかし、日本では「玉」は「たま」と読んで、球体を意味します。起源のことはさておいて、江戸時代の和算書でのことをメモしておきたいと思います。といっても、以下のサイトから得た情報の羅列になりますが。
www.wasan.jp
まず、同サイトの和算用語検索で「球」を解説文に含む項目を検索すると、「球」に関連する用語を引き出せます。

  • 半玉成 半球:百川治兵衛『諸勘分物』(1622)で使用
  • 玉成無口:球、百川治兵衛『諸勘分物』(1622)で使用
  • 玉率、玉法、球の体積と直径の3乗との比. ともいう.
  • 玉闕:球を平面で分けた一方の形.球闕とも
  • 玉皮:球の表面積のこと.竪亥録や算法闕疑抄で使われている.

また、和算書アーカイブには、和算書の影印がpdf化されておいてあるので、主に関孝和以前の和算家のものをあさってみます。

村松茂清/寛文3年(1663)『算爼』巻三、「玉闕」 「玉皮」
佐藤正興/寛文9年(1669)『算法根源記』上之ニ、「玉円」
算法勿憚改巻一、「玉起」
村瀬義益、算法勿憚改巻一/延宝元年(1673)、「玉皮」

中国で定番の「立円」等ですが、意外と見つかりません。関孝和前後に出てくると思うのですが。弟子の建部賢弘『綴術算経』は球という言葉を使っています。一方、「立円」の名残は楕円体を表す「長立円」という下の例では、球とともに「長立円」(楕円体)という用語も使われています。

藤田貞資閲,藤田嘉言編、増刻神壁算法、寛永8年(1790)
感想

球を表す用語を見ると、自然と書き手の知識の起源が浮かび上がってきます。
「球」は明末翻訳運動の結果生まれた言葉で、中国化した西洋天文学および数学の系統の用語で、「立円」は伝統的な中国数学の用語です。

建部は中国化された西洋天文学の研究に手をつけていますし、そちらの影響で「球」を使っているのだと思います。「地球」という言葉は、『天経或問』や『和漢三才図絵』などで広まりますし、それに明末清初の『崇禎暦書』『暦算全書』などの影響は、日本の和算家にも及んだと聞きますから、「球」の使用は自然だと思います。

一方、「玉」という日本独自の言葉を用いていた、関孝和以前の和算家たちの知識の源流はどこだったのか、気になるところです。例えば、彼らは3.16という中国では見ない円周率を採用しています。林隆夫先生が中公新書の『インドの数学』の終わりのほうで推測でインドから南蛮船を介してのの伝来か?という仮説を提示されてましたけど、そういった仮説を出したくなるくらい、ちょっと異質なわけです。

「玉」から「球」へと球を表す言葉はかわったのですけど、「立円」その他、中国でメジャーだった言葉は、両者の狭間にあってあまり活躍していないような。これは今後、調査したいところではあります。

追伸 「毬」のこと

「球」の文字が球体を意味するようになるうえで、「毬」と同音だったのは、重要なきっかけだったわけですけど、「毬」を上記の用語検索にかけると、次の書物名がひっかかりました。

毬闕変形草/きゅうけつへんぎょうそう
【書名】関孝和の著作をまとめた七部書の最後の書.最後の文字に「草」とあるように,草稿のようである.弧環(弓形を色々な軸について回転させてできる図形)の求積を解明しようとしたもの.

だそうです。題名の「毬」は丸いものを意味すると思います。ただ関孝和の真作かどうか。国書データベースで検索すると、影印が読めます。

「球」はいつから丸いのか? ~「地球」の語源のこと

XでFFのヘルメスさんが、こんなツイートをしていました。


要するに、

  • 「地球」という言葉を最初に使ったのは、明の終わりごろのイエズス会の宣教師、マテオ・リッチ
  • 最初に「天球」という言葉ができて、その類推
  • 日本では、新井白石『西洋紀聞』

ということらしいです。

明の終わりごろ、マテオ・リッチらが紹介した西洋の学問は、徐光啓李之藻らに深い感銘を与えました。彼らの要請にこたえるため、宣教師の一部は欧州に戻って、書籍、人員、最新情報を集めます。このときは、ケプラーも協力していますし、ガリレオの望遠鏡による観測の結果も伝えられました。一方、徐光啓は朝廷を動かして人材と費用を調達し、翻訳と天体観測を遂行する体制を整えました。こうして、短期間のうちに膨大な量の西洋の知識が中国語に取り入れられたのでした。当時の中国語は東アジアの学問語ですから、朝鮮や日本も翻訳事業の恩恵を受けました。その一例が「地球」だったわけです。

…正直、さほど意外でもなかったので、最初は「へ~」と流したのですが、やがてジワジワと疑問が湧いてきました。まー、普通は「天球」「地球」は、天や地に球形を意味する「球」をつけたのだろう、わかりやすいな、と思いますよね?しかし…

そもそも、丸いものを「球」とよんだのか?

しかし、中国の伝統的な数学や天文学では、球体のことを「円」「丸」「渾」、あるいは「立円」「渾円」などとよんでいます。「球」は見たことがありません。北宋の沈括『夢溪筆談』象数一では、

「日月之形如丸。…如一彈丸,…」

と太陽や月の形状を説明しています。なお、「彈丸」は、当時は弓で飛ばしたようです。算書ですと、『九章算術』少広の最後に球の体積を与えて直径を求める問題が2つ出されているのですが、球は立圓(円)とよばれています。また、この問題の注を読むと、「丸」「渾」といった名称が使われたことがわかります*1

まあでも、この明末の翻訳において、旧来の用語と決別して新語を使う例は、「三角形」など他にもあります。日本の明治期でも同様だと思います。ですから、「あー、またこのパターンか」と思った程度でした。

しかし、なんでこの文字を使ったのか…と字書を引いたとき、困惑はさらに増幅しました。

そもそも、「球」は丸いのか?

現在、中国でも球体は「球」の文字であらわします。しかし、元々この字の意味はなんだったのでしょうか?

まず手軽に引ける、清朝で編纂された『康煕字典』で「球」を引いてみたのです(ネットにいくつもサイトがあります)。これは、徐光啓マテオ・リッチの少しあとに編纂された、非常に完備した字典です。ところが、その「球」の項目には、丸い形という意味はのっていません。この文字の「求」の部分は音を表し、「王」の部分は鉱物の一種である「玉(ぎょく)」を意味するようです。美しい玉(ぎょく)、あるいは玉で作った打楽器(磬(けい)、又は玉磬)といったいった意味が説明されています。球や球の形のもの、という意味は出ていません。 (付録に全文を引用して説明をつけました。)下に磬(けい)の図を掲げておきますが、見ての通り、むしろ直線的です。

磬(けい)という楽器。「球」は、玉又は玉製の磬を意味するとされた。図は『欽定古今圖書集成』經濟彙編/樂律典/第101卷

なお、「玉」を丸いものと結びつけるのは日本独自のようです。例えば、藤堂明保『漢和大字典』*2では「日本語での特別な意味」として、「たま。まるいもの。」としています。中国の字典をいくつかひいてみましたが、やはり「まるいもの」という意味はありませんでした。「玉」はあくまで素材の名前で、円環や方形、あるいはもっと複雑な形状に加工されました。貴重なものでしたから、祭具や装飾に使われてきました。玉製品の例としては、璧(へき)圭(けい)璜(こう)、玉璽、そのほか佩玉、簪などの装飾品などが挙げられます。

それから、俗説的な字源を載せているウエッブサイトが結構ありますが、それらは全くあてになりません。日本の漢和辞典の字源の説明も、微妙なようです。

「球」と「毬」

上述したように、マテオ・リッチと近い時代の権威ある『康煕字典』には、「球」の球体という意味を載せていません。この字典は、先行する字書をすべて参考にし、経書史書、それらの名だたる注釈たちも、しっかりと網羅しています。ただ、(当時の)現代的な用法や、正式でない用法はどの程度拾われているのか?そもそも、「地球」「天球」という言葉は既に使われており、後でのべるように、数学の本では現代とほぼ同じ意味で用いられているのですから。

仕方がない、直接当時の用例をみてみるか…と愛用しているctext.orgで「球」を検索すると、「毬」という文字を含む文が大量にヒットしています。そこで同サイトの字典機能でチェックすると、「球」が「毬」の異体字に加えられていました。搜韵 (漢詩のデーターベース)や東文研のデータベースでも同様でした。それから、『康熙字典』によると「毬」の音は「球」の第一の音(つまり、固有名詞以外の意味に対応する音)と一致しています。

では、この「毬」はどういう意味か。植物名などの派生的な意味はさておき、元々の意味は蹴鞠用のボールらしいです。後には馬にのってプレーする、ポロのような球技「撃毬」のボールを意味するようになりました*3

撃毬(撃球)の情景、遼墓の壁画の模写。福本、1999より引用

また、この意味から転じて球形のもの全般をさすそうです。例えば、以下のリンクをご覧ください(各々の意味の古さは、用例からわかります。)。
毬的解释|毬的意思|汉典“毬”字的基本解释
球形、もしくはその喩えと思しきもとしては、

至正十七年六月癸酉,.... 所至有光如毬,死者萬餘人。(『元史』五行志二)

球形の光が至るところに現れて、沢山の人が亡くなった、と。自然現象なのか、怪異なのか?次の引用は、モンゴル帝国の時代にイスラム世界から伝来した地球儀だとされています*4

西域儀象... 其制以木為圓毬,七分為水,其色綠,三分為土地,其色白。(『元史』天文志一)。

地球儀の形状を、「圓毬」つまり、円い毬としているのです。
次に動植物の例。南宋の王質の詩「山友辞」に、「屈陸兒」なる鳥は、

…翅有兩白團如毬,…

「羽に二つの毬状の白いかたまり(白團)がある」と描写されています*5

図があるものはないかと探したところ、球状のポータブルの香炉に行き当たりました。現在は「薫香球」「香球」とよばれることが多いようですが、『宋史』『元史』では全て「香毬」です*6

唐代の 薫香球(写真はリンク先の人民日報のサイトから引用)。『元史』『宋史』では「香」。

これらの「毬」は、前近代でも「球」で代用されることがありました。例えば王質の詩「山友辞」の別の版*7では、「如毬」ではなく「如球」になっています。「香球」「撃球」といった表現も、数は多くないのですが、見つけました(後述)。

また、日本における「地球」の初出、新井白石『西洋紀聞』には、「毬」の代用の分かりやすい例が含まれています:

大地、海水と相合て、其形圓なる事、のごとくにして…、其地球の…

この太字にした「球」には「キウ」と音が、「テマリ」と訓が添えられています。添付した画像は、内閣文庫所蔵の、享保年間の、白石自筆とされる写本です*8

白石の自筆写本にある「球」。

また、「球」に音「キウ」を訓「マリ」を付した、建部賢弘『綴術算経』の版本の影印をFFの方に見せていただきました*9。これらは、「音を手がかりにこのような意味に取ってくれ」と促しているのだと思います。

つまり、「球」本来の意味には球体という意味はないものの、同音の文字に球体を表す「毬」という文字があり、通用もしていたのです。

「球」の採用は、どのくらい自然だったのか?

しかしながら、「球」という訳語の採用は、果たしてどのくらい自然だったのでしょうか?すでに述べたように、算術や暦算では別の文字で球体をあらわしていました。そのうち、「丸」などは、一般的な文書でも用いられています。それに、「球」が「毬」の代わりに使われたといっても、以下にのべるように、事例はそんなに多くはありません。

人文研の漢籍リポジトリでは異体字を区別する設定で、影印も確認しやすいので、以下でヒットする数の比較をしてみます。

  • 「香球」8,「香毬」245
  • 「撃球」1、「撃毬」75
  • 「打球」2、「打毬」745  (撃毬の別名。福本論文の最初のページ)
  • 「球場」2、「毬場」283 (撃毬の競技場。『漢語大詞典』「球場」の項目参照)

なお、『漢語大詞典』では陸游の詩「送襄陽鄭帥唐老」の一節を「球場」の用例としていますが、搜韵では「毬場」となっており、典拠に依存しそうです*10

それから、「如球」(球のようだ)という言い回しも検索してみたのですが、球形を意味するのは合計2件だけでした*11。なお、北宋初期の類書『太平御覧』*12で「球」を検索したのですが、球形を含意したり、「毬」の代用と思しきものはありませんでした。

また、数日間の限られた検索の上でのことなのですが、「球」の用法は、やはり本来の『康煕字典』的な意味の方が多いように思います。「球璧」「球琳」は「天球」とともに美しい玉の意味で、優れたもの、尊いものの比喩として用いられました。「珍重如球貝」*13などという表現もあります。また、人名にも用いられました。

総合すると、「球」が音を通じて、あるいは「毬」の代用として、球状のものをイメージさせることは可能だったと思います。しかし、そのような用例は多くはなく、また「球」という文字の主要な用法でもなかった。白石は「球」に音と訓の両方を注記していますが、球体という意味を伝えるために必要だったからだと思います。そしてすでに述べたように、『元史』天文志(明の初期の編纂)では、地球儀の形状を「毬」に喩えています。

つまり「球」という文字は、ラテン語sphaeraの訳として意味は通ったと思いますが、自然な選択ではなかったのでは?より有力な候補がいくらでもあったのでは?という疑問が湧きます。

尚書』の天球

以上のことから、「球」が採用されるには、何か特殊な要因が働いたと考えざるをえません。

そこで文献を漁ってみると、黄河清氏の論文が何本かヒットしました。氏曰く、まず「天球」という訳語ができ、「地球」はそのアナロジーだろうとのこと。では、「天球」はどこからきたか。黄氏いわく、『尚書』顧命の

天球河圖在東序。

が典拠であろう、と*14。『尚書』顧命は先秦時代に書かれた、非常に古い経書です。テキストを確認すると、周の成王が亡くなった時の葬儀の会場の説明の中にでてきました。この場所にはAとBを飾り…というリストの中に現れます。そして、文字の意味や前後関係から、玉製の祭具、あるいは楽器だとされています。なお、後漢の鄭玄の注では、「雍州所贡之玉色如天者」(天のような色をした玉が雍州に産する)とあります。形状ではなく、色が天に似ているから「天球」らしいです*15。なお、天の色はどんな色は「玄」、すなわち赤みがかった黒とされました。この色については、以前記事を書きました。
gejikeiji.hatenablog.com

尚書』に「天球」の形状についての言及はありませんが、これが玉製の楽器「磬」(上図のように、「へ」の字型です)だというのは、一つの標準的な説明です*16

前近代の中国では、なにかと古典に根拠を求めます。天文学でも、新しい概念や機器が出てくると、度々こういったこじつけがありました。例えば、前漢武帝期になって盛んに使われるようになった、渾天儀(アーミラリー球)という天体観測機器があります。これを権威付けるために、やはり『尚書』が利用されました。

尚書』舜典に、舜が即位した直後、

在璿璣玉衡,以齊七政。

とあります。後漢以降の解釈によると、この「七政」は日月と五つの惑星をあわせたものだそうです。そして「璿璣玉衡」は玉製品であり、モノとしては渾天儀とよばれる、天体観測機器とされました(もちろん、無茶な解釈)。つまり、伝説の帝王・舜の即位後の最初のアクションは、なんと天体観測だった*17

「璿璣玉衡」の図。清末に描かれたもの。

このような先例もありますし、また、明末の翻訳運動で、古典から用語を拝借している例は他にもあります。例えば、アリストテレスプトレマイオス的な天球の多層構造は「九重天」とされていますが*18、これは『楚辞』の文言を借りているのです。もちろん、両者の宇宙構造論は全く異なります。

こういったことを考えると、古典の文言を拝借して新たな訳語にあてたとする推測は、極めて自然だと思います。ただ、『尚書』顧命の「天球」は明らかに人造の器物であって、自然物である天球(sphaera)とは、カテゴリーが違いすぎる点は気になります。これについては、また後ほど言及します。

「天球」「地球」から「球」へ

黄、2017によると、「地球」が確認できる最古の文献は、マテオ・リッチの世界地図です。彼は、1583年に欧文で、1584年に中国語で世界地図を発表して好評を博します。残念ながら、これらは全く失われてしまっており、ただ1600年の『山海輿地全図』は『月令廣義』(1602年)と『三才図会』(1607年)への引用で残っています。

『月令廣義』 所引の『山海輿地全図』 の「天球」。Harvard Yenching Library

地図の右上に挿入されたテキストに「天球」、そして左上および左下のテキストに「地球」という語が確認でき、これが最古の確認できる出典です。そして、『坤輿万国全図』(1602年)、『幾何原本』(1608年)の序文、宇宙構造論の書『乾坤体義』(1610年)でもこれらの語は盛んに用いられて*19、『乾坤体義』には「日球」「月球」すら出現し*20、「球」が球体を表す接尾辞として盛んに用いられています。
坤輿萬國全圖[James Ford Bell Library藏原刻本] | 開放博物館

坤輿萬國全圖の「地球」

明末翻訳運動や、その影響で成立した数学関係の文書を見ると、「球」は球を表していますし、球面は「球面」「球上」などと言われています。例えば、球面幾何学を扱った『新法算書』所収の『大測』のある部分、梅文鼎『暦算全書』所収の『弧三角形挙要』、康煕帝時代の『暦象考成上下編』巻二、などで用例を確認できます。後の二例は、宣教師の関与はないので、中国側の専門家にもこの用語が浸透していたことがわかります。

なお,『坤輿万国全図』の向かって右上隅のマテオ・リッチの署名入りの文章、及び『乾坤體義』に

地與海、本是圓形、而合為一球、居天球之中、誠如鷄子、黄在青內

とあり、ほぼ同一の文が『三才図会』にもあります*21。白石の『西洋紀聞』の文は明らかにこれに似ています。

今日の用法との違い

「天球」「地球」から始まって、球体を表す代表的な言葉になってきた「球」なのですが、やはり使用状況には現代とは異なった点があります。

例えば、清の康煕帝の時代の数学の叢書『數理精蘊』でも「球」は球の意味で用いられますが、同時に「圓(円)球」という言葉も非常によく出てきます。「円い球」ですね。おそらく、「球」は「圓(円)」と違って、図形や球形の物体を表す名詞であって、形状を表す形容詞としては使えないのでしょう。

また、「渾圓」といった古い用語も消えてはいません。数学的な文書でも、『數理精蘊』下編や『暦算全書』所収の『弧三角挙要』に用例があります。天文学的な文献ともなれば、なおさらのことです。例えば、下の影印を見てください:

「球」と「円」の同居の例。『新法算書』(巻十九・二十)所収の『渾天儀說』の一説。

「地球、以円形、倣地之本体」とありますね。また、「地球、倣地之原形、必為円(第十六巻・二十)」、「地与海之円、亦各自為円形、未必併為一球(巻十六・七)」というのも見つけました(いずれも『渾天儀説』)。「円」は、図形の名前であり、同時に形状をあらわす形容詞でもあります。一方、「球」は球形の物体や図形のみをあらわし、まだ形状そのものを表す言葉にはなっていないように思います。すでに引用した新井白石『西洋紀聞』の「大地、海水と相合て、其形円なる事、球のごとくにして」も同様です。

天球儀、地球儀としての「天球」「地球」

『明史』天文志一に

萬曆中,西洋人利瑪竇、制渾儀、天球地球等器。仁和李之藻撰《渾天儀說》,發明製造施用之法,....
崇禎二年,禮部侍郎徐光啟兼理曆法,請造象限大儀六,紀限大儀三,平懸渾儀三,交食儀一,列宿經緯天球一,萬國經緯地球一,

とあります。これらは献上品のリストですから、「天球」「地球」は天球儀、地球儀だと思われます。それから、上の『新法算書』所収『渾天儀説』の影印なのですが、「地球用法」という言葉が見えると思います。用いるのだから地球のはずはなく、これも地球儀です。「地球、以円形、倣地之本体」は、地球儀が大地の形に似てまるい、という意味かと*22

尚書』の「天球」を訳語の成立の契機として見たとき、一つひっかかるのが、指し示すものとのカテゴリーの違いでした。つまり、sphaera caelestisは天空に広がる巨大な透明な球で自然物、一方、『尚書』の「天球」は人造の小さな器物です。もしも、「天球」の訳語が天球儀を意味するところから出発したのなら、このギャップも埋まると思うのです。

まとめのようなもの

中国は古くから数学や天文学を含め、分厚い文明の蓄積があります。その中に、どのようにして異質な西洋の学問を取り込むか。徐光啓の「鎔彼方之材質、入大統之型模」(西方の材料を溶かして、大統の型に入れる)は、そのような問題意識を如実に表しています*23。しかるに、彼が主導した『崇禎暦書』は、一瞥して「大統之型模」から大いにはみ出していることが明らかです。三角法も幾何的なモデルも中国に全く欠落しているのだから当然のことで、『幾何原本』の翻訳に関わった徐光啓は、十分それに自覚的だったと思います。つまり新知識は、中国の学問の組み替えを、多少なりとも強制するものでした。これをどのように受け止めるのかは、当時、大問題だったはずです。

翻訳語の選択も、そういった取り組みの一部だろうと思います。知識量からして、「天球」や「九重天」を引っ張ってきたのは、李之藻徐光啓彼らの方でしょうし、この選択には彼らなりの意図があると思います。一方、それを受けての言葉の運用は、マテオ・リッチらの側に基本的には委ねられていたはずです。特に彼らが言語に習熟した後では。『乾坤体義』などは、リッチが中国に来て随分と経ってから公開されたものです。このあたりの両者の相互作用の機微については、相当の研究がありそうで、一度勉強してみたいものですが、こうやって定着した「球」という用語は、球体を表す数学用語として旧来の用語を押し退けてしまいます。

主な参考文献
  1. 橋本敬造、『崇禎暦書』の成立と「科学革命」、1981 http://hdl.handle.net/10112/00022864
  2. 田村誠・吉村昌之 「『九章算術』訳注稿 (12)」大阪産業大学論集 人文・社会科学編 13  (2011.10), 1--19https://osu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1096&file_id=18&file_no=1
  3. 黄河清“‘地球’释源”,北京:《地球》,2001年第4期;黄河清“‘天球’、‘地球’、‘月球’、‘星球’考源” ,北京:《科学术语研究》,2002年第4期。 ;黄河清“‘利玛窦对汉语的贡献", 《語文建設通訊》2003年第74期。黄河清”地球”冶探源, 中国科技术语/2017 年、第19 卷 第 3 期
  4. 福本 雅一、中国における撃毬の盛衰と撃毬図屏風について、京都国立博物館学叢 = The Kyoto National Museum bulletin / 京都国立博物館 編 (21), 1999-03https://cir.nii.ac.jp/crid/1523951030935329024
付録:『康煕字典』の「球」

以下、改行と番号は筆者。

  1. 《唐韻》巨鳩切《集韻》《韻會》《正韻》渠尤切,x音求。
  2. 《說文》玉磬也。《書·益稷》夔曰:戛擊鳴球。《傳》球,玉磬也。
  3. 又《廣韻》美玉也。《書·顧命》天球河圖在東序。《詩·商頌》受小球大球。《傳》球,玉也。
  4. 琉球,國名。詳後琉字註。
  5. 又《集韻》渠幽切,音虯。
  6. 美玉名。《集韻》或作璆。

まず、基本知識として、『康煕字典』に乗っている語義は、全て過去の辞書類や古典から集めています。よって引用だらけで、地の文はほんの少しです。上では、引用元を《》に入れて表示しています*24。1と5は発音の説明です。漢字は二つ以上の音のあるものが沢山あります。「球」の場合、二通りの発音があることがわかります。音が違うと、字面が同じでも違う単語です。2-4は1の発音をするときの意味で、6は5の発音をするときの意味です。そして、「又」で区切られるごとに、違った意味が提示されています(なので、「又」の直前で改行しているのです)。

2,3,4,6が意味を説明しているわけですが、4は国名、6は固有名詞。打楽器「玉磬」という意味は2で、美しい玉という意味は3になります。

一部、フォントが足りなかったので、影印へのリンクを貼っておきます(武衛殿本)
康熙字典網上版 KangXiZiDian.Com

付録2:明末清初の数理科学文献

冒頭述べた通り、宣教師たちの一部は途中で一時帰国し、本格的な第二次派遣団を組織して戻ってきました。そして、いよいよ西洋天文学による改暦事業がスタートします。これを境に、文書の内容は専門性を増し、宗教的・哲学的な色彩を薄めます。改暦事業に関係した文書の代表が徐光啓撰『崇禎暦書』を構成する文書で、それ以前の文書の代表が李之藻撰『天学初函』に収められる諸文書です。また『天学初函』以外にも、初期のマテオ・リッチらの世界地図『輿地山海全圖』『坤輿萬國全圖』『乾坤体義』は、影響力が非常に大きかった。また李之藻とフルタードの『寰有詮』は時期は遅いのですが、アリストテレス『天体論』の抄訳+注釈で、概念の導入史からいっても、興味深いところです。

これらの文書は、ある程度インターネットの公開資料で内容を窺い知ることができます。ただ、『崇禎暦書』は公開されておらず、アダム・シャールのいくつかの著作を追加して清朝で編纂された、『新法算書』を見ています。清が中国に入ってきたタイミングで、アダム・シャールは自らの著作若干と『崇禎暦書』をまとめた『西洋新法暦書』を献上し、暦の編纂を任されます。後にこれが四庫全書に『新法算書』として取り入れられます。ただし、これら3つは完全に同じなわけではなく、若干の改変がほどこされているようです。そもそも、『崇禎暦書』にもいくつかの版があるそうです。

このように複雑な来歴の文書の、未校訂の本を素人が見ているので、限界は自ずとあります。

見落としいた文献:章太炎『章太炎説文解字授課筆記』

これは、章太炎という、清末〜民国期の儒学者・政治運動家の日本滞在時の講義の筆記録です。取り上げられているのは、現存最古の字書『説文解字』ですけど、字書そもものだけでなく、各々の「字」についても論じています。そんなのどこで読んだんだよ…と思われるかもしれませんが、数字化という字書のサイトで引くと、字書本文のあとに、同書の関連する部分が引用されています。

「球」の項目を引くと、『詩経』商頌の「小球大球」という文言の解釈が論じられ、その中で「球」が円体を表す理由を考察しています。書く前に、これを参考にすべきでした。曰く、同じ音の文字で、球形を含意する文字が多い、と。

王氏注,拱梂皆訓灋,凡从求聲之字,多有圓意。如裘(裘必團毛使之圓?),莍(莍食?)、鞠(平聲為球)。

なぜ「鞠」があって「毬」がないかというと、「撃毬」のところで引いた福本論文の最初のページに

…鞠はもともと獣毛を皮包んだ蹴鞠であり、唐になってから毬の字を用いたことがわかる。

と書いてあるような事情だと思います。「鞠」の球形のもの一般を表す比喩的な用法も、調べるべきでした。ただ、鞠以外の二つの文字は、若干分かりずらいです。「裘」は皮や毛皮で作った衣服ですし、()内は筆記者の注記と思われますが、解釈に苦慮しているようにみえます。

「毬」の「球」に似た字体

なお、あまり関係ないかもしれませんが、「毬」にはこんな字体もあります。

「毬」の字体の一つ。陸游『老學庵筆記』卷一、乾隆御覽四庫全書薈要本、ctext.org.

あまりにも球に似ているので、なんとなく気になりました。

*1:『九章算術』には、魏晋の劉徽と唐の李淳風が注をつけています。この部分については、どいらの注か不明のようです。また、劉徽は「丸」を用い、後漢の暦算家の張衡は立圓(球)は「渾」だそうです。田村誠・吉村昌之、2011を参照。

*2:学研NPS版、Ver..1.10, 1998年

*3:撃毬は唐の初期から盛んになり、明の中ごろに急激に言及がなくなるそうです。福本、1999

*4:黄、2017

*5: 紹陶録巻下、四庫全書・文淵閣本。漢籍リポジトリhttps://www.kanripo.org、及び十萬卷樓叢書本、ctext.org。

*6:ctext.org提供の摛澡堂四庫全書本、人文研の漢籍リポジトリ提供の四庫全書・文淵閣本(ともにテキスト検索の後、ヒットした箇所を影印でチェック)し、中央研究院の漢籍電子文献でも検索。

*7:『兩宋名賢小集』巻一百九十六。漢籍リポジトリhttps://www.kanripo.org

*8:https://www.digital.archives.go.jp/file/1257783.html

*9:国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000030087&ID=&TYPE=、28/63。

*10:ただし、データベースの検索でヒットする中には、重複もあります。同じ文章が別の文献に引用されていたり、異本も別件にカウントしたり。また、適切でない例も紛れているでしょうし、データベースのテキスト化の間違いや、文献の偏りも気になります。しかし、これだけはっきりとした差が無意味だとは思いません

*11:一つは既に述べた「屈陸兒」、もう一つは『欽定日下舊聞考』卷四十九。これ以外に『圖經衍義本草』から二件かかったのですが、影印で確かめたところ、「如毬」でした。他は翻訳運動の派生物か、別の意味でした。

*12:ctext.org提供の摛澡堂四庫全書本。テキスト検索ののちに影印でチェック。テキストデータでは「球」となっているものが影印では「毬」である例多数。

*13:『御製樂善堂全集定本』巻十八、漢籍リポジトリ

*14:黄、2001; 黄、2002; 黄、2003;黄、2017

*15:黄、2003では『尚書』の天球について「“天球”在汉语中原指一种球形的玉石」、すなわち「中国語では元々は球形の玉石を指す」と述べ、『漢語大詞典』の「天球」の項を見よとあります(黄、2002などにもほぼ同様の記述)。しかし、該当の項目を確認したところ(オンラインで無料で見れる範囲にあります)、「天球」の形状についての記述はなく、色について鄭玄注と同様の記述がありました。なお、黄2017ではこの記述は修正され、「《汉语大词典》收有“天球冶 条。 “天球冶 一词古已有之, 原为玉名或琴名。 至于这种玉或琴是怎样的形状,《汉语大词典》没有具体说明。 见该词典第 2 卷 1432 页“天 球冶条。」と妥当な記述になっています。

*16:馬融の注、“球,玉磬”が『尚書正義』に載せられていますし、朱子朱子語類』樂古今でも、「但大樂亦有玉磬,所謂『天球』者是也。」とあります

*17:「璿璣玉衡」の解釈の変遷については、Cullenによる専論があります。https://www.jstor.org/stable/616703。『史記』天官書では、北斗七星と結びつけられていました。なお、「玉」という素材は「天」とご縁が深いです。例えば「壁」という真ん中に穴の空いた円盤型の玉製品は、天としばしば結びつけられました。康煕字典をひくと、「《玉篇》瑞玉圜以象天也。《白虎通》璧者,外圜象天,內方象地。」などとあります。

*18:つまり、ninth sphere を認めるバージョンだったようです。

*19:黄,2017

*20:黄、2002

*21:地與海、本是圓形、而㒰為一球、居天球之中、如雞子、黄在青內

*22:この続きには「大地の性質に反して回転できる」と書いてあります。イエズス会なので、地球は動かないことになっている。

*23:橋本、1981、p.74

*24:版本は、ctext.orgで提供されているものを用いました。

亡国の音?~基準ピッチをめぐる中国の論争

西洋クラッシク音楽では、ピッチ(音の高さ)は近年上がり気味だと聞いたことがあったので、検索したら次のブログがでてきました。どうやら、自分が小耳に挟んだ話はただの噂だったみたいです。しかし、近代以前は基準ピッチの規定すらなく、場所や時代によってバラバラだったようです。
note.com

東洋音楽についても触れていて、律管(音の基準を決める管楽器)の長さで基準ピッチが規定されていたと説明されています。これは、西洋の事情との比較としては、適切なコメントなのだと思います。しかし、律管の長さが規定されているといっても、肝心の「尺」の長さは決して安定していません。南北朝の分裂期では地域ごとの違いも甚だしく、統一の過程で激しい論争が起こりました*1五代十国の分裂後も同様です。

中国の音律と度量衡が整備されたのは、前漢から後漢への移行期の頃です。新の王莽に命じられた劉歆は、既存の制度を若干手直しして、経書をもとに理論的な背景を整えます。この内容は『漢書』律暦志に詳しく記され、後世よく参照されることになりました。なお、長さの尺度に関しては、周から漢に至るまで、あまり変わっていないようです(丘光明,2001)。

亡国の音:三国時代の後

しかし後漢に入ってから、一尺の長さは少しずつ大きくなっていきます。(この傾向は、明清くらいまで変わりません。)早くも三国時代の魏においては、漢尺からずれていたようです。そこで晋の最初に荀勗(荀彧の一族)が古い尺の現物を比較考察して補正し、音律も修正します。ところが、竹林の七賢阮咸は新しい音律をきいて、「高すぎる」と訝しみます。『晋書』律暦志によると:

聲高則悲,非興國之音,亡國之音。亡國之音哀以思,其人困。今聲不合雅,懼非德正至和之音

興国の音ではない、亡国の音だ、と。太字部分は、最後に補足するように、古典からの引用です。音楽そのものに、人心を左右する力があると信じられていたのです。

阮咸の論は採用されないのですが、あとになって古尺が出土して、荀勗の定めた尺よりも少しだけ長く、世間は阮咸の耳の精緻さに驚いたとのこと*2

阮咸の音感、恐るべし…といいたいところですが、丘光明氏は、実物の古尺の比較検討から、後漢を通じてほぼ荀勗が推定した程度に長くなっていると見ています。出土した古い尺が荀勗の尺よりも長かった理由は、尺の工作のばらつきのせいか、あるいは見た目よりも新しかったからか、どちらかの可能性が高いと思います。『晋書』『隋書』の律暦志(ともに李淳風撰)によると、荀勗は七つの古物を比較し、そのうち一つはやや長く、一つはやや短く、残りの五つは両者の中間で同じ長さだったので、これをもって尺を定めたといいます。中々緻密な手続きであって、李淳風も彼の復元を重視しています*3。本稿では、荀勗が定めた尺(晋前尺)を単に「漢尺」ということにします。

南北朝末期の復古

このあと、五胡十六国の騒乱で特に華北は著しく荒れてしまい、音律も尺度も乱れてしまいます。総じて、華北の尺はかなり長くなります。一方の南朝では、宋で少し長くなった(1.064倍)あとはだいたい安定しています。

華北でも、小国を統合して北魏が成立し、漢化政策で有名な孝文帝が登場すると、音律と度量衡の議論が始まり、唐の建国まで続きます。ここでは、とくに隋の高祖の頃の、基準ピッチに関わる議論を紹介します。

隋の建国当初(開皇年間)、楽律の制定作業をリードしていたのは、鄭譯や牛弘といった北周から引き継がれた専門家たちでした。この作業に加わっていた萬寶常という天才肌の人物がいたのですが*4、完成した楽律の奏上の際、高祖に意見を尋ねられ、

「此亡國之音,豈陛下之所宜聞!」

「これは亡国の楽律で、陛下がお聞きになるべきものではありません!」と、いきなり厳しいことを言ってしまいましす。高祖の反応は「不悅」(不快感を示した)と書いてありますが、萬寶常は独自の音律の制定を許されます。では萬寶常はこの時、基準ピッチにどのような不満をもったのでしょうか?

牛弘や鄭譯らの音律は北周での議論を引き継ぎ、南朝の定めた尺に準拠しています*5。「後周鉄尺」あるいは「宋氏尺」と呼ばれますが、既に述べたように、漢尺よりも少しだけ長い(1.064倍)。一方、萬寶常の定めた尺の長さは漢尺の1.186倍。つまり牛弘らに比べると、律管を長くしてピッチを下げているのです。

よって彼も晋の阮咸と同じく、「高すぎる」と不平を言ったことになります。なお、阮咸は伝説的な弦楽器の名手であり、萬寶常も各種楽器の演奏に通じた演奏家でした。実践家の感覚としては高すぎる音が、実はより古い音律に近かったわけです。

ところで、なぜ高祖は萬寶常に新律の作成を許可したのでしょうか? 華北に比べると、南朝には古い文化がよく保存されていました。いきおい、牛弘ら学者の議論は、南朝風の音律に近くなってしまいます。それに対して、高祖が「なぜ亡国の音を採用しなければいけないのか」と拒否する一幕もありました*6。少し触れたように、北朝の尺はかなり長めで基準ピッチは低かったのです。萬寶常の音律はそちら側にかなり寄せています*7

結局、萬寶常の新律は不評で採用されずに終わりました*8。しかし、『隋書』律暦志でもわざわざ「開皇十年萬寶常所造律呂水尺」としてとりあげているので、かなり印象に残ったのだと思います。

五代の争乱の後

次の唐は、隋の議論を引き継いで度量衡と音律を整えます。北朝の系統の尺は常用尺(大尺)として残り、南朝系統の宋氏尺が黍尺、あるいは小尺とよばれて音律用に用いられました。なお、両者の比率は1.2:1くらいとのこと。

しかし、五代十国の騒乱でまた制度が曖昧になってしまいます。そして、五代末期の後周の学者政治家の王朴が、『漢書』律暦志の記述をもとに音律を「復活」させます。それは、「累黍」といって、上黨郡牛頭山の黒黍から中くらいの大きさの黍を選んで90粒並べ、その幅を基準音「黄鐘」の律管の長さとするのです*9南宋の蔡元定『律呂新書』によると、王朴は古い伝来の尺などを参考にすることなく、専らこの「累黍」に頼ったとのこと*10*11

後周のあとをうけて中国を統一した宋は、当面はこの王朴律を継承します。しかし、宋の太祖は

先是,帝每謂雅樂聲高,近於哀思,不合中和 (『宋會要輯稿』楽・律呂)

つまり「雅楽の音が高すぎる」として新たな音律の制定を命じました。

王朴律は本当に高過ぎたのかでしょうか?文献をあたると、王朴尺は漢尺の1.02倍という数値があがっています*12

宋尺の現物については、丘光明,2001にリストがあるのですが、常用尺ばかりで律尺はありません*13。そこでグーグルで検索してみたところ、東京国立博物館所蔵の一品が引っかかりました。

長さは21cmちょっとです。仮にこれが9寸(基準音である、黄鐘の律管の長さ。1尺=10寸)だとすると、

  • 0.9x1.021(宋史の記述)x23.1cm(丘光明による漢尺の推定値)=21cmちょっと

となって、整合します。ウエッブページにはサイズ以外に一切情報がないので、なんとも言えませんが。

数値を見れば明らかなように、王朴尺は、唐の律尺=(南朝の)宋氏尺よりも、さらに漢や周の尺に近かった。ところが、宋の太祖もまた前の王朝の定めた王朴律に対して、「高すぎる」と文句をつけているのです。

太祖の命をうけた和峴らは、天体観測器具に残る尺と黍を数える方法を併用して、新たな尺を定めます。これは、唐の小尺、すなわち「(南朝の)宋氏尺」とほぼ同じでした。中々の手際だと思うのですが、和峴らの音律はなぜか不評でした。

宋は名君仁宗の下で最盛期を迎えます。この時代の音律家の李照は下問に答えて、「今の雅楽古楽より五律も高い」*14と断定します。なお、この時の演奏は王朴律に基づくのですけど、和峴の音律も高すぎるという評価でした。そこで仁宗は李照に新たな音律を具体化するように命じ、同時に音律に詳しい学者たちの意見を募集します。これ以降、宋では実に様々な音律が提案され、定論を見ません。それらはいずれも王朴律はもちろんのこと、和峴らの音律よりも低く、ただその多くは李照律よりは低いです*15*16

まとめ

ふりかえって、戦乱で音律が乱れたあと、ほぼ確実に音律の話で揉めています。そして漢のピッチに近いものが再現されると、ほぼ毎回、「高すぎる」というクレームが残りました。高くて「哀」で亡国の音だ、と。低くて重厚な感じがこのまれたのでしょうか?

追伸1

本記事では音の高さとイメージについての具体的なコメントのある論争だけを拾いました。しかし、この他にも激しい論争が沢山ありまして、北魏では、あまりに苛烈な論難をしたために、死刑を言い渡された元匡のような例もあります(結局は赦された)*17。これは政治的な対立が大いに絡んだ結果のようですが…また、本稿では基準ピッチの話ばかりしましたが、論点はそればかりではありませんでした。

追伸 2

上で引用した荀勗(荀彧の一族)の音律に対する阮咸のクレーム

聲高則悲,非興國之音,亡國之音。亡國之音哀以思,其人困。今聲不合雅,懼非德正至和之音*18

なのですが、これはある種の決まり文句で、元ネタは『礼記』楽記篇や『毛詩』大序の一節です。前者のほうで引用すると(太字が阮咸のクレームと共通)、

凡音者,生人心者也。情動於中,故形於聲,聲成文謂之音。是故治世之音,安以樂,其政和。亂世之音,怨以怒,其政乖。亡國之音,哀以思,其民困。聲音之道與政通矣。

『毛詩』大序もだいたい同じ*19で、『古今和歌集』の序に影響を与えたそうです。解釈については、次のブログが懇切丁寧です。

ざっくりというと、「亡国の音楽は悲しくて、民衆が苦しんでいるのがわかる」などと、人心と音楽の間に影響関係を認める説です。

この説を最初に見た時、「辛い時に聞いた音楽は悲しく聞こえるよね」と納得しかかったのですが、そういう考え方は「声無哀楽論」(音そのものには哀楽はないとする議論)と言われる異説だそうです。古典的な説では、音楽自体に哀楽が宿り、音楽が人心に直接作用するらしいです。

唐の初期、楽律の議論において、やはり南朝の斉や陳の楽曲を「亡国の音」として嫌う議論がありました。それに対して太宗は、「夫音聲感人。自然之道也。故歡者聞之。則悅。憂者聽之則悲。悲悅之情。在於人心。非由樂也。(『唐会要』巻32 雅楽)」つまり、「聞く人の心理状態によって、楽しくも悲しくも聞こえる。悲悅は人の心にあるのであって、音楽そのものの中にあるわけではない。」として異論をなだめました。

「声無哀楽論」は以下のブログがわかりやすいです。https://chutetsu.hateblo.jp/entry/2022/02/08/120000https://chutetsu.hateblo.jp/entry/2022/02/15/120000

主な参考文献
  1. 丘光明、中国科学技术史 24 度量衡卷、科学出版社、2001
  2. 丘光明著、加島淳一郎訳、中国古代度量衡、計量史研究 22[23]2000
  3. 丘光明著、加島淳一郎訳、中国古代度量衡(3)、計量史研 究 23 匚24] 2001

*1:なお、以下で扱うのは、国家の儀式で使う音楽のことであって、民間や仏教寺院の音楽は話が別です。また公的な音楽にあっても、律書での規定と実際のチューニングには、多少の違いがあった可能性があります。これは論理的な可能性だけではなくて、現存する古楽器などを材料にして、真面目に検討されている話です。

*2:世説新語』では、阮咸が左遷させられたという話がついていて、また阮咸の不満もかなり控えめに書かれています。『世説新語』の文章は、若干の言葉が補われてそのまま『太平御覧』雅楽下にも引用されていますから、よほど広まったのだと思います。また、『晋書』巻49・阮籍伝にも左遷の件は述べられています(『晋書』列伝と律暦志は著者が異なります)。

*3:「勖於千載之外,推百代之法,度數既宜,聲韻又契,可謂切密,信而有徵也。而時人寡識,據無聞之一尺,忽周漢之兩器,雷同臧否,何其謬哉!」(『晋書』律暦志・審度)。同じ著者の『隋書』律暦志も同様です。

*4:『隋書』第78巻列伝「芸術」

*5:『隋書』律暦志一・審度。この考証においては、古い計量器や計測器の検証のほかに、後に述べる「累黍」、つまり黍を並べて長さを測ったり、容積を測って『漢書』の記述と比較する方法も併せて用いられました。そのとき、黍を縦に並べるか横に並べるかが屡々議論になりました。黍は楕円形なので、並べ方によって幅が違うので…

*6:『隋書』音楽中「開皇二年,…高祖不從,曰:「梁樂亡國之音,奈何遣我用邪?」」

*7:この時の隋の基準ピッチは、おそらくは北周の最後の制度を踏襲していると思います。対応する尺は「蔡邕銅籥尺」、または「後周玉尺」とよばれて、漢尺の1.158倍。

*8:一方で、ある仏教僧からは好意的なコメントがあったことが記されており、西域の音楽との交流のあとがちらりと見えます。実は、音律の制定をリードした鄭譯も、中々議論が定まらないので、龜茲人の蘇祗婆が齎した、胡琵琶を用いた音律の採用を提案しています。これも採用はされず仕舞いでしたが。(『隋書』音楽志中,及び以下のp.15を参照。 渡辺進一郎、雅楽の来た道ー遣唐使と音楽、専修大学東アジア世界史研究センター年報 第2号 2009年3月(5) )。

*9:この手法は、古い計測器の現物の考察と併せて、南北朝時代やその後の北宋でも盛んに用いられました。最後の「累黍」による尺の決定は、清の康熙帝の時です。

*10:なお、『旧五代史』に王朴が累黍で音律を定めた旨が書かれているのは確かなのですが、累黍「だけ」なのかは、素人の感想ですけど、断言しがたく思います。むしろ、『隋書』律暦志のような文献に依拠しているのでは。

*11:彼の音律はかなり独特だったらしく、陈其射『中国古代乐律学概论』でもややスペースを取って諸説が紹介されています

*12:陈其射『中国古代乐律学概论』の王朴律の節の注。また、丘光明,2001の宋代の尺度についての節に、楽律で使われた尺を扱った小節があって、そこに様々な律尺とその長さの一覧表があり、その表からもこの数値はチェックできます。一次資料では、『宋史』律暦志四、あるいは『宋會要輯稿』楽・律呂に「王樸律準尺比漢錢尺寸長二分有奇,比影表尺短四分…」「又有後周王樸律準尺,比晉前尺長二分一厘,比梁表尺短一厘,有司天監影表尺,比晉前尺長六分三厘,同晉后尺」とあります。漢錢尺はおそらく漢尺と同じでしょう。晉前尺は、すでに述べたように漢尺と同じです。やや多めに引用したのはクロスチェックのためです。梁表尺は漢尺の1.0221倍(『隋書』律暦志一・審度)、そして影表尺は上の引用文の末尾にあるように漢尺の1.063倍ですから、辻褄はあっています。影表尺と同じとされる晋後尺も『隋書』律暦志一・審度に記載があって、上の数字をチェックできます。

*13:すでに述べたように、唐の始めにおいて、常用尺である大尺と音律及び天体観測用の小尺が分かれました。それ以降、両者は分離しています。

*14:小島毅, 宋代の楽律論、p.277。同p.278。

*15:丘光明,2001の宋代の尺度についての節に、楽律で使われた尺を扱った小節があって、そこに様々な律尺とその長さの一覧表があります。

*16:宋の音律については、小島毅, 宋代の楽律論、東洋文化研究所紀要、vol. 109 pp.273-305

*17:『魏書』列伝第七上、元匡

*18:『晋書』律暦志・審度

*19:情發於聲,聲成文謂之音。治世之音安以樂,其政和;亂世之音怨以怒,其政乖;亡國之音哀以思,其民困。

インドの三角関数の近似

このブログは、以下のスレッドをまとめたものです。

インドは三角関数の発展で独自の貢献をしてきました。一言でいえば、「インド人は、ギリシャ人の証明した定理と同じくらい、素晴らしい計算をした」*1のです。手始めに、ギリシャ流の不便な「弦の表(chord、すなわち 2\sin(x/2))を計算に適した正弦(sin)に置き換えました。よって、世界最古の正弦(sin)の表はインドなのですが、表の作成におえる彼らの手法は極めて独創的です。現存最古の表は5世紀おわり~6世紀はじめの、アーリヤバタのものなのですが、二階微分を用いた補外に基づきます。また、7世紀のブラフマグプタは、二次補間式を用いています。14世期に始まるインド南部のケーララ学派では、現代流に書き直すとテーラー展開が得られる、非常に洗練された算法を開発されていました。これらも後世の数学の発展を先取りしているようで驚きなのですが、以下では現代の数学では現れない、独特の「インドならでは」の三角関数の近似をとりあげたいと思います。

なお、三角関数のおおまかな歴史については、以前記事をかきました。
gejikeiji.hatenablog.com

バースカラⅠ世

バースカラⅠ世は7世紀に活躍した、アールヤ派の数学者・天文学者です。彼のMahabhaskariya (バースカラの大著作)には、次のような不思議なsin の近似式があります。今、\thetaを「度」で表した角度だとすると、
\sin(\theta)\approx \frac{4\theta(180 − \theta)}{40,500 − \theta(180 − \theta)}
係数が複雑なのは、全周が360°という人為的なきまりのせいで、変数を適切にとると実にシンプルな式になります。次の式では、角度は弧度法です。
\sin(x)\approx \frac{16x(\pi-x)}{5\pi^2-4x(\pi-x)}
これでずっとすっきりしますが、[\tex:\pi]が度々出てくるので、\sin(x)のかわりに\sin(\pi x)を考えると、
\sin(\pi x)\approx \frac{16x(1-x)}{5-4x(1-x)}
と非常にシンプルになります。これをプロットしてみると、実によく合うことがわかります。

ぴったり合い過ぎてかえってわかりにくいのですが、誤差は一番悪いところで0.0018くらい。両端と30°、90°のところでsinと一致する様に、係数は調整されている模様。

sinとバースカラⅠ世の近似の差

なお、少し係数をいじって他の点でsinと一致するようにすると、とたちどころに誤差は拡大してしまいます。例えば30°のところで合わせるかわりに45°のところで合わせるようにすると、

改変して、45°でsinと合うようにした場合。

縦軸のスケールがかわってしまっていて見にくいですが、数値を見て頂くとわかるように、最悪のところでの誤差が0.003くらいまで増えてしまっています。つまり、バースカラⅠ世かなり最適に近くチューンされているようです。

なお、この式をツイッタ―(X)で呟いたところ、「Pade近似ではないか」との指摘がありました。これは、ざっくりいうとテーラー展開の有理関数版です。つまり、微係数やを合うようにするのです。
Pade近似とは #制御工学 - Qiita
もしそうなら、それはそれで驚きなのではありますが、実際は違います。バースカラⅠ世の式の微係数は全くsinと合いません。そして、最悪ケースの誤差をみるかぎり、Pade近似よりもバースカラⅠ世の近似の方がよいのです。Pade近似で0°~180°の範囲でよく合う式を作るなら、真ん中の90°のところを中心にしてPade近似をするのがよさそうです。ここでは用いたツール(Wolfram alpha)の都合で、sinのかわりにcosにし、x=0を中心にしたPade近似の誤差を計算しました:

Pade近似

さすがに中心付近ではぴたっと合います。しかし、両端で急激に悪くなってしまいます。

世界最初のsinの表が登場して100年余りでこのように優れた近似が登場したことは、極めておどろくべきだと思います。

16世紀のインド中部、三角関数の放棄?

世界に先駆けて三角関数数値計算の技法に磨きをかけたインドですが、16世紀初頭のNandigrama(真ん中の西のほう)のガネーシャの天文計算の書は、なんと三角関数表を用いない!のだそうです。

たとえば、
 \phi=\arcsin(\frac{s}{\sqrt{s^2+12^2}})

\phi\approx 5s-\frac{s^2}{10}
と近似されています。式をよーくみるとわかるとおもいますが、\phiの定義式は奇関数ですから、テーラー展開すると、二次の項はないはず。なのに、近似式は二次関数。こんなの合うはずないと思うじゃないですか。ところが、図を書いてみると、s=20くらいまではかなりよく合います。

ガネーシャの近似式

これより少し前(14世期)からインド南部のケーララでは、円弧の長さや三角関数多項式で近似する手法が開発されていました。思想的には少し似たものがあるのかもしれません。

冒頭で述べたように、ケーララ学派の算法を現代的に書き直すと、テーラー展開になります。彼らの数学については、インターネット上で解説が多く上がっています。

主な参考文献
  • Glen van Brummelen, The mathematics of the heavens and the earth: the early history of trigonometry, Princeton, 2009
  • Kim Plofker, Mathematics in Inda, Princeton, 2009

*1: 'Indian mathematicians were as skilled at computation as their Greek counterparts had been at geometric proof.',   van brummelen,  p.94

黄色は明るい~明るさと色の関係

色は、なかなか複雑な構造をした感覚です。これを整理して図示したのが表式系ですけど、心理的な印象に基づく体系だけに絞っても、何種類もあります。なぜ一本化出来ないかというと、各々、独自の強みと弱みがあるからです。つまり、一つの図式では十分に表現出来ないほどに、色は込み入った構造を持っているのです。ただ、どの表式系も三次元に色が配置されている点は共通で、色の三次元性は19世紀も半ばになってやっと整理されてきました。それまでは、大小様々な混乱がありました。

色と明るさの関係などはその一つではないかと思います。現代のどの表式系でも、明るさをあらわす属性(明度、輝度など)が色相(hue)と分離した独立の性質として建てられています。例えば、同じ「黄」や「青」の色相であっても明るい色もあれば暗い色もある、ということになります。

アリストテレス的体系

しかるに、アリストテレスに代表される、古典期ギリシャの色の体系は、この色相と明るさは強く関係付けら得ていました。アリストテレスは、色を「明るい」順番に以下のように一次元的に配列します。

アリストテレス的な色の系列

そして、全ての色は白と黒の「混合」で生じるとしました*1

現代では、すでに述べたように色相と明るさは別の属性だと考えられ、通常は3次元空間で表現されます。また、白と黒のどのような混合でも中間の色は生じませんから、この理論は控えめにいって未熟なのです。

明るい色と暗い色

しかし、色が「明るさ」に着目して配列されている点は興味深いです。先ほど、色相と明るさは別の属性であると述べました。しかるに、黄色を青に比べて明るく感じるのは、かなり一般的な感覚だと思います。このあたりを、現代の表色系ではどのように処理しているのでしょうか?

既に述べたように、現代は様々な表式系があるのですが、その一つ「マンセル表色系」の場合で説明します。マンセル表色系では、色相のほかに「明度(明るさ)」と「彩度」という属性を考えます。彩度とは色味の強さのことで、白〜灰色〜黒ではゼロの値をとり、そこから遠ざかるほど大きな値になります。おのおのの色相で彩度のもっとも高い色を「純色」といいます。

確かに同じ色相の中にも明るい色も暗い色もあるのですが、純色に着目すれば明るさの比較ができます。たとえば、「黄色は青よりも明るい」という言明は「純色で比較するなら」と注釈を加えれば、マンセル表色系でも意味のある言明になります。

アリストテレスの時代に「純色」の概念は望むべくもありませんが、色の混色の観察は断片的ながら適切ですし、ぼんやりと「純度の高い色」の認識はあったと思います。そして、一次元に並べた五つの色は、なんらかの意味で「主要な色」だとの認識だったと思われます。なぜ際立った色が数少ないかについて、『感覚と感覚されるもの』の中で音律とのアナロジーを持ち出しています。つまり、これらの主要な色は2対3や4対3のような単純な整数比に対応するのだ、と。

しかし、不思議なことに黄色や赤はともかく、leak green(πρασινον)とはくすんだ緑色です。なぜこの色が主要な色に選ばれたのでしょう。色の体系の整合性の問題なのかもしれませんが、私には不明です。

中世における変容

中世になると、染色の技術も盛んになり、また職人たちにも技術について文書を残すものが現れ、また知識人も技術に興味を持ちます。

するとやがて、染料の色を濃くしていくと明るい色から暗い色に変化することが注意され、アリストテレス的な1次元的な配列にも変化がもたらされます。

たとえば、ラテン語にも翻訳された、イランのイブン・スィーナー『魂論』の色の理論では、白から黒に至る系列が三本記述されています。

また、13世紀の博学者トゥーシーは、技術者Al-Jawahari al-Nishaburiに基づいて、5つ以上の系列を記述しています。このように染色の技術を媒介にして、多次元的な色空間が徐々に理解されていきました。

イブン・スィーナーの色の体系
トゥーシーの色の体系
中国の五色と色の明るさ

さて、明るさと色相を積極的に絡めた古代ギリシャに対して、両者をより分離してあつかったのが、前回も触れた中国の五色説で、この説では黒白赤青黄の五色を「正色」とします。つまり、黒や白と残りの三色は、対等の関係にあるわけです。
gejikeiji.hatenablog.com

今まで述べた西方の事情が念頭にあると、後漢の鄭玄の赤系統の色の系列は、ちょっと興味深いです。もっとも薄い「縓」という色から始めて、染色を繰り返すにつれて徐々に色が濃くなり、ついには七回目にして黒になります。各段階の色の名前は以下の通り。

回数 1 2 3 4 5 6 7
色名 赬=赤 緇=黒

この系列を作成するにあたり、彼は『爾雅』釈器と『周礼』考工記をあわせ、さらに欠落した4,6に相当する部分を独自の考察で補っています。

黒を混ぜると

色を濃くするには、何度も染めるほか、「黒を混ぜる」という手もあります。鄭玄も『周礼』考工記の注で

染纁者、三入而成。又再染以黒、則為緅。…又復再染以黒、乃成緇矣。

と述べています。つまり、さらに赤系統の染料にさらに漬けるのではなく、黒で染めるのも同じ効果をもたらすと考えていたのか、と。

今でも、黒や白をまぜることは、色相を変えずに明るさを変える手軽な手法として多様されています(彩度が落ちてしまいますから、安易な多用はいけないと教わりますが。。。。)、

『説文』と色の明るさ

後に鄭玄のこの構成は、注疏や正義に継承されていきます。また、彼の少し前に編纂された許慎の『説文』とも(細かい齟齬はあるものの)概ね整合性があるように思います。

ここでは『説文』で色の明るさをどう扱っているか、とくに鄭玄も述べた「赤の系列」において見ています。

まず、鄭玄の「赤の系列」の最も薄い赤系統の色を表す「縓」という字を調べてみると、

縓: 帛赤黃色。一染謂之縓,再染謂之䞓,三染謂之纁。

つまり、「縓」は赤と黄色の中間とされています。最初に見たときは、「オレンジっぽい色なのか、じゃあ鄭玄のいう薄い赤とは違うじゃないか」と思いました。しかし、続く「一染謂之縓,…」の部分は『爾雅』釈器からとってきており、鄭玄と同じ同じ色の系列が念頭にありそうです。実際、2回染色したときの色「䞓」については

䞓:赤色也。...

となっていて、「縓」は薄い赤で間違いないと思います。

つまり、薄い明るい色は染料を薄めても作れるし、また黄色を混ぜても作れる、と考えていたことになると思います。

また、鄭玄の系列で5段階目に当たる「緅」については

緅:帛青赤色也。从糸取聲。

となっていてます。つまり、「青」を混ぜると暗くなると思っていたのだすると、両者の辻褄が合います。

白を混ぜるか、黄色を混ぜるか

さて、『説文解字』では、薄い赤「縓」は赤と黃色の混色とされましたが、白を混ぜた場合については、

紅:帛赤白色。

とあります。「紅」は後に赤を表すようになってしまいますが、古典的には「間色」の一つとされており、明確に赤と異なる色でした。清の段玉裁曰く、「按此今人所謂粉紅、桃紅也。」、つまり今で言うピンク色だろうと。推測の根拠は説明してくれてはいませんが、今の日本の色の表現とほぼ一致しています。

確かに染料を薄めたのと白を混ぜたのでは彩度が違いますから、「縓」ではなく別の色である「紅」になる、というのはそれなりに納得できるところです。

しかるに、赤に黄色を混ぜると色相が変わってしまいます。同じ疑問は、暗くするために青を混ぜていることについても当てはまります。

ただ、後者の青との混色については、一応解決の目処があります。中国の「青」は英語でgrueなどといわれ、青から緑の間の非常に幅の広い色全体、あるいはその範囲の中のある特定の色を表します。ここでは、おそらくは黒に近い紺色なのではと思います。もしかしたら、「黄」についても同様で、現在の黄色よりも彩度の低い色を指していたのかもしれません。

よって「黄」や「青」で明度の調整をすることをさほど怪しむことはないのかもしれません。しかるに、「白」や「黒」との混色との使い分けの基準も、今のところわからないです。

今ひとつ体系的でない五色説

言わずもがなではありますが、『説文解字』の五色説に、近代の表色系のような精密さを求めてはいけないのでしょう。だいたい、「青」が上述のような多義性をもっている時点で、相当の意味の幅を覚悟しないといけないわけです。例えば、「濃い赤」と思しき「緅」は上に引用したように、

緅:帛青赤色也。

という説明だったわけですが、

紫:帛青赤色。

と完全に説明がバッティングしてしまっています。

付録:「説文解字』の白や黒との混色

なお、『説文』でも白や黒を混ぜている例は「紅」以外にもいくつかあります。

縹:帛青白色也。
黇:白黃色也。
㳷:青黑色
䵎:黃黑色也。

「縹」については、段玉裁の注を信じれば浅い青とのことで、辻褄があいます。

付録:色の三属性

色の構造の表現の仕方は一通りではありませんが、通常は3つの属性を用いいて表現します。例えばマンセル表色系では以下の3つを用います。

  • 色相(Hue) :赤、オレンジ、黄色、緑、青、紫。。。。といった色の方向性のこと。プリズム分光して現れる単色光の色は、各々異なる色相です*2
  • 明度(Value): 文字通り「明るさ」です。同じ色を出すライトでも、光の量を増やすと「明度」は上がります。
  • 彩度(Chroma):鮮やかさ。白、灰色、黒、といった「色味のない」色は彩度はゼロとされます(白〜灰色〜黒は明度が違うだけで同じ「色」)。それに対して、プリズムで分光したときに観測される単色光の色は、各々の色相で最も彩度の高い色(純色)です。
主な参考文献

*1:この「混合」は今一つ曖昧で、アリストテレス『感覚と感覚されるものについて』とアリストテレス派の『色について』の間でも違いがあります。絵の具の混色も視野にはいっていますが、それだけでもないのです。

*2:ただし、逆は真ならずで、紫と赤の間の色相の色は、いずれも紫と赤の単色光の混合で得られます。

「玄」は何色?~中国の染色と色

以前、中国の五行論的な五色説について書いたとき、それを減法混色(つまり染料の混色)の三原色との関係をかなり前面に押し出しました。
gejikeiji.hatenablog.com
五色説とは、

  • 五行(木火金水土)に対して正色(青赤白黒黄)を対応させる

赤青黄は減法混色の三原色ですし、白と黒も明るさを加減するのに使えます。そして

  • 2つの(刻の関係にある)正色の間に間色を対応させる

例えば、緑は青と黄の間、紅は赤と白の間といった具合です。ここまで調べた時は、

「五色説とは、基本的に減法混色の三原色説そのものでは?ただし明るさという次元を加味しなかったので、黒白も必要としたのは惜しかったね」

くらいに思ってしまいました。しかし、紫についてはなんと、これは黒と赤の間なのです。これを混色と見るのは、著しく困難でしょう。ただし、後漢の許慎『説文解字』では、紫を赤と青としています。ここから、私は概ね次のように考えました。

「恐らく、初期においては色の混色の知識の整理の中で五色説は出て来たに相違ない。この段階では、基本的に三原色説。それが五行説全体の整合性を保つために、紫を黒と赤の混合とするような無理な説になった」

しかし、この考え方はいくつもの穴がありました。今の私の考えは、

  1. 五つの正色には、特定の色を表す場合もあるが、かなり広い範囲の色を総称することもある。例えば、「青」は青から緑にわたる広い範囲をカバーし、この中の特定の色を表すこともあるが、この範囲の色のすべてを表すこともある。
  2. 五色が選ばれた理由の背景には、混色の知識との関係も大いにあるが、それ以外の理由もある。
    1. 古くからある代表的な色であった
    2. 服飾の序列化との関係で色の序列が必要となった*1  。
  3. 原色説というほどシステマティックではない。
  4. 色は物体の性質の一つであると思われてきた*2。すると、物質理論と色の理論が相互に関係するのは、当時の考えからいえば決して突飛とはいえない。

といったところでしょうか。混色との関係については、見た文献ではかなり言及があり、ひどく的外れではないです。しかし、すべての色が五色の混合で生ずるとする宣言を、私は今のところ発見できていません。例えばギリシャアリストテレス『気象論』で「画家たちが混色で作れない色」として「赤、緑、紫」をあげているのですけど、それに類した言明はないのです。

先の文章を書いたときには、一日か二日、さらさらっと斜め読みした結果をまとめただけで、まあ、色々と問題がありました(気がついた部分は直してあります)。

以下は、このところ調べたことがらを、「玄」という色を軸に整理したものです。

「玄」の重要性

『周礼・考工記』では、五色とならんでこの色を基本的な色としています。すなわち、方位と青赤白黒を結びつけ、「天地」がペアとして「玄黄」に対応するのです。

畫繢之事:雜五色。東方謂之青,南方謂之赤,西方謂之白,北方謂之黑,天謂之玄,地謂之黃。青與白相次也,赤與黑相次也,玄與黃相次也。

古代の技術書として有名な『周礼・考工記』は、『周礼』の欠落部分を前漢時代に他の記録から補ったもので、内容は春秋戦国時代のものだそうです*3。おそらく、これが書かれたころは、五行説的な色の説が整備・普及される前だったのでしょう。ここにおいては、「玄」は天に対応する色として他の五色に並んで、重要な役割を果たしています。

「玄」は赤黒

各種字書には、「玄」には「幽玄な様子」以外に「黒」や(古い用法として)赤黒といった意味が載せられています。例えば、後漢の許慎『説文』では

幽遠也。黑而有赤色者爲玄。...

と説明があります。染色のプロセスと関係づけるなら、赤系統の染料で何回も繰り返しと、だんだんと色が濃くなってゆき、ほとんど黒になる手前が「玄」。これは後漢の鄭玄以来の定番の解釈で、『周禮正義』に詳しいのですが、清朝の段玉裁の『説文解字注』に要領よくまとまっています。

凡染、一入謂之縓。再入謂之赬。三入謂之纁。五入為緅。七入為緇。而朱與玄周禮、爾雅無明文。鄭注儀禮曰。朱則四入與。注周禮曰。玄色者、在緅緇之閒。其六入者與。按纁染以黑則為緅。... 許書作纔。纔旣微黑。又染則更黑。而赤尚隱隱可見也。故曰黑而有赤色。至七入則赤不見矣。

これは、『爾雅』釈器の「一染,謂之縓。再染,謂之赬。三染,謂之纁。」と『考工記』の「以朱湛丹秫,三月而熾之,淳而漬之。三入為纁,五入為緅,七入為緇。」(上記引用のすぐあと)を合成して解釈したものです。『考工記』の記事では、朱*4で染めていることがはっきりと書かれています。『爾雅』釈器ではどう染めたかは書いてありませんが、三回染めたときの色の名前が同じことから、同一のプロセスだと考えて合成したようです。また後漢の許慎『説文解字』によれば、二回染めた「赬」は赤*5、七回染めた「緇」黒のこと*6。表にすると、

回数 1 2 3 4 5 6 7
色名 赬=赤 緇=黒

ここまででは「玄」は出てきません。しかし、上の表で空白の4回目と6回目に、後漢の経学者の鄭玄が「朱」(『儀禮』への注)、「玄」(『考工記』への注)で埋めています:

回数 1 2 3 4 5 6 7
色名 赬=赤 緇=黒

ただし上に引用したように、段玉裁もわざわざ経書の本文には記載のない旨を強調していますし、この点は『周禮正義』も同様です*7

この一連の記載で興味深いのは、

  • 経書が書かれた時点で、染料の色を濃くしていくとだんだんと色が濃くなって黒くなることが理解され、黒をこの手法で作っている

ことです。青系統の色については相当する記述は、見たことがありません。当然色が濃くなれば黒に近づくことは理解していたと思うのですが。

「玄」は黒

古くは「赤味を帯びた黒」という意味もあった玄ですが、後の時代になると「玄」は黒だという意味が一般的であるようです。上で引用した段玉裁の注は続きがあって、

緇與玄通偁。故禮家謂緇布衣為玄端。

「緇(=黒)」と玄は代用が可能で、ゆえに「緇布」を「玄端」といったのだ、と。現代の字書を見ると、唐や宋の詩*8のほか、『小爾雅』の「玄,黑也。」が引用されています*9

また、上で引用した『考工記』の文では「雜五色」という割に六つの色(赤、青、白、黒、黄、玄)が出てきますが、『周礼正義』の疏では

先挙六方有六色之事。但天玄与北方黒。二者大同小異。何者...

と黒と玄は大体似たような色であることを強調して、整合性を強調しています。

「玄」は天の色

上に引いた『考工記』では「玄」を天に対応させていましたが、『千字文』の冒頭の「天地玄黄」はあまりにも有名ですし、『易経』坤卦にも

天玄而地黃。《疏》玄,天色。

とあり、つまり天の色が玄なのだ、と。しかし天の色は黒や赤黒なのか?夜や明け方の空の色なのか?まあ、きっとそうなんだろうけとすっきりしないな…とモヤモヤしてた時に目についたのが百度百科の「玄色」の記事です。
玄色(颜色)_百度百科
いわく、「玄」はかつて青~緑の範囲の色で、これが天の色とされたとのこと。しかし、「青」の字がこの範囲の色を表すようになり、「玄」は意味を変えたとのこと。(なお、この「青」の字の意味の守備範囲の説明は標準的です。)しかし、「天とよく結び付けられた」くらいしか論拠が挙げられておらず、他に同じ説をとる文献とも出会っていません。今のところは「心の片隅においておくか」程度に考えています。

付録:『周礼・考工記』の染色の記事

上で述べたように、『周礼・考工記』には、赤系統の染色を何度も繰り返して段々と濃い色を作るプロセスが書かれています。

鍾氏染羽。以朱、湛丹秫,三月而熾之,淳而漬之。三入為纁,五入為緅,七入為緇。

この部分を(徐,2014)を参考にしながら読んでみたので、メモ代わりに。

  • 鍾氏:染色を専門にしていた。
  • 羽:鳥の羽毛。
  • 湛:水に浸す。
  • 熾:炊く
  • 淳:水や液体に浸す
  • 漬:染める

訳としては

  • 「鍾氏が羽毛をそめるには「朱」を用いる。「丹秫」を水に浸し、三か月後に加熱し、この液体に浸して染める。」

くらいでよいのではと思います。問題は、この「朱」「丹秫」が何かということです。徐,2014では辰砂(硫化水銀)を用いたという説*10、また茜草由来の染料という説の両方を併記し、論争があると述べています。

参考文献
  • 李英,古代颜色观的发展—《说文》糸部颜色字考 《南华大学学报(社会科学版)》2002年 第3期
  • Bogushevskaya, Victoria. (2016). Wǔ sè 五色 Ancient Chinese ‘Five Colours’ Theory: What Does Its Semantic Analysis Reveal?. 10.31826/9781463236632-017.
  • 徐正英,常佩雨,『周礼』,中华经典名著全本全注全译丛书,中华书局,2014

*1:李永,2002, 「对“正色”和 “间色 ”的 区分 , 是与政治活动联系在一起的 。」以下。

*2:現代でも分光は物質の分析の重要な手段ですから、さほど的外れの考えとも言えないでしょう

*3:前漢時代,《周礼》が人々に知られるようになったとき,《周礼》を構成する天・地・春・夏・秋・冬の六官のうち,冬官の司空の篇がすでに欠けていた。そこで司空の役目に相当する内容を,前世の工芸に詳しい者の記録によって補ったのがこの篇だとされる。清の江永の《周礼疑義挙例》によれば,この篇のもととなった記録は,その内容や語彙から見て,東周時代(春秋戦国時代)の斉国の人がまとめたもの。」(小南一郎、考工記、『平凡社世界大百科事典』CDROM版) 

*4:辰砂、あるいはアカネ草類の植物染料とも。「付録」を参照のこと。

*5:赬:赤色也

*6:緇:帛黑色。

*7:さらに『周禮正義』では、『爾雅』釈器と『考工記』を組み合わせる解釈が推測である旨も明示されており、鄭玄の注よりも議論は緻密になっています。

*8:唐·駱賓王〈在獄詠蟬〉詩:「那堪玄鬢影,來對白頭吟。」宋·蘇軾〈後赤壁賦〉:「玄裳縞衣,戛然長鳴。」

*9:『小爾雅』は『漢書』芸文志に書名がみえますが、魏晋のころの偽作とも。いずれにせよ、唐よりは随分と前のようです。

*10:趙匡華、周嘉華『中国科学技術史・化学巻』科学出版社、1998年、p. 628を引用

それでも地球は丸くない~中国人の大地観

地球は丸い。子供ですら知る常識です。しかるに高度な文明を誇った中国においては、ほとんどこの説は知られていませんでした。このことは、中国の数理天文学の水準を考えると驚愕すべき事実だと思います。

一寸千里法とその破綻

中国でも古来、場所によって太陽の高度が異なることは意識されていました。しかし、これを中国では「太陽までの距離が近いからだ」と説明していました。例えば大きな部屋の天井をみあげると、真上は高く遠くにいくほど低く見えます。これと全く同じ理屈です。『周髀算経』には「南に千里進むと八尺の棒(表)の影が一寸短くなる」とする「一寸千里法」が記されています。この距離と陰の長さの比例的な関係は、平らな大地の仮定の下では正しく、同じ原理の方法が遠くにある山の高さを計測するのに用いられました。

実際には地球は平面ではないのですが、それ以前に実測値としてこの数値はかなり問題があります。洛陽近辺で考えると、南や北に千里進むと、影の長さの変化は一寸どころではありません。直線距離の計測の困難を考慮に入れても、いくらなんでも…というレベルです。

この数値の根拠については色々な議論がありますが、実測による検証が入れは破綻することは明らかでした。特に南北朝時代になって、現代の中国の南部までが漢人の活動領域になると、矛盾が明瞭になってきます。戦乱の時代が終わって盛唐のころ、ついに大規模な測地と観測のプロジェクトが行われます。帝国の南端から北端まで、多数の地点を選んで影の長さと北極の高度を測り、特に南北に連なる四つの地点については、直線距離を改めて測量し直しました。『新唐書』天文志によると、これによって一寸千里の法は破綻が明らかになり、また北極の高度と距離の間の比例関係が認められました。

ここまで徹底した計測は、個人的な探求が中心だった古代ギリシャ・ローマはいわずもがな、支配者がしばしば天文学にコミットした中世のイスラム帝国でもありませんでした。前近代においては、未曾有の大事業といってよいと思います。

そのような大がかりな試みで確かめられた北極の高度と距離の間の比例関係は、
しかし、地球球体説はおろか半球説も生み出すことはなかったのです。

なお、この関係は『宋史』『元史』には記されていますし、後者には場所ごとの北極の高度のリストすらあります。つまり、専門家集団は確実に理解していたと思います。

視差の理論

天体までの距離は有限です。よって、光線は円錐状に広がり、それを受け取る場所によって見える方角が異なります。特に月の場合はこの効果は顕著で、その補正は日食の予報では決定的に重要でした。ギリシャ系統の天文学の場合、地球球体説に基づいて、幾何的にこの効果の補正をします。

ギリシャ系統の理論の場合、理論の対象となるのは地球の中心から見た月の方角で、よってこの効果を「地心視差」といいます。観測者は地球の中心よりも「高い」位置から見下ろしているので、月は理論計算よりも「低い」ところに見えます。「地球の中心からは観測なんかできないではないか」と思うかもしれませんが、これは皆既月食を用いて太陽の位置から推測できるのです。
gejikeiji.hatenablog.com


中国の場合も、日食の予測の経験から徐々にこの視差の効果に気がついてきます。例えば、太陽と月がぴったり重なる位置よりも少し北側にずれたときのほうが日食は起こりやすく、南側にずれると置きにくいことに気が付きます。

こうやって部分食やその程度を含めて、日食の生じ方を月と太陽の天球上の位置と比較する中で、地心視差の効果は中国でも徐々に明らかになっていきました。

なお中国では月食は、太陽の位置を補正するのに使われました。このあたりはどう考えたらいいのか、消化できていないのですが、日月の相対的な位置が大地の中心に対して補正されているのは確かです。

上で紹介した観測プロジェクトを主導した天文学者の一行の編纂した大衍暦では、視差の効果を理論式の中に取り入れて、日食の予測精度をあげました。彼の理論を記した『新唐書』律暦志では、「日食は統治者の徳の有無を反映するというが、観測地点によって起きたり起きなかったりするではないか」と指摘します。

すでに見たように、中国では太陽の高度の違いも距離の有限性に帰着していました。ゆえに、月の位置を観測地点に依存して補正することに抵抗はなかったのでしょう。

ただ、彼らの補正の理屈はよくわかりません。律暦志には計算方法しかかかれていません。暦の計算の背後の理屈を解説した書物は存在しましたが、今には伝わっていません。しかし、暦によっては必要な変数を欠いたり、逆に余計な変数を用いたりしています。このころから考えると、幾何的な理論が背後にはったとは考え難いです。

ところが、中国暦法の集大成たる元の授時暦の視差の理論は、表現形式こそはことなるものの、ギリシャ的な理論とほぼ同じ補正を与えます。当時はイスラム系の天文学者も当地におりますし、何らかの交流はあったのかもしれません。

なぜなら、同じく日食や月食の理論でも、部分食の度合いや継続時間を計算する方式も、ギリシャ系統の方法に近くなっているからです。結論部分だけを教わり、伝統的な手法で近似した可能性は、十分あると思います。

いずれにせよ、国際的な交流の盛んだっった元の次代でも、地球球体説が中国人の知識人の中に入り込むことはありませんでした。

非専門家の受け止め

北極の高度と地上の距離の比例関係にしても、視差の補正にしても、専門的な暦学の話です。特に後者の問題は、暦学の専門家以外には理解できず、いわんや大地の形状の問題に結びつけるなど、思いもよらなかったと思います。

前者はもう少しわかりやすいと思うのですが、『旧唐書』や『資治通鑑』の観測事業の記述では、この新発見に言及はありません。

南宋朱子は自然学にも関心が深く、自宅に渾天儀を備えるなど、暦学にもかなり入れ込んでいます。また、彼の『朱子語類』には、日月食などの天体の現象や、宇宙の構造や大地の形状の議論も見られます。

大地の形状を彼は「中華饅頭のようだ」としているのですが、その根拠は「北方で日照時間が長くなる」からだとしています。出典は書いていないのですが、文言から盛唐の観測事業についての記事からとったに相違ありません。しかるに、彼は北極の高度と距離の比例関係には全く着目していないのです。

清の時代の論争

明末から清にかけて、ついに中国にも欧州の天文学が入ってきます。それまで、唐の時代にはインドから、元から明の最初にかけてはイスラム地域から西方の天文学が入ってくるのですが、結局は一般的な知識人に浸透することはありませんでした。例えば後者の翻訳のときには、面倒な解説を回避すべく、数表を引いて計算が進められるようにしていました。その結果、理論の内に秘められたインパクトは、最小限に抑えられてしまっていたのでした。

しかし、今回は徐光啓漢人の知識人が働きかけて専門家の派遣を引き出した結果であり、基礎的な諸文献がまとまって翻訳されました。数学的な基礎や、初歩的な光学、望遠鏡のような機器の解説、さらに地球球体説をふくむ、宇宙構造論の議論が、論拠をふくめて丁寧に解説されました。この怒涛の一大翻訳事業は、東アジアの知的な景観を一変させたと言って過言ではないと思います。

清の時代に入ると、この西洋天文学による暦法が公式の暦法として定着し、公的には地球球体説が標準的な説になります。また、『暦象考成』の編纂事業が、主に招集された民間学者グループの主導で進められたことからわかるように、民間においても暦の専門家の間では、地球球体説が無視できぬ勢力をもっていました。

しかしながらすべての知識人が球体説に納得していたわけではなく、論争は清朝の終わりまで続くのです。おおむね、以下のような論点がありました。

  1. 中国が中心でないのはおかしい
  2. 宣教師たちが中国を世界の中心から外そうとして嘘を言っているのでは
  3. 西洋人が地球を周回してきたというが、信用してよいのか
  4. 大地が球形なら、なぜ物体は地表からすべりおちないのか。
  5. 上下の秩序はどうなるのか。

自然学だけでなく、世界観や価値観もまた、議論に影響しています。『暦象考成』グループのリーダー的な存在だった梅文鼎は、「空間的な中心ではないが、中国は文化的な中心で優れた聖人を排出した。」という形で、中華的な世界観を維持しています。

自然学的な部分についていうと、彼は世界の「上下」は維持していて、地表から物体が滑り落ちない理由を「気の運動で地表面に押し付けられるから」としています。

疑問:地図作成との関係

中国でも、地図の制作は盛んでした。広大な地域をカバーしますから、当然大地が球面であることの歪みが影響します。


ひじょうに大雑把な感想なのですが、中国の地図を古い順に見ていくと、時代を下るにつれ、全体の形状もだんだんと歪みがへっているように思います。これは、やはりデータの蓄積というやつなのでしょう。その過程で平面からの系統的なずれに全く気が付かなかったとのでしょうか?